一一節 モンス・ラクタリウスの戦い(五五二年)

 ナルセスは敬虔にも一切合切を神のおぼしめしであるとみなしたため、大勝後のナルセスの最初の行動は勝利のすぐ後にその性分に相応しく放火と強姦に耽った野蛮な同盟軍ランゴバルド軍を解散させることだった。彼は彼らを多額の金で労い、ウァレリアヌスをイタリアの国境へと彼らを連れて行く任務に充てた。その臨まざる友人を去らせると、ウァレリアヌスはヴェローナの外に野営してゴート守備隊と停戦交渉をした。ゴート族は投降に前向きだったが、ヴェネツィア州にしっかりと配置されていたフランク軍が介入して交渉はご破算になった。ウァレリアヌスはポー川へと撤退し、ナルセスは未だ彼らの大義を失われたもの諦めていないゴート軍の動向を監視するためにそこに留まるよう彼に命じた。トティラ軍の残党はテイアスと共にティキヌムへと北進した。そこでテイアスは王に選出され、彼は彼らの人民の運命の回復のためにフランク族の援助を期待した。彼の手には彼の自由裁量権の下にある宝物があり、それはトティラが慎重にティキヌムに残していたものだった。
 一方でナルセス自身はローマへと進軍した。途上で彼はナルニアとスポレトを占領し、ペルシアを落とすべく分遣隊を送った。ローマのゴート軍守備隊は市の大きな周回を防衛するにはあまりにも小規模であり、トティラはその側の城壁に接する新しい城壁を建設することでハドリアヌスの霊廟の周りにあった小さい砦を再建していた。ナルセスの軍が到着すると、ゴート軍は攻撃を受けた要塞を守ろろうといくつかのことを試みたが、帝国軍はすぐに梯子で城壁に登って門を開け放つことに成功した。そこで守備隊は内側の砦へと退却し、一部はポルトゥスへと逃げた。しかし更なる防衛は無益であると見て取ると彼らは彼らの命を容赦するという条件で降伏した。この戦争の間にローマが攻撃を受けて占領されたのはこれで五度目であった。ナルセスは皇帝に鍵を送った。すぐ後にポルトゥスが投降した。
 今や逆転の望みがなくなったゴート軍はその本性を露わにした。一、カンパニアへとトティラによって送られており、今やローマへの帰還を提案した元老院議員たちを殺した。二、ナルセスとの戦いへと赴く前にトティラはローマ人の名家から三〇〇人の少年を選んで人質として北イタリアへと送っていた。テイアスは彼らを捕えて皆殺しにした。三、タレントゥムの指揮官レグナリスが、ヒュドルントゥムの指揮官パクリウスが自ら皇帝のところへと提案するために向かう一 方で彼は人質を差し出すという条件での降伏に同意したことを思い出されるであろう。テイアスが戦いの再開を決定してフランク族の援助を考えていたことを知ると、ラグナリスは計画を変えた。パクリウスがコンスタンティノープルから戻ってくると、彼はヒュドルントゥムへ、そしてそこからコンスタンティノープルまで海路で安全に向えるよう彼のところに少数のローマ兵を送るよう頼んだ。パクリウスは五〇人の兵を送った。ラグナリスは彼らを捕え、次いでラグナリスにゴート人の人質が戻されるまで彼らは解放されないと通告した。ローマの指揮官は時間を無駄にせずタレントゥムへと全軍を率いて向った。彼の接近を受けてラグナリスはその五〇人を殺して彼と戦うべく進撃した。ゴート軍は敗れてラグナリスはアケロンティアへと逃げた。タレントゥム回復の状況は東ゴート族の性格の実例として記録されるに相応しいものだった。
 一方のナルセスは何もしていないわけではなかった。彼はケントゥムケラエを落とすために一軍を、そしてクマエを包囲するためにカプアへともう一軍を送った。この要塞の重要性はそこにティキヌムに蓄えられていないゴート族の全財産をトティラが置いていたという事実にあり、彼の弟のアリゲルンの管理下にあった。この貯蔵庫が差し迫った危機にあるという知らせがフランク族が援軍を提供してくれるという無駄な希望を抱いていたテイアスに届くと、彼はクマエの救援を決断した。ティキヌムからカンパニアへの進軍はあまりにも長く、小部隊で通常よりも早く進軍したものの、到着には一ヶ月以上かかった。最短ルートはエトルリアを経由するもので、ナルセスがヨハネス指揮下の部隊をエトルリア街道に送っていた。しかしテイアスは最短ルートを選ばなかった。彼はその軍を避けようとして遠回りで曲がりくねった道を行き、最終的にアドリア海沿岸を通った。彼は半島を縦断してベネウェントゥムへ向ったに違いなく、そこからカプアないしサレルノを経由してナポリへと向かったのであろう。
 その軍が西の道を守っていたヨハネスと、ペトラ・ペルトゥサを占領してフラミニア街道を制圧していたウァレリアヌスを避けてきたことを知ると、ナルセスは両将を呼び戻して全軍でカンパニアへと向かった。最終的にヌケリア近くのウェスウィウス山近くの南の丘に着くと、テイアスはローマ軍がドラコ川の岸にいたのを見て取った。
 この川は今日のサルノ川で、ソレント半島の北でナポリ湾へと注いでいる。ゴート艦隊の残党がナポリ湾に集められた。テイアスはナポリの北のクマエへの入り口となる土地は〔ゴート軍によって〕守られているだろうとおそらく予測したはずであり、彼の計画はおそらくソレントの近くに部隊を上陸させて海路でクマエに向かうことであったのだろう。そこには彼に対抗するための艦隊などなく、その計画は、海路でやって来るのを妨げるのに丁度間に合ったローマの将軍の用心と賢慮によって辛うじて挫かれた。
 両軍は歩兵と騎兵も急勾配のために渡れない近くの川の両岸で数週間対陣し続け、弓兵が散発的な戦闘をした。そこにあった橋を占めていたゴート軍が塔を建ててバリスタから矢を敵へと放った。テイアスは艦隊との接触に成功し、物資を補給できた。ナルセスが呼び寄せた多数の帝国の軍船がシチリアと他の場所からやって来ると状況は変化した。ゴート海軍の指揮官は彼らの到来を予測して艦隊を引き渡した。かくして軍の食糧供給は絶たれ、同時にナルセスが川岸に沿って建てた木製の塔の投擲兵器が動き始めた。テイアスは陣を畳んで谷を見下ろす山へと避難した。この山は聖アンジェロ山脈に属し、ラクタリウス山として知られ、レッテレ山としてまだその名が残っている。この丘の斜面のゴート軍は攻撃からは安全で、その地形は〔そこに陣取った軍への攻撃の〕試みをするには余りにも危険であったが、彼らは糧道が断たれたために状況が悪化したと見て取るやすぐに場所を変えたことを後悔した。最終的に彼らは敵への奇襲を決定した。彼らの勝機はそこにしかなかった。
 彼らがあまりにも谷に突然現れたため、ローマ軍には軍事教本通りの通常の陣形を形成する暇がなかった。ゴート軍は馬を後ろに残して歩兵の堅固な塊となって進撃した。ローマ軍は同じ隊形で彼らを迎え撃った。戦いには戦術の余地などなく、体力、勇気そして技量の完全な力比べだった。ゴート王は側の僅かな兵を率いて攻撃へと向かってローマ軍は彼の姿を認め、彼が倒れれば非常に厚い方陣を形成していた彼の部下が戦い続けることはなくなるだろうと考えたため、彼は大部分の器用な槍兵と投槍兵の的になった。それはホメロスの叙事詩のような戦いであり、歴史家たちはそれを生き生きと活写した。テイアスは盾を持って立ち塞がって彼に向けて放たれたり押し出された槍を受け止め、次いで突如たくさんの攻撃者へ向けて攻撃をかけて打倒した。盾が槍でいっぱいになったのを見て取ると、彼はそれを従者の一人に渡し、従者は別の盾を彼に手渡した。彼は日の三分の一をこうして戦い、それから力尽きたと言われている。彼の盾には一二本の槍が突き刺さり、自分は最早そうそう動けないことを悟った。一歩も退かず左右に動くことなく右手で敵を討ち据えた彼は従者の名を呼んだ。新しい盾が持ってこられたが、彼が古い盾と交換しようとした刹那、彼の胸部が晒され、幸運な槍が彼に致命傷を与えた。
 倒れた英雄の頭はすぐに体から切り離され、竿の天辺に掲げられて彼が倒れたことを彼の軍勢全体に知らしめた。しかし敵が戦いを切りやめるであろうというローマ軍の期待は裏切られた。ゴート軍は子鹿のように逃げ出すことはなく、武器を置きもしなかった。彼らは自棄の精神で活気を得たが、それはトティラの最後の戦いで彼らが見せた気質とは非常に異なった気質であった。彼らは夜になるまで戦い、翌日には騒々しい戦いが再開されて再び夜になるまで続いた。それから彼らは最早勝機はなく神は彼らに味方していないと認識すると、投降はするが皇帝の属領では暮らさず、彼らが独立して暮らすことができるローマ領の境界外へと退去することを知らせるべく数人の指導者をナルセスに送った。彼らは講和の下で退去し、イタリアのもろもろの要塞に個人的に預けていた金や財産を持っていく許可を求めた。
 穏当な処置を強固に請願したヨハネスの忠告によってその条件は受諾され、ゴート族は帝国と再び戦争を試みてはならないとされた。




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