五五二年の春、ナルセスはついにイタリア出発の準備をした。彼はゲルマヌスによって二年前に徴募された軍勢とヨハネス指揮下でサロナに留まっていた軍勢に加え、大軍を集めていた。一部の個々の部隊の数は分かっているものの、軍の総兵力がいかほどであったのかは述べられていない。ランゴバルド王アウドインは五五〇〇人以上の戦闘員を送っており、三〇〇〇人以上のヘルリ族、四〇〇人のゲピド人、そして無論フン族、ペルシア人脱走兵の部隊がいた。それらの外人の支援軍は一一〇〇〇人を少し下るくらいだろう。皇帝がナルセスの自由裁量権の下に置いた帝国の正規軍の部隊、ゲルマヌスとナルセスが自腹を切って特別に徴募していた、我々にはノルマン人のような出で立ちと思えるトラキアとイリュリアの兵がいたが、彼らの数は外人部隊よりも多く、ナルセスと共にサロナからダルマティア沿岸に沿ってアドリア海の奥へと進軍した全軍の兵力については二五〇〇〇人がありえそうな数字と推定するのはそうおかしなことではないだろう。 東からヴェネツィアへの道を扼していた諸々の町と砦はフランク族の手にあり、ヴェネツィアの境界に近づいたナルセスは指揮官たちに友好的な軍の平和裏の通過の許可を求める使節を送った。その要望はフランク族の難敵であったランゴバルド族が帝国軍に加わっているという名目の下で拒絶された。それからナルセスは、よしんばフランク族が彼の通過に反対しなかったとしてもトティラの最も有能な部将の一人テイアスが彼の進軍を妨げまごつかせるために全ての最良のゴート兵を連れてヴェローナに到着していたため、アディジェ川に到着しても立ち往生することになることを知った。いかなる可能な手段をもってしてもアディジェ川からラヴェンナまでの道を通過できないと思われた。その地方に精通していたヨハネスの忠告で兵はイストリアから海岸地帯に沿って進軍し、少数の船と小舟の大船団によって山脈と川を渡って輸送することが決められた。時間がかかりはしたが、ラヴェンナには無事到着した。しかしあれほど長らく準備された遠征がこのような苦境に出会うのを許してしまったことは興味深い。十分な輸送艦隊がクラッシスまで全軍を直接輸送するためにサロナに集められることは可能だったはずだと考えられもしたことだろう。 ラヴェンナで軍は九日間休み、ユスティヌスとウァレリアヌスの部隊で増強された。次いでユスティヌスをラヴェンナに残し、ナルセスは沿岸の道に沿って南進した。彼は時間を費やしたり副次的な作戦に戦力を使うことなくトティラと直接戦って両交戦国の全軍が参加する一度の会戦で戦争の決着をつけようと決めた。トティラはローマの近くにおり、したがってナルセスがそこへと急いでいたところのローマへの途上にいた。アリミヌムに着いたナルセスは川に架かる橋がすでに破壊されていたのを見て取った。彼の工兵はそこに橋を架け、ローマ軍の動向を見るために打って出てた守備隊長がヘルリ族に殺されたために彼は易々とその町を落とした。しかしナルセスは留まらず、アリミヌムは急を要すものでもなかった。通常の状況ではアリミヌムからローマへ軍を動かす最も迅速な進路は、ファヌムまでは沿岸に沿って進み、そこからがフラミニア街道を行くというものだった。しかしこの道はナルセスの手中にはなく、それというのもフラミニア街道の東端は突破し難く見える防壁であったペトラ・ペルトゥサに陣取る敵に押さえられていたからだ。それゆえ彼にはその要塞の西までの道の数か所を叩く必要があった。彼がアリミヌム近くの沿岸、あるいはさらに向こうのピサウルムを発ったのかどうかは分からない。いずれにせよおそらく彼は今日はアックアラーニャとして知られる場所で、ペトラ・ペルトゥサ峡谷のローマ側およそ五マイルほどのフラミニア街道に到着した。 一方でトティラはナルセスがラヴェンナに到着したと聞くと、テイアスと彼の軍をヴェローナから呼び戻し、ナルセスと同じように戦いを求めて北進した。彼が帝国軍と遭遇すると予想したのかがどこかのかは明らかではないが、敵がラヴェンナを発ってアリミヌムを通過したという知らせが届くと彼はフラミニア街道を通ってアペニン山脈へと進み、タディヌム(のおそらく北)近くに野営した。すぐ後にナルセス軍が近くに到着してブスタ・ガロルムという名の場所に野営し、初期の共和政ローマの北方ケルト人との戦争の伝統を守った。歴史家がその場所について我々に与える他の唯一の糸口は、そこがトティラの陣営から一四マイルほどの距離だという記述である。その場所はフラミニア街道の東、ファブリアーノの近くであろうと推論できる。 軍の設営からすぐにナルセスは、優勢な軍に手向かうことなく服従せよ、もし戦いを決意すれば戦いの日にちを指定するよう勧めるために信頼する部下をトティラへと送った。トティラは講和についても降伏についても聞かなかった。彼は「八日目に戦うことにしよう」と言った。しかしナルセスはそのゴート人の言葉を信用しない程度には賢明だった。彼はトティラは翌日に攻撃をかけてくるだろうと推測して戦いの準備をした。かくしてそれは現実のものとなった。ゴート軍は夜に移動し、夜明けにローマ軍はゴート軍が味方の戦列の弓の射程の二つ分の距離に陣取っているのを見て取った。 ナルセスはランゴバルド族とヘルリ族、そして他の蛮族支援軍を中央に配置した。彼らは騎兵だったが、降ろされて歩兵として用いられた。両翼では、右翼に自分とヨハネス指揮下の、左翼にはウァレリアヌス、ダギステウス、そしてヨハネス・ファガス指揮下の正規兵を配置し、それぞれの翼の正面には四〇〇〇人の弓兵を配置した。左翼の端に彼は騎兵一五〇〇騎の予備部隊を配置した。そのうち五〇〇騎の部隊は激しく圧迫された戦列の部分の救援に赴くためのものであった。その他の一〇〇〇騎の部隊はゴート歩兵が戦いに入った時にその背後に回り込むためのものであった。 ナルセスは防御力に優れた場所を選んだ。そこには敵が彼を迂回するための分遣隊を送って背後から攻撃をかけることができるただ一つの道があり、それは左翼の近くにある小さい丘まで傾斜がある狭い道だった。したがってこの場所の保持は重要であり、夜明け前に五〇人の兵士がゴート軍に面する丘の斜面にある川床に陣取った。彼らを遠目で視認すると、トティラは彼らを駆逐すべく騎兵の一隊を送ったが、ローマ軍は並外れた勇気を示して繰り返される攻撃に対して持ち場を保持した。他の部隊が送られたが、同じ結果に終わり、トティラはその試みを諦めた。一方で両軍は戦いには入らなかった。堅固な場所にいたナルセスは最初に攻撃を仕掛けまいと決めていたし、トティラにも行動を遅らせる理由があった。彼はその時まだ本隊まで到着していなかったテイアス指揮下の二〇〇〇騎の騎兵部隊を常に待っていた。数で敵に水をあけられていた彼にとってこの援軍は非常な重要性を有しており、それがその日の結果を決めたことだろう。したがって彼は時間稼ぎの工夫をした。強靭な肉体を持った騎兵で、帝国軍からゴート側へと寝返っていたコッカスはローマ軍の戦列へと騎馬で声が届く距離へと駆け寄って敵に彼と一騎打ちをする勇士を送り出すよう挑戦した。アルメニア人でナルセスの私兵の一人であったアンザラスが誘いに応じた。コッカスは彼へと激しく乗り寄せて彼の胸を狙ったが、アンザラスはまさにその瞬間馬を逸らして槍を避け、同時に敵の左側から一突き食らわせた。コッカスは致命傷を負い、ローマの将兵から勝利の歓声が起こった。この合間の後、光り輝く鎧で飾り立て、黄金と紫の装飾で着飾ったトティラその人が大きな馬に乗って両軍の間に躍り出て、槍を宙へと投げて疾走してそれを再び手に掴み、その他騎手の妙技を披露した。最期に彼はナルセスに交渉を提案する言伝を送ったが、ナルセスは彼にはその気がないことを知っていた。 しかしその思慮によってトティラは午前を無為に過ごし、遅れていた二〇〇〇人がいよいよ午後の初めに到着した。ゴート軍はすぐに彼らの戦列を崩して食事のために野営地のある区画へと退いた。どうやらトティラはナルセスは攻撃を仕掛けてくることはなく、ローマ軍も同様に食事のために隊列を崩すだろうと確信していたようである。ナルセスがおそらく援軍に気付くことはないだろうとトティラは考えていた。しかしローマ軍の用心深い司令官はローマ兵が持ち場を離れたり鎧を脱いだりして休憩に入るのを許さなかった。彼らは立ったまま食事をとった。 朝にゴート軍の隊列は帝国軍と同じような感じだったが、ゴート軍が〔食事を終えて〕午後に戦いのために戻ると、トティラは全く異なった計画を採用した。彼は騎兵の全部隊を全面に、その後ろに歩兵部隊の全てを配置した。全騎兵を集中させた突撃で敵の戦列を突破しようと試み、次いで騎兵が起こした混乱に乗じて(おそらく数は少ない)歩兵を進ませることが最も勝算のある手だというのが彼の構想であろう。そして彼は全軍は一様に槍以外の全ての武器を使ってはならぬという異例の命令を発した。 ゴート軍の戦術に対処すべくナルセスは配置を著しく変えた。全面で敵と相対していた両翼の二つの弓兵の大部隊は今や三日月のような形で互いに面するように曲げられた。ゴート騎兵が突撃してくると、両側から矢の雨を浴びて主力の戦列に踏み込む前に大損害を被った。戦いは激しかったが外見上は短く、夜までにゴート軍は崩壊してこれまで戦いに参加していなかった歩兵の方へと徐々に押し戻され、歩兵は戦列に騎兵が通る道を開いて敵に立ち向かう代わりに反転して彼らと一緒に退却した。退却はすぐに敗走になった。およそ六〇〇〇人が殺されて多くの者が生け捕りにされた後に殺され、残りの全員はあたうる限り逃げた。 我々が歴史家プロコピウスに負っており、彼が疑いなく目撃者の証言から引き出していたであろう戦いの記述には詳細が欠けているため、戦闘員の手柄についての一定の意見を形成することは難しい。何よりも我々は両軍の兵力を知らないのだ。トティラと彼の最も有能な将軍テイアスが作戦行動の間どのように振る舞ったのか、帝国軍の両翼と中央のどれがより激しく戦ったのかについて述べられていない。ナルセスの蛮族兵と「ローマ兵のある者たち」の勇猛に賞賛が与えられるが、この日について軍事的批評家は主としてゴート軍の速やかな敗北は槍のみを使うべしという彼らの王の奇妙な命令のせいであるとしている。しかしトティラは将軍としての能力には欠点があり、仮に彼の軍が数で劣勢ならば彼は彼らをより巧く用いていただろうと推測できる〔つまり、小部隊なら上手く統率できるが、大軍を指揮する能力がなかったということ〕。 戦いの展開についての情報の乏しさにもかかわらず、ナルセスは見事な軍事的才覚を示し、勝利の全面的な栄誉に値することは明らかである。彼の計画は独特のものであり、ベリサリウスがペルシア戦役で駆使した戦術とは完全に異なっている。彼は下馬した兵に敵の騎乗した兵の相手をさせ、騎兵の突撃を弱めて乱すのに弓兵を用いた。このような援護を受けて蛮族の支援部隊はローマ歩兵がハドリアノポリスの野で失敗したことをやりおおせ、ゴート騎兵の衝撃に耐えた。この戦いは「近代史が示す槍と弓の組み合わせの最初の実験」であると述べられ、類似した戦術で勝利が得られたクレシーの戦いを想起させる。 トティラ自身は闇の中逃げおおせ、彼の死については様々な話があった。一つの話によれば、四、五人のお供を連れた彼はゲピド族の隊長アスバドと身元不明の他数人に追撃された。ゴート族の若者が「犬め、お前の主を襲うつもりか?」と叫ぶとアスバドは襲いかかろうとした。そのゲピド兵はトティラの体に全力で槍を叩きこんだが、王のお供の一人に負傷させられた。そのゴート兵たちは傷ついた主を七マイルほど引きずり、タディヌムからそう遠からぬカプラエ村に着くまでに停止した。そこで彼は死んで急いで埋葬された。彼の運命と埋葬地は一人のゴート族女性によってローマ人に明かされ、その遺体は掘り出されて確認された。彼が身に着けていた血にまみれた服と宝石で飾られた帽子がナルセスにもたらされ、彼はそれらをコンスタンティノープルへと送り、そこでそれらは皇帝の権力を長らく無視していた敵は最早いないという目に見える証拠として彼の足元に置かれた。 無面目ならざる仕方で長時間戦い続けてついに倒れた指導者は同情と慈悲の念を呼び起こし、我々は彼の失敗を眺めて満足を覚えることだろう。ほとんど不動の成功の展開の後のトティラの運命の突然の逆転はまさに彼の敵の想像力にすら訴える悲劇の要素である。彼は彼の民族の大義が完全に失われた時にこれを蘇らせ、希望を取り戻させ、そして彼が不屈の活力、不動の自信、そしていくらかの政治的有能さを見せつけた九年間の戦いにおいて三四個の町を除くイタリア全土を再征服した。しかしこの成功の長い道程は彼が卓越した才覚を持っていたということを主張しはしない。彼にこのようなことができたのは皇帝がイタリアで自分の軍勢を飢えさせ、資金と人員の必要な補充を送ることを拒み、何よりも総司令官の任命すらしなかったことのたまものである。ベリサリウス帰国の後、ユスティニアヌスが終戦のために本気の努力を行ってその目的のために適当な手段を採用することを決定するや否や、状況は瞬く間に変化してトティラが九年間のうちに成し遂げた全ては二年間でひっくり返された。しかし彼の敵の脆弱さと過ちがトティラの名声の主因であり、彼は高級な軍事的才能を持っておらず、ローマ放棄のような政治的な大失敗をしでかしたはしたものの、彼はゲルマン人の英雄時代の偉人の一人として常に記憶され続けることだろう。 幾人かの現代の著述家たちは彼をロマンティックな英雄として理想化し、全ての同輩から騎士道精神と敵に対する高潔な振る舞い、寛大さと人道精神の資質で彼を区別した。この人物のこうした想念を正当化する説明の記録を見つけるのは難しい。彼はイタリア人と和合し、彼の軍旗に帝国軍の脱走兵を引き付ける良い施策を打ち出すのに十分な程度には先見の明があり、それらの目的のために彼は戦時には珍しい穏健さをしばしば示した。ひょっとしたら歴史家のプロコピウスが心から認めるナポリ住民に対する彼の思いやりのある扱いが他の機会での彼の振る舞いがほとんど裏付けをもたさらないような名声を彼にもたらしたのかもしれない。しかし彼のナポリ人への友好性はただ単に政策のために指図されたものであった。それは八年前に彼らがベリサリウスにした徹底抗戦に報いるためのものであり、ベリサリウスをもろ手を挙げて受け入れたシチリア人に対して希望した罰とそれとを対比させることをトティラは意図していた。意図的な残虐行為においてこの東ゴート人と彼の民族とこの時代の他の指導者たちを弁別するものがあると言うことができようか? ナポリでデメトリウスを不具にし、ポルトから来た司教の両手を切断し、アルメニア人イサキウスを殺し、不運な捕らわれのギラキウスを容赦せず、恥知らずにもカラザルを不具にした男に我々はどんな慈悲の性向があるといえようか? ペルシアでのキュプリアヌスの暗殺を我々は何と言うべきなのだろうか? 我々は司教とティブールの住民を歴史家がその扱いを述べることを憚った残忍きわまる仕方で殺した彼を人道的と呼ぶことができようか? 彼はローマの住民をアラリックやガイセリックと同じ位に情け深く扱ったのではなかったか? ナルセスが彼の性格について幻想を持たなかったこと彼にとって適切であったわけだが、トティラが彼らの間で戦われるべき大会戦の日にちを指定した時、ナルセスはトティラが純朴な騎士だとは想像しておらず、彼が常々不誠実な蛮族であることを知っており、相応の予防措置を取った。 |