1節 イルディバドとエラリックの治世(540-541年)

 ベリサリウスの行動はポー川以北のイタリアの所有権を平和裏にゴート人に残すという講和条約の締結を頓挫させた。そのような講和が最終的なものになるのはめったになかったが、東方の強敵に対する資源が必要なこの時に帝国に西部戦線での数年間の小休止を確保したことだろう。もし呼び戻されなければベリサリウスはおそらく数か月で半島の征服を完遂していたことだろう。この最善の解決策はユスティニアヌスの嫉妬の前に敗れ去った。皇帝が提案した和平は次善の策であり、これも将軍の不従順の前に敗れ去った。彼らのいずれにもさらなる一二年間の戦争を招いた責任がある。
 より大きな責任はユスティニアヌスにあるに違いない。なるほど彼にはベリサリウスの行いによって気分を害するあらゆる理由があったが、最も当たり前の常識がベリサリウスを最早信用せず、他の総司令官と取り換えるべきであると命令した。イタリアに残った将軍のうちで最も優秀だったのはウィタリアヌスの甥ヨハネスであった。しかし彼なり他の者にそう指揮権を任じる代わりに皇帝は将軍たちに同格で、そして自分の部隊に各々独立の権限を行使することを許した。この浅はかな施策の結果、効果的な共同作戦ができず、それぞれの指揮官は自分の利害しか考えなかった。彼らはイタリア人に略奪を働いて兵士に彼らの例に倣うことを許し、規律は衰微した。数か月でこれほど多くの大失敗がなされ、ベリサリウスによって五年で根気強く成し遂げられた成果はほとんど失われ、ゴート人は幾度となく征服されることになり、それを成し遂げるのに一二年間かかることになった。
 状況は帝国の財政機構の征服地への即座の導入によって悪化した。地方を犠牲にして国庫と徴税で私腹を肥やすためのおよそ全てのあくどいやり方の達人である書記長官アレクサンデルは到着するやすぐにイタリア人と兵士に不満を蔓延させた。ラヴェンナに役所を構えた彼はゴート王のイタリア人役人の生き残りたちに任期の間に彼らの手を通過した全額の会計説明を求め、彼らに自腹を切って黒字にするよう要求した。それらの役人たちが不当な利益を得ており、我々は彼らのために慈悲心を空費する必要はないということは疑いようがない。しかしアレクサンデルはその遡及的な施策をラヴェンナの国庫と何かしらの関係にあった全ての民間人にまで拡大した。二〇年、三〇年、あるいは四〇年前の処理の調査がアレクサンデルのような人物によってなされるならば、酷い不正がなされたことは確実である。
 イタリアはゴート族支配の間にも帝国の主権に服しており、王とその家来たちは皇帝にあらゆる行動において責任を持つという本質的な原則に則って彼は行動した。しかしこの施策はイタリア人の好感を遠ざけ、ユスティニアヌス政府を不人気なものにすると思われた。同時に様々な口実で兵士の給与を削減することによって彼は軍内での深刻な不正感を醸成した。
 ベリサリウス出発の後、ウィタリウスはヴェネツィアに陣取り、コンスタンティアヌスはラヴェンナの兵を指揮し、ユスティヌスはフィレンツェを保持し、コノンはナポリを、キュプリアヌスはペルシアを、そしてベサスはおそらくスポレティウム地方を手にした。ポー川の北、ゴート族が未だ保持していた唯一の重要地点はイルディバド王が滞在していたティキヌムとヴェローナである。当初のイルディバド軍はせいぜい一〇〇〇人程度であったが、彼は徐々にリグリアとヴェネツィアに影響力を拡大した。ローマの将軍たちはこの敵戦力の再建を防ぐために何もせず、それは彼がウィタリウスの管轄域であったトレヴィゾに近づくまで続き、イルディバドはそこでいくらかの抵抗に遭った。かなりのヘルリ族部隊を含む軍を率いていたウィタリウスは彼に戦いを挑んで惨敗を喫し、ウィタリウスは辛うじて逃げおおせ、その一方でヘルリ族の隊長は殺された。
 イルディバドは自身の勝利がもたらした威信による利益を得るほど長生きしなかった。彼の死は間接的にではあるが彼を王位につけるのに影響力を振るったウライアスとの争いのせいであった。ウライアスの妻は美しく富裕であり、ある日、彼女が公共浴場に行くと、高価な服を着て召使の長い列を伴いながら平服(というのも王家の財政事情は逼迫していたからだ)を着ていた王妃に会い、これを無礼に扱った。王妃はイルディバドに権威への侮辱への復讐をしてくれるようせがみ、すぐにウライアスが騙し討ちで殺された。この行動はゴート族を憤慨させたがなお依然として誰もウィティギスの甥の仇を討とうとはしなかった。しかし忠実な護衛兵であり、王に対して私怨を抱いていた一人のゲピド人が宮殿での宴の席でイルディバドを殺した(五四一年五月頃)。彼はそれがウライアス殺害の正当な報復としてゴート族を喜ばせることだと知らなければ、敢えて罪を犯さなかっただろう。
 その出来事は驚きをもたらし、ゴート人たちは王位の後継者の選択にすぐには合意しなかった。その問題は予期せぬ仕方で決められた。オドアケルが倒れた後、テオデリックの支配に従ったオドアケル配下のルギイ族の臣下たちはゴート民族に同化せず、イタリア北部の別の人民としてアイデンティティを保ち続けていた。彼らは彼らの中で最も優れた人であったエラリックを王として宣言する機を掴んだ。ゴート族はルギイ族の出しゃばりに怒ったが、それにもかかわらずおそらく王に相応しいとして賛同できるような人物が彼らのうちにいなかったためにためにエラリックを承認し、五ヶ月の間彼の支配に服した。
 エラリックは会議を招集し、コンスタンティノープルに皇帝がウィティギスに申し出たのと同じ条件での講和を提案するために使節を送ることに賛同するようゴート族を説き伏せた。しかしルギイ族は裏切り者だった。彼は自分の子分を使節とし、自分へのパトリキウスの階級と多額の金銭と引き換えに帝国に北イタリアを放棄して割譲する準備があるとユスティニアヌスに個人的に知らせるという密命を授けた。
 一方で彼は戦争を行うそぶりを見せず、ゴート族はイルディバドの活力を惜しんだ。後継者に値する人物を探した彼らはイルディバドの甥で、三〇歳にもならない若者であり、活力と知恵のために幾らかの名声を得ていたトティラのことを思い出した。彼はトレヴィゾの守備隊長に任命されており、おじの暗殺の後のゴート族の行く末への絶望から密かにラヴェンナと交渉して町を明け渡すことを申し出ていた。降伏の日が調整されていた時、エラリックに対する陰謀を企んで彼に王になるよう誘うゴート貴族たちからの手紙を彼は受け取った。敵への寝返りの企みを隠して彼はエラリックは所定の日までに殺されるべきであるという条件で提案を受け入れ、ローマ軍に町を渡そうとしていたその日を指定した。エラリックは陰謀者たちによって期日通りに殺されてトティラが王位に登った(五四一年九月ないし一〇月)。




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