一節 テオデリック王の晩年(五二六年の死)

 ローマ教会と東方教会との再統一はユスティニアヌスと教皇ホルミスダスによって成し遂げられ、これはすぐに政治的な帰結をもたらした。ゴート族の王を廃して皇帝によるイタリアの直接統治を復活させるという考えが叔父の治世の初期のユスティニアヌスの心中で明確な形を帯びていたと考えるのは性急であろう。彼の施策の説明には彼自身の強力な理論的確信で十分であろう。しかし教会の統一復活はゴート族の権力を打倒する計画を抱いていた一人の政治家によって行われた明らかな最初の一歩であった。実際に分裂の存在はイタリアの正統派とゴート族政権とを和解させず、コンスタンティノープルとの密接な政治的紐帯への微かな願望をイタリアの正統派のうちの多くの者に抱かせていた。
 テオデリックとは全く友好関係になかったアナスタシウスの死はイタリアの政府にとっては重大な出来事であった。東ゴート王位の継承についての協定が結ばれたのがユスティヌスの継承後であったことは十中八九偶然ではあるまい。テオデリックには男児がいなかった。ローマ式の教育を受けていた娘アマラスンタの夫に彼はスペインでつまびらかではない生き方をしていた王家の血統にある東ゴート人エウタリックを選んだ。結婚は五一五年に執り行われ、息子アタラリックがその三年後に生まれた。この子をテオデリックは自身の後継者に指名した。自らの王を選ぶことはゴート族の権利であったが、未来の王が皇帝の総督でありイタリアの軍司令官でもあるべきならば、その選択は皇帝の了解抜きになされることはほとんどありえない。エウタリックが五一九年の執政官に指名されたという事実はユスティヌスが意見を求められてテオデリックの計画に同意したことを明らかに示している。ゴート族は執政官職から厳に閉め出されていたため、これがなされたのは皇帝の個人的な動議を措いてはありえず、彼はイタリアの王位継承権分与への承認を示したというわけである。
 教会の再統一が達成されると、ユスティヌスは高名なローマの元老院議員ボエティウスの二人の息子が同僚として執政官職を占められるようにと東側の五二二年の執政官の任命を取りやめることでテオデリックと元老院の双方に顕著な敬意を表した。それはあたかもラヴェンナとコンスタンティノープルの友情のこもった関係が今や確固たるものとなったかのようであったが、それにもかかわらず一年内に状況は以前よりも困難でより危険なものとなった。
 我々にはエウタリックの見解についての確かな情報はない。彼は強い民族感情を育んでアリウス信条に執心していた。そして彼は義父の穏健策とそれがもたらす妥協に幾分か苛立っていたかのようであった。彼が降伏〔東ゴート王の帝国への法的な従属〕を難じてイタリアをゴート族の独立国家として帝国から切り離す準備をしていたのか否かは我々の知るところではない。しかし彼は皇帝の意図とローマの元老院の忠誠に疑いを持っていた。彼は五二二年内に死んだが、その疑いをゴート族社会に伝播させることで状況に影響を与えたことだろう。そしてその疑いはユスティヌスがアリウス派に対して発布した勅令によって裏付けられるように見えたことだろう。アリウス派根絶の試みを教会の再統一と結びつき、帝国の施策がイタリアの反アリウス派運動を刺激することをゴート族は恐れた。そしてその結果、元老院、とりわけ分裂を終わらせるのに大きな役割を果たした元老院議員たちへの不信が増長された。ホルミスダス教皇はテオデリックから信頼されていたが五二三年に死に、彼の後継者ヨハネス一世はローマの元老院のより大きな権力と自由を得る手段としてイタリアの帝国政府へのより密接な依存を望む人たちと結託していた。
 テオデリックが五二二年の秋にボエティウスを官房長官の地位に任命したのは彼の好意の印だった。このアニキウス・マンリウス・トルクァトゥス・セウェリヌス・ボエティウスは生まれでもその豊富な幸運でも際立った人物であり、彼の人生は哲学と学問に捧げられていた。ローマでの縁者と友人とのしがらみからラヴェンナの宮廷へと移ると、彼は家でくつろぐこともなく自身を人気者にすることもできなかった。彼の峻厳な倫理基準は王を取り囲んでいた従順で日和見的な宮廷官僚たちを追い払ったし、おそらく彼は遠回しな言い方などほとんどしなかったことであろう。彼は突如として嵐が頭上に降り懸かるまで約一年間官職にあった。
 ある役人が幾人かのローマの元老院議員によって皇帝へと送られた手紙を押収した。この返信にはテオデリック政権への不忠であると解釈できる文言があり、とりわけパトリキウスの若ファウストゥス・アルビヌスが評判を落とした。問題は、大逆罪事件の法廷であった王の枢密院〔Consistorium〕のための事件調査が職務であった伝旨官〔referendarius〕キュプリアヌスの手に移った。キュプリアヌスは特命を担う人物であり、テオデリックから信頼され、しばしば乗馬に同行するのが常であったことは特筆に値する重要事項である。途中で奪われたアルビヌスの友人の手紙は調査内容を正当化した。官房枢密院〔Consistory ex officio〕の委員の一人だったボエティウスはアルビヌスを弁護した。事実の核心を否定するのは不可能であり、ボエティウスが取った弁護方針は、アルビヌスは彼個人の裁量でではなく元老院議員として動いており、したがって彼の行動の責任は彼一人のものではないと、というものだった。「私自身を含む全元老院に責任がございます。個人としてのアルビヌスに対するいかなる訴状もありえませぬ」。この弁護は自白として解されてボエティウス自身に対する大逆罪の罪状の根拠となり、大臣団に属していたが、面目を失っていた三人の男がその告訴の支持へとなびいた。彼は逮捕されて当然の流れとして職を解かれた。カシオドルスが彼の代理に任命され、この罪に元老院の他の議員を巻き込もうとする試みがなされなかったということは彼の影響力の賜物だと考えられる。
 この時点から手続きに違法性があることを考える理由はなくなったが、今やアルビヌスの出頭命令を完遂して法廷の前でボエティウスを裁く代わりに問題はその組織の手から取り上げられ、二人の男はティキヌムに幽閉された(五二三年秋の終わり)。ローマ市長官がそこへと召還され、彼と共に王は事件の調査に入った。 ボエティウスは有罪となって死罪を言い渡された。アルビヌスは話から外れてしまい、彼の運命は記録されていない。テオデリックは元老院に教訓を与えることを決意したが、ひょっとしたら彼は政治的事件の経過のおかげで自分は優れた哲学者の運命についての極端な決定へと導くことが許されたことは結構なことだと考えたのかもしれない。獄中でボエティウスは『哲学の慰め』という有名な本を編み、この文言が苦痛の緩和になるものとおそらく期待したことだろう。しかし彼は、伝わるところでは残忍な仕方で処刑された(五二四年の晩夏ないし秋)。紐で首を絞められた彼は棍棒でとどめを刺された。
 ボエティウスが判決を待っていた間、元老院議員たちは会合の場を設けて話し合った。彼らは徹底的に警戒し、自分たちの無罪放免を目論む声明を発し、ボエティウスとアルビヌスを切り捨てた。多分、ボエティウスに味方した唯一の人物は彼の義父であった元老院議長シュンマクスであったろう。彼は強い言葉を使ったであろうし、少なくともおべっか使いの声明に名を連ねるのを断った。これによって彼は非難に身を曝すことになり、大逆罪を弁明して裏切り者とよしみを通じたと告発された。彼は逮捕され、ラウェンナに連行されて処刑された。それは愚かしい行いであり、僭主の警戒であった。
 それらの出来事は、およそこの時に執行された重罪でアリウス派を脅しつけ、彼らを公職と軍務から排除し、彼らの教会を閉鎖した皇帝の勅令と何かしらの関係があるかもしれない。テオデリックは警戒した。彼は東方の同じ宗派の仲間の苦痛と彼らへの罰の復活に憤慨し、その勅令をアリウス派の教徒に対立せよというイタリア人への激励だと理解した。しかしその勅令は保たれず、その布告の正確な年月は不明で、ひいては我々はボエティウスの処刑の前にテオデリックの政策への影響を与えたのか否かを確定できない。それは彼の死までは布告されなかっただろう。我々はアリウス派に対して厳しい処置が採用されたという話はイタリアでは五二五年の秋より前に報告されたととしか言えない。テオデリックは東方の異端仲間の保護者たることを申し出ることでコンスタンティノープルでの布告に対して問題を提起することを決めた。彼は皇帝に政策を和らげるよう説き、もし固執するようならばイタリアのカトリックへの報復が結果として起こるという王の脅しを伝えるという嫌な任務をするよう誘われていたローマ司教ヨハネスを使節に選んだ。教皇は五二五年九月の頭と一一月の終わりまでの間に何人かの司教と高名な元老院議員たちを伴って出発した。彼は東方の都で名誉ある歓迎で迎え入れられ、少なくとも五ヶ月間そこに留まった。彼は降誕祭と復活祭をハギア・ソフィアで祝って首尾よく大主教より高位につく権利を回復した。以上が記録されたことであり、おそらく我々には、ユスティヌスは正式に戴冠して以来長くたっているものの、教皇に再び自分を戴冠させたのではないかという文言を問える権利はない。その任務の主要な目的は達成された。皇帝はアリウス派に彼らの教会を復活させ、彼らが官職に就くことを許すことに同意した。彼は改宗したアリウス派が旧来の信仰に戻ることを許すことは拒絶したが、テオデリックの主な要望は認められた。五月の中頃にラウェンナに戻ってきた教皇と彼の随行者たちの歓迎はうまくいった使節団が期待したのとは真逆のものであった。彼らは逮捕されて投獄された。東方へ旅立った時に病を患っていたヨハネスは数日後に死んだ(五二六年五月一八日)。彼の遺体はローマに送られてサン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。彼の葬儀には受けのよい証があり、彼は殉教者とみなされている。
 空席の司教区の継承をめぐって選挙戦が起こった。おそらくそれは東ゴート体制に融和的なイタリア人勢力とそうでないイタリア人勢力の戦いであった。二ヶ月の争いの後、前者は彼らの候補者の勝利の確保に成功し、元老院の成員についての問題で自らの望みをおおっぴらにしていたテオデリックはフェリクス四世の即位(七月一二日)に満足した。
 テオデリックの余命は幾ばくもなくなり、それから七週間後に彼は赤痢を患って八月に死んだ。生前に彼は側近のゴート族たちを呼んで孫のアタラリックを将来の王に指名し、元老院及びローマ人と仲良くやっていき、常に皇帝に敬意を示すよう言いつけた。人気のある伝説は彼の死を最近の暴君らしい行いと結びつけていない。魚が王の机に供され、王は想像の上でその頭、長い歯と怒らした魚の目がシュンマコスに見えて良心を苛んだと言われている。テオデリックは怯えながら寝台に入り、侍医に高名な元老院議員たちの殺害による自責の念を打ち明けた。
 人生の最後の年に彼はトラスムンド王の未亡人であった姉妹のアマラフリダの運命に苦しんだ。彼女は夫の死後もアフリカに留まっており、これは彼女の結婚でもって始まったラヴェンナとカルタゴとの良好な関係の維持にあたって彼女の兄弟にとっておそらく有用なことであった。しかしヒルデリック王はコンスタンティノープルについて段々知るようになってユスティニアヌスの影響下に入ったため、ゴート族から距離を取ってテオデリックとの友情は冷え込んだ。この国への輿入れの際にゴート族のお供を引き連れていたアマラフリダは正当になのか不当になのか、王に対する陰謀の廉で非難を受け、牢に放り込まれてそこで死に、それは自然の経過の結果であったが、彼女の死は暴力によるものであるという疑いが生まれた。彼女のゴート兵は皆殺しにされた。もし生きていればテオデリックは疑いなくヒルデリックへの報復を試みたことだろう。彼の死後、彼の娘はヴァンダル王に宛てた強い抗議をする以上の立場にはなかった。





二節 アマラスンタの摂政政治(五二六-五三四年)

 テオデリックの跡は子供が、つまりテオデリックの娘のアマラスンタがエウタリックとの間に儲けた孫のアタラリックが継ぎ、アマラスンタは息子が幼少の間は摂政として政府の統治権を握った。彼女はローマ式の教育をラヴェンナで受けた知勇兼備の女性であり、彼女はイタリア人とゴート族の統一国家への混合という理念を心から信じていたのかもしれない。彼女の確信していたことと感情とは異なっていたとしても、彼女は皇帝と良好な関係を維持して元老院と融和するという父の最後の忠告に従うことを摂政政治に本来的に存在する弱点のために余儀なくされた。ボエティウスとシュンマクスの没収された財産を彼らの子供たちに返還したことはこの変化の証であった。ローマ人たちはローマ人とゴート族の間に違いはないと確信し、元老院と民衆が幼い王への忠誠を誓うと、彼もまた彼らに善政の誓いをたてた。元老院はその要求と要望を表現するために招待された。使節団が手紙を運ぶべく皇帝へと送られ、その中で皇帝はアタラリックの若さを支えることを要望され、「墓に葬られれば憎悪も終わる」と言われるように、墓には古い憎悪を埋葬することを許されるべきだと提案された。
 アマラスンタは息子にローマ人の子弟用の教育を受けさせることを決め、彼女と意見をともにしていた文明化された三人のゴート人の養育下に置いた。しかし全体としてゴート族は、彼女が父と同様に目論んでいたイタリアの文明化の理念をまるで理解していなかった。彼らは戦争の技術にのみ信を置き、破れた人々の真っ直中で勝者として暮らしているのだと考えていた。彼らの王が人文学の教育を受けたことは彼らの蛮族らしい感傷を逆撫でした。アタラリックが何かしらの失敗をして母から折檻を受けて泣いてる様を見て取ると、彼らは憤りへと駆り立てられた。彼らは女王は息子を追い出して再婚しようとしていると陰口をたたいた。そこでこの派閥の幾人かの指導者たちはアマラスンタに謁見を求め、彼女が王のために選んだ修練の体系に反抗した。 彼らの説くところでは、文芸の教育は女々しさと臆病を増進させ、鞭を恐れる子供は剣や槍に立ち向かえなくなるものであり、文学の理念を持たなかったテオデリックを見習ってアタラリックは主に同年代の仲間と一緒に鍛錬を受けるべきである、というわけである。アマラスンタは彼女が心底嫌っていたこの論議に説得されたふりをした。彼女は、もしこれを拒めば自分の理念と政策に共感を寄せるゴート族はごく僅かであったために摂政を解任されるだろうと恐れていた。アタラリックは教師のしつけから解放されたが、なおも文芸教育の敵対者たちは新たな体系が成功したとは到底満足しなかった。彼は病弱で惰弱な気質であり、彼がすぐ交わるようになったゴート族の若者たちは彼の健康を害することになったまだ彼には早い放蕩へと彼を誘った。
 時の経過とともにアマラスンタ支配へのゴート族の不満は増していき、彼女は自らを打倒する陰謀が足下にあることに気付いた。彼女は自分への扇動を行っていた三人の最も危険な男たちを軍務の名目で北の国境の別の場所へと送った。彼らがまだ陰謀に手を染めていると見て取ると、彼女はより強硬な措置を決意した。彼女は自らの地位の危機を完全に評価していたため、逃げ場を用意すべく警戒した。彼女はユスティニアヌスに手紙を書いて彼女に必要な要求を受け入れてくれるよう求めた。おそらくイタリアの状況に不満を持っていなかったであろう皇帝は心から賛同し、コンスタンティノープルへの旅に際しての女王の受け入れ先としての住居をデュラキウムに準備した。こうして安堵したアマラスンタは殺害の任を下したのであるが、このようなことは政治的必要性の要請で取り繕われたり正当化されるのが通例であった。彼女は三人の首謀者の暗殺のために忠実なゴート人たちを送った。彼女は四〇〇〇〇枚の金貨を容器に入れてデュラキウムに送り、自分が到着するまで荷を降ろさないよう指示した。殺人が成功裏に終わったことを知ると彼女は船を呼び戻してラウェンナに留まった。
 東ゴート王国が今や政治的に孤立していたことを理解するのは重要である。友好的な理解の仕組みは王族間の同盟によって固められており、テオデリックは西のチュートン人勢力のうちにこれを打ち立てようと骨を折ったがそれはせいぜい平和の弱々しい保証でしかなかった。彼の死後それは破棄された。我々はいかにしてヴァンダル族との同盟が決裂し、テオデリックの姉妹のアマラフリダがヒルデリックによって殺されたのか、このアマラスンタが報復をできるような立場になかった被害状況を見てきた。そこの王妃が彼女の従妹であったチューリンゲン人はフランク族に攻められて征服されていた〔529年とその翌年(N)〕。フランク族もまた西ゴート族を彼らが未だ保持していたガリアの端から追い出そうと企んでおり、テオデリックの孫であった若きアマラリック王は殺され(五三一年)、彼の跡を継いだテウディスはセプティマニアの保有を維持するのに申し分ない人物であった。東ゴート族はその地方からの援助を見いだせなくなっていた。フランク族の勢力はブルグンディアの征服(五三二-五三四年)によってますます恐るべきものとなり〔「アマラスンタは五二九年から五三二年の間、テオデリックによって五二三年に占領されたブルグンディアのイゼール川とデュランス川の間の地方を取り戻した(Cass. Var. XI.1.13; cp. VIII.10.8)」(N)。〕、ガリアの東ゴート族の諸州は飽くことを知らない彼らの野心によって攻撃を受ける危険もあった。したがってイタリアの摂政は、内患がなかったとしても、大人しく、とりわけ法的に忠誠を尽くすことになっている皇帝権力に対してはなおさら控えめに振る舞わざるを得なかった。
 アマラスンタにはイタリアの近親縁者として従兄弟であり、ヴァンダルの王妃アマラフリダが最初の結婚でもうけた息子であったテオダハドがいた。彼は彼女が困難に当たって到底助けを求めることがないような人物だった。テオダハドには彼の民族の戦士らしい気質が欠けていた。彼は自由学芸の教育を受けてプラトン哲学の勉学に勤しんでいた。しかし彼は哲学が難詰するような情念から全く自由になっていなかった。彼の性格の支配的な特質は強欲だった。彼はトスカナに領地を持っており、隣人たちの財産への侵害によって徐々にその地方の大部分を獲得していった。「彼はそれを隣人を持つ不幸だと考えていた」。トスカナ人は彼の強欲を訴えてアマラスンタは彼にいくらかの返還を強い、彼からの不滅の憎悪を得ることになった。しかし彼は元から権力への野心を持っていたわけではなかった。彼の考えはコンスタンティノープルでの贅沢暮らしと社交生活で晩年を過ごそうというものだった。最初に歴史の段階に現れた時の彼はこの欲求を実現しようと歩みを進めていた。二人の東方の主教〔エフェソスのヒュパティウスとフィリッピのデメトリオス。彼らは皇帝から教皇への手紙を持ってきた。前者が来たのは533年6月6日で、後者は534年5月25日であり、彼らとアマラスンタとテオダハドとの交渉は533年からその翌年となる。(N)〕が神学理論についての用向きでローマへとやってきた。テオダハドは彼らに多額の金、元老院議員の地位、そしてコンスタンティノープルでの生活の許可と引き替えにトスカナの領地を譲り渡すことを申し出るというユスティニアヌスへの言伝を委ねた。
 この二人の主教と共に皇帝の代理人アレクサンデルもイタリアにやってきた。彼の表向きの任務は摂政に対して彼女の非友好的な振る舞いについてのいくつかの取るに足らない主張を表明することであった〔その三つの主張は、彼女が皇帝に属するはずのリリュバエウムの砦を保持していること、彼女が帝国軍から脱走した一〇人のフン族を匿っていること、そしてシルミウム近郊でのゲピド族への遠征でゴート族がモエシアにある町グラティアナに敵対行動をとったことである。リリュバエウムへの皇帝の主張はテオデリックが彼の姉妹に、そして彼女がヒルデリックと結婚した時にそれを与えたという状況に基づいている」(N)。〕。公の聴講会でアマラスンタはそれらの非難に返答してそれらの些末さを論じ、皇帝の艦隊がヴァンダル族への遠征でシケリアを使うことを許すという皇帝への奉仕を訴えた。しかしこの行動はゴート族を騙すためだけのものだった。ユスティニアヌスはイタリアでの出来事をきちんと理解しており、アレクサンデルの滞在の真の目的は摂政と密約を結ぶことであった。彼女の立場は今や以前よりも際どいものになっていた。アタラリックの速まった放縦は衰弱を招き、彼の生存の見込みは失われた。彼が死ぬとゴート族から不人気だった彼女の地位は到底維持できないものになり、彼女は自分の権力を捨てて皇帝にこれを譲渡しようと考えるようになった。彼女は自分の意図をアレクサンデルに伝え、それから彼は主教たちと一緒にコンスタンティノープルへと戻った。アマラスンタとテオダハドの言伝を受け取ると、ユスティニアヌスは新たな代理人をイタリアへと送り、それは有能で説得力を持った外交官であるテッサロニカのペトルスだった。
 その間にアタラリックは死んだ。それにしても今や際どい瞬間が到来し、権力を振るってきたアマラスンタはそれに参与できなくなって致命的な苦境に陥っていた。彼女は従兄弟のテオダハドに手紙を送り、彼の貪欲を抑制しようという彼女の試みの意図は彼を不人気にするのを防ごうというものであると彼に請け合い、彼女が引き続き彼女自身の手で政府を取り仕切るという条件で王の称号を差し出した。彼は彼女に対して感じた、そして彼女が少しばかり感づくもしれない激しい敵意を隠すべく、彼女が要求する全てを実施するという厳かな宣誓をした。彼が王として宣言されるや否や正式な書簡が元老院へと送られ、その中でアマラスンタはテオダハドの学問好きを詳しく述べ、テオダハドは自らの決定をアマラスンタに倣ったものあると明言して知恵を敷衍した。ユスティニアヌスにも事の次第を知らせる手紙が送られた。
 しかし当初の偽善的な儀式の後にテオダハドが仮面を脱ぎ捨てるのにそう時間はかからなかった。彼はアマラスンタの命で殺された三人のゴート人の親戚を集めた。彼女から信頼を寄せられていたゴート貴族たちは殺されて彼女は捕らえられ、王の所有していたトスカナのボルセナ湖の島に幽閉された。そして彼女はユスティニアヌスに自分は何ら悪いことをされていないと確約する手紙を書かされた。テオダハドは同じ結果を得るために手紙を書き、ガリアの近衛長官リベリウス、オピリオという二人の元老院議員に手紙をコンスタンティノープルへと届けさせた。
 その間に皇帝が秘密交渉を続けるために選んだ新任の代理人ペトルスは出立していた。エグナティア街道を横断したペトルスはその途上でアタラリックの死とテオダハドの登位の知らせを持ってきたゴート人と会った。そしてアウロン(ヴェローナ)の港に到着すると彼は女王の捕縛を彼に知らせてきたリベリウスとオピリオと会った。ペトルスはコンスタンティノープルへと最初の使者を送り、さらなる命令を待った。ユスティニアヌスはすぐにアマラスンタに手紙を書いて保護を彼女に確約し、そのことをテオダハドと女王を支持する用意があるゴート族に明らかにさせるようペトルスに指示した。しかし皇帝の権威と使節によるこの表明はアマラスンタを救うには至らなかった。彼女は自分が殺したゴート族の親戚であり、テオダハドに彼女の死が彼の安全に必要不可欠だと説き伏せたゴート人に離れ小島で――言われるところでは、浴室で窒息させられて――殺された。ゴート族とローマ人はその人物的な美徳が全ての人の認めるところであったテオデリックの娘の運命に一様に衝撃を受けた。ペトルスはユスティニアヌスの名の下、〔ペトルスによって〕なされた批判は「休戦なき戦争」を意味しているとテオダハドに言った。王は自分の意志に反したことがなされないことと、自分がその暗殺者たちに栄誉を保ち続けられるよう懇願した。
 プロコピウスが『戦史』で述べたこのアマラスンタの悲劇的な最期の短い話はいくつかの困った問題を喚起し、それは他の証拠がなくとも、説明がなされていない背景の状況のがあるのではないかという疑いを我々に感じさせずにはいさせない。殺害の許可、彼がよく知っているようにこの行動はユスティニアヌスのこの上ない不興を買い、そして彼のその後の施策が示すように、彼が避けようと望んでいた戦争への道を開くことが知られている以上、テオダハドの動機を理解するのは困難である。ペトルスはイタリアにその瞬間、そしてその出来事に先立つ数ヶ月間そこにいた。彼は皇帝にアマラスンタの主張を擁護するよう命じられていた。どうやればペトルスは彼女に自由を取り戻させるだけでなく、彼女を救うことさえできたのだろうか? プロコピウスが曖昧な文章でこの使節の女王のための努力について沈黙しているのを見れば、彼の読者はペトルスの到着は介入には遅すぎたと信じてしまうし、半分しか語られていないこの話を疑う余地が生まれる。
 その説明はプロコピウスその人の筆で用意されている。『秘史』の中で彼は薄気味悪い補足を加えている。曰く「皇后への恐怖のために私は出版できない」。この話によれば、テオドラはコンスタンティノープルに逃げ込もうとしたアマラスンタの目論見を警戒の目で眺めていた。テオドラはこの美人で気の強い女人が皇帝に影響を及ぼすのを恐れており、彼女はゴート族の女王に死をもたらすべくペトルスを金銭と官職の約束で配下に置いた。イタリアに到着すると、ペトルスはテオダハドにアマラスンタを片付けるよう説得した。この結果、彼は官房長官の地位に出世して大権と憎悪を獲得するに至った。この話の信憑性は疑われているが、その支持にあたっての証拠は思われている以上に強力である。
 まず、それはこの犯罪行為への同意にあたってテオダハドの行動に十分な説明を与えていることが見て取れるだろう。皇后の強力な影響のおかげで彼はゴート族内のアマラスンタの敵対者たちの望みに応えつつ、皇帝の恐怖を無効化することで自らの安全を確保できると感じていた。第二に、テオドラの共謀にあたって信じがたいようなことは何もない。彼女の記録には、彼女がその犯罪行為を行うことができないと我々に考えさせるようなことは何一つない、しその動機は確かに十分である。公の場面でアマラスンタはテオドラその人に次いで最も注目に値する生存中の女性であることが思い出されるべきである。彼女は報告が大げさに伝えているその人格と教養で優位に立っており、八年の治世で彼女は心の強さ、そして無節操さすら示していた。しかしもし彼女がそれらの点で皇后と競えば、彼女の欠点のない私的な資質と彼女の王家の生まれはテオドラが到底許されるとは期待できない強みになっただろう。テオドラの前半生についての真実がどうであれ、彼女の生まれは最低辺で、正しかろうと間違っていようと記録は彼女の若い頃の身持ちの悪さにかかずらっていた。我々はテオドラには、皇帝に影響を及ぼして場合によっては彼女に分の悪い比較で不可避的に挑戦者となるであろう王の娘のコンスタンティノープル到着を防ぐためにさらに一歩進んだ手を講じる準備があったろうとよく理解できる。
 このドラマへのテオドラの関与についてのプロコピウスの文言は全幅の信用を認められるべきであるが、裏付けの証拠がなく、我々にはそれを悪意からの格別のでっち上げとして取り消す余地が認められるだろう。しかし我々には、プロコピウスの話を裏付ける証拠とは別に一つの重要な事項がある。ペトルスがテオドラの代理の役を果たし、彼女が彼をラヴェンナへの使節に任命したことはプロコピウスの話の本質的な点である。これはペトルスが殺害の後にコンスタンティノープルに戻った時にテオダハドが皇后に宛てた手紙によって全面的に実行されたことである。これらの手紙の中で使節は曖昧な形で彼女の密使と述べられている。ここでも我々は、テオダハドに対して皇帝に何か要望があれば、まず彼女自身に提出するよう〔テオドラが〕命じたという重要な事実を知る。その上、テオダハドの妻グデリウァの手紙の中には、その犯罪行為への覆い隠された言及としてならば一番簡単に説明できる不思議な文言がある。グデリウァの書くところでは「ローマの領域には不和があるようには見えませんし、その一方で状況は私たちがあなたにお伝えしましたとおりに進みました」と。殺害の直後に送られたその手紙のこの文言の意味は不穏である。
 プロコピウスの話は秘密の陰謀が広く知られていたことを暗示している。そうでなかったとしても、彼はテオドラの腹心アントニナないしペトルスその人から情報を受け取っていたのであろう。テオダハドが平和を一切考えるのを放棄した時にテオドラの仲介の罪を隠す動機がなくなったことを思い出すべきである。彼女が仲介し、その命令を実行したペトルスが、表向きはユスティニアヌスの命の下で女王の利害通りに行動しつつ、アマラスンタの殺害を暗示的且つ遠回しに促した結果は全体を勘定した上での証拠によって保証されるように見える。無論この証拠は法廷で彼女の納得を得るのに十分とはほど遠いだろう。いかなる検事もそれを行うことはできまい。しかしそこで陪審は納得して正しさを認めることはないであろうし、世論はその告発が真実であるという判断に頻繁に正しさを認めることだろう。





三節 テオダハドの統治および戦争の勃発(五三五-五三六年)

 この犯罪行為の直後にペトルスはコンスタンティノープルへと戻った。彼はテオダハドとその妻からのユスティニアヌスとテオドラへ宛てられた手紙を運び、それにイタリアの聖職者、ひょっとしたら教皇アガペトゥスその人からの最近の手紙を加えた。テオダハドの主題は戦争の防止であり、彼がとりわけテオドラの影響力を当てにしていたのは明らかである。彼はローマ人元老院議員に、もし断れば妻子もろとも殺すと脅してユスティニアヌスへと平和のための手紙を書かせたとも言われている。我々のもとには元老院の近衛長官カシオドルスによって書かれた手紙があり、それはローマの腹を膨らませてくれたアマル家の支配者への深い愛着を主張し、平和を維持するよう皇帝に懇請していた。しかし王の平和的解決への希望は無駄だった。皇帝はすぐさま戦争の準備をした。イタリアにおける皇帝権力の回復という考えが彼の心には多分、そして長らく存在しており、これ以前の年の彼の外交はこれによって占められており、女王の殺害の六週間前に公布された法の下で彼はイタリアでの事業について遠まわしに言及した。もしテオダハドが退位して皇帝に平和をもたらすならば良し、さもなくば戦争あるのみ。これでユスティニアヌスは完全に腹を決め、夏の間にイタリアに戻った(五三五年)ペトルスこの最後通牒の伝達者になったのは確実である。一方でユスティニアヌスは戦争の準備に邁進した。
 対ゴート戦争の出だしはヴァンダル族に対する戦争よりもずっと困難なものだった。皇帝はアフリカ遠征を準備した時の彼の臣下たちを信頼しており、彼がアフリカ征服に手を染めていたことは世界広しといえども知らぬ者はいなかった。しかしイタリアの征服へと向う戦争の勃発は可能な限り用心深く秘匿された。事業があまりにも困難に見えるならば、第一段階は大規模で直接的な作戦のために政府を動かさないように企てられることだろう。イタリア情勢の様子を見たユスティニアヌスは戦闘精神も能力も欠けていたテオダハドが危険の最初の兆候で自分の要求を丸呑みするだろうとまだ考えていたことはありうる。この計算では東ゴート人民の気持ちはほとんど斟酌されなかった。
 なるほど戦争での最初の作戦行動はどのみち地理的な考慮に応じたものとなった。陸路で行くことができたゴート族のダルマティア領および海路で最も簡単に行くことができたシチリアの征服は制海権のために明らかに最初にやっておくべきことであった。その二つの州の保持はイタリア征服のための基地を与えることになるはずだ。ゲピド族の王族でイリュリクム軍司令官ムンドゥスがダルマティア方面軍を率いた。そこでの抵抗は微弱であった。彼はゴート軍を破ってサロナを占領した。
 アフリカの征服者は海を越えた遠征の指揮に指名され、最高司令権〔imperator〕の全戦力が再び彼に与えられた。しかし彼に委ねられた軍はヴァンダル族に対して率いた軍の半分でしかなかった。それは軍団兵および支援軍が四〇〇〇人、エウネス指揮下の三〇〇〇人のイサウリア兵の臨時部隊、二〇〇人のフン族、三〇〇人のムーア人、そしておそらく数百人のベリサリウスの私兵から成っていた。したがって全軍はおよそ八〇〇〇人。主な将軍はいずれもトラキア人のコンスタンティヌスとベサス、イベリアの王子ペラニウスであった。ベリサリウスはまだ若者であったが年齢に見合わず強靭で賢い継息子のフォティウスを伴っていた。
 遠征の目的は伏せられた。艦隊の行先はカルタゴとされ、誰もその航海を新たな事業の第一段階だとは思わなかった。ベリサリウスはシチリアに上陸してアフリカへの航路を取るように見せかけ、島を問題なく征服できるかを把握するまで何もしないよう指示された。このことは明らかにシチリア人の性向とゴート守備隊の強力さにかかっていただろう。もし彼が深刻な抵抗に遭いそうだと見たならば、彼はあたかも他の意図など試みてなどいなかったかのようにアフリカへと向かったことだろう。彼は小規模な軍で危険を冒さないようにした。この用心深い作戦計画は皇帝が未だイタリア戦役に腹をくくっていなかったということを示している。計画されたベリサリウスとムンドゥスの作戦は最初は帝国の外交の補助としてであった。
 戦争が不可避であるならば、ユスティニアヌスはアルプスの向こう側からの何かしらの援助を得ようと画策しただろう。彼はフランク王に使節を送ってアリウス派のゴート族に対して彼と共にカトリック国として共同作戦を取ることが彼らの利益であると説得し、黄金で論を補強して援助の確約を得たことだろう。
 ベリサリウスはカタネに上陸し、仕事が予想していたよりも簡単だと見て取った。カタネを占領した彼はシラクサを占領し、伝わっている要約的な記述からしてほとんど抵抗はなく、パノルムスを除いて軍事行動は不要だったと見受けられる。そこの要塞は強力で、他の都市よりもおそらく多数いたゴート軍守備隊は降伏を拒否した。帝国艦隊は〔パノルムスの〕無防備な港まで航行していった。船のマストは町の城壁よりも高くそびえ立ち、ベリサリウスは兵士を満載した小舟をマストの頂上まで引き上げる装置を考案し、これによって彼らは守備隊の上から射撃を行った。この脅しで抵抗に身が入らなくなったに違いないゴート軍はすぐに降伏した。島内でのローマの支配の復活は一二月以前に完了した。ベリサリウスはその年の執政官の一人であり、一二月に彼はシラクサに入ることができ、公式に任から退いた。その出来事は彼の同時代人には運命の吉兆と見られた。
 シチリア陥落の容易さはシチリアがラヴェンナの軛を新しいローマの支配と喜んで取り替えたこと、島内にゴートの大部隊がいなかったことを示している。小規模の守備隊が相当規模の町を住民の望みに反して敵から守ることはその時代では現代よりもはるかに難しかったと見て取れるだろう。火器を支給されているならばまだしも、剣と槍で武装した僅かな軍が多くの人民に挑むことは不可能であった。
 一方でローマとコンスタンティノープルの間の連絡が交わされていた。ダルマティアとシチリアでの作戦に臆したテオダハド王は皇帝にその目的を捨てるよう説得するための新たな試みを行った。彼は教皇アガペトゥスにコンスタンティノープルへの使節団長の任に就くよう説いた(五三五年初冬)。その求めは容れられなかった。いかにして教皇が気の進まない任を免除されたのか我々には述べられていないが、教皇はすぐに自らの死(五三六年四月二二日)まで続いたコンスタンティノープルの教会の論争に巻き込まれた。一方でムンドゥスとベリサリウスの成功はテオダハドの恐怖を増幅させ、パノルムスの陥落はそれを決定的にしたようである。コンスタンティノープルからローマに戻っていた皇帝の使者ペトルスは優柔不断な王に自分の主君と協定を締結するよう説得するためにシチリアの征服の完了を活かすことができた。テオダハドの恐怖心は乗せられやすく、彼はペトルスにシチリアを割譲してはっきりと皇帝の宗主権下に入り、これを確認する降伏文書に従うという旨の手紙を渡した。ペトルスは出発したが、呼び戻されたためにアルバーノ〔今日のアルバーノ・ラツィアーレ〕までしか行けなかった。テオダハドの臆病な精神は自分の出した条件が拒絶されるのではないかという恐怖に苛まれ、ペトルスの忠告を求めようと決めさせた。歴史家プロコピウスは王と使節の興味深い会話を記録している。「余の条件でユスティニアヌス殿が満足しなければどうしたらいいだろうか?」と王は尋ねた。「陛下は戦うことになるでしょう」ペトルスは言った。「わが親愛なる使節よ、それは本当なのか? なぜなのだ?」ペトルスは答えた。「誰もがその性格に忠実であるはずだというのは尤もなことです」「どういうことだ?」ペトルスは言った。「陛下は哲学に興味を持っておいでです。一方でユスティニアヌス様が興味を持っておられるのは良きローマ皇帝たることです。その違いをご覧になってください。哲学者にとって人を死に至らしめることは相応しからぬことでしょうし、多くの人でもそうです。とりわけプラトンの徒はその手を血で汚すものではありません。そのような次第ですから皇帝陛下が昔に自らの支配下にあった領土を回復しようとするのは自然的なことです」そこでテオダハドは妃のグデリウァと揃ってペトルスの面前で最初の提案が拒絶されるのならばイタリアをユスティニアヌスに寄贈すると誓った。彼はこの旨を手紙に書き、毎年に金一二〇〇ポンドの年金を産する土地が彼に確約されるべしという条件を付けた。しかし彼は前の方の手紙をまず送り、最初の手紙が受け入れられないと証明された場合に第二の手紙を使うだけだと誓ってペトルスと約束した。この取り決めの同意でペトルスは使節の義務からすれば奇妙な考えを抱いたかのように見えるが、彼が最初の連絡で提案された妥協が拒絶されるだろうと完全に確実視していたことは当然のことと我々は見るだろう。それが拒絶されて第二の手紙が見せられると皇帝は非常に喜んだ。ペトルスは合意内容を確認し、皇帝私有財産〔patrimonium〕の所領をテオダハドの用地として取り決めるためにもう一人の代理人と一緒にすぐにイタリアへと送られた。まだシチリアにいたベリサリウスに王宮の財産を接収してイタリアの支配権を引き受ける準備をするよう指示が送られた。
 到着した使節団はテオダハドが最早同じ調子にはないことを見て取った。そうこうしているうちにダルマティアで事件が起こり、その地では相当数のゴート軍が属領を回復していた。ムンドゥスの息子マウリキウスは小部隊を連れて偵察に向かい、血みどろの待ち伏せに遭って倒れた。父は悲嘆と怒りに駆られてすぐにゴート軍に向かっていき、これをほとんど壊滅させたが、頭に血が上った軽率な追跡で致命傷を受けた。彼の死は勝利を敗北と等しいものとした。帝国軍は彼の地位の適任者はいないと見てダルマティアから撤退した。戦場にはゴート軍が残ったが、彼らもまた指揮官を失っており、手始めにそこのローマ人が非友好的であったサロナを占領しようと企てた。
 この出来事の知らせでテオダハドは強気になり、移り気な心情は戦争の恐怖と王位の快楽との間を揺れ動いていた。皇帝の使節団が到着すると、彼は自信満々で宣誓を無視し、約定を反故にした。ユスティニアヌスが懐柔の手紙を送っていたゴート貴族たちは彼の拒絶を支持し、彼は使節団を幽閉するに至った。
 事の次第を知ると皇帝は馬屋長官コンスタンティアヌスにイリュリア軍を率いてダルマティアを回復するよう命じ、ベリサリウスにはイタリアに攻め込むよう命令を送った。コンスタンティアヌスの任務は易々と達成される程度のものだった。彼は海路でドュラキウムからエピダウロス(ラグーサ)まで兵を進め、他方サロナを奪取したゴート軍はそこを守りきれまいと信じてスカルドナへと撤退した。サロナへと進軍したコンスタンティアヌスは修理されないままだった城壁の一部を再建し、ゴート軍はラヴェンナに退いた。





四節 ナポリの包囲とウィティギスの即位(五三六年)

 ベリサリウスはイタリアへ軍を輸送する準備をしていた時、ソロモンが手に負えなくなった軍の反乱の鎮圧のためにアフリカに呼び出された(五月の終わり)。〔反乱鎮圧を終えてアフリカから〕帰還すると彼はシラクサとパノルムスに守備隊を残し、海峡を渡ってレギウムに上陸した。海峡の防衛は王の義理の息子エウェルムドの手にあった。彼の軍はおそらく何の意味も持たなかった。彼はベリサリウスのもとに脱走してコンスタンティノープルに送られ、パトリキウスの爵位で報いられた。将軍は艦隊を伴いながらその途上で敵と遭うことなく沿岸沿いにナポリへの道を進んだ。
 彼はナポリの前に野営して市民の代表団を迎え、彼らは降伏を押し付けないでくれと懇願した。彼らの言うところでは、ナポリは重要な土地ではない、素通りしてローマに行ってくれとのことだった。将軍は、自分は彼らに助言を求めてはいないと述べてゴート守備隊に無事に出ていくことを許すと約束し、代表団の団長ステファヌスに市民を降伏するよう説き伏せれば多額の褒賞を与えると個人的に約束した。会議が開かれ、ゴート族支配に忠実だったパストルとアスクレピオドトゥスという二人の影響力のある弁論家が市民に受け入れられそうもない要求をするよう焚き付けた。しかしベリサリウスは全てを受け入れた。次いでパストルと彼の公的な弁論における仲間たちは、状況は将軍が彼らの安全を保障できるようなものではなく、市は落とされぬほと強固であると主張した。テオデリックの政策を支持しており、深くゴート族支配に関わっていたユダヤ人にこの意見は支持され、その日に実行された。
 ベリサリウスはこの地の包囲を決定したが、それは彼が予想した以上に困難な作戦であることが証明された。彼は水路を切ったが、町には良好な井戸がいくつもあったためにあまり不便にはならなかった。包囲軍が攻撃の実行において有利になることはなかった。ナポリの旧市街は現代の都市のなかの小さな部分だけが城壁で囲まれていた。それは一〇〇〇ヤードと八〇〇ヤードの長方形の地区と一致し、聖ロレンツォ教会がその中心付近にある。しかしこの土地は今日よりも確実に高いに違いなく、これは籠城軍にとって有利になった。数週間を無駄に過ごして兵士にも深刻な損害を被ったため、ローマへ進軍してテオダハドに合うのを待ちきれなくなったベリサリウスは包囲を諦めることを決意した。しかし目覚ましい幸運が再び彼に舞い降りてきて彼に味方した。彼が軍に出発の準備を命じた時に好奇心旺盛な一人のイサウリア兵が壊れた水道橋の構造を調べるべくそこに上がると、城壁の近くの水道が堅い岩を貫通していて、すでに空いていた隙間は鎧を付けた男一人が通れる程度の狭さであったが、これは拡張できることを見て取った。ベリサリウスは迅速に行動した。なるべく音を出さないようにしつつ兵に入り口の拡張工事をさせた。しかしこれを市への突入に使う前に将軍はナポリ人に流血と略奪の恐怖を避ける今一度の機会を与えた。彼はステファヌスを野営地に呼び寄せ、今や市の陥落は避けようがないと断言し、降伏してその身に降りかからんとしている不幸を避けるように同胞市民を説得することを求めた。涙ながらに戻ったステファヌスに人々は耳を貸さなかった。彼らはベリサリウスの呼びかけはただの策略だと思いこんでいた。
 六〇〇人が夜中に水道を通って侵入して北側の城壁の見張りを殺し、攻城梯子の下に待機していたローマ兵が胸壁に登れるようにした。ベリサリウスが予想した通りおぞましい事件が起こり、とりわけフン族の殺戮と略奪の様は群を抜いていた。最終的に将軍は兵士を集めて虐殺を鎮めることに成功した。剣は鞘に収められて捕虜は解放された。捕えられた八〇〇人のゴート兵は丁重に扱われた。ナポリ人は彼らが被った全ての責任者だった二人のデマゴーグに憤慨した。彼らはアスクレピオドトゥスを殺し、市が落ちたことを知った時に起こった脳卒中のためにすでに死んでいたパストルを見つけた。
 ナポリの人々はテオダハド王が市を解放するために軍を送ってくれると信じきっていた。彼は恐怖のあまり体が麻痺し、王国あるいはその一部の防衛には何の対策も講じなかった。彼の無能に愛想を尽かしたローマとカンパニア州のゴート族はナポリ陥落の後、彼を廃位して軍事経験がある指導者を選出することを決めた。彼らはポンティノ湿原のレガタに会したがアマル王家には然るべき成員がいなかったため、ゲピド人に対する遠征で幾らかの名声を得ていた平凡な生まれの男であるウィティギスを選び出した。彼は王として迎えられ(五三六年一一月)、カシオドルスは、自分はテオデリックとアマラスンタ、そしてテオダハドに仕えたようにその公平なペンで彼に仕えるつもりであってこの人はテオダハドのように「王の寝室の照明の下で」選出されたのではなく「広大なカンパニアの広がりの下で第一に神の恩恵のために、第二に人々の自由な判断のために、軍内で勇者たちと友情を交わして戦いの時には肩を寄せ合って立ったために」選出されたのだと全てのゴート族に向けて発表した。それらの出来事はゴート族の選択の無分別さを証明することになった。ウィティギスは責任感の強い戦士であり、有能な指揮官の下で一部隊を統率する場合には有用な指揮官であったが、手強い侵略者に対して国を率いるべく呼び出された人に必要とされるより高度な資質は何も持っていなかった。
 これまでローマに住んでいたテオダハドは自制心を失ってラヴェンナに逃げた。ウィティギスは彼を殺すべきだと結論し、オプタリスなる人を彼を生け捕りにするか殺すかするために送った。オプタリスが選出されたのはテオダハドに個人的な恨みを持っていたためだった。昼夜を問わず休むことなく進んだ彼は逃亡者を見つけて地面に投げつけ、生贄の犠牲のように殺した。
 新王はすぐにローマへと向かって会議を開いた。万事が今立てられる遠征計画にかかっていた。ゴート族は南からのベリサリウスの切迫した進撃と北でのフランク族の敵対的な態度という二つの危機に脅かされていた。ゴート族の主力部隊は北の国境地帯、プロヴァンスとヴェネツィアに配置された。さしあたりフランク族に対処し、次いで王国の全軍を挙げてベリサリウスと戦うというウィティギスの提案は受け入れられた。最も危険な敵との遭遇を遅らせるこの計画は浅はかなものであると言えるというのは間違いない。北方から来る主力部隊を急行させて帝国軍がローマに着く前にこれと戦うか、あるいはローマを堅固に保持してベリサリウスに長く困難な攻囲を強いるのが最もゴート族にとって勝算がある道だった。そうしつつフランク族と交渉する使節を送ることができるだろう。ウィティギス自身の占めるべき居場所は最も脅かされていた場所だったローマであったが、彼は「戦争の準備をするために」ラヴェンナに向うという致命的な失態をやらかしてしまった。彼はローマにレウデリス指揮下の四〇〇〇人の守備隊を残し、教皇シルウェリウスと元老院並びに人々から忠節の誓いを引き出して多くの元老院議員を人質として連れて行った。
 ラヴェンナでウィティギスはテオデリック王朝と自身を結びつけるためにアタラリックの姉妹マタスンタと無理矢理結婚した。その結婚はカシオドルスによる派手な演説で祝われた。次いで彼はフランク族との交渉に取り掛かった。我々はいかにして彼らがユスティニアヌスによって共同作戦の約束が誘発されたのかをすでに見て取っている。しかしテオダハドは魅力的な申し出を彼らにした。彼はガリアの東ゴート領を金二〇〇〇ポンドをつけて譲渡し、その代わりに戦争で自分たちを助けて戦ってくれるよう提案していた。彼は履行がなされる前に死んだ。ウィティギスはこの取り決めを履行するのが最善だと見て取った。フランクの王たちは賛同したが、彼らは表立ってユスティニアヌスとの協定を破るつもりはなかったので「フランク族ではなく従属民らの兵」を援軍を送ると密かに約束した。
 同時に皇帝と協定を結ぶための最期の試みがなされていた。アマラスンタ殺害がイタリア侵攻の理由だったため、戦争の原因はテオダハドの成敗によってなくなったこと、そしてマタスンタの即位を論じたのは尤もなことだった。これ以上ゴート族は何をすべきだったというのか? ウィティギスはこの試みのためにユスティニアヌス、そして同様に官房長官にも講和を求める手紙を書いた。それらの交渉に関して我々の手元にはラヴェンナで作成された文書しかなく、皇帝の返答についての情報はない。彼はウィティギスに戦争か降伏という単純な選択肢を示したものと推測できよう。
 一方ベリサリウスはナポリを発って北進していた。ローマ人はナポリの経験に懲りており、ウィティギスへの宣誓を破ることに良心の咎めを感じなかった教皇に説かれて彼を招き入れるための使者を送った。彼はナポリとクマエに少数の守備隊を置き、ラティナ街道を進軍して五三六年一一月にラテラノ宮殿に近いアシナリア門からローマに入城した。同日にゴート軍守備隊はこそこそとフラミニウス門から撤退した。残っていた彼らの司令官レウデリスは市の門の鍵と一緒に皇帝に送られた。





五節 ローマ包囲(五三七-五三八年)

 ローマ人は、ベリサリウスの意図は彼らの都市を保持して包囲の苦難に曝すことであるとすぐに知り、そして深く後悔した。彼の裁量にある小部隊で戦うこと、これこそが彼に開かれた唯一の賢明な道だった。将軍は市の北端のピンキウスの丘のドムス・ピンキアナに兵舎を置くや否やここの要塞化に着手して強化した。およそ一二マイルの円で市を囲むアウレリアヌスの大城壁は一〇〇年以上前のホノリウスの治世、そして最近ではテオデリックによって修理されていた。しかしベリサリウスは改善すべき多くの破損を見つけてはいくつか新たな防備を加えた。広い塹壕が外側に掘られた。城壁は元々建造されたように防衛によく適合するようなものにされた。ある地点から他の地点への兵士の通行を容易にする城壁の内側を走る有蓋の道がその特徴的な点であった。この弓なりの回廊部分は現存している。ローマが一三〇〇年の年月に次々と経験した変化を考えれば、ベリサリウス軍が守った城壁は不思議なまでに残っている。
 同時に、シチリアから送られてきた大量の穀物が市に供給された。しかしベリサリウスはローマが恐るべき軍勢の攻撃を受けるだろうとは予想していなかったようである。彼はフラミニア街道沿いの要地――ナルニ、スポレト、そしてペルージャ――及び重要性ではより劣ったいくつかの要塞を奪取するために北へと軍を放って守備隊を減らしていた。一方でウィティギスはダルマティアへとかなりの別動隊を送った。サロナが陸海から包囲されたが、その陽動は失敗に終わってその州は帝国領であり続けた。ペルージャ回復の試みもまた失敗した。しかしローマにある軍の弱体さを知って市の軍事的占領への住民の不満の噂を聞くやゴート族の自信はいきり立った。王はローマ奪回に全戦力を投入することを決意し、幾人かの人たちからは一五万人を数えると考えられる軍を率いて南進し、その戦士のほとんどが重装備の戦士で、鎧で守られた馬を持っていた。その描写は真実を大きく上回っているに違いないが、ゴート軍の大軍は彼らに対峙する五〇〇〇人の軍勢を上回っていることは疑いえない。ベリサリウスは対ヴァンダル遠征で直面したのとは全く異なった難問に直面していた。彼はトスカナに送っていたベサスとコンスタンティヌスといった将軍を至急呼び戻し、小規模な守備隊を残していたペルージア、スポレト、そしてナルニを除く全ての土地を放棄するよう彼らに求めた。
 ウィティギスがこれらの三ケ所を取るのに時間はかからなかった。ナルニの占領は重要であった。それはまさに一〇〇年以上前のアラリックの軍が余儀なくされたようにゴート軍はフラミニア街道から東へと逸れることになり、彼らはフラミニア街道から進軍する代わりにサビニ地方を通ってサラリア街道からローマに接近することを余儀なくされた。アニオ川を横切り、市まで数マイルのポンテ・サラリオに到着したウィティギスは、ベリサリウスがさらなる物資を手に入れる時間を得る目的で橋に建設した要塞に手間取った。
 しかしその砦の守備隊はベリサリウスを失望させた。ゴート軍の到着を受けて彼らは夜までに陣を引き払い、敵が橋を握った。翌日に部下の臆病な行為を素知らぬ将軍は一〇〇〇騎の騎兵を連れて橋へと向かい、ゴート軍がそこを渡っていたのを見つけた。騎兵戦が起こり、戦いの興奮で我を忘れたベリサリウスは軽率にも我が身を晒した。脱走兵たちは彼の白い頭をした薄灰色の馬を知っており、ゴート兵に彼を狙うよう説いた。しかし彼は無傷で逃げおおせた。双方で大きな犠牲が出て、ローマの小部隊は最終的に敗走を強いられた。彼らが夕暮れにサラリア門に着くと、歩哨は戦いで土埃まみれになっていた将軍に気が付かず、彼が殺されたと逃亡兵からすでに聞いていたために開門のを拒んだ。ベリサリウスは反転して追撃者を攻撃し、彼らは新手の軍が門から出撃してきたと思って退却した。次いで彼は成功裡に入城し、その夜を使って市の防衛準備を行った。それぞれの門は異なった指揮官の責任に委ねられた。夜が明ける前にある事件が起こった。ウィティギスはサラリア門の側で演説をするために一人の将官を送り出した。名をワキスといったこの男はゴート族への裏切りと、彼の言うところでは俳優の能力や難破した水夫を除いて未だかつてイタリアを訪れなかった人々であるギリシア人による保護を選択したことでローマ人を非難した。彼の怒りの奔流に誰も応答せず、彼は引き下がった。
 翌日に開始された包囲戦は一年と九日間続き、それは両交戦者の予想を遙かに上回る長さであった。ゴート族は市の円周の全てを包囲しようとはしなかった。彼らは七つの野営地を作り、そのうち一つは川の東側、後にカンプス・ネロニスとして知られるヴァチカン地域に置いた。他の六つはテベレ川の東、市の北と東側だった。その一つはウィティギス自らが指揮した。したがってポルタ・マッジョーレからポルタ・サン・パオロと川まではがら空きになっていた。アウレリアヌスの城壁の全周はトランステベレ地区を含めて一三マイルもなく、もしウィティギスがローマに対して率いていったと考えられるような大軍を要していたならば、彼は城壁の一フィート毎に一人の兵士を配し、予備のための一〇〇〇〇人以上の軍を有していたことになる。彼は市を完全に封鎖するにはあまりにも少ない兵力しか持っておらず、それを選ぶことができなかったのである。
 ゴート軍の最初の行動はカンパーニャを横切ってローマにラティウムの丘陵から水を供給していた多くの水道を切断することであった。その素晴らしい作品の破壊は幾分かの不便をもたらしたものの、包囲戦の運命にはほとんど影響を及ぼさなかった。しかしローマに対して未来にわたる影響を及ぼした。紀元前三世紀以来その都市は例外的に純水を供給されていた都市であり、新しい建物が住民の増加する要望に応じて絶えず建てられていた。ゴート族によってもたらされた破壊行為から一〇〇〇年の間、ローマ人は以前の共和制のようにテベレ川と井戸から再び水を汲む羽目になった。彼らの文明の目を引く特徴だった由緒ある贅沢な入浴の習慣は終りを告げた。水道は戦争が終われば簡単に再建できただろうし、もしローマが再び帝国領となればそうなっていたであろうことは疑いなかったが、人々の快適さと衛生は古代の浴場を救いようのない異教の生活の一部として見ていた中世の教皇たちの関心外であった。カンパーニャを横断する長い柱廊は荒廃に委ねられた。
 水道の切断はすぐに困難を生み出した。ローマ人にパンを供給した製粉機〔の水車〕を回す水がなくなったのだ。ベリサリウスの創意工夫の才に満ちた頭脳は一つの方便を編み出した。テベレ川の流れがかなりの勢いになっていた所にあるアーチのある橋の近くに、彼は陸から陸へと縄を二艘の小舟に付けて張り、その縄を二フィートの間隔で分けた。二つの製粉所がそれぞれの小舟に置かれ、小舟の間に水車を釣り下げると水流によって簡単に回るようになった。小舟の線ができると、川に連なった製粉所が必要とされた全ての穀物をまかなえた。この非凡な工夫に面食らい、水中に木材や死体を投げ込むことで装置を駄目にしようという敵の試みはベリサリウスによって挫折させられた。彼は鉄鎖を川に張って彼の小舟や水車に害を及ぼす全ての危険な障害物に対する突破することのできない障壁とした。
 ローマ人は包囲の初日に彼らに降り懸かり、そして増大していくであろう困難に苛立った。ウィティギスは逃亡兵から彼らの不満を知ると、好意的な提案がなされるならばベリサリウスは世論の影響の下にローマ防衛の計画を放棄する羽目になるだろうと考えた。彼は使節団を送り、ベリサリウスは麾下の将軍と元老院議員らと共に彼らを迎えた。ゴート軍の代表者は包囲戦がローマ人にもたらす惨禍を誇張して語り、帝国軍に市から全ての財産を携えて無事に退去する許可を申し出た。ベリサリウスの答えは取り付く島もない拒絶であった。「私は貴殿らにこう言っておう」彼は言った。「貴殿らが茨の藪の下に首を隠せれば御の字だと思ってもそうできなくなる時が来るはずだ。ローマは昔通り我々のものである。貴殿らにその権利はない。ベリサリウスの目の黒いうちはローマを引き渡すなどということはあり得ない」
 攻撃によってその都市を落とそうという壮挙がすぐに実行に移された。城壁は方々から攻められたが、包囲軍はいたるところで撃退された。テベレ川の西のアウレリアヌス門の近くでの戦いがとりわけ激しく、ゴート軍はハドリアヌスの大きな四角形の廟を攻撃し、激しく圧迫された籠城軍は像を敵に向かって投げつけた。
 完全な自信を大っぴらに示したにもかかわらず、ベリサリウスは彼の状況の危険性と困難をよく分かっており、新たな兵士がすぐに救援に来ない限り到底勝利できまいと知っていた。彼はユスティニアヌスに作戦を報告して最も強い言葉で援軍の必要性を説く手紙を書いた。彼が書くには、「これまでのところ万事好調であり、これは我々の成功は勇気と運命のいずれかのおかげでありますが、この成功を続けるためには、陛下は私にすべきことを明言する必要がございます。神は自らが望むように全ての事を命じたものでありますが、やはり人間は成功なり失敗に応じて賞賛されたり責められたりするものです。今後我々が対等の条件で戦争を行えるだけの軍と兵士を我々に送ってはいただけませんか。陛下、今蛮族たちが我々を打倒すれば、我々は陛下のイタリアの支配権のみならず軍もまた失うことになり、これに加えて我々は失敗の大変な不名誉、言うまでもなく自らの安全のために陛下の帝権への忠誠を選び取ったローマ人に破滅をもたらすという恥辱を蒙ってしまうということを納得してください。大軍勢がなければそう長くローマを維持することはできないと理解してください。海路はその限りではありませんが、平地から囲まれて物資が寸断されております。ローマ人は今は友好的ではありますが、この苦境が長引けば、飢餓の締め付けは彼らをして彼らの意に反する多くのことをなさしむることでしょう。私自身は陛下に自分の命を捧げておりますが、この地で生を全うすることはできないでしょう。しかしベリサリウスの命を絶つことが陛下の名声にどのような影響を及ぼすかお考えいただければ幸いです」
 皇帝は一二月にウァレリアヌスとマルティヌスが指揮する援軍を派遣していたが、彼らは冬の月々をギリシアで過ごしていて未だ到着していなかった。将軍の逼迫した求めを受けてユスティニアヌスは彼らに遅延せずに向かうよう命じ、新たな軍を起こす準備をした。一方でゴート軍の攻撃の翌日、ベリサリウスは女子供および軍務に耐えられない奴隷を市街に送り出した。その一部はテベレ川を小舟で下り、他の者はアッピア街道から出発した。敵は彼らの出発を妨げようとはしなかった。仕事がほとんどなくなっていた職人と商人は守備隊に編入されて正規兵と混ぜられ、彼らの仕事には安い賃金が支払われた。
 おそらく攻撃の失敗に激怒したウィティギスは人質としてラヴェンナに留め置いていた元老院議員たちを、逃げおおせた少数を除いて殺した。それは滅多になされない蛮行の一つであり、残忍であるのと同じくらいに不毛なことであった。同時に彼はテベレ川河口のポルトゥスを占領した。ポルトゥスは何世紀もの間ローマの港であり、ローマは素晴らしい道と川の右岸沿いの船曳き道でポルトゥスと繋がっており、そのために物資を積んだ重いはしけは櫂や帆の助けを得ることなく雄牛を使って曳くことになっていため、これは籠城側にとっては深刻な打撃となった。ポルトゥスの対岸にあったより古いオスティア港はローマ軍の手にとどまっていたが、そちらには船曳き道はなかったために川での輸送は風に依存していた。さらにゴート軍がポルトゥスに一〇〇〇人の守備隊を置くと船はオスティアに碇を下すことができなくなり、一日行程のアンティウムに投錨せざるを得なくなった。ベリサリウスの秘書官は少数の兵士で保持できるほど強力な場所であったポルトゥスを確保するために三〇〇人の兵士すら割くことができなかったことを失念している。
 およそ三週間後にマルティヌスとウァレリアヌスがそのほとんどがフン族とスラブ人であった一六〇〇騎の騎兵部隊を伴って到着し、彼らはゴート軍を避けてローマに入城するのに成功した。彼らの到着の後に一連の成功を受けての出撃がなされ、ベリサリウスはよく訓練された弓騎兵で優位に立った。もし彼が危険の少ない小規模な出撃の連続という戦法を取ることができていれば、これによって敵をすり減らし続けていたことだろう。しかし成功によって自信を得た軍は夷狄に対する有利を確信して会戦を叫び、司令官は彼らのしつこい要求に辟易してしぶしぶ折れた。全面的な戦いが市の北側、川の両側で戦われ、ローマ軍は数に押されて潰走し、城壁の中へと逃げ込んだ。
 六月の終わりにさしかかると籠城側は飢餓と疫病の危険を感じ始めた。兵士を養うために必要な穀物だけはあり、ゴート軍はこれまでは封鎖をあからさまに怠けながら行っていたが、アッピア街道とラティナ街道を支配する二つの水道の結節点に砦を建設することで封鎖を厳しくした。市民はベリサリウスに戦いの危険を冒すよう求めた。彼はそれを拒否したが、援軍の大部隊と物資がすぐに到着することを約束した。解放が近いという期待は噂にしか基づいておらず、彼はこの報告が真実であるかどうかを明らかにして物資輸送船を集め、そしてカンパニアの町々の守備隊から割くことができる全ての部隊をローマへと送らせるために秘書官プロコピウスをカンパニアへと送った。プロコピウスは夜に南側のサン・パオロ門からローマを発ち、ゴート軍を避けつつナポリに到着して命令を遂行した。少し後にベリサリウスはアントニナを安全なナポリに送り出しており、彼女はなかなかの組織化の才能を活かしてローマに来援を送るという仕事を助けたことだろう。彼女はプロコピウスがすでに五〇〇人の兵士を集めて穀物を多くの船に積んでいたのを知った。しかし増援部隊は心配しながら待機していたため、途上にありながらもまだ来ていなかった。彼らは一一月に到着したようである。三〇〇〇人のイサウリア兵がナポリに、一八〇〇騎の騎兵がオトラントに上陸した。彼らの指揮官たちのうち最も優れていたのはウィタリアヌスの甥ヨハネスであり、彼はベリサリウス麾下の人物の中で勇敢で最も有能な部下の一人だった。
 その一方でウィティギス軍はローマ軍と同じように飢餓と疫病に苦しんでいた。新手の軍がローマの救援に向かいつつあるという落胆するような便りが来ると、漸進的に数は減っていった。三〇〇〇人のイサウリア兵がオスティアへと海路で送られ、ウィタリアヌスの甥ヨハネスは一八〇〇騎の騎兵とプロコピウスによって集められた五〇〇人を率いてアッピア街道を通って進撃し、食料を積んだ輜重隊がそれに続いた。こぞって彼らを取り押さえようとしたゴート軍を妨害するためにベリサリウスはフラミニア門近くの陣地へと強力な出撃を行った。それは完全に成功し、ゴート軍は完全に潰走した。これが包囲の転換点だった。ウィティギスはローマを落とすのを絶望視し、ベリサリウスに高位であるが名前の分かっていないイタリア人を使節団緒とした使節を送った。
 将軍とゴート軍の代弁者の会話がプロコピウスによって記録されており、我々は彼がローマに戻ってこの会見に居合わせたと思って差し支えないし、これは少なくとも部分的には対話の要旨を述べていることだろう。
使節「我々も閣下も戦争は双方にとって良からぬように進展していることを知っております。救援の見通しもなく犠牲が出るのを長引かせるのは馬鹿げたことですし、我々の兵の名声よりも彼らの安全を顧慮し、彼ら自身とその敵の双方にとって適当な解決を探すことを考えることは両国の指導者のためになりましょう。それゆえ我々はある提案をする所存です。しかしながら我々はもし我々が何か道理に合わないことを言えば、閣下がすぐに遮ってくださることをお願い申しあげます」
ベリサリウス「会見が会話の形を取ることについて私に異論はない。だが私は貴殿らの提案が公正で平和的なものであることを望んでいる」
使節「貴殿らローマ人は我々のところにやってきては武力をもって貴殿らの友人と同盟者に対して不正を働きました。ゴート族はイタリアをローマ人から力づくで奪ったのではありませんし、オドアケルが皇帝を倒して僭主制を敷いていたことを思い起こしてください。そこでゼノ様はその土地を開放しようと望んではいたものの、オドアケルを屈服させることができなかったためにコンスタンティノープルを脅かしていたテオデリック王に、アウグストゥルス様に働いた悪事のためにオドアケルを成敗し、今後のイタリア統治を行わせようとなさったのです。かくして我々ゴート族はイタリアに居を定めたのであり、我々は帝国の法と政体を過去の皇帝たちの法と政体を同じ様に誠実に遵守してきました。テオデリック様もその後継者たちも一つたりとも法律を制定しませんでした。我々はローマ人の信教には真摯な尊重を示してきました。どのイタリア人も力づくでアリウス主義に改宗されられることすらありませんでしたし、どのゴート族も古い信仰に立ち返らせられることもありませんでした。ローマ人は東の皇帝によって毎年指名される執政官職を有してきました。しかし貴殿らは一〇年の間オドアケルの蛮族にイタリアを虐げることを許しておきながら、今になってそこを法的に所有している者から奪おうとしようとしているのです。それゆえに貴殿らの財産と奪い取った略奪品を持って立ち去っていただきたい」
ベリサリウス「貴殿の話は長々とした陰険なものだな。テオデリック殿はゼノ様によってオドアケルに向けて送られたが、それは彼がイタリアの主となるという条件でではない。何故に皇帝が一人の僭主をもう一人の僭主に取り替えたというのか? イタリアを皇帝権力の下に戻すことが目的だったのだ。テオデリック殿はオドアケルとの付き合いは良かったようだが、真の主君に土地を帰すことを拒むという悪事を働いたのだ。私は皇帝陛下の領土を他の誰にも渡すつもりはない」
使節「列席者の全員が我々の言ったことが真実であることを完璧に知っておりますが、我々は論を戦わせるために来たのでありません。我々は貴殿らにとってアフリカ防衛のために非常に重要な豊かなシチリア島は喜んで引き渡す所存です」
ベリサリウス「感謝する。我々としては古来より我々に属し、シチリア島よりも大きいブリテン島の全域を譲る用意がある。我々は等価の物を譲ることなくしてそれほどの好意を受け取ることはできないからな」
使節「それではカンパニアとネアポリスを加えると言えば貴殿は何と仰りますか?」
ベリサリウス「私には皇帝陛下の財産を処分する権限はない」
使節「我々は皇帝に年貢を毎年支払うつもりです」
ベリサリウス「私は法的に正しい主に土地を保持させる権限しか持っていない」
使節「それならば我々は皇帝陛下に必ずや大使を送って交渉するつもりです。このために我々は閣下に一定期間の休戦協定を締結することをお願いするものであります」
ベリサリウス「そうしようではないか。私は平和的解決のための方途を妨げたなどとは金輪際言われたくはないからな」
 この対話の後半部分は本物の報告であると思われる。ゴート族のイタリア側代表者がイタリアの法的身分と東ゴート政府の正当性について問いを挟んだということは証明できまい。もしそうだとすれば、彼の立論とベリサリウスの応答の両方が歴史的事実を誤った形で述べているということが見て取れるということは興味深い。ゴート側が述べるには、オドアケルの攻撃によってゼノの見守る中でロムルス・アウグストゥルスは退位させられた一方、ゼノはアウグストゥルスを僭称者として見なしており、彼が当初はオドアケルの承認を拒んだことはユリウス・ネポスの権利の無視であった。しかしゼノはやがてオドアケルを承認し、かくしてオドアケルは少なくとも彼の在位の後半の年月の間はテオデリック自身がそうであったようにほとんど「僭主」とはいえなかった。ベリサリウスはさらに酷く事実を歪曲した。彼はテオデリックとアナスタシウス帝との間で批准された明確な協定を完全に黙殺した。彼の立論では東ゴート族支配の正当性はそのままであり、その協定の存在はベリサリウスの立論の誤りを示している。プロコピウスその人がゴート族が法的に正当だったと考えていたということは行間からは読み取るのは行き過ぎである。
 ベリサリウスが使節と会見していた間に援軍がオスティアに到着した。同じ夜に彼は港へと下り、川を上って物資を運んで兵をローマへと遅延なく進ませる手はずを整えた。敵はこの作戦の邪魔をしないだろうという彼の自信は実際の出来事によって正当化された。三ヶ月期限の休戦協定の調印が完了した。人質が交換され、もしイタリアで停戦が破られれば、使節団はコンスタンティノープルから無傷で帰還することを許されるべしという保証さえ与えられた。
 ローマは食料を再供給されたが、野営地と砦のゴート軍の食糧事情は逼迫していた。ベリサリウスの秘書官はこの欠乏の原因はイタリアが依存していた搬入品の受け取りを妨げた帝国海軍であったと述べている。食料不足によってウィティギスはポルトゥス、ケントゥムケラエ(チヴィタ・ヴェッキア)、アルブムから守備隊を引かせることを決め、これらは帝国軍が迅速に占領するところとなった。ゴート側はこの行動を休戦条約への違反であると主張したが、ベリサリウスは彼らを嘲笑った。彼は確実に休戦の意味の自由な解釈を行っていた。彼は二〇〇〇人を指揮させたヨハネスをピケヌムの境界で冬の残りを過ごさせるために送り出し、敵が休戦を破る場合にはピケヌム地方を急襲して略奪し、ゴート人の妻子を奴隷にせよという指示を与えた。
 およそこの時にベリサリウスの注意は北イタリアの情勢へと向けられており、そこでは住民が活発な関心を持って戦いを眺めていた。高位のミラノ市民たちは大司教のダティウスと共にローマ側に接近しだし、ミラノの奪取だけでなくリグリア地方全域を反乱にもってくことも容易だと保証し、彼に北へと小部隊を送ってくれるよう懇願した。ベリサリウスはその計画に同意したが、休戦期間には動かず、ミラノの使節団は冬の間ローマに留まった。
 このすぐ後に悲劇的な事件が起こったが、我々がベリサリウスの秘書官を信じるならばそれは将軍の家庭内不祥事と関係したものだった。ウィティギスがローマへの進軍の準備をしていた時、ラヴェンナの著名な市民プラエシディウスが皇帝党に身を投じるためにスポレティウムまで少数の家来を連れてやってきた。彼が持っていた唯一の貴重品は金と宝石で豪華に飾られた鞘がついた二振りの短剣であった。彼はスポレティウムのそばにある教会で停止したところをコンスタンティヌスに取り押さえられた。この将軍は貴重な短剣のことを聞いて教会に部下の一人を送ってプラエシディウスから彼の宝物を取り上げた。プラエシディウスはベリサリウスに訴えるべくローマに行ったが、緊急事態と包囲の危機のために彼の個人的な不満には耳を貸してもらえなかった。休戦が締結されてすぐに彼は抗議をして補償を求めた。ベリサリウスはコンスタンティヌスに武器を返すよう求めたが無駄だった。そしてある日、ベリサリウスが広場へと馬で進んでいた時、プラエシディウスが彼の馬勒を掴み、敵の陣営からやってきた嘆願者が財産を奪われることが帝国の法で許されるのかと大声で訴えた。ベリサリウスは短剣を返還することを約束するよう余儀なくされ、他の将軍たちが臨席する自室にコンスタンティヌスを召還して短剣を手放すよう言った。コンスタンティヌスはテベレ川にこれらを投げる方がましだと答えた。ベリサリウスは護衛を呼んだ。「彼らは私を殺すのでしょうな」とコンスタンティヌスは言った。「確実に違うぞ」ベリサリウスは言った。「だから短刀をお前の鎧持ちに返せ」しかしコンスタンティヌスは自らが死ぬことになるだろうと信じ、短刀を振り上げてベリサリウスの腹を突き刺そうとした。それが起こるやベリサリウスはベサスを掴んで彼の後ろに隠れ、一方ウァレリアヌスとイルディゲルがコンスタンティヌスを引っ張った。次いで守備兵がやってきてコンスタンティヌスから武器を取り上げ、退去させた。しばらくして彼は処刑された。
 彼の処刑はベリサリウスが行った唯一の無慈悲な行いであると同時に公正さと寛大さに優れていた彼の性格から発した行いであるとしてプロコピウスによって激しく糾弾された。上官の命を狙ったその将官の場合にはその重罰が決して不当に厳しいものだと考えられていないためにこの意見は注目に値する。しかし『秘史』でプロコピウスは話を補足してその行為への彼の非難を説明している。もし我々がそこで彼が述べていることを信じるならば、コンスタンティヌスはアントニナの憎悪の犠牲になったのだ。その中傷的な逸話はベリサリウスがシチリアで妻とテオドシウスとの恥ずべき姦通に気が付いた時、コンスタンティヌスは傷心の夫への同情を示し、「これが俺なら女ではなく若い男を殺しただろうな」と公言した。その言葉はアントニナに報告され、彼女は復讐の時を待った。プラエシディウスの事件が彼女にコンスタンティヌスを件の不愉快な言葉のために亡き者にする好機をもたらした。彼女の説得でベリサリウスは処刑を命じ、プロコピウスによれば皇帝は有能な将軍の死でいたく気分を害したという。
 この事件直後のゴート族の幾度にも及ぶローマへの密かな侵入の試みによって休戦は明らかに崩れた。彼らはピンキアナ門に近いウィルゴ水道として知られていた水路を通って入ろうと計画したが、彼らの地下道探索は彼らの松明の明かりによって明るみに出た。もう一つの計画は買収された二人のローマ兵の助けを得て市の北西部の城壁の下部の守りを麻痺させようというものであった。しかし彼らの一人がベリサリウスに知らせて陰謀は不発に終わった。もう一つの機会にゴート軍はおおっぴらに攻撃をかけて撃退されていた。それらの行動への報復としてベリサリウスはヨハネスにピケヌム州へと下るよう命じた。ゴート側はこの不測の事態に対する備えを幾分か講じていた。ヨハネスは王のおじウリテウス指揮下の軍と対決したが、ローマ軍が勝利してウリテウスは殺された。この戦いはピケヌム州南部のどこかで戦われたに違いないが、ヨハネスが次いでアウクシムム(オージモ)へと進撃したのがその理由だ。そこが天然の要害であることを見て取ると、彼はそこを奪取しようとは試みずに北ピケヌムへと進撃してウルビヌムへと到着した。彼はウルビヌムはアウクシムム同様そう簡単には占領できないと判断してアリミヌムへと向かった。自分の近くに敵が拠る二つの要塞を残したヨハネスは総司令官の禁止命令に明白に背くことになった。しかし彼の不服従は有用な結果を生んだ。彼はラヴェンナからは一日行程しかなかったアリミヌムの奪取はゴート族の首都の安全を危惧したウィティギスをしてローマ包囲を解かしめるはずだと賢明にも予想していた。アリミヌムは抵抗を示さず、守備隊はラヴェンナへと逃げた。つい最近ヨハネスはゴートの王妃から手紙を受け取っていた。マスタンタは自分の意志に反して一緒になった夫を嫌っており、今やラヴェンナを裏切り、全く面識がないヨハネスに結婚しようと衝動的に提案した。
 アリミヌム陥落の知らせがローマに着くと、ゴート軍はすぐに野営地の柵を焼き払って出発の準備をした。ベリサリウスは彼らをタダでは返さなかった。彼は敵の半ばがミルウィウス橋渡るまで待ち、それから全軍で攻撃をかけた。彼らの損害は相当なものになった。戦死者に加えて多くの兵がテベレ川で溺死した。したがって一年と九日続いたローマ包囲戦は五三八年の五月の中頃に終わった。これはウィティギスに無能さを証明する機会を、ベリサリウスに有能さを示す機会を与えることになった。
 兵力が少数でもベリサリウスは一貫してゴート軍の抵抗に勝利することができるだろうと楽天的だったようだ。それは包囲戦からなる戦争だったし、そうであるべきであった。もし敵が野戦で彼と戦えば、援軍の到着後に彼は決定的な勝利を得て、イタリアの征服はアフリカの征服のように実に速やかになされたことだろう。彼は彼我の兵力差を知った上でどれほど自信を持っていられるのかをローマ包囲の間に問われることになった。戦術の優越に訴えるというのが彼の答えだった。曰く、「我々が最初にゴート軍と遭って以来、諸々の小競り合いにあたって数的劣勢を埋め合わせるにあたって私は自分の戦術を適合させるために彼我の戦術様式の相違点を研究した。私は、我々のローマ兵とフン族同盟軍が優秀な弓騎兵である一方でゴート兵はこの兵種に全体的に不慣れであったということが主たる相違点のほとんど全てであることを見て取った。彼らの騎兵の習わしは槍と剣のみを使うことであった一方、彼らの弓兵は馬に乗らずに重装騎兵の援護の下で戦いへと向かう。そのようなわけだから、白兵戦を除けば彼らの騎兵は敵の投擲兵器から身を守る手段を持たずに簡単に切り伏せられ、彼らの歩兵は騎馬隊に対しては無力となる」。しかし、ローマを攻めたウィティギスのゴート軍が歴史家が主張しているほどに強大であったならば、どんな戦術も勇敢で規律だっていたゴート軍に対して成功を収めることはできなかっただろう。




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