1節 テオデリック王の晩年(526年の死)

 ローマ教会と東方教会との再統一はユスティニアヌスと教皇ホルミスダスによって成し遂げられ、これはすぐに政治的な帰結をもたらした。ゴート族の王を廃して皇帝によるイタリアの直接統治を復活させるという考えが叔父の治世の初期のユスティニアヌスの心中で明確な形を帯びていたと考えるのは性急であろう。彼の施策の説明には彼自身の強力な理論的確信で十分であろう。しかし教会の統一復活はゴート族の権力を打倒する計画を抱いていた一人の政治家によって行われた明らかな最初の一歩であった。実際に分裂の存在はイタリアの正統派とゴート族政権とを和解させず、コンスタンティノープルとの密接な政治的紐帯への微かな願望をイタリアの正統派のうちの多くの者に抱かせていた。
 テオデリックとは全く友好関係になかったアナスタシウスの死はイタリアの政府にとっては重大な出来事であった。東ゴート王位の継承についての協定が結ばれたのがユスティヌスの継承後であったことは十中八九偶然ではあるまい。テオデリックには男児がいなかった。ローマ式の教育を受けていた娘アマラスンタの夫に彼はスペインでつまびらかではない生き方をしていた王家の血統にある東ゴート人エウタリックを選んだ。結婚は五一五年に執り行われ、息子アタラリックがその三年後に生まれた。この子をテオデリックは自身の後継者に指名した。自らの王を選ぶことはゴート族の権利であったが、未来の王が皇帝の総督でありイタリアの軍司令官でもあるべきならば、その選択は皇帝の了解抜きになされることはほとんどありえない。エウタリックが五一九年の執政官に指名されたという事実はユスティヌスが意見を求められてテオデリックの計画に同意したことを明らかに示している。ゴート族は執政官職から厳に閉め出されていたため、これがなされたのは皇帝の個人的な動議を措いてはありえず、彼はイタリアの王位継承権分与への承認を示したというわけである。
 教会の再統一が達成されると、ユスティヌスは高名なローマの元老院議員ボエティウスの二人の息子が同僚として執政官職を占められるようにと東側の五二二年の執政官の任命を取りやめることでテオデリックと元老院の双方に顕著な敬意を表した。それはあたかもラヴェンナとコンスタンティノープルの友情のこもった関係が今や確固たるものとなったかのようであったが、それにもかかわらず一年内に状況は以前よりも困難でより危険なものとなった。
 我々にはエウタリックの見解についての確かな情報はない。彼は強い民族感情を育んでアリウス信条に執心していた。そして彼は義父の穏健策とそれがもたらす妥協に幾分か苛立っていたかのようであった。彼が降伏〔東ゴート王の帝国への法的な従属〕を難じてイタリアをゴート族の独立国家として帝国から切り離す準備をしていたのか否かは我々の知るところではない。しかし彼は皇帝の意図とローマの元老院の忠誠に疑いを持っていた。彼は五二二年内に死んだが、その疑いをゴート族社会に伝播させることで状況に影響を与えたことだろう。そしてその疑いはユスティヌスがアリウス派に対して発布した勅令によって裏付けられるように見えたことだろう。アリウス派根絶の試みを教会の再統一と結びつき、帝国の施策がイタリアの反アリウス派運動を刺激することをゴート族は恐れた。そしてその結果、元老院、とりわけ分裂を終わらせるのに大きな役割を果たした元老院議員たちへの不信が増長された。ホルミスダス教皇はテオデリックから信頼されていたが五二三年に死に、彼の後継者ヨハネス一世はローマの元老院のより大きな権力と自由を得る手段としてイタリアの帝国政府へのより密接な依存を望む人たちと結託していた。
 テオデリックが五二二年の秋にボエティウスを官房長官の地位に任命したのは彼の好意の印だった。このアニキウス・マンリウス・トルクァトゥス・セウェリヌス・ボエティウスは生まれでもその豊富な幸運でも際立った人物であり、彼の人生は哲学と学問に捧げられていた。ローマでの縁者と友人とのしがらみからラヴェンナの宮廷へと移ると、彼は家でくつろぐこともなく自身を人気者にすることもできなかった。彼の峻厳な倫理基準は王を取り囲んでいた従順で日和見的な宮廷官僚たちを追い払ったし、おそらく彼は遠回しな言い方などほとんどしなかったことであろう。彼は突如として嵐が頭上に降り懸かるまで約一年間官職にあった。
 ある役人が幾人かのローマの元老院議員によって皇帝へと送られた手紙を押収した。この返信にはテオデリック政権への不忠であると解釈できる文言があり、とりわけパトリキウスの若ファウストゥス・アルビヌスが評判を落とした。問題は、大逆罪事件の法廷であった王の枢密院〔Consistorium〕のための事件調査が職務であった伝旨官〔referendarius〕キュプリアヌスの手に移った。キュプリアヌスは特命を担う人物であり、テオデリックから信頼され、しばしば乗馬に同行するのが常であったことは特筆に値する重要事項である。途中で奪われたアルビヌスの友人の手紙は調査内容を正当化した。官房枢密院〔Consistory ex officio〕の委員の一人だったボエティウスはアルビヌスを弁護した。事実の核心を否定するのは不可能であり、ボエティウスが取った弁護方針は、アルビヌスは彼個人の裁量でではなく元老院議員として動いており、したがって彼の行動の責任は彼一人のものではないと、というものだった。「私自身を含む全元老院に責任がございます。個人としてのアルビヌスに対するいかなる訴状もありえませぬ」。この弁護は自白として解されてボエティウス自身に対する大逆罪の罪状の根拠となり、大臣団に属していたが、面目を失っていた三人の男がその告訴の支持へとなびいた。彼は逮捕されて当然の流れとして職を解かれた。カシオドルスが彼の代理に任命され、この罪に元老院の他の議員を巻き込もうとする試みがなされなかったということは彼の影響力の賜物だと考えられる。
 この時点から手続きに違法性があることを考える理由はなくなったが、今やアルビヌスの出頭命令を完遂して法廷の前でボエティウスを裁く代わりに問題はその組織の手から取り上げられ、二人の男はティキヌムに幽閉された(五二三年秋の終わり)。ローマ市長官がそこへと召還され、彼と共に王は事件の調査に入った。 ボエティウスは有罪となって死罪を言い渡された。アルビヌスは話から外れてしまい、彼の運命は記録されていない。テオデリックは元老院に教訓を与えることを決意したが、ひょっとしたら彼は政治的事件の経過のおかげで自分は優れた哲学者の運命についての極端な決定へと導くことが許されたことは結構なことだと考えたのかもしれない。獄中でボエティウスは『哲学の慰め』という有名な本を編み、この文言が苦痛の緩和になるものとおそらく期待したことだろう。しかし彼は、伝わるところでは残忍な仕方で処刑された(五二四年の晩夏ないし秋)。紐で首を絞められた彼は棍棒でとどめを刺された。
 ボエティウスが判決を待っていた間、元老院議員たちは会合の場を設けて話し合った。彼らは徹底的に警戒し、自分たちの無罪放免を目論む声明を発し、ボエティウスとアルビヌスを切り捨てた。多分、ボエティウスに味方した唯一の人物は彼の義父であった元老院議長シュンマクスであったろう。彼は強い言葉を使ったであろうし、少なくともおべっか使いの声明に名を連ねるのを断った。これによって彼は非難に身を曝すことになり、大逆罪を弁明して裏切り者とよしみを通じたと告発された。彼は逮捕され、ラウェンナに連行されて処刑された。それは愚かしい行いであり、僭主の警戒であった。
 それらの出来事は、およそこの時に執行された重罪でアリウス派を脅しつけ、彼らを公職と軍務から排除し、彼らの教会を閉鎖した皇帝の勅令と何かしらの関係があるかもしれない。テオデリックは警戒した。彼は東方の同じ宗派の仲間の苦痛と彼らへの罰の復活に憤慨し、その勅令をアリウス派の教徒に対立せよというイタリア人への激励だと理解した。しかしその勅令は保たれず、その布告の正確な年月は不明で、ひいては我々はボエティウスの処刑の前にテオデリックの政策への影響を与えたのか否かを確定できない。それは彼の死までは布告されなかっただろう。我々はアリウス派に対して厳しい処置が採用されたという話はイタリアでは五二五年の秋より前に報告されたととしか言えない。テオデリックは東方の異端仲間の保護者たることを申し出ることでコンスタンティノープルでの布告に対して問題を提起することを決めた。彼は皇帝に政策を和らげるよう説き、もし固執するようならばイタリアのカトリックへの報復が結果として起こるという王の脅しを伝えるという嫌な任務をするよう誘われていたローマ司教ヨハネスを使節に選んだ。教皇は五二五年九月の頭と一一月の終わりまでの間に何人かの司教と高名な元老院議員たちを伴って出発した。彼は東方の都で名誉ある歓迎で迎え入れられ、少なくとも五ヶ月間そこに留まった。彼は降誕祭と復活祭をハギア・ソフィアで祝って首尾よく大主教より高位につく権利を回復した。以上が記録されたことであり、おそらく我々には、ユスティヌスは正式に戴冠して以来長くたっているものの、教皇に再び自分を戴冠させたのではないかという文言を問える権利はない。その任務の主要な目的は達成された。皇帝はアリウス派に彼らの教会を復活させ、彼らが官職に就くことを許すことに同意した。彼は改宗したアリウス派が旧来の信仰に戻ることを許すことは拒絶したが、テオデリックの主な要望は認められた。五月の中頃にラウェンナに戻ってきた教皇と彼の随行者たちの歓迎はうまくいった使節団が期待したのとは真逆のものであった。彼らは逮捕されて投獄された。東方へ旅立った時に病を患っていたヨハネスは数日後に死んだ(五二六年五月一八日)。彼の遺体はローマに送られてサン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。彼の葬儀には受けのよい証があり、彼は殉教者とみなされている。
 空席の司教区の継承をめぐって選挙戦が起こった。おそらくそれは東ゴート体制に融和的なイタリア人勢力とそうでないイタリア人勢力の戦いであった。二ヶ月の争いの後、前者は彼らの候補者の勝利の確保に成功し、元老院の成員についての問題で自らの望みをおおっぴらにしていたテオデリックはフェリクス四世の即位(七月一二日)に満足した。
 テオデリックの余命は幾ばくもなくなり、それから七週間後に彼は赤痢を患って八月に死んだ。生前に彼は側近のゴート族たちを呼んで孫のアタラリックを将来の王に指名し、元老院及びローマ人と仲良くやっていき、常に皇帝に敬意を示すよう言いつけた。人気のある伝説は彼の死を最近の暴君らしい行いと結びつけていない。魚が王の机に供され、王は想像の上でその頭、長い歯と怒らした魚の目がシュンマコスに見えて良心を苛んだと言われている。テオデリックは怯えながら寝台に入り、侍医に高名な元老院議員たちの殺害による自責の念を打ち明けた。
 人生の最後の年に彼はトラスムンド王の未亡人であった姉妹のアマラフリダの運命に苦しんだ。彼女は夫の死後もアフリカに留まっており、これは彼女の結婚でもって始まったラヴェンナとカルタゴとの良好な関係の維持にあたって彼女の兄弟にとっておそらく有用なことであった。しかしヒルデリック王はコンスタンティノープルについて段々知るようになってユスティニアヌスの影響下に入ったため、ゴート族から距離を取ってテオデリックとの友情は冷え込んだ。この国への輿入れの際にゴート族のお供を引き連れていたアマラフリダは正当になのか不当になのか、王に対する陰謀の廉で非難を受け、牢に放り込まれてそこで死に、それは自然の経過の結果であったが、彼女の死は暴力によるものであるという疑いが生まれた。彼女のゴート兵は皆殺しにされた。もし生きていればテオデリックは疑いなくヒルデリックへの報復を試みたことだろう。彼の死後、彼の娘はヴァンダル王に宛てた強い抗議をする以上の立場にはなかった。





2節 アマラスンタの摂政政治(526-534年)

 テオデリックの跡は子供が、つまりテオデリックの娘のアマラスンタがエウタリックとの間に儲けた孫のアタラリックが継ぎ、アマラスンタは息子が幼少の間は摂政として政府の統治権を握った。彼女はローマ式の教育をラヴェンナで受けた知勇兼備の女性であり、彼女はイタリア人とゴート族の統一国家への混合という理念を心から信じていたのかもしれない。彼女の確信していたことと感情とは異なっていたとしても、彼女は皇帝と良好な関係を維持して元老院と融和するという父の最後の忠告に従うことを摂政政治に本来的に存在する弱点のために余儀なくされた。ボエティウスとシュンマクスの没収された財産を彼らの子供たちに返還したことはこの変化の証であった。ローマ人たちはローマ人とゴート族の間に違いはないと確信し、元老院と民衆が幼い王への忠誠を誓うと、彼もまた彼らに善政の誓いをたてた。元老院はその要求と要望を表現するために招待された。使節団が手紙を運ぶべく皇帝へと送られ、その中で皇帝はアタラリックの若さを支えることを要望され、「墓に葬られれば憎悪も終わる」と言われるように、墓には古い憎悪を埋葬することを許されるべきだと提案された。
 アマラスンタは息子にローマ人の子弟用の教育を受けさせることを決め、彼女と意見をともにしていた文明化された三人のゴート人の養育下に置いた。しかし全体としてゴート族は、彼女が父と同様に目論んでいたイタリアの文明化の理念をまるで理解していなかった。彼らは戦争の技術にのみ信を置き、破れた人々の真っ直中で勝者として暮らしているのだと考えていた。彼らの王が人文学の教育を受けたことは彼らの蛮族らしい感傷を逆撫でした。アタラリックが何かしらの失敗をして母から折檻を受けて泣いてる様を見て取ると、彼らは憤りへと駆り立てられた。彼らは女王は息子を追い出して再婚しようとしていると陰口をたたいた。そこでこの派閥の幾人かの指導者たちはアマラスンタに謁見を求め、彼女が王のために選んだ修練の体系に反抗した。 彼らの説くところでは、文芸の教育は女々しさと臆病を増進させ、鞭を恐れる子供は剣や槍に立ち向かえなくなるものであり、文学の理念を持たなかったテオデリックを見習ってアタラリックは主に同年代の仲間と一緒に鍛錬を受けるべきである、というわけである。アマラスンタは彼女が心底嫌っていたこの論議に説得されたふりをした。彼女は、もしこれを拒めば自分の理念と政策に共感を寄せるゴート族はごく僅かであったために摂政を解任されるだろうと恐れていた。アタラリックは教師のしつけから解放されたが、なおも文芸教育の敵対者たちは新たな体系が成功したとは到底満足しなかった。彼は病弱で惰弱な気質であり、彼がすぐ交わるようになったゴート族の若者たちは彼の健康を害することになったまだ彼には早い放蕩へと彼を誘った。
 時の経過とともにアマラスンタ支配へのゴート族の不満は増していき、彼女は自らを打倒する陰謀が足下にあることに気付いた。彼女は自分への扇動を行っていた三人の最も危険な男たちを軍務の名目で北の国境の別の場所へと送った。彼らがまだ陰謀に手を染めていると見て取ると、彼女はより強硬な措置を決意した。彼女は自らの地位の危機を完全に評価していたため、逃げ場を用意すべく警戒した。彼女はユスティニアヌスに手紙を書いて彼女に必要な要求を受け入れてくれるよう求めた。おそらくイタリアの状況に不満を持っていなかったであろう皇帝は心から賛同し、コンスタンティノープルへの旅に際しての女王の受け入れ先としての住居をデュラキウムに準備した。こうして安堵したアマラスンタは殺害の任を下したのであるが、このようなことは政治的必要性の要請で取り繕われたり正当化されるのが通例であった。彼女は三人の首謀者の暗殺のために忠実なゴート人たちを送った。彼女は四〇〇〇〇枚の金貨を容器に入れてデュラキウムに送り、自分が到着するまで荷を降ろさないよう指示した。殺人が成功裏に終わったことを知ると彼女は船を呼び戻してラウェンナに留まった。
 東ゴート王国が今や政治的に孤立していたことを理解するのは重要である。友好的な理解の仕組みは王族間の同盟によって固められており、テオデリックは西のチュートン人勢力のうちにこれを打ち立てようと骨を折ったがそれはせいぜい平和の弱々しい保証でしかなかった。彼の死後それは破棄された。我々はいかにしてヴァンダル族との同盟が決裂し、テオデリックの姉妹のアマラフリダがヒルデリックによって殺されたのか、このアマラスンタが報復をできるような立場になかった被害状況を見てきた。そこの王妃が彼女の従妹であったチューリンゲン人はフランク族に攻められて征服されていた〔529年とその翌年(N)〕。フランク族もまた西ゴート族を彼らが未だ保持していたガリアの端から追い出そうと企んでおり、テオデリックの孫であった若きアマラリック王は殺され(五三一年)、彼の跡を継いだテウディスはセプティマニアの保有を維持するのに申し分ない人物であった。東ゴート族はその地方からの援助を見いだせなくなっていた。フランク族の勢力はブルグンディアの征服(五三二-五三四年)によってますます恐るべきものとなり〔「アマラスンタは五二九年から五三二年の間、テオデリックによって五二三年に占領されたブルグンディアのイゼール川とデュランス川の間の地方を取り戻した(Cass. Var. XI.1.13; cp. VIII.10.8)」(N)。〕、ガリアの東ゴート族の諸州は飽くことを知らない彼らの野心によって攻撃を受ける危険もあった。したがってイタリアの摂政は、内患がなかったとしても、大人しく、とりわけ法的に忠誠を尽くすことになっている皇帝権力に対してはなおさら控えめに振る舞わざるを得なかった。
 アマラスンタにはイタリアの近親縁者として従兄弟であり、ヴァンダルの王妃アマラフリダが最初の結婚でもうけた息子であったテオダハドがいた。彼は彼女が困難に当たって到底助けを求めることがないような人物だった。テオダハドには彼の民族の戦士らしい気質が欠けていた。彼は自由学芸の教育を受けてプラトン哲学の勉学に勤しんでいた。しかし彼は哲学が難詰するような情念から全く自由になっていなかった。彼の性格の支配的な特質は強欲だった。彼はトスカナに領地を持っており、隣人たちの財産への侵害によって徐々にその地方の大部分を獲得していった。「彼はそれを隣人を持つ不幸だと考えていた」。トスカナ人は彼の強欲を訴えてアマラスンタは彼にいくらかの返還を強い、彼からの不滅の憎悪を得ることになった。しかし彼は元から権力への野心を持っていたわけではなかった。彼の考えはコンスタンティノープルでの贅沢暮らしと社交生活で晩年を過ごそうというものだった。最初に歴史の段階に現れた時の彼はこの欲求を実現しようと歩みを進めていた。二人の東方の主教〔エフェソスのヒュパティウスとフィリッピのデメトリオス。彼らは皇帝から教皇への手紙を持ってきた。前者が来たのは533年6月6日で、後者は534年5月25日であり、彼らとアマラスンタとテオダハドとの交渉は533年からその翌年となる。(N)〕が神学理論についての用向きでローマへとやってきた。テオダハドは彼らに多額の金、元老院議員の地位、そしてコンスタンティノープルでの生活の許可と引き替えにトスカナの領地を譲り渡すことを申し出るというユスティニアヌスへの言伝を委ねた。
 この二人の主教と共に皇帝の代理人アレクサンデルもイタリアにやってきた。彼の表向きの任務は摂政に対して彼女の非友好的な振る舞いについてのいくつかの取るに足らない主張を表明することであった〔その三つの主張は、彼女が皇帝に属するはずのリリュバエウムの砦を保持していること、彼女が帝国軍から脱走した一〇人のフン族を匿っていること、そしてシルミウム近郊でのゲピド族への遠征でゴート族がモエシアにある町グラティアナに敵対行動をとったことである。リリュバエウムへの皇帝の主張はテオデリックが彼の姉妹に、そして彼女がヒルデリックと結婚した時にそれを与えたという状況に基づいている」(N)。〕。公の聴講会でアマラスンタはそれらの非難に返答してそれらの些末さを論じ、皇帝の艦隊がヴァンダル族への遠征でシケリアを使うことを許すという皇帝への奉仕を訴えた。しかしこの行動はゴート族を騙すためだけのものだった。ユスティニアヌスはイタリアでの出来事をきちんと理解しており、アレクサンデルの滞在の真の目的は摂政と密約を結ぶことであった。彼女の立場は今や以前よりも際どいものになっていた。アタラリックの速まった放縦は衰弱を招き、彼の生存の見込みは失われた。彼が死ぬとゴート族から不人気だった彼女の地位は到底維持できないものになり、彼女は自分の権力を捨てて皇帝にこれを譲渡しようと考えるようになった。彼女は自分の意図をアレクサンデルに伝え、それから彼は主教たちと一緒にコンスタンティノープルへと戻った。アマラスンタとテオダハドの言伝を受け取ると、ユスティニアヌスは新たな代理人をイタリアへと送り、それは有能で説得力を持った外交官であるテッサロニカのペトルスだった。
 その間にアタラリックは死んだ。それにしても今や際どい瞬間が到来し、権力を振るってきたアマラスンタはそれに参与できなくなって致命的な苦境に陥っていた。彼女は従兄弟のテオダハドに手紙を送り、彼の貪欲を抑制しようという彼女の試みの意図は彼を不人気にするのを防ごうというものであると彼に請け合い、彼女が引き続き彼女自身の手で政府を取り仕切るという条件で王の称号を差し出した。彼は彼女に対して感じた、そして彼女が少しばかり感づくもしれない激しい敵意を隠すべく、彼女が要求する全てを実施するという厳かな宣誓をした。彼が王として宣言されるや否や正式な書簡が元老院へと送られ、その中でアマラスンタはテオダハドの学問好きを詳しく述べ、テオダハドは自らの決定をアマラスンタに倣ったものあると明言して知恵を敷衍した。ユスティニアヌスにも事の次第を知らせる手紙が送られた。
 しかし当初の偽善的な儀式の後にテオダハドが仮面を脱ぎ捨てるのにそう時間はかからなかった。彼はアマラスンタの命で殺された三人のゴート人の親戚を集めた。彼女から信頼を寄せられていたゴート貴族たちは殺されて彼女は捕らえられ、王の所有していたトスカナのボルセナ湖の島に幽閉された。そして彼女はユスティニアヌスに自分は何ら悪いことをされていないと確約する手紙を書かされた。テオダハドは同じ結果を得るために手紙を書き、ガリアの近衛長官リベリウス、オピリオという二人の元老院議員に手紙をコンスタンティノープルへと届けさせた。
 その間に皇帝が秘密交渉を続けるために選んだ新任の代理人ペトルスは出立していた。エグナティア街道を横断したペトルスはその途上でアタラリックの死とテオダハドの登位の知らせを持ってきたゴート人と会った。そしてアウロン(ヴェローナ)の港に到着すると彼は女王の捕縛を彼に知らせてきたリベリウスとオピリオと会った。ペトルスはコンスタンティノープルへと最初の使者を送り、さらなる命令を待った。ユスティニアヌスはすぐにアマラスンタに手紙を書いて保護を彼女に確約し、そのことをテオダハドと女王を支持する用意があるゴート族に明らかにさせるようペトルスに指示した。しかし皇帝の権威と使節によるこの表明はアマラスンタを救うには至らなかった。彼女は自分が殺したゴート族の親戚であり、テオダハドに彼女の死が彼の安全に必要不可欠だと説き伏せたゴート人に離れ小島で――言われるところでは、浴室で窒息させられて――殺された。ゴート族とローマ人はその人物的な美徳が全ての人の認めるところであったテオデリックの娘の運命に一様に衝撃を受けた。ペトルスはユスティニアヌスの名の下、〔ペトルスによって〕なされた批判は「休戦なき戦争」を意味しているとテオダハドに言った。王は自分の意志に反したことがなされないことと、自分がその暗殺者たちに栄誉を保ち続けられるよう懇願した。
 プロコピウスが『戦史』で述べたこのアマラスンタの悲劇的な最期の短い話はいくつかの困った問題を喚起し、それは他の証拠がなくとも、説明がなされていない背景の状況のがあるのではないかという疑いを我々に感じさせずにはいさせない。殺害の許可、彼がよく知っているようにこの行動はユスティニアヌスのこの上ない不興を買い、そして彼のその後の施策が示すように、彼が避けようと望んでいた戦争への道を開くことが知られている以上、テオダハドの動機を理解するのは困難である。ペトルスはイタリアにその瞬間、そしてその出来事に先立つ数ヶ月間そこにいた。彼は皇帝にアマラスンタの主張を擁護するよう命じられていた。どうやればペトルスは彼女に自由を取り戻させるだけでなく、彼女を救うことさえできたのだろうか? プロコピウスが曖昧な文章でこの使節の女王のための努力について沈黙しているのを見れば、彼の読者はペトルスの到着は介入には遅すぎたと信じてしまうし、半分しか語られていないこの話を疑う余地が生まれる。
 その説明はプロコピウスその人の筆で用意されている。『秘史』の中で彼は薄気味悪い補足を加えている。曰く「皇后への恐怖のために私は出版できない」。この話によれば、テオドラはコンスタンティノープルに逃げ込もうとしたアマラスンタの目論見を警戒の目で眺めていた。テオドラはこの美人で気の強い女人が皇帝に影響を及ぼすのを恐れており、彼女はゴート族の女王に死をもたらすべくペトルスを金銭と官職の約束で配下に置いた。イタリアに到着すると、ペトルスはテオダハドにアマラスンタを片付けるよう説得した。この結果、彼は官房長官の地位に出世して大権と憎悪を獲得するに至った。この話の信憑性は疑われているが、その支持にあたっての証拠は思われている以上に強力である。
 まず、それはこの犯罪行為への同意にあたってテオダハドの行動に十分な説明を与えていることが見て取れるだろう。皇后の強力な影響のおかげで彼はゴート族内のアマラスンタの敵対者たちの望みに応えつつ、皇帝の恐怖を無効化することで自らの安全を確保できると感じていた。第二に、テオドラの共謀にあたって信じがたいようなことは何もない。彼女の記録には、彼女がその犯罪行為を行うことができないと我々に考えさせるようなことは何一つない、しその動機は確かに十分である。公の場面でアマラスンタはテオドラその人に次いで最も注目に値する生存中の女性であることが思い出されるべきである。彼女は報告が大げさに伝えているその人格と教養で優位に立っており、八年の治世で彼女は心の強さ、そして無節操さすら示していた。しかしもし彼女がそれらの点で皇后と競えば、彼女の欠点のない私的な資質と彼女の王家の生まれはテオドラが到底許されるとは期待できない強みになっただろう。テオドラの前半生についての真実がどうであれ、彼女の生まれは最低辺で、正しかろうと間違っていようと記録は彼女の若い頃の身持ちの悪さにかかずらっていた。我々はテオドラには、皇帝に影響を及ぼして場合によっては彼女に分の悪い比較で不可避的に挑戦者となるであろう王の娘のコンスタンティノープル到着を防ぐためにさらに一歩進んだ手を講じる準備があったろうとよく理解できる。
 このドラマへのテオドラの関与についてのプロコピウスの文言は全幅の信用を認められるべきであるが、裏付けの証拠がなく、我々にはそれを悪意からの格別のでっち上げとして取り消す余地が認められるだろう。しかし我々には、プロコピウスの話を裏付ける証拠とは別に一つの重要な事項がある。ペトルスがテオドラの代理の役を果たし、彼女が彼をラヴェンナへの使節に任命したことはプロコピウスの話の本質的な点である。これはペトルスが殺害の後にコンスタンティノープルに戻った時にテオダハドが皇后に宛てた手紙によって全面的に実行されたことである。これらの手紙の中で使節は曖昧な形で彼女の密使と述べられている。ここでも我々は、テオダハドに対して皇帝に何か要望があれば、まず彼女自身に提出するよう〔テオドラが〕命じたという重要な事実を知る。その上、テオダハドの妻グデリウァの手紙の中には、その犯罪行為への覆い隠された言及としてならば一番簡単に説明できる不思議な文言がある。グデリウァの書くところでは「ローマの領域には不和があるようには見えませんし、その一方で状況は私たちがあなたにお伝えしましたとおりに進みました」と。殺害の直後に送られたその手紙のこの文言の意味は不穏である。
 プロコピウスの話は秘密の陰謀が広く知られていたことを暗示している。そうでなかったとしても、彼はテオドラの腹心アントニナないしペトルスその人から情報を受け取っていたのであろう。テオダハドが平和を一切考えるのを放棄した時にテオドラの仲介の罪を隠す動機がなくなったことを思い出すべきである。彼女が仲介し、その命令を実行したペトルスが、表向きはユスティニアヌスの命の下で女王の利害通りに行動しつつ、アマラスンタの殺害を暗示的且つ遠回しに促した結果は全体を勘定した上での証拠によって保証されるように見える。無論この証拠は法廷で彼女の納得を得るのに十分とはほど遠いだろう。いかなる検事もそれを行うことはできまい。しかしそこで陪審は納得して正しさを認めることはないであろうし、世論はその告発が真実であるという判断に頻繁に正しさを認めることだろう。




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