一方でリグリアの命運が未だ不透明なままだった時にウィティギスはラヴェンナの安全をひどく案じていた。ローマ軍はアリミヌムとウルビウムに地歩を固め、彼は今にもベリサリウスが自分の都へと進軍してくるのではないかと予想していた。その年の始めに彼は外国の助けを得ようと決めた。彼はまずドナウ川の向こう側に住むランゴバルド族の王ワコに申し込んだ。しかし援軍はこの方面からは来なかった。皇帝の同盟者だったワコは背信的なフランク族の二心ある行動を真似るのが好都合だと考えた。次いでゴート族はさらなる強者、即ちペルシア王その人と接触しようとの考えを抱いた。これは真実だったわけだが、ユスティニアヌスはホスローと締結された和平によって東方での安全が確保されなければ西方での事業に着手しなかっただろうと彼らは力説した。もし彼をペルシアとの戦争に巻き込むのに成功すれば、イタリアで戦争を続行するのは不可能になるだろう。ペルシアへ唯一行くことができる道は帝国領を通るものであったため、ゴート族の使節団を送るのは難事であった。疑われることなく旅ができた二人のリグリア族の司祭が多額の賄賂によってその任務の実行に誘われ、彼らはホスローの宮廷に到着してウィティギスからの手紙を送り届けるのに成功した。この訴えはホスローが戦争の再開を決めるような主たる動機には到底ならなかったが、疑いようがなくそのものの結果をもたらした。それは外交を考えるにあたっては西の地中海人の状況に留意することが賢明であろうという印象を彼に与えたに違いない。彼はウィティギスが望んだ通り戦争を決定したが、彼の作戦はウィティギスを破滅から救うにはあまりにも遅すぎた。 交渉がラヴェンナとクテシフォンとの間で交わされたという報告がユスティニアヌスのもとに到着し(六月)、それによって彼はベリサリウスに東部国境での指揮権を行使する自由を与えるために可能な限りの妥協によってイタリアでの戦争を終結させるという考えへと傾いた。したがって彼は一年以上抑留していたゴート側使節を釈放し、和平を話し合うために自分の側で使節団を送ると約束した。そのゴート人らがイタリアに到着すると、ベリサリウスはウィティギスがローマ側の使節、つまり四年間捕虜になっていたペトルスとアタナシウスを引き渡すまでラヴェンナに行くことを彼らに許さなかった。皇帝はペトルスを官房長官、アタナシウスをイタリアの道長官とすることで彼らの働きに褒美を与えた。 なるほどイタリアには平和が必要だった。農業は戦争による諸州の荒廃によって止まり、リグリアとアエミリア、エトルリア、ウンブリア、そしてピケヌムでは住民が飢餓と疫病で死んでいた。ピケヌムでは土着の農民五〇〇〇〇人が死んだと言われている。やつれて青黒い色をし、そして荒々しい目つきをした人々は食料の欠乏、あるいは消化しにくいドングリの類を代用して作ったパンの食べ過ぎで苦しんでいるとプロコピウスは記した。食人が起こり、通行人に一夜の宿を提供したアリミヌムの近くの一軒家の住んでいた二人の婦人のぞっとするような話が語られた。彼女たちは一七人の客の寝込みを襲って殺してその肉を貪り食った。一八人目は食べられるために殺される寸前に目を覚ました。彼は彼女らを自白させて殺した。死体が埋葬されないまま郊外に散らばっていた一方で彼女らは力の弱った手で剣を持って地面から草を千切ろうとした。カラブリアとシチリアから海路で食糧補給を絶えず受けていたため、帝国軍の苦しみは僅かであった。 他方でベリサリウスは計画を遂行した。彼はラヴェンナに進むに先立ってアウクシムムとファエスラエを占領することが欠くことのできないものであると考えた。マルティヌスとヨハネスをウライアスからポー川沿いを守るためにデルトナ(トルトーナ)に配置し、彼はユスティヌスとキュプリアヌスをファエスラエ封鎖のために送り出し、自身は彼の最も重要な仕事であるアウクシムムの包囲に取り掛かった。その二つの包囲には六ヶ月を要した(五三九年四月から一〇月ないし十一月)。 ポー川の軍はベリサリウスが予測したようにウライアスがファエスラエの救援のために進軍してくるのを妨げるのに成功した。二つの軍勢には危険を冒して戦いを試む気がなく、新手の敵を眼下に収めるまで河畔に釘付けになった。フランク族はイタリアの災難を自らにとっての好機であると考えて帝国に対してと同様にゴート族に対しても欺瞞的であった。(伝わるところでは)テオデベルトが自ら一〇万人を率いてアルプスを略奪し、双方に少し前に同盟の誓いを立てたはずのゴート族並びに帝国軍を壊滅させるために下ってきた。プロコピウスは彼らの武装を描写している。王に付き添う少数の槍兵がおり、残りは剣、楯、そして斧を持った歩兵であった。楯を粉砕して敵を殺すために戦闘開始時に斧の雨が敵に降った。 ゴート族はテオデベルトは約束を守って助けに来てくれたのだと愚かにも想像し、彼の接近を聞くと喜んだ。ポー川に橋が架かり、ティキヌス川との合流地点であったティキヌムを守っていたゴート兵はフランク軍の渡河のためにあらゆる手助けをした。橋を占領するや侵略者は仮面を脱ぎ捨てた。彼らはゴート族の女子供を捕えてゴート兵を殺し、川に死体を投げ捨てた。プロコピウスはこの行いに迷信的な意味合いを見て取った。曰く「その蛮族たちはキリスト教信仰を受け入れたにもかかわらず古い信仰のほとんどを維持しており、未だ人身御供を行っている」。ポー川を渡るとフランク軍はデルトナへ向けて南進し、その近くではウライアスと彼の軍がローマ軍とそう遠くない地点に野営していた。ゴート軍は彼らの同盟者の歓迎に向かったが、斧の雨を浴びた。彼らは一目散に逃げ、驚いたローマ軍の野営地を荒々しく抜けてラヴェンナへの道を向かった。ローマ軍は、ベリサリウスが突如やってきてゴート軍の陣営を奇襲するに違いないと想像した。そして彼と合流するべく出発した彼らはフランク族の大軍と遭遇した。彼らは戦いに巻き込まれたが、易々と敗走させられてトスカナへと退却した。 勝者は放棄された二つの陣営を手にし、物資を補給した。食料は到底行きわたらず、荒廃した土地で彼らが見つけた日々の糧は雄牛とポー川の水だけだった。それは彼らが己の強欲のために重い代償を払ったことを知るのに十分であった。赤痢が広まって多くの者――伝えられるところでは軍の三分の一――が死んだ。生き残りは空腹と疫病で死ぬような荒れ地へと彼らを率いてきた王に憤慨した。そこでベリサリウスからテオデベルトに寝返りを求め、皇帝の怒りで脅し、そして自分に関わりのない問題に茶々を入れることで危険に飛び込む代わりに自国のことを気にするよう忠告する手紙が届いた。蛮族は不名誉にもアルプスを渡って撤退した。 このエピソードは戦争の帰趨にほとんど影響を及ぼさなかった。帝国軍の全ての努力はアウクシムムとファエスラエの封鎖に集中された。ゴート軍の華たる部隊はアウクシムムに陣取っており、最期までそこを守り通すと決めていた。物資が底を突き始めると守備隊長はラヴェンナに緊急の手紙を送ってウィティギスに救援のために軍を送ってくれるよう求めた。即座の救援が約束されたが、何もなされなかった。時間が過ぎて守備隊は飢餓で酷く追いつめられ、あまりにも慎重な監視が続いたために誰も町の外へとこっそり出ることができなかった。しかしゴート軍は城壁の近くの孤立した場所で深夜の警備を続けていたブルケンティウスという名の兵士をラヴェンナへと手紙を届けるよう買収した。ブルケンティウスは使命を果たしてウィティギスは再び威勢の良い言葉を送り返し、それは守備隊に向けて大声で読まれて彼らを元気付けた。助けが来なかったため、彼らは再び裏切り者をその任に使い、彼らはあと五日間で降伏に追い込まれるだろうと王に知らせた。 一方でベリサリウスは寛大な条件で降伏するよう繰り返し彼らを説得しており、彼らが飢えていることを知っていたために彼は彼らが応じるのを拒否していることに頭を悩ませていた。その目的のために茂みに隠れていた一人のスラヴ族の兵士が夜明けに草を集めるために市からこっそり出ていた一人のゴート兵を生け捕りにするのに成功した。捕虜はブルケンティウスの裏切りを吐き、ベリサリウスは彼らに彼を処理させるために彼を仲間たちのところまで送った。彼らは城壁の見えるところで彼を生きながら焼いた。 アウクシムムの主たる水源は大きな貯水池から来ており、それは城壁の外の岩がちな場所に建てられていたため、兵士たちは水瓶を水で満たすために市の外に出ていた。ベリサリウスは貯水池を破壊させるために数人のイサウリア兵を送ったが、石造部分が彼らの全ての骨折りを妨げた。そこで彼は動物の死体と有毒な草と一緒に生石灰を投じて泉を損なわせた。しかし市内にもう一つ小さい井戸があり、不運にも彼らの需要には足りなかったにもかかわらず、それによって忠実なゴート軍は降伏を遅らせることができた。 目的はファエスラエの飢えた防衛軍の投降によって達せられた。捕虜はアウクシムムへと送られて城壁の前を行進させられてその眺めで守備隊は決意を固め、ラヴェンナからの希望はもはやなく、ファエスラエの二の舞になるものと最終的に納得させられた。調整された条件は彼らは財産の半分を包囲軍内で分けるために明け渡し、皇帝側で働くというものであった。それらの条件を受け入れたために彼らを責めることはできない。彼らの王は基本的に彼らを運命のなすがままにしておいたのだ。彼はアウクシムムをラヴェンナの鍵としてみなすと称していたが、首都を無為に守っていたかなりの規模であった軍の一部をその解放のために送ることができなかったのは彼の臆病さの証であった。 |