一二月(五三八年)になった時のベリサリウスは困難な試みであることが証明されるだろうと見込まれていたアウクシムムの包囲を試みる時機を失したと結論した。彼はフィルムムにその地を〔ゴート軍の〕守備隊の報復から守るために多数の部隊を残し、自身は物資がすでに不足していたウルブス・ウェトゥス〔今日のオルヴィエート〕へと進軍した。その地は到底強襲によって落とせなかった。そこは天然の要害であり、くぼんだ土地に立つ孤立した丘に建てられ、人工的な防備は必要ないほどであった。この丘の頂上は平らで下までは急勾配で、一律な高さの崖に囲まれており、崖と丘の間には大きく渡り辛い川が流れており、プロコピウスによれば、崖から市に近づける一点を除いて丘を完全に囲んでいた。今日、オルヴィエートは川に囲まれてはいない。キアナ川と合流するパグリア川が丘の北と東に流れていているが、南と西にはそのような自然の堀がなかった。パグリア川は今日のような路線に変わったと考えられている。飢餓だけが勇敢な守備隊に対して使えた武器であり、ゴート軍は水で獣皮を柔らかくして食べる羽目になり、最終的にベリサリウスに投降した(五三九年春)。 一方で重要な出来事がポー川の向こう側で起こった。ゴート族がローマの包囲を解いたすぐ後にベリサリウスはミラノの大司教ダティウスとの約束を守るべくムンディラスの指揮の下でイサウリア兵とトラキア兵一〇〇〇人をリグリアに送った(五三八年四月)。彼らはポルトからゲノアへと海路で向かい、ポー川を渡るとミラノ、ベルガムム、コムム、ノウァリア、そしてティキヌム(パヴィア)を除いた内陸リグリアの全て要地の占領に成功した。この知らせを耳に入れるとウィティギスは甥のウライアスをミラノ回復のためい送り、彼は外国からの強力な支援を受けた。 クロートヴィヒ〔フランク王国の高祖クローヴィス一世〕の孫テオデベルトは五三三年に父テオデリクの跡を継いでアウストラシアの王となった。彼はメスの王城でライン両岸のアウストラシアの支配域に加えてアクイタニアの一部と叔父たちによって最近征服されたブルグンディアの一部を支配していた。彼がユスティニアヌスにおそらく戦争の初期段階に約束された三〇〇〇人の軍をイタリアに送り損ねたことの弁解を書いた手紙がある。彼の言葉使いでユスティニアヌスは「父」となっているため、皇帝は以前、戦争が起こる前にフランク族との共同作戦の保証を求めた時に彼を養子にしたと推測されよう。しかしテオデベルトは野心的であると同時に欺瞞的な人物であり、ユスティニアヌスとの子としての関係は二つの交戦国の間で無定見な方策の妨げにはならなかった。この危機に際して彼はゴート族への支援を決め、一〇〇〇〇人のブルグンド兵がウライアスと共同作戦を取るべくアルプスを越えた。その軍にフランク族はおらず、実際のところブルグンド族が彼の権限外で独立の民族として行動しているのであり、自分は皇帝との約定に背いてはいないと彼は詭弁を弄した。残りの軍が他のリグリアの要塞に分散していたためにムンディラスがたった三〇〇人の兵士と共に守っていたミラノをゴート軍とブルグンド軍は封鎖した。したがって戦うことができる一般住民が防衛のために駆り出された。 アリミヌム救出の後、ベリサリウスはマルティヌスとウリアリス指揮下で大規模な軍をミラノ救出のために送った。ポー川南岸に野営したその指揮官たちは市を包囲していた蛮族の大軍との対決を恐れた。ムンディラスは敵の監視をかいくぐって使者を籠城軍の逼迫した苦境を訴えるために派遣し、彼は迅速な救援の約束を携えて戻ったが、マルティヌスとウリアリスは何もしなかった。まず、皇帝の大義への背信と言ってもよいほどに遅延が長くなると、彼らはベリサリウスに手紙を書いて彼らの軍は敵に抗するには絶望的なまでに不足していると述べ、隣のアエミリア州にいたヨハネスとユスティヌスを援軍に送るよう求めた。ベリサリウスはそれに応じたが、ヨハネスとユスティヌスはナルセスの権限によらずに動くことを拒否した。ベリサリウスはナルセスに手紙を書き、ナルセスは必要な命令を下した。ヨハネスはポー川を渡るために船を集め始めたが、その準備が完了する前に病に臥せった。したがって遅延に遅延が重なった一方でミラノの不運な住民たちは飢餓に陥った。彼らは犬と鼠で飢えを凌ぎ、ゴート族の使者はムンディラスのもとを訪問して彼と全兵士の助命を条件にして降伏を求めた。彼らが住民を容赦するのに同意しようがしまいが彼にはその条件を受け入れる用意があった。しかし不忠実なリグリア人に憤慨していたゴート軍は血腥い報復を加える決意を隠さなかった。したがってムンディラスはこれを拒絶したが、間もなく強要されることになった。彼は兵士に敵に決死の反撃をするよう説いたが、包囲の苦しみを味わっていたために彼らはそのような儚い希望を抱く勇気を持てなかった。彼らは指揮官にゴート軍が提案してきた条件を呑むよう強いた。 ムンディラスと兵士たちは同意条件に則って名誉ある捕虜として遇された。ミラノとそこの住民は野蛮な大軍の最大の憤激を感じることになった。プロコピウスによれば三〇万人の成人男性が皆殺しにさされ、女性は全員ブルグンド人に奴隷として与えられた。市そのものは灰燼に帰した。そこは今のようにイタリアで最も富裕で人口の多い町であり、もしプロコピウスによる殺された男の数の見積もりが正鵠を射ているならば、今日と同じくらいの人口だったに違いない。 長きにわたって一連の意図的な残虐行為が人類史に記録されているが、ミラノでの大量殺戮はそのうち最も悪名高いものの一つである。歴史家たちはそれを幾分か軽く見逃してきた。しかしアッティラの戦争での活動歴にはゴート王の甥の命令でなされたこの復讐ほど残忍行為は見当たらない。それは東ゴート族の本質についての真実の基準を我々に与えたものであり、幾人かの人たちによってこれこそが帝国へのゲルマン人侵略者の最大の望みであったと主張されている。 イタリアの道長官ラパラトゥスは市内で発見された。彼は教皇ウィギリウスの兄弟であったが、このことは彼の助けにならなかった。彼は切り刻まれて犬に投げ与えられた。もう一人の兄弟ケルウェンティヌスはダルマティアまで逃げ、ユスティニアヌスにその災難を知らせるためにコンスタンティノープルまで行った(五三九年)。五月の終わりまでに起こったミラノの陥落はゴート軍によるリグリア全域の速やかな回復を導いた。その知らせはベリサリウスに重大な打撃としてもたらされたが、これは軍事権限分割の愚の反論の余地のない証明であり、皇帝その人はそのような印象を受ざるを得なかった。ベリサリウスは皇帝に状況の全てを説明して責任の所在を示す手紙を書いた。ユスティニアヌスは失敗に関わった人たちに罰を下さずナルセスをすぐに呼び戻し、曖昧さのない言葉でベリサリウスの最高権限を確認した。 |