6節 アリミヌムの包囲と解囲(538年)

 ローマ包囲戦の勃発後、戦いの舞台は北へ、フラミニア街道に沿うウンブリアとピケヌムの土地にある諸々の要塞およびポー川の向こう側の州へと移り、そこではベリサリウスがゴート族の首都の占領に成功するまで二年の間戦いが展開した。
 フラミニア街道はアペニン山脈を突き抜けてローマとラヴェンナを接続させており、ファヌム・フォルトゥナエ(ファーノ)でアドリア海に至り、沿岸沿いにアリミヌムへと繋がってラヴェンナへと続いていた。その地域での両交戦国の軍の一般的な立ち位置は把握しやすい。フラミニア街道の西の主な防備を施された丘陵の町々はペルシアを除いてゴート人の手に、東側はアウクシム(オージモ)を除いてローマ軍の手にあった。アリミヌムは我々の見たようにウィタリアヌスの甥ヨハネスによって二〇〇〇人のイサウリア兵で大胆にも占領されており、アンコーナは密かにコノンの手に落ちた。
 ベリサリウスには野戦において貴重極まりない二〇〇〇騎の優秀な騎兵をアリミヌムに陣取らせたままにしておくのは不味い過誤であるし、のみならずゴート軍による同地の包囲を誘発するのではないかと見て取った。したがって敵がローマを去るやすぐに彼はまず用心して一〇〇〇人の騎兵を率いるマルティヌスとイルディゲルを、アリミヌムを撤退して割きやすいアンコーナの守備隊から引き抜いた歩兵の小部隊をイサウリア騎兵と取り換えるようヨハネスに命じるために送った。ウィティギス軍の退路がナルニアとスポレティウムの砦を避けるためにフラミニアの本街道から分岐したため、アドリア海からおよそ二五マイルのペトラ・ペルトゥサ、「地下道を掘られた岩」つまりカレス(カーリ)とフォルム・センプロニウス(フォッソンブローネ)に着くまではマルティヌスとイルディゲルの進軍を遮るものはなくなった。この峠は今日ではフルロ峠として知られており、プロコピウスによって正確に記述されている。フラミニア街道は高い岩壁に達し、そこの右手には流れが速く渡ろうにも深すぎる川が走っており、左手には岩壁の一部になっている切り立った崖がそびえ立っており、その頂上に立てばまるで最も小さい鳥のように下を眺めることができる。その場所にある碑文が記録する限りではウェスパシアヌス帝がこの岩壁にトンネルを掘ったという。そこは天然の要害であり、守り易かった。今や進軍したローマ部隊はゴート軍の守備隊がそこに拠っていることを見て取り、どちらか目的地への扉を閉ざされた。女子供を伴っていたそのゴート軍は見たところアドリア海側のトンネルの外側の家に住んでいた。よく防備を施された峠への入り口に対して何の手立てもないと見て取ると、一部の兵が崖の頂上に送られ、岩の大きな塊をどけて下のゴート軍の小要塞にそれらを落とした。敵はすぐに投降し、マルティヌスとイルディゲルは少数の守備隊を後方に残してファヌムへの移動を続けた。そこから彼らは歩兵の分遣隊を拾ってアリミヌムのイサウリア兵と交換するためにアンコーナへと南進した。次いでファヌムへと後戻りした彼らは無事に目的地へと到着し、ベリサリウスの命令をヨハネスに届けた。しかしヨハネスは従うのを拒否して歩兵と共に残り、マルティヌスとイルディゲルは最高司令官に彼らの用向きを報告するためにそこを発った。
 ヨハネスの不従順はローマ軍の戦争遂行におけるその後の経過の足並みを乱すことになる。会議が開かれ、最高司令官はもはや計画の遂行にあたっては将軍たちを当てにすることができなくなった。ベリサリウスは緩慢で注意深ったが、もし彼が思い通りの方法を取れて部下の即座の服従を確保できていれば、戦争は短期で済んだことだろう。ヨハネスは有能だが時折自信過剰になる軍人だった。彼はベリサリウスの用心深い思案に我慢できず、自分の方が総司令官の地位に相応しいということに疑いを持たなかった。目下の状況は即座にベリサリウスが正しかったと示した。ウィティギスはアペニン山脈を越えるや否やアリミヌムの包囲に取り掛かった。攻撃にあたって彼はそこを兵糧攻めにし、籠城軍は間もなく極度の窮状に陥った(五三八年四月)。
 その間ベリサリウスはローマから北進し、まずもってアペニン山脈の西にあるゴート軍の諸々の砦を落とすという計画を入念に実行し始めた。それはおよそ年の真ん中であった。クルシウムとトゥベルは彼の接近を受けて降伏した。彼の次の計画はウルブス・ウェトゥスの奪取であったが、彼の計画の実行は皇帝の私有財産の管理官であった宦官ナルセスの指揮下でピケヌムに到着した東からの援軍の到着によって計算が狂った。新手の軍はもう一人のナルセスという名の人物とイリュリクム軍司令官ユスティヌス指揮下の五〇〇〇人のローマ兵及びヘルリ族の指導者に率いられた二〇〇〇人のヘルリ族の支援軍から成る七〇〇〇人であった。皇帝軍へのかくも重要な増援は状況を変え、ベリサリウスはまだ落としていなかったウルブス・ウェトゥスを去ってナルセスと相談して戦争の今後について取り決めるためにピケヌムへと進軍した。彼らはフィルムムで会って会議を開き、それによって重大な結果がもたらされた。緊急の議題はアリミヌムの解囲であり、アリミヌムは激しく圧迫されて飢餓によって降伏へと追い込まれつつあった。すぐに解囲のために軍を進めるべきであるか? ベリサリウスはこの方針に軍事的見地から反対した。アウクシムムが敵の手にある限りアリミヌムのゴート軍まで進軍すれば砦の守備隊からの背後からの攻撃に曝されてしまう。臨席の将軍の大部分はそれに賛成し、自身の軽率さと反抗のせいで苦境に陥っているヨハネスを助けるために危険を冒すべきではないとした。ヨハネスの個人的な友人であったナルセスはこの意見に反対した。彼はヨハネスの反抗は決定に影響を及ぼすべきではない副次的な問題であると指摘した。アリミヌム解囲の暁にヨハネスはベリサリウスの指揮権に公然と反抗したことへの罰を受けるはずである。しかし重要な都市と大部隊――そして言うまでもなく強い将軍――が敵の手に落ちるのを許すことはまったく不適当であり、彼は物質的な損害だけでなく道義的な結果も考えるべきであると主張した。
 会議が行われていた間、封鎖を躱してきたアリミヌムから来た兵士がヨハネスからの手紙を携えて陣営にやってきた。その中での主張は以下のようなものであった。「全ての物資が我々から絶たれて長くなります。敵に抵抗できなくなれば我々は住民の重圧を抑えることができなくなり、七日以内に我々自身と市を渋々ながら明け渡さざるを得なくなることでしょう。蓋し、我々が切に求めているものは不穏当と見えるであろう行動への適当な寛恕であります」この手紙は簡単に事実を知らせ、救助を求めてはいないものであったためにナルセスの主張によってもたらされたあらゆる結果を強化した。ベリサリウスは未だそれが賢明なことなのか否かにかなりの躊躇いを感じつつもアリミヌムを救うためにできることを何であれ行うことに決めた。
 現代のある批評家は彼の提案には確実性が不足しているために総司令官の躊躇は正当ではないと主張するが、ナルセスが勧めた方針が正しいのではないかという印象に抗するのは難しい。それには軍事的能力が必要であったが、ベリサリウスはその問題を胸に抱くと、それを意気揚々と解決した。アウクシムムからの危険を軽減するために彼は一〇〇〇人の兵士を沿岸に近いアウクシムムの西の地点に置いた。イルディゲル指揮下で大軍が海路でアリミヌムへと送られ、彼はマルティヌスに率いられた第二陣が市に通じる沿岸沿いの道を進んでくるまでは上陸しないよう指示された。到着すると、マルティヌスは敵に対して自軍の数を偽るために必要以上に多くかがり火を焚いた。ベリサリウスはナルセスに伴われつつ北西からアリミヌムへと下りるために内陸の山道を通って残りの軍を率いて向かった。計画の完全な成功のためには三つの軍の現場への到着時間は同時になる必要があった。アリミヌムから一日行程にある少数のゴート軍がベリサリウスの軍と遭遇し、彼らはローマの弓が彼らに混乱を引き起こすまで敵がの出現にほとんど気が付かなかった。彼らは一部が倒れ、他の者は傷を受けながらも岩の逃げ場まで這っていった。隠れ家からベリサリウスの軍旗を見ることができた彼らは実際の数よりもずっと数の多い軍だという印象を受けた。夜になると彼らはアリミヌムのウィティギスの野営地へ向けて道を進み、正午に到着すると雲霞のごとき大軍を率いたベリサリウスの接近を知らせた。ゴート軍は市の北側ですぐに戦闘隊形について丘を見渡すのに午後を費やした。夜が来て休むと、彼らは突然として南東にマルティヌスの部隊が焚いたかがり火があるのを見た。彼らは包囲される危険があると思って恐怖の真っ只中で夜を過ごした。朝が来て海を見ると、彼らは接近しつつある敵艦隊の大部隊を見た。恐れ混乱した彼らは陣を畳み、誰も逃げ場のラヴェンナに至ること以外何も考えなかった。市の守備隊が外に駈け出して恐慌状態で逃げる敵を殺していたならば戦争はその場で終わっていただろうとプロコピウスは考えた。しかしヨハネスの兵はその機を活かすには窮乏のためにあまりにも疲弊していた。
 夷狄の放棄された野営地に最初に到着したのはイルディゲルと海路で向かった部隊であった。ベリサリウスは正午に到着した。青い顔をして飢餓で痩せ細ったヨハネスに会うと、彼はイルディゲルに感謝すべきだと言うのを我慢することができなかった。ヨハネスは自分の感謝はイルディゲルにではなくナルセスへであると冷淡に答えた。




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