5節 ローマ包囲戦(537-538年)

 ローマ人はすぐにベリサリウスの意図は彼らの都市を保持して包囲の苦難に曝すことであると知って深く悔いた。彼の裁量にある小部隊で戦う、これが彼に開かれた唯一の賢明な道だった。将軍は市の北端のピンキウスの丘のドムス・ピンキアナに兵舎を置くとすぐにここの要塞化に直ちに着手して強化した。およそ一二マイルの円で市を囲むアウレリアヌスの大城壁は一〇〇年以上前のホノリウスの治世、そして最近だとテオデリックによって修理されていた。しかしベリサリウスは改善すべき多くの破損を見つけてはいくつか新たな防備を加えた。広い塹壕が外側に掘られた。城壁は元々建造されたように防衛によく適合するようなものにされた。特徴的な点はある地点から他の地点への兵士の通行を容易にする城壁の内側を走る有蓋の道であった。この弓なりの回廊部分はまだ残っている。ローマが一三〇〇年の年月に次々と経験した変化を考えれば、ベリサリウス軍が守った城壁は不思議なまでに残っている。
 同時にシチリアから送られてきた大量の穀物が市に供給された。しかしベリサリウスはローマが恐るべき軍勢の攻撃を受けるだろうとは予想していなかったようである。彼はフラミニア街道沿いの要地――ナルニ、スポレト、そしてペルージャ――及び重要性ではより劣ったいくつかの要塞を奪取するために北へと軍を放って守備隊を減らした。一方でウィティギスはダルマティアへとかなりの分遣隊を送った。サロナが陸海から包囲されたが、その陽動は失敗に終わってその州は帝国領であり続けた。ペルージャ回復の試みもまた失敗した。しかしゴート族の自信は彼らがローマにある軍の弱体さを知って市の軍事的占領への住民の不満の噂を聞くやいきり立った。王はローマ奪回に全戦力を投入することを決意し、幾人かの人たちからは一五万人を数えると考えられた戦士のほとんどが重装備で、鎧で守られた馬を持っていた軍を率いて南進した。その描写は真実を大きく上回っているに違いないが、ゴート軍の大軍は彼らに対抗する五〇〇〇人の軍勢を上回っていることは疑えない。ベリサリウスはヴァンダル族に対する彼の遠征で直面したのとは全く異なった困難な問題に直面していた。急いでトスカナに送っていたベサスとコンスタンティヌスという将軍を呼び戻し、小規模な守備隊を残していたペルージア、スポレト、そしてナルニを除く全ての土地を放棄するよう彼らに求めた。
 ウィティギスがこれらの三ケ所を取るのに時間はかからなかった。ナルニの占領は大事であった。それはまさに一〇〇年以上前にアラリックの軍が強いられたように、ゴート軍はフラミニア街道から東へと逸れることになり、彼らはフラミニア街道から進軍する代わりにサビニ地方を通ってサラリア街道からローマに接近することを強いられた。アニオ川を横切り、市まで数マイルのポンテ・サラリオに到着したウィティギスは、ベリサリウスがさらなる物資を手に入れる時間を得る目的で橋に建設した要塞に手間取った。
 しかしその砦の守備隊は彼を失望させた。ゴート軍の到着で彼らは夜までに陣を引き払い、敵は橋を確保した。翌日に部下の臆病な行為のことを知らない将軍は一〇〇〇騎の騎兵と共に橋へと向かい、ゴート軍がそこを渡っていたのを見つけた。騎兵戦が起こり、戦いの興奮で我を忘れたベリサリウスは軽率にも我が身を晒した。脱走兵たちは彼の白い頭の薄灰色の馬を知っており、ゴート兵に彼を狙うよう説いた。しかし彼は無傷で逃げおおせた。双方で大きな犠牲が出て、ローマの小部隊は最終的に敗走を強いられた。彼らが夕暮れにサラリア門に着くと、歩哨は戦いで土埃まみれになっていた将軍に気が付かず、彼は殺されたと逃亡兵からすでに聞いていたために開けるのを拒んだ。ベリサリウスは反転して追撃者を攻撃し、彼らは新手の軍が門から出撃してきたと思って退却した。次いで彼は成功裡に入城し、その夜を使って市の防衛準備を行った。それぞれの門は異なった指揮官の責任に委ねられた。夜が明ける前にある事件が起こった。ウィティギスはサラリア門の側で演説をするために一人の将官を送り出した。名をワキスといったこの男はゴート族への裏切りと、彼の言うところでは、巧い俳優や物を難破した水夫を除いて誰もイタリアを訪れなかったギリシア人による保護を選択したことでローマ人を非難した。彼の怒りの奔流に誰も応答せず、彼は引き下がった。
 翌日に開始された包囲戦は一年と九日間続き、それは両交戦者の予想を遙かに上回る長さであった。ゴート族は市の円周の全てを包囲しようとはしなかった。彼らは七つの野営地を作り、そのうち一つは川のある東側、後にカンプス・ネロニスとして知られるヴァチカン地域に置いた。他の七つはテベレ川の東、市の北と東側だった。その一つはウィティギス自らが指揮した。したがってポルタ・マッジョーレからポルタ・サン・パオロと川まではがら空きだった。アウレリアヌスの城壁の全周はトランステベレ地区を含めて一三マイル以下であり、もしウィティギスが彼がローマに対して率いていったと考えられるような大軍を要していたならば、彼は城壁の一フィート毎に一人の兵士を配し、予備のための一〇〇〇〇人以上の軍を有していたことになる。彼は市を完全に封鎖するにはあまりにも少ない兵力しか持っておらず、それを選ぶことができなかったのである。
 ゴート軍の最初の行動はカンパーニャを横切ってローマにラティウムの丘陵から水を供給していた多くの水道を切断することであった。その素晴らしい作品の破壊は幾分かの不便をもたらしたものの、包囲戦の運命にはほとんど影響を及ぼさなかった。しかしローマに未来にわたる影響を及ぼした。紀元前三世紀以来その都市は純水を例外的に供給された都市であり、新しい建物が住民の増加する要望に応じて絶えず建てられていた。ゴート族によってもたらされた破壊行為から一〇〇〇年の間、ローマ人は以前の共和制のようにテベレ川と井戸から再び水を汲む羽目になった。彼らの文明の目を引く特徴だった由緒ある贅沢な入浴の習慣は終焉した。水道は戦争が終われば簡単に再建できただろうし、もしローマが再び帝国領となればそうなっていたであろうことは疑いなかったが、人々の快適さと衛生は古代の浴場を救いようのない異教の生活の一部として見ていた中世の教皇たちの関心外であった。カンパーニャを渡った長い柱廊は荒廃に委ねられた。
 水道の切断はすぐに困難をもたらした。ローマ人にパンを供給した製粉機〔の水車〕を回す水がなくなった。ベリサリウスの創意工夫の才に満ちた頭脳は一つの方便を編み出した。テベレ川の流れがかなりの勢いになるアーチのある橋の近くに、彼は陸から陸へと縄を二艘の小舟に付けて張り、その縄を二フィートの間隔で分けた。二つの製粉所がそれぞれの小舟に置かれ、小舟の間に水車を釣り下げると水流によって簡単に回るようになった。小舟の線ができると、川に連なった製粉所が必要とされた全ての穀物を支えた。この非凡な工夫に面食らい、水中に木材や死体を投げ込むことで装置を駄目にしようという敵の試みはベリサリウスによって挫折させられた。彼は鉄鎖を川に張って彼の小舟や水車に害を及ぼす全ての危険な障害物に対する突破することのできない障壁とした。
 ローマ人は包囲の初日に彼らに降り懸かり、増大していくであろう困難に苛立った。ウィティギスは逃亡兵から彼らの不満を知ると、好意的な提案がなされるならばベリサリウスは世論の影響の下にローマ防衛の計画を放棄する羽目になるだろうと考えた。彼は使節団を送り、ベリサリウスは彼らを麾下の将軍と元老院議員らと共に迎えた。ゴート軍の代表者は包囲戦がローマ人にもたらす悲惨さを誇張して語り、帝国軍に市を全ての財産を携えて無事に退去する許可を申し出た。ベリサリウスの答えは取り付く島もない拒絶であった。「私は貴殿らにこう言っておう」彼は言った。「貴殿らが茨の藪の下に首を隠せれば御の字だと思ってもそうできなくなる時が来るはずだ。ローマは昔通り我々のものである。貴殿らにその権利はない。ベリサリウスの目が黒いうちはローマを引き渡すなどということはあり得ない」
 攻撃によってその都市を落とそうという壮挙がすぐに実行に移された。城壁は方々から攻められたが、包囲軍はいたるところで撃退された。テベレ川の西のアウレリアヌス門の近くでの戦いがとりわけ激しく、ゴート軍はハドリアヌスの四角形の大きな廟を攻撃し、激しく圧迫された籠城軍は像を敵に向かって投げつけた。
 完全な自信を大っぴらに示したにもかかわらず、ベリサリウスは彼の状況の危険性と困難をよく分かっており、新たな兵士がすぐに救援に来ない限り勝利することはほとんどできないと知っていた。彼はユスティニアヌスに作戦を報告して最も強い言葉で援軍の必要性を解く手紙を書いた。「これまでのところ」彼は書いた。「万事好調であり、我々の成功は勇気と運命のいずれかのためでありますが、この成功を続けるためには、陛下は私にすべきことを明言する必要があります。神は自らが望むように全ての事を命じたものでありますが、やはり人間は成功なり失敗に応じて賞賛されたり責められたりするものです。今後我々が対等の条件で戦争を行えるだけの軍と兵士を我々に送ってください。陛下、今蛮族たちが我々を打倒すれば、我々は陛下のイタリアの支配権のみならず軍もまた失うことになり、これに加えて我々は失敗の大変な不名誉、言うまでもなく自らの安全のために陛下の王権に忠実さを選び取ったローマ人に破滅をもたらす恥辱を蒙ってしまうということを納得してください。大軍勢がなければそう長くローマを維持することはできないと理解してください。海路はその限りではありませんが、平地から囲まれて物資が寸断されております。ローマ人は今は友好的ではありますが、この苦境が長引けば、飢餓の締め付けは彼らをして彼らの意に反する多くのことをさせることでしょう。私自身は陛下に自分の命を捧げているものと存じておりますが、この地で生を全うすることはできないでしょう。しかしベリサリウスの命を絶つことが陛下の名声にどのような影響を及ぼすかお考えください」
 皇帝は一二月にウァレリアヌスとマルティヌスが指揮する援軍を派遣していたが、彼らは冬の月をギリシアで過ごしていて、未だ到着していなかった。将軍の逼迫した求めを受けてユスティニアヌスは彼らに遅延せずに向かうよう命じ、新たな軍を起こす準備をした。一方でゴート軍の攻撃の翌日、ベリサリウスは女子供および軍務に耐えられない奴隷を市街に送り出した。その一部はテベレ川を小舟で下り、他の者はアッピア街道から出発した。敵は彼らの出発を妨げようとはしなかった。仕事がほとんどなくなっていた職人と商人は守備隊に編入されて正規兵と混ぜられ、彼らの仕事には安い賃金が支払われた。
 おそらく攻撃の失敗に激怒したウィティギスは人質としてラヴェンナに留め置いていた元老院議員たちを逃げおおせた少数を除いて殺した。それは滅多になされないような蛮行の一つであり、残忍であるのと同じくらい不毛なことであった。同時に彼はテベレ川河口のポルトゥスを占領した。ポルトゥスは何世紀もの間ローマの港であり、ローマは素晴らしい道と川の右岸沿いの船曳き道でポルトゥスと繋がっており、そのために物資を積んだ重いはしけを櫂や帆の助けを得ることなく、雄牛を使って曳くことになってためにこれは籠城側にとっては深刻な打撃となった。ポルトゥスの対岸にあったより古いオスティア港はローマ軍の手にとどまっていたが、そちらには船曳き道はなかったために川での輸送は風に依存していた。さらにゴート軍がポルトゥスに一〇〇〇人の守備隊を置くと、船はオスティアに碇を下すことができず、一日行程のアンティウムに投錨せざるを得なくなった。ベリサリウスの秘書官は少数の兵士で保持できるほど強力な場所であったポルトゥスを確保するために三〇〇人の兵士すら割くことができなかったことを失念している。
 およそ三週間後にマルティヌスとウァレリアヌスがそのほとんどがフン族とスラブ人であった一六〇〇騎の騎兵部隊を伴って到着し、彼らはゴート軍を避けてローマに入城するのに成功した。彼らの到着の後に一連の成功を受けて出撃がなされ、ベリサリウスはよく訓練された弓騎兵で優位に立った。もし彼が危険の少ない小規模な出撃の連続という戦法を取ることができていれば、これによって敵をすり減らし続けていたことだろう。しかし軍は彼らの成功によって自信を得て夷狄に対する有利を確信して会戦を叫び、司令官は彼らのしつこい要求に辟易してしぶしぶ折れた。全面的な戦いが市の北側、川の両側で戦われ、ローマ軍は数に押されて潰走し、城壁の中へと逃げ込んだ。
 六月の終わりにさしかかると籠城側は飢餓と疫病の危険を感じ始めた。兵士を養うために必要な穀物だけはあり、ゴート軍はこれまでは封鎖をあからさまに怠けて行っていたが、アッピア街道とラティナ街道を支配する二つの水道の結節点に砦を建設することで封鎖を厳しくした。市民はベリサリウスに戦いの危険を冒すよう求めた。彼はそれを拒否したが、援軍の大部隊と物資がすぐに到着することを約束した。解放が近いという期待はその噂にしか基づいておらず、彼は秘書官のプロコピウスを報告が真実であるかどうかを明らかにして物資輸送船を集め、そしてカンパニアの町々の守備隊から割くことができる全ての部隊をローマへと送らせるためにカンパニアへと送った。プロコピウスは夜に南側のサン・パオロ門からローマを発ち、ゴート軍を避けつつナポリに到着して命令を遂行した。少し後にベリサリウスはアントニナを安全なナポリに送り出し、彼女はなかなかの組織化の才能を活かしてローマに来援を送るという仕事を助けたことだろう。彼女はプロコピウスがすでに五〇〇人の兵士を集めて穀物を多くの船に積んでいたのを知った。しかし増援部隊は心配しながら待機していたため、途上にありながらもまだ来ていなかった。彼らは一一月に到着したようである。三〇〇〇人のイサウリア兵がナポリに、一八〇〇騎の騎兵がオトラントに上陸した。彼らの指揮官たちのうち最も優れていたのはウィタリアヌスの甥ヨハネスであり、彼はベリサリウス麾下の人物の中で勇敢で最も有能な部下の一人だった。
 その一方でウィティギス軍はローマ軍と同じように飢餓と疫病に苦しんでいた。新手の軍がローマの救援に向かいつつあるという落胆するような便りが来ると、漸進的に数は減っていった。三〇〇〇人のイサウリア兵がオスティアへと海路で送られ、ウィタリアヌスの甥ヨハネスは一八〇〇騎の騎兵とプロコピウスによって集められた五〇〇人を率いてアッピア街道を通って進撃し、食料を積んだ輜重隊がそれに続いた。こぞって彼らを取り押さえようとしたゴート軍を妨害するためにベリサリウスはフラミニア門近くの陣地へと強力な出撃を行った。それは完全に成功し、ゴート軍は完全に潰走した。これが包囲の転換点だった。ウィティギスはローマを落とすのを絶望視してベリサリウスに使節を送り、その団長は高位であるが名前の分かっていないイタリア人であった。
 将軍とゴート軍の代弁者の会話がプロコピウスによって記録されており、我々は彼がローマに戻ってこの会見に居合わせたと思って差し支えないし、これは少なくとも部分的には対話の要旨を述べていることだろう。
使節「我々も閣下も戦争は双方にとって良からぬように進展していることを知っております。救援の見通しもなく犠牲が出るのを長引かせるのは馬鹿げたことですし、我々の兵の名声よりも彼らの安全を顧慮し、彼ら自身とその敵の双方にとって適当な解決を探すことを考えることは両国の指導者のためになりましょう。それゆえ我々はある提案をする所存です。しかしながら我々はもし我々が何か道理に合わないことを言えば、閣下がすぐに遮ってくださることをお願い申しあげます」
ベリサリウス「会見が会話の形を取ることについて私に異論はない。だが私は貴殿らの提案が公正で平和的であることを望んでいる」
使節「我々のところにやってきては武力をもって貴殿らローマ人は貴殿らの友人と同盟者に対して不正を働いたのです。ゴート族はイタリアをローマ人から力づくで奪ったのではありませんし、オドアケルが皇帝を倒して僭主制を敷いていたことを思いだしていただきたい。そこでゼノ様はその土地を開放しようと望んではいたものの、オドアケルを屈服させることができなかったためにコンスタンティノープルを脅かしていたテオデリック王にオドアケルをアウグストゥルス様に働いた悪事のために罰し、今後のイタリア統治を行わせようとなさったのです。かくして我々ゴート族はイタリアに居を定めたのであり、我々は帝国の法と政体を過去の皇帝たちの法と政体を同じ様に誠実に遵守してきました。テオデリック様もその後継者たちも一つの法律も制定しませんでした。我々はローマ人の信教には真摯な尊重を示してきました。どのイタリア人も力づくでアリウス主義に改宗されられることすらありませんでしたし、どのゴート族も古い信仰に立ち返らせられることもありませんでした。ローマ人は東の皇帝によって毎年指名される執政官を有してきました。しかし貴殿らは一〇年の間オドアケルの蛮族にイタリアを虐げることを許しておきながら、今になってそこを法的に所有している者から奪おうとしようとしているのです。それゆえに貴殿らの財産と奪い取った略奪品を持って立ち去っていただきたい」
ベリサリウス「貴殿の話は長々とした陰険なものだな。テオデリックはゼノ様によってオドアケルに向けて送られたが、それは彼がイタリアの主となるという条件でではない。何故に皇帝が一人の僭主をもう一人の僭主に取り替えたというのだ? イタリアを皇帝権力の下に戻すことが目的だったのだ。テオデリックはオドアケルとの付き合いは良かったようだが、真の主君に土地を帰すことを拒むという悪事を働いたのだ。私は皇帝陛下の領土を他の誰にも渡すつもりはない」
使節「列席者の全員が我々の言ったことが真実であることを完璧に知っておりますが、我々は論を戦わせるために来たのでありません。我々は貴殿らにとってアフリカ防衛のために非常に重要な豊かなシチリア島は喜んで引き渡す所存です」
ベリサリウス「感謝する。我々としては古来より我々に属し、シチリアよりも大きいブリテン島の全域を譲る用意がある。我々は等価の物を譲ることなくそれほどの好意を受け取ることはできないからな」
使節「それではカンパニアとネアポリスを加えると言えば貴殿は何と仰りますか?」
ベリサリウス「私には皇帝陛下の財産を処分する権限はない」
使節「我々は皇帝に年貢を毎年支払うつもりです」
ベリサリウス「私は法的に正しい主に土地を保持させる権限しか持っていない」
使節「そうならば我々は皇帝陛下に必ずや大使を送って交渉するでしょう。このために我々は閣下に一定期間の休戦協定を締結することをお願いするものであります」
ベリサリウス「そうしようではないか。私は平和的解決のための方途を妨げたなどとは金輪際言われたくはないからな」
 この対話の後半部分は本物の報告であると思われる。ゴート族のイタリア側の代表者がイタリアの法的身分と東ゴート政府の正当性について問いを挟んだということは証明できないだろう。もしそうだとすれば、彼の立論とベリサリウスの応答の両方が歴史的事実を誤った形で述べているということが見て取れるということは興味深い。ゴート側は、オドアケルの攻撃によってゼノの見守る中でロムルス・アウグストゥルスは退位させられた一方ゼノはアウグストゥルスを僭称者として見なしており、彼が当初はオドアケルの承認を拒んだことはユリウス・ネポスの権利の無視であったと述べた。しかしゼノはやがてオドアケルを承認し、かくしてオドアケルは少なくとも彼の在位の後半の年月の間はテオデリック自身がそうであったようにほとんど「僭主」とはいえなかった。ベリサリウスはさらに酷く事実を歪曲した。彼はテオデリックとアナスタシウス帝との間で批准された明確な協定を完全に黙殺した。彼の立論では東ゴート族支配の正当性はそのままであり、その存在はベリサリウスの立論の誤りを示している。プロコピウスその人がゴート族が法的に正当だったと考えていたということは行間からはとても読みとれない。
 ベリサリウスが使節を謁見していた間に援軍がオスティアに到着した。同じ夜に彼は港へと下って川を上って物資を運び、兵をローマへと遅延なく進ませる手はずを整えた。敵はこの作戦の邪魔をしないだろうという彼の自信は実際の出来事によって正当化された。三ヶ月期限の休戦協定の調印が完了した。人質が交換され、もしイタリアで停戦が破られれば、使節団はコンスタンティノープルから無傷で帰還することを許されるべしという保証さえ与えられた。
 ローマは食料を再供給されたが、野営地と砦のゴート軍の食糧事情は逼迫していた。ベリサリウスの秘書官はこの欠乏の原因はイタリアが依存していた搬入品の受け取りを妨げた帝国の海軍であったと述べている。食料不足によってウィティギスはポルトゥス、ケントゥムケラエ(チヴィタ・ヴェッキア)、アルブム、そして帝国軍が迅速に占領していた場所から守備隊を引かせることを決めた。ゴート側はこの行動を休戦条約への違反であると主張したが、ベリサリウスは彼らを嘲笑った。彼は確実に休戦の意味を自由に解釈を行っていた。彼は二〇〇〇人を指揮させたヨハネスをピケヌムの境界で冬の残りを過ごさせるために送り出し、敵が休戦を破る場合にはピケヌム地方を急襲して略奪し、ゴート人の妻子を奴隷にせよという指示を与えた。
 およそこの時にベリサリウスの注意は北イタリアの情勢へと向けられており、そこでは住民が活発な興味を持って戦いを眺めていた。高位のミラノ市民たちは大司教のダティウスと共にローマ側に接近しだし、ミラノの奪取だけでなくリグリア地方全域を反乱に持ち込むことも容易だと保証し、彼に北へと小部隊を送ってくれるよう懇願した。ベリサリウスはその計画に同意したが、休戦期間には動かず、ミラノの使節団は冬の間ローマに留まった。
 このすぐ後に悲劇的な事件が起こっており、我々がベリサリウスの秘書官を信じるならば、それは将軍の家庭内の不祥事と関係したものだった。ウィティギスがローマへの進軍の準備をしていた時、ラヴェンナの著名な市民プラエシディウスが皇帝党に身を投じるためにスポレティウムまで少数の家来を連れてやってきた。彼が持っていた唯一の貴重品は金と宝石で豪華に飾られた鞘がついた二振りの短剣であった。彼はスポレティウムのそばにある教会で停止したところをコンスタンティヌスに取り押さえられた。この将軍は貴重な短剣のことを聞いて教会に部下の一人を送ってプラエシディウスから彼の宝物を取り上げた。プラエシディウスはベリサリウスに訴えるべくローマに行ったが、緊急事態と包囲の危機のために彼の個人的な不満には耳を貸してもらえなかった。休戦が締結されてすぐに彼は抗議をして補償を求めた。ベリサリウスはコンスタンティヌスに武器を返すよう求めたが、無駄だった。そしてある日、ベリサリウスが広場へと馬で進んでいた時、プラエシディウスが彼の馬勒を掴み、敵の陣営からやってきた嘆願者が財産を奪われることが帝国の法で許されるのかと大声で訴えた。ベリサリウスは短剣を返還することを約束するよう強いられ、他の将軍たちが臨席する自室にコンスタンティヌスを召還し、短剣を手放すべきだと言った。コンスタンティヌスは自分はテベレ川にこれらを投げる方がましだと答えた。ベリサリウスは護衛を呼んだ。「彼らは私を殺すのでしょうね」とコンスタンティヌスは言った。「確実に違う」ベリサリウスは言った。「だから短刀をお前の鎧持ちに返せ」しかしコンスタンティヌスは自らが死ぬことになるだろうと信じ、短刀を振り上げてベリサリウスの腹を突き刺そうとした。それが起こるやベリサリウスはベサスを掴んで彼の後ろに隠れ、一方ウァレリアヌスとイルディゲルはコンスタンティヌスを引っ張った。次いで守備兵がやってきてコンスタンティヌスから武器を取り上げ、退去させた。しばらくして彼は処刑された。
 彼の処刑はベリサリウスが行った唯一の不敬虔な行いであると同時に公正さと寛大さに優れていた彼の性格から発した行いであるとしてプロコピウスによって激しく糾弾された。上官の命を狙ったその将官の場合にその重罰が決して不当に厳しいものだと考えられていないためにこの意見は注目に値する。しかし『秘史』でプロコピウスは話を補足してその行為への彼の非難を説明している。もし我々がそこで彼が述べていることを信じるならば、コンスタンティヌスはアントニナの憎悪の犠牲になった。その中傷的な逸話はベリサリウスがシチリアで妻のテオドシウスと恥ずべき姦通に気が付いた時、コンスタンティヌスは傷心の夫への同情を示し、「これが私の場合だったら女ではなく若い男を殺しただろうに」と公言した。その言葉はアントニナに報告され、彼女は復讐の時を待った。プラエシディウスの事件が彼女にコンスタンティヌスを攻撃的な言葉のために亡き者にする好機をもたらした。彼女の説得でベリサリウスは処刑を命じ、プロコピウスによれば皇帝は有能な将軍の死でいたく気分を害したという。
 この事件の後すぐにゴート人の幾度にも及ぶローマへの密かな侵入の試みによって休戦は明らかに崩れた。彼らはピンキアナ門に近いウィルゴ水道として知られていた水路を通って入ろうと計画したが、彼らの地下道探索は彼らの松明の明かりによって明るみに出た。もう一つの計画は買収された二人のローマ兵の助けを得て市の北西部の城壁の下部の守りを麻痺させるというものであった。しかし彼らの一人がベリサリウスに知らせて陰謀は不発に終わった。もう一つの機会にゴート軍はおおっぴらに攻撃をかけて撃退されていた。それらの行動への報復としてベリサリウスはヨハネスにピケヌム州へと下るよう命じた。この不測の事態に対してゴート人は幾分か備えていた。ヨハネスは王のおじウリテウス指揮下の軍と対決したが、ローマ軍が勝利してウリテウスは殺された。この戦いはピケヌム州南部のどこかで戦われたに違いないが、それというのもヨハネスは次いでアウクシムム(オージモ)へと進撃したからだ。そこは天然の要害であることを見て取ると、彼はそこを奪取しようとは試みずに北ピケヌムへと進撃してウルビヌムへと到着した。彼はウルビヌムはアウクシムムのようにそう簡単には占領できないと判断してアリミヌムへと向かった。自分の近くに敵が拠る二つの要塞を残したヨハネスは最高司令官の明白な禁止命令に背いた。しかし彼の不服従は有用な結果を生んだ。彼はラヴェンナからは一日行程しかなかったアリミヌムの奪取はゴート族の首都の安全を危惧したウィティギスをしてローマ包囲を解かしめるはずだと賢明にも予想していた。アリミヌムは抵抗を示さず、守備隊はラヴェンナへと逃げた。ヨハネスは最近ゴート女王から手紙を受け取っていた。マスタンタは彼女の意志に反して一緒になった夫を嫌っており、今やラヴェンナを裏切り、彼女とは全く面識がないヨハネスに結婚しようと衝動的に提案した。
 アリミヌム陥落の知らせがローマに着くと、ゴート軍はすぐに野営地の柵を焼き払って出発の準備をした。ベリサリウスは彼らをタダでは返さなかった。彼は敵の半ばがミルウィウス橋渡るまで待ち、それから全軍で攻撃をかけた。彼らの損害は相当なものになった。戦死者に加えて多くの兵がテベレ川で溺死した。したがって一年と九日続いたローマ包囲戦は五三八年の五月の中頃に終わった。これはウィティギスにの無能さを証明する機会を、ベリサリウスに有能さを示す機会を与えることになった。

 兵力が少数であったためにベリサリウスは一貫してゴート軍の抵抗に勝利することができるだろうと楽天的だったようだ。それは包囲戦の戦争だったし、そうであるべきであった。もし敵が野戦で彼と戦えば、援軍の到着後に彼は決定的な勝利を得て、イタリアの征服はアフリカの征服のようにほとんど速やかになされたことだろう。彼は彼我の兵力差を知った上でどれほど自信を持っていられるのかをローマ包囲の間に問われることになった。戦術の優越に訴えるというのが彼の答えだった。「我々が最初にゴート軍と遭って以来」と、彼は言った。「いくらかの小競り合いで私は数的劣勢を埋め合わせる際に私の戦術を適用させるために我々の戦術様式の相違点を研究した。私は、我々のローマ兵とフン族同盟軍が優秀な弓騎兵である一方でゴート兵はこの兵種に全体的に不慣れであったということが主たる相違点のほとんど全てであることを見て取った。彼らの騎兵の習わしは槍と剣のみを使うことであった一方で彼らの弓兵は馬に乗らずに重装騎兵の援護の下で戦いへと向かう。そのようなわけだから、白兵戦を除けば彼らの騎兵は敵の投擲兵器から身を守る手段を持たずに簡単に切り伏せられ、彼らの歩兵は騎馬隊に対しては無力である」。しかし、ローマを攻めたウィティギスのゴート軍が歴史家が主張しているほどに強大であったならば、どんな戦術も勇敢で規律だっていたゴート軍に対して成功をおさめることはできなかっただろう。




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