4節 ナポリの包囲とウィティギスの即位(536年)

 ベリサリウスが軍のイタリアへの輸送の準備をしていた時、ソロモンが対処できなくなった軍の反乱の鎮圧のためにアフリカに呼び出された(五月の終わり)。彼の帰還に際してシラクサとパノルムスに守備隊を残すと彼は海峡を渡ってレギウムに上陸した。海峡の防衛は王の義理の息子エウェルムドの手にあった。彼の軍はおそらく何の意味も持たなかった。彼はベリサリウスのところに脱走してコンスタンティノープルに送られ、パトリキウスの爵位で酬いられた。将軍は艦隊を伴いながらその途上で敵と遭うことなく沿岸沿いにナポリへの道を進んだ。
 彼はナポリの前に野営して市民の代表団を迎え、彼らは降伏を押し付けないでくれと懇願した。彼らはナポリは重要な土地ではなく、素通りしてローマに行ってくれと言った。将軍は、自分は彼らに助言を求めているのではないと述べてゴート守備隊に無事に出ていくことを許すと約束し、代表団の団長ステファヌスに市民を降伏するよう説き伏せれば多額の褒賞を与えると個人的に約束した。会議が開かれ、ゴート族支配に忠実だったパストルとアスクレピオドトゥスという二人の影響力のある弁論家が市民に受け入れられそうもない要求をするよう焚き付けた。しかしベリサリウスは全てを受け入れた。次いでパストルと彼の公的な弁論における仲間たちは、将軍は彼らの安全を保障するような状況にはなく、市は落とされぬほと強固であると主張した。テオデリックの政策を支持しており、深くゴート族支配に関わっていたユダヤ人にこの意見は支持され、その日に実行された。
 ベリサリウスはこの地の包囲を決定したが、それは彼が予想した以上に困難な作戦であることが証明された。彼は水路を切ったが、町には良い井戸がいくつもあったためにあまり不便にはならなかった。包囲軍が攻撃の実行で有利になることはなかった。ナポリの旧市街は現代の都市の小さな部分だけが城壁で囲まれていた。それは一〇〇〇ヤードと八〇〇ヤードの長方形の地区と一致し、聖ロレンツォ教会がその中心付近にある。しかしこの土地は今の水準よりも確実に高いに違いなく、これは籠城軍にとって有利になった。数週間を無駄に過ごして兵士にも深刻な損害を被ったため、ベリサリウスはローマへ進軍してテオダハドに合うのを待ちきれなくなって包囲を諦めることを決意した。しかし彼の味方となった際立った幸運が再び彼に舞い降りてきた。彼は軍に出発の準備を命じ、この時に好奇心があった一人のイサウリア兵が壊れた水道橋にその構造を調べるために上がると、城壁の近くの水道が堅い岩を貫通していて、まだ空いていた隙間は鎧を付けた男一人が通れる程度の狭さであったが、これは拡張できるのを見て取った。ベリサリウスは迅速に行動した。なるべく音を出さないようにしつつ兵に入り口の拡張工事をさせた。しかしこれを市に突入に使う前に将軍はナポリ人に流血と略奪の恐怖を避ける今一度の機会を与えた。彼はステファノスを野営地に呼び寄せ、彼に今や市が自分によって落とされるのを避けることはできないと断言し、降伏してその身に降りかからんとしている不幸を避けるように同胞市民を説得するよう請願した。ステファノスは涙ながらに戻ったが、人々は耳を貸さなかった。彼らはベリサリウスの呼びかけはただの策略だと確信していた。
 六〇〇人が夜中に水道を通って侵入して北側の城壁の見張りを殺し、攻城梯子の下に待機していたローマ兵が胸壁に登れるようにした。 ベリサリウスが予想した通りおぞましい事件が起こり、とりわけフン族の殺戮と略奪の様は群を抜いていた。最終的に将軍は兵士を集めて虐殺を鎮めることに成功した。剣は鞘に収められて捕虜は解放された。捕えられた八〇〇人のゴート兵は良く扱われた。ナポリ人は彼らが被った全ての責任があった二人のデマゴーグに憤慨した。彼らはアスクレピオドォスを殺し、市が落ちたことを知った時に起こった脳卒中のためにすでに死んでいたパストルを見つけた。
 ナポリの人々はテオダハド王が市を解放するために軍を送ってくれると信頼しきっていた。彼は恐怖のあまり体が麻痺し、王国あるいはその一部の防衛にも何の対策も講じなかった。彼の無能に愛想を尽かしたローマとカンパニア州のゴート人はナポリ陥落の後、彼を廃位して軍事経験がある指導者を選出することを決めた。彼らはポンティノ湿原のレガタに会し、アマル王家には然るべき成員がいなかったため、ゲピド人に対する遠征で幾らかの名声を得ていた並みの生まれの男であるウィティギスを選び出した。彼は王として迎えられ(五三六年一一月)、カシオドルスはテオデリックとアマラスンタ、そしてテオダハドに仕えたようにその公平なペンで彼に仕えるつもりであり、その人はテオダハドのように「王の寝室の照明の下で」選出されたのではなく「広大なカンパニアの広がりの下で第一に神の恩恵のために、第二に人々の自由な判断のために、友情のために彼の軍内で勇者たちと知り合っていた彼は戦いの時には肩を寄せ合って立ったために」選出されたのだと全てのゴート族に向けて発表した。それらの出来事はゴート族の選択の無分別さを証明した。ウィティギスは責任感の強い戦士であり、有能な指揮官の下で一部隊を統率する場合には有用な指揮官であったが、手強い侵略者に対して国を率いるべく呼び出された人に必要とされるより高度な資質を何も持っていなかった。
 これまでローマに住んでいたテオダハドは自制心を失ってラヴェンナに逃げた。ウィティギスは彼を殺すべきだと結論し、オプタリスなる人を彼を生け捕りにするか殺すかするために送った。オプタリスが選出されたのはテオダハドに個人的な恨みを持っていたためだった。昼夜を問わず休みなく進んだ彼は逃亡者を見つけて地面に投げつけ、生贄の犠牲のように殺した。
 新王はすぐにローマへと向かい、会議を開いた。万事が今立てられる遠征計画にかかっていた。ゴート族は南からのベリサリウスの切迫した進撃と北でのフランク族の敵対的な態度という二つの危機に脅かされていた。ゴート族の主力部隊は北の国境地帯、プロヴァンスとヴェネツィアに配置された。さしあたりフランク族に対処し、次いで王国の全軍を挙げてベリサリウスと戦うことをウィティギスは提案し、その提案は受け入れられた。最も危険な敵との遭遇を遅らせるこの計画は浅はかなものであると言えるということは間違いない。ゴート族に最も勝算があるのは北方から来る主力部隊を急行させて帝国軍がローマに着く前にこれと戦うか、あるいはローマを頑強に保持してベリサリウスに長く困難な攻囲を強いることであった。そうしながらフランク族と交渉する使節を送ることができるだろう。ウィティギス自身の占めるべき居場所は最も脅かされていた地点であったローマであったが、彼は「戦争の準備をするために」ラヴェンナに向うという致命的な失態をやらかしてしまった。彼はローマにレウデリス指揮下の四〇〇〇人の守備隊を残し、教皇シルウェリウスと元老院並びに人々から忠節の誓いを引き出して多くの元老院議員を人質として連れて行った。
 ラヴェンナでウィティギスはテオデリック王朝と自身を結びつけるためにアタラリックの姉妹マタスンタと無理矢理結婚した。その結婚はカシオドルスによる派手な演説で祝われた。次いで彼はフランク族との交渉に取り掛かった。我々はいかにして彼らがユスティニアヌスによって共同作戦の約束が誘発されたのかを見て取った。しかしテオダハドは魅力的な申し出を彼らにしていた。彼はガリアの東ゴート領を金二〇〇〇ポンドと一緒に譲渡し、その代わりに戦争で彼らを助けて戦ってくれるよう提案していた。彼は履行がなされる前に死んだ。ウィティギスはこの取り決めを履行するのが最善だと見て取った。フランクの王たちは賛同したが、彼らは表立ってユスティニアヌスとの協定を破るつもりはなかったので「フランク族ではなく従属者らの兵」を援軍を送ると密かに約束した。
 同時に皇帝と協定を結ぶための最期の試みがなされた。アマラスンタ殺害がイタリア侵攻の理由だったため、戦争の原因はテオダハドの成敗によってなくなったこと、そしてマタスンタの即位を論じることは尤もだった。これ以上ゴート族は何をすべきだったのか? ウィティギスはこの試みのためにユスティニアヌス、そして同様に官房長官にも講和を求める手紙を書いた。それらの交渉について我々の手元にはラヴェンナで作成された文書しかなく、皇帝の返答についての情報はない。彼はウィティギスに戦争か降伏という単純な選択肢を示したものと我々には推測できよう。
 一方ベリサリウスはナポリを発って北進していた。ローマ人はナポリの経験で警戒し、そしてウィティギスへの宣誓を破ることに良心の咎めを感じなかった教皇に説かれ、彼を招き入れるための使者を送った。彼はナポリとクマエに少数の守備隊を置き、ラティナ街道を進軍して五三六年の一一月にラテラノ宮殿に近いアシナリア門からローマに入城した。同日にゴート軍守備隊はこそこそとフラミニウス門から撤退した。残っていた彼らの司令官レウデリスは市の門の鍵と一緒に皇帝に送られた。




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