3節 テオダハトの統治および戦争の勃発(535-536年)

 この犯罪行為のすぐ後にペトルスはコンスタンティノープルへと戻った。彼はテオダハドとその妻からのユスティニアヌスとテオドラへの手紙を運び、それにイタリアの聖職者、ひょっとしたら教皇アガペトゥスその人からの最近の手紙を加えた。テオダハドの主題は戦争の防止であり、彼がとりわけテオドラの影響に訴えたのは明らかである。彼はローマ人元老院議員にもし断れば妻子もろとも殺すと脅して平和のためにユスティニアヌスに手紙を書かせたとも言われている。我々のもとには元老院の近衛長官カシオドルスによって書かれた手紙があり、それはローマの腹を養ったアマル家の支配者への深い愛着を主張し、平和を維持するよう皇帝に懇請していた。しかし王の平和的解決への希望は無駄だった。皇帝はすぐに戦争の準備をした。イタリアにおける皇帝権力の回復の考えが彼の心には多分、そして長らく存在しており、これ以前の年の間の彼の外交ははこれで占められており、女王の殺害の六週間前に公布された法の下で彼はイタリアでの事業について遠まわしに言及した。もしテオダハドが退位して皇帝に平和をもたらすならば良し、さもなくば戦争あるのみ。これでユスティニアヌスは完全に腹を決め、夏の間にイタリアに戻った(五三五年)ペトルスが確実にこの最後通牒の伝達者になった。一方のユスティニアヌスは戦争の準備に邁進した。
 ゴート族に対する戦争はヴァンダル族に対する戦争よりもずっと困難な仕方で始まった。皇帝はアフリカ遠征の準備した時の彼の臣下たちを信頼しており、全世界が彼はアフリカ征服を委ねられたことを知っていた。しかしイタリアの征服へと向う戦争の勃発は可能な限り用心深く秘匿された。事業があまりにも困難に見えるならば、第一段階は大きな規模で直接的な作戦のために政府を動かさないように企てられることだろう。イタリアの情勢の様子を見たユスティニアヌスは戦闘精神も能力も欠けていたテオダハドが危険の最初の兆候で彼の要求を丸呑みするとまだ考えていたことはありうる。この計算では東ゴート人民の気持ちはほとんど斟酌されなかった。
 戦争での最初の作戦行動はどのみに地理的な考慮に応じたものだった。陸路で行くことができたゴート族のダルマティア属領および海路で最も簡単に行くことができたシチリアの征服は制海権のために明らかに最初にやっておくべきことであった。その二つの州の保持はイタリア征服のための基地を与えることになるだろう。ゲピド族の王族でイリュリクム軍司令官ムンドゥスがダルマティアへの軍を率いた。そこでの抵抗は微弱であった。彼はゴート軍を破ってサロナを占領した。
 アフリカの征服者は海を越えた遠征の指揮に指名され、総司令官〔imperator〕の全戦力が再び彼に与えられた。しかし彼に委ねられた軍はヴァンダル族に対して率いた半分でしかなかった。それは四〇〇〇人の軍団兵および支援軍、エウネス指揮下の三〇〇〇人のイサウリア兵の臨時部隊、二〇〇人のフン族、三〇〇人のムーア人、そしておそらく数百人のベリサリウスの私兵であった。したがって全軍はおよそ八〇〇〇人であった。主な将軍は両方ともトラキア人コンスタンティヌスとベサス、イベリアの王子ペラニウスであった。ベリサリウスはまだ若者であったが年齢以上に強靭で賢かった継息子のフォティウスを伴っていた。
 遠征の目的は伏せられた。艦隊の行先はカルタゴであるとされ、誰もその航海を新たな事業の第一段階だとは思わなかった。ベリサリウスはシチリアに上陸してアフリカへの航路を取るように見せかけ、島を問題なく征服できるかを把握するまで何もしないよう指示された。これは明らかにシチリア人の性向とゴート守備隊の強力さに依存しているだろう。もし彼が深刻な抵抗に遭いそうだと見えるならば、彼はあたかも他の意図を試みてなどいなかったかのようにアフリカへと向かったことだろう。彼は小規模な軍で危険を冒さないようにした。この用心深い作戦計画は皇帝がイタリア戦役に未だ覚悟ができていないということを示している。計画されたベリサリウスとムンドゥスの作戦は最初は帝国の外交の補助としてであった。
 戦争が不可避であるならば、ユスティニアヌスはアルプスの向こう側からの何かしらの援助を得ようと画策しただろう。彼はフランク王に使節を送ってアリウス派のゴート族に対して彼と共にカトリック国として共同作戦を取ることが彼らの利益であると説得し、そして黄金で論を補強して援助の確約を得ただろう。
 ベリサリウスはカタネに上陸し、仕事が予想していたよりも簡単だと見て取った。カタネを占領して彼はシラクサを占領し、伝わっている要約的な記述からしてほとんど抵抗はなく、パノルムスを除いて軍事行動は不要だったと見られる。そこの要塞は強力で、他の都市よりもおそらく多数いたゴート軍守備隊は降伏を拒否した。帝国艦隊は無防備な港まで航行していった。船のマストは町の城壁よりも高くそびえ立ち、ベリサリウスは兵士を満載した小舟をマストの頂上まで引き上げる装置を考案し、これによって彼らは守備隊の上から射撃を行った。この脅しで抵抗に身が入らなくなったに違いないゴート軍はすぐに降伏した。島内のローマの支配の復活は一二月以前に完了した。ベリサリウスはその年の執政官の一人であり、一二月に彼はシラクサに入ることができ、公式に任から退いた。その出来事は彼の同時代人には運命の吉兆と見られた。
 シチリア陥落の容易さはシチリアがラヴェンナの軛を新しいローマのそれへと喜んで換え、島内にゴートの大部隊がいなかったことを示している。小規模の守備隊が相当規模の町を住民の望みに反して敵から守ることはその時代では現代よりもはるかに難しかったと見て取れるだろう。火器を支給されているならばまだしも、剣と槍で武装した僅かな軍が多くの人民に挑むことは不可能であった。
 一方でローマとコンスタンティノープルの間の連絡が取られていた。ダルマティアとシチリアでの作戦に臆したテオダハド王は皇帝にその目的を捨てるよう説得するための新たな試みを行った。彼は教皇アガペトゥスにコンスタンティノープルへの使節団長の任に就くよう説いた(五三五年初冬)。その求めは容れられなかった。いかにして教皇が気の進まない任を免除されたのか我々には述べられていないが、彼はすぐに彼の死(五三六年四月二二日)まで続いたコンスタンティノープルの教会の論争に巻き込まれた。一方でムンドゥスとベリサリウスの成功はテオダハドの恐怖を増幅させ、パノルムスの陥落はそれを決定的にしたようである。コンスタンティノープルからローマに戻っていた皇帝の使者ペトルスは優柔不断な王に彼の主と協定を締結するよう説得するためにシチリアの征服の完了を活かすことができた。テオダハドの恐怖心は乗せられやすく、彼はペトルスにシチリアを割譲してはっきりと皇帝の宗主権下に入り、これを確認する降伏文書に従うという旨の手紙を渡した。ペトルスは出発したが、呼び戻されたためにアルバーノ〔今日のアルバーノ・ラツィアーレ〕までしか行けなかった。テオダハドの臆病な精神は自分の出した条件が拒絶されるのではないかという恐怖に苛まれ、ペトルスの忠告を求めようと決めさせた。歴史家プロコピウスは王と使節の興味深い会話を記録している。「余の条件でユスティニアヌス殿が満足しなければどうしたらいいだろうか?」と王は尋ねた。「国王陛下は戦うことになるでしょうな」ペトルスは言った。「わが親愛なる使節よ、それは本当なのか?」「なぜなんだ?」ペトルスは答えた。「誰もがその人の性格に忠実であるべきだというのは正しいことです」「どういうことだ?」「国王陛下は哲学に興味を持っておいでです」ペトルスは言った。「一方でユスティニアヌス様が興味を持っておられるのは良きローマ皇帝たることです。その違いを見てみてください。哲学者にとって人を死に至らしめることは相応しからぬことでしょうし、多くの人でもそうです。とりわけプラトンの徒はその手を血で汚すものではありません。そのような次第ですから皇帝陛下が昔自らの支配下にあった領土を回復しようとするのは自然的なことです」そこでテオダハドは妃のグデリウァと揃ってペトルスの面前で最初の提案が拒絶されるのならばイタリアをユスティニアヌスに寄贈すると誓った。彼はこの旨を手紙に書き、金一二〇〇ポンドの毎年の年金を産する土地が彼に確約されるべしという条件を付けた。しかし彼は前の方の手紙をまず送り、最初の手紙が受け入れられないと証明された場合に第二の手紙を使うだけだと誓ってペトルスに約束した。この取り決めの同意でペトルスは使節の義務からすれば奇妙な考えを抱いたかのように見えるが、彼が最初の連絡で提案された妥協が拒絶されるだろうと完全に確実視していたことは当然のことと我々は見るだろう。それが拒絶されて第二の手紙が見せられると皇帝は非常に喜んだ。ペトルスは合意内容を確認し、皇帝私有財産〔patrimonium〕の所領をテオダハドの用地として取り決めるためにもう一人の代理人と一緒にすぐにイタリアへと送られた。まだシチリアにいたベリサリウスに王宮の財産を接収してイタリアの支配権を引き受ける準備をするよう指示が送られた。
 到着した使節団はテオダハドが最早同じ調子にはないことを見て取った。そうこうしているうちにダルマティアで事件が起こり、その地では相当数のゴート軍が属領を回復していた。ムンドゥスの息子マウリキウスは小部隊を連れて偵察に向かい、血にまみれた待ち伏せに遭って倒れた。父は悲嘆と怒りに駆られてすぐにゴート軍に向かっていき、これをほとんど壊滅させたが、頭に血が上った軽率な追跡で致命傷を受けた。彼の死は勝利を敗北と等しいものとした。帝国軍は彼の地位の適任者はいないと見てダルマティアから撤退した。原野はゴート軍に残されたが、彼らは指揮官を失っており、まずそこのローマ人が非友好的であったサロナを占領しようと企てた。
 この出来事の知らせでテオダハドは強気になり、移り変わり易い心情は戦争の恐怖と王位の快楽との間を揺れ動いていた。皇帝の使節団が到着すると、自信を持って宣誓を無視した彼は約定を反故にした。ユスティニアヌスが懐柔の手紙を送っていたゴート貴族たちは彼の拒絶を支持し、彼は使節団を幽閉するに至った。
 事の次第を知ると皇帝は馬屋長官コンスタンティアヌスにイリュリア軍を率いてダルマティアを回復するよう命じ、ベリサリウスにはイタリアに攻め込むよう命令を送った。コンスタンティアヌスの任務は易々と達成される程度のものだった。彼は海路でドュラキウムからエピダウロス(ラグーサ)まで兵を進め、他方サロナを奪取したゴート軍はそこを守りきれないと信じてスカルドナへと撤退した。サロナへと進軍したコンスタンティアヌスは修理されないままだった城壁の一部を再建し、ゴート軍はラヴェンナに引いた。




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