2節 アマラスンタの摂政政治(526-534年)

 テオデリックの跡は子供、つまりテオデリックの娘のアマラスンタがエウタリックとの間に儲けた孫のアタラリックが継ぎ、アマラスンタは息子が幼少の間は摂政として政府の統治権を握った。彼女はローマ式の教育をラヴェンナで受け、勇敢で理知的な女性であり、イタリア人とゴート族の統一国家への混合という理念を心から信じていたのかもしれない。彼女の確信と意見は異なっていたとしても、彼女は皇帝と良好な関係を維持して元老院と融和するという父の最後の忠告に従うことを摂政政治に本来的に存在する弱点のために余儀なくされた。ボエティウスとシュンマクスの没収された財産の彼らの子供たちへの返還は変化の証であった。ローマ人たちはローマ人とゴート族の間に違いはないと確信し、元老院と民衆が幼い王への忠誠を誓うと、彼もまた彼らに善政の誓いをたてた。元老院はその要求と要望を表現するために招待された。使節団が手紙を運ぶべく皇帝へと送られ、その中で皇帝はアタラリックの若さを支えることを要望され、「墓に葬られれば憎悪も終わる」と言われるように、墓には古い憎悪を埋葬することを許されるべきだと提案された。
 アマラスンタは息子にローマの子弟用の教育を受けさせることを決め、彼女と意見をともにしていた文明化された三人のゴート人の養育下に置いた。しかし全体としてゴート族は、彼女がまるで彼女が父と同様に目論んでいたイタリアの文明化の理念を理解していなかった。彼らは戦争の技術にのみ信を置き、破れた人々のまっただ中で勝者として暮らしているのだと考えていた。彼らの王が人文学の教育を受けたことは彼らの蛮族らしい感傷を逆撫でした。アタラリックが何かしらの失敗をして母から折檻を受けて泣いてる様を見て取ると、彼らの憤りは刺激された。彼らは女王は息子を追い出して再婚しようとしていると陰口をたたいた。そこでこの派閥の幾人かの指導者たちはアマラスンタに謁見を求め、彼女が王のために選んだ修練の体系に反抗した。 彼らの説くところでは、文学の教育は女々しさと臆病を増進させ、鞭を恐れる子供は剣や槍に立ち向かえなくなり、文学の理念を持たなかったテオデリックを見習い、アタラリックは同年代の仲間と一緒に主として鍛錬を受けるべきである、というわけである。アマラスンタは彼女が心底嫌っていたこの論議に説得されたふりをした。彼女は、もしこれを拒めば、自分の理念と政策に共感を寄せるゴート族はごく僅かであったために摂政を解任されるだろうと恐れていた。アタラリックは教師のしつけから解放されず、なおも文学教育の敵対者たちは新たな体系が成功したとはほとんど満足しかった。彼は病弱で惰弱な気質であり、彼がすぐ交わるようになったゴート族の若者たちは彼の健康を害することになったまだ彼には早い放蕩へと彼を誘った。
 時の経過とともにアマラスンタ支配へのゴート族の不満は増していき、彼女は自らを打倒する陰謀が足下にあることに気付いた。彼女は自分への扇動を行っていた三人の最も危険な男たちを軍務の名目で北の国境の別の場所へと送った。彼らがまだ陰謀に手を染めていると見て取ると、彼女はより強硬な措置を決意した。彼女は自らの地位の危機を完全に評価していたため、彼女は逃げ場を用意すべく警戒した。彼女はユスティニアヌスに手紙を書いて彼女に必要な要求を受け入れてくれるよう求めた。おそらくイタリアの状況に不満を持っていなかったであろう皇帝は心から同意し、コンスタンティノープルへの旅に際しての女王の受け入れ先としての住居をデュラキウムに準備した。こうして安心するとアマラスンタは殺害の任を下したのであるが、このようなことは政治的必要性の要請で取り繕われたり正当化されるのが通例であった。彼女は三人の首謀者の暗殺のために忠実なゴート人たちを送った。彼女は四〇〇〇〇枚の金貨を容器に入れてデュラキウムに送り、自分が到着するまで荷を降ろさないよう指示した。殺人が成功裏に終わったことを知ると彼女は船を呼び戻してラウェンナに留まった。
 東ゴート王国が今や政治的に孤立していたことを理解するのは重要である。友好的な理解の仕組みは王族間の同盟によって固められ、テオデリックは西のチュートン人勢力のうちにこれを打ち立てようと骨を折ったがそれはせいぜい平和の弱々しい保証でしかなかった。彼の死後それは破棄された。我々はいかにしてヴァンダル族との同盟が決裂し、テオデリックの姉妹のアマラフリダがヒルデリックによって殺されたのか、このアマラスンタが報復をできるような立場にない被害を見てきた。そこの女王が彼女の従妹であったチューリンゲン人はフランク族に攻められて征服されていた〔529年とその翌年(N)〕。フランク族もまた西ゴート族を彼らが未だ保持していたガリアの端から追い出そうと企んでおり、テオデリックの孫であった若き王アマラリックは殺され(五三一年)、彼の跡を継いだテウディスはセプティマニアの保有を維持するのに申し分ない人物であった。東ゴート族はその地方からの援助を見いだせなくなった。フランク族の勢力はブルグンディアの征服(五三二-五三四年)によってますます恐るべきものとなり〔「アマラスンタは五二九年から五三二年の間、テオデリックによって五二三年に占領されたブルグンディアのイゼール川とデュランス川の間の地方を取り戻した(Cass. Var. XI.1.13; cp. VIII.10.8)」(N)〕、ガリアの東ゴート族の諸州は飽くことを知らない彼らの野心によって攻撃を受ける危険もあった。したがってイタリアの摂政は、内患がなかったとしても、控えめに、とりわけ法的に忠誠を尽くすことになっている皇帝権力に対してはなおさら控えめに振る舞わざるを得なかった。
 アマラスンタにはイタリアの近親縁者として従兄弟であり、ヴァンダルの王妃アマラフリダが最初の結婚でもうけた息子であったテオダハドがいた。彼は彼女が困難に当たって到底助けを求めることがないような人物だった。テオダハドには彼の民族の戦士らしい気質が欠けていた。彼は自由学芸の教育を受けてプラトン哲学の勉学に勤しんでいた。しかし彼は哲学が難詰するよな情念から全く自由になっていなかった。彼の性格の支配的な特質は強欲だった。彼はトスカナに領地を持っており、隣人たちの財産への侵害によって徐々にその地方の大部分を獲得していった。「彼はそれを隣人を持つ不幸だと考えていた」。トスカナ人は彼の強欲を訴えてアマラスンタは彼にいくらかの返還を強い、彼からの不滅の憎悪を得ることになった。しかし彼は元から権力への野心を持っていたわけではなかった。彼の考えはコンスタンティノープルでの贅沢暮らしと社交生活で晩年を過ごそうというものだった。最初に歴史の段階に現れた時の彼はこの欲求を実現しようと歩みを進めていた。二人の東方の主教〔エフェソスのヒュパティウスとフィリッピのデメトリオス。彼らは皇帝から教皇への手紙を持ってきた。前者が来たのは533年6月6日で、後者は534年5月25日であり、彼らとアマラスンタとテオダハトとの交渉は533年からその翌年となる。(N)〕が神学理論についての用向きでローマへとやってきた。テオダハトは彼らに多額の金、元老院議員の地位、そしてコンスタンティノープルでの生活の許可と引き替えにトスカナの領地を譲り渡すことを申し出るというユスティニアヌスへの言伝を委ねた。
 この二人の主教と共に皇帝の代理人アレクサンデルもイタリアにやってきた。彼の表向きの任務は摂政に非友好的な振る舞いについてのいくつかの取るに足らない主張を表明することであった〔その三つの主張は、彼女が皇帝に属するはずのリリュバエウムの砦を保持していること、彼女が帝国軍から脱走した一〇人のフン族を匿っていること、そしてシルミウム近郊でのゲピド族への遠征でゴート族がモエシアにある町グラティアナに敵対行動をとったことである。リリュバエウムへの皇帝の主張はテオデリックが彼の姉妹に、そして彼女がヒルデリックと結婚した時にそれを与えたという状況に基づいている」(N)。〕。公の聴講会でアマラスンタはそれらの非難に返答してそれらの些末さを論じ、皇帝の艦隊がヴァンダル族への遠征でシケリアを使うことを許すという皇帝への奉仕を主張した。しかしこの行動はゴート族を騙すためだけのものだった。ユスティニアヌスはイタリアでの出来事をきちんと理解しており、アレクサンデルの滞在の真の目的は摂政と密約を結ぶことであった。彼女の立場は今や以前よりも際どいものになっていた。アタラリックの速まった放縦は衰弱を招き、彼は生存の見込みを失った。彼が死ぬとゴート族から不人気だった彼女の地位は到底維持できないものになり、彼女は自分の権力を捨てて皇帝にこれを渡そうと考えるようになった。彼女は自分の意図をアレクサンデルに伝え、それから彼は主教たちと一緒にコンスタンティノープルへと戻った。アマラスンタとテオダハドの言伝を受け取ると、ユスティニアヌスは新たな代理人をイタリアへと送り、それは有能で説得力を持った外交官であるテッサロニカのペトルスだった。
 その間にアタラリックは死んだ。しかし今や際どい瞬間が到来し、権力を振るってきたアマラスンタはそれに参与できなくなって致命的な苦境に陥った。彼女は従兄弟のテオダハドに手紙を送り、彼の貪欲を抑制しようという彼女の試みの意図は彼を不人気にするのを防ごうというものであると彼に請け合い、彼女が引き続き彼女自身の手で政府を取り仕切るという条件で王の称号を差し出した。彼は彼女に感じた、そして彼女が少しばかり感づくもしれない激しい敵意を隠すべく、彼女が要求する全てを実施するという厳かな宣誓をした。彼が王として宣言されるや否や正式な書簡が元老院へと送られ、その中でアマラスンタはテオダハドの学問好きを詳しく述べ、テオダハドは自分の決定はアマラスンタに倣ったものあると明言して知恵を敷衍した。ユスティニアヌスにも事の次第を知らせる手紙が送られた。
 しかし当初の偽善的な儀式の後にテオダハドが仮面を脱ぎ捨てるのにそう時間はかからなかった。彼はアマラスンタの命で殺された三人のゴート人の親戚を集めた。彼女から信頼を寄せられていたゴート貴族は殺されて彼女は捕らえられ、王の所有にあったトスカナのボルセナ湖の島に幽閉された。そして彼女はユスティニアヌスに自分は何ら悪いことをされていないと確約する手紙を書かされた。テオダハドは同じ結果をもたらすために手紙を書き、ガリアの近衛長官リベリウス、オピリオという二人の元老院議員に手紙をコンスタンティノープルへと届けさせた。
 その間、皇帝が秘密交渉を続けるために選んだ新任の代理人ペトルスは出立した。エグナティア街道を横断したペトルスはその途上でアタラリックの死とテオダハドの登位の知らせを持ってきたゴート人と会った。そしてアウロン(ヴェローナ)の港に到着すると彼は女王の捕縛を彼に知らせてきたリベリウスとオピリオと会った。ペトルスはコンスタンティノープルへと最初の使者を送り、さらなる命令を待った。ユスティニアヌスはすぐにアマラスンタに手紙を書いて保護を彼女に確約し、そのことをテオダハドと女王を支持する用意があるゴート族に明らかにさせるようペトルスに指示した。しかし皇帝の権威と使節によるこれの表明はアマラスンタを救うには至らなかった。彼女は彼女が殺したゴート族の親戚であり、テオダハドに彼女の死が彼の安全に必要不可欠だと説き伏せたゴート人に離れ小島で――言われるところでは、浴室で窒息させられて――殺された。ゴート族とローマ人はその人物的な美徳が全ての人の認めるところであったテオデリックの娘の運命に一様に衝撃を受けた。ペトルスはユスティニアヌスの名の下に、なされた批判は「休戦なき戦争」を意味しているとテオダハドに言った。王は自分の意志に反したことがなされないことと、自分がその暗殺者たちに栄誉を保ち続けられるよう懇願した。
 プロコピウスが『戦史』で述べたこのアマラスンタの悲劇的な最期の短い話はいくつかの困った問題を喚起し、それは他の証拠がなくとも、説明がなされていない背景の状況のがあるのではないかという疑いを我々に感じさせずにはいさせない。殺害の許可、彼がよく知っているようにこのような行動はユスティニアヌスのこの上ない不興を買い、そして彼のその後の施策が示すように、彼が避けようと望んでいた戦争への道を開くことを知るにあたってテオダハドの動機を理解するのは困難である。ペトルスはイタリアにその瞬間、そしてその出来事に先立つ数ヶ月間そこにいた。彼は皇帝にアマラスンタの主張を擁護するよう命じられていた。どうやればペトルスは彼女に自由を取り戻させるだけでなく、彼女を救うことさえできたのだろうか? プロコピウスが曖昧な文章でこの使節の女王のための努力について沈黙しているのを見れば、彼の読者はペトルスの到着は介入には遅すぎたと信じてしまうし、半分しか語られていないこの話を疑う余地が生まれる。
 その説明はプロコピウスその人の筆で用意されている。『秘史』の中で彼は薄気味悪い補足を加えている。曰く「皇后への恐怖のために私は出版できない」。この話によれば、テオドラはコンスタンティノープルに逃げ込もうとしたアマラスンタの目論見を警戒の目で眺めていた。テオドラはこの美人で気の強い女が皇帝に影響を及ぼすのを恐れており、彼女はゴート族の女王に死をもたらすべくペトルスを金銭と官職の約束で配下に置いた。イタリアに到着すると、ペトルスはテオダハドにアマラスンタを片付けるよう説得した。この結果、彼は官房長官の地位に出世して大権と憎悪を獲得するに至った。この話の信憑性は疑われているが、その支持にあたっての証拠は思われている以上に強力である。
 まず、それはこの犯罪行為への同意にあたってテオダハドの行動に十分な説明を与えていることが見て取れるだろう。皇后の強力な影響のおかげで彼はゴート族内のアマラスンタの敵対者たちの望みに応えつつ、皇帝の恐怖を無視することで自らの安全を確保できると感じていた。第二に、テオドラの共謀にあたって信じがたいようなことは何もない。彼女の記録には、彼女がその犯罪行為を行うことができないと我々に考えさせるようなことは何一つない、しその動機は確かに十分である。公の場面でアマラスンタはテオドラその人に次いで最も注目に値する生存中の女性であることが思い出されるべきである。彼女は見事なものだと面得られるその人格と教養で優位に立っており、八年の治世で彼女は心の強さ、そして無節操さすら示していた。しかしもし彼女がそれらの点で皇后と競えば、彼女の欠点のない私的な資質と彼女の王家の生まれはテオドラが到底許されるとは期待できない強みになっただろう。テオドラの前半生についての真実がどうであれ、彼女の生まれは卑しく、正しかろうと間違っていようと記録は彼女の若い頃の身持ちの悪さにかかずらっていた。我々はテオドラには、皇帝に影響を及ぼして場合によっては彼女に分の悪い比較で不可避的に挑戦者となるであろう王の娘のコンスタンティノープル到着を防ぐためにさらに一歩進んだ手を講じる準備があったろうとよく理解できる。
 このドラマへのテオドラの関与についてのプロコピウスの文は全幅の信用を認められるべきであるが、裏付けの証拠がなく、我々にはそれを悪意からの格別のでっち上げとして取り消す余地が認められるだろう。しかし我々には、プロコピウスの話を裏付ける証拠とは別に一つの重要な事項がある。ペトルスがテオドラの代理の役を果たし、彼女が彼をラヴェンナへの使節に任命したことはプロコピウスの話の本質的な点である。これはペトルスが殺害の後にコンスタンティノープルに戻った時にテオダハドが皇后に宛てた手紙によって全面的に実行されたことである。これらの手紙の中で使節は曖昧な形で彼女の密使として述べられている。ここでも我々は、テオダハドに対して皇帝に何か要望があれば、まず彼女自身に提出するよう命じたという重要な事実を知る。その上、テオダハドの妻グデリウァの手紙の中には、その犯罪行為への覆い隠された言及としてならば一番簡単に説明できる不思議な文言がある。グデリウァの書くところでは「ローマの領域には不和があるようには見えませんし、その一方で状況は私たちがあなたにお伝えしましたとおりに進みました」と。殺害の直後に送られたその手紙のこの文言の意味は不穏である。
 プロコピウスの話は秘密の陰謀が広く知られていたことを暗示している。そうでなかったとしても、彼はテオドラの腹心アントニナないしペトルスその人から情報を受け取っていたのであろう。テオダハドが平和を一切考えるのを放棄した時にテオドラの仲介の罪を隠す動機がなくなったことを思い出すべきである。彼女が仲介し、その命令を実行したペトルスが、表向きはユスティニアヌスの命の下で女王の利害通りに行動しつつ、アマラスンタの殺害を暗示的且つ遠回しに促した結果は全体として考えられた証拠で保証されるように見える。無論この証拠は法廷で彼女の納得を得るのに十分とはほど遠いだろう。いかなる検事もそれを行うことはできまい。しかしそこで陪審は納得して正しさを認めることはないであろうし、世論はその告発が真実であるという判断に頻繁に正しさを認めることだろう。




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