1節 テオデリック王の晩年(526年の死)

 ローマ教会の東方教会との再統一はユスティニアヌスと教皇ホルミスダスによって成し遂げられ、すぐに政治的な帰結をもたらした。ゴート族の王を廃して皇帝によるイタリアの直接統治を復活させる考えは叔父の治世の初期のユスティニアヌスの心中で明確な形を帯びていたと考えるのは性急であろう。彼自身の強力な理論的確信が彼の施策の説明に十分であろう。しかし教会の統一の復活はゴート族の権力を打倒する計画を抱いていた一人の政治家によって行われた明らかな最初の一歩であった。実際に分裂の存在はイタリアの正統派とゴート族政権とを和解させず、コンスタンティノープルとの密接な政治的紐帯への微かな願望をイタリアの正統派のうちの多くの者に抱かせていた。
 テオデリックとは全く友好関係になかったアナスタシウスの死はイタリアの政府にとっては重大な出来事であった。東ゴート王位の継承についての協定が結ばれたのがユスティヌスの継承後であったことは十中八九偶然ではあるまい。テオデリックには男児がいなかった。彼の娘のアマラスンタはローマ式の教育を受けており、彼はスペインで経歴不詳の生き方をしていた王家の血統の東ゴート人エウタリックを彼女の夫に選んだ。結婚は五一五年に執り行われ、息子アタラリックがその三年後に生まれた。この子をテオデリックは自身の後継者に指名した。自らの王を選ぶことはゴート族の権利であったが、未来の王が皇帝の総督でありイタリアの軍司令官でもあるべきならば、その選択は皇帝の了解抜きになされることはほとんどない。エウタリックが五一九年の執政官に指名されたという事実はユスティヌスが意見を求められてテオデリックの計画に同意したことを明らかに示している。ゴート族は執政官職から厳に閉め出されていたためにこれは皇帝の個人的な動議によってしかなされることはできず、かくして彼はイタリアの王位継承権分与への承認を示したのである。
 協会の再統一が達成されると、ユスティヌスは高名なローマの元老院議員ボエティウスの二人の息子が同僚として執政官職を占められるようにと東側の五二二年の執政官の任命を取りやめることでテオデリックと元老院の双方に顕著な敬意を表した。それはあたかもラヴェンナとコンスタンティノープルの友情のこもった関係が今や確固たるものとなったかのようであったが、それにもかかわらず一年内に状況は以前よりもより困難でより危険なものとなった。
 我々にはエウタリックの意見についての確かな情報はない。彼は強い民族感情を育んでアリウス信条に執心していた。そして彼は義父の穏健策とそれがもたらす妥協に幾分か苛立っていたかのようであった。彼が降伏〔東ゴート王国の帝国への法的な従属〕を難じてイタリアをゴート族の独立国家として帝国から切り離す準備をしていたのか否かは我々の知るところではない。しかし彼は皇帝の意図とローマの元老院の忠誠に疑いを持っていた。彼は五二二年内に死んだが、その疑いをゴート族社会に伝播させることで状況に影響を与えたことだろう。そしてその疑いはユスティヌスがアリウス派に対して発布した勅令によって裏付けられるように見えたことだろう。ゴート族はアリウス派根絶の試みを教会の再統一と結びつけ、帝国の施策がイタリアの反アリウス派運動を刺激することを恐れた。そしてその結果、元老院、とりわけ分裂を終わらせるのに大きな役割を果たした元老院議員たちへの不信が増長された。ホルミスダス教皇はテオデリックから信頼されていたが、五二三年に死んで彼の後継者ヨハネス一世はローマの元老院のより大きな権力と自由を得る手段としてイタリアの帝国政府へのより密接な依存を望む人たちと結託していた。
 テオデリックが五二二年の秋にボエティウスを官房長官の地位に任命したのは彼の好意の印だった。このアニキウス・マンリウス・トルクァトゥス・セウェリヌス・ボエティウスは生まれでもその豊富な幸運でも際立った人物であり、彼の人生は哲学と学問に捧げられていた。ローマでの縁者と友人とのつき合いからラヴェンナの宮廷へと移ると、彼は家でくつろぐこともなく自身を人気者にすることもできなかった。彼の峻厳な倫理基準は王を取り囲んでいた従順で日和見的な宮廷官僚たちを追い払ったし、おそらく彼はほとんど遠回しな言い方はしなかったことであろう。彼は突如として嵐が頭上に降り懸かるまで約一年間官職にあった。
 ある役人が幾人かのローマの元老院議員によって皇帝へと送られた手紙を押収した。この返信にはテオデリック政権への不忠であると解釈できる文言があり、とりわけパトリキウスの若ファウストゥス・アルビヌスが評判を落とした。問題は、大逆罪事件の法廷であった王の枢密院〔Consistorium〕のための事件調査が職務であった伝旨官〔referendarius〕キュプリアヌスの手に移った。キュプリアヌスは特命を担う人物であり、テオデリックから信頼され、しばしば乗馬に同行するのが常であったことは特筆に値する重要事項である。途中で奪われたアルビヌスの友人の手紙は調査内容を正当化した。ボエティウスは官房枢密院〔Consistory ex officio〕の委員の一人であり、アルビヌスを弁護した。実質的な事実を否定するのは不可能であり、ボエティウスはアルビヌスは彼個人の裁量でではなく元老院議員として動いており、したがって彼の行動の責任は彼一人のものではないとする方針をとった。「私自身を含む全元老院に責任がある。個人としてのアルビヌスに対するいかなる訴状もあるはずがなかった」。この弁護は自白として解されてボエティウス自身に対する大逆罪の罪状の根拠となり、大臣団に属していたが、面目を失っていた三人の男がその告訴の支持へとなびいた。彼は逮捕されて当然の流れとして職を解かれた。カシオドルスが彼の代理に任命され、この罪に元老院の他の議員を巻き込もうとする試みがなされなかったということは彼の影響力の賜物だと考えられる。
 この時点から手続きに違法性があることを考える理由はなくなったが、今やアルビヌスの出頭命令を完遂して法廷の前でボエティウスを裁く代わりに問題はその組織の手から取り上げられ、二人の男はティキヌムに幽閉された(五二三年秋の終わり)。ローマの長官がそこへと召還され、彼と共に王は事件の調査に入った。 ボエティウスは有罪となって死罪を言い渡された。アルビヌスは話から外れてしまい、彼の運命は記録されていない。テオデリックは元老院に教訓を与えることを決意したが、ひょっとしたら彼は政治的事件の経過のおかげで自分は優れた哲学者の運命についての極端な決定へと導くことが許されたことは良いのだと考えていたのかもしれない。獄中でボエティウスは哲学の慰めについての有名な本を編み、彼の文言が苦痛の緩和になるものとおそらくは期待したことだろう。しかし彼は、伝わるところでは残忍な仕方で処刑された(五二四年の晩夏ないし秋)。紐で首を絞められた彼は棍棒でとどめを刺された。
 ボエティウスが判決を待っていた間、元老院議員たちは会合の場を設けて話し合った。彼らは徹底的に警戒し、自分たちの無罪放免を目論む声明を発し、ボエティウスとアルビヌスを切り捨てた。多分、ボエティウスに味方した唯一の人物は彼の義父であった元老院議長シュンマクスであったろう。彼は強い言葉を使ったであろうし、少なくともおべっか使いの声明に名を連ねるのを断った。これによって彼は非難に身を曝すことになり、大逆罪を弁明して裏切り者とよしみを通じたと告発された。彼は逮捕され、ラヴェンナに連行されて処刑された。それは愚かしい行いであり、僭主の警戒であった。
 それらの出来事は、およそこの時に発せられた重罪でアリウス派を脅し、彼らを公職と軍務から排除し、彼らの教会を閉鎖する皇帝の勅令と何かしらの関係があるかもしれない。テオデリックは警戒した。彼は東方の同じ宗派の仲間の苦痛と罰の復活に憤慨し、その勅令をアリウス派の教徒に対立せよにというイタリア人への激励だと理解した。しかしその勅令は保持されず、その布告の正確な年月は不明で、ひいては我々はボエティウスの処刑の前にテオデリックの政策への影響を与えたのか否かを確定できない。それは彼の死までは布告されなかっただろう。我々はアリウス派に対して厳しい処置が採用され、イタリアでは五二五年の秋より前に報告されたととしか言えない。テオデリックは東方の異端仲間の保護者たることを申し出ることでコンスタンティノープルでの布告に対して問題を提起することを決めた。彼は皇帝に政策を和らげるよう説き、もし固執するようならばイタリアのカトリックへの報復が結果として起こるという王の脅しを伝えるという嫌な任務をするよう誘われていたローマ司教ヨハネスを使節に選んだ。教皇は五二五年九月の頭と一一月の終わりまでの間に何人かの司教と高名な元老院議員たちを伴って出発した。彼は東方の都で名誉ある歓迎で迎え入れられ、少なくとも五ヶ月間そこに留まった。彼は降誕祭と復活祭をハギア・ソフィアで祝って首尾よく大主教より高位につく権利を回復した。以上が記録されたことであり、ひょっとしたら我々には、ユスティヌスは正式に戴冠して以来長くたっているものの、教皇に再び自分を戴冠させたという文を問える権利はない。その任務の主要な目的は達成された。皇帝はアリウス派に彼らの教会を復活させ、彼らが官職に就くことを許すことに同意した。彼は改宗したアリウス派が旧来の信仰に戻ることを許すことは拒絶したが、テオデリックの主な要望は認められた。五月の中頃にラウェンナに戻ってきた教皇と彼の随行者たちの歓迎はうまくいった使節団が期待したのとは真逆のものであった。彼らは逮捕されて投獄された。東方へ旅立った時に病を患っていたヨハネスは数日後に死んだ(五二六年五月一八日)。彼の遺体はローマに送られてサン・ピエトロ大聖堂に埋葬された。彼の葬儀には受けのよい証があり、彼は殉教者とみなされている。
 空席の司教区の継承をめぐって選挙戦が起こった。おそらくそれは東ゴート族体制に融和的なイタリア人勢力とそうでないイタリア人勢力の戦いであった。二ヶ月の争いの後、前者は彼らの候補者の勝利の確保に成功し、フェリクス四世の即位(七月一二日)が元老院の成員についての問題で自らの望みをおおっぴらにしていたテオデリックを満足させた。
 テオデリックの余命は幾ばくもなくなり、七週間後に彼は赤痢を患って八月に死んだ。生前に彼は側近のゴート人を呼んで孫のアタラリックを将来の王に指名し、元老院及びローマ人と仲良くやっていき、常に皇帝への尊重を示すよう言いつけた。人気のある伝説は彼の死を暴君の最近の行いとを結びつけていない。魚が王の机に供され、王は想像の上でその頭、長い歯と怒らした魚の目がシュンマコスに見えて良心を苛んだと言われている。テオデリックは怯えながら寝台に入り、侍医に高名な元老院議員たちの殺害による彼の自責の念を打ち明けた。
 人生の最後の年に彼はトラスムンド王の未亡人であった彼の姉妹のアマラフリダの運命に苦しんだ。彼女は夫の死後もアフリカに留まっており、これは彼女の結婚でもって始まったラヴェンナとカルタゴとの良好な関係の維持にあたって彼女の兄弟にとっておそらく有用であった。しかしヒルデリック王はコンスタンティノープルについて段々知り、ユスティニアヌスの影響下に入ったため、彼はゴート族から離れてテオデリックとの友情は冷え込んだ。この国への輿入れの際にゴート族の取り巻きを引き連れていたアマラフリダは正当になのか不当になのか、王に対する陰謀の廉で非難を受け、牢に放り込まれてそこで死に、それは自然の経過の結果であったが、彼女の死は暴力によるものであるという疑いが生まれた。彼女のゴート兵は皆殺しにされた。もし生きていればテオデリックは疑いなくヒルデリックへの報復を試みたことだろう。彼の死後、彼の娘はヴァンダル王に宛てた強い抗議をする以上の立場にはなかった。




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