1節 征服(533-534年)

 人が住む世界と潜在的に隣接し、人類をその温和な支配の下に包摂することは創建時からのローマ帝国の主張であった。ローマの詩人たちはしばしば単純にそれ〔ローマ帝国〕を世界(オルビス)と言っていた。教会によって受け継がれたこの自惚れた考えはローマが経験した数々の敗北によって潰え去った。その領土はトラヤヌス時代以降は拡大せず、四世紀初頭以来その国境は徐々に後退していった。全ての西方属州は蛮族の王国となり、イタリア本土はローマ共々最早名目上の属領以上の何物でもなくなった。帝国をその古の境界にまで復活させようという計画はユスティニアヌスの心に浮かんだものであろうが、彼がそれを諸政策の明確な目標として第一に考えていたとは言い難い。彼は偶然がもたらした地中海の失われた属領を回復するための好機をあまりにも迅速に掴んだため、口実がなければ彼はそれをでっち上げたのではないかと疑われるかもしれない。
 彼の野望はアフリカに最初の舞台を見出した。カルタゴでの五三一年の革命が待ち望んでいた介入の機会をもたらした。ガイセリックがローマ政府との間に結んだ(四七六年)恒久的な和平は彼の後継者たちの下で双方において誠実に遵守されていた。オドアケルとテオデリックの戦争の間を除いて争いは見られず、グンタムンド〔ガイセリックの孫で三代目国王〕王はこの機に乗じてシチリアを強襲してゴート族を破った。カトリック教徒は多かれ少なかれフネリック〔ガイセリックの息子でグンタムンドの父であり二代目国王〕、グンタムンド、そしてトラスムンド〔グンタムンドの弟で四代目国王〕によって激しい迫害を蒙り、皇帝は折に触れてこれに抗議した。その王たちはガイセリックの政策を踏襲してアフリカの臣下とコンスタンティノープルの間のどんな関係にも疑いと嫉妬を向けた。詩人ドラコンティウスは外国の君主を賛美したとしてグンタムンドによって投獄され、過誤の撤回と謝罪の手紙を書いた。その君主とは間違いなくゼノであった。しかしトラスムンドとアナスタシウスとの間には対立はなく、彼らの関係はむしろ友好的ですらあった。次いでフネリックの息子ヒルデリックが王位についた(五二三年)。彼がウァレンティニアヌス三世の孫であったという事実はコンスタンティノープルとの密接な親交を促進するものであると考えられ、彼の穏やかな支配の下で迫害は止んだ。彼はユスティニアヌスの盟友であり、その明敏な君主〔ユスティニアヌス〕は非好戦的な王への影響力を通してヴァンダル国家を帝国の属国にしようと目論んでいたのかもしれない。ヒルデリックのコンスタンティノープルへの慇懃さは不満を醸成した。彼の甥で五三〇年に王位を簒奪したゲリメルの率いる反対派はヒルデリックを幽閉した。ユスティニアヌスはすぐに介入を行った。彼は簒奪者に抗議の手紙を出し、ガイセリックの遺言に訴えて正当な王を復位させるよう要求した。ゲリメルはヒルデリックをより厳重な監視の下に置くという形の返答を寄越した。そこで皇帝はコンスタンティノープルに廃王を送るべきであり、さもなくばガイセリックとの協定を破棄するつもりであるとの最後通牒をゲリメルに送った。ゲリメルはその問題はヴァンダル族の問題であり、ユスティニアヌスが口を挟むことではないと応答した。彼はユスティニアヌスの企みに自らが譲歩したとしても、ユスティニアヌスは戦争を遅らせることはあっても避けはすまいと恐らく見てとっており、そして知ってもいた。
 皇帝はアフリカ征服を試みる時が到来したと結論してすぐさま五三二年の春にペルシアと講和し、大急ぎで準備をしれた。彼の目から見ればそれは侵略戦争ではなかった。それは皇帝たちが常に暗黙のうちに権利(iura imperii、つまり「正当な支配権」)を保持していた属領に巣くう僭主の鎮圧であった。聖職者たちはアフリカにいる仲間の正統派をアリウス派暴君の暴政から救出することになるその計画を熱狂的に支持した。しかしユスティニアヌスは相談役と大臣たちからの賛同を得られなかった。レオ帝の大遠征軍の惨禍は忘れられていなかったのだ。彼らの心はヴァンダル軍がガイセリックの旗の下、陸海で獲得した恐るべき威信で未だに満たされていた。帝国は強力な海軍を維持しておらず、制海権もなしに大きな対価を払って陸軍を輸送してそれを敵地に上陸させようという試みの危険性を否定することはできなかった。近衛長官であったカッパドキアのヨハネスは皇帝にその試みの困難さと危険をこの上なく率直な言葉で説明し、熟練者たちの意見が遠慮なく咎める冒険を本気で思いとどまらせようとした。そしてこの賛同者たちはガイセリック時代以来ヴァンダル族の軍事力がいかに低下していたのかをおそらく理解していなかったにもかかわらず、この意見は正当化された。しかしこの衰退にもかかわらず、遠征中の出来事はもしゲリメルが彼にとっての敵が予想だしにない最も驚くべき過ちを犯さなければ、ローマ軍は恐らく不面目な敗北を喫していただろうということを示した。ユスティニアヌスは大臣たちの悲観的な見通しに耳を貸さず、彼の大義は正義であって天は自らの味方だと信じ、遠征の指揮を執る予定の将軍ベリサリウスの才覚を信頼して全力を注ぎ、長らく皇帝自身に限られていた最高司令官と同等の新たな称号を彼に与えた。
 軍事的名声を有するヴァンダル族の征服に十分だと思われた軍勢は驚くほどに僅かな数であった。それはせいぜい一六〇〇〇人であった。ひょっとしたらこれは安全に輸送することが可能と考えれられた数かもしれないし、もし全滅してもその損害は大したものではならないようなものであったのかもしれない。一〇〇〇〇人の歩兵は一部が野戦機動軍で、もう一部が支援軍であった。五〇〇〇騎の優秀な騎兵がおり、そのうち三〇〇〇騎以上は似たような構成であり、残りはベリサリウスの私兵だった。同盟兵から追加された二部隊がおり、それら六〇〇騎のフン族と四〇〇騎のヘルリ族はいずれも弓騎兵であった。全軍は五〇〇隻の船に乗せられ、九二隻のドロモン船〔東ローマ帝国で軍船として用いられた櫂船の一種〕や軍船に護衛されていた。
 アフリカでの一〇〇年の統治期間はヴァンダル族の精神と習俗を変えてしまっていた。彼らの好戦性は減退し、物質的な文明化と被征服地の奢侈が採用され、尚武の気風はガイセリック没後には衰微していた。彼らの軍勢が三〇〇〇〇人もいたのかのかどうかすら疑わしい。全軍は劣悪な鎧を着込んで他のゲルマン人のように槍と剣で戦い、弓と投槍の使用には不慣れであった騎兵から構成されていた。彼らの王は前任者よりも優れた戦士ではあったものの、感傷的な気質の人物であり、軍事的才能も政治的才能も持ち合わせていなかった。というのも王国そのものが分裂していたからだ。ゲリメルのローマ人臣民は帝国の復活を待ちわびていてできる限りのことをして侵略者を支援した。ヴァンダル族のうちにさえヒルデリックの支持者はいた。もし運命がローマの立場に傾いた場合、内陸部のムーア人諸部族が友好や中立を維持すると信頼することはできなかった。
 帝国軍がボスフォロス海峡から出る前に二つの出来事が起こり、それはゲリメルの二つの驚くべき失敗だった。トリポリタナの住民がヴァンダル族から離反し、ゲリメルはそこを回復しようとはしなかった。ローマ軍が無事にアフリカ沿岸に到着したならば友好的に上陸できるようになるためにこれは致命的な施策となった。このすぐ後にサルディニア島のヴァンダル族支配者がカルタゴからの独立を宣言し、ユスティニアヌスの計画を聞くと皇帝への臣従を申し込んだ。ゲリメルは五〇〇〇人の兵と一二〇隻の艦隊をその島の回復のために送り出した。彼は軍のかなりの部分、強力な全海上戦力を事実上奪われてしまった。侮りがたいものと評されていたヴァンダル艦隊はこの戦争では役を果たすことはなくなった。その離反が大勢にほとんど影響を及ぼすことのなかったような遠く離れた島の奪回に戦力を空費し、最初の重要な獲得地となったトリポリタナの動きの鎮圧を怠るというゲリメルのこの興味深いへそ曲がりぶりはひょっとしたら戦争全体の結果に決定的なものとなったかもしれない。
 もしサルディニアの反乱がユスティニアヌスの幸運の一片だとすれば、イタリアの態度はそれに劣らず幸運だった。トラスムンドの死後、彼の東ゴート人妻アマラフリダは捕縛された後に殺されており、これはカルタゴとラヴェンナの宮廷との間に和解できない不和をもたらした。東ゴート政府はシチリアの港を帝国軍が使えるようにすることで帝国軍の遠征を喜んで支持した。
 ローマ軍は五三三年六月にコンスタンティノープルを出航した。出発の前に将軍の船は皇宮の前に停泊し、総主教が遠征の成功を祈願した。その出航を目撃した人のおそらく大部分は優れた判断力を持っており、彼らはこの船団は帰ってこないだろうと信じていた。ベリサリウスは妻のアントニナと、法律に関する彼の補佐役として再び働いており、我々がそこから戦争の経過を得ているところの歴史家プロコピウスを連れていた。ドメスティクスつまり将軍の〔下にいる〕将官たちの長はメソポタミア出身の宦官ソロモンであり、彼はビザンツ史の舞台において我々が頻繁に出会う最も有能な宦官の一人であった。
 ボスフォロスからシチリアへの渡航には多くの一時停止があり、アフリカ沿岸には九月の初めまで到着しなかった。プロコピウスは将軍の船倉に砂を詰めた大量の水瓶を蓄えておくというアントニナの有益な先見性を後世に伝え、この用意のおかげで彼らがザキュントスからカタネまでの長い船旅にどれほど持ち堪えられたかを述べている。ベリサリウスは敵が海で攻撃をかけてくるのではないかと予想しており、シチリアからアフリカまでの船旅では不安で一杯だった。今や彼はまず(丁度カルタゴからやってきた一人の男から)ヴァンダル艦隊はサルディニア島に送られたと知り、これと同時にゲリメルはローマの遠征軍が途上にあることに気付いておらず、カルタゴなり他の場所では戦う準備ができていないという知らせを受け取った。
 艦隊はアフリカ沿岸のカプトヴァダ(ラス・カプディア)に上陸し、軍は野営地を要塞化した。上陸の前にベリサリウスは軍議を開き、一部の将軍たちはカルタゴへと直行して奇襲をかける計画のほうが良いと説いたが、ベリサリウスはこの意見を却下した。敵艦隊が現れる可能性があり、兵士たちが海軍の攻撃に怯えていたことを彼は知っていたのだ。カプトヴァダは――ハドルメトゥム(スース)から六六ローマ・マイル、カルタゴから六二ローマ・マイルであり、このために彼が進撃すれば――わずか一日に一一マイルであり、彼はその標的へと一四日間のところにいた。その街道は沿岸の近くを走っており、艦隊はゆっくりと航行して陸軍から声が聞こえる範囲を維持するよう指示を受けた。アルメニア人ヨハネス指揮下の三〇〇騎の騎兵部隊が前衛として三マイル先へと先遣され、六〇〇人のフン族部隊は軍を側面攻撃から守るために道の左を同距離で進むよう命じられた。彼らの先にあった最初の都市はシュレクトゥム(セルケタ)であり、そこは計略によって穏便に奪取された。公職の監督者が脱走してベリサリウスに全ての馬を引き渡してきて、ベリサリウスは彼に黄金を褒美として与えて皇帝からヴァンダル族の指導的な人たちに宛てられた手紙の複写を一部、これを公にするために与えた。それは以下のようなものであった。
割られの目的はヴァンダル族と戦争をすることもガイセリックとの協定を破ることでもない。我らはただガイセリックの遺言を軽んじて貴殿らの王を捕らえ続け、憎悪する親類たちを殺して獄に繋ぎ続け、彼らの目を潰し、死によってその苦しみを終えることも許さない僭主を倒そうとしているだけである。故に僭主政治によって虐げられていると感じ、平和と自由を享受しようと思うならば我らに加わるように。我らは貴殿らに神の名の下に恩恵を与えると誓おう。
 その男はその手紙を危険を冒して公にしようとはせず、それを自身の友人たちに密かに見せもしなかったために何の結果も生まなかった。北進の間、住民の友好のために侵攻軍は物資を補給され、ベリサリウスは兵士に荒らしたり略奪をすることによって人々の共感を遠ざけるようなことを厳禁した。それはイングランドのアメリカ植民地との戦争において、ジョージ三世が雇い入れたヘッセン人傭兵による植民地の王党派の財産への恥知らずな略奪がどれほど彼らを叛徒の列へと追いやり、イングランドの将軍たちが彼らの補助を確保できなくなったのかを喚起させるだろう。ベリサリウスにはより困難な仕事があった。以降で分かるであろうが、寄せ集めであった彼の軍の弱点は規律の欠如であった。しかし目下のところ彼は麾下の蛮族兵の欲望を抑えることに成功しており、ヴァンダルの首都へと順調に進んでいた。
 タプソス、レプティス、そしてハドルメトゥムを通過して軍はグラッセに到着し、ヴァンダル諸王はそこに別荘と果実に溢れた美しい庭園を持っており、果実が熟していたために兵士はこれで腹を満たした。この場所は今のシディ・カリファで、その果実園のために今なお有名である。グラッセ停泊の際の夜間、一部のローマ軍の斥候が敵の斥候と会って攻撃の応酬の後に双方共に野営地に引いていった。したがってベリサリウスはまずもって敵がそう遠からぬ所にいることを知った。事実、王は彼らを追いかけていたものの視認していなかったのだ。ローマ軍の上陸を知った時のゲリメルはヘルミアネにいた。彼はカルタゴにいた弟アマタスにヒルデリックと他の囚人を殺すようすぐに命令を下し、与えられた時間と場所でローマ軍を迎撃するために市内の全軍を集めた。彼は気付かれることなく侵略者の進軍に追いついて敵の進軍を探るべく自ら軍の先頭に立って南進した。彼の計画は驚くべきものであり、それはチュニスの近く、カルタゴから一〇マイルの地点で敵を包囲することであった。
 グラッセからカルタゴまでそう遠からぬ幹線が沿岸に伸び、ボン岬へと通じる崖を通っていた。そこで陸軍と船団は分かれ、海軍司令官はカルタゴに投錨せずに彼が呼ばれるまで海でおよそ三マイルの距離をとるよう指示を受けた。その道は今はハマム・エル・エンフであり、カルタゴから二三マイルのところにあるアド・アクアスで海岸と再び合流していた。四日目(九月一三日)までに軍はチュニスに接近しつつあり、そこはおそらくハマム・エル・エンフの隘路の北の端で、ジェベルとブ・コルニン――二つの三日月形の丘――の岩がちな山裾であり、ベリサリウスは予防措置を怠らず、全軍で戦う危険を躊躇し、柵で囲んだ野営地を作り、歩兵には彼が騎兵を率いて平野へと下る間は留まるよう命じていた。アルメニア人ヨハネスは通常通り前進し、一方でフン族はその数マイル左、ブン・コルニン丘の西を進んだ。ベリサリウスは敵が彼を撃破すべく企んでいたような見事な戦略を考えていたわけではなかった。
 もし我々がチュニスの現代の道を南東の門、バブ・アレオナから歩けばすぐにジェベル・ジェルドの駅に着くだろう。そこはカルタゴから一〇個目の一里塚のところにあるローマ式のアド・デキムムの駅であった。左にはメグリンという名の最も高く、それでいて数の少ない高地が、右にはシディ・ファタラの丘があり、その西には今は不毛で木のない地帯であるセブカ・セジュニあるいはサルト平野が広がっている。ゲリメルがローマ軍を包囲しようと計画した場所はここであった。カルタゴから来つつあるアマタスが隘路で彼らと遭遇して彼らが彼と戦っている時、王の甥ギバムンドは二〇〇〇人の兵士と共にサルト平原を進軍して彼らの左側の丘から下りつつあり、一方でゲリメル自身は本隊と共に彼らの背後に回り込もうとしていた。ローマ軍がアド・デキムムに到着することが予想される時間は巧みに計算され、その計画はほとんど成功しかけていた。
 アマタスは多分地勢を調べるため、少数の兵で指定された時間の数時間より前にアド・デキムムに近づくという過ちを犯した。彼は正午に到着してヨハネスの部隊と鉢合わせした。勇敢な戦士であった彼は倒れるまで自らヨハネスの精兵一二人を殺した。彼の部下は逃げ出し、二〇あるいは三〇人の部隊になって指定された地点へと不注意に進軍していた他の部隊を一掃してカルタゴへと逃げ込んだ。ヨハネスと彼の騎兵は市の門辺りまで追撃を行って殺戮した。
 この作戦が進行していた一方でフン族はサルトの平原に到着してシディ・ファタラへと東進していたギバムンドの部隊を、一対三の兵力差にもかかわらず撃破してほとんど全滅させた。戦いを堪能したフン族はヴァンダル軍を神が彼らのために用意した宴だと考えた。
 ハマム・エル・エンフからモルナグの平原へと下っていた時のベリサリウスははそれら二つの出来事について何も知らなかった。彼の支援軍騎兵が先行し、正規軍騎兵と彼の私兵がある程度距離を空けてその後ろを進んでいた。ウエド・ミリアネ川を渡ると、海とチュニスの湖の南岸の間にあるマズラ(ラデス)へとチュニスへ通じる道が走っている。支援軍はアド・デキムムに到達すると、友軍部隊とアマタスと幾らかのヴァンダル隊を発見した。その地の人々は彼らに事の次第を話し、彼らは偵察のためにある丘へと登った。まもなく彼らは南に烏合の衆、次いでヴァンダル騎兵の大部隊がいることを把握した。すぐに彼らはベリサリウスに急ぐよう求める言伝を送った。到着しつつあったのはゲリメルの軍であった。主要幹線沿いに安全な距離を保ってベリサリウスの後に続いていたため、彼は疑いようがなくグロンバリアを去っており、ジェベル・ブコルニン山の西へと、現地人がグロンバリアとチュニスの間を行くのにまだ使っていた幹線沿いに引き続き進んだ。その丘の多い地形のために彼は彼の右翼でのベリサリウスの動きも左翼での甥の破滅も把握できなかった。彼の前衛がアド・デキムムに到達すると、高台(多分メグリン)をめぐるローマ軍の支援軍との戦いが起こり、ヴァンダル軍が勝利を収めた。それから支援軍は友軍と再合流するために街道沿いに一マイル逃げて八〇〇人の護衛と共にいたウリアリスと遭遇し、彼らが算を乱して馬を駆って戻ってくるのを見るとウリアリスはベリサリウスの方へと大急ぎで戻っていった。
 今や勝利はゲリメルの手の内にあったが、神々は彼に破滅をもたらすことを決定づけさせられた。この話を述べ、騎兵が総司令官の方へと恐慌状態で駆け戻っていくのを目撃した歴史家は「ゲリメルが即座に追撃していれば、私はベリサリウスが彼に対して踏みとどまっただろうとは思わないし、ヴァンダルの大軍勢の出現と彼らが引き起こした恐怖のために我々の大義は完全に破滅していただろう。あるいはカルタゴへと一直線に向かっていれば、彼はヨハネスとその全軍を易々と殺戮してその市とそこの財宝を保持し、近くまで来ていた我々の船団を奪取し、我々から勝利のみならず退路もまた奪っていたただろう」と明言している。
 ゲリメルは感傷的な気質の人物であった。アド・デキムムに着いて兄弟の遺体を見ると彼は完全に勇気を挫かれた。彼は大声で嘆いて遺体の埋葬以外の何も考えられなくなった。そして歴史家が言うように「彼はヘマをして好機を逃し」、その好機はもう訪れることはないものだった。
 一方でベリサリウスは逃亡兵を呼び集めて厳しい叱責でこれをまとめ上げた。起こったことを正確に知ると彼は全速でデキムムへと駆けていき、完全に無秩序になっていた蛮族軍を見て取った。彼の攻撃を待ち構えていたわけではなかった彼らはすぐに敗走し、カルタゴにではなくヌミディアに向けて西に逃げた。彼らは多くの兵士を失って戦いは夜に終わり、その頃になってヨハネスの部隊とフン族がその場に到着した。大勝利が得られたが、それはゲリメルがベリサリウスに贈った勝利であり、ベリサリウスがゲリメルを打ち負かしたのではなかった。
 デキムムで夜を越してその翌日にアントニナが歩兵と一緒に到着して全軍でカルタゴへと進撃し、彼らは夕暮れに到着した。そこの住民は門を開いて派手な明かりで勝者を歓迎した。しかしベリサリウスは用心深く、一面では待ち伏せを恐れ、一面では兵士に市での略奪をさせまいとしてその夜には入らなかった。次の日(九月一五日)に軍は戦闘隊形で入城した。罠はなく、ベリサリウスの心配は杞憂に終わった。
 彼は王座に座り、ゲリメルが自信を持って準備を命じていた晩餐を自らの勝利の見返りとして味わった。住民はその解放者を歓迎し、帝国艦隊はチュニス湖の中へ航行した。ベリサリウスは時間を無駄にせずに市壁を修理して包囲戦に耐えられるようにした。一方ヌミディアとビュザキウムのムーア人諸部族は戦いの帰趨を知ると先を争って征服者に友好の使節を送った。
 ゲリメルと彼の敗軍はブラ・レギアの平野へと逃げた。彼の最初の懸案事項はこの悪い知らせをサルディニア遠征を指揮していた兄弟のツァゾに送って彼を否応なしに呼び戻すことであった。サルディニアでのヴァンダル支配を再建するのに成功していたツァゾは兵を連れて戻ってきたため、援軍を得たゲリメルはカルタゴへと進撃した。彼は水道を切断して市内に水が供給されるのを妨げようと試み、封鎖による降伏を期待した。彼は密かに住民と帝国軍の忠誠を損なおうとして工作員を送り出した。これに彼はある程度の成功を収めた。支援軍のフン族はきたる戦いでは傍観を決め込み、勝った側の助けに回ろうと決めたようである。
 一二月の中頃にベリサリウスは解決は時間の問題だと判断した。ゲリメルはメジェルダ河畔のカルタゴから西に一二マイルほどの距離にあるトリカマロンに陣を張った。そこには彼の兵士だけでなくその妻子と財産も集められた。トリカメロンの戦いはいくつかの側面からすればアド・デキムムの戦いの再演だった。それは騎兵戦だった。ローマ歩兵は再びずっと後方にいて結果が決定的になった午後までに到着しなかった。繰り返し行われた突撃だけで鎖帷子を着たローマ騎兵は敵の戦列の突破に成功した。ツァゾと多くの最も勇敢な武将たちが倒れた。ヴァンダル軍は陣営へと敗走し、今まで戦いに参加するのを拒んでいたフン族は今や追撃に加わった。歩兵が到着してすぐに勝者は陣営に突入し、ゲリメルは全軍が敗れたのを見て取ると僅かな供回りと共にヌミディアの荒野へと逃げ出した。逃げおおせることができた全ての兵士は周辺地域の教会に逃げ込もうとした。そこには追撃の手が及ばなかった。ローマ兵は陣営に残された豊かな戦利品、女性と財宝を分捕ることしか考えなかった。将軍は規律を取り戻すには全く無力であり、彼は心配な夜を過ごした。彼は状況を知った敵の一部が無秩序な彼の兵に攻撃をかけるのではないかと恐れた。そして「もしそのような類のことが起こったならば」と、プロコピウスは言う。「ローマ兵は戦利品を味わうために逃げなかったのではないかと私は思う」。トリカマロンの勝利(五三三年一二月中頃)はヴァンダル王国を壊滅させた。しかしこれは王の脆弱さと無能さのせいだった。彼は騎兵の大きな数的優位を活かすことを考えなかった。逃げていなければ、彼はその敗北の後でさえ略奪に夢中になっている敵を殲滅できたことだろう。
 その短い遠征での作戦行動はダラの戦いでのようにローマ騎兵によって戦われて勝利が得られたものと見受けられる。数の上ではもっと多かった歩兵はアフリカではほとんど用をなさなかったのかもしれない。もしベリサリウスが有能で戦争の経験がある指揮官と戦っていれば、救いようのない敗北を喫していたかどうかには疑義の余地がある。彼の秘書官プロコピウスは戦争の結果への驚きを表現し、それは優れた戦略ではなく運命の逆説のおかげだと考えることに躊躇していない。しかしこの遠征でベリサリウスが顕著な軍事的才能を示さなかったとしても、彼が率いていた無軌道で雑多な兵をまとめる彼の技能に関しては論を俟たない。支援軍は戦利品の確保しか考えておらず、彼らは自らを独立の同盟者として考えるきらいがあった。将軍の断固たる態度と機転がなければ彼らの不羈の精神は再三再四問題を起こしていただろう。
 寺院に逃げ込んだヴァンダル兵は彼らをきちんと扱って春にコンスタンティノープルに送ると約束したローマの将軍に投降した。ゲリメルの全財産はヒッポ・レギウスにあった。そこでベリサリウスはほんの一部しかまだ占領していなかったヴァンダル族支配下にある領地の全域に皇帝の権限を主張する取り決めを行った。彼は海路でサルディニアとコルシカ、バレアレス諸島、ジブラルタル海峡にあるティンギタナのセプトゥムの要塞、そしてマウレタニア沿岸のカエサレア(シェルシェル)を手中に収めるべく分遣隊を送った。しかしローマの行政組織をアフリカ属州、とりわけ三つのマウレタニアに確立するという仕事は数年の歳月とヴァンダル族の勢力を打倒するのに要したよりもずっと骨の折れる軍事行動を要した。
 ゲリメルはヌミディアの荒れ地にあるパプア山に逃げ、そこで惨めだが難攻不落の逃げ場をムーア人の間に見出した。そこで三カ月彼とその友人たちは飢えと寒さで苦しみながらもヘルリ族の指揮官ファラスの封鎖を受け、ファラスの部下たちは山の麓の通り道を見張った。それは寒い冬の月々の飽き飽きするような見張りだった。ファラスは王に降伏を呼びかける親しげな手紙を送った。ゲリメルの誇りはその考えをまで許すには至っていなかったが、彼はファラスに一つのパン、海綿、そして竪琴を送ってくれるよう求めた。彼は山に入って以来焼いたパンを食べておらず、涙をぬぐう海綿と自身の不幸についての歌を歌うための竪琴を求めたのである。直ちに認められたその興味深い要望は悲嘆の中でも贅沢を愛するゲリメルの性格を物語っている。結局のところ(五月)信頼する召使の苦しみを不憫に思い、彼は名誉ある待遇を保障されて投降した。彼はコンスタンティノープルに送られてベリサリウスの凱旋式に花を添えた。ヒッポドロームの豪奢な主賓席に座る皇帝に謁見した時、彼は「空の空なるかな、全て空なり」と繰り返し呟いた。彼はガラティアに十分な領地を与えられ、彼がアリウス派信仰を捨てるのを断固として拒否していなければ、パトリキウスの称号を授与されたことだろう。
 ベリサリウスの指揮権の障害は部下の将軍たちが彼の最終的な成功の後に彼に対して始めた陰謀によって明らかになった。彼らは彼が王位を狙っているとほのめかす手紙を密かにコンスタンティノープル宛てに書いた。ユスティニアヌスは間違いなくその告発の持つ価値を知っていた。彼はベリサリウスにコンスタンティノープルに戻るかアフリカに留まるかの選択権を与えた。ベリサリウスは賢明にも帰国を選び、この時代においては個人に対しては例外的な栄誉であった凱旋式で賞された(五三四年)。彼は虜囚の身の王と最上位のヴァンダル族戦士を連れて戻り、莫大な財産、とりわけ皇帝の信心と正統キリスト教の感情を示す品、即ちガイセリックがローマで略奪し、ティトゥスがイェルサレムで奪ってきたソロモン王の黄金の器を持ち帰った。すぐに彼はより長く、そして一層困難な企てを委ねられることになる。





2節 定着とムーア戦争

 アフリカ属州統治に関する皇帝の計画における一般的な方針はヴァンダル族の征服があたかもなかったかのようにその全痕跡を払拭し、状況をガイセリックが来る前に戻すことであった。ユスティニアヌスの思いに近い教会での和解は容易で徹底的だった。征服されたアリウス派が崇拝していた全ての教会ではカトリックが復活し、異端派はこの上なく不寛容に扱われた。ヴァンダル族は宗教的な過ちから改宗してもなお公職から排除された。ヴァンダル族戦士の兵卒と長男は〔現地の〕女性と結婚したローマ兵の奴隷になった。蛮族の持っていた全ての不動産は申し立てができた元の持ち主に戻され、その基準は資格の捏造と終わりのない訴訟を生んだ。全ての政策の最終的な結果はアフリカにおけるヴァンダル族の人民の消滅であった。
 トリカマロンでの勝利の報を受け取るとユスティニアヌスは、すでに始めていたというわけではないならば、すぐさまアフリカの今後の統治の細部の準備をして五三四年の四月には全ての計画が公表された。その全般的な性格はヴァンダル族の征服以前の施行組織をモデルとしていたが、状況の変化のためにいくつかの変更が加えられていた。以前アフリカはイタリア道の管区だった。この差配を取ることははイタリアが東ゴート族の手にある限り続けることができなかった。そこで民政長官はアフリカ道長官の称号を与えられ、それに相応しい地位と手当を得た。七つの属州、即ちプロコンスラリス、ビュザケナ、トリポリタナ、ヌミディア、そして二つのマウレタニアスおよびサルディニアの統治者が彼の管轄下に入った。しかし二つ目つまり西側のマウレタニアの境界は、昔はヒスパニアの管区に属していたティンギタナを含む辺りにまで広がっていた。
 昔にアフリカ軍がイタリア軍司令官の指揮下に入って以来、軍事機構は軍司令官の下にあった。野戦機動軍と国境防衛軍の根本的な区別は維持されていた。野戦機動軍はベリサリウスと共に送られてきた野戦機動軍、支援軍のアフリカの現地兵(異教徒)の諸部隊から成っていた。国境防衛軍は軍管区に置かれた野戦機動部隊への権限も持った地方司令官の下で四つの管区に配分された。アフリカでのこの組織の確立は戦争と反乱によって数年間遅れたが、ベリサリウスによって彼が発つ前に始められ、ムーア人諸族の蚕食に対する武装化計画の仕上げと共に徐々に進展した。
 ムーア人はローマ人が地方の防衛の備えをしたり新たな統治機構を構築する時間を得る前に戦端を開いた。状況はかくも深刻なものとなり、ユスティニアヌスは(五三四年)秋にソロモンをベリサリウスと挿げ替えるために送り、文武双方の最高権限を彼の手に集中させた。ソロモンは道長官であると同時に軍司令官でもあった〔実のところソロモンは初代の軍司令官でしかなく、初代の道長官はアルケラウスであった(N)〕。その任命はディオクレティアヌス以来普及していた属州統治機構における原則の変化の特徴を示している。我々は他の個所でもいかにユスティニアヌスが文武の厳格な権力分離の一般的原則から離れていたかを見て取ることだろう。アフリカでは二つの官職がほとんど、ひょっとしたら三度のみ〔ソロモン(534-536年、539-543年)、テオドロス(569)の三度であるが、544年のセルギウスも追加されるかもしれない(N)〕しか一体化していなかったにもかかわらず、最初は道長官が軍司令官に従属する傾向にあり〔ゲルマヌス下のシュンマクス(536年)、アレオビンドゥス下のアタナシウス(546年)〕、世紀が終わる前には軍司令官は「総督」〔Exarchos〕という称号で本物の総督〔こちらは一般名詞としての「総督」〕になったのだろう。
 ローマの征服から七世紀のアラブの侵入までの北アフリカの歴史を主に特徴付けるのは短い平穏な時代によって中断されるムーア人との絶えざる抗争である。各々の属州には固有の敵がいた。トリポリタナはフレクシ族に、ビュザケナはロウアタ族によって脅かされており、ヌミディアの都市民はアウラシア丘陵のムーア人に怯えて暮らしていた。マウレタニアは大部分がベルベル諸族に占領されていた。ローマの行政組織は先住民の完全な帰順に成功した試しがなかった。正しい仕方を取ればそれは不可能な仕事ではなかった。しかしローマ軍は長大な国境の効果的な防衛を、数で遥かに優る軽騎兵から成る敵軍に対して維持するのには到底十分ではなかった。この数的劣勢は兵士が信用に足るならば大きな問題ではなかった。だが、彼らはいつも規律に反抗する腹づもりでいて、戦時に彼らが考えることといえば属州の防衛ではなく戦利品の確保であった。彼らは彼らの操縦術を知っていた指揮官の下では機能したが、そのような指揮官は稀であった。軍事司令官のほとんどはムーア人との関係よりも兵士との関係の方が難事だと悟った。ここで我々はローマ人がアフリカに長続きする平和を確保するのに失敗した第二の原因、即ち軍司令官のあまりにも多くが不適切な人材だったことに触れることになる。ベリサリウスのような〔有能な〕人物であったソロモンとヨハネス・トログリタの継承は、永続的で完全な平静の確立以外では、少なくとも効果的な国境防衛にはおそらく成功した。しかしこの型の指揮官が危機を切り抜けたり災難を挽回したりすると、兵士に対する統御力もムーア人を扱う才覚がなく、無経験から前任者が成し遂げた全てを無に帰すような無能者に引き継がれるのが常になった。そのような弱点とは別に、一般的な軍事政策は国境の向こうの落ち着きのない蛮族を宥めるように計算されるという道理が顕著であった。それは厳重な防衛政策であった。属州中に迅速に建てられた要塞の精巧な体制は住民の役に立ったがそれでは襲撃を防げず、ローマ人だけがローマ人の土地への襲撃に対抗することになった。蠢動の印があればローマ軍が何時なりと攻勢に出て、ムーア人を彼ら自身の土地で攻撃するために国境を越えて遊撃隊を繰り出していればさらに効果的であったことだろう。結局のところムーア人のもたらす危険への対応の不成功は一部では不完全で一貫しない外交のせいであった。
 ローマ人にアフリカを統御し続けることを可能ならしめた状況としてはムーア人の間の分裂という一つの事実があった。ローマ人は何度もムーア人が統一的な戦いを決めていれば帝国軍を簡単に海へと追い落とせていたような痛烈な災難を経験した。しかし酋長たちの嫉妬と不和が統一的な行動を妨げ、ある者が敵対行動を始めたならば、概してローマ人は彼の隣人の静止なり支援を頼むことができた。
 アフリカに着くと(五三四年)ソロモンはすぐに〔ビュザケナの王〕クトシナおよびビュザケナを襲っていた他のムーア人指導者たちとの戦いに入り、その一方で〔アウラシア丘陵のムーア人の王〕イアブダスはヌミディアを荒らしていた。ソロモンはマンマで前者〔クトシナ〕を破ったが、それは決定的なものとならなかった。彼らは援軍と共に戻ってきて重要なブルガオン山の戦い(五三五年の初頭)で徹底的に打ち負かされた。ヌミディアのムーア人に対する続く夏の遠征は成功したが、ソロモンはヌミディアとビュザケナの主要街道に沿った砦を建設して時間を無駄にしなかった。五三六年に皇帝は平和が確立され、ムーア人は征服されたと見なした。
 土着民を監視し続ける仕事は少なくとも当初は順調であったが、軍人の危険な反乱によって妨げられた。
 その反乱には様々な原因がある。支払われるべきであった税が未納になっていたために兵士の給料が滞っていた。戦利品の分配に関する不満があった。開始された偏狭な宗教政策に不満を持っていた多くのアリウス派が軍内の蛮族支援軍にいた。ヴァンダル族の女性と結婚していた兵士は彼女らの父なり夫のものであり、国家に没収されていた土地を要求した。何よりもソロモンは追従によって規律を加減する術を理解しておらず、将官からも兵士からも好かれなかった。復活祭の時に彼を殺す陰謀が企まれた(五三六年)。実行のために選ばれた者に勇気が足りなかったためにそれは失敗に終わり、次いで発覚を恐れた多くの不穏分子がカルタゴを去ってブッラ・レギアの平野に集まった。後に残された者はすぐに大人しい仮面を脱ぎ捨てて市は殺戮と略奪の場となった。ソロモンは副官のテオドロスとマルティヌスに自分がいなくてもできることを成すよう託して裁判補佐官で歴史家のプロコピウスと共に夜に逃げ、その島の征服を完了したばかりのベリサリウスに助けを求めるべくシチリア島まで航行した。ベリサリウスは時間を無駄にせずカルタゴまで向かい、そこでテオドロスが反徒に包囲されていたのを知った。この反徒はマルティヌスの私兵の一人ストツァス指揮下のおよそ九〇〇〇人の兵力であった。この成り上がり者はアフリカに自身の独立王国を打ち立てようと計画していた。
 テオドロスはベリサリウスが到着した時には降伏する間際であり、彼の出現の知らせを受けた反徒たちは急いで囲みを解いてヌミディアへの道を取った。それはヴァンダル族の征服者の名声への最高の賛辞となった。カルタゴで忠誠を維持していた少数の兵士および自身が引き連れていた一〇〇人の選り抜きの兵士を率いてベリサリウスはメンブレッサでストツァスに追いついて彼を破った。反徒は逃亡したが、屈服はしなかった。シチリアからの知らせで否応なしに呼び戻されたためにベリサリウスは留まることができなかった。ソロモンは現場から引き、テオドロスとイルディゲルという二人の将官がソロモンの後任を皇帝が任命するまでの責任を持つようベリサリウスは取り計らった。彼の出発の後すぐに状況は悪化し、ストツァスの退路を絶とうと動かされていたヌミディア駐留部隊が彼への支持を宣言した。今や軍の三分の二が反乱状態となった。
 ユスティニアヌスはこの重大な危機に適切に奮起した。彼はそれを処理するのに適切な人物である甥ゲルマヌスを送ったわけだが、このゲルマヌスはパトリキウス、そしてトラキアの軍司令官としてドナウ方面で戦争経験を積んだ人物だった。彼は特権を帯びたアフリカの軍司令官に任命され、皇族の成員としての声望の影響で反徒に忠誠心を呼び戻すことが期待された。彼の最初の行動は自分は暴徒を殺すためではなく、彼らの不満を検討して調整するために来たのだと発表することであった。彼の発表はすぐに効果を発揮した。多くの兵士が反乱軍の陣営を去ってカルタゴに出頭してきた。彼らが気前よく扱われて反乱に与していた数週間分の滞っていた給与を受け取っていたのを知ると、多くの者がストツァスの主張を見捨て、ゲルマヌスは自らの戦力が反乱軍と互角になったと悟った。ストツァスは自身の唯一の好機が即座に打ち砕かれたと見て取るとカルタゴに向かった。決死の戦いがスカラス・ウェテレス(ケッラス・ヴァタリ)で戦われ(五三七年)、反乱軍が敗れた。ゲルマヌスへの支援を約束していたイアブダスと他の酋長指揮下のムーア軍は戦いの傍観者であったが、いつものやり方に則って勝利が決定的になるまで参加せず、そして疲弊した勝者になる代わりに追撃に参加した。
 ゲルマヌスは二年間アフリカに留まって軍の規律の再建に成功した。次いで経験豊富なソロモンが彼の後任になって属州の軍事組織と防衛体制の完成を図るために送られ(五三九年)、ユスティニアヌスはこの件に非常に関心を持った。彼は軍から疑わしかったり危険だと思った者全員を排除してイタリアなり東部に送ることから着手し、アフリカから反乱を扇動に大いに関わったヴァンダル族の女性を追い出した。アウラシアのムーア人に対する遠征の成功の後、彼はヌミディアとマウレタニア・シティフェンシスに確固たる勢力を打ち立て、町々の防衛強化のために多くの仕事をして数百の砦を建てた。アフリカは次々と起こった難事の間の、そして教会管区長たちが後悔と共に振り返った束の間の平和を享受した。
 五四二年と五四三年に帝国に壊滅的打撃を与えた大規模なペストがアフリカに到来して軍から多くの犠牲者が出た。同時にムーア人による新しい難題が脅威となった。ソロモンの精勤と能力を徐々に認めだした皇帝は彼の甥セルギウスをトリポリタナの地方司令官に任命した。これは完全に間違った任命だった。セルギウスは無能で尊大、そして放蕩であった。彼は勇敢な戦士でさえなく、現地人に不快感を与えることを避けることができない良く知られた型の支配者であることを証明した。ルアタの代表団になされた横柄な侮辱は人々を蜂起へと駆り立て、その不運な偶然によって同時にソロモンは今までは友好的だった〔フレクシ族の〕有力首長アンタラスの不興を買った。ムーア人は軍を合体させ、キリウムの戦い(五四四年)でローマ軍は完敗を喫してソロモンは殺された。
 帝国のアフリカ支配は再び重大な危機に陥った。その敗北の知らせは国境沿いの全ベルベル人を奮起させ、西ゴート族さえその期に海峡を越えて軍を送ってきて不成功に終わったもののセプトゥムを包囲した。皇帝は無能で不人気なセルギウスをソロモンの後任に任命するという致命的な失敗をやらかしてしまったのだ。ゲルマヌスに敗れてマウレタニアの荒れ地に僅かな手勢と共に生きながらえていたストツァスは今や戦線復帰してアンタラスのムーア人と手を結び、一方のセルギウスは部下と争っていた。彼を更迭する代わりにユスティニアヌスは二人目の無能な指揮官であり、自身の姪プラエイエクタと結婚していたアレオビンドゥスを送った。彼はアレオビンドゥスをセルギウスと同格としたが、彼にビュザケナ軍の、セルギウスにはヌミディア軍の指揮権を持たせた。二人の将軍が共調することはなく、不幸がもたらされた。彼らをセルギウスの援軍を当てにしていたビュザケナ軍は、彼によって窮地に見捨てられてシッカ・ウェネリア(エル・ケフ)とカルタゴの間にあるタキアで惨敗を喫した(五四五年末)。この災難の後にセルギウスは解任されてアレオビンドゥスが彼に取って代わった。この小心者は数ヶ月で陰謀によって退場した。ヌミディアの地方司令官グンタリスはストツァスの側につこうと望み、数人のムーア人首長と気脈を通じて突如カルタゴの宮殿を占領し、アレオビンドゥスは殺された(五四六年五月)。プラエイエクタはグンタリスの手に落ち、彼は彼女との結婚を計画した。しかしグンタリスの権勢は一ヶ月余りで終わった。軍の一部は忠誠を保ち続けて一人のアルメニア人将官、アルタバネスを指導者として見出し、彼は宴の席で反徒を殺した(五月)。ユスティニアヌスはアルタバネスをアフリカの軍司令官に任命し、プラエイエクタは自らの救済者に自身をその手で抱擁するよう申し込んだ。しかしアルタバネスは既婚者であり、テオドラは離婚を許さなかった。彼はプラエイエクタをコンスタンティノープルに連れて帰り、皇帝は御前軍司令官と支援軍長官の地位を創設してアルタバネスを慰撫しようとした。
 状況は嘆かわしいものだった。先の三年間のムーア人の略奪で属州は消耗して人口は激減していた。最終的にユスティニアヌスは幸運な任命をすることになった。ベリサリウスとソロモンの下で非凡さを発揮しており、その地方の状況を徹底的に精通していたヨハネス・トログリタが軍事的才能の新たな証拠を示していた東部から呼び戻され、アフリカ軍の指揮権を振るうために送り込まれた(五四六年末)。幸運なことにムーア人は分散しており、ヨハネスは将軍であると同時に外交官でもあった。彼は自身の遠征にムーア人の派遣軍の助けを確保することができた。五四七年初めに彼は最も危険な敵手アンタラスに決定的な勝利を得た。しかしアフリカの問題はまだ終わらなかった。数か月後にカルカサン指導下でトリポリタナのベルベル人が蜂起し、ガリカの平原で帝国軍に圧倒的な勝利を収めた。アンタラスは再び挙兵して勝ち誇った隣人の側に加わった。しかしローマの目的はカトーの野での大規模な戦いで取り戻され、そこではカルカサンを含む一七人のムーア人の指導者が倒れた(五四八年頭)。この勝利はアフリカに四〇年近くの完全な平穏を確保した。帝国と従属するムーア人諸侯との関係は更新されて改められた。属州の統治機構は標準的な土台の上に置かれた。住民と荒廃した土地は荒廃から時間をかけて立ち直った。国境の軍事的防衛体制は再建され改善された。大勝利の後四年ほどアフリカを統治した模様のヨハネス・トログリタはベリサリウスとソロモンと並んで帝国のアフリカ再占領における三人目の英雄として際立っている。彼の事績はアフリカの詩人コリップスを触発し、彼の『ヨハンニス』は我々に我々の知る彼の遠征のほとんど全てを物語っている。
 ユスティニアヌスはアフリカでの更なる戦争を経験することになり、完全にそれは軍事統治者の愚かな背信のせいであるように見受けられる。年老いた酋長クトシナの忠誠は例年の年金で繋ぎ止められていた。五六三年にカルタゴへと金の受取のためにやって来た時、彼は軍司令官ヨハネス・ロガティヌスの命で暗殺された。この犯罪行為の動機は知られていないが、殺されたムーア人の息子たちはすぐにヌミディアで反旗を翻した。属州の戦力はその反乱に抗するには十分とは言えず、皇帝は甥のマルキアヌス指揮下で軍を送ることを余儀なくされ、彼はおそらく外交的手段で平和を取り戻すのに成功した。





3節 属州の要塞化

 ムーア人と戦うと同時にソロモンは蛮族の将来的な襲撃に対するアフリカ属州の防衛力強化の大計画を実行に移した。彼は古い町々を要塞化・再建し、新しい砦を建設した。要塞の建設はユスティニアヌスの政策の顕著な特徴の一つであった。東方、バルカン半島、そしてアフリカで敵に曝されていた全ての属州は慎重に考え抜かれた原則の上で建設された砦で守られた。しかしアフリカでは土壌が町の廃墟で覆われていたため、最もうまく機能する防衛体制が研究された。未だに見られるソロモンの時代まで遡る多くの城壁と砦は今日の軍事の手引書に載っている原則と規則についての最良の解説である。
 要塞化された町々は小さな砦の鎖と連結され、第一の国境防衛線を成した。この向こう側には第二の防壁、即ちより大規模な守備隊のいるより大きな諸都市があり、それらは全て侵入の際には住民が避難できるようになっていた。国境に配置された見張りが部族の差し迫った動きを見つけると夜には火、昼には狼煙の合図という古いやり方で警報を出し、これによって村々の人々は城壁に囲まれた町に逃げ込む時間を得て内陸地の守備隊は準備ができた。
 多くの場合、町は城壁で完全に囲まれ、一部の場合は分離した砦で補助的に守られていた。他の場合には町々は開かれており、砦によって守られていた。ビュザケナの国境のテヴェステ、テレプテ、そしてアマエデラにある隣接する要塞群は三つの型の好例を示している。完全に要塞化された町の特徴は塔が備え付けられた城壁、外側の城壁、そして堀であり、二つの城壁の間の空間は開けた地域から群れをなしてやって来た緊急時の避難者を収容できる程度には広い。しかしこの設計は例外なく見られるものではなく、時折外側の城壁や堀がなかったりする。この多様性は地域的な状況に依存しており、砦の形は自然の地形に応じていた。可能であれば正方形の形が採用されたが、非常に不規則な形が地形のために時折必要であった。テヴェステはよく保存された大型要塞の例であり、それは〔縦横がそれぞれ〕およそ三五〇ヤードと三〇五ヤードの大きさの長方形で、三つの門と端の塔があった。より小さい城郭(一二二ヤードと七五ヤード)であるタムガディはそれぞれの角とそれぞれの辺の中央に塔があった。レムサのような小さい砦は四辺のそれぞれに塔があった。
 ビュザケネ州のカプサ(ガフサ)からマウレタニア・シティフェンシスのサビ・ユスティニアナとタマラまでの長い要塞の線はアウラシア山脈の北側の山麓の丘陵地帯を辿ることができる。テレプテ、テヴェステ、アマエデラおよびその北のマスクラとバガイ、タムガディ、ランビリディ、ケラエ、そしてトゥブナエは主要な軍事上の要地であり、小さな要塞と砦と繋げられることで側面を守られていた。南からの侵入者がこの線を通過すれば、住民はビュザケナのスフェス(スビバ)とクシラ(ケッセラ)、総督属州のラリブス(ロルベウス)、シッカ・ウェレリア(ケフ)、トゥブルシウム・ブエ(テブルスク)、ティグニカ(アイン・トゥンガ)、ヌミディアのマダウラ(ムダウレク)、ティパサ(ティフェク)、カラマ(グエルマ)、ティギシス(アイン・エル・ボルジュ)といった上に述べたような内側の少数の軍事的要地に避難所を求めた。
 マウレタニア諸州はより簡単に保持された。ユスティニアヌスがガデス海峡のセプトゥムの要塞の難攻不落の城壁による補強に留意したことを見るのは興味深い。この帝国の最前哨基地は監視の要であった。即ち海峡を監視し、スペインとガリアの政治的事件の情報を集め、上司であるマウレタニアの地方司令官に報告を送ることは忠実で分別のある指揮官に委ねられるべきであると彼は指示した。

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