2節 定着とムーア戦争

 アフリカ属州統治に関する皇帝の計画における一般的な方針はヴァンダル族の征服があたかもなかったかのようにその全痕跡を払拭し、状況をガイセリックが来る前に戻すことであった。ユスティニアヌスの思いに近い教会の和解は容易で徹底的だった。征服されたアリウス派が崇拝していた全ての教会ではカトリックが復活し、異端派はこの上なく不寛容に扱われた。ヴァンダル族は宗教的な過ちから改宗してもなお公職から排除された。ヴァンダル族戦士の兵卒と長男は〔現地の〕女性と結婚したローマ兵の奴隷になった。蛮族の持っていた全ての不動産は申し立てができた元の持ち主に戻され、その基準は資格の捏造と終わりのない訴訟を生んだ。全ての政策の最終的な結果はアフリカにおけるヴァンダル族の人民の消滅であった。
 トリカマロンでの勝利の報を受け取ると、ユスティニアヌスはすでに始めていたというわけではないならば、すぐにアフリカの今後の統治の細部の準備をして五三四年の四月には全ての計画が公表された。その全般的な性格はヴァンダル族の征服以前の施行組織をモデルとしていたが、状況の変化のためにいくつかの変更が加えられていた。以前アフリカはイタリア道の管区だった。この差配はイタリアが東ゴート族の手にある限り続けることができなかった。そこで民政長官はアフリカ道長官の称号を与えられ、それに相応しい地位と手当を得た。七つの属州、即ちプロコンスラリス、ビュザケナ、トリポリタナ、ヌミディア、そして二つのマウレタニアスおよびサルディニアの統治者が彼の下に入った。しかし二つ目つまり西側のマウレタニアの境界は、昔はヒスパニアの管区に属していたティンギタナを含む辺りにまで広がっていた。
 昔アフリカ軍がイタリア軍司令官の指揮下に入って以来、軍事機構は軍司令官の下にあった。野戦機動軍と国境防衛軍の根本的な区別は維持されていた。野戦機動軍はベリサリウスと共に送られてきた野戦機動軍、支援軍のアフリカの現地兵(異教徒)の諸部隊から成っていた。国境防衛軍は軍管区に置かれた野戦機動部隊への権限も持った地方司令官の下で四つの管区に配分された。アフリカでのこの組織の確立は戦争と反乱によって数年間遅れたが、ベリサリウスによって彼が発つ前に始められ、ムーア人諸族の蚕食に対する武装化計画の仕上げと共に徐々に進展した。
 ムーア人はローマ人が地方の防衛の備えをしたり新たな統治機構を構築する時間を得る前に戦端を開いた。状況はかくも深刻なものとなり、ユスティニアヌスは(五三四年)秋にソロモンをベリサリウスと挿げ替えるために送り、文武双方の最高権限を彼の手に集中させた。ソロモンは道長官であると同時に軍司令官であった〔実のところソロモンは初代の軍司令官でしかなく、初代の道長官はアルケラウスであった(N)〕。その任命はディオクレティアヌス以来普及していた属州統治機構における原則の変化の特徴を示している。我々は他の個所でもいかにユスティニアヌスが文武の厳格な権力分離の一般的原則から離れていたかを見て取ることだろう。アフリカでは二つの官職がほとんど、ひょっとしたら三度のみ〔ソロモン(534-536年、539-543年)、テオドロス(569)の三度であるが、544年のセルギウスも追加されるかもしれない(N)〕しか一体化していなかったにもかかわらず、最初は道長官が軍司令官に従属する傾向にあり〔ゲルマヌスの下のシュンマクス(536年)、アレオビンドゥスの下のアタナシウス(546年)〕、世紀が終わる前には軍司令官は「総督」〔Exarchos〕という称号で本物の総督〔こちらは一般名詞としての「総督」〕になったのだろう。
 ローマの征服から七世紀のアラブの侵入までの北アフリカの歴史を主に特徴付けるのは短い平穏な時代によって中断されるムーア人との絶えざる抗争である。各々の属州には固有の敵がいた。トリポリタナはフレクシ族に、ビュザケナはロウアタ族によって脅かされており、ヌミディアの都市民はアウラシア丘陵のムーア人に怯えて暮らしていた。マウレタニアは大部分がベルベル諸族に占領されていた。ローマの行政組織は先住民の完全な帰順に成功した試しがなかった。正しい仕方を取ればそれは不可能な仕事ではなかった。しかしローマ軍は長大な国境の効果的な防衛を、数で遥かに優る軽騎兵から成る敵軍に対して維持するのにほとんど十分ではなかった。この数的劣勢は兵士が信用に足るならば大きな問題ではなかった。だが、彼らはいつも規律に反抗する腹づもりでいて、戦時に彼らが考えることといえば属州の防衛ではなく戦利品を確保であった。彼らは彼らの操縦術を知っていた指揮官の下では機能したが、そのような指揮官は稀であった。軍事司令官のほとんどはムーア人との関係よりも兵士との関係の方が難事だと悟った。ここで我々はローマ人がアフリカに長続きする平和を確保するのに失敗した第二の原因、即ち軍司令官のあまりにも多くが不適切な人材だったことに触れることになる。ベリサリウスのような〔有能な〕人物であったソロモンとヨハネス・トログリタの継承は、永続的で完全な平静の確立以外では、少なくとも効果的な国境防衛にはおそらく成功した。しかしこの型の指揮官が危機を切り抜けたり災難を挽回したりすると、兵士に対する統御力もムーア人を扱う才覚がなく、無経験から前任者が成し遂げた全てを無に帰すような無能者に引き継がれるのが常となっていた。そのような弱点とは別に、一般的な軍事政策は国境の向こうの落ち着きのない蛮族を宥めるように計算されるという正義が顕著であった。それは厳重な防衛政策であった。属州中に迅速に建てられた要塞の精巧な体制は住民の役に立ったが、それらは襲撃を防げず、ローマ人だけがローマ人の土地への襲撃に対抗することになった。蠢動の印があればローマ軍が何時なりと攻勢に出て、ムーア人を彼ら自身の土地で攻撃するために国境を越えて遊撃隊を繰り出していればさらに効果的であったことだろう。結局のところムーア人のもたらす危険への対応の不成功は一部では不完全で一貫しない外交のせいであった。
 ローマ人にアフリカを統御し続けることを可能ならしめた状況としてはムーア人の間の分裂という一つの事実があった。ローマ人は何度もムーア人が統一的な戦いを決めていれば帝国軍を簡単に海へと追い落とせていたような痛烈な災難を経験した。しかし酋長たちの嫉妬と不和が統一的な行動を妨げ、ある者が敵対行動を始めたならば、概してローマ人は彼の隣人の静止なり支援を頼むことができた。
 アフリカに着くと(五三四年)ソロモンはすぐに〔ビュザケナと同じ地方の王〕クトシナおよびビュザケナを襲っていた他のムーア人指導者たちとの戦いに入り、その一方で〔アウラシア丘陵のムーア人の王〕イアブダスはヌミディアを荒らしていた。ソロモンはマンマで前者〔クトシナ〕を破ったが、それは決定的なものとならなかった。彼らは援軍と共に戻ってきて重要なブルガオン山の戦い(五三五年の初頭)で徹底的に打ち負かされた。ヌミディアのムーア人に対する続く夏の遠征は成功したが、ソロモンはヌミディアとビュザケナの主要街道に沿った砦を建設する時間を無駄にしなかった。五三六年に皇帝は平和が確立され、ムーア人は征服されたと見なした。
 土着民を監視し続ける仕事は少なくとも当初は順調であったが、軍人の危険な反乱によって妨げられた。
 その反乱には様々な原因がある。支払われるべきであった税が未納になっていたために兵士の給料が滞った。戦利品の分配に関する不満があった。開始された偏狭な宗教政策に不満を持っていた多くのアリウス派が軍内の蛮族支援軍にいた。ヴァンダル族の女性と結婚していた兵士は彼女らの父なり夫のものであり、国家に没収されていた土地を要求した。何よりもソロモンは追従によって規律を加減する術を理解しておらず、将官からも兵士からも好かれなかった。復活祭の時に彼を殺す陰謀が企まれた(五三六年)。実行のために選ばれた者に勇気が足りなかったためにそれは失敗に終わり、次いで発覚を恐れた多くの不穏分子がカルタゴを去ってブッラ・レギアの平野に集まった。後に残された者はすぐに大人しさの仮面を脱ぎ捨てて市は殺戮と略奪の場となった。ソロモンは副官のテオドロスとマルティヌスに自分がいなくてもできることを成すよう託して裁判補佐官で歴史家のプロコピウスと共に夜に逃げ、その島の征服を完了したばかりのベリサリウスに助けを求めるべくシチリア島まで航行した。ベリサリウスは時間を無駄にせずカルタゴまで向かい、そこでテオドロスが反徒に包囲されていたのを知った。この反徒はマルティヌスの私兵の一人ストツァス指揮下のおよそ九〇〇〇人の兵力であった。この成り上がり者はアフリカに自身の独立王国を打ち立てようと計画していた。
 テオドロスはベリサリウスが到着した時には降伏する間際であり、彼の出現の知らせを受けて反徒たちは急いで囲みを解いてヌミディアへの道を取った。それはヴァンダル族の征服者の名声への最高の賛辞となった。カルタゴで忠誠心を維持していた少数の兵士および自身が引き連れていた一〇〇人の選り抜きの兵士を率いてベリサリウスはメンブレッサでストツァスに追いついて彼を破った。反徒は逃亡したが、屈服はしなかった。シチリアからの知らせで否応なしに呼び戻されたためにベリサリウスは留まることができなかった。ソロモンは現場から引き、二人の将官テオドロスとイルディゲルはソロモンの後任を皇帝が任命するまでの責任を持つようベリサリウスは取り計らった。彼の出発の後すぐに状況は悪化し、ストツァスの退路を絶とうと動かされていたヌミディア駐留部隊が彼への支持を宣言した。今や軍の三分の二が反乱状態となった。
 ユスティニアヌスはこの重大な危機に適切に奮起した。彼はそれを処理するのに適切な人物である甥ゲルマヌスを送ったわけだが、このゲルマヌスはパトリキウス、そしてトラキアの軍司令官としてドナウ方面で戦争経験を積んだ人物だった。彼は特権を帯びたアフリカの軍司令官に任命され、皇族の成員としての声望の影響で反徒に忠誠心を呼び戻すことが期待された。彼の最初の行動は自分は暴徒を殺すためではなく、彼らの不満を検討して調整するために来たのだと発表することであった。彼の発表はすぐに効果を発揮した。多くの兵士が反乱軍の陣営を去ってカルタゴに出頭してきた。彼らが気前よく扱われて反乱に与していた数週間分の滞っていた給与を受け取っていたのを知ると、多くの者がストツァスの主張を見捨て、ゲルマヌスは自らの戦力が反乱軍と互角になったと悟った。ストツァスは自身の唯一の好機が即座に打ち砕かれたと見て取るとカルタゴに向かった。決死の戦いがスカラス・ウェテレス(ケッラス・ヴァタリ)で戦われ(五三七年)、反乱軍が敗れた。ゲルマヌスの支援を約束していたイアブダスと他の酋長指揮下のムーア軍は戦いの傍観者であったが、いつものやり方に則って勝利が決定的になるまで参加せず、そして疲弊した勝者になる代わりに追撃に参加した。
 ゲルマヌスは二年間アフリカに留まって軍の規律の再建に成功した。次いで経験豊富なソロモンが彼の後任になって属州の軍事組織と防衛体制の完成を図るために送られ(五三九年)、ユスティニアヌスはこの件に非常に関心を持っていた。彼は軍から疑わしかったり危険だと思った者全員を排除してイタリアなり東部に送ることから手を付け、アフリカから反乱を扇動に大いに関わったヴァンダル族の女性を追い出した。アウラシアのムーア人に対する遠征の成功の後、彼はヌミディアとマウレタニア・シティフェンシスに確固たる勢力を打ち立て、町々の防衛強化のために多くの仕事をして数百の砦を建てた。アフリカは次々と起こった難事の間の、そして教会管区長たちが後悔と共に振り返った束の間の平和を享受した。
 五四二年と五四三年に帝国に壊滅的打撃を与えた大規模なペストがアフリカに到来して軍から多くの犠牲者が出た。同時にムーア人による新しい難題が脅威となった。ソロモンの精勤と能力を徐々に認めだした皇帝は彼の甥セルギウスをトリポリタナの地方司令官に任命した。それは完全に間違った任命だった。セルギウスは無能で尊大、そして放蕩であった。彼は勇敢な戦士でさえなく、現地人に不快感を与えることを避けることができない良く知られた型の支配者であることを証明した。ルアタの代表団になされた横柄な侮辱は人々を蜂起へと駆り立て、その不運な偶然によって同時にソロモンは今までは友好的だった〔フレクシ族の〕有力首長アンタラスの不興を買った。ムーア人は軍を合体させ、キリウムの戦い(五四四年)でローマ軍は完敗を喫してソロモンは殺された。
 帝国のアフリカ支配は再び重大な危機に陥った。その敗北の知らせは国境沿いの全ベルベル人を奮起させ、西ゴート族さえその期に海峡を越えて軍を送ってきて不成功に終わったもののセプトゥムを包囲した。皇帝は無能で不人気なセルギウスをソロモンの後任に任命するという致命的な失敗をやらかしてしまったのだ。ゲルマヌスに敗れてマウレタニアの荒れ地に僅かな手勢と共に生きながらえていたストツァスは今や戦線復帰してアンタラスのムーア人と手を結び、一方のセルギウスは部下と争っていた。彼を更迭する代わりにユスティニアヌスは二人目の無能な指揮官であり、自身の姪プラエイエクタと結婚していたアレオビンドゥスを送った。彼はアレオビンドゥスをセルギウスと同格としたが、彼にビュザケナ軍の、セルギウスにはヌミディア軍の指揮権を持たせた。二人の将軍が共調することはなく、不幸がもたらされた。ビュザケナ軍はセルギウスの支持を当てにしたため、シッカ・ウェネリア(エル・ケフ)とカルタゴの間にあるタキアでひどい敗北を喫した時に彼を置き去りにした(五四五年末)。この災難の後にセルギウスは解任されてアレオビンドゥスが彼に取って代わった。この小心者は数ヶ月で陰謀によって退場した。ヌミディアの地方司令官グンタリスはストツァスの側につこうと望み、数人のムーア人首長と気脈を通じて突如カルタゴの宮殿を占領し、アレオビンドゥスは殺された(五四六年五月)。プラエイエクタはグンタリスの手に落ち、彼は彼女との結婚を計画した。しかしグンタリスの権勢は一ヶ月余りで終わった。軍の一部は忠誠を保ち続けて一人のアルメニア人将官アルタバネスを指導者として見出し、彼は宴の席で反徒を殺した(五月)。ユスティニアヌスはアルタバネスをアフリカの軍司令官に任命してプラエイエクタは自らの救済者に自身をその手に抱いてくれるよう申し込んだ。しかしアルタバネスは既婚であり、テオドラは離婚を許さなかった。彼はプラエイエクタをコンスタンティノープルに連れて帰り、皇帝は御前軍司令官と支援軍長官の地位を創設してアルタバネスを慰撫しようとした。
 状況は嘆かわしいものだった。先の三年間のムーア人の略奪で属州は消耗して人口は激減していた。最終的にユスティニアヌスは幸運な任命をすることになった。ベリサリウスとソロモンの下で非凡さを発揮しており、その地方の状況を徹底的に精通していたヨハネス・トログリタが軍事的才能の新たな証拠を示していた東部から呼び戻され、アフリカ軍の指揮を振るうために送り込まれた(五四六年末)。幸運なことにムーア人は分散しており、ヨハネスは将軍であると同時に外交官でもあった。彼は自身の遠征にムーア人の派遣軍の助けを確保することができた。五四七年初めに彼は最も危険な敵手アンタラスに決定的な勝利を得た。しかしアフリカの問題はまだ終わらなかった。数か月後にカルカサン指導の下でトリポリタナのベルベル人が蜂起し、ガリカの平原で帝国軍に圧倒的な勝利を収めた。アンタラスは再び挙兵して勝ち誇った隣人の側に加わった。しかしローマの目的はカトーの野での大規模な戦いで取り戻され、そこではカルカサンを含む一七人のムーア人の指導者が倒れた(五四八年頭)。この勝利はアフリカに四〇年近くの完全な平穏を確保した。帝国と従属するムーア人諸侯との関係は更新されて改められた。属州の統治機構は標準的な土台の上に置かれた。住民と荒廃した土地は荒廃から時間をかけて立ち直った。国境の軍事的防衛体制は再建され改善された。大勝利の後四年ほどアフリカを統治した模様のヨハネス・トログリタはベリサリウスとソロモンと並んで帝国のアフリカ再占領における三人目の英雄として際立っている。彼の事績はアフリカの詩人コリップスを触発し、彼の『ヨハンニス』は我々に我々の知る彼の遠征のほとんど全てを物語っている。
 ユスティニアヌスはアフリカでの更なる戦争を経験することになり、完全にそれは軍事統治者の愚かな背信のせいであるように見受けられる。年老いた酋長クトシナの忠誠は例年の年金で繋ぎ止められていた。五六三年にカルタゴへと金の受取のためにやって来た時、彼は軍司令官ヨハネス・ロガティヌスの命で暗殺された。この犯罪行為の動機は知られていないが、殺されたムーア人の息子たちはすぐにヌミディアで反旗を翻した。属州の戦力はその反乱に抗するには十分とは言えず、皇帝は甥のマルキアヌス指揮下で軍を送ることを余儀なくされ、彼はおそらく外交的手段で平和を取り戻すのに成功した。

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