一節 ローマ軍

 前章で述べられたアナスタシウスの将軍たちによって行われたペルシア戦争に関する記録は帝国軍の性質と組成についての僅かな情報を我々にもたらしている。しかしその軍事機構はすでに我々がユスティニアヌスの治世の後半の四半世紀で見て取ったものと同じ種類のものであったというのはありうるということは理解できよう。五世紀中に軍組織は我々の乏しい情報の典拠で辿ることができないかなりの変化を経ていた。その時代の間、テオドシウス二世の初期以来の期間、我々のもとには軍事機構の一覧、軍事についての論文、軍事の著述がない。ユスティニアヌスの治世に差し掛かると、そこにあるその十分な証拠のために我々は四世紀の古い制度はいくつかの重要な面で変わったことを見て取る。
 軍司令官の大権、そして野戦機動軍と国境防衛軍の区別は変わらなかったが、軍団、大隊、翼軍といった古いローマ軍のおなじみの単位は名実共になくなり、野戦機動軍と国境防衛軍には新しい組織である支援軍が追加され、その語は四世紀に持っていたのとは異なった意味を持たされた。
 独立の軍事的単位は今や概して二〇〇人から四〇〇人の兵士の中隊であるヌメルスであるが、時折その人数は上下していた。昔は軍団を町の守備のために分ける必要があったが、今の組織では各々の町は完結した、あるいは完結した単位よりも一層完結した単位を有していた。それらの部隊は軍団長の指揮下にあった。
 首都に置かれた親衛隊を別にすれば帝国の軍事力は主に五つのカテゴリーの下にある。(一)野戦機動軍。この用語はあまり使われていない。その部隊は帝国のトラキアの高地、イリュリクムとイサウリアの臣民のうちからほとんど独占的に徴募され、この時には概してローマの正規軍ストラティオタイとして軍の他の部隊からは区別されている。
 (二)国境防衛軍。これは以前と同じ条件で国境防衛という同じ義務を果たした。(三)支援軍。これは五世紀に組織され、ベリサリウスの遠征の歴史が我々に明らかにする新しく、そして目立った特徴を持っていた。彼らは野戦軍のうちで最も有用な部隊であり、全部が騎兵から構成されていた。彼らは元々は蛮族のうちから高給で雇われ、帝国の軍務に志願してローマ人将官の下でローマ兵として組織されていた。しかし六世紀にローマの臣民たちはこの部隊への入隊は禁止されていなかった。支援軍という語のこのような軍を指示する語への下落は非常に幸福なことというわけではなく、自然的に現代の歴史家たちの、(四)その名が四世紀には適切に適用されていた「同盟軍」として今は〔支援軍とは〕区別される部隊との混同を生んだ。例えばフン族やヘルリ族といった蛮族の部隊はその民族の首長に率いられ、帝国との協定に拘束され、土地なり年毎の援助金と引き替えに提供される武装戦力であった。
 それらに我々は(五)政府に勤めず、軍指揮官の私兵であったもう一つの戦闘部隊を追加する。武装した子分の部隊を維持するという習慣の起こりはまだ分かっていない。将軍と近衛長官のみならず、下位の将官と富裕な私人たちにもまたそれは取り入れられていた。私兵の規模は雇い主の財産に応じていた。金持ちだったベリサリウスは一時は七〇〇〇人もの兵を維持していた。
 私兵には兵卒であったヒュパスピスタイ、つまり盾持ちと、地位が高くて数が少なく、士官に対応するドリュフォロイ、つまり槍持ちという二つの明確な分類があった。ベリサリウス自身とシッタスは帝位に登る前のユスティニアヌスの私兵のドリュフォロイであった。ドリュフォロイは軍務を受ける際には雇い主への忠誠だけでなく、皇帝への忠義への厳粛な誓いを強いられ、それは政府による公的な認知を暗示している。彼らはしばしば内密の任務に就き、食事の際には主君の近くに控えて立ち、戦いでは近くで付き従った。ドリュフォロイとヒュパスピスタイはいずれも全て騎馬部隊であったようである。彼らの大部分は外人(フン族とゴート族)あるいはトラキアと小アジアの山岳民であった。
 一般的に六世紀の遠征において我々は主に野戦機動軍と支援軍から編成されてはいるが、常に私兵と蛮族の同盟者によって補強された軍を見て取る。一つの軍は概して戦場では数にして一五〇〇〇人から二五〇〇〇人であり、それを上回ることはおそらく滅多になく、四〇〇〇〇人が例外的な規模であった。ユスティニアヌスの帝国軍の総兵力は一五万人と推定された。
 帝国軍の戦術と装備は東方の敵の軍事慣習へ順応する必要性のために相当の変化を被った。この時代には制度と組織においてペルシア人はあまりローマ人とは変わらず、少し意味に違いはあれどローマ人の兵団はペルシア人のうちに、あるいはペルシア軍のそれはローマ軍のうちにも現れていた。三世紀と四世紀の東方での長きにわたる戦争はローマ人が彼ら自身の軍事的伝統と方法を多くの点で変容させた学校であった。彼らは彼らの敵手から防御性に優れた精巧な鎧、胸甲、鎖帷子、兜と金属製の脛当てを取り入れた。四世紀の終わりにはエリート部隊を形成した胸甲騎兵がおり、六世紀には重装備の「鉄騎兵」(カタフラクタリイ)が軍でより大規模で重要な部門となった。東方での戦争のもう一つの結果は弓の全般的な活用であり、それは往年のローマ軍団が軽蔑していたものであった。重騎兵は槍と剣はもちろんのこと弓矢でも武装していた。





二節 第一次戦争(五二七-五三二年)

 老齢に差し掛かったカワード王はお気に入りの息子ホスローのために王位を保障してやりたいと思って王位継承に悩み、心配することになった。しかしホスローは長男ではなく、父は自分が死んだらペルシアの貴族たちは年上の兄弟のうち一人を擁立してホスローを殺すのではないかと恐れていた。したがって彼はアルカディウスがテオドシウス〔二世〕にヤズデギルド〔二世〕の保護下に入るよう勧めたようにお気に入りの息子をローマ皇帝の庇護下に置こうと考えた。しかし彼の提案は奇妙な形を取ることになった。彼はユスティヌスにホスローを養子にするよう頼んだ。ユスティヌスもユスティニアヌスも最初はその提案に惹かれたが、財務官プロクルスの影響下で拒否へと導かれた。法律家としての観点から見てプロクルスはその要望を油断ならないものであることを示した。というのも養子は父の相続財産への要求を主張する、つまりペルシア王はローマ帝国を要求するはずだからだ。
 その要望の拒絶をカワードはひどく恨み、そしてコーカサス地方での軋轢も二大国の新たな断絶をもたらした原因となった。両政府は世界のうちでその地方に積極的に関心を持っていた。
 ローマ領アルメニアと同様にポントゥス属州はコルキスとアルメニアの内陸の国境地帯に独立を維持していた無宗教のツァニ族の略奪を絶えず受けており、彼らは山賊行為で生計を立てていた。帝国政府は毎年彼らに特権を購う手当を与えていたが、彼らは約定をあまり気にしなかった。ユスティヌスの平和な治世の事績の一つは山岳地帯の荒々しい人たちを部分的に文明化したことであった。テオドラの義理の兄弟シッタスが彼らに対して送られた。彼は彼らを帰順させてローマ軍に組み入れ、彼らはキリスト教信仰を受け入れるように導かれた。
 ツァニ族の縮小がコーカサス地方でのさらなる積極策のための予備段階であることが証明された。黒海とカスピ海の広い幅を持った地方の南部には三つの王国があり、西にあるのが今なおその名がラジスタンに残っているラジカ族の土地であるコルキスで、中央はイベリア即ちグルジアであり、東はほとんどローマ人の目には入らなかったアルバニア、「服さざるダハイ人と怒れるアラクセス川の橋」であった。
 ローマ人からすればラジカの重要性は二重にあった。そこはイベリアを通って黒海沿岸へと向かうペルシアの前進に対する防壁であった。ユスティヌスの治世にこれまでペルシアと友好的だったラジカ族の王ツァト〔一世〕がコンスタンティノープルを訪れて皇帝の従属者になった。ひょっとしたらこの政策の変化はイベリアでのペルシアの計画の進展が原因かもしれない。この国は長らくペルシアの属国だったが、キリスト教を信仰していた。カワードはペルシア文化圏へとそこを取り込もうとして侵攻の口実を探し、死体を埋葬する習慣を放棄するようイベリア人への命令を発した〔ペルシア人の崇拝するゾロアスター教では死体は鳥葬にするため〕。イベリアの王グルゲネスはローマ皇帝に保護を求めた。軍がラジカに送られた一方でペルシア軍がイベリアに攻め込み、グルゲネスは家族を連れてラジカの国内を逃がれてコンスタンティノープルに向った。ローマの守備隊がイベリアとの国境地帯のラジカの諸砦に置かれ、今回が初の登場となるベリサリウスと共にシッタスはペルサルメニアへの侵攻に成功した。二度目の遠征でローマ軍は、その後脱走してローマ軍で働くことになるナルセスとアラティウスという二人の有能な指揮官に敗北した。
 したがって戦争はユスティヌスが死ぬ前に始まったことになる。彼の後継者がダラスの近くに新たな砦を建設しようと決めなければ、戦争はおそらく避けられただろう。ダラスの要塞司令官に任命されていたベリサリウスはその工事を指示され、建設工事が進んでいたためにクセルクセス王子率いるペルシア軍三〇〇〇〇人がメソポタミアに攻め込んだ(五二八年)。連合軍の数名の司令官の下にあったローマ軍は酷い敗北を喫し、二人の司令官が殺されて三人が捕えられた。ベリサリウスは幸運にも逃げおおせた。新しい砦の基礎は敵に対してがら空きになった。しかし勝者は大損害を被ってすぐに国境の向こうへと撤退した。ユスティニアヌスはさらに兵と新たな隊長をアミダ、コンスタンティア、エデッサ、スラ、そしてベロエアの砦に送り、(イリュリア人とトラキア人、スキュタイ人、イサウリア人の)新たな軍を編成しておそらくアナスタシウスの甥ポンペイウスに委ねた。しかしさらなる作戦行動は厳しい冬で終わったこの年には記録されていない。
 五二九年の戦争は三月にシュリアに、ヒラの王ムンディルの指揮下でのペルシア人とサラセン人の軍の共同出兵で始まり、彼はアンティオキアの城壁の目と鼻の先まで侵入し、ローマ軍が取り押さえることができないほどに素早く撤退した。フリュギア人部隊によって報復がなされ、彼らはペルシア人とサラセン人の領土を荒した(四月)。ポンペイウスはさして何か成し遂げたわけではなかったようであり、ベリサリウスが東方の軍司令官に任命された。その年の残りは無益なものに終わった交渉に充てられた。
 ベリサリウスは今や弱冠二五歳で軍事的栄誉を勝ち得ることになった。未だ平和について協議されていたが、カワードは本心ではそれを望んでいないようで、使節のルフィヌスはヒエラポリスで無駄に待たされた。官房長官ヘルモゲネスが若い将軍を持前の経験によって補佐するために送られ、彼らはダラスへと二五〇〇〇人の雑多で無規律な兵からなる軍を集めた。ミラネス、即ちペルシア軍の総司令官に任命されたペロゼスは六月(五三〇年)に四〇〇〇〇人の軍勢を率いてニシビスに到着しており、彼は勝利を確信していた。彼らはダラスの二マイルの地点から前進し、ミラネスはベリサリウスに東方に特有の手紙を送り、自分は明日市に入るつもりなので自分の悦楽のために風呂を準備しておくようにと告げた。
 ローマ軍は町の城壁の外側で戦闘準備をした。ペルシア軍は将軍の指示通り即座に到着し、用心深く準備された場所に陣取るローマ軍を敢えて攻撃することなく終日戦闘隊形で立った。夜に彼らは野営地へと撤退したが、次の朝には戻ってきて、決定的な行動をとることなしにこの日を過ごすまいと決めていたが、敵が前の日と同じ位置を占めているのを見て取り、ペルシア軍は今やニシビスから到着した一〇〇〇〇人の部隊で補強された。ローマ軍の配置は以下のようなものであった。
 ニシビスに向いたダラスの門から目と鼻の先に深い塹壕を掘り、そこを渡るのによく使われる道を封じた。しかし、この塹壕は右の戦列まで続いておらず、それは五つの部分から成っていた。市の城壁に平行に向かい合う中央の短い塹壕のそれぞれの端には一つの塹壕が直角にほとんど外側へと向って走っており、そこではそれぞれの直角の塹壕つまり「角」が末端を成し、右の角の反対方向に二つの長い塹壕が掘られ、したがってそれはほとんど最初の塹壕と並行することになった。塹壕と町の間にベリサリウスとヘルモゲネスが歩兵と共に陣取った。左翼は、主な塹壕の背後と左の「角」の近くにブゼス率いる騎兵部隊が、ファラスが提案してベリサリウスが賛成したためにヘルリ族が朝に占領した高台にファラス率いるヘルリ族三〇〇人が配置された。最も端側の塹壕と角によって作られた角の外側にはフン族のスニカスとアイガン率いる六〇〇騎のフン族騎兵が配置された。右翼の配置は正確に対称的だった。ヨハネス(ニケタスの息子)、キュリルス、そしてマルケルス率いる騎兵がブゼスが左翼で占めたのに対応する位置を占め、一方シマスとアスカン率いる他のフン族騎兵が端に配置された。
 ペルシア軍の半分はローマ軍の布陣よりも長い戦列で対峙し、もう半分は少し離れた後ろに温存された。ミラネスが中央を、バレスマナスが左翼を、ピテュアクセスが右翼を指揮した。軍の花だった不死隊は最高の機会のために取っておかれた。戦いの詳細は適切な目撃者によって記述された〔プロコピウス, I. 14〕。
正午になるとすぐに夷狄は行動を開始した。彼らは習慣的に夜にしか食事を摂らず、一方ローマ人は正午に食事を摂っていたため、敵が空きっ腹で攻撃を受ければ自分たちの攻撃への抵抗は軽微だと考え、その日のこの時間のために戦うのを差し控えていたのだ。まず双方は弓の一斉射撃をして空は矢で見えなくなった。夷狄はさらに投げ矢を放ち、かくして双方で多くの者が倒れた。夷狄では新手の交代者が敵に気付かれることなく常に全面へと出てきたが、まだローマ軍は負けてはいなかった。ペルシア軍へと向かい風が吹いて矢玉が効果的に作動するのを相当程度妨げた。双方は全ての矢を使い果たすと槍を使っての白兵戦に移った。ローマ軍左翼は最も激しく圧迫された。ピテュアクセスと共にここで戦っていたカディセニ軍が突如大挙して進んできて敵を敗走させ、逃げる彼らを追撃して多数を殺した。フン族部隊を率いていたスニカスとアイガンはこれを知るとカディセニ軍めがけて全速で突撃した。しかし丘に陣取っていたファラスと彼のヘルリ族部隊が彼ら(フン族部隊)より先に敵の背後に回り込んで襲いかかって大手柄を立てた。しかしカディセニ軍はスニカスの騎兵部隊もまたその方向から来つつあるのを知ると反転して逃亡した。その敗走を見るとローマ軍は集結して敵は大殺戮を被った。
 ミラネスは密かに不死隊を他の部隊と共に左翼へと送った。ベリサリウスとヘルモゲネスはこれを知ると、スニカス、アイガン、そしてフン族部隊に対し、シマスとアスカンが配置されて多くのベリサリウスの私兵がその後ろに配置されていた右の端へと向かうよう命じた。次いでバレスマナス率いるペルシア軍左翼が不死隊と共にローマ軍右翼を大急ぎで攻撃した。ローマ軍は始まって早々に持ち堪えられなくなって敗走した。そこで端に配置されていた部隊(フン族)は追撃者を非常に激しく攻撃した。彼らはペルシア軍を突破して戦列を不均等に二つに、大きい方が右で小さい方が左という風に切り裂いた。後者の中にはバレスマナスの旗持ちがおり、これをスニカスは槍で殺した。ペルシア軍の追撃者の大部分は危機を悟ると逃亡兵の追撃から攻撃者との戦いへと転じた。しかしこの動きによって何が起こったのかを知って再集結したためにペルシア軍の追撃者は敵の挟み撃ちを受けることになった。次いで他のペルシア兵と不死隊は軍旗が下げられて地面についているのを見て取ると、バレスマナスと共にローマ軍に向けて突撃してきた。ローマ軍は彼らに応戦し、スニカスがバレスマナスを殺して馬から地面へと引きずり下ろした。そこで夷狄は大いに狼狽し、勇気を忘れて一目散に逃げ出した。ローマ軍は彼らに肉薄しておよそ五〇〇〇人を殺した。したがってペルシア軍は退却に、ローマ軍は追撃にというように両軍は全面的に動き出した。敗軍の全ての歩兵が盾を投げ出し、捕捉されては乱戦のうちに殺された。しかし、軽率に追いすがればペルシア軍が必要に迫られて逆襲に転じ、敗走させられるのではないかと危惧したベリサリウスとヘルモゲネスがこれ以上するのを許さなかったため、ローマ軍は短距離しか追撃しなかった。そしてこれが過去の長い年月のうちでペルシア人が喫した最初の敗北であったため、彼らは無傷の勝利を保てばそれで十分だと考えた。
 この戦い――四世紀以降で我々が持っている十全な記述のうちで最初のものである――は騎兵によって戦われ、そして全面的に彼らのおかげ勝利したものであることが見て取れる。ベリサリウスの配置は彼の「歩兵を戦いの重圧下に置かないという考え抜かれた目的」を示していると指摘された。これは翼を前面に押し出し、彼らの間を比較的短い距離しか持たせないことによってなされ、そのために彼らは敵の矢面に立つことになった。我々の手元にはいかにしてペルシア軍が騎兵と歩兵を配置したのかについての記述はない。歩兵は多分中央にいたのだろう。しかし戦闘は明らかに騎兵によってなされ、歩兵は力を発揮していない。ベリサリウスは戦いの前に兵士に語りかけ、ペルシア歩兵は「城壁の中で穴を掘って殺し合いから逃げ、概して兵士(これは騎兵である)に対する下働きとして働くために戦場に来ただけのみすぼらしい農民連中」だと述べた。我々は数だけではローマ軍は一対二で戦った一方でペルシア軍の超過分の大部分は主に歩兵であり、そうでなくともさほど差があったというわけではなかったと推論してよかろう。
 およそ同時期にローマ軍はペルサルメニアでも成功を収め、その勝利はペルサルメニア人とサビロイ族の補助部隊のおかげであった。もしダラスの勝利で影が薄くならなければ、それが多分ギリシア人歴史家により詳細に書かれていたことだろう。
 軍の経験したその顕著な敗北の後、カワードは交渉をするのにやぶさかではなくなり、ペルシアとローマの宮廷を使節が行き来した。しかし、結局のところ五〇〇〇〇人のサマリア人の説得と約束が彼をして些末な口実で交渉を打ち切らせしめた。サマリア人は五二九年に反乱を起こしており、反乱の鎮圧を意図した殺戮を逃れた五〇〇〇〇人は復讐を望んで活動し、イェルサレムとパレスティナを帝国の敵に売り渡そうとした。しかしその陰謀は暴露されて予測された。
 続く春(五三一年)にムンディルの求めに応じ、彼の忠告で大きな自信を持つようになったカワードはアザレテス指揮下の一五〇〇〇騎のペルシア騎兵にシュリアに攻め込むべくキルケシウムでユーフラテス川を渡らせた。彼らはカリニクムへ、そこからスサ、さらにバルバリッソスへと川岸沿いに進軍し、そこから西進してカルキスから一二マイルのガブラに陣を張り、隣接地域へ向かおうと急いだ。カルキスに到着したところでベリサリウスはハリス指揮下のサラセン人補助部隊と合流した。彼の軍は二二〇〇〇人の戦力だったが、彼には数にして三〇〇〇〇人の敵を敢えて攻撃する気はなく、彼が動かなかったことは将兵の間でかなりの不満を呼び起こした。フン族の隊長スニカスは将軍の命令によらず出撃してペルシア軍の一部に攻撃をしかけ、彼らを破ったのみならず捕らえたペルシア人の捕虜から作戦計画とアンティオキアそのものに打撃を与えようという敵の真意を知った。それでもスニカスの成功はベリサリウスの眼中にはなく、彼の不服従の償いにはならなかった。コンスタンティノープルから作戦行動の場へとこの時に到着したヘルモゲネスは苦労しながら将軍と隊長の争いを収めた。結局ベリサリウスは敵への前進を命令することになった一方で敵は攻城兵器を使ってガブラ(カルキス近く)の砦と近隣の他のいくつかの地点を落としていた。戦利品を満載してペルシア軍は撤退し、カリニクム市の反対側のユーフラテス右岸へと到着し、そこでローマ軍に襲われた。戦いは不可避であり、四月の一九日に両軍は激突した。この不運な日に実に同時代人にさえ疑わしいようなことが起こった。ある人たちはベリサリウスに責任を帰し、他の人たちは怖じ気づいた部将たちを非難した。
 カリニクムでのユーフラテス川の筋道は西から東へというものであった。戦いは川岸で戦われ、ペルシア軍はローマ軍の東に位置していたために彼らの右翼とローマ軍の左翼は川に面していた。ベリサリウスと彼の騎兵が中央を、歩兵とスニカスとシマス指揮下のフン族騎兵が左翼を、フリュギア兵とイサウリア兵とハリス王のサラセン人支援軍が右翼を占めた。ペルシア軍は偽装撤退で戦端を開き、左翼のフン族を持ち場から誘き出した。次いで彼らは無防備な左翼のローマ軍の歩兵に攻撃を掛け、彼らを倒して川へと追い落とそうとした。しかし望んだように上手くいかず、こちらの側の戦いは膠着した。ローマ軍右翼ではフリュギア部隊の隊長アプスカルの死によって兵士の敗走が起こり、パニックが起ってサラセン兵はフリュギア兵の二の舞となり、そしてイサウリア兵は川へと向かって川中島へと泳いでいった。ベリサリウスがどう動いたのか、フン族の隊長たちがその時どうしていたのか我々は結論づけることはできない。ベリサリウスは馬から下りて兵士を激励し、ペルシア騎兵の猛攻を長く勇敢に食い止めた言われた。他方、この思い切った行動はスニカスとシマスに帰せられ、将軍自身は臆病による逃亡とカリニクムへの渡河を非難された。敗北がベリサリウスのせいであることを証明する明らかな証拠はないが、ひょっとしたら軍の思い上がりのおかげで彼のより順当な判断に逆らって戦いの危険を冒すよう彼が説得されたのかもしれない。
 ペルシア軍は撤退し、残りのローマ軍はカリニクムへと川を渡った。ヘルモゲネスは遅れることなくユスティニアヌスに敗北の知らせを送り、皇帝はコンスタンティオルスを戦いの状況を調査して責任の所在を明らかにするために派遣した。コンスタンティオルスが至った結論の結果、ベリサリウスは解任されてムンドゥスに東方軍の指揮権が与えられた。その結果はペルシア人の精神とローマの政府では違う意味を持ったものになり、ベリサリウスが敗北の後に名誉と共に解任されると、勝利したアザレテスは恥をかいた。彼はアンティオキアへと送られてもそこへは近寄らなかったため、彼の勝利は大きな損害をもたらすものとなった。
 ムンドゥスの軍は成功に見舞われた。マルテュロポリスを落とそうというペルシア軍の二つの試みは頓挫し、彼らは大敗を喫した。しかし年老いたカワード王の死と彼の息子ホスローの即位(五三一年九月一三日)は「恒久平和条約」として知られる条約の締結を導いた。交渉はローマ側ではヘルモゲネスとホスローの賓客であったルフィヌスによって行われ、ペルシア人がラジカで獲得した砦の引き渡しを嫌がったために冬の間に延びた。彼らは最終的に譲歩し、条約は五三二年の春に批准された。その中でローマ人はペルサルメニアの重要な二つの要塞を回復した。他の条件は皇帝がコーカサスの道を防衛するために金一一〇〇〇ポンドを支払い、メソポタミアの地方司令官の本部をダラスには置かずにコンスタンティアに置き、コンスタンティノープルのイベリア人難民は彼らの選択によってそこに留まるなり彼らの郷に帰るなりしてもよいというものであった。
 この条約ではローマとペルシア領アルメニアの境界は変わらなかった。ホスロー治下の初期にペルシア領アルメニアは平和で、その国の従属君主の下でうまくいっていて、キリスト教徒は全面的な寛容を享受していた。しかし時を同じくしてアルメニア教会がコンスタンティノープルとローマから離反した。カルケドンでの諸決定〔四五一年のカルケドン公会議での決定事項で、アルメニア人も採る単性論を異端として排斥した〕は実際のところは受け入れられていたが、アルメニアの神学者たちはそれらを端っから疑いの目で見ていた。ゼノとアナスタシウスの教会政策は彼らの疑いを確固たるものにした。ゼノの合同令が四九一年に開かれた会議で同意された。単性論説を提示したアルメニア人ユスティヌスによるカルケドン教条の復活からアルメニア人とギリシア教会の明確で永続的な分裂がその結果として起こった。この分離は二つの本性についての教義の非難を続けた総主教ナルセスによるものであり、彼の死の直後に開催された五五一年のドゥインの公会議でアルメニア教会の独立が確立されて暦の改変が行なわれた。アルメニア暦は五五二年六月一一日から始まった。その分離は諸々の政治的な結果をもたした。ギリシア人の影響力がペルサルメニアで低下してギリシア人の政治的代理者への支持が弱まったというその事実でホスローは利益を得た。





三節 第二次戦争(五四〇-五四五年)

 ホスロー・ヌシルヴァンの治世はほぼ六世紀の半分にも及び、ササン家の君主たちのうちで黄金時代、あるいは少なくとも鍍金のついた時代であった。彼の父カワードはマケドニアのフィリッポスがアレクサンドロスの道を準備したかのようにその出来の良い息子に道を準備した。新しい土地制度の施行をはじめとするいくつかの点でカワードの治世は精力的な改革の時代であり、ホスローは父の始めたことを継続しただけだった。この制度はうまくいったためにペルシア征服後のサラセン人カリフたちはこれを踏襲した。全般的な体制面でいくつかの変革が成された。ペルシア帝国はそのそれぞれが「王」の称号を有するマルズバンによって統治されていた四つの大きな管区に分かれていた。それらの地域の軍事権限は四人のスパベドに、行政権は四人のパドスパンに移っており、マルズバンは名誉称号であり続けることを許されていたにもかかわらず、スパベドに従属する第二位の地位に置かれていた。ホスローの最大の懸案事項は軍隊であり、軍隊を眺める時に彼は個々の兵士を詳しく調べるようにしていたと言われる。彼はその費用を減らして効果を増大させた。しかしまた彼は文芸を振興してペルシア史研究のパトロンとなった。彼の個人的な教養についてはギリシア人歴史家たちは嫉妬や中立のために偏狭で表面的に、軽蔑の念を籠めて述べている。他方で彼は一人の教会の著述家〔エフェソスのヨハネス〕によって賞賛された。「彼は賢者よりも賢明であり、その全生涯を勤勉に哲学的著作の精読に捧げた。そして言われるところによれば彼は苦労して全ての信経に関する宗教書を集めてそれらを勉強し、何が真実であり賢明で、何が愚かであるのかを学んだ。……彼は他の全てのものよりもキリスト教徒の著作を称賛して『それは他のどの宗教よりもそれは真実であり賢明である』と言った」これほどに成功し、時代と国の規準から判断されるに開明的な君主であったホスローはユスティニアヌスが末期の歴代ローマ皇帝のうちで傑出していたのと同じくらいに歴代のササン朝の国王のうちで傑出していた。
 ユスティニアヌス帝はその長い治世の前半では際立った精力と周到さをもってして和平の期間を東方諸州の防衛を強化するのに使った。包囲戦は東方国境における戦争の特質であり、城壁はほとんど兵士と同じくらいに重要なものであった。最も重要な諸都市と砦の多くの防備は朽ちており、その一部は水によって腐食されていた。メソポタミアとオスロエネ、そして北部シリアの少なからぬ地域の全ての重要な町はユスティニアヌス治世下に熟練技師の監督下で復興されて修繕され、あるいは部分的に再建された。それらの作業によって保守されたためにその作業のほとんどはおそらく五三二年と五三九年の間機能した。ポントゥスとアルメニアの境界の諸要塞は似たようにして強化された。そこにも管理上の重要な変更がなされた。かつては一人の武官の全般的な統制下で土着の太守たちによって統治されていたユーフラテス川の向こう側のローマ領アルメニアは執政官身分の人物が統治する通常の属州として編成され、四番目のアルメニアとして公式に認定された。太守は廃絶された。マルテュロポリスが主邑であり、統治者の所在地であった。
 ユスティニアヌスと「恒久平和条約」〔五三二年〕を締結した時にホスローはその新帝が大征服事業に乗り出そうとしているとはあまり考えていなかった。それからの七年間(五三九年まで)ユスティニアヌスはアフリカのヴァンダル王国を打倒してムーア人を下した。イタリアの東ゴート族君主の征服は予期され、ボスポロスとクリミアのゴート族はローマの勢力圏に含まれるようになり、その一方で南アラビアのホメリテス族〔アラビア半島南西部、現在のイエメンあたりに住んでいたアラビア人〕は新たにローマの覇権を認めた。彼の友人と敵の双方は憎悪と賞賛を込めて「全世界が彼のものになることはあるまい。もし彼が新たな世界を獲得するつもりならば、すでに天上と大洋の向こうの遠隔地について吟味していることになろう」と言った。その東方の支配者はローマ帝国による失われた属州の再征服による拡大にあたって自らの王国の危機をよく理解していた。ユスティニアヌスが何にも邪魔されずに征服事業を続けることを許されるとすれば、ローマ人が大軍でもって襲来してササン帝国を犠牲にして東方での支配権を拡大するであろうことが大いに起こりうるようなことになれば、ホスローが敵対行動の再開の口実を掴んだり招いたりしたであろうことは十分に自然的なことだと我々は考えるだろう。
 ヒラのサラセン人とその敵ガッサーン族との反目はホスローに待ち望んでいた口実を与えた。ローマの属州は共通の支配者に従わないガッサーン族の侵入に絶えず悩まされており、ユスティニアヌスの治世の最初の事業は皇帝が任命する最高部族長の下にガッサーン政権を作り上げることであった。この属国はペルシアの従属者であったヒラのラクミド族〔イラク南部のアラブ人の一派〕と均衡していた。ハリスが部族長に任命され、王号とパトリキウスの称号を受けた。その二つのサラセン人勢力の接合点であり、その争いの原因となったのはパルミュラの南、木々と果物が生らず、太陽によって焼け付くように乾いた地域であり、羊の牧草地として使われていたストラタと呼ばれる荒れ地であった。ガッサーン族のハリスはストラタという名はラテン語であるという事実に訴えて彼の部族に属する羊牧場であるという最も由緒ある古い証拠を挙げることができた。競争相手の酋長であったムンディルはそれ以前に何年も羊飼いたちが彼の部族に年貢を支払っていたというより実際的な主張をすることで満足していた。神聖財産管理官〔ローマ帝室の財政を司る職の一つ〕ストラテギウスとパレスティナの地方司令官スムスという二人の調停者が皇帝によって送られた。この調停はホスローに和平を破棄する口実を与えた。彼はスムスがペルシアとの同盟を揺さぶろうとしてムンディルに反逆を唆したと申し立てた。そして彼はホスロー自身の支配域へと攻め込むように説くユスティニアヌスのエフタルへの手紙を所有していると言い立てた。
 およそ同時に外部からなされた提案がホスローの考えを、彼の考えがすでにとっていた方向へとさらに駆り立てた。その時ベリサリウスに追いつめられていた東ゴート王ウィティギスからの使節が到着してホスローに共通の敵に対して行動を起こすよう請願した(五三九年)。もう一人の使節がアルメニア人から似たような陳情をしたのであるが、彼らは恒久平和を悔いて嫌悪してユスティニアヌスの暴政と過酷さを非難するためにやってきて、彼らはすでに彼に反乱を起こしていた。その時ローマの属州であったアルメニアの歴史において和平がもたらした年月の間は不幸なものであった。最初の支配者アマザスペスはアカキウスの裏切りによって告発され、すぐさまその犠牲者の後任に任命された告発者により、皇帝の賛同の下で殺された。アカキウスは前例のない多額の貢納(一八〇〇〇ポンド)を情け容赦なく取り立て、彼の残忍さを腹に据えかねた幾人かのアルメニア人が彼を殺して逃げた。皇帝はすぐに人々に服従の意識を呼び戻すためにアルメニア担当の軍司令官シッタスを急派し、シッタスがより穏和な説得方法を使用する傾向を持っていることを示すと、皇帝はより厳しい態度をとるべきだと主張した。反乱は広範なものになった。シッタスはそれからすぐに偶然の事故で殺されたが、叛徒は自分たちはブゼスが指揮するローマ軍には歯が立たないと悟り、ペルシアの君主に頼ろうと決めた。彼らの隣人のツァニ族の隷属とコルキスのラジカ族へのローマの地方司令官の押しつけはローマの政策への彼らの恐怖と嫌悪を確固たるものとした。
 したがってホスローは五三九年の秋に翌春に敵対行動を開始することを決心し、アナスタシウスが運んできたローマ皇帝からの穏健な手紙には返答がなされず、彼はペルシアの宮廷では招かれざる客となった。したがって五年間続くことになる戦争が勃発し、王は自ら毎年戦場に立った。彼はシュリア、コルキス、そしてコンマゲネに攻め込んで遠征を成功させ、五四三年の北部属州への遠征にとどまらず、翌年にはメソポタミアに遠征し、五四五年に講和条約が締結された。

I. シュリア侵攻(五四〇年)
 ホスローは大軍を率い、メソポタミアを避けつつユーフラテス川の左岸に沿ってて北進した。彼はキルケシウムの三角形の都市を通過したが、そこはディオクレティアヌスが建設したあまりにも強力な城壁であったために攻撃は考えなかった。他方で彼はパルミュラの女王にちなんで名付けられたゼノビア(ハレビヤ)の町を、そこはあまり重要ではなかったために馬鹿にしつつゆっくり進んだ。しかし彼がスラに近付くと馬が嘶いいて足踏みをした。王の側に仕えていたマゴス僧はその事件を市が落ちる兆候であると捉えた。包囲の初日に〔市の〕支配者が殺され、二日目に同地の司教が意気阻喪した住民の代表としてペルシア軍の陣地を訪れてホスローに涙ながらにその都市を容赦してくれるよう嘆願した。彼は執念深い敵を貢ぎ物の鳥、ワイン、そしてパンによって宥めようとし、スラの人々は十分な身代金を支払うつもりだと約束した。ホスローはスラの人々がすぐに隷属しなかったために彼らに感じていた怒りを隠しつつ贈り物を受け取り、身代金についてはペルシア貴族たちと相談すると言った。そして会談で気を良くした司教をペルシア貴族たちの名誉ある護送の下で去らせつつその君主は彼らに密命を与えた。
「護送者らに指示を与えると、ホスローは軍に待機し、彼が信号を出したらその都市へと急行するよう命じた。城壁に到着するとそのペルシア人部隊は司教に挨拶をして外に立っていたが、スラの人々は陽気な気分で彼を見て、ペルシア人部隊に彼が護送されている様を見ると疑いを完全に捨てて門を大きく開いて彼らの聖職者を拍手と歓呼の声で迎え入れた。全員が入ってくると門番たちは門を占めようとして押したが、そのペルシア人部隊は用意していた石を敷居と門の間に置いた。門番が頑張って押しても敷居の溝に門を入れようとする全ての彼らの懸命の努力は実を結ばなかった。そして彼らは再び門を開けまいとしているうちに敵がしたことに気付いた。幾人かはペルシア人が挟んだものは石ではなく丸太だったと言っている。スラの人々はほとんどその計略に気付かず、ホスローは全軍を向かわせてペルシア軍は門を開かせた。瞬く間に市は敵の手に落ちた」〔プロコピウス, 『戦史』, II. 5〕。家は略奪されて多くの住民が殺され、生き残りは奴隷にされ、都市は徹底的に焼き払われた。ペルシア王は皇帝に自身がカワードの息子たるホスローのなすがままにした土地がどうなったのかを教えるよう命じてアナスタシウスを帰した。
 エウフェミアという名の捕虜がその美しさから征服者に見初められ、彼女の祈祷がホスローをして予期せぬ寛大さでもってスサの君主を扱わせしめたというのが彼の唯一の貪欲であろう。彼はセルギオポリスの司教カンディドゥスに一二〇〇〇人の捕虜につき二〇〇ポンドの金を身代金として払うよう提案する手紙を出した。すぐにその総額を供出することができず、そしてしなかったためにカンディドゥスは倍額を罰として支払い、彼の司教の地位を辞任するという条件で年中に支払うことを文章で明記することを許された。身請けされた囚人のうち少数が長らく続いた不安と拷問の真っ只中を生き抜いた。
 その一方でローマの将軍ブゼスはヒエラポリスにいた。通常は東方での指揮権はブゼスとベリサリウスに分割されており、ユーフラテス川の向こうの属州は前者に、シュリアと小アジアは後者に委ねられていた。しかしベリサリウスはまだイタリアから戻ってきていなかったために全軍がブゼスの指揮下に置かれた。
 ローマの属州へのホスローの来襲を知ると、ユスティニアヌスは三〇〇人という小勢と共にアンティオキアへと甥のゲルマヌスを急派した。この「東方の女王」の防御態勢はゲルマヌスの用心深い調査を満足させるものではなかた。市の下部は家々の基礎を洗うオロンテス川によって十分に守られており、高台は強固な高地のために安全に見えたが、砦に隣接する城壁の外側には城壁とほとんど同じくらいに高く幅のある、そこでは包囲軍は必ず決定的優勢に立つことになるであろう岩壁があった。ある有能な技術者はホスローの到着までに岩を除去するなり城壁で囲い込むなりしてこの弱点を改善する十分な時間はないと言った。したがってゲルマヌスは抵抗を絶望視してベロエア司教メガスを金なり嘆願なりによってペルシア軍の進撃をアンティオキアから逸らすべく送った。軍はすでにユーフラテス川を渡りきっており、メガスが到着した時にはブゼスが守備隊の大部分をすでに撤退させていたヒエラポリスに迫っていた。彼は大王からシュリアとキリキアの服属が譲歩の余地のない目的であることを知らされた。司教は拘束されるなりヒエラポリスまで軍に同行するよう慰留されるなりした。そこは包囲をものともしないほどに強力であり、銀二〇〇〇ポンドの支払いによって免除を買うことで満足した。次にホスローは金一〇〇〇ポンドの受領によってアンティオキアを攻撃せずに撤退することを受け入れ、メガスは速やかにベロエアへと戻った。この都市〔ベロエア〕にササン軍は貪欲のためにヒエラポリスから徴発した金額の二倍を要求し、ベロエア人はこれが自分たちの持っている全てだといってその半額を彼に出したが、強奪者たちはそれに満足せず、市の破壊に及んだ。
 彼はベロエアからアンティオキアへと進み、メガスが購いのために請け負った一〇〇〇ポンドのと同じ額を要求した。彼はより少額の金を受け取ることで満足するだろうと言われている。ゲルマヌスと総主教はすでにキリキアへと退去しており、アンティオキア人はおそらくフォエニキア・リバネンシス〔レバノンあたり〕から来たテオクティストスとモラツェスに率いられた六〇〇〇人の兵士に給与を支払い、早まった不幸な自信を胸に抱いたことだろう。帝国の秘書官で使節としてアンティオキアに到着していたユリアヌスは住民に対して恫喝への抵抗を口にした。城壁に近付いて金の支払いを話したホスローの通訳パウルスはほとんど殺されかけた。拒絶によって敵に反抗するだけでは飽きたらず、アンティオキアの男たちは城壁に立ってホスローに向けて止めどない罵声を浴びせてその穏和な君主の心に怒りの炎を点した。
 続いて起こった包囲は短いものだった。籠城側に起こったことは占拠すべきであった砦の外の危険な岩が敵によって奪取されたということであった。当初の防戦は勇敢なものだった。城壁に一定間隔でそびえ立っていた塔の間には木製の梁の台が縄で塔に接して吊り下げられていており、非常に多くの籠城軍がすぐに城壁の上に乗り込んでいたことだろう。しかし戦っているうちに縄がほどけて吊られていた〔台にいた〕兵士の有る者は城壁の外に、またある者は内側に転落した。ブゼスが救援に向かっているという噂によって混乱は増し、多くの女子供は押しつぶされたり踏みつけられたりして死んだ。しかし遠くにあるダフネの郊外へと続いていた門をペルシア軍は意図的に封鎖せずにおいた。ホスローはローマ兵とその将官たちが市を危害を与えられることなく去ることを許されることを望んでいたようで、一部の住民は退去する軍と共に逃げた。しかし競馬競争の党派の若者たちは断固として優勢な敵に対して望みもないのに踏みとどまった。市にそう多くの人命を失うことなく入城するとホスローは怒りをぶちまけた。二人の著名な婦人が東方的な不道徳な蛮行〔王の後宮送りのことだろう〕から逃れるためにオロンテス川へと身を投げたと言われている。
 頻繁に、そして悲惨なほどに自然の敵意からの被害を被っていたにもかかわらず、アンティオキアは人間である敵の出現を経験して以来三〇〇年近くが経っていた。ササン家のシャープール〔一世〕は巡り合わせの悪いのウァレリアヌスの治世の際にその都市を落としていたが、その時は穏健に扱われており、ホスローの扱いとは対照的であった。聖堂はその富を、金銀と素晴らしい大理石を剥ぎ取られた。聖堂を除く市の全域を焼き払うようにとの命令が下され、その呵責ない征服者の宣告は忠実に実行に移された。
 破壊作業が行われていた一方でホスローはユスティニアヌスの使節と会談し、カスピ門の防衛費を名目として即金で五〇〇〇ポンドの金を、年毎に五〇〇ポンドを受け取るという条件ならば講和する用意があると述べた。使節がこの答えをビュザンティウムへと持って帰っていた間、ホスローはアンティオキアの港であったセレウキアへと進んで地中海の水を眼下に収めた。彼は海で一人沐浴をして太陽に犠牲を捧げたと言われている。帰路で彼はダフネに立ち寄ったが、そこはアンティオキアの運命を辿ることはなく、次いでアパメアへと向かった彼はその門から二〇〇人の護衛によって招き入れられた。町の全ての金銀、それどころか真の十字架の欠片が恭しく保存されていた宝石を散りばめた入れ物さえ彼の貪欲を満たすために集められた。彼は彼にとって無価値と思われたその貴重な聖遺物そのものは容赦した。カルキス市は金二〇〇ポンドで購われ、ユーフラテス西岸の属州を根こそぎにするとホスローはメソポタミアへの強奪遠征を決意し、バルバリッソス近くのオッバネ近くで船橋を使って川を渡った。メソポタミア西部の最大の要塞エデッサは包囲で脅かすにはあまりにも強固ではあったが、領地を破壊から容赦するために金二〇〇ポンドを支払った。エデッサにてユスティニアヌスの使節がホスローの提示した条件への賛同を携えて到着したが、これにもかかわらずそのペルシア人は帰路にあったダラス占領の試みに尻込みすることはなかった。
 荒廃し失われていたニシビスに代わってアナスタシウスがメソポタミア東部の前哨基地として建設したダラスの要塞は三つの丘の上に建てられており、そのうち最も高い丘に城塞が建てられていた。他の丘はより高い丘から後ろへと突き出ていて、横切る形で建てられていた城壁では囲めていなかった。五〇フィートの空間に広がった二つの城壁があり、その空間は住民によって家畜の放牧地として使われていた。冬の豪雪と夏の焼け付くような暑さというメソポタミアの気候は煉瓦作りの建物の耐久にとって試練となり、ユスティニアヌスはその要塞は修理の必要があると見ていた。彼は修理以上のことをした。彼がある新しい話のために内壁を高くし、そのためにその通常の高さは六〇フィートにもなり、彼は岩の間に坑道を掘ることで城壁の外側を流れる川の流れを町の内側へと逸らし、これによって水の供給を確保した。また彼は兵士のために兵舎も建設し、そのために住民は彼らのための負担から解放された。
 ホスローは西側からその都市を攻撃して外壁の西門を焼き払ったが、その間の場所へ突入するほど大胆なペルシア兵はいなかった。そこで彼は市のうち唯一岩で囲まれ、穴を掘って外壁の下に地雷を仕掛けることが可能だった東側での作戦を開始した。地下道が外壁の基礎に到達するまで籠城軍の用心はまごついていたが、ある話によるとペルシア兵のような形の人間あるいは人間離れした何者かが放出された投擲兵器を集めるという口実で城壁の近くを進み、一方籠城軍には彼が胸壁の兵士を嘲っているように見え、そして実際に彼は籠城軍に知らず知らずのうちに彼らに忍び寄っている危険を知らせることになった。そこでローマ軍は賢明な技師であったテオドルスに相談して二つの城壁の間を横切る深い壕を敵の穴の線と交差するように掘った。穴を掘っていたペルシア兵は突然ローマ軍の坑道にぶち当たった。正面にいた者は殺され、残りの者は追撃を受けることなく暗い道を引き返して逃げた。この失敗にうんざりしたホスローは銀一〇〇ポンドをダラスの人たちから受け取ることで包囲を解いた。ユスティニアヌスは敵の背信行為に激怒して和平交渉を打ち切った。
 クテシフォンに戻ると勝利の君主は都の近くにアンティオキアを手本にした新しい都市を建設して戦利品で美化し、元の都市で捕らえた住民をそこに住まわせ、残りの日々はエデッサ人の気前の良さでその意図を達成した場合より、ことによるとより幸福に過ぎていったのかもしれない。新しい町の名前はペルシア表記ではルミア(ローマの意)であり、プロコピウスによればホスローとアンティオキアを合わせた名前(ホスロー・アンティオケイア)で呼ばれていた。

II. ペルシアのコルキス侵攻とベリサリウスのメソポタミア戦役(五四一年)
 この時からラジカないしコルキスの四つ目の王国がローマ人とペルシア人の戦争でより重要な役割を果たし始めた。これらの国は今日よりも遙かに貧しかったらしく、ラジカ人は穀物、塩、そして他の必需品をローマ商人に依存しており、それと引き替えに毛皮と奴隷を差し出していた。一方「今日のミングレリアでは、貧弱な耕作にもかかわらず豊富なトウモロコシ、キビ、大麦を産しており、木々はどこのものであろうと自然に育ったツルで飾られ、なかなかのワインを産出している。一方、塩は隣国のグルジアでの主要三品の一つである」〔Rawlinson, Seventh Oriental Monarchy〕。ラジカ人はローマ帝国に依存していたが、その依存はローマ皇帝の賢慮によって貢納ではなく王の選出への干渉で成り立っていた。貴族たちはローマ人の中から妻を選ぶ習わしになっており、ホスローを国に迎え入れたグバゼス王はローマ人夫人の息子であり、ビュザンティオンの宮廷でシレンタリウス職にあった。ラジカ王国はコーカサス山脈を越えてやってくるスキュタイ諸族に対する格好の防壁であり、そこの住民は帝国にしてみれば人員や金銭面での負担抜きで山道を守ってくれる存在だった。
 しかしペルシア軍がイベリアを占領すると、ローマ軍が守ることで海からペルシア人を閉め出していたその地方を救援する必要があると考えられるようになり、不人気で、元々はペルシアの捕虜だった将軍ペトルスは守備兵に原住民を喜ばせるようなことは何もさせなかった。ペトルスの後任は出自がはっきりしないヨハネス・ツィブスという人物であり、彼の金集めの無節操な技能は皇帝の有用な道具となった。彼は有能な人物であり、彼の勧めでユスティニアヌスはファシス川の南岸にペトラの町を建設した。ここで彼は専売権を得て現地人を虐げた。ラジカ人は交易商人と直接取り引きして適正価格で穀物と塩を買うことが最早できなくなった。ヨハネス・ツィブスはペトラの要塞にいて、売り手と買い手双方への仲介者として振る舞い、彼らはそれに頼らざるを得なくなって最高の額を払って最低の額を受け取る羽目になった。これがラジカ族の税金取り立ての唯一の可能な方法であるとしてこの専売は正当化された。駐屯は単にローマの利害のためのものであり、駐屯軍そのものは現地人からは歓迎されていなかったというのが事実であったにもかかわらず、その税金取り立ては必要なことであってその地方の防衛への見返りだと考えられた。
 それらの仕打ちで憔悴したラジカ王グバゼスはホスローへと使節を送り、由緒ある王国を再建するために彼を迎え入れ、もしローマ軍をラジカから追い払ってくれるならば彼はそこからビュザンティウムに軍を運べる黒海の通行権を得るだろうし、一方でローマの他の敵であるコーサカス山脈北の蛮族との繋がりを作る好機を手に入れることになると述べた。ホスローは使節の提案に賛成し、真意を隠しつつも、切迫した状況が彼のイベリア入りを欲していると見せかけた。
 ホスローと彼の軍は使節に先導されて急勾配を密集隊形で彷徨いつつ葉の生い茂った高い木を切り伏せ、木が生い茂ったコルキスの悪路を通り、凸凹で危険な場所を滑らかにして通れようにするために木の幹を使った。その地方の真ん中まで突き進むと、彼らは大王に東方式に敬意を表したグバゼスと会った。主目的はローマ側勢力の砦ペトラを占領して商人を追い払うことであり、ホスローは専売商人ヨハネス・ツィブスを侮蔑的に扱った。アニアベデス指揮下の軍の分遣隊が前もって要塞を攻撃するために送り出された。この将軍は城壁の前に到着すると門が閉ざされているのを見て取り、すでにその場所は完全に放棄されてしまったようで住民の痕跡は全く見えなかった。伝令がこの驚くべき事態を伝えるためにホスローへと送られた。残りの軍はその場所へと急ぎ、破城槌が門に向けられるとその君主は隣接した丘の頂上からその進展を見た。突如門が開け放たれて多くのローマ兵が出撃してきて、攻城兵器を使っていたペルシア軍を圧倒して逃げ遅れた他の多くの兵を殺し、退却して門を閉めた。不運なアニアベデス(他の人たちによれば、この将軍は破城槌の作戦を任されていた)は行商人風情に破れたという罪で串刺しにされた。
 今や通例の包囲戦が開始された。ペトラの占領は不可避であろうと我らの歴史家プロコピウスはヘロドトス流に言い、それから支配者ヨハネスが偶然の射撃で殺されると指揮官不在の守備隊は無警戒でだらしなくなった。ペトラは一方を海で守られ、陸側では近寄り難い崖が攻撃軍の技術や勇気に挑みかかり、唯一安全だったのは険しい崖の線から分かたれ、平地から近寄ることができた一つの狭い入り口だけであった。岩地のこの隙間は長い城壁で覆われ、その端は尋常ならざる仕方で建設された塔で守られ、上の全域が窪んでいる代わりにそれらの塔はかなりの高さまで堅い岩でできており、そのためにそれらは最も強力な攻城兵器でもびくともしなかった。しかし東方の創意はその驚くべき堅さを堀り崩した。地雷が塔の一つの下へと運ばれて低い所にある石がどかされて木で代えられ、火の破壊力で石の上層はくずれて塔は倒れた。籠城軍が認識した限りではこの成功は決定的なものであり、彼らは簡単に投降し、勝者は要塞内の財産に手を付けずに亡き支配者の財産を守った。ペトラにペルシア軍の守備隊を置くと、ベリサリウスがアッシリアに攻め込んだという知らせが届いたためにホスローは最早ラジカには留まらず、自らの支配地の防衛のために急いで戻った。
 ゴート王その人を除く捕らえられたゴート人の全てを伴ってイタリアから凱旋したベリサリウスはメソポタミアの東方軍の指揮権を引き継ぐために同地へと春に向かった。ホスローは侵攻を企てておらず、彼の出陣がイベリアで求められたこと――ラジカの計画は巧みに秘匿されていた――を間諜から知ると、このローマの将軍はハリスのサラセン人支援軍と共に全軍をペルシア領へと率いていくことを決めた。この戦役においてベリサリウスは総司令官であったにもかかわらず他の将軍の忠告を諮ることなく彼の戦略計画の実行を思い切って行ったり、用心したりしていた風には見えなかったことは注目すべきことである。これは彼の自身の判断への不信、そして多くの配下の将軍たちが彼よりも最近にペルシア人との戦争の経験をより持っていたことへの反省のためであるのか、あるいは雑多な人種の兵士を編成していた軍内の将軍の一部が有無を言わせぬ命令に反抗的でせっかちな態度を示すこと恐れたためであったからなのかどうかは言い難い。ダラスで軍議は直進を決定した。
 軍はニシビスまで進み、そこは攻めるにはあまりにも強固であったためにシサウラナの要塞へと動き、最初の攻撃は撃退されて損害を被った。ベリサリウスはその地を包囲しようと決めたが、サラセン軍は包囲戦では役立たずだったので、砦を落とした時にティグリス川を渡ろうと目論んでハリスと彼の部隊を自分の私兵一二〇〇人を付けてアッシリアへ侵攻して攻撃するために送り出した。守備隊には物資が十分なく、すぐに開城に同意した。全てのキリスト教徒が解放され、拝火教徒は皇帝の意向を待つためにビュザンティウムへと送られ、砦は徹底的に破壊された。
 ハリスは略奪遠征がうまくいっていた間に同盟者に対して不義理をした。戦利品の全てを自分のものにしようと思って彼は彼に随行していたローマ軍から解放されるために一芝居うち、ベリサリウスに知らせを送らなかった。これによって将軍は不安を胸に抱くようになった。ローマの兵士、とりわけトラキア人兵士は真夏のメソポタミアの乾燥した気候下の酷暑に苦しみ、軍内では疫病が流行って身体的な疲弊のために志気が損なわれていた。全ての兵士は気候のもっと良い地方に帰りたがっていた。その蔓延した望みに屈服しなかった者はおらず、将軍の全員もそれを共有していた。ベリサリウスの遠征がペルシア軍によるペトラの獲得に対抗する何らかのことを達成したと主張することはできなかった。
 実際、この千載一遇の好機を罪深いことに将軍は見過ごしたということが彼の敵手から囁かれていた。彼らはシサウラナの占領の後にもし彼がティグリス川の向こうへと進んでいればクテシフォンの城壁へと戦争を移すことになっただろうとほのめかした。しかし彼は帝国の利害を私的動機のための犠牲に供し、まさに東方に着いたばかりの妻と会って彼女を不貞のために罰するために撤退した。それらの醜聞は真実であろうが、ベリサリウスの軍事行動にどのような影響を及ぼしたのかをこれ以上言うことはできない。

III. ペルシアのコンマゲネ侵攻(五四二年)
 春にユーフラテス川を渡った時のホスローの最初の行動はセルギオポリスという町の包囲のために六〇〇〇人の兵を送ったことであり、それは二年前にスラの捕虜の身代金を支払うことになっていたカンディドゥスが金を集められず、救援の求めがユスティニアヌスの耳には届かないと知っていたためであった。しかしその市は砂漠の真っ直中にあり、籠城軍はすぐに日照りの結果、計画を放棄した。ペルシア側の意図はエウフラテンシス属州の略奪に時間を費やすことになく、彼はパレスティナに攻め込んでイェルサレムの宝物を略奪しようと考えた。しかしこの壮挙は同時に彼の孫のために覆され、ほとんど何も成し遂げずに侵略者は彼の王国へと帰った。ローマの歴史家はベリサリウスの演説のおかげであるとしているものの、この迅速な撤退は恐らくペルシアでのペストの発生のためであった。
 ベリサリウスは伝馬を使ってコンスタンティノープルからエウフラテス属州へと向かい、ユーフラテス側のエウロポスで軍舎を引き継ぎ、様々な都市の属州中に散らばっていた大部隊を集めた。ホスローはヴァンダル族の征服者、ゴート族の征服者と聞き、凱旋式でユスティニアヌスの足下へと二人の君主を引いていたベリサリウスの人柄に興味を持っていた。したがって彼はなぜユスティニアヌスが和平交渉のための使節を送らないのかを知るという口実でアバンダネスを使節としてローマの将軍のもとへと送った。
 ベリサリウスは使節の真意を見逃さず、ある印象を与えてやろうと決めた。もし敵が渡河を試みた場合にはその妨害をさせるために一〇〇〇騎の騎兵隊を川の左岸へと送ると、彼は背が高く器量の良い六〇〇〇人の兵士を軍から選抜し、あたかも狩りのためであるかのように野営地から一定距離の場所へと向かわせた。彼はある砂漠に建てた分厚いカンバス地の大型の天幕に自ら陣取り、使節が近づいていることを知ると兵士を用心深い怠慢でもって位置した。両側に彼はトラキア兵とイリュリア兵を立たせ、その外側にゴート兵、次いでヘルリ族兵、ヴァンダル兵とムーア兵を配置した。全員は彼らの身なりの対照性を隠すための外套やエポミスを着ずにぴったりの麻布の上着とズボン下を着込み、まるで狩人が持つかのように各々は鞭のように武器、剣、斧、あるいは弓を持った。彼らは当番の者のように静かに立たず、辺りを不用心に動き、ペルシアの使節をそんざい且つ冷淡に眺めており、ペルシアの使節は到着するやこれに驚嘆した。
 皇帝が彼の主君に使節を送らなかったという使節の主張に対し、ベリサリウスは楽しそうな調子で「ホスロー殿がしたことようなことするのは尋常な人間の習慣ではない。他の者は権利を侵害されればまず使節を送り、もし満足を得られなければ戦争に訴えるものだ。だが、彼は攻撃をしてその次に和平を論じている」と答えた。ローマの将軍の出で立ちと振る舞い、そして彼の部下の見栄え、彼らが何の警戒もせずにペルシアの野営地から短距離をぞんざいに移動していたことはアバンダネスに強い印象を与え、彼は予定していた遠征を諦めるよう主君を説得した。ホスローはその将軍への王の戦勝は将軍にとっての屈辱にはならず、一方で王への将軍の勝利は王にとって非常な屈辱になるだろうと考え直した。少なくとも将軍の歴史家が王の撤退に与えた色合いではこのようになっている。したがって同じ威光のためにホスローはユーフラテス川の道を危険に晒すことを躊躇し、一方で敵が非常に近くにいたもののベリサリウスは劣勢の兵力で戦おうとはしなかった。休戦が成って一人の富裕なエデッサ市民がしぶしぶ人質としてホスローに引き渡された。撤退時にペルシア軍は脇へ逸れてカリニクムを落として破壊し、容易く彼らの攻撃の犠牲となったユーフラテスのコブレンズ人がその時は城壁の修繕中だった。ホスローのこの撤退はプロコピウスによれば西方での勝利よりもより大きな栄光をベリサリウスにもたらした。しかしその時ベリサリウスはイタリアでの戦争のために呼び戻された。
 実力の劣った歴史家に由来するプロコピウスの説明はそれに内在するありえなさのために却下されるであろうし、信用して受け取ることはできない。実際の出来事のありのままの話としてほとんど受け取ることができそうにないこの話にはベリサリウスを美化しようという明らかな傾向が見て取れる。さらにこれには矛盾もある。プロコピウスが我々に信じさせようとする通りホスローがベリサリウスを恐れて撤退したとすれば、なぜ彼は人質を受け取り、いかにしてカリニクムを敢えて落としたのだろうか? 実際に十分な原因があったとしてもそれはローマ軍とは無関係なものであり、ペルシアへの帰国を誘発したものはつまるところペストの発生であり、これが本当の動機であるのではないかと我々は疑義を呈するだろう。

IV. ローマのペルサルメニア侵攻(五四三年)
 ペストにもかかわらずホスローは翌春にローマ領アルメニアへと侵攻した。彼はアゼルバイジャン(アトロパテネ)地方へと進軍し、マゴス僧が永遠の火を灯し続けていたペルシアの火を崇める大神殿で停止し、プロコピウスはこれをローマのウェスタと同定しようとした。そこでペルシアの君主は二人の帝国の使節が運んでおり、彼への途上にあった手紙を受け取るためにしばしの時間を過ごした。しかし使節たちはその一人が道中に病を得たために到着しなかった。そしてホスローはペストが軍内で発生したために北進を続けようとはしなかった。彼の将軍ナベデスは待っていた使節がいっこうに現れないという要求を持たせてドゥビオスの司教をアルメニアの将軍ウァレリアヌスのもとへと送った。司教は兄弟を伴っており、後者は密かにウァレリアヌスにホスローがまさに丁度当惑とペストの流行、そして息子の一人反乱に取り巻かれているという価値ある情報を伝えた。それはローマ人にとって好機であり、ユスティニアヌスは東方の全ての将軍に軍を合流させてペルサルメニアに攻め込むよう命じた。
 その時の東方の軍司令官はマルティヌスであった。彼は他の指揮官たちに対して実質的な権限をそれほど持っているようには見えない。最初、彼らは同じ地方に陣を張っていたが、全部でおよそ三〇〇〇〇人はいた軍を合体させはしなかった。マルティヌス本人はイルディゲルとテオクティストスと共にテオドシオポリスから四日行程にある砦、キタリゾンに陣を張っていた。ペトルスとアドリウスの部隊はそこに近い場所を占めていた。一方ウァレリアヌスはテオドシオポリスの近くに自ら陣取ってヘルリ族部隊とアルメニア人部隊を率いていたナルセスとそこで合流した。皇帝の甥ユストゥスと他数名の指揮官たちはマルテュロポリスの近郊の南あたりへの遠征を続けており、そこで彼らはあまり重要ではない軍事侵攻を行った。
 当初それら様々な将軍たちは別々に攻め込んだが、結局はテオドシオポリスから八日行程の距離にあるドゥビオスの広い平野で部隊を合流させた。この平野は乗馬の訓練に丁度良く、人口が密集しており、インド人、イベリア人、ペルシア人、そしてローマ人といった全ての民族の商人の有名な待ち合わせ場所であった。ドゥビオスからおよそ一三マイルのそこには一つの険しい山があり、その脇にはアングロンと呼ばれる村があり、強力な要塞に守られていた。ここにはペルシアの将軍ナベデスが四〇〇〇人の兵と共にほとんど難攻不落な場所に陣取って村の険しい道を石と馬車で封鎖していた。アングロンへと向かっていたローマ軍の将軍たちは無秩序になり、最高指揮官を認めていなかった将軍間のまとまりのなさは隊列を混乱に陥れた。兵士と従軍商人の混成部隊は略奪へと走り、彼らが見せていた防備の有様は迅速な逆転を予言する見物者に根拠を与えたことだろう。彼らがその要塞へと近づくと、両翼と中央を成した浮き足だった部隊のいくらかを整列させようという試みがなされた。中央はマルティヌスが、右翼はペトルスが、左翼はウァレリアヌスが指揮を執り、全軍が地形の荒さのために不揃いでたゆんだ隊列で前進した。ペルシア軍にとっての最良の方針は防衛に徹することであることは明らかであった。おそらくウァレリアヌスと共に左翼にいたナルセスと彼のヘルリ族部隊が先陣を切って敵を攻撃し、砦まで追撃した。村の狭い道を通って撤退する敵を追っていると、彼らは突如として家々に身を隠していたペルシア軍の側面と背後からの待ち伏せ攻撃を受けた。勇敢なナルセスはある寺院で負傷し、彼の兄弟が戦場から彼を運び出すのに成功したが、傷は致命傷だった。この大きな衝撃は後続の部隊に不安を招き、ナベデスはこの瞬間に攻撃の好機が到来したことを悟って攻撃軍の狼狽した将軍から兵士を奪った。兜も胸甲も付けずに戦っていた全ヘルリ族部隊はペルシア軍の攻撃の前に破れ去った。ローマ軍はぐずぐずせずに軍を引いて慌ただしく逃げ、騎兵は馬を駆け足で走らせたために敗走を生き延びた馬は少数だった。しかしペルシア軍は待ち伏せを恐れて追撃はしなかった。
 プロコピウスはローマ軍がそのような大きな災難を経験したとは全く言っていない。この書き落としのために我々は彼に疑いを持つことになる。我々は彼の記述に可能な限り将軍たちを悪人とするという望みを見抜くことをほとんど避けることができないし、まさに前年の戦いの記述において我々は彼が過度に彼の英雄ベリサリウスの振る舞いを誇張しているのではないかと疑う理由を見て取った。事実、彼の狙いはその素晴らしい遠征と悲惨な失敗との間の著しく顕著な対比を描くことであるように見える。我々はベリサリウスの功業の例外的な立派さを疑う理由を見て取ったわけであり、アングロンでの敗北は本当は完敗であったと思うだろう。

V. ペルシアのメソポタミア侵攻、エデッサ包囲(五四四年)
 戦争初年のエデッサでの失敗はササン家の君主の心を苛立たせた。イエスのアブガルへの書簡による神の格別な保護を享受していたという住民の自信は拝火教徒の迷信への挑戦であり、マゴス僧は自分たちがキリスト教徒の神に破れたと考えるのに耐えられなかった。ホスローはエデッサ人を奴隷化し、その市の〔外の〕土地を羊の牧草地とすると脅すことで満足した。しかしその場所は強固であった。神は約束とは裏腹にそこを守らず、その城壁は何度も地震によって倒壊しては何度も再建されていた。そこはこの災厄を最近(五二五年)被ってユスティヌスによって再興されており、彼は自身の名を付けられることでそれを讃えられた。しかしユスティノポリスはあまり影響力を持たずにアナスタシオポリスないしテウポリスとして人々の口に上った。アブガルの都市エデッサはエデッサのままであり、ダラスについてはダラスとアンティオキアでそのままだった。ユスティニアヌスは防壁を再建してこれまでよりも強固にし、町を通るスキュルトス川の洪水を防ぐために水力式の仕組みを作った。
 その地形の堅固さを知るとホスローは二度目の失敗を犯す危険を喜んで回避し、そこの住民に多額の金を支払うか市の金持ち全員を連行させるかを提案した。彼が合理的な要求をしたならば受け入れられたであろうに、その提案は拒否された。そしてペルシア軍は城壁から一マイルも離れていない場所に陣を張った。この時エデッサにいたのはマルティヌス、ペトルス、そしてペラニウスという三人の経験豊富な将軍たちであった。
 包囲を開始して八日目にホスローは市から石が届く程度の地面に大きな正方形の形にして蒔くために大量の木を伐採させた。平坦な塚を作るために地面には木が積み上げられ、石はまるで建物のためのように滑らかに画一的には切られずに荒く切られてその上部に詰まれ、石と地面の間に木の梁の層を置くことでさらに補強された。この塚を城壁を十分追い越せる高さに作るためには何日も必要だった。当初は工夫たちはフン族部隊の出撃に悩まされてアルゲクなるその一人がその手で二七人を殺した。それからはペルシアの護衛部隊が作業員を守るべく立ち塞がったためにこのようなことがそう繰り返されることはなくなった。作業が進むと塚は城壁と同じ位の幅と高さになって城壁により接近できるようになり、そのため工夫たちは胸壁にいた弓兵の射程に入ることになったが、山羊の毛で織られた厚く長い布を棒に吊して自らを守り、それが盾として充分であることを示した。日に日に高く積み上がっていくのが見えるその恐るべき山の進展を邪魔して彼らの試みの裏をかこうとして籠城側はホスローに一人の使節を送った。使節団の代弁者はエデッサ生まれのステファヌスというカワードの寵愛を受けていた友人で、彼の病を治したことがあり、そしてホスローその人の教育を監督していた医者であった。しかし彼でさえ、その影響力にもかかわらず、元々はペルシアの臣下で、主君〔カワードのこと〕の息子に弓を引いていたペトルスとペラニウスを引き渡すか、五〇〇〇〇ポンドの金(二〇〇万と四分の一ポンド・スターリング)を支払うか、市で宝物を探してその全てをペルシアの陣営に持っていくペルシアの代理人たちを受け入れるかという三つの選択肢以上の成果を得られなかった。それらの提案の全部はすぐには履行できないほどに常軌を逸しており、使節団は落胆して戻り、塚の建設は進んだ。新たな使節が送られたが、謁見すら認めてもらえなかった。市の城壁を伸ばす計画が試みられても籠城軍は彼らの建物もそれと互角にするのは困難であることを悟った。
 ついにローマ軍は塚を堀崩す計画に訴えたが、彼らの穴が山の真ん中に到着して地中を掘る音がペルシアの工夫に聞かれると、彼らはすぐに穴を掘り、堀崩す作業員を見つけるために穴を寸断した。彼らは自分たちが探知されたことを知ると、掘った道の最も離れた場所に群がって新たな工夫を凝らした。塚の市に最も近い端の下の方に彼らは石と板と土で小さい地下室を作った。硫黄、瀝青、そして松の油を塗った最も発火性のある木の束をこの部屋に投げ込んだ。塚が完成するや否や彼らはその薪に火をつけ、火には新しい燃料が補充され続けた。火の手が塚の全体に広がるにはかなりの時間を要し、煙は最初に火の手が上がった所から普通より早く広がり始めた。籠城軍は包囲軍に誤解を与えるために見え透いた工夫を用いた。彼らは火矢を放って燃えさしの入った容器を塚のあらゆる場所に投げ、本当は背後から上がっていた煙は火のついた投擲兵器によるものだと信じたペルシア兵は消火のためにあちこちをかけずり回った。かくして作業していた者の一部は城壁からの矢で貫通されることになった。翌朝にホスロー自らが塚を訪れ、今や矢より密集していた煙の本当の原因を最初に見つけた。全軍は城壁から見下ろして敵を仰天させたローマ軍の嘲弄の的になった。その中に石が溢れていた水のほとばしりは火を消す代わりに蒸気を増やす結果になってしまい、硫黄の炎がより激しく作用する原因となった。その大量の煙は夜には南方のカルラエ市から見えるほどの大きさになり、徐々に背後まで広がっていった火はついには空気を得て表面をその高さで凌いだ。ペルシア軍は無駄な努力をやめた。
 六日後の払暁に城壁に攻撃がかけられたが、偶然起きていて警報を出した農民に守備隊は驚かされた。攻撃軍は撃退され、日中の大門へのもう一つの攻撃も同様に失敗した。最後の試みは困惑した敵によってなされた。半壊状態の塚の崩壊が煉瓦の雪崩から起こり、この高さから地面へと攻撃がなされた。最初はペルシア軍が優勢に立っていたようだったが、市内に充満していた熱意が最終的に勝利によって報いられることになった。小作人、女子供でさえ城壁に上って戦いに加わり、油の鍋を絶えず沸騰させ、その熱せられた液体を攻撃軍の頭に注いだ。ペルシア軍は敵の激しい戦いぶりに耐えることができずに退却し、ホスローに自分たちは破れたと白状した。激怒した専制君主は彼らを戦場へと追い返して彼らはさらに最大限の奮闘をし、さっき以上に戸惑うことになった。エデッサは救われ、勝利したものの疲弊していたエデッサ人からの五〇〇ポンドの金の受領で包囲側は満足した。
 翌年五四五年に五年間年限の和平が結ばれ、ユスティニアヌスは二〇〇〇ポンドの支払いに同意した。しかしホスローはこの和平は彼が強力な地点を押さえていたラジカ方面作戦にも適用されるべしという皇帝の要求を拒否した。そこで和平の継続中、両国の間でコルキスにて「不完全な」戦争があった。ユスティニアヌスはトリブノスという名のギリシア人医師が一年間ペルシアの宮廷にとどまることを許してほしいという王の要望にすでに同意していた。当代の最高の医学的権威であったパレスティナのトリブノスは言われるところでは徳性と慈悲心に秀でた人物であり、虚弱体質で絶えず医師の検診を必要としていたホスローから高く評価されていた。 この年の終わりに王が彼に褒美を求めることを許した時、自分のための報酬を求める代わりに彼は数人のローマ人捕虜の解放を請願した。ホスローは彼が名を挙げた者だけでなく、三〇〇〇人の他の捕虜も解放してやった。





四節 ラジカ戦争(五四九-五五七年)

 ペルシアの拝火教徒の専制主義はキリスト教徒の専売者の圧制よりも寛大というわけではないことにラジカ族はすぐに気付き、大王の軍勢にコルキスの隘路を抜けることを教えたことを後悔した。マゴス僧がその新たな地方をキリスト教化された現地人にとって忌まわしい信仰へと変えようとした少し前にホスローは住民を追い出してペルシア人を入植させようと目論んでいたことが知られるようになった。ホスローが自らの生命に対する陰謀を企んでいるを知ったグバゼスは急いでユスティニアヌスに許しと保護を求めた。五四九年に七〇〇〇人のローマ軍がペトラの要塞を取り戻すべくダギステウス指揮の下でラジカへと送られた。その軍は追加のツァニ族支援軍一〇〇〇人で補強された。
 コルキス獲得はホスローをいたく喜ばせ、その地方は彼にとっては際だって重要だったために彼はそこを保持するためにあらゆる用心をした。イベリアの境界からその地方の高地と木の生い茂った道を通る大通りが作られ、騎兵のみならず象もそこを渡ることができるようになった。ペトラの要塞には塩漬け肉と穀物からなる五年間は保つ十分な物資の蓄えが供給されていた。ブドウ酒は提供されなかったが、蒸留酒を作ることができる酢といくつかの種類の穀物はあった。後に見つかった倉庫に溜め込まれていた鎧と武器は籠城軍の五倍の数であった。市内に水を供給するために巧妙な工夫が採用され、一方で敵は彼らが物資を遮断されたという考えに自ら騙されることになった。
 ダギステウスがその町の包囲に入った時の守備隊はペルシア兵一五〇〇人であった。彼はペルシアの援軍の到着を防ぐためにイベリアからコルキスへの道を占領しないでおくという過ちを犯してしまった。包囲が長期化して小勢の守備隊は大きな損害を被った。ついに騎兵と歩兵の大軍と共に敵のいないコルキスへ入ることができたメルメロエスがペトラの平野を見下ろす山道に到着した。ここで彼の進撃はローマ軍一〇〇人によって食い止められたが、長い血みどろの戦いの後に疲弊した守兵は退却してペルシア軍は頂上に到達した。ダギステウスはこれを知ると包囲を解いた。
 メルメロエスはペトラに三〇〇〇人の兵を残して少しの間食料を供給した。彼はファブリグスをコルキスに五〇〇〇人の兵を残し、彼らに食料を送り続けるよう命じてペルサルメニアへと撤退した。その兵士はすぐに災難に見舞われた。彼らは払暁にダギステウスとグバゼスによって野営地を奇襲され、逃げ仰せたのは僅かだった。ペトラで使うためにイベリアから運ばれていた全ての物資は破壊され、コルキスの東側の道に守備隊が置かれた。
 五五〇年の春にコリアネスがペルシア軍を連れてコルキス入りしてヒッピス川の近くに野営し、そこで戦いが起こってダギステウスが勝利してコリアネスは命を落とした。しかしダギステウスは不忠ないし責められて然るべき怠慢によってペトラの包囲に失敗したとして弾劾された。ユスティニアヌスは彼の捕縛を命じ、つい最近イタリアから戻ってきたベサスを彼の代わりに任命した。兵士たちはこの任用に驚き、あまりにも年を取った西方での経歴が惨めな将軍に指揮権を委ねるとは皇帝は馬鹿者なのではないかと考えた。しかしその選択は、やがて分かるだろうが、結果によって正当化された。
 ベサスが進めた最初の仕事はアバスギア人の反乱の鎮圧だった。この民族の領地は黒海の三日月上の東岸沿いに広がっており、そこはコーサカスの西の支脈と海の間に住んでいたアプシリア人の国によってコルキスと分けられていた。アプシリア人は長らくキリスト教徒であり、一度はアバスギア人を支配していたラジカの隣国の君主に服従していた。アバスギアは二人の君候によって治められており、一人は西を、もう一人は東を支配していた。それらの支配者たちは美しい少年の販売で歳入を増やし、彼らは幼年時に無理矢理に嫌がる親から引き離されて官官にされていた。というのもローマ帝国では美しく有用な奴隷が絶えず必要とされ、彼らは贅沢な貴族たちから高い身分を与えられていたからだ。この不自然な慣行を廃止しようとしたことはユスティニアヌスの栄誉であったといえる。人々はその当人がアバスギア人官官であった皇帝の使節が彼らの王にした抗議を支持した。王の暴制は廃止され、木々を崇拝していた人々は彼らの考えるところではローマのアウグストゥスの保護下での長く自由な時代を享受するためにキリスト教信仰を受け入れた。しかし穏やかな保護国は段々と支配地の様相を呈するようになってきた。ローマ兵がその地方に入ってきて税が皇帝の新たな友人に課されることになった。アバスギア人は外国の主君に隷属するよりは同じ血の流れる人による独裁の方が良いと思って東にオプシテス、西にスケパルナスという新たな王を立てた。しかしどこか大国の支援抜きでユスティニアヌスの嫉妬深い怒りに立ち向かうのは軽率であり、ヒッピス川でのペルシア軍の大敗の後にラジカを訪れたナベデスはホスローの保護を渇望していたアバスギア人から六〇人の貴族を人質として受け取った。彼らはペルシア人を巻き込むのは危険な手段だというラジカ族の後悔に耳を貸さなかった。スケパルナス王はすぐにササン家の宮殿に召還され、彼の同輩オプシテスはベサスがウィルガング(ヘルリ族)とアルメニア人ヨハネスの指揮下に派遣していたローマ軍への抗戦の準備をした。
 アプシリアの国境に近いアバスギアの南の国境には険しいコーカサス山脈の連なりが黒海の海に階段状に下っていた。ここのより低い山脚の一つにアバスギア人は強力で広々とした要害を建設しており、彼らはここで侵略者の追撃を撃退することを期待していた。凸凹で険しい峡谷がそこを海から分けてっていた一方で、その入り口は二人の人が並べないほど狭く、這って行かなければならないほどに低かった。ファシス川、あるいはひょっとしたらトラペゾスから航行してきたローマ軍はアプシリアの国境に上陸して陸路でこの峡谷まで進み、そこで全アバスギア人が圧倒的な大軍に対しても簡単に持ち堪えることができる道に防衛のために陣取っているのを見つけた。ウィルガングは峡谷の麓に軍の半分と共に残り、一方ヨハネスと軍のもう半分は沿岸航行する兵に随行していた小舟に乗った。彼らは非常に離れたところに上陸し、遠回りの道を使うことで予期していなかった敵の背後に回り込んだ。アバスギア人は仰天して要塞へと逃げた。逃亡兵と追撃者は互いに混ざって狭い入り口を突破しようとし、内側にいた者は敵が友軍と共に入るのを防げなかった。しかしローマ軍は城壁の中に入ると彼らを待ちかまえていた新たな作業に出会った。アバスギア人は家々で防御を固めて上から矢玉の雨を降らしては敵を苛立たせた。最終的にローマ軍は火の助けに訴え、建物はすぐに灰に帰した。一部の人々は焼死して王の妻たちを含む他の者は生け捕りにされ、その一方でオプシステスは隣接するサビロイ族のところに逃げた。
 今や五年間の休戦期間が過ぎ(五五〇年四月)、コンスタンティノープルとクテシフォンとの間で新たな交渉が始まってた一方でベサスはペトラの占領というダギステウスが失敗していた計画に取り組んだ。守備隊は勇敢で意志が固く、包囲は長期化した。ベサスの忍耐強さが功を奏し、砦は五五一年の初春に陥落した。アルメニア人ヨハネスという勇敢な戦士が最後の攻撃で戦死した。ペトラを救出するために近づいていたメルメロエスはこの知らせを聞くと、アルカエオポリスとファシス川上流にあるその他の要塞を攻撃するために踵を返した。彼のアルカエオポリス包囲は失敗した。彼は大敗を喫して撤退を強いられた。彼は次の遠征(五五二-五五四年)の過程でいくつかのより小さい要塞を落とすのに成功した。老い、足が不自由で馬に乗ることすらできなかったにもかかわらず、彼は勇敢で経験豊富だっただけでなく疲れ知らずで若者さながらの活力を持っていたため、五五四年の秋の彼の死はホスローにとっては深刻な損失であった。ナコラガンが彼の後任として送られた。
 ペルシア軍の三年間の作戦行動は顕著な成功をもたらさなかったものの、彼らは損失を被ることなく一つの相当な優位を得た。内陸にあり、ラジカの北の丘陵地帯の小さなスアニア地方はこれまではペルシア王国の属国だった。そこの君主はラジカ王によって指名されていた。スアニア人は今や(五五二年)その繋がりを断ち切り、その地方を占領するための部隊を送っていたペルシア人の側についた。
 一方で五年間期限の休戦の更新についての問題はローマとペルシアの宮廷の注目の的であり、交渉は一八ヶ月の間続いた。結局それはもう五年間分更新され(五五一年秋)、ローマ人は以前通りの金二六〇〇ポンドの支払いに同意し、それはコルキスでの対立には何の影響ももたらさなかった。ある同時代人はホスローが帝国から一一年と半年の間に四六〇〇ポンドの金をせしめたことに人々は怒り、コンスタンティノープルの人々はローマの護送なしでまるで彼らの土地であるかのように市内を闊歩するのを許されていたペルシアの使節イスディグナスと彼の随行員に皇帝が提示したその額はとんでもない額だと囁いていたと述べている。
 一方、頻繁にローマの司令官と口論していたグバゼス王は彼らが戦争を遂行するのを怠けているとユスティニアヌスに抗議した。とりわけ名が挙がったのはマルティヌスとルスティクスであった。皇帝はベサスをその地位から更迭したが、マルティヌスに総司令権を委ね、ルスティクスは解任されなかった。このルスティクスは皇帝の兵士に特別な働きへの褒美を与えるために送られていた会計官であった。彼とマルティヌスはグバゼスを取り除こうと決めた。責任を逃れるために彼らはユスティニアヌスのところへとグバゼスが密かにペルシア人を支持しようとしているという嘘の知らせと共にルスティクスの兄弟ヨハネスを送った。ユスティニアヌスは仰天して王をコンスタンティノープルへと召還することを決定した。「彼が否認すればどうするのでしょうか?」とヨハネスが尋ねると皇帝は「彼が我々の臣下たることを強いるまでだ」と言った。「しかし彼が抵抗すればいかがいたします?」と陰謀者は催促した。「そうなれば彼を僭主として扱う」「彼が自害する恐れはないのでしょうか?」「ない。彼が従わなければ敵として殺されることになるだろう」ユスティニアヌスは手紙にこの結論を署名し、それを持たせてヨハネスをコルキスに帰した。陰謀者は裏切りの計画を急いで実行に移した。グバゼスはオノグリスの砦を攻撃するために呼ばれ、少数の随行員と共にコブス川の岸のローマ軍のところへとやってきた。王とルスティクスとの間に口論が起こり、ローマの将軍に口答えする者は必ず敵の友人になるに違いないということを口実としてヨハネスは短剣を抜いて王の胸へと突進した。怪我は致命傷となっただけでなく王を落馬させ、彼は地面から立とうとしたところをルスティクスの従僕からの一撃によって絶命させられた。
 ラジカ族は密かに王を彼らの習俗に則った仕方で埋葬し、ローマの保護者からの無言の非難を退けた。彼らはもはや軍事行動に参加しなくなったが、代々の栄光を失った者となって身を隠した。ブゼス、ゲルマヌスの息子ユスティヌスといった他の司令官らは、この暴挙は皇帝の差し金だと思って彼らの感じた憤りを隠した。数ヶ月後に冬が到来し、ラジカ族はある遠く離れたコーカサスの峡谷で密談をしてホスローの保護下に身を置くべきか否かを話し合った。しかしペルシアの圧制の記憶と同じくらいにキリスト教信仰への彼らの愛着がこれに二の足を踏ませ、彼らは皇帝に正義の裁きと謝罪を求め、それと同時にグバゼスの末弟ツァトを新王に指名するよう嘆願することに決めた。ユスティニアヌスは迅速にそれらの要求に応じた。最高位の元老院議員アタナシウスが暗殺の状況を調査するために送られ、到着した彼はルスティクスとヨハネスを未決の裁判のために投獄した。春(五五五年)にツァトが王国に到着し、ラジカ族は足下まで金で刺繍された上着、金の筋のついた外套、赤い靴、金と宝石で飾られた縁なし帽子、そして王冠といった王の出で立ちで馬に乗った彼にローマ軍が挨拶するのを見ると、悲しみを忘れてきらびやかで見事な行列で彼を護送した。前王の死の下手人には続く秋まで裁きが下されず、現地人はローマ人の裁判の厳かな経過を見守った。ルスティクスとヨハネスは処刑された。マルティヌスの荷担は不明確で、彼の真相を照会するために皇帝はゲルマヌスの息子で親戚だったユスティヌスのために彼から指揮権を剥奪した。軍で人気があって非常に有能な将軍だったならマルティヌスは無罪になっていたかもしれない。
 グバゼス暗殺の直後、オノグリスの砦に全軍を集めたローマ軍はペルシア軍三〇〇〇人に深刻で不名誉な敗北を喫していた(五五四年)。翌春に同名の川の河口にあるファシス(ポチ)はナコラガンの攻撃を受け、この町の前で起こった異例な戦いはマルティヌスの勝利に終わり、彼はオノグリスの恥を雪いだ。同年にアプシリア人の北東に住んでいて、スアニア人のようにラジカに従属していたミシミア人が彼らの国を横切って彼らを横柄に扱ったローマの使節を殺害した。この暴挙に対して復讐がなされるだろうと知ると、彼らはペルシアの側についた。この事件によって五五六年のあまり重要ではない軍事作戦の性質は決定された。ペルシア軍はローマ軍がミシミア人の土地に攻め込むのを妨害した。しかし懲罰のための遠征軍が翌冬に送られてミシミア人への非人道的な殺戮を行い、彼らは最終的に屈服して許された。この遠征がラジカ戦争における最後の出来事となった。
 五五六年の秋に五年期限の休戦条約が期限切れになった。両大国は戦争に飽いており、遠征の経過はホスローを励ますことはなかった。トルコ人と共同でエフタル人の王国を滅ぼすための最後の試みを彼が準備していたというのもありうる。この年の始めに彼はすぐに期限切れになる休戦条約更新の交渉のために使節のイスディグナスをコンスタンティノープルへと送った。この取り決めは恒久平和条約のための事前交渉となることが意図されており、この時の交渉は不完全なものにはならずに〔条約の効力の範囲は〕ラジカと同様にアルメニアと東方に拡大されることになった。休戦はラジカについては現状のまま、両国は保持している城塞を保持し、期限も金銭の支払いもないという条件で締結された(五五七年)。
 ラジカ戦争の歴史的重要性はローマ人がその地方を保持できず、ホスローの計画の頓挫に成功せず、そのアジアの強国は黒海への道を開き、帝国は海上での競争者を持つことになったであろうという事実に存している。この可能性によって喚起される深刻な脅威は帝国政府によって完全に理解されており、ラジカ王国の防衛のために送られた相対的な軍の強大さがそれを物語っている。





五節 和平の締結(五六二年)

 なぜ五五七年のこの停戦がより恒久的な協定に変わるより前に五年間が過ぎたのかは明らかではない。ひょっとしたらホスローはラジカでの立場を放棄するよう自分を納得させることができず、皇帝が不可欠の条件としてその地方からの完全撤退を主張するだろうと知っていたのかもしれない。結局のところ五六二年に官房長官ペトルスがユスティニアヌスの代理として、イスディグナスがホスローの代理として和平条件を調整するために国境で会見した。ペルシアの君主は協定の発効期間が長いものになり、ラジカの放棄と引き替えにローマ人がすぐに年毎の多額の年貢の三〇年ないし四〇年間分の合計と等しい金を支払うことを望んでいた。他方でローマ人はより短期的な条件を定めることを望んでいた。交渉の結果は妥協であった。協定は五〇年間期限とされ、ローマ政府はペルシア人に金貨三〇〇〇〇枚(一八七五〇ポンド)を毎年支払うことになった。最初の七年分が一括で支払われ、八年目の始めにペルシア人は続く三年分を要求することで満足することとなった。批准された協定のペルシア側の文書の碑文は以下のようなものであった。

「神聖なる、善良にして平和を愛する古のホスロー、諸王の王、幸運にして敬虔、恵み深き者、神々が最大の幸運と大帝国を与えし者、巨人の中の巨人、現人神たる者より、我らが兄弟ユスティニアヌス・カエサルへ」

 協定の中で最も重要な条項はペルシアがラジカをローマに譲ることに同意したことであった。他の条件は以下の通り。
一、ペルシア人はフン族、アラニ族、その他の蛮族がコーカサス山脈の中央の道を横切るのを妨げず、一方ローマ人はペルシア領のどの地方にも軍を送らないこと。二、両国のサラセン人同盟者はこの講和条約を批准すること。三、ローマとペルシアの商人はいかなる商品であれ税関が置かれた指定の場所で輸送し、他の道を使わないこと。四、両国の大使は公務のために用いるべき特権を帯び、彼らの荷には関税が免除されること。五、サラセン人ないし他の貿易商は指定した道を通らずにどちらの帝国にも商品を密輸しないようにする条件が用意され、ダラスとニシビスがそれらの蛮族が商品を販売する二大市場として指名されること。六、今後一方の国の領土から他方への移民は許可されないが、戦争中に脱出した者はその者が望むならば帰国が許されること。七、ローマ人とペルシア人の紛争は被告が原告の主張に満足しない場合、ローマ人とペルシア人の両支配者の立ち会いの下で国境に会する委員によって解決されるべしこと。八、紛争を防ぐため、両国は国境に近い町の要塞化を差し控えることを義務づけられる。九、どちらの国も従属する近隣の部族や国を責め立てたり攻撃したりしないこと。十、ローマ人はダラスに守備隊の大部隊を置かず、東方軍司令官をそこに置いてはならない。もしその都市の近隣の人たちへの損害がペルシアの領土においてなされれば、ダラスの支配者は賠償金を支払うこと。十一、あからさまな暴行とは別の、平和を阻害する恐れのある何かしらの違反行為にあっては、国境での裁判がその問題を裁き、その判決に不服ならば東方軍司令官に訴えられるべしこと。最終的な上告は被害者の主君になされるべしこと。十二、平和を乱す党派に呪いあれ。
 キリスト教徒とペルシア王国における彼らの葬儀への寛容のための別個の協定が結ばれた。彼らはマゴス僧による迫害の容赦を享受することになり、他方で改宗を控えられることになった。
 両主君が代表者が同意した条項の承認を知ってこれに署名すると、両大使はそれぞれの言語で協定を起草した。ギリシア語の草稿がペルシア語に翻訳され、二つの版は用心深く照合された。それから複製がそれぞれの側で作成された。原本は大使と翻訳者らによって封を押され、ペトルスはペルシア語の版を、イスディグナスがギリシア語版を持ち、一方で封をされていない複製のうちギリシア語版をペトルスが、ペルシア語版をイスディグナスが持っていった。我々がこのように昔の公式の外交手続きを伺い見ることは滅多にない。
 一つの問題が未解決のまま残された。ローマ人はラジカへの主張の放棄と共にペルシア人がスアニアに隣接する小地方を放棄することも要求した。全権大使は〔この問題についての〕条約には至らなかったが、問題は協定締結の妨げにならないようにされ、さらなる交渉の余地が残された。このために翌年(五六三年)にペトルスがホスローの宮廷へと赴いたが、ホスローはスアニアがラジカの一部になるという旨の条件への同意を拒絶した。対話の過程で王はその問題はスアニア人自身の決定に委ねられるべきであるという注目すべき提案をした。おそらくホスローの予想した通りペトルスはこれを歯牙にもかけなかっただろうし、交渉は決裂した。


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