5節 和平の締結(562年)

 なぜ五五七年のこの停戦がより恒久的な協定に変わるより前に五年間の経過が看過されたのかは明らかではない。ひょっとしたらホスローはラジカでの立場を放棄するよう自分を納得させることができず、皇帝が不可欠の条件としてその地方からの完全撤退を主張するだろうと知っていたのかもしれない。結局のところ五六二年に官房長官ペトルスがユスティニアヌスの代理として、イスディグナスがホスローの代理として和平条件を調整するために国境で会見した。ペルシアの君主は条件の継続期間が長引き、ラジカの放棄と引き替えにローマ人がすぐに年毎の多額の貢納の三〇ないし四〇年間分の合計と等しい金を支払うことを望んでいた。他方でローマ人はより短期的な条件を定めることを望んでいた。交渉の結果は妥協であった。協定は五〇年間期限とされ、ローマ政府はペルシア人に金塊三〇〇〇〇(一八七五〇ポンド)を毎年支払うことになった。最初の七年分が一括で支払われ、八年目の始めにペルシア人は続く三年分を要求することで満足することとなった。批准された協定のペルシア側の文書の碑文は以下のようなものであった。

「神聖なる、善良にして平和を愛する古のホスロー、諸王の王、幸運にして敬虔な、恵み深き者、神々が最大の幸運と大帝国を与えし者、巨人の中の巨人、現人神たる者より、我らが兄弟ユスティニアヌス・カエサルへ」

 協定の中で最も重要な条項はペルシアがラジカをローマに譲ることに同意したことであった。他の条件は以下の通り。
一、ペルシア人はフン族、アラニ族、その他の蛮族がコーカサス山脈の中央の道を横切るのを妨げず、一方ローマ人はペルシア領のどの地方にも軍を送らないこと。二、両国のサラセン人同盟者はこの講和条約を批准すること。三、ローマとペルシアの商人はいかなる商品であれ税関が置かれた指定の場所で輸送し、他の道を使わないこと。四、両国の大使は公務のために用いるべき特権を帯び、彼らの荷には関税が免除されること。五、サラセン人ないし他の貿易商は指定した道を通らずにどちらの帝国にも商品を密輸しないようにする条件が用意され、ダラスとニシビスがそれらの蛮族が商品を販売する二大市場として指名されること。六、今後一方の国の領土から他方への移民は許可されないが、戦争中に脱出した者はその者が望むならば帰国が許されること。七、ローマ人とペルシア人の紛争は被告が原告の主張に満足しない場合、ローマ人とペルシア人の両支配者の立ち会いの下で国境に会する委員によって解決されるべしこと。八、紛争を防ぐため、両国は国境に近い町の要塞化を差し控えることを義務づけられる。九、どちらの国も従属する近隣の部族や国を責め立てたり攻撃したりしないこと。十、ローマ人はダラスにそこを守備する大部隊を置かず、東方の軍司令官をそこに置いてはならない。もしその都市の近隣の人たちへの損害がペルシアの領土においてなされれば、ダラスの支配者は賠償金を支払うこと。十一、あからさまな暴行とは別の、平和を阻害する恐れのある何かしらの違反行為にあっては、国境での裁判がその問題を裁き、その判決に不服ならば東方の軍司令官に訴えられるべしこと。最終的な上告は被害者の主君になされるべしこと。十二、平和を乱す党派に呪いあらんこと。
 キリスト教徒とペルシア王国における彼らの葬儀への寛容のための別個の協定が結ばれた。彼らはマゴス僧による迫害の容赦を享受することになり、他方で改宗を控えられることになった。
 主君が代表者が同意した条項の承認を知って知らせると、両大使はそれぞれの言語で協定を起草した。ギリシア語の草稿がペルシア語に翻訳され、二つの版は用心深く照合された。それから複製がそれぞれの側で作成された。原本は大使と翻訳者らによって封を押され、ペトルスはペルシア語の版を、イスディグナスがギリシア語版を持ち、一方で封をされていない複製のうちギリシア語版をペトルスが、ペルシア語版をイスディグナスが持っていった。我々がこのように昔の公式の外交手続きを伺い見ることは滅多にない。
 一つの問題が未解決のまま残された。ローマ人はラジカへの主張の放棄と共にペルシア人がスアニアに隣接する小地方を放棄することも要求した。全権大使は〔この問題についての〕条約には至らなかったが、問題は協定締結の妨げにならないようにされ、さらなる交渉の余地が残された。このために翌年(五六三年)にペトルスがホスローの宮廷へと赴いたが、ホスローはスアニアがラジカの一部になるという旨の条件への同意を拒絶した。対話の過程で王はその問題はスアニア人自身の決定に委ねられるべきであるという注目すべき提案をした。おそらくホスローの予想した通りペトルスはこれを歯牙にもかけなかっただろうし、交渉は決裂した。

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