アッピアノス『ローマ史』「シュリア戦争」

10巻
59 セレウコスは存命中に息子のアンティオコスを自分に代わって高地アジアの王に指名した。これがもし彼の立派で王らしいと思える資質に見えるならば、これよりもいっそう立派で賢明なことがあり、それは息子の恋に対する彼の行いと自制心である。というのもアンティオコスがセレウコスの妻ですでにセレウコスとの間に一子を儲けていた継母のストラトニケに恋をしたからだ。この情念の邪悪さを認識していたためにアンティオコスは何ら悪事を働かず、思いを表に出さなかったが、病に臥せって死を望むまでになった。高給でセレウコスに召しか抱えられていた高名な医者エラシストラトスが彼の病の診断をした。最終的に彼の体には何の病状もないことを見て取ると、彼はこれはそれに共鳴して体が強くなったり弱くなったりするところの心の問題だと推察した。嘆き、怒り、そして他の情念は自らを表に出すが、謙虚な人では愛だけが隠される。医者がこっそり聞いてみてもアンティオコスは何も白状しなかったため、彼の部屋に入るそれぞれの人たちから彼がどのような影響を受けるのかを知るために医者はアンティオコスの傍らの椅子に座って彼の体の変化を見てみた。彼は他の人が来た時の患者は衰弱しきった同じ調子だが、ストラトニケが彼の許を訪れると、慎みと良心の葛藤で彼の心は大いに高ぶって彼が押し黙ってしまうのを見てとった。しかし彼の体はより元気で生き生きとし、彼女が去ると彼は再び衰弱した。かくして医者はセレウコスに彼の息子は不治の病にかかっていると話した。王は悲嘆に打ちのめされて大声をあげて泣いた。そこで医者は「殿下の病は恋、それも一人の御婦人への叶わぬ恋でございます」と言い加えた。
60 セレウコスはアジアの王たる彼が嘆願、黄金、贈り物、最終的にはこの病める王子のものになる相続財産となり、もし彼がそれを望めば、彼を救うために父は今すぐにでも彼に与えるであろうこの強大な王国の全域によって説得しても息子と結婚させることができない女人がいることに驚いた。この一事を知りたいと思って彼は尋ねた。「この女というのは誰じゃ?」エラシストラトスは答えた。「殿下は私の妻に恋をしておられるのです」「そうか、なら我が親友よ」セレウコスは喜んだ。「お前は友情と好意によって余らとかくも結びついており、この些事において善と知恵の模範となれば、この若い王子を、お前の友である王の息子を、この不運な恋に身を焦がしつつも罪深い情念を隠してそれを白状するよりもむしろ死を選ぶ有徳なこやつを余のために助けようとは思わぬのか? お前はそんなにアンティオコスを軽蔑しておるのか? お前はその父を軽蔑しておるのか?」それからエラシストラトスは戦法を変えて衝撃的な話を言われたかのように言った。「もしアンティオコス様が陛下の奥方に恋をしていれば、陛下は殿下の父ではあられはするものの、陛下はアンティオコス様に陛下の奥方を与えにならないのでしょうね」セレウコスは快く彼女を与えることを王家の全ての守り神に誓い、自らの情念を抑えてそのような被害に値しない貞節な息子に、優しい良き父としての注目に値する実例となった。それどころか彼は同種の仕方でを言い加え、ついには彼は自分が不幸な少年のために医者になることはできないが、この問題はまたエラシストラトスにかかっているのだと嘆き始めた。
61 王が真剣で偽善的ではないことを知ると、エラシストラトスは一切合切の真実を喋った。彼はいかにして自分がこの病の性質を発見し、隠された情念を突き止めたのかを話した。セレウコスは驚喜したが、妻の説得に劣らず息子に説得は難しい問題だったが、彼は最終的に成功させた。それから彼は軍を召集し、ひょっとしたら何か良いことがあるのではないかと期待していた軍に対し、彼の帝国がアレクサンドロスの他のあらゆる後継者よりも秀でていることを示しながら彼の偉業と帝国の広大さについて述べ、今や彼は老いさらばえてしまったのでこれほどの規模の帝国を統治するのは難しいと話した。彼は言った。「帝国を分割し、ひいては同時に将来のお前たちの安全のために供し、その一片を余の最も愛する者に与えることを余は望んでおる。アレクサンドロス様の時代より余の下で支配地と権力をより大なるものとなすのに邁進してきたお前たちの皆が余と共に万事において協力することこそが妥当である。余の最も愛する者、君臨するに値するこの人物は余の成人した息子と妻である。彼らは若いので、余は彼らがすぐに王家の永続性をお前たちに保証するに十分な子らをなすことを祈っておる。余はお前たちの立ち会いの下で彼らの婚儀に参加して高地諸州の統治権を贈るつもりでである。そして余はペルシア人と他の民族の風習の何一つとして、お前たちの全員に共通にこの一つの法以上に顧慮する価値があるものはないようにすることをお前たちに求める。それは即ち『王が下す命令は常に正当である』である」かくして彼が言い終わると、軍は彼はアレクサンドロスの全ての後継者諸王のうちで最も偉大な王、最良の父であると叫んだ。セレウコスはストラトニケと息子に同じ命令を下し、それから彼らを結婚させて王国を贈り、槍働きよりもこの名高い行いにおいてなお一層自らの強さを示した。
62 セレウコスが支配した領地はあまりにも広大であったために彼は七二人の太守を置いていた。彼はその大部分を息子に譲ったが、エウフラテス川と海の間の地方を統治し続けた。彼が行った最後の戦争はヘレスポントスのフリュギアの領有を巡ってリュシマコスとなされたものであった。リュシマコスは戦いで敗れて殺された。それからセレウコスはリュシマケイアを手にするべくヘレスポントスを渡ったが、同行していたプトレマイオス・ケラウノスによって殺された。このケラウノスはプトレマイオス・ソテルと、アンティパトロスの娘エウリディケの長男であった。彼は父が末息子に王国を譲ろうと決めていたため、〔邪魔者として始末される〕恐怖からエジプトを離れた。セレウコスは彼を友人の不運な息子として受け入れ、自らを殺すことになるこの男を支援してどこであれ自分の近くに置いていた。
63 セレウコスは四二年間君臨して七三歳で死んだ。〔彼の死に方は〕彼の事柄について言われていた以下のような神託が的中したものと私には思われる。「ヨーロッパへと急いで戻るなかれ。そなたにはアジアが遙かに良い」。というのも、リュシマケイアはヨーロッパにあり、彼はアレクサンドロスの軍と共にヨーロッパを離れて以来初めてそちらへと渡ってきたからだ。また、彼が神託に自らの死に方について伺いをたてた時、以下のような答えを受けたとも言われている。
アルゴスを離れ続けるならばそなたは寿命を全うできるが、その地へと近づけば寿命の前に死ぬであろう。
 アルゴスの一つはペロポネソス半島に、もう一つはアンフィロキアに、さらにもう一つはオレステイア、つまりマケドニアのアルゲアダイに、もう一つはイオニア海沿いに、〔最後のものは〕放浪中のディオメデスによって建てられたと言われている。これら全部と他の地方にあるアルゴスと名の付くあらゆる土地をセレウコスは調査して避けようとした。彼がヘレスポントスからリュシマケイアと進んでいた時、見事で大きな祭壇が彼の目に入り、これはコルキスへの道中にアルゴナウタイ、あるいはトロイアを包囲したアカイア人によって建てられたものであり、このために近隣の人々は、あるいはアトレウスの息子たちの故郷では未だにそれをアルゴスと呼んでいると彼は聞かされた。これを知らされた時に彼は背中に刃物を隠し持っていたプトレマイオスに殺された。ペルガモスの君侯フィレツェロスはセレウコスの遺体をケラウノスに大金を積んで買ってこれを火葬し、その灰を息子のアンティオコスに送った。アンティオコスは海の近くのセレウケイアにそれを安置し、そこの奉納された土地に父のために神殿を建ててその土地にニカトレイオンの名を与えた。
64 私はある時にアレクサンドロスの鎧持ちの一人であったリュシマコスは彼の傍らで長距離を走り、疲れても王の馬の尻尾を掴んで走り続けたこと、彼は王の槍の切っ先を額に受けて血管の一本が開いてそこから大量の血が流れたこと、そしてアレクサンドロスの予言者アリスタンドロスはリュシマコスがこのように傷で我を忘れた様を見た時に「この男は王になるが、その治世には苦労と困難が付き物になるだろう」と言ったのを聞いたことがある。彼は太守であった期間を勘定すればほぼ四〇年間統治し、それは苦労と困難が付き物の治世であった。彼は七〇歳にして軍を指揮しながら戦死した。セレウコスは彼より長くは生きられなかった。リュシマコスの犬は長い間地面に横たわっていた彼の遺体を見張ってファルサリアのトラクスがそれを見つけて埋葬するまで鳥や獣から守り続けた。ある人たちはリュシマコスがもう一人の息子アガトクレスを殺した時に恐怖からセレウコスの許へと逃げていた息子のアレクサンドロスが埋葬し、彼は長い間遺体を捜してその犬によってついに見つけ、その時にはすでに部分的に腐敗していたと言っている。リュシマケイア人は遺骨を神殿に安置して神殿をリュシマケイオンと名付けた。したがって最高の勇気と体躯の大きさで評判だったこれら二王は、一人は七〇歳で、もう一人は三歳年上で、双方とも死を迎えたその日まで自ら戦いながらほぼ同時に最期を迎えた。

11巻
65 セレウコスの死後、シュリア王国は父子代々につつがなく受け継がれた。最初は継母に恋した同上のアンティオコス〔一世〕で、ヨーロッパからアジアへと来寇してきたガリア人を撃退したことでソテル、つまり「救い主」とあだ名された。二番目はこの結婚から生まれ、ミレトス人の僭主ティマルコスを殺したことで最初に彼らから「神」〔テオス〕というあだ名を得た別のアンティオコス〔二世〕であった。このテオスは妻に毒殺された。彼にはラオディケとベレニケという二人の妻がおり、前者は恋愛結婚で、後者はプトレマイオス〔二世〕・フィラデルフォスによって彼に嫁いできた。ラオディケは彼を、その後にベレニケと彼女の子供たちを暗殺した。フィラデルフォスの息子のプトレマイオス〔三世〕は彼女を殺すことでそれらの罪に対して復讐した。彼はシュリアに攻め込んでバビュロンあたりまで進出した。その時にパルティア人がセレウコス家の混乱に乗じて反旗を翻した。
66 テオスとラオディケの息子でカリニコスつまり「凱旋王」とあだ名されたセレウコス〔二世〕がシュリア王としてテオスの後を継いだ。セレウコスの後、セレウコス〔三世〕とアンティオコス〔三世〕という二人の息子が年齢通り〔兄、次いで弟の順で〕に後を継いだ。セレウコスは病気がちで体が弱く、軍の忠誠を得られなかったために治世の二年目に宮廷の陰謀で毒殺された。彼の弟は、私がすでに書いたようにローマ人と戦争をしたアンティオコス大王であった。彼は三七年間君臨した。私はいずれも王位についたセレウコス〔四世〕とアンティオコス〔四世〕という彼の二人の息子については述べた。前者は一二年間君臨したが、弱体で父の不運のために成功に恵まれなかった。アンティオコス〔四世〕・エピファネスは一二年もは君臨せず、在位中に彼はアルメニア人〔の王〕アルタクシアスを捕らえ、プトレマイオス六世に対するエジプト遠征を行い、プトレマイオスは弟と一人孤児を残した。アンティオコスがアレクサンドレイア近くに野営していた時、ポピリウスがローマの使節として彼の許へと来て、プトレマイオスに攻撃をかけるべからずという命令を書面で持ってきた。それを読むと彼は自分はそのつもりだと返答した。ポピリウスは彼の周りに棒で円を書いて言った。「ここでそのことについて考えてください」彼は怯えてその地方から撤退し、アフロディテ・エリュマイスの神殿を略奪した。それから九歳の息子を残して次第に消耗していく病で死んだが、その息子がすでに述べたアンティオコス〔五世〕・エウパトルである。
67 私は彼の後継者で、ローマで人質になり、脱走して王になったデメトリオスについても話した。また彼はシュリア人からソテルと呼ばれ、セレウコス・ニカトールの息子〔アンティオコス一世〕に次いで初めてこの称号を得た人であった。彼に対してアレクサンドロスなる者が武器を取ってセレウコス家の者であると僭称し、エジプト王プトレマイオスはデメトリオスを憎んでいたために彼を援助した。後者はこのようにして王国から追い出されて殺された。デメトリオスの息子デメトリオスがアレクサンドロスを追い出した。家族のこの偽者への勝利のために彼はシュリア人からニカトールとあだ名され、彼はセレウコスに次いでその称号を得た次の人となった。セレウコスの例に倣って彼はパルティア人に対する遠征を行った。彼は彼らに捕らえられてフラアテス王の宮廷で暮らし、フラアテスは彼に姉妹のロドグネを娶らせた。
68 国が無政府状態になっていた時に王家の奴隷のディオドトスなる者が偽者アレクサンドロスとプトレマイオス〔六世〕の娘との息子であったアレクサンドロス〔二世〕という名の幼い少年を王位につけた。その後彼は少年を殺して政府を我が物とし、トリュフォンと名乗った。しかし捕らえられていたデメトリオス〔二世〕の弟アンティオコス〔七世〕は兄が捕らえられたことをロドスで知ると、帰国して大変苦労しつつもトリュフォンを殺した。それから彼はフラアテスに向けて軍を進めて兄弟を要求した。フラアテスは彼を恐れてデメトリオスを送り返した。にもかかわらずアンティオコスはパルティア人と戦って破れ、自殺した。王国に戻ってくるとデメトリオスは、以前は彼の弟アンティオコスと結婚していて、彼のロドグネとの結婚に嫉妬した妻クレオパトラの差し金で殺された。彼女はデメトリオスとの間に名をセレウコスとアンティオコス・グリュポス、つまり鉤鼻という二人の息子を、アンティオコスと間にはアンティオコス・キュジケノスという一人息子を儲けていた。彼女は教育を受けさせるためにグリュポスをアテナイに、キュジケノスをキュジコスに送った。
69 セレウコス〔五世〕が兄の死後王冠を得てすぐ、彼の母は彼が父の復讐をするのではないかと恐れ、あるいは皆への狂ったような憎悪に衝き動かされて弓で彼を射殺した。セレウコスの後、〔アンティオコス八世〕グリュポスが王になり、彼は母に彼女が自分で調合した毒を仰ぐよう強いた。かくしてついに彼女に正義の裁きが下ることになった。グリュポスはこのような母に相応しい人物であった。彼は腹違いの兄弟キュジケノスに対する陰謀を企んだが、後者はこれを察知して彼に戦争を仕掛け、彼を王国から追い出して彼に取って代わってシュリア王になった〔アンティオコス九世キュジケノス〕。次いでグリュポスの息子セレウコス〔六世〕は叔父に戦争を仕掛けて彼を支配の地位から蹴落とした。新たな君主は乱暴で暴君然としており、キリキアのモプソス市の体育場で焼き殺された。キュジケノスの息子アンティオコス〔一〇世〕が彼の後を継いだ。シュリア人は彼は従兄弟のセレウコスの陰謀を敬虔さのために逃れたものと考え、このためにアンティオコス・エウセベスとあだ名した。彼は本当のところは彼が寵愛していたある見栄えの良い娼婦に救われていたのだ。私はこのエウセベスは彼の父キュジケノスと伯父グリュポスの妻セレネと結婚したためにシュリア人は冗談からこの肩書きを与えたと考えている。このために神の報復が彼につきまとい、彼はティグラネスによって王国を追われる羽目になった。
70 エウセベスとセレネの息子はアジアで育ち、そのために〔アンティオコス一三世〕アシアティコスと呼ばれており、私がすでに述べたようにしてポンペイウスによってシュリアの政府から追い出された。彼は、アレクサンドロス〔一世〕と彼の息子〔アレクサンドロス二世〕を非正統として無視してディオドトスを奴隷とすれば、セレウコスから勘定して一七代目のシュリア王であり、彼はポンペイウスが他所で忙殺されていた一年しか君臨しなかった。セレウコス王朝は二三〇年間続いた。アレクサンドロス大王の時代からローマの統治が開始するまでを計算するためにはティグラネスの統治の一四年間を加えなければならない。外国の歴史の道程におけるシュリアのマケドニア人諸王についてはこのくらいにしておこう。

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