アッピアノス『ローマ史』「シュリア戦争」

6巻
28 以上がミュオネッソスでの海戦の結果であった。それを知る前にアンティオコスは、実際のところ事実ではあったのだが、ローマ軍に対する防御のために非常に重要であると考えてケルソネソスとリュシマケイアに最大の配慮で以って防備を施し、ローマ軍はフィリッポスが手助けをしなければそこを〔陸軍がヨーロッパからアジアへと〕通過したりトラキアの残りを踏破するのが困難であると気付いていた。しかし概して気まぐれで軽率な質であったアンティオコスはミュオネッソスでの敗北を聞くと完全に狼狽し、悪漢たちが自分に対する陰謀を企んでいるのではないかと考えるようになった。全てが彼の予想を裏切る形で展開していた。ローマ人はよりにもよって自分が有利だと彼が思っていた海で彼を打ち負かしたのだ。ロドス人はパンヒュリアにハンニバルを封じ込めていた。フィリッポスが難路でローマ軍を助け、一方アンティオコスはフィリッポスがローマ人から被った生々しい記憶〔キュノスケファライでの敗北のこと〕を根に持ってるのではないかと思っていた。全てのことが彼から気力を奪い、不運が立て続けになったときにありがちなことであるが、神が彼から推論能力を奪い、かくして彼は敵が目前にいるわけでもないのにケルソネソスを大した理由もなく放棄し、そこにせっせと集めた穀物、武器、資金、そして攻城兵器の大量の備蓄を運び去らず、焼き払うこともせず、ただその全ての戦争の資力を敵の良き資源として残しておくことしかしなかった。彼は〔ローマ軍による〕包囲の結果〔を恐れて〕、妻子と共に嘆きながらも逃げる彼についてきたリュシマケイアの人たちのことなど毫も考えなかった。彼はただ単に敵のアビュドスへの渡航を防ごうとしつつ、まだ完全勝利への最後の希望を抱き続けていた。彼はすでに我を忘れていており、退路を守ることさえせず、海峡の守りさえ忘れて敵に先んじて内陸地に到着しようと急いだ。
29 両スキピオ〔プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌスとその兄ルキウス〕はアンティオコスの逃走を知ると、リュシマケイアへと進軍してケルソネソスの宝物と武器を手に入れ、アンティオコスが彼らが渡ったことをまだ知らないうちにサルディスに到着しようとして無防備なヘレスポントスを急いで渡った。錯乱した王は自らの失敗を運命のせいにし、和平交渉のためにビュザンティオン人ヘラクレイデスを両スキピオのところへと送った。アンティオコスはスミュルナ、グラニコス川のアレクサンドレイア、ランプサコスを、それらの都市のせいで戦争が起こったとして彼らに与え、戦費の半分を支払うことを申し出た。彼はもし必要があるならば戦いでローマ人の側についていたイオニアとアイオリスの諸都市を引き渡し、両スキピオが求めることは何であれ応じる権限を〔ヘラクレイデスに〕与えた。それらのことをヘラクレイデスは公的に提案しようとしていた。彼は個人的に多額の金を渡し、カルキスからデメトリアスへと航行しようとしていたために王がギリシアに抑留していた息子を引き渡すことをプブリウス・スキピオと約束する権限を与えられた。この息子は後にカルタゴを破壊してスキピオ・アフリカヌスの名を二番目に得ることになったスキピオであった〔ここで解放されたスキピオ・アフリカヌスの息子はカルタゴを滅ぼした人物(アフリカヌスの妻の姉妹の息子で、アフリカヌスの息子プブリウスの養子となった。小スキピオと呼ばれる)とは別人であり、この個所はアッピアノスの間違いである〕。彼〔小スキピオ〕はマケドニア王ペルセウスを破ったパウルスとスキピオの娘との息子であり、スキピオの養子になっていた。執政官の両スキピオはヘラクレイデスにこのように答えた。「もしアンティオコス様が和平を望まれるのならばイオニアとアジアの都市だけでなく、タウロス山脈よりこちら側のアジアの全域を引き渡し、陛下によって被った戦費の全額を支払うべきです」プブリウスは個人的にヘラクレイデスに言った。「もしアンティオコス様がまだケルソネソスとリュシマケイアを保持していた時にそれらの条件を申し出たのであれば、快く受け入れられたはずでしょうし、これによっては未だなおヘレスポントスの道を守っていたことでしょう。しかし今や我々は安全に渡りましたし、諺にあるように、馬に馬勒を付けたのみならず、それに乗っているわけですから、そのような軽い条件に同意することなどできない相談というものです。私は陛下にはその提案で感謝していますし、私の息子を受け取った後なら尚更感謝することでしょう。私は今陛下に良い忠告をすることで報いることにしましょう。それはより厳しい条件を待つ代わりに提示された条件を呑むこと、これです」
30 この会議の後、プブリウスは病を得てエライアまで引き、弟の相談役としてグナエウス・ドミティウスを残した。マケドニアのフィリッポスがそうだったようにアンティオコスはもし戦争で負ければ、それらの条件よりももっと悪いことが自分に降り懸かることはあるまい考え、軍を敵からそう離れていないテュアティラの平原の近くまで向かわせ、スキピオの息子を彼に送った。スキピオは息子を連れてきた人たちにアンティオコスは彼その人が軍まで戻るまでは戦うべきではないと忠告した。アンティオコスはこの忠告に従って行動し、野営地をシピュロス山まで移してそれを強力な壁で守りを固めた。また彼は敵との間にフリュギオス川を挟み、そうすることで自らの意に反して戦わなくて済むようになった。かくしてスキピオは思いきって川を渡ってアンティオコスから二〇スタディオンの距離に野営地を設営した。四日連続で彼らは軍を自分たちの要塞の正面に出撃させたが、戦いを始めようとはしなかった。五日目にドミティウスはまたもや同じようにして尊大に前進していった。アンティオコスが戦おうとしないでいると彼はさらに近くまで動いていった。一日措いた後に彼は翌日にアンティオコスが好むと好まざるとにかかわらず戦うつもりであると使者を使って敵に聞かせて発表した。後者は困惑して再び心変わりした。彼はこれまで壁で敵を食い止めたり壁越しに敵を退けるのみであったものの、今やスキピオが健康を回復するまでは優勢な兵力で戦いに臨むのは不名誉なことだと考えていた。かくして彼は戦いの準備をした。
31 双方は最後の哨戒時頃、ちょうど夜明け前に出撃した。双方の布陣は以下のようなものであった。一〇〇〇〇人のローマ兵が左翼を川に面して形成し、その背後にイタリアの同盟軍一〇〇〇〇人が陣取り、両隊は縦隊で三重の戦列を敷いた。イタリア軍の後ろにはエウメネスの軍とアカイア人ペルタスタイがおり、それはおよそ三〇〇〇人であった。左翼がこのようになっていた一方で、右翼はローマとイタリアの騎兵とエウメネスの騎兵であり、それは全部で三〇〇〇騎程度であった。その全部の騎兵には軽装歩兵と弓兵が混ぜられ、ドミティウスその人の傍らには騎兵の四部隊がいた。ドミティウスは右翼に陣取って執政官を中央に配置した。彼は左翼の指揮権をエウメネスに与えた。ドミティウスは彼のアフリカ象は数が少なく、アフリカ象は通常小さくて大きい象を恐れていたために役に立たないだろうと考え、全軍の後ろに置いた。ローマ軍の陣立ては以上のようなものであった。
32 アンティオコス軍は合計七〇〇〇〇人で、そのうちで最強だったのは未だにアレクサンドロスとフィリッポスの方式をしていた一六〇〇〇人のマケドニア人のファンクスであった。彼らはそれぞれ一六〇〇人の一〇個の部隊に分けられて中央に置かれ、それぞれの部隊の正面は五〇人であり、三二列であった。それらの部隊の側面を固めたのは二二頭の象であった。ファランクスの見栄えはまるで壁のようであり、象は塔のようであった。アンティオコスの歩兵のは位置は以上のようなものであった。彼の騎兵は翼に置かれ、選り抜きの騎兵であったために名付けられたアゲーマという名で呼ばれており、鎖帷子を着込んだガラティア人とマケドニア人の部隊から構成されていた。同数の騎兵がファランクスの側面にも置かれた。その他に右翼には軽装歩兵部隊と銀の盾を持った他の騎兵部隊、そして二〇〇騎の弓騎兵がいた。左翼にはテクトサガイ族、トロクモイ族、トリストボイオイ族といったガラティア人部隊、アリアルテス王から提供されたカッパドキア兵そして他の諸部族の混成部隊がいた。騎兵部隊はもう一つおり、ヘタイロイ騎兵と呼ばれていたそれは鎖帷子を着込んでいたが、軽装備であった。アンティオコスはこのように軍を配置した。彼は騎兵部隊に最大の信頼を置いていたようであり、多くの騎兵を自らの前に配置していた。練度の高さのために彼が最も信頼を置いていた密集したファランクスは狭い空間にぞんざいに集めれていた。その部隊の傍らにはクレタ式に武装したフリュギア、リュキア、パンヒュリア、ピシディア、クレタ島、トラレス、そしてキリキアからの無数の投石兵、弓兵、投槍兵、そしてペルタスタイがいた。ミュシア、エリュマイス、そして足の速いラクダに乗ったアラビアの弓騎兵もおり、彼らは巧みに高所〔ラクダの上〕から矢を放ち、接近戦ともなれば非常に長い薄い肉切り包丁を使っていた。またアンティオコスは最初の突撃の後に引き返してくるようにとの命令を与えて鎌付き戦車を戦いの口火を切るために両軍の間に置いていた。
33 彼の陣形の見かけは二つの軍のものであるかのようであり、一方が戦いを始めるためのもので、他方が控えたままであるかのようだった。各々は数と装備で敵に恐怖をもたらすかのように配列されていた。アンティオコスは右翼の騎兵部隊を自ら率い、息子のセレウコスが左翼を指揮した。戦象の隊長のフィリッポスがファランクス、そしてメンディスとゼウクシスの前哨部隊を指揮した。日が暮れて暗くなると、視界はぼやけてあらゆる投擲兵器の狙いは霧と暗い空気のために外れた。エウメネスはこれを知ると他の敵軍を気にせず、ほとんどが彼に向かって並んでいた鎌付戦車の到来しか恐れていなかったために投石兵、弓兵そして他の軽装兵に戦車を取り囲んで乗り手ではなく馬を狙い撃ちにするよう命じた。それというのも、一台の戦車で一頭の馬が御せなくなると戦車全体が役に立たなくなってしまうからだ。彼は鎌を恐れた自らの友人たちの隊列をしばしば崩し、〔戦車〕隊は反転した。馬は非常に多くの傷を受けたために戦車を引きずって自軍の戦列に突っ込んだ。戦車隊の隣の戦列にいたラクダが最初に混乱状態に陥り、重い鎧のために簡単に鎌を避けることができなかった鎖帷子を着た騎兵隊がそれに続いた。非常に多くの部隊が浮き足立ち、逃亡兵によってとりわけ多様な形の混乱が巻き起こって前線中に広がり、それを悟ることは事実そのものよりもなお質の悪いものだった。というのも、距離と規模の大きさ、騒々しい叫び声と多種多様な恐怖のためにその危機の傍らにいた者さえ真実を明確に把握することができず、したがって彼らは不安を絶えずそしてさらに大きく後方へと伝えることになった。
34 エウメネスは当初の企図が素晴らしくうまくいってラクダと戦車をそれらが陣取っていた場所から一掃すると、自ら騎兵と指揮下のローマ兵とイタリア兵を率いてガラティア兵、カッパドキア兵、そして彼に対陣していたその他の傭兵の集団へと向かっていき、大声で激励して前面の友軍を奪われた無経験な敵を恐れぬように言った。彼らは彼に従って激しく攻撃をかけたため、その敵のみならず、戦車隊のためにすでに混乱状態に陥っていた隣の騎兵部隊と鎖帷子騎兵をも敗走させた。その大部分は重い鎧のために向きを変えて速やかに遁走することができずに捕らえられたり殺されたりした。マケドニアのファランクスの左側がこのような状態にあった一方で、右翼にいたアンティオコスはローマ軍の戦列を突破してそれを寸断し、長距離を追撃していた。
35 二つの騎兵部隊の間の狭い空間に正方形の形でいたマケドニアのファランクスは両側面の騎兵を剥ぎ取られると正面で小競り合いをしていた軽装兵を〔戦列の内側に〕匿うために戦列を開くと再び閉じた。かくして多数の兵を集めてドミティウスはやすやすと彼らを多数の軽騎兵で包囲した。攻撃したりその密集した集団を展開させる暇もなかったためにファランクスは大損害を受け、敵の武器に四方八方から晒されながら自らの軍事の経験を活かすことができないことに憤った。にもかかわらず彼らは四方へとがっしりした槍を向けた。彼らはローマ軍に白兵戦を挑んで攻撃に対してはずっと持ちこたえた。彼らは歩兵であり重装備をしていたために前進すらできず、本当の敵は騎兵だと気付いた。そう簡単に再び隊列を組み直せそうになかったためにそのほとんど全員が密集隊列を緩めることを恐れた。ローマ軍はこの熟練部隊の規律、堅牢さ、自暴自棄を恐れていたために密集隊形でなければ彼らに近付かなかったが、彼らを包囲して投槍と弓で攻撃し、投擲兵器の方向を逸らしたりかわすこともできないその密集部隊を打ち損じることはなかった。このようにしてかなりの損害を受けた後に彼らは窮地に陥って次から次へと倒れたが、正面から勇敢に、完全な隊列で驚異的なまでにローマ軍に対して未だに立ち塞がっていた。ローマ軍はマケドニアのファランクスの内側の象が興奮して手がつけられなくなるまで距離を維持して彼らを囲みながら傷を与え続けた。かくしてファランクスは無秩序な敗走に転じた。
36 この勝利を得た後にドミティウスはアンティオコスの野営地へと急いで向かい、そこを守っていた部隊を蹴散らした。一方アンティオコスは彼に対陣していたローマの軍団の一部を長距離を追撃した後にローマの野営地へとやってきて、そこはドミティウスが川が十分な防壁になると考えてどの部隊も置いていなかったために無防備であり、騎兵も軽装兵もいないことに気付いた。しかし野営地の隊長であった一人の千人隊長が新手の部隊でもって急いで彼を迎え打って彼の前進に待ったをかけ、逃亡兵は友軍から新たに勇気を得て集結してきた。王は他の所で何が起こっているのかを知らずに勝利を得た者らしい高慢さを取り戻した。エウメネスの弟アッタロスが騎兵の大部隊を率いて道すがらの彼に襲いかかると、アンティオコスは彼らを容易く切り伏せ、あまり大きな損害を受ける前に敗走した敵など歯牙にもかけなかった。敗北を知って戦場には自軍の兵士、馬、象の死体が散らばっており、野営地はすでに制圧されてしまったことに気付くと彼は大急ぎで逃げ出し、真夜中にサルディスに到着した。サルディスから彼はアパメイアと呼んでいたケライナイの町へと向かい、そこで息子が逃げたことを知らされた。翌日に彼は軍の生き残りを集めるためにケライナイに部将たちを残してシュリアへと退却した。また彼は執政官に和平について話し合う使節団を送った。後者は自軍の死者を弔って、敵の死体から武具を剥ぎ取って捕虜を集めた。ローマ軍の死者は〔ローマ〕市から来た二四〇人の騎兵と三〇〇人の歩兵で、そのほとんどはアンティオコスが殺したものであった。エウメネスは一五人の騎兵しか失わなかった。アンティオコスの損害は捕虜を含めて五〇〇〇〇人に上ったと信じられている。その規模のためにそれを数えることは簡単なことではなかった。彼の象の一部は殺され、一五頭が捕えられた。

7巻
37 この素晴らしい勝利の後、異国の地で戦う数で劣る軍がこれほどの大軍、とりわけ規律と勇気で勇名を馳せており、恐るべき、そして無敵であるという名声を博していたマケドニアのファランクスを完璧に打ち破るなど全くあり得ないと見られていたため、この勝利は多くの人にとって全く予想だにしないものであり、アンティオコスの友人たちはローマ軍との戦いにおける彼の軽率さと技術不足と開始早々の拙い判断を責め始めた。彼らはケルソネソスとリュシマケイアを敵に対して防戦に立つこともなく武器と物資もろとも放棄したこと、そしてヘレスポントスを無防備なままにしたことで彼を責め、これほど簡単に軍を〔アジア側に〕移せるなどとはローマ人さえ想定していなかった。彼らは狭苦しい場所に配置することで軍のうちの最強の部隊を役立たずにした最近の失敗、そして長きに亘る訓練で軍事行動についての腕を磨き、多くの戦争によって勇気と忍耐が最高の状態にまで鍛え上げられていた部下よりもむしろ新参の烏合の衆に信頼を置いたことで彼を非難した。そのような議論がアンティオコスの友人の間で起こっていた一方で、ローマ軍は得意になって神々の支持と持前の勇気がある今の彼らに難しい仕事などないと思った。というのもこれほどの寡兵で敵と戦い、異国での最初の戦いにおいて非常に多くの民族から成り、勇敢な傭兵、名声高いマケドニアのファランクス、そしてこの大帝国の支配者であり、大王と称された王その人を含むような王が全ての準備を行った大軍を一日で一挙に破ったという幸運は彼らに絶大な自信をもたらしたからだ。「王様がいたんだが、そいつはアンティオコス大王って奴だ!」という台詞が彼らの口々に広まった。
38 ローマ軍が歓喜に打ち震えていた一方で執政官は弟プブリウスが体調を回復させてエライアに戻っていたためにアンティオコスの使節を接見した。彼らはアンティオコスがローマ人の友となれる条件を知りたがっていた。彼らにプブリウスは以下のように返した。「アンティオコス様の貪欲な気質が陛下の今と過去の不運の原因となったのです。陛下がその大帝国の主だった時にはローマ人はそれを狙ってはいませんでしたし、陛下は自らの縁者であり我々の友人であったプトレマイオス〔四世〕様のものであったコイレ・シュリアを占領しました。次に陛下は陛下とは無関係なヨーロッパに攻め込んでトラキアを服属させ、ケルソネソスを要塞化し、リュシマケイアを再建しました。陛下はギリシアに渡って以前ローマ人が解放した人々から自由を奪い、テルモピュライの戦いで破れて敗走するまでこのやり口を止めませんでした。そして陛下はその強奪癖を押さえることさえせず、頻繁に海で打ち負かされたにもかかわらず我々がヘレスポントスを渡るまで平和を求めようとはしませんでした。その上陛下は自らに提示された条件を馬鹿にした調子で拒み、再び大軍と数え切れないほどの物資を集めて我々との戦争を続け、この大惨事に見舞われるまで博打打ちたちと共に戦いを挑もうと決め込んでおられました。我々は執拗に我々に刃を向ける陛下の強情さのためにより厳しい罰を尤もなことに科すことでしょうが、順境を乱用したり他人の不運をさらに悪化させたりすることは我々の習わしではありません。我々は等しく我々と陛下の未来の利益に繋がるであろうことを僅かながら付け加えつつも前と同じ条件を提示するつもりです。陛下はヨーロッパとタウロス山脈よりこちら側のアジアの全域をを放棄して国境線を今後固定すべきです。そして所有している全ての象と我々が指示するだけの数の船を引き渡し、今後は象を所有してはならず、船は我々が許すだけの数しか所有してはならず、執政官が選ぶ二〇人の人質を渡し、陛下のために被った今回の戦争の費用として五〇〇エウボイア・タラントンを即金で、二五〇〇以上を元老院が条約を批准した時に、そして一二年賦で一二〇〇〇以上を毎年分割払いでローマに支払わなければなりません。また陛下は我々に全ての捕虜と逃亡兵を、エウメネスには陛下がエウメネスの父アッタロスとの条約で獲得したものの残りを引き渡すものとします。もしアンティオコス様が以上の条件を何も企まずに受け入れれば、我々は元老院の批准に則って平和と友好を認める所存であります」
39 スキピオが提示した全ての条件が使節によって呑まれた。支払うことになっていた金の一部と二〇人の人質が渡された。後者の中にはアンティオコスの末子アンティオコスが入っていた。スキピオとアンティオコスは両者ともローマへと使者を送った。元老院は彼らの行いを許可し、スキピオの見解通りに、そして少しのことが追加されたり不明確なままだった箇所を明確にした条約文書が書かれた。アンティオコスの支配域の境界はカリュカドノスとサルペドニオンの二つの岬とされ、それを越えて彼は戦争を目的として航行してはならない。彼は支配下にある臣下を保つための軍船を一二隻しか所有してはならず、彼が攻撃を受ければそれ以上の数を所有してもよい。彼はローマ領から傭兵を徴募し、同地からの亡命者を受け入れてはならず、人質はアンティオコスの息子を除いて三年毎に変えられるべしとされた。この条約は青銅の板に刻まれてそのような条約を置く習わしになっていたカピトリウムに置かれ、その複製がスキピオの後任指揮官〔グナエウス・〕マンリウス・ウルソまで送られた〔紀元前188年〕。彼はフリュギアのアパメイアでアンティオコスの使節に宣誓をさせ、アンティオコスはこのために送られていた軍団司令官のテルムスに同じことをした。以上がアンティオコス大王とローマ人の戦争の顛末であり、ある人たちはアンティオコスのスキピオの息子への好意のために戦争はこれ以上延びなかったと考えた。
40 スキピオが戻ってくると、幾人かの人たちが彼を告訴して二人の護民官が買収と国家への裏切りの廉で彼を弾劾した。彼はそれを知っても告発を見くびり、彼の裁判がカルタゴへの勝利の記念日とされた日に始まると、自らの到着に先立ってカピトリウムに犠牲獣を送り、次いで弾劾された人物の習わしであった喪服と控えめな服装の代わりにお祭りのような出で立ちで法廷へとやってきて、万事に深遠な表現を使って彼の潔白に気付くことのできる気高い市民たちの支持を得ようとした。彼は話し始めると自らに向けられた非難については語らず、彼の生涯の出来事、事績、彼が国家のためにした戦争、いかに彼がそれらを進めてしばしば勝利したのかについて詳しく述べた。この偉大な道程を聞くことは聴衆を喜ばせた。カルタゴの転覆にさしかかると彼の雄弁は最高潮に達して群衆を彼自身のように気高い憤怒で満たした。曰く「まさにこの日だ、市民たちよ、私が勝利してつい最近まで恐怖の的だったカルタゴへとあなたたちの足を踏み入れさせたのは。今私はこの日に指定された犠牲を捧げるためにカピトリウムに来ているのだ。あなたたちが国を愛するとの同じようにあなたたちの多くは私をあなたたちの幸福を願う犠牲式与らせるだろう」演説を終えると彼は自らに対する非難について何も言わずにカピトリウムへと向かった。群衆は喜んで喝采を送りながら彼に続き、その中には裁判官の大部分もいるという始末で、その喝采は彼が犠牲を捧げる間も続いた。原告は途方に暮れ、無益なことであったために再び彼を裁判に呼ぼうとはせず、彼は生涯を通じて疑念や中傷とは無縁であったことを知っていたために彼を扇動の廉で告訴しようともしなかった。
41 このようにしてスキピオは彼の経歴に相応しからぬ避難を軽蔑して聞く耳持たなかったわけであるが、蓋しこれは窃盗で告訴された時のアリストテレスや告発された時のソクラテスよりはよっぽど賢明であったことだろう。ソクラテスがプラトンが彼をして言わしめたようなことを言わなければ、似たような中傷の下で各々の人たちは何の応答もしなかっただろう。さらにスキピオはペロピダスと他一名と一緒にボイオタルコスの地位にあった時のエパメイノンダスよりも気高かった。テバイ人はラケダイモン人との戦争で〔エパメイノンダスら〕各々に軍を与えてアルカディア人とメッセニア人を助けるために送ったが、彼らがその意図を達する前に中傷のために呼び戻した。彼らはラケダイモンの守備隊を追い出してアルカディア人が自分たちの引き継ぐまで六ヶ月期限の指揮権を後任の将軍に引き継がなかった。エパメイノンダスは同僚にこの進路を進むことを強い、かくして彼らは罪を被ることになった。彼らが帰国すると、法律が他の人に与えられた指揮権を無理矢理に持ち続けることは死に値する犯罪であると定めていたため、検察を任とする官吏は個別に彼らの命を裁判の遡上に乗せたが、慈悲心を掻き立てられて彼らに発言を許し、彼らの言う通りだと証言していたエパメイノンダスに責任を被せる長い演説によって他の二人は罪を免れた。彼は最後に裁かれた。彼は言った。「私は自分が任期を越えて法に反して指揮権を持ち続け、そしてあなた方が今しがた放免した彼らにそれを強制したことを認めるものであります。私は法を破った以上、自分が死刑に値することを否定はしません。最後のお願いとして一つ頼みたいことがありまして、それは『彼の者はレウクトラの勝者なり。彼の国はこの敵、あるいはドーリア帽を被った異人にさえ刃向かおうとはしなかったにもかかわらず、同胞市民たちを強いてスパルタの戸口まで行かせしめた。国の幸福のために法を破りしがために彼の国は彼を死に処せり』と墓石に刻んでいただきたい、というものです」こう言った後、彼は演壇を降りていって獄吏に自分の身柄を引き渡すよう求めた。判事たちはこの演説で恥入り、その弁明の見事さと今し方演説をしたこの男への尊敬のために票決を俟たずに法廷から走って出ていった。彼との類似のために読者はそれらの場合を比較するだろう。
42 スキピオの後を襲った執政官マンリウスはアンティオコスから奪った地方へと飛んで法を敷いた〔紀元前189年〕。アンティオコスと同盟を結んでいたガラティア族の一つトリストボイオイ族はミュシアのオリュンポス山に逃げ込んだ。マンリウスは非常に苦労しながら山に登って逃げる彼らを追撃し、数えることができないほど大勢を殺して彼らを岩壁から追い落とすまで続けられた。彼は四〇〇〇〇人の捕虜を得て彼らの武器を焼き払い、彼に手向かうことができなくなるほど多くの捕虜を戦争中に得て、近隣の夷狄へと与えた。彼はテクトサガイ族とトロクモイ族の待ち伏せに遭って危機に陥ったが、辛うじて逃げ仰せた。しかし彼は再び彼らの許へと戻ってくると、彼らが大勢で野営地にいるのを知った。彼は軽装兵で彼らを囲んで兵に距離をとって射撃するが接近戦はしないよう命じてその周りを回らせた。その軍勢はあまりにも密集していたために矢の狙いが外れることはなかった。彼は八〇〇〇人を殺して残りをハリュス川まで追撃した。カッパドキア王で、アンティオコスに援軍を送っていたアリアルテス〔四世〕は誓願の手紙と、これと別に二〇〇タラントンの金子を送り、これらによってマンリウスが自国に足を踏み入れないようにした。後者は多くの宝物と数え切れない金を携えてヘレスポントスへと戻り、軍は戦利品を満載していた。
43 そこまでは良かったが、その後マンリウスは酷い過りを犯した。彼は高をくくって夏期の海を通って帰国しなかった。彼が運んでいた荷物について何の説明も与えなかった。もう戦争は終わっていたために彼は進軍中の軍の規律を維持するのを怠り、戦利品を携えて帰国した。彼はうだるような暑さのトラキアの長く狭い難路を通って進軍した。彼はマケドニアのフィリッポスと会ったり、彼に護送を求める手紙を送らなかった。彼は軍を分けず、そのためにより軽率に動いてより必需品はより使いやすくなった。彼は荷駄を防御を容易くするために整然と続けさせるということもしなかった。彼は全員を一列にして隊列の真ん中に輜重隊を置きながら軍を乱雑に動かし、そのために道の長さと狭さのために前衛も後衛も迅速に支援することができなくなった。そのためにトラキア人が方々から横っ腹へと攻撃をかけてくると彼は戦利品と公金、そして軍の大部分を失うことになった。彼は残存兵を連れてマケドニアまで逃げ、かくしてフィリッポスが両スキピオを護送することでいかに重要な役割を果たしていたのか、アンティオコスのケルソネソス放棄がどれほどの失敗であったのかが実に明らかになった。マンリウスはマケドニアからテッサリアへ、そこからエペイロスへと渡り、ブルンドゥシウムに渡航して兵を家に帰すために解散してローマに帰った。
44 ロドス人とペルガモスの王エウメネスは対アンティオコス同盟に参加したことを非常に自慢にしていた。エウメネスは自らローマへと赴いてロドス人は使節団を送った。元老院はロドス人にリュキアとカリアを与え、マケドニア王ペルセウスとの戦争で彼らは彼への支持を表明したためにそれらはすぐに没収された。彼らはエウメネスにアジアのギリシア諸都市を除くアンティオコスから奪った残りの全ての領土を与えた。後者のうちで以前エウメネスの父アッタロスの属国だった国はエウメネスに貢納を払うよう命じられ、一方で以前アンティオコスに貢納を払っていた者は貢納を免除されて独立させられた。ローマ人は戦争で獲得した土地をこのように処理した。

8巻
45 その後、アンティオコス大王が死ぬと彼の息子セレウコス〔四世〕がその後を継いだ〔紀元前187年〕。彼は息子のデメトリオスを自らの弟のアンティオコスの代わりに〔ローマへの〕人質として差し出した。後者が帰国の途上でアテナイに着いた時、廷臣の一人ヘリオドロスなる者の陰謀によってセレウコスは暗殺された〔紀元前175年〕。政府を我が物にしようとしたところでヘリオドロスはエウメネスとアッタロス〔二世〕によって追い出され、彼らはアンティオコスの支持を得ようとして彼を即位させた。というのも些細な口論から彼らは常にローマ人から段々と疑われるようになっていたからだ。したがってアンティオコス大王の息子アンティオコス〔四世〕がシュリアの王位についた。政府が僭称者の手に渡った時に自分こそが真の君主であると知らしめたために彼はシュリア人からエピファネスと(顕現王)と呼ばれた。エウメネスとの友情と同盟を口にすることで彼はシュリア人と近隣の諸民族をしっかりと掴まえて統治した。彼は兄弟同士で、いずれも彼の親友だったティマルコスをバビュロン太守に、ヘラクレイデスを宝物管理官に任命した。彼はアルメニア王アルタクシアスへの遠征を行って彼を捕虜とした。
46 エピファネスは九歳の一人息子アンティオコス〔五世〕を残して死に、シュリア人は父の勇敢さを追憶して彼にエウパトルという名をつけた〔紀元前164年〕。この少年はリュシアスによる教育を受けた。元老院は高邁な精神を見せつけていたアンティオコスが若くして死んだことを喜んだ。セレウコスの息子でアンティオコス・エピファネスの甥であり、アンティオコス大王の孫であったこの少年の最初の従兄弟であったデメトリオスはその時人質としてローマにいて二三歳であり、彼が少年よりもむしろ自分のものとして王国を統治することを元老院に求めると、元老院は許可を与えなかった。彼らはシュリアは育ちきった男よりも未熟な少年に統治される方が彼らにとって都合が良いと考えたのだ。シュリアには多くの象がいて、条約でアンティオコスに許された数以上の船があることを知ると、彼らはそこへと使節団を送って象を殺して船を焼き払った。それらの貴重で飼い慣らされた動物の殺害と船の焼却は哀れな光景であった。ラオディケイアのレプティネスなる人は光景に怒ってこの使節団の長グナエウス・オクタウィウスをこの地の体育場に呼び寄せて刺殺し、リュシアスが彼を埋葬した。
47 デメトリオスは今しがた死んだアンティオコス〔四世〕の代わりになる身分だったために再び元老院の前へとやってきてとにかく人質の身分から解放してくれるよう頼んだ。要望が却下されると彼は小舟で密かに逃げ出した。シュリア人は彼を喜んで迎えたため、リュシアスに彼と共にいた少年を殺させた後に彼は即位した〔王としてはデメトリオス一世〕。彼は反乱を起こして他の面でもバビュロニアの政府で悪政を敷いていた二人の人物、ヘラクレイデスを官職から解任してティマルコスを殺した。このために彼はバビュロニア人によって最初に彼に与えられたソテル(救済者)というあだ名を得た。王国を確固たるものとすると、彼は千金に値する王冠を以前の彼らの人質の贈り物としてローマ人へと送り、オクタウィウスの殺害者レプティネスを引き渡した。彼らは王冠は受け取ったが、シュリア人をその罪科の下に置き続けようとしてレプティネスは受け取らなかった。デメトリオスはカッパドキアの政府をアリアルテスから奪ってそれをアリアルテスの兄弟であったオロフェルネスに与えて一〇〇〇タラントンを受け取った。しかしローマ人はアリアルテスとオロフェルネスは兄弟として共に統治すべきであると決定した。
48 それらの君主たちは――彼らの後継者アリオバルザネス〔一世〕もまた少し後に――ポントス王ミトリダテスによって王国を逐われた。ミトリダテス戦争はこの出来事から勃発し、この戦争は他の戦争の中でも非常に大きな戦争であり、多くの国にとって波乱に富み、ほぼ四年にわたった。この時代にシュリアは短い間隔で互いに入れ替わったがその全員が王族だった多くの王を戴いたが、その王統から多くの変化と反乱が起こった。以前セレウコス家の支配に反旗を翻したパルティア人はその王家に服属していたメソポタミアを制圧した。アルメニア王ティグラネス〔一世〕の息子で、多くの隣接する諸侯国を併合してその偉業のために諸王の王という称号を得たティグラネス〔二世〕はセレウコス家が彼の覇権を認めなかったために彼らを攻撃した。アンティオコス〔一〇世〕・エウセベスは彼に歯が立たなかった。ティグラネスはエウフラテス川のこちら側〔西岸〕からエジプトまでのシュリア人の全てを征服した〔紀元前83年〕。彼は同時にキリキアを、ここもまたセレウコス家に服属していたために占領して一四年の間それらの征服地全土での指揮権を彼の将軍マガダテスに与えた。
49 ローマの将軍ルクルスがティグラネスの領地に逃げ込んだミトリダテスを追撃すると、マガダテスはティグラネスの支援に赴くべく軍を率いて向かった。そこでアンティオコス・エウセベスの息子アンティオコス〔一三世〕がシュリアに入って人々の賛同を得て統治権した〔紀元前69年〕。ティグラネスとの戦争を行って彼が新たに得た領地を彼から最初に奪った人であったルクルスはアンティオコスが彼の祖先の支配権を行使するのに反対した。しかしルクルスの後任のポンペイウスはミトリダテスを成敗すると、ティグラネスにアルメニアの統治を許してアンティオコスがローマ人に害を何らなさなかったにもかかわらず彼からシュリアの統治権を剥奪した。
50 このようにしてローマ人は戦わずしてキリキアとシュリア内陸部とコイレ・シュリア、フォイニキア、パレスティナ、そしてシュリア人がエウフラテス側からエジプトと海〔紅海〕までと名付けた他の全ての地方を領有するに至った〔紀元前63年〕。ユダヤ人の国がまだ抵抗を続けていてポンペイウスは彼らを征服し、彼らの王アリストブロス〔二世〕をローマへと送り、最大にして最も神聖な都市イェルサレムを最初のエジプト王プトレマイオス〔一世〕が以前したように破壊した。後にそこは再建されており、ウェスパシアヌスが再び破壊し〔70年〕、当代にハドリアヌスが同じことをした〔135年〕。それらの反乱のために全ユダヤ人に課された人頭税は一般の納税者よりも重い額であった。シュリア人とキリキア人の毎年の税金は彼ら各々の財産見積もりの百分の一であった。ポンペイウスはセレウコス家に属していた様々な国を諸王や自らの配下の支配者の支配下に置いた。似たようにして彼は〔第三次〕ミトリダテス戦争で彼に協力したアジアのガラティア人の四人の支配者に四つの君主国を承認した。そう遠くないうちにそれら全てがローマの支配下に徐々に入り、その大部分がアウグストゥスの時代にであった。
51 ポンペイウスはその戦争における彼の財務官であった〔マルクス・アエミリウス・〕スカウルスをシュリアに任じ、元老院はその後、その双方が法務官であった〔ルキウス・〕マルキウス・フィリップスを彼の後任に、〔グナエウス・コルネリウス・〕レントゥルス・マルケリヌスをフィリップスの後任に任じた。彼ら各々の二年の任期は隣接するアラビア人の攻撃を防ぐのに費やされた。シュリアでのそれらの出来事のためにローマはシュリアに軍を徴募して執政官と同等に戦争を行う権限を持った総督を任命し始めた。軍と共に送られた最初の人は〔アウルス・〕ガビニウスだった。彼には戦争を開始する準備ができていたため、兄弟のオロデス〔二世〕によって国を追われていたパルティア人の王ミトリダテス〔三世〕はアラブ人の許からパルティア人へと彼の軍を差し向けるようガビニウスを説得した。同時に、同様に王位を追われていたエジプト王プトレマイオス〔一二世〕が多額の金を使ってパルティア人の方からアレクサンドレイアへと軍を転じるようガビニウスを説き伏せた。ガビニウスはアレクサンドレイア人を破ってプトレマイオスを復位させたが、元老院によって許可なく行われたエジプト侵攻の廉で、そしてシビュラの書によって禁じられていたためにローマ人からは不吉だと考えられていた戦争を行ったために追放刑に処された〔55年〕。〔マルクス・リキニウス・〕クラッススがガビニウスからシュリアの支配権を引き継いだと私は考えており、そしてその同人物はパルティア人との戦争を行った時に大災厄にあった〔53年〕。ルキウス・〔カルプルニウス・〕ビブルスがクラッススの後シュリアでの指揮権を有していた時にパルティア人がその地方へと侵入した。その統治には〔ルキウス・デキディウス・〕サクサがビブルスの後任として任についた時、パルティア人はイオニアまでの地方を荒らし回り、ローマ人は内戦に謀殺されていた。私はそれらの出来事を私のパルティア史においてより詳しく論じておいた。

9巻
52 この巻で私は、シュリアの歴史について、いかにしてローマ人がシュリアを手にし、いかにして昨今の状況にしたのかを述べた。ローマ人の前にシュリアを支配したマケドニア人がいかに同地を手にしたのかを語ることは不当ではなかろう。ペルシア人の後、アレクサンドロスは彼が到達した他の人々と同様にシュリアの王になった。彼は幼い一人息子と未だ生まれぬ子を残して死んだ〔紀元前323年〕。フィリッポスの血統に忠実だったマケドニア人はほとんどまともな精神ではないと考えられていたにもかかわらず、アレクサンドロスの兄弟のアリダイオスをアレクサンドロスの息子たちが幼いうちの王に選び、彼の名をアリダイオスからフィリッポスに改めた。また、彼らは身ごもっていた〔大王の〕妻にも用心深く護衛をつけた。ペルディッカスがフィリッポス王の権威の下で〔帝国を〕分配し、アレクサンドロスの友人たちは太守領に分割された征服地を管理し続けた。遠からぬうちに本物の王たちは死に、その太守たちが王になった。最初のシュリアの太守は、ペルディッカスと〔ペルディッカスから〕摂政位を継承したアンティパトロスからの承認を受けたミュティレネのラオメドンであった。シュリアはエジプトを守りキュプロスを攻めるのに都合の良い土地であったため、エジプト太守プトレマイオスはこのラオメドンへ向けて艦隊を率い、もしシュリアを渡せば大金を渡すことを申し入れた。ラオメドンが拒絶するとプトレマイオスは彼を捕えた。ラオメドンは看守を買収してカリアのアルケタスの許へ逃げた。こうしてプトレマイオスはしばらくシュリアを支配し、守備隊を残してエジプトへ戻った〔紀元前319-318年〕。
53 アンティゴノスはフリュギア、リュキア、そしてパンヒュリアの太守であった。アンティパトロスがヨーロッパに向かった時に全アジアの監督者として残されると彼はマケドニア人によって公に敵と宣言されたカッパドキア太守エウメネスを包囲した。後者は逃げてメディアを勢力下に置いたが、アンティゴノスは後に彼を捕らえて殺した。彼は戻ってくるとバビュロン太守セレウコスによって慇懃に迎え入れられた。ある日、セレウコスはそこにいたアンティゴノスに諮ることなく一人の支配者を殺し、後者は怒って彼に彼の金と所有物を要求することに決めた。セレウコスは勢力においてはアンティゴノスに対して劣勢であったためにエジプトのプトレマイオスのところまで逃げた。それからアンティゴノスはメソポタミアの支配者ブリトルをセレウコスの逃亡を見逃したためにその地位から更迭し、バビュロン、メソポタミア、そしてメディアからヘレスポントスに至るまで全ての地域を我が物とし、その間にアンティパトロスが死んだ。他の太守たちはすぐに彼が大領土を持っていることに嫉妬した。主としてこのような理由によって例えばセレウコス、プトレマイオス、トラキア太守リュシマコス、アンティパトロスの息子であり父の死後にマケドニア人の支配者となったカッサンドロスは互いに同盟を結んだ。彼らは共同で使節をアンティゴノスに送って彼が新たに得た土地と金を、彼ら及び太守領を失った他のマケドニア人と分け合うことを要求した。アンティゴノスは彼らの要求を見くびってぞんざいに扱い〔紀元前315から314年に至るまでの冬〕、彼らは団結して彼に対する戦争を起こした。アンティゴノスは彼らとの戦いの準備をした。彼はシュリアのプトレマイオスの守備隊の全てを追い払って彼がまだフォイニキアとコイレ・シュリアに保持していた全ての領地を奪い取った。
54 次いで彼は二二歳位の息子のデメトリオスをエジプトから来寇しつつあるプトレマイオスと戦うため軍と共にガザに残してキリキア門を越えて進軍したが、後者〔プトレマイオス〕はガザ近くの戦いで若い息子を不味いことに破ってしまい、父は駆けつけざるをえなくなった〔紀元前312年〕。プトレマイオスはすぐに〔バビュロニアの〕統治を再開させるために一〇〇〇人の歩兵と三〇〇騎の騎兵と共にセレウコスをバビュロンへと送った。この小さな軍でセレウコスはバビュロンを奪取してそこの住民は彼を熱狂的に迎え入れ、短時間で勢力を大いに増大させた〔紀元前311から309年〕。にもかかわらずアンティゴノスはプトレマイオスの攻撃をしのぎ、息子のデメトリオスが指揮官であったキュプロス近くでの輝かしい海戦で勝利を得た〔紀元前306年〕。まさにこの素晴らしい偉業のため、彼らの王(フィリッポス〔二世〕とオリュンピアスの息子アリダイオス〔・フィリッポス三世〕、アレクサンドロスの二人の息子〔アレクサンドロス四世とヘラクレス〕)は既になかったため、軍はアンティゴノスとデメトリオスを王と呼ぶようになり、プトレマイオスの軍もまた彼が低い地位にならないように、後の戦いでの勝者たち〔アンティゴノスとデメトリオス〕よりも高位になれるように彼を王に推挙した。かくしてかの男たちには似たような結果が反対の出来事から起こったのである。他の全ての者がそれに倣い、全ての太守が王になった。
55 このようにしてセレウコスはバビュロニアの王となった。また彼はメディアの王国を手にし、アンティゴノスがその地方の太守として残していたニカノルを戦いにおいて自ら殺した。その後、彼はマケドニア人と夷狄との多くの戦争を戦った。二つの主要な戦いはマケドニア人とのものであり、一つ目はフリュギアのイプソスでのアンティゴノスとのものであり〔紀元前301年〕、そこでアンティゴノスは八〇歳を超えていたにもかかわらず自ら指揮を執って戦い、二つ目はトラキアの王リュシマコスとのものであった〔紀元前281年〕。アンティゴノスは戦いで殺され、セレウコスと彼に対する同盟を結んでいた王たちは彼の領土を分割した。この分割でエウフラテス川から海までの全シュリア、フリュギアの内陸はセレウコスのものになった。隣国民を常に待ち伏せし〔て破り〕、軍は強く、話し合いにおいては説得的であったために彼はメソポタミア、アルメニア、「セレウコスの」カッパドキア、ペルシス、パルティア、バクトリア、アラビア、タプリア、ソグディア、アラコシア、ヒュルカニア、そしてインドス川あたりまでのアレクサンドロスに服従していたその他の近傍の人々を獲得し、彼の帝国の境界はアレクサンドロスのそれの後では最もアジアで広範囲なものになった。フリュギアからインドス川までの全ての地方はセレウコスに服従した。彼はインドス川を渡ってその河畔に住んでいたインド人の王サンドロコットスと互いを理解して姻戚関係を結ぶまで戦争を行った。それらの業績の一部はアンティゴノスの生前に、もう一部は死後になされた。
56 まだアレクサンドロスに仕えて彼に従ってペルシア人に対する戦争をしていた時に彼はディデュマの神託にマケドニアに帰るためにはどうすればいいのかと伺いをたて、以下のような回答を受けたとと言われている。
急いでヨーロッパに戻ってはならぬ。汝にとってはアジアの方が遥かに良い。
 またマケドニアの先祖伝来の家で誰が火をつけたわけでもないのに大きな火が起こり、彼の母は夢で彼女が彼に持っていって渡さなければならない指輪を見つけて、彼が指輪をなくした場所で彼になった様を見たととも言われている。彼女は錨が刻まれた鉄の指輪を見つけ、彼はそれをエウフラテス川の近くでなくした。後にバビュロンを取り戻すべく戻ってきた時に彼は石に躓き、この石のおかげで錨を掘り出して見つけたと言われている。占い師たちがそれは遅滞の前触れであると考えてこの驚異に際して不安をかきたてると、ラゴスの息子で遠征軍に同行していたプトレマイオスは錨は遅滞ではなく安全の兆しであると言った。このためにセレウコスは王になると指輪の玉璽に彫られた錨を使うようになった。ある人たちはセレウコスの将来の権力のもう一つの兆しがアレクサンドロスが存命中に見つかり、それは以下のようにして明らかになったと言っている。アレクサンドロスがインドからバビュロンへと戻っていた時にエウフラテス川からアッシュリアの灌漑された原野を見ながらバビュロンの潟のあたりを航行していると、風が彼に吹き付けて彼の冠をさらってある古の王の墓の上に群生していた葦の林の上に吊り下げた。これ自体がアレクサンドロスがすぐに死ぬことを示していた。彼らは一人の船乗りがそこへと泳いでいってそれを頭に乗せ、濡らすことなくアレクサンドロスのところまで持っていくと、アレクサンドロスはすぐに彼に彼の親切な奉仕への褒美として一タラントンの銀を与えたと言っている。占い師たちはこの男を殺すよう忠告した。幾人かの人たちはアレクサンドロスはその忠告に従ったと、他の人たちはそれに従わなかったと言っている。他の話し手たちはその話を省いてそれは船乗りではなく、王の冠まで泳いでいったのはセレウコスであり、それを濡らさないように頭に被ったのは彼だと述べている。アレクサンドロスがバビュロンで世を去ってセレウコスが他のどのアレクサンドロスの後継者よりも大きい支配地の支配者となったため、それらの兆しは最終的にどちらも実現することになった。
57 私がセレウコスについて聞いた予言は以上のようなものであった。彼はアレクサンドロスの死後すぐ、アレクサンドロスの生前はヘファイスティオン、その後ペルディッカスが率いていたヘタイロイ騎兵隊の司令官になった。その騎兵を指揮した後に彼はバビュロンの太守、太守の後に王になった。彼は実に戦争に勝利したために勝利王のあだ名を得た。少なくともニカトルの殺害から彼がそのあだ名を得たというのよりもはそちらの方が尤もらしいであろう。野牛がアレクサンドロスの犠牲のために運ばれて縄が外れた時、腕だけを使って一人で押さえたほどにセレウコスは大柄で逞しさで評判であり、このために彼の像には角が装飾として付いているのである。彼は支配地の全域に都市を建設し、そのうち一六個に父にちなんでアンティオケイアと、五個に母にちなんでラオディケイアと、九個に自らにちなみ〔セレウケイアと〕、そして四つに妻たちにちなみ、そのうち三つにアパメイアと、一つにストラトニケイアという名をつけた。そのうちで今日最も有名な二つの都市は一つは海沿いに、他方はティグリス川沿いにある二つのセレウケイアであり、さらにフォイニキアのラオディケイア、レバノン山のアンティオケイア、そしてシュリアのアパメイアも有名である。彼は他の都市にはギリシアないしマケドニア風に、あるいは彼自身の偉業から、またはアレクサンドロスの栄誉から名付け、このようにしてシュリアと高地アジアの蛮地のうちにベロイア、エデッサ、ペリントス、マロネイア、カリポリス、アカイア、ペラ、オロフォス、アンフィポリス、アレトゥサ、アスタコス、テゲア、カルキス、ラリサ、ヘライア、そしてアポロニアといったように、パルティアにもソテラ、カリオペ、カリス、ヘカトンピュロス、アカイア、インドにアレクサンドロポリス、スキュティアにアレクサンドレスカタといったように多くの町がギリシアとマケドニア風の名前を得ることになった。セレウコスの勝利からメソポタミアにニケフォリオン、カッパドキアに非常に近いアルメニアにニコポリスができた。
58 彼らは彼が二つのセレウケイアを建設しようとしていると雷の兆しが海に近い方のその一つの基礎に出て、このために彼は雷をその地の神として崇めたと言っている。したがって住民は雷を崇めてこの日に賛美歌を歌うことになった。また彼らはマゴス僧がティグリスのセレウケイア建設を始める縁起の良い日時を明らかにするよう命じられた時、彼らは自分たちに対抗して建設されるそのような砦を歓迎していなかったために嘘の時間を言ったとも言っている。王が指定された時間まで天幕で待ち、作業を始めるのに準備万端で待っている軍がセレウコスが信号を出すまで静かに立っていると、運命の正しい時間に突如として彼らはその作業を命じる声を聞いたような気がした。かくして彼らはテキパキと作業に入ったため、彼らを止めようとした伝令は彼らを止めることができなかった。作業が終わるとセレウコスは心配して再びマゴス僧に彼の都市について諮り、彼らは罰を受けないことをまず確認した上で「おお陛下、うまくいくかいかないかの運命は、人と同様に都市にも運命というものがある以上、人であろうと都市であろうと変えることはできません。事は始まった時に始まったのですから、この都市が長年保つことを神々は喜ばれましょう。私たちはそれが私たち自身に対抗する砦になるのを恐れて指定時について嘘を吐きました。運命はずる賢いマゴス僧や人を信じる王よりも強いものです。このようなわけで神は軍により良い時間を教えられたのです。陛下がそれらのことを正確に知ることは許されましょうが、陛下は我々が今更騙しているのか疑う必要などありません。なんとなれば、陛下は王として自ら軍を統括しておられ、待機するようご命令を下されたにもかかわらず、これまで陛下の言うことに従って危険と苦難に立ち向かった軍は陛下が止まるようご命令を下されてもなお、この度はいてもたってもいられずに作業を進め、ただ一部がそうしたのではなく将官も一緒になって全員で命令が下されたと思ってそうしたのですから。これが陛下が彼らを押さえることができなかった理由です。人間に関する事柄で王よりも強い者は、我々の意図に打ち勝ち、都市についての指示を陛下に与えるにあたり、私たちと周囲の全ての人に逆らい、私たちに取って代わるのは神を措いて何がありましょうか? 私たちは自分たちのどんな能力を私たちの近くに定住したより強力な人たちに今後役立たせることができるものというのでしょうか? 陛下らのこの都市は始まる運命にあったのであり、大きくなり、続くことでしょう。私たちは陛下が私たちが自らの繁栄を失うのを恐れたが故に犯した過ちを許してくださることをお願い申しあげます」と答えた。王はマゴス僧が言ったことを喜んで彼らを許した。以上が私がセレウケイアについて聞いたことである。

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