アッピアノス『ローマ史』「シュリア戦争」


8巻
45 その後、アンティオコス大王が死ぬと彼の息子セレウコス〔四世〕がその後を継いだ〔紀元前187年〕。彼は息子のデメトリオスを自らの弟のアンティオコスの代わりに〔ローマへの〕人質として差し出した。後者が帰国の途上でアテナイに着いた時、廷臣の一人ヘリオドロスなる者の陰謀によってセレウコスは暗殺された〔紀元前175年〕。政府を我が物にしようとしたところでヘリオドロスはエウメネスとアッタロス〔二世〕によって追い出され、彼らはアンティオコスの支持を得ようとして彼を即位させた。というのも些細な口論から彼らは常にローマ人から段々と疑われるようになっていたからだ。したがってアンティオコス大王の息子アンティオコス〔四世〕がシュリアの王位についた。政府が僭称者の手に渡った時に自分こそが真の君主であると知らしめたために彼はシュリア人からエピファネスと(顕現王)と呼ばれた。エウメネスとの友情と同盟を口にすることで彼はシュリア人と近隣の諸民族をしっかりと掴まえて統治した。彼は兄弟同士で、いずれも彼の親友だったティマルコスをバビュロン太守に、ヘラクレイデスを宝物管理官に任命した。彼はアルメニア王アルタクシアスへの遠征を行って彼を捕虜とした。
46 エピファネスは九歳の一人息子アンティオコス〔五世〕を残して死に、シュリア人は父の勇敢さを追憶して彼にエウパトルという名をつけた〔紀元前164年〕。この少年はリュシアスによる教育を受けた。元老院は高邁な精神を見せつけていたアンティオコスが若くして死んだことを喜んだ。セレウコスの息子でアンティオコス・エピファネスの甥であり、アンティオコス大王の孫であったこの少年の最初の従兄弟であったデメトリオスはその時人質としてローマにいて二三歳であり、彼が少年よりもむしろ自分のものとして王国を統治することを元老院に求めると、元老院は許可を与えなかった。彼らはシュリアは育ちきった男よりも未熟な少年に統治される方が彼らにとって都合が良いと考えたのだ。シュリアには多くの象がいて、条約でアンティオコスに許された数以上の船があることを知ると、彼らはそこへと使節団を送って象を殺して船を焼き払った。それらの貴重で飼い慣らされた動物の殺害と船の焼却は哀れな光景であった。ラオディケイアのレプティネスなる人は光景に怒ってこの使節団の長グナエウス・オクタウィウスをこの地の体育場に呼び寄せて刺殺し、リュシアスが彼を埋葬した。
47 デメトリオスは今しがた死んだアンティオコス〔四世〕の代わりになる身分だったために再び元老院の前へとやってきてとにかく人質の身分から解放してくれるよう頼んだ。要望が却下されると彼は小舟で密かに逃げ出した。シュリア人は彼を喜んで迎えたため、リュシアスに彼と共にいた少年を殺させた後に彼は即位した〔王としてはデメトリオス一世〕。彼は反乱を起こして他の面でもバビュロニアの政府で悪政を敷いていた二人の人物、ヘラクレイデスを官職から解任してティマルコスを殺した。このために彼はバビュロニア人によって最初に彼に与えられたソテル(救済者)というあだ名を得た。王国を確固たるものとすると、彼は千金に値する王冠を以前の彼らの人質の贈り物としてローマ人へと送り、オクタウィウスの殺害者レプティネスを引き渡した。彼らは王冠は受け取ったが、シュリア人をその罪科の下に置き続けようとしてレプティネスは受け取らなかった。デメトリオスはカッパドキアの政府をアリアルテスから奪ってそれをアリアルテスの兄弟であったオロフェルネスに与えて一〇〇〇タラントンを受け取った。しかしローマ人はアリアルテスとオロフェルネスは兄弟として共に統治すべきであると決定した。
48 それらの君主たちは――彼らの後継者アリオバルザネス〔一世〕もまた少し後に――ポントス王ミトリダテスによって王国を逐われた。ミトリダテス戦争はこの出来事から勃発し、この戦争は他の戦争の中でも非常に大きな戦争であり、多くの国にとって波乱に富み、ほぼ四年にわたった。この時代にシュリアは短い間隔で互いに入れ替わったがその全員が王族だった多くの王を戴いたが、その王統から多くの変化と反乱が起こった。以前セレウコス家の支配に反旗を翻したパルティア人はその王家に服属していたメソポタミアを制圧した。アルメニア王ティグラネス〔一世〕の息子で、多くの隣接する諸侯国を併合してその偉業のために諸王の王という称号を得たティグラネス〔二世〕はセレウコス家が彼の覇権を認めなかったために彼らを攻撃した。アンティオコス〔一〇世〕・エウセベスは彼に歯が立たなかった。ティグラネスはエウフラテス川のこちら側〔西岸〕からエジプトまでのシュリア人の全てを征服した〔紀元前83年〕。彼は同時にキリキアを、ここもまたセレウコス家に服属していたために占領して一四年の間それらの征服地全土での指揮権を彼の将軍マガダテスに与えた。
49 ローマの将軍ルクルスがティグラネスの領地に逃げ込んだミトリダテスを追撃すると、マガダテスはティグラネスの支援に赴くべく軍を率いて向かった。そこでアンティオコス・エウセベスの息子アンティオコス〔一三世〕がシュリアに入って人々の賛同を得て統治権した〔紀元前69年〕。ティグラネスとの戦争を行って彼が新たに得た領地を彼から最初に奪った人であったルクルスはアンティオコスが彼の祖先の支配権を行使するのに反対した。しかしルクルスの後任のポンペイウスはミトリダテスを成敗すると、ティグラネスにアルメニアの統治を許してアンティオコスがローマ人に害を何らなさなかったにもかかわらず彼からシュリアの統治権を剥奪した。
50 このようにしてローマ人は戦わずしてキリキアとシュリア内陸部とコイレ・シュリア、フォイニキア、パレスティナ、そしてシュリア人がエウフラテス側からエジプトと海〔紅海〕までと名付けた他の全ての地方を領有するに至った〔紀元前63年〕。ユダヤ人の国がまだ抵抗を続けていてポンペイウスは彼らを征服し、彼らの王アリストブロス〔二世〕をローマへと送り、最大にして最も神聖な都市イェルサレムを最初のエジプト王プトレマイオス〔一世〕が以前したように破壊した。後にそこは再建されており、ウェスパシアヌスが再び破壊し〔70年〕、当代にハドリアヌスが同じことをした〔135年〕。それらの反乱のために全ユダヤ人に課された人頭税は一般の納税者よりも重い額であった。シュリア人とキリキア人の毎年の税金は彼ら各々の財産見積もりの百分の一であった。ポンペイウスはセレウコス家に属していた様々な国を諸王や自らの配下の支配者の支配下に置いた。似たようにして彼は〔第三次〕ミトリダテス戦争で彼に協力したアジアのガラティア人の四人の支配者に四つの君主国を承認した。そう遠くないうちにそれら全てがローマの支配下に徐々に入り、その大部分がアウグストゥスの時代にであった。
51 ポンペイウスはその戦争における彼の財務官であった〔マルクス・アエミリウス・〕スカウルスをシュリアに任じ、元老院はその後、その双方が法務官であった〔ルキウス・〕マルキウス・フィリップスを彼の後任に、〔グナエウス・コルネリウス・〕レントゥルス・マルケリヌスをフィリップスの後任に任じた。彼ら各々の二年の任期は隣接するアラビア人の攻撃を防ぐのに費やされた。シュリアでのそれらの出来事のためにローマはシュリアに軍を徴募して執政官と同等に戦争を行う権限を持った総督を任命し始めた。軍と共に送られた最初の人は〔アウルス・〕ガビニウスだった。彼には戦争を開始する準備ができていたため、兄弟のオロデス〔二世〕によって国を追われていたパルティア人の王ミトリダテス〔三世〕はアラブ人の許からパルティア人へと彼の軍を差し向けるようガビニウスを説得した。同時に、同様に王位を追われていたエジプト王プトレマイオス〔一二世〕が多額の金を使ってパルティア人の方からアレクサンドレイアへと軍を転じるようガビニウスを説き伏せた。ガビニウスはアレクサンドレイア人を破ってプトレマイオスを復位させたが、元老院によって許可なく行われたエジプト侵攻の廉で、そしてシビュラの書によって禁じられていたためにローマ人からは不吉だと考えられていた戦争を行ったために追放刑に処された〔55年〕。〔マルクス・リキニウス・〕クラッススがガビニウスからシュリアの支配権を引き継いだと私は考えており、そしてその同人物はパルティア人との戦争を行った時に大災厄にあった〔53年〕。ルキウス・〔カルプルニウス・〕ビブルスがクラッススの後シュリアでの指揮権を有していた時にパルティア人がその地方へと侵入した。その統治には〔ルキウス・デキディウス・〕サクサがビブルスの後任として任についた時、パルティア人はイオニアまでの地方を荒らし回り、ローマ人は内戦に謀殺されていた。私はそれらの出来事を私のパルティア史においてより詳しく論じておいた。

9巻
52 この巻で私は、シュリアの歴史について、いかにしてローマ人がシュリアを手にし、いかにして昨今の状況にしたのかを述べた。ローマ人の前にシュリアを支配したマケドニア人がいかに同地を手にしたのかを語ることは不当ではなかろう。ペルシア人の後、アレクサンドロスは彼が到達した他の人々と同様にシュリアの王になった。彼は幼い一人息子と未だ生まれぬ子を残して死んだ〔紀元前323年〕。フィリッポスの血統に忠実だったマケドニア人はほとんどまともな精神ではないと考えられていたにもかかわらず、アレクサンドロスの兄弟のアリダイオスをアレクサンドロスの息子たちが幼いうちの王に選び、彼の名をアリダイオスからフィリッポスに改めた。また、彼らは身ごもっていた〔大王の〕妻にも用心深く護衛をつけた。ペルディッカスがフィリッポス王の権威の下で〔帝国を〕分配し、アレクサンドロスの友人たちは太守領に分割された征服地を管理し続けた。遠からぬうちに本物の王たちは死に、その太守たちが王になった。最初のシュリアの太守は、ペルディッカスと〔ペルディッカスから〕摂政位を継承したアンティパトロスからの承認を受けたミュティレネのラオメドンであった。シュリアはエジプトを守りキュプロスを攻めるのに都合の良い土地であったため、エジプト太守プトレマイオスはこのラオメドンへ向けて艦隊を率い、もしシュリアを渡せば大金を渡すことを申し入れた。ラオメドンが拒絶するとプトレマイオスは彼を捕えた。ラオメドンは看守を買収してカリアのアルケタスの許へ逃げた。こうしてプトレマイオスはしばらくシュリアを支配し、守備隊を残してエジプトへ戻った〔紀元前319-318年〕。
53 アンティゴノスはフリュギア、リュキア、そしてパンヒュリアの太守であった。アンティパトロスがヨーロッパに向かった時に全アジアの監督者として残されると彼はマケドニア人によって公に敵と宣言されたカッパドキア太守エウメネスを包囲した。後者は逃げてメディアを勢力下に置いたが、アンティゴノスは後に彼を捕らえて殺した。彼は戻ってくるとバビュロン太守セレウコスによって慇懃に迎え入れられた。ある日、セレウコスはそこにいたアンティゴノスに諮ることなく一人の支配者を殺し、後者は怒って彼に彼の金と所有物を要求することに決めた。セレウコスは勢力においてはアンティゴノスに対して劣勢であったためにエジプトのプトレマイオスのところまで逃げた。それからアンティゴノスはメソポタミアの支配者ブリトルをセレウコスの逃亡を見逃したためにその地位から更迭し、バビュロン、メソポタミア、そしてメディアからヘレスポントスに至るまで全ての地域を我が物とし、その間にアンティパトロスが死んだ。他の太守たちはすぐに彼が大領土を持っていることに嫉妬した。主としてこのような理由によって例えばセレウコス、プトレマイオス、トラキア太守リュシマコス、アンティパトロスの息子であり父の死後にマケドニア人の支配者となったカッサンドロスは互いに同盟を結んだ。彼らは共同で使節をアンティゴノスに送って彼が新たに得た土地と金を、彼ら及び太守領を失った他のマケドニア人と分け合うことを要求した。アンティゴノスは彼らの要求を見くびってぞんざいに扱い〔紀元前315から314年に至るまでの冬〕、彼らは団結して彼に対する戦争を起こした。アンティゴノスは彼らとの戦いの準備をした。彼はシュリアのプトレマイオスの守備隊の全てを追い払って彼がまだフォイニキアとコイレ・シュリアに保持していた全ての領地を奪い取った。
54 次いで彼は二二歳位の息子のデメトリオスをエジプトから来寇しつつあるプトレマイオスと戦うため軍と共にガザに残してキリキア門を越えて進軍したが、後者〔プトレマイオス〕はガザ近くの戦いで若い息子を不味いことに破ってしまい、父は駆けつけざるをえなくなった〔紀元前312年〕。プトレマイオスはすぐに〔バビュロニアの〕統治を再開させるために一〇〇〇人の歩兵と三〇〇騎の騎兵と共にセレウコスをバビュロンへと送った。この小さな軍でセレウコスはバビュロンを奪取してそこの住民は彼を熱狂的に迎え入れ、短時間で勢力を大いに増大させた〔紀元前311から309年〕。にもかかわらずアンティゴノスはプトレマイオスの攻撃をしのぎ、息子のデメトリオスが指揮官であったキュプロス近くでの輝かしい海戦で勝利を得た〔紀元前306年〕。まさにこの素晴らしい偉業のため、彼らの王(フィリッポス〔二世〕とオリュンピアスの息子アリダイオス〔・フィリッポス三世〕、アレクサンドロスの二人の息子〔アレクサンドロス四世とヘラクレス〕)は既になかったため、軍はアンティゴノスとデメトリオスを王と呼ぶようになり、プトレマイオスの軍もまた彼が低い地位にならないように、後の戦いでの勝者たち〔アンティゴノスとデメトリオス〕よりも高位になれるように彼を王に推挙した。かくしてかの男たちには似たような結果が反対の出来事から起こったのである。他の全ての者がそれに倣い、全ての太守が王になった。
55 このようにしてセレウコスはバビュロニアの王となった。また彼はメディアの王国を手にし、アンティゴノスがその地方の太守として残していたニカノルを戦いにおいて自ら殺した。その後、彼はマケドニア人と夷狄との多くの戦争を戦った。二つの主要な戦いはマケドニア人とのものであり、一つ目はフリュギアのイプソスでのアンティゴノスとのものであり〔紀元前301年〕、そこでアンティゴノスは八〇歳を超えていたにもかかわらず自ら指揮を執って戦い、二つ目はトラキアの王リュシマコスとのものであった〔紀元前281年〕。アンティゴノスは戦いで殺され、セレウコスと彼に対する同盟を結んでいた王たちは彼の領土を分割した。この分割でエウフラテス川から海までの全シュリア、フリュギアの内陸はセレウコスのものになった。隣国民を常に待ち伏せし〔て破り〕、軍は強く、話し合いにおいては説得的であったために彼はメソポタミア、アルメニア、「セレウコスの」カッパドキア、ペルシス、パルティア、バクトリア、アラビア、タプリア、ソグディア、アラコシア、ヒュルカニア、そしてインドス川あたりまでのアレクサンドロスに服従していたその他の近傍の人々を獲得し、彼の帝国の境界はアレクサンドロスのそれの後では最もアジアで広範囲なものになった。フリュギアからインドス川までの全ての地方はセレウコスに服従した。彼はインドス川を渡ってその河畔に住んでいたインド人の王サンドロコットスと互いを理解して姻戚関係を結ぶまで戦争を行った。それらの業績の一部はアンティゴノスの生前に、もう一部は死後になされた。
56 まだアレクサンドロスに仕えて彼に従ってペルシア人に対する戦争をしていた時に彼はディデュマの神託にマケドニアに帰るためにはどうすればいいのかと伺いをたて、以下のような回答を受けたとと言われている。
急いでヨーロッパに戻ってはならぬ。汝にとってはアジアの方が遥かに良い。
 またマケドニアの先祖伝来の家で誰が火をつけたわけでもないのに大きな火が起こり、彼の母は夢で彼女が彼に持っていって渡さなければならない指輪を見つけて、彼が指輪をなくした場所で彼になった様を見たととも言われている。彼女は錨が刻まれた鉄の指輪を見つけ、彼はそれをエウフラテス川の近くでなくした。後にバビュロンを取り戻すべく戻ってきた時に彼は石に躓き、この石のおかげで錨を掘り出して見つけたと言われている。占い師たちがそれは遅滞の前触れであると考えてこの驚異に際して不安をかきたてると、ラゴスの息子で遠征軍に同行していたプトレマイオスは錨は遅滞ではなく安全の兆しであると言った。このためにセレウコスは王になると指輪の玉璽に彫られた錨を使うようになった。ある人たちはセレウコスの将来の権力のもう一つの兆しがアレクサンドロスが存命中に見つかり、それは以下のようにして明らかになったと言っている。アレクサンドロスがインドからバビュロンへと戻っていた時にエウフラテス川からアッシュリアの灌漑された原野を見ながらバビュロンの潟のあたりを航行していると、風が彼に吹き付けて彼の冠をさらってある古の王の墓の上に群生していた葦の林の上に吊り下げた。これ自体がアレクサンドロスがすぐに死ぬことを示していた。彼らは一人の船乗りがそこへと泳いでいってそれを頭に乗せ、濡らすことなくアレクサンドロスのところまで持っていくと、アレクサンドロスはすぐに彼に彼の親切な奉仕への褒美として一タラントンの銀を与えたと言っている。占い師たちはこの男を殺すよう忠告した。幾人かの人たちはアレクサンドロスはその忠告に従ったと、他の人たちはそれに従わなかったと言っている。他の話し手たちはその話を省いてそれは船乗りではなく、王の冠まで泳いでいったのはセレウコスであり、それを濡らさないように頭に被ったのは彼だと述べている。アレクサンドロスがバビュロンで世を去ってセレウコスが他のどのアレクサンドロスの後継者よりも大きい支配地の支配者となったため、それらの兆しは最終的にどちらも実現することになった。
57 私がセレウコスについて聞いた予言は以上のようなものであった。彼はアレクサンドロスの死後すぐ、アレクサンドロスの生前はヘファイスティオン、その後ペルディッカスが率いていたヘタイロイ騎兵隊の司令官になった。その騎兵を指揮した後に彼はバビュロンの太守、太守の後に王になった。彼は実に戦争に勝利したために勝利王のあだ名を得た。少なくともニカトルの殺害から彼がそのあだ名を得たというのよりもはそちらの方が尤もらしいであろう。野牛がアレクサンドロスの犠牲のために運ばれて縄が外れた時、腕だけを使って一人で押さえたほどにセレウコスは大柄で逞しさで評判であり、このために彼の像には角が装飾として付いているのである。彼は支配地の全域に都市を建設し、そのうち一六個に父にちなんでアンティオケイアと、五個に母にちなんでラオディケイアと、九個に自らにちなみ〔セレウケイアと〕、そして四つに妻たちにちなみ、そのうち三つにアパメイアと、一つにストラトニケイアという名をつけた。そのうちで今日最も有名な二つの都市は一つは海沿いに、他方はティグリス川沿いにある二つのセレウケイアであり、さらにフォイニキアのラオディケイア、レバノン山のアンティオケイア、そしてシュリアのアパメイアも有名である。彼は他の都市にはギリシアないしマケドニア風に、あるいは彼自身の偉業から、またはアレクサンドロスの栄誉から名付け、このようにしてシュリアと高地アジアの蛮地のうちにベロイア、エデッサ、ペリントス、マロネイア、カリポリス、アカイア、ペラ、オロフォス、アンフィポリス、アレトゥサ、アスタコス、テゲア、カルキス、ラリサ、ヘライア、そしてアポロニアといったように、パルティアにもソテラ、カリオペ、カリス、ヘカトンピュロス、アカイア、インドにアレクサンドロポリス、スキュティアにアレクサンドレスカタといったように多くの町がギリシアとマケドニア風の名前を得ることになった。セレウコスの勝利からメソポタミアにニケフォリオン、カッパドキアに非常に近いアルメニアにニコポリスができた。
58 彼らは彼が二つのセレウケイアを建設しようとしていると雷の兆しが海に近い方のその一つの基礎に出て、このために彼は雷をその地の神として崇めたと言っている。したがって住民は雷を崇めてこの日に賛美歌を歌うことになった。また彼らはマゴス僧がティグリスのセレウケイア建設を始める縁起の良い日時を明らかにするよう命じられた時、彼らは自分たちに対抗して建設されるそのような砦を歓迎していなかったために嘘の時間を言ったとも言っている。王が指定された時間まで天幕で待ち、作業を始めるのに準備万端で待っている軍がセレウコスが信号を出すまで静かに立っていると、運命の正しい時間に突如として彼らはその作業を命じる声を聞いたような気がした。かくして彼らはテキパキと作業に入ったため、彼らを止めようとした伝令は彼らを止めることができなかった。作業が終わるとセレウコスは心配して再びマゴス僧に彼の都市について諮り、彼らは罰を受けないことをまず確認した上で「おお陛下、うまくいくかいかないかの運命は、人と同様に都市にも運命というものがある以上、人であろうと都市であろうと変えることはできません。事は始まった時に始まったのですから、この都市が長年保つことを神々は喜ばれましょう。私たちはそれが私たち自身に対抗する砦になるのを恐れて指定時について嘘を吐きました。運命はずる賢いマゴス僧や人を信じる王よりも強いものです。このようなわけで神は軍により良い時間を教えられたのです。陛下がそれらのことを正確に知ることは許されましょうが、陛下は我々が今更騙しているのか疑う必要などありません。なんとなれば、陛下は王として自ら軍を統括しておられ、待機するようご命令を下されたにもかかわらず、これまで陛下の言うことに従って危険と苦難に立ち向かった軍は陛下が止まるようご命令を下されてもなお、この度はいてもたってもいられずに作業を進め、ただ一部がそうしたのではなく将官も一緒になって全員で命令が下されたと思ってそうしたのですから。これが陛下が彼らを押さえることができなかった理由です。人間に関する事柄で王よりも強い者は、我々の意図に打ち勝ち、都市についての指示を陛下に与えるにあたり、私たちと周囲の全ての人に逆らい、私たちに取って代わるのは神を措いて何がありましょうか? 私たちは自分たちのどんな能力を私たちの近くに定住したより強力な人たちに今後役立たせることができるものというのでしょうか? 陛下らのこの都市は始まる運命にあったのであり、大きくなり、続くことでしょう。私たちは陛下が私たちが自らの繁栄を失うのを恐れたが故に犯した過ちを許してくださることをお願い申しあげます」と答えた。王はマゴス僧が言ったことを喜んで彼らを許した。以上が私がセレウケイアについて聞いたことである。

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