アッピアノス『ローマ史』「シュリア戦争」

1巻
1 セレウコス〔二世〕の息子でアンティオコス〔二世〕の孫であり、シュリア人、バビュロニア人、その他民族の王アンティオコス〔三世〕はセレウコス〔一世〕がエウフラテス川沿いのアジアの諸地方の統治権をアレクサンドロスから引き継いだのから六代目の人物であった。彼は先代たちから離反したメディアとパルティアおよびその他の諸地方に攻め込んで多くの偉業を成し遂げ、そのためにアンティオコス大王と呼ばれた。諸々の成功とそれらから引き出された称号で気をよくした彼はコイレ・シュリアとキリキア地方へと攻め込んでまだ少年だったエジプト王プトレマイオス〔四世〕・フィロパトル〔正しくは五世・エピファネス〕から奪い取った。彼にしてみれば些細なことではなかったために彼はヘレスポントス人、アイオリス人、イオニア人がアジアの支配者としての彼に帰属していたものの、彼らのところへと進軍した。現に彼らは以前はアジアの諸王の臣下であった。次いで彼はヨーロッパへと渡ってトラキアを支配下に置き、従わない者は力づくで屈服させた。彼はケルソネソスを要塞化してアレクサンドロスの時代にトラキアを支配したリュシマコスがトラキア人に対する砦として建設したが、その死後彼らが破壊したリュシマケイアを再建した。アンティオコスは逃げた市民を呼び戻し、奴隷として売られた人たちで補い、他から連れてきて、彼らに牛、羊、そして農具を提供し、そこの砦としての迅速な完成に資するであろう物を何一つ見過ごすことなく〔運び込んで〕そこを再び人で満たした。というのもその地はトラキア全域を服属させるための良い位置を占めており、彼が目論んでいた他の作戦のための物資を提供するのに好都合な基地であったからだ。
2 彼はギリシア諸都市の間を通過し、その大部分は彼による占領を恐れたために彼と手を結んで彼の駐留軍を受け入れたため、そこから彼とローマ人との間に公然たる対立が始まった。しかし未だ抵抗を続けていたスミュルナとランプサコス、その他の住民はローマの将軍であり、最近テッサリアでの大会戦でマケドニアのフィリッポスを破ったフラミニヌスに使節団を送った。というのもマケドニア人とギリシア人の問題は、私がすでにギリシアの歴史で示したようにその時と場所においては密接に関連していたからだ。したがって大使たちはアンティオコスとフラミニヌスの間を行き来したが、それぞれ何の役にも立たなかった。ローマ人とアンティオコスは長い間互いのことを疑い合い、前者は彼があまりにも支配領域を拡大させていて彼が到達した幸運の絶頂にいるためにこのままでは収まらないだろうと憶測した。アンティオコスは他方でローマ人が彼の勢力増大に待ったをかけ、ヨーロッパへと伸張するのを妨げることができる唯一の人々だと信じていた。まだ彼らの間には上辺上は敵対の原因はなかったが、それもプトレマイオス・フィロパトルからローマへとアンティオコスがシュリアとキリキアを彼から奪い取ったと訴え出る使節団がやってくるまでだった。ローマ人は彼らの目的に適うものとして喜んでこの機会を利用し、アンティオコスへと表向きはプトレマイオスと和解するように、実のところは彼の計画を突き止めて可能な限り阻止するために使節団を送った。
3 使節団長グナエウスはアンティオコスにローマ人の友人であったプトレマイオスに彼の父が残した全治域を統治すること、そしてアンティオコスにはローマ人がフィリッポスから取り上げた権力を横取りする権利はないとしてフィリッポスの支配地域の一部だったアジアの諸都市が独立するのを容認するよう求めた。「我々はまったくもってどう理解したものか当惑しております」。彼は言った。「それは今一つの戦争の準備をしているというわけでもあるまいに、何故にアンティオコス様はメディアからかような艦隊を、そして高地地方からこれほどの軍隊をアジアの沿岸へと連れてきてヨーロッパへと侵攻して都市を建設し、トラキアを服属させているのか、ということです」アンティオコスはトラキアは自分の先祖たちのもので、そこは彼らによって領されていたのがその手を放れたのであり、自分にはしかるべき時にそうする領有権があったと答えた。彼はリュシマケイアを自らの息子セレウコスの統治の将来の中心地として建設していた。アジアのギリシア諸都市が独立は彼自身のおかげであってローマ人のおかげではないとして感謝するならば、彼はそれらを独立したままにしておくことだろう。「余はプトレマイオスの縁者じゃ」彼は言った。「その上、今はそうではないが、余は彼の義父であり、彼がお前たちに感謝していることについて余は理解しているつもりじゃ。余がイタリアの問題に口を出していないのに一体何の権利があってお前たちがアジアの問題に干渉しているのか余はまったく理解に苦しむ」そのようなわけで彼らは何ら互いを理解することなく物別れし、双方はよりあからさまな脅しを始めた。
4 プトレマイオス・フィロパトルが死んだという噂が広まると、アンティオコスは支配者を失った今のうちにエジプトへとその国を奪取すべく急いで向かった。この遠征の一方でカルタゴ人ハンニバルがエフェソスで彼と会った。今や彼はローマ人に対して彼が敵意を持っていて戦争を起こしたがっており、そして彼は平和に甘んじることはできないだろうと彼らに報告した敵の讒訴のために母国からの難民となっていたのだ。これはカルタゴ人がローマ人と協定に基づいて同盟を結んだ時であった。アンティオコスはハンニバルをその偉大な軍事的名誉のために気前よく迎え入れ、傍に置き続けた。リュキアで彼はプトレマイオスがまだ生きていることを知った。かくして彼はエジプトの占領を諦め、エジプトの代わりに占領しようと期待してキュプロスへと注意を転じ、大急ぎでそこへと航行した。サロス川の河口で嵐に遭って多くの船、そして船もろとも兵士と友人の一部を失ったため、彼はシュリアのセレウケイアへと損傷した艦隊の修繕のために戻った。そこで彼は合同で結婚させたアンティオコスとラオディケという自分の子供たちの結婚を祝った〔これは兄弟婚〕。
5 さて、予定していたローマ人との戦争をもはや隠そうとはせずに彼は近隣の諸王と婚姻によって同盟を結んだ。エジプトのプトレマイオスに彼は持参金として彼がプトレマイオスその人から奪い取っていたコイレ・シュリアを提供してシュラとあだ名された娘のクレオパトラを送り、こうしてローマ人との戦争で中立を保たせるために若い王の機嫌をとった。カッパドキア王アリアラテス〔四世〕に彼は娘のアンティオキスを、残り一人の娘をペルガモン王エウメネス〔二世〕に送った。しかし後者はアンティオコスがローマ人と戦争をする気でいて、これによって縁戚関係を築こうとしているのを悟ると、彼女を拒否した。隣人でもあり最初に打診してきたかくも強大な王との婚姻関係をエウメネスが断ることに驚かされた彼の弟のアッタロスとフィレタロスに対し、来る戦争〔の結果〕は当初のところは疑わしいであろうが、ローマ人は最終的には彼らの勇気と忍耐によって打ち勝つはずであると彼は示した。「もしローマ人が勝利すれば」彼は言った。「私は自分の王国を堅持するだろう。もしアンティオコスが勝者となれば、私は有力な隣人らによって全ての財産を剥ぎ取られることになるだろうし、あるいはもし統治することを許されたとしても、彼によって操られることになると睨んでいるのだ」そのような理由によって彼は申し込まれた婚姻を断ったのである。

2巻
6 次いでアンティオコスはヘレスポントスへと向かってケルソネソスへと渡り、トラキアの大部分を征服なり降伏によって制覇した。彼はトラキア人に服属していたギリシア人を解放し、ビュザンティオン人を彼らの都市は黒海の出口の良い位置を占めていたために多くの方法を使って宥めた。彼はガラティア人はその身体の大きさのために手強いと考えていたため、贈り物と軍備の恐怖によって彼らを同盟に引き入れた。そして彼はエフェソスへと戻ってローマへの使節団としてリュシアス、ヘゲシアナクス、そしてメニッポスを送った。彼らは実のところは元老院の意図を探るために送られたのであったが、表向きメニッポスは言った。「アンティオコス王はローマ人との友情を強く願っており、もしあなた方が望むのであればその同盟者になりたいと思っておりますが、あなた方が〔アンティオコスに〕イオニアの諸都市を放棄して諸国の貢納を免除し、アジアの問題に干渉せず、トラキアを彼の父祖に常に帰属していたにも関わらず、そこをそのままにしておくよう勧告していることに驚いております。あなた方のしておられることは友人の勧告ではなく、敗者に対する勝者の命令のようであります」元老院は使節が彼らの意向を試すために来たことを知ると、「アンティオコスがアジアのギリシア人に手をつけず独立させ、ヨーロッパに近づかないば彼は彼の望むようにローマ人の友たるであろう」とそっけなく答えた。ローマ人の答えはこのようなものであり、彼らは反論の余地を与えなかった。
7 アンティオコスはまずギリシアに侵攻して次いでローマ人との戦争を開始しようと意図し、その計画をハンニバルに伝えた。後者はギリシアは長らく衰退しているのでその仕事は容易いが、国内で始められた戦争はその戦争に起因する欠乏のために難しいものであり、外国の領地で起こった戦争はより持ち堪え易いと言った。アンティオコスはギリシアでローマ人を負かすことはできず、彼らは豊富な国産の穀物と必要な全ての物資を持っているのだ。ハンニバルは彼にイタリアの一部を占領してそこを作戦基地とすれば、ローマ人は国内外で弱体化するだろうと説いた。「私にはイタリアでの経験があります」彼は言った。「そして一〇〇〇〇人の兵があれば私はどこか都合のよい土地を占領してご覧に入れますし、カルタゴの友人たちに人々に反乱を起こすよう奮い立たせる手紙を書きましょう。彼らはすでに状況に不満を持ち、ローマ人に敵意を抱いておりますので、もし私が再びイタリアを荒らしていると聞けば勇気と希望で満たされるでしょう」アンティオコスはこの意見を熱心に聞き、そのカルタゴ人の加入は彼の戦争における大きな優位である(そして実際そうであった)と考え、すぐに彼に友人たちに向けて手紙を書くよう命じた。
8 ローマ人があらゆる手を尽くして〔ハンニバルを〕捜索していて未だ公に宣戦されておらず、カルタゴには多くの彼の敵がおり、その市は確固とした、あるいは妥当な政策――まさにその欠如がそう遠からぬうちにその破滅の原因となった――がなかったため、ハンニバルはそれをするのは最早安全ではないと考えて手紙を書かなかった。しかしテュロス人商人のアリストンを、自分がイタリアに攻め込んだ暁にカルタゴをイタリアの悪事への復讐へと決起させてくれと伝えるために商売を名目として友人たちのところに送った。アリストンはこれを実行したが、ハンニバルの敵は彼が市内にいるのを知ると、あたかも革命が差し迫っているかのように暴動を起こし、彼を見つけだそうと血眼になった。ハンニバルの友人たちが何かにつけて告発されないようにするために彼は夜に密かに元老院の部屋の正面にハンニバルは元老院議員全てにアンティオコスの助けによって国を救うべきであると強く進めると手紙を貼りつけた。これを行うと彼は去っていった。朝にハンニバルの友人たちはアリストンが全元老院に向けて送られていたということをほのめかすアリストンのこの機転によって恐怖から解放された。市はあらゆる騒擾で満たされ、人々はローマ人のことを苦々しく感じていたが、遠回しに何かしらのことを成し遂げることに絶望していた。カルタゴの情勢は以上のようなものであった。
9 一方でアンティオコスの計画を探って彼の力を見積もるべく、カルタゴ勢力を打ちひしいだスキピオ〔・アフリカヌス〕を含むローマの使節団がアンティオコスの使節団と同じように送られた。王がピシディアに行っていたことを知ると彼らはエフェソスで待った。彼らはそこで頻繁にハンニバルと会話したのであるが、その時のカルタゴは彼らとは平穏に付き合っており、アンティオコスとの戦争はまだ宣言されていなかった。彼らはローマ人はハンニバルや他のカルタゴ人のことを何ら文句を言っていないのに高飛びしたとして最後の協定の条項に則って彼を非難した。彼らは長く続いた会話と交際によって王の心にハンニバルへの疑いを持たせようとした。ハンニバルはその最も優れた軍事的才能にもかかわらず彼らの計画に気付かず、王は事の次第を聞き知ると彼を疑いだして今後彼を信頼しようとはしなくなった。またハンニバルがその偉業の栄光をかっさらっていくのではないかという妬み嫉みも幾分かそれを手伝った。
10 運動場でのある会談でスキピオとハンニバルは多くの見物人がいるところで軍事について対話を交わしたと言われており、スキピオはハンニバルに誰が最も偉大な将軍だと思うか尋ね、後者は「マケドニアのアレクサンドロスだ」と答えた。アレクサンドロスが第一位を占めることを認めていたためにスキピオはこれに賛成した。次いで彼はハンニバルに次に来るのは誰かと尋ね、果敢さを将軍の一番の資質であると考えていたために彼は「エペイロスのピュロスだ」と答えた。「というのも」彼は言った。「それら二人の王よりも先取の気風に富んだ人物を見つけることはできないからだ」。スキピオはこれにはむしろ気分を害したが、自分が少なくとも三番目にはなるだろうと期待しながらハンニバルに三番目は誰なのかと尋ねた。しかしハンニバルはこう返した。「私だ。なんとなれば、私は若かりし日にヒスパニアを征服し、ヘラクレス以来最初にアルプスを軍と共に越えたからだ。一度もカルタゴから資金も援軍も受け取ることなく私はイタリアに攻め込んで君ら全員を恐怖のどん底に陥れ、君らの町四〇〇を荒らし、君の都市をしばしば窮地に陥れたのだからな」。スキピオは彼の自慢は長くなるだろうと理解して「ハンニバル、もしあなたが私に破れていなければ、あなたは何番目に来るのしょうか?」と笑いながら言った。ハンニバルは彼の嫉妬を悟りつつ、答えた。「そうなれば私は自分をアレクサンドロスの上に置くだろうな」。かくしてハンニバルは自慢を続けたが、スキピオはアレクサンドロスよりも優れた人に勝利したことをほのめかすという感じの良い仕方でスキピオをおだてた。
11 この対話の終わりにハンニバルはスキピオを客として招待し、スキピオはハンニバルがローマ人の疑いを買っていたアンティオコスと暮らさないならば自分はそれを喜んで受けるだろうと答えた。かくして彼らは偉大な将軍らしい流儀で戦争の結果として起こる敵意を捨てたのであった。フラミニヌスはそうではなく、後年ハンニバルがアンティオコス敗北の後に逃亡してビテュニア辺りを彷徨っていた時にフラミニヌスは他の用事でプルシアス〔一世〕王に使節を送り、ハンニバルに何の恨みがあったわけでなければ元老院からの命令からでもなく、そしてハンニバルは最早彼らにとって恐るべき存在ではなかったにもかかわらず、カルタゴが落ちてから、プルシアスに彼を毒殺するよう仕向けた。かつて神託が述べたこのような話があった。「リビュアの土がハンニバルの亡骸を覆うであろう」
 そのようなわけで彼はハンニバルはリビュアで死ぬだろうと信じていた。しかしビテュニアにはリビュッソスという川があり、隣接する地方はその川にちなんでリビュッサという名となっていた〔「リビュアの」はギリシア語の単数呼格女性形では「libyssa」で、リビュッソスとのダブルミーニングとなり、神託は的中したことになる〕。私はそれらのことをハンニバルとスキピオの偉大さとフラミニヌスの卑小さの記憶と並べて置いておいた。

3巻
12 アンティオコスはピシディアからエフェソスへの帰路でローマの使節団との交渉に入り、ローマ人が彼と条約を結ぶならばロドス人、ビュザンティオン人、キュジコス人、アジアのその他のギリシア人を手放して独立させると約束したが、アイトリア人とイオニア人は長らくアジアの蛮族王たちに従うことに慣れていたためにを手放さなすつもりはないとした。ローマの使節団は彼と同意に達することはなかったが、彼の目的を悟りはした。かくして彼らはローマへと戻っていった。それからトアスを団長とするアイトリアの使節団がアンティオコスのところへとやってきてアイトリア軍の指揮を執ってくれるよう申し出て、準備は全部できているからすぐにギリシアに上陸してくれるように勧めた。彼らは彼に高地アジアから来るはずの軍を待つことを許さず、アイトリア軍の戦力を誇張してさらにラケダイモン人とローマ人に憤慨していたマケドニアのフィリッポスとの同盟を約束することで渡航を説いた。彼は非常に急いで軍を集め、シュリアでの息子〔ラオディケと結婚したアンティオコス〕の死の知らせさえ彼を遅延させなかった。彼はエウボイアへとその時手元にあった全戦力であった一〇〇〇〇人の兵を率いて航行した。彼は恐怖から彼に降伏した島の全域を制圧した。彼の将軍の一人ミキティオンはアポロンに捧げられていた土地であったデリオンでローマ軍を攻撃してその一部を殺し、残りを捕虜とした。
13 アタマニア人の王アミュナンドロスはアンティオコスと以下のような理由から同盟を結んだ。メガロポリスで教育を受けてそこの市民からの称賛を受けていたアレクサンドロスという名の一人のマケドニア人が自分はアレクサンドロス大王の子孫であると公言し、その作り話を人々に信じさせるために彼は二人の息子をアレクサンドロスとフィリッポスと、娘をアパマと名付けていた。彼はアミュナンドロスと後者を婚約させていた。彼女の兄弟のフィリッポスは結婚式の支度をしており、アミュナンドロスが気弱で無経験であることを知ると、そこに留まってこの血縁のゆえに統治を引き受けた。こうすることでフィリッポスは祖先のマケドニア王国を取り戻そうと望だのであり、アンティオコスはアタマニア人との同盟した。彼はテバイへと赴いて人々に演説をすることでテバイ人も〔同盟者として〕確保した。彼はテバイ人、アミュナンドロス、アイトリア人に軽率な返事をしてこの大戦争に突入するにあたって勇気を得て、冬を過ごす前にすぐにテッサリアへと攻め込むかどうかを決めるためにそこへの偵察を行った。ハンニバルはこの問題について意見を述べなかったため、アンティオコスは決定の前に彼に考えを尋ねた。
14 ハンニバルは答えた。「陛下がお望みとあらば、テッサリア人を今あるいはこの冬の終わりに圧するのは難しくはありません。大損害を与えることで疲弊させれば彼らは今にでも陛下になびくでしょうし、運が悪ければ再びローマ人になびくでしょう。ラケダイモン人とフィリッポスが仲間に加わると言ったアイトリア人を信じて我々は自分たちの軍を伴わずにここまで来ました。ラケダイモン人はアカイア人と同じくらい我々に敵意を持っていると私は聞いておりますし、いずれかを支持するかでこの戦争の規模を変えることができるフィリッポスはがそれにもかかわらずここで陛下を助けてくれるのか分かったものではありません。私の意見は以前と同じであり、即ち陛下はアジアから可及的速やかに軍勢を呼び寄せるべきであってアミュナンドロスとアイトリア人を信用すべきではありません。陛下の軍が到着して戦争をイタリアに移せば、ローマ人は母国の害悪によって逸らされますし、そうなれば陛下の被る害悪は可能な限り小さくなりますし、彼らは自ら降り懸かる恐怖のために先へ進むことはありません。私が前に申し上げました計画はもはや使いものにはなりませんが、陛下は陛下の艦隊の半分をイタリア沿岸を荒らすのに使い、機会が到来した時のために他方を待機させておき、御身は全陸軍と共にイタリアに近いギリシアのどこかの地点に陣取って侵攻の構えを見せて牽制し、可能であればその時に攻め込むべきです。フィリッポスは彼がつく側に最も役立つことになるでしょうから、彼と同盟を結ぶためにあらゆる方法を試してみてはいかがでしょうか。彼が賛同しなければご子息のセレウコス様をトラキアを通って彼に差し向ければ、フィリッポスもまた自国に厄介事が降りかかることになり、敵に助けの手を差し伸べるのを防ぐことになりましょう」ハンニバルの献策は以上のようなものであり、それは提示された全ての策のうちで最善のものであった。しかし他の相談役たち、そして王自身も少なからず彼の名声と判断力への嫉妬に衝き動かされ、ハンニバルが将軍としての能力で彼らに優っており、その偉業の栄光は彼のものになってしまうだろうと案じ、ポリュクセニダスが陸軍を運ぶためにアジアへと送られたことを除いてその全てが却下された。
15 アンティオコスのギリシア侵入とデリオンでローマ軍が殺害されて捕虜となったことを知るとローマ人は宣戦した。このようにして彼らの間で戦争は勃発し、長らくくすぶっていた戦争が現実のものとなったのである。高地アジアの多くの有力民族の支配者であったアンティオコスの支配地は広大であり、少数を除いたほぼ全域が海に面しており、今の彼はヨーロッパにいた。彼の声望は非常に恐るべきもので彼の準備は実に完璧であり、他の人々に対する彼の業績は非常に数多くそして有名であってそのために彼は大王の称号を得ており、ローマ人はこの戦争は長く過酷なものになるだろうと予想した。彼らは前に破ったマケドニアのフィリッポス、そしてハンニバルがアンティオコスに協力していたためにカルタゴ人をも彼らが条約への不正実を露呈するのではないかと疑った。他の従属民たちはアンティオコスの名声のために反乱を起こすのではないかと疑われた。それらのために彼らは全ての属州に敵対行動が起こらないよう彼らを監視するための部隊を送った。彼らはそれらと共に、以前は王が持っていた杖と斧の一二個の束を持っていた執政官に対し、執政官の半分の権限と半分の数の官職の証しか持っていなかったために六つの斧を持つ者つまり法務官と呼ばれていた指揮官を送った。この重大な危機に際して彼らは彼ら〔の勢力〕が弱まったり彼らに対する反乱が起こるのではないかとイタリアについても心配した。彼らはその地への攻撃に備えるためにタレントゥムに歩兵の大部隊を、沿岸を巡視するために艦隊も送った。当初はかくもアンティオコスは警戒されていたのである。母国の政府に関連するありとあらゆるものに備えると彼らはアンティオコスに向ける軍を集め、都市〔ローマ〕からの二〇〇〇〇人と同盟諸国からその二倍の数の軍を初春にアドリア海を渡らせた。かくして彼らはその冬を戦争の準備に費やした。
16 アンティオコスはテッサリアへと進軍してマケドニア軍がローマ軍に破れたキュノスケファライへと向かい、まだ埋葬されないままの死者の残りを見つけると壮麗な葬儀を挙げて弔った。かくして彼はマケドニア人の支持を得てこの軍事奉仕で死んで埋葬されないままだった者たちの前でフィリッポスを非難した。今までフィリッポスは動揺してどちらの側につくか迷っていたが、これを知るとすぐにローマ人の側についた。彼は最も近くにいた将軍〔マルクス・〕バエビウス〔・タンフィルス〕に待ち合わせ地点まで来るよう求めて対アンティオコスの真剣な同盟を再び誓った。バエビウスはこの件で彼を賞賛し、すぐにアッピウス・クラウディウス〔・プルケル〕を二〇〇〇人の歩兵と共にマケドニアを経由してテッサリアへと送るよう励ました。アッピウスはテンペに到着してそこでアンティオコスがラリサを包囲していることを知ると、兵力の少なさを隠すために多くの篝火を焚いた。アンティオコスはバエビウスとフィリッポスが到着したと考え、狼狽して悪天候を名目として包囲を諦めてカルキスへと撤退した。そこで彼は五〇歳で大戦争の重荷を背負っていたにもかかわらず、ある可憐な少女と恋に落ちて公の祝典を挙げ、何もせず贅沢をしながら冬を過ごすのを軍に許した。春が来ると彼はアカルナニアへと下っていき、あらゆる義務から離れていたためにその無為で彼の軍が駄目になってしまったことをそこで知った。次いで彼は結婚と祝祭を後悔した。にもかかわらず彼はアカルナニアの一部を制覇して残りの砦を包囲し、その時にローマ軍がアドリア海から迫りつつあることを知った。そこで彼はすぐにカルキスへと戻った。

4巻
17 ローマ軍は準備のできた軍勢、マニウス・アキリウス・グラブリオが指揮を執る騎兵二〇〇〇騎と歩兵二〇〇〇〇人、少数の象でもってブルンドゥシウムからアポロニアへと急いで渡った。彼らはテッサリアへと進軍して包囲されていた諸都市を救出した。彼らは敵の守備隊をアタマニア人の町々から追い出し、まだマケドニアの王位を期待していたメガロポリスのフィリッポスを捕虜とした。また彼らはアンティオコスの兵三〇〇〇人も捕らえた。マニウスがこれらのことをしていた一方で、フィリッポスはアタマニアへと下ってきてその全域を服属させ、アミュナンドロス王はアンブラキアへと逃げた。アンティオコスはそれらの事実を知るとそれらの出来事の怒濤の勢いと運命の変転の突発性に怯え、ハンニバルの忠告の賢明さを今更ながら悟った。彼はポリュクセニダスの到来を急かすためにアジアに使者を何度も送った。次に彼は方々からの兵士を手持ちの軍勢に吸収した。彼の手勢は歩兵一〇〇〇〇人と騎兵五〇〇騎で、それに幾ばくかの同盟軍が付き、自らと敵との間にこの難路を横たわらせるために彼はテルモピュライを占領しつつ、アジアからの軍の到着を待った。テルモピュライの道は長く狭く、その側面の一方は荒れ果てた海で、もう一方は深く通れない沼地であった。一方はティキオス、他方はカリドロモスと呼ばれる二つの山頂がそこには突き出ていた。またその地にはいくつかの温泉もあり、それからテルモピュライ、つまり熱き門という名が由来している。
18 そこにアンティオコスは二重の壁を建設してその上に攻城兵器を乗せた。クセルクセスがその当時に無防備だった山道からレオニダスのスパルタ軍の方へと回り込んで来たためにアンティオコスはアイトリア人部隊を誰もアトロポスと呼ばれる丘を密かに通ってこれないようにするため、山々の頂点を占領すべく送り出した。一〇〇〇人のアイトリア兵はそれぞれの山を占領した。残りの部隊はヘラクレイア市の近くに野営した。マニウスは敵の準備を知ると翌日に戦いの信号を上げて二人の軍団司令官、マルクス・〔ポルキウス・〕カトーとルキウス・ウァレリウスに好きな部隊を選んで夜に山々へと回り込んでアイトリア軍をできる限りその高地から駆逐するよう命令した。ルキウスはその場所で善戦していたアイトリア軍によってティキオス山から撃退されたが、カリドロモス山へと向かったカトーは最終哨戒時にまだ眠りこけていた敵に襲いかかった。彼はやむを得ず敵の真ん前でその高い岩山と断崖絶壁を上ったにもかかわらず、ここでは激戦が繰り広げられた。一方でマニウスはアンティオコスの正面の真っ直ぐな戦列が〔陣取っていたところが〕その隘路で唯一進める道だったためにそこへと軍を率いていった。王は軽装兵と盾兵をファランクスの正面に配置し、野営地の正面にファランクスを置き、弓兵と投石兵を麓の右隣に、それに常に同行していた護衛部隊と一緒に象部隊を海に近い左側に置いた。
19 戦いが起こると、軽装兵部隊がまずマニウスを攻撃して方々から突進した。彼はその初撃を勇敢に迎え打ち、最初は負けたがその後前進して彼らを撃退した。ファランクスが開いて軽装兵を通した。次いでそれは閉じて突き進み、戦いのために長槍の槍襖を形成してこれによってアレクサンドロスとフィリッポスの時代伝来のマケドニア軍は敵に恐怖を引き起こし、ローマ軍は彼らに向けられた長槍の分厚い列へと敢えて飛び込もうとはしなかった。まさにこの時、アイトリア軍がカリドロモス山から大声を上げながら逃げてきて、アンティオコスの野営地へと殺到する様が見えた。最初はどちら側も何が起こったのか分からず混乱が起こったが、カトーが勝利の雄叫びを上げながらアイトリア軍を追撃してアンティオコスの野営地のすぐ近くまで迫ると、ローマ軍の戦闘様式の恐るべき有様をしばらく前に聞いており、自分たちが無為と奢侈で気力が萎えていたのを知っていた王の軍勢は恐怖に襲われた。カトーの軍勢の大きさを知らなかったため、恐怖によって彼らの心の中でその規模は膨大なものとなった。野営地の安全を案じていた彼らは敵に対してそこを守ろうとして無秩序にそこへと逃げた。しかしローマ軍は末尾に追いすがってそれと一緒に野営地に突入した。さらにアンティオコス軍では当初の無秩序からもう一つの敗走が起こった。マニウスは彼らを殺し、捕らえながらスカルフェイアあたりまで追撃した。そこから戻ると彼は王の野営地を略奪し、ローマ軍の野営地にその留守中に突入していたアイトリア軍を姿を見せただけで追い出した。
20 ローマ軍は戦いと追撃でおよそ二〇〇人を、アンティオコスは捕虜を含めて一〇〇〇〇人を失った。王その人は敗北の最初の兆候が現れると五〇〇騎の騎兵と共に大急ぎでエラテイアへと、エラテイアからカルキスへと、そこから船でエウボイアと彼が呼んでいた新妻と共にエフェソスへと逃げた。しかしローマの提督が物資を輸送していたアンティオコスの一部の船に攻撃をかけたために一部は沈められ、全部は逃げおおせることができなかった。ローマの人々はこのあまりにも早くそして簡単に得られた勝利を聞くと、犠牲を捧げてアンティオコスの恐るべき名声への第一審に満足した。同盟者としての奉仕の見返りとして彼らはフィリッポスに彼らの手元にまだ人質としていた彼の息子デメトリオスを送り返した。
21 それらの事柄がその都市で起こっていた間、マニウスはフォカイア人、カルケドン人及びアンティオコスに与していたその他の人々の嘆願を受けて彼らを恐怖から解放してやった。彼とフィリッポスはアイトリアを荒らして諸都市を滅ぼした。彼は潜伏していたアイトリア軍の将軍デモクリトスを捕らえ、彼はかねてよりティベル川の岸に陣を張ってやるとフラミニヌスを脅していた。マニウスは荷物と戦利品を持った軍を率いてその地方で最も高い山で、最も険しい岩山であったコラクス山の上にあったカリポリスへと向かった。悪路のために多くの兵士が断崖から落ち、散り散りになっては武器と装備をぶつけ合った。アイトリア軍が彼らを手酷く苦しめ、その姿がどこにも見えなかったにもかかわらず、ローマへと和平を論じるための使節を送った。一方アンティオコスは高地アジアの太守たちに大急ぎで沿岸部へと軍を送るよう命じ、ロドス人亡命者のポリュクセニダス指揮下の艦隊を艤装した。彼はケルソネソスへと渡って再びそこを要塞化した。彼はローマ軍団がアジアに攻め込むとすれば、経由して渡らざるを得なくなるセストスとアビュドスも守りを固めた。彼はリュシマケイアを目下の戦争のための主たる貯蔵庫とし、ローマ軍が陸海の大軍でもって早晩彼を攻撃してくるだろうと信じてそこに大量の武器の蓄えと物資を集めた。後者はルキウス・〔コルネリウス・〕スキピオが執政官であったので彼をマニウスの後任として指揮権を委ねたが、彼は戦争の経験がなかったため、カルタゴ勢力を打ちひしいでアフリカヌスの称号を得た最初の人となった弟のプブリウス・スキピオを副官に任命した。

5巻
22 スキピオがまだ準備中だった一方で、イタリア沿岸の守りを担当し、アティリウスの後継者に選ばれていたリウィウスは彼の沿岸警備船団およびカルタゴ人とその他同盟国からの増援を率いてペイラエウスへと航行した〔紀元前191年〕。そこで〔アウルス・〕アティリウス〔・セラヌス〕から艦隊を受け取った彼は甲板を備えた八一隻の船団と共に出航した。そしてエウメネス〔二世〕が五〇隻を率いてはせ参じたが、その半分が甲板を備えていた。アンティオコスに服属していたが、恐怖のために彼らを受け入れたフォカイアに停泊し、翌日に海戦のために出航した。アンティオコスの艦隊を指揮していたポリュクセニダスは敵より軽い二〇〇隻の船団で敵と会し、ローマ人は海上での活動をまだ経験していなかったために、その軽さは非常に有利な点であった。二隻のカルタゴ船が正面を航行しているのを見た彼は三隻を送ってそれらを捕えたが、乗組員が水中に飛び込んでいたためにもぬけの殻だった。その三隻と彼の旗艦〔の拿捕に〕に怒った〔ガイウス・〕リウィウス〔・サリナトル〕は残りの艦隊を前進させた。三対一だったために敵は彼を侮って鉄の鍵爪を引っ掛け、戦いはさながら陸でのように戦われた。勇敢さにおいてずっと勝っていたローマ軍は敵船へと飛び移って制圧し、同時に拿捕された二隻を取り戻した。これは海戦の前哨戦であった。それらの艦隊が対面した時、ローマ軍は身体的な強さと勇気のために最良の状態であったが、船の規模が扱いにくかったために素早い小船を操る敵を捕えることができず、一目散に逃げてエフェソスへと避難した。ローマ艦隊はキオスへと向い、そこで二七隻のロドス船が同盟軍として加わった。この海戦の知らせを受け取ると、アンティオコスはハンニバルをフォイニキアとキリキアから他の艦隊を揃えるためにシュリアへと送った。彼がそのために戻っていた時、ロドス人が彼をパンヒュリアへと追い込み、数隻が捕えられ、残りは封鎖された。
23 一方でプブリウス・〔コルネリウス・〕スキピオは執政官と共にアイトリアに到着してマニウス〔・アキリウス・グラブリオ〕から軍の指揮権を受け取った。彼はアイトリアの町々の包囲は容易いことだと侮り、ローマへと新しい使節を送るよう人々に請い、一方で弟の執政官が任期切れする前にアンティオコスへ向けて急いだ。彼はマケドニアとトラキアを通ってヘレスポントスへと移動し、マケドニアのフィリッポスが道を修理し、彼を歓待して案内し、前もって何度か川に橋を掛け、そして物資を提供したので、彼は行軍に苦労しなかった。もし熱意が見られるならば、元老院によってそのようにする権限を与えられていたので、これと引き換えにスキピオはすぐに残っている補償金の支払いから彼を解放してやった。また彼らはビテュニア王プルシアス〔一世〕にローマ人には彼らとの同盟において王たちの領土を増大させるという慣わしがあることを思い出させる手紙を書いた。マケドニアのフィリッポスを征服したにもかかわらず、彼に王国を保持することを許し、人質として彼らが握っていた息子を解放し、まだ支払い義務があった金を免除したと彼らは言った。そこでプルシアスは喜んで対アンティオコスで彼らと同盟を結んだ。艦隊指令官のリウィウスはスキピオが進軍中であることを知ると、ロドス人のパウシマコスをロドス艦隊と自らの艦隊の一部と共にアイオリスに残し、自らは陸軍を支援するために艦隊の大部分を引き連れてヘレスポントスへと航行した。セストスとライテオン、そしてアカイア人のいくつかの港と他の場所が彼に降伏した。アビュドスは〔降伏を〕拒否し、彼はそこを包囲した。
24 リウィウス〔のキオスへの〕到着の後、パウシマコスは乗組員を繰り返し訓練してありとあらゆる種類の装置を作った。彼は火が入った鉄の鍋を長い竿に取り付けて海へと吊り下げ、そうすることで自軍の船であることを明らかにし、敵船が近づいてきた時には敵船を攻撃した。かくして彼がそのようなことに勤しんでいる間、アンティオコスの提督で、ロドス人であったが犯罪を犯したために追放されていたポリュクセニダスは彼に対して罠を仕掛けた。彼は自国への再度の立ち入り許可が得られるよう計らってくれることに同意するならば、アンティオコスの艦隊を引き渡すことを約束した。パウシマコスはその狡猾な悪党を疑って苦慮し、彼に警戒した。しかしポリュクセニダスが自分は裏切り、その裏切りによって軍の穀物を入手すると見せかけつつエフェソスから出航するつもりだという署名のついた手紙を送ってきた後にパウシマコスはそれを見て、ポリュクセニダスが真実のことを述べていない限りは裏切りを提案する手紙への彼の署名に全幅の信頼を置かない者はいないだろうと考え、穀物を入手させるために艦隊を送った。ポリュクセニダスは計略が上手くいっているのを見て取ると、船を集め、パウシマコスの後方を陸から攪乱するために海賊ニカンドロスをサモス島へと少数の兵士と共に送り、自らは敵が寝静まっている間に矢陰に紛れるため、真夜中に出航した。パウシマコスはこの突然の、そして予期せぬ破滅に際して兵士に船を捨てて陸で身を守るよう命じた。一方ニカンドロスが背後から攻撃をかけてくると、パウシマコスは陸は夜のうちに姿の見えない大規模な敵に占領されてしまったのだと思った。かくして彼は再び動揺しつつ船へと大急ぎで向かった。彼はその遭遇戦では先頭に立ち、勇敢に戦って真っ先に死んだ。残りの全員が捕らえられるか殺されるかした。火の装置が付いていた七隻の船は火事を恐れて互いに近づかずに逃げた。残りの二〇隻をポリュクセニダスは〔拿捕して〕エフェソスへと引いていった。
25 この勝利の知らせでフォカイアは再びアンティオコスの側に寝返り、サモスとキュメもそうした。リウィウスはアイオリスに残していた自分の艦隊を案じ、急いでそちらへと戻った。エウメネスは彼との合流を急ぎ、ロドス人はローマ軍に二〇隻の新たな船を送った。短期間にそれら全てを難なく行うと、彼らはエフェソスへと航行して再戦の準備をした。敵が現れなかったために彼らは海軍を二手に分け、その半分は長時間公海上に姿を晒し、他方は敵の沿岸領に上陸してニカンドロスが内陸から攻撃しに出てくるまで荒らし、ニカンドロスは略奪品を運び去って彼らを船へと追い返した。次いで彼らはサモスを撤退し、リウィウスの提督としての任期が切れた。
26 この頃にアンティオコスの息子セレウコスがエウメネスの領地を略奪し、兵士をペルガモスの中に封じ込めてそこを包囲した。このためにエウメネスはリウィウスの後任提督L・アエミリウス・レギルスと共に急いで彼の王国の海軍の持ち場であったエライアへと航行した。エウメネスへは一〇〇〇人の歩兵と一〇〇騎の選り抜きの騎兵が同盟軍としてアカイア人から送られた。彼らの指揮官ディオファネスは城壁からセレウコスが油断して遊んだり酒を飲んだりしているのを見て取ると、ペルガモン軍に自分に加わって敵へと出撃をしようと説いた。彼らがこれに賛同しなかったため、彼は自分の一〇〇〇人の歩兵と一〇〇騎の騎兵を武装させて城壁の下、市から出撃させてそこに黙って立たせた。敵は長い間彼の軍の少なさと彼が敢えて戦いに打って出ようとしなかったために彼を嘲弄したが、彼は彼らが夕食を摂っていた時に襲撃をかけて、彼らを混乱に陥れて前衛を敗走させた。ある者は武器へと走り、他の者は馬に馬勒を付けようとしたり逃げ出した馬を取り押さえ、あるいは立つはずもない馬に乗ろうとし〔ていたところを殺し〕、ディオファネスは最も光栄ある勝利を得た。ペルガモン軍は城壁から大声で彼らを応援したが、打って出ようとはしなかった。彼は短い陽動で殺せる限りの人数を殺して馬もろとも多くの捕虜を取ると、素早く反転した。翌日に彼は再びアカイア軍を城壁の下に配置し、ペルガモン軍はまたもや彼と一緒には出なかった。セレウコスは騎兵の大軍を率いて彼に近づいて戦いを挑んだが、ディオファネスは挑戦には応じなかった。彼は城壁の下に密に配置し続けて好機を待った。セレウコスは正午まで留まったが、戻って騎兵を引かせようとした。するとディオファネスは殿に攻撃をかけて混乱に陥れ、可能な限りあらゆる損害を与えた後、城壁の下の持ち場へと戻っていった。このようにして彼らが飼い葉や木材を集めようとする度に隙を見て敵に連続して攻撃をかけることで彼らに損害を与えたため、彼はセレウコスをペルガモンから退去させ、ついにはエウメネスの領土から完全に追い払った。
27 それからそう遠からぬうちにポリュクセニダスとローマ軍はミュオネッソス近海で海戦を行い、その海戦では前者は九〇隻の甲板付きの船を率い、ローマの提督レギルスはうち二五隻がロドスの船であった八三隻の船を率いていた。レギルスは指揮官エウドロスを左翼に配した。他方の翼にいたポリュクセニダスがローマ軍よりも隊列を延ばしているのに気付いて包囲を恐れたために彼は急いで快速船と熟練の漕ぎ手を率いてその周りへと向かい、まず火のついた船をポリュクセニダスの方へと差し向け、火は方々へと燃え広がった。ポリュクセニダスの艦隊は火のために攻撃者と戦おうとはせずに辺りをぐるぐる回って〔火のついた船を〕避けようとしてたくさんの水を被り、〔敵の〕衝角に船首を晒すことになった。間もなくあるロドス船が一隻のシドン船に衝突し、その衝撃の大さのために後者の碇が外れて前者に突き刺さり、双方は固定されてしまった。その二隻の船は動けなくなったためにその乗組員同士の戦いは陸戦のようになった。他の多くの船がそれぞれの救援へと急いで双方の争いは過熱し、ローマ艦隊はこのような次第になっていたアンティオコス艦隊の戦列を突破し、敵がそれを知る前に包囲した。彼らがそれに気付くと、敗走と追撃が生じた。アンティオコス船二九隻が失われ、一三隻が乗組員もろとも拿捕された。ローマ艦隊が失ったのは二隻だけだった。ポリュクセニダスはそのロドス船を拿捕してエフェソスへと運んだ。

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