アッピアノス『ローマ史』「ポエニ戦争」

1章
1 トロイア占領の50年前にフェニキア人はアフリカのカルタゴに住み着いた。その建設者はゾロスとカルケドン、あるいはローマ人とカルタゴ人自身の見なすところではテュロスの女ディドで、彼女の夫はテュロスの支配者ピュグマリオンによって密かに殺された。この殺人が夢の中で彼女に暴露されたため、彼女は財産を携え、ピュグマリオンの独裁から逃れることを望んでいた人たちを伴いアフリカへと船出し、今日カルタゴが立っているアフリカの地域に到達した。住民の抵抗を受けたため、彼らは牛革で囲めるだけの土地を住処として求めた。アフリカ人はフェニキア人のこの浅はかさをあざ笑い、これほどに些細な要望を拒むことを恥じた。さらに彼らはこれほど狭い場所にどれほどの町が建つのか想像できず、その秘密を解きたいと思って譲渡に同意し、宣誓によって約束を保証した。フェニキア人はぐるぐると牛革を非常に細長く切って今日カルタゴの砦が建っている場所を囲み、その出来事のためにそこはビュルサ(革)と呼ばれた。
2 彼らの方がより器用だったために彼らはこの開始時より発展して近隣住民に対して優位に立ち、フェニキア人らしく海運業を営んだため、ビュルサの近辺に都市を建設した。徐々に力を蓄えた彼らはアフリカと地中海の大部分を征服し、シケリアとサルディニアとその他の海上の島々、そしてまたヒスパニアに戦争を仕掛けた。彼らは多くの植民団を送り出した。彼らはギリシア人と勢力を、それからペルシア人と富を争った。しかしその都市の建設のおよそ七〇〇年後にローマ人が彼らからシケリアとサルディニアを、そしてヒスパニアをも二度目の戦争で奪った。それから〔カルタゴ人とローマ人は〕互いに夥しい軍で互いの領地を攻撃し、ハンニバル麾下のカルタゴ軍は一六年間継続してイタリアを略奪したが、大コルネリウス・スキピオ指揮下のローマ軍が戦争をアフリカに移してカルタゴ勢力を粉砕し、彼らの船と象を取り、しばらくの間彼らに貢納を要求した。この時に二度目の協定がローマ人とカルタゴ人との間で結ばれて五〇年続いたが、それも違反のせいで三度目にして最後の戦争が彼らの間で勃発するまでのことだった。この際に小スキピオ麾下のローマ軍がカルタゴを徹底的に破壊し、再建を禁じた。しかしアフリカを統治するのに便利だったためにローマの人々自身によって後に同様の都市が以前の都市のすぐ近くに建設された。これらの主題のうちシケリアに関する部分は私のシケリア史で、ヒスパニアに関わる部分はヒスパニア史で、ハンニバルのイタリア遠征での事績はハンニバル史で示されている。この巻は最初期以来のアフリカでの軍事行動を扱うつもりである。
3 シケリア戦争が勃発するとローマ人はアフリカへと三五〇隻の艦隊を送り、多くの町を占領してアティリウス・レグルスに指揮を委ね、カルタゴ人への憎悪から彼に投降した二〇〇以上の町を落とした。そして立て続けに領地を略奪した。そこでカルタゴ人は自分たちの不運は将軍の采配宜しきを得なかったためだと考え、ラケダイモン人に将軍を送ってくれるよう求めた。ラケダイモン人はクサンティッポスを彼らのもとへと送った。レグルスは湖の畔に暑い季節に野営し、敵と一戦交えようとしてその周りを進軍し、彼の兵たちは武器の重さと塵、渇き、疲労で非常に苦しみ、近隣の高台からの矢玉に晒された。黄昏時に彼はある川にさしかかってそこで軍を二分した。クサンティッポスを怯えさせてやろうと考えて彼はこれをすぐに渡ったが、敵に容易く勝利できるだろうと予測したクサンティッポスは敵に嫌がらせをして疲弊させ、好都合な夜になると軍を出動させて野営地から突如出撃させた。クサンティッポスの予想は外れなかった。レグルス率いる三〇〇〇〇人のうち四苦八苦してアスピス市に逃げ延びたのは僅かな者だけだった。残りの全員が殺されたり捕虜になったりし、執政官レグルスその人も捕虜になった〔「この巻の付録〔「ヌミディア史」〕を見よ」(N)。〕。
4 戦いに厭いていたカルタゴ人は自分たちの使節団を伴わせた彼を、和平を得るか、和平が認めなければ〔カルタゴに〕帰すためにそう遠からずローマへと送った。尚もレグルスは戦争の継続をローマの主要な政務官たちに私人として強く訴え、それから拷問を受けるために戻ったが、カルタゴ人は彼を釘でいっぱいの檻に閉じ込めて殺した。この成功はクサンティッポスの悲痛の始まりとなったが、それというのもカルタゴ人はラケダイモン人に当然の信頼を置かず、豪勢な贈り物で彼を称えるふりをしてラケダイモンに帰る櫂船に彼を乗せたが、船の船長たちに彼と彼の仲間のラケダイモン人を海に投げ落とすよう命じたからだ〔「クサンティッポスは無事帰国したとポリュビオス(I. 36)は述べている。彼はクサンティッポスに対する邪悪な動きの報告を知っていただろうが、それを信用していない。〕。かくして彼らは彼の成功に罰でもって報いた。このようにして彼は自らの成功に対して罰を被った。カルタゴ人がローマ人にシケリアを渡すまでのアフリカでのローマ人の最初の戦争の結果は良きにつけ悪きにつけ以上のようなものだった。この次第は私のシケリア史の中で示された。
5 この後にローマ人とカルタゴ人は講和したが、後者に従属してシケリア戦争では支援部隊として働いていたアフリカ人と、給料が未払いで自分たちへの約束が守られていないと主張したケルト人傭兵は実に恐るべき仕方でカルタゴ人に戦争を起こした。カルタゴ人は友好に訴えてローマ人に助けを求め、協定で禁じられたことではあったがローマ人は彼らがこの戦争でのみイタリアで傭兵を雇い入れることを許した。にもかかわらず彼らは仲裁者の役を果たさせるために人を遣った。アフリカ人は仲裁を拒んだが、ローマ人が容れるならば彼らの従属民になりたいと申し出た。そこでカルタゴ人は大艦隊でもって町々を封鎖して海からの食糧供給を遮断し、陸は戦争の結果耕されていなかったので彼らは飢餓によってアフリカ人を破ったが、海賊行為によって自らの食い扶持を集めるよう追い詰められ、何隻かのローマの船を拿捕して乗組員を殺し、犯罪行為を隠蔽するために彼らを海に投じた。これは長い間知られずにいた。その事実が知られて説明を求められると、カルタゴ人はローマ人が自分たちへの戦争を議決するまで報いの時を先延ばしにしつつ、この時に補償としてサルディニアを引き渡した。この条項が先の和平条約に付け加えられた。

2章
6 遠からずカルタゴ人はヒスパニアに攻め込んで徐々に服属させ、この時にサグントゥム人がローマに訴えを起こし、カルタゴ人はイベロス川を越えないと合意し、これによって彼らの前進に対して境界が定められた。ハンニバル指揮下でカルタゴ人はその川を渡ってこの協定を反故にし、これを行うとハンニバルはヒスパニアでの指揮権を他の人たちに委ねてイタリアに向けて進軍した。ローマのヒスパニア担当司令官プブリウス・コルネリウス・スキピオとグナエウス・コルネリウス・スキピオの二兄弟はいくつかの目覚ましい活躍をした後に両方とも敵に殺された。彼らの後を引き継いだ将軍たちは成果が上がらなかったが、それもヒスパニアで殺されたプブリウス・スキピオの息子のスキピオがそちらに航行してくるまでのことだった。彼は自分が神によって遣わされてきて全ての事柄を神と相談しているのだと皆に信じ込ませ、見事優勢に立ってこの成功で大きな栄光を得て、自分の指揮権を自分から引き継ぐために送られた人に渡してローマに戻った。彼はハンニバルをイタリアから退却させてカルタゴ人に彼らの国土で報いを受けさせるために自分をアフリカに一軍と一緒に送るよう求めた。
7 イタリアがこれほどの長期戦で荒廃してハンニバルの略奪の的になっていて、マゴがイタリアの脇腹を突くべくリグリア人とケルト人の傭兵を集めている時にアフリカに軍を送るのは得策ではないと指導者らの一部は言い、この計画に反対した。自分たちの国土を目下の危機から救い出すまでは別の土地を攻撃するべきではないと彼らは言った。カルタゴ人は母国では危険な目に遭っていないのでイタリアを攻撃するほど大胆になっているし、もし戦争が彼らの戸口に迫ればハンニバルを呼び戻すだろう、と別の人たちは考えた。こうしてスキピオのアフリカ派遣が決まったが、彼らはハンニバルがイタリアを略奪しているうちはイタリアで軍を徴募することは許されなかった。もし彼が義勇軍を獲得すれば、彼らを引き連れてシケリアに当時いた部隊を使ってもよいとされた。彼らは彼に一〇隻の櫂船を調達する権限を与え、これらの乗組員を集めることを、さらにシケリアで修繕することも許した。彼らは彼が友人たちから集めた金以外何ら資金を彼に与えなかった。間もなく彼らにとってこの上なく素晴らしく栄光あるものとなったこの戦争に彼らが着手した当初の冷淡さはこれほどのものだった。
8 カルタゴと敵対するものと長らく神から霊感を受けた感のあるスキピオは、辛うじて歩騎7000人の兵を集めてシケリアへと航行し、武器を持たずに自分に同行するよう命じた300人の選り抜きの若者を親衛隊にした。次いで彼は300人の富裕なシケリア人を選んで徴兵し、指定日に出頭するよう命じ、できる限りの武器と馬を提供した。彼らが来ると彼は、望むならば戦争のための〔自分の〕身代わりを出しても良いと彼らに言った。彼ら皆がこの申し出を容れると彼は300人の非武装の若者を連れて行き、他の者には彼らに武器と馬を提供するよう指示し、彼らはこれを喜んで行った。こうしてスキピオはシケリア人の代わりに、この好意で彼に直ちに感謝して後にも彼に立派な奉仕をした他の人たちの費用で見事に武装した300人のイタリア人の若者を擁することとなった。
9 カルタゴ人はこれらのことを知ると、ギスコの息子ハスドルバルを象を調達するために送り、リグリア人傭兵を徴募していたマゴに歩兵6000人と騎兵800騎と7頭の象を急派し、スキピオをアフリカから撤退させるべくこれらと彼が集められた限りの他の部隊でもってエトルリアを攻撃するよう彼に指示した。しかしマゴはこれほどに距離の離れたハンニバルと合流できず、そして常に如何にすべきか躊躇っていたためにグズグズしていた。ハスドルバルは象の調達から戻ると6000人の歩兵と600騎の騎兵をカルタゴとアフリカの人々から集め、5000人の奴隷を船の漕ぎ手として購入した。また彼はヌミディア人から2000騎の騎兵を調達し、傭兵を雇ってカルタゴから200スタディオン離れた野営地でその全員を訓練した。
10 支配域が分かれていたヌミディアには多くの酋長がいた。シュファクスは酋長たちのうちでも最高の地位を占めており、他の酋長よりも大きな栄誉を持っていた。有力な種族だったマッシュリイ族の王の息子のマシニッサという人もいた。彼はカルタゴで育てられて教育を受けていた。彼は見目麗しく立派な態度の人だった。ギスコの息子で、カルタゴでは右に出る者のいない地位にあったハスドルバルは、マシニッサがヌミディア人だったにもかかわらず自分の娘と婚約させ、婚約の後にこの若者を連れてヒスパニアでの戦争へと赴いた。これまたその少女を懸想していたシュファクスはこれに腹を立ててカルタゴの領土を略奪し始め、ヒスパニアから彼に会いに来ていたスキピオにカルタゴに共同で攻撃をかけようと提案した。カルタゴ人はこれを知り、シュファクスがローマ人との戦争でできる貢献の大きさを知ると、ヒスパニアにいたためにハスドルバルやマシニッサが知らないのをいいことに彼にこの少女を与えた。激怒したマシニッサはヒスパニアでスキピオと同盟を結び、一計を案じてこれをハスドルバルから隠した。この若者と娘に激怒して悲しみはしたが、ハスドルバルはマシニッサを殺すのが国家にとっては有益だと考えていた。かくしてマシニッサは父の死に際してヒスパニアからアフリカへと戻ると、ハスドルバルは彼を騎兵の一隊で護送し、あらゆる手を使って密かに殺すよう命じた。




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