アッピアノス『ローマ史』「ミトリダテス戦争」


12巻
79 春〔紀元前71年〕が来るとルクルスは彼の接近を防ぎ、何か重要なことが起これば狼煙を出せる地点にあらかじめ部隊を置いていたミトリダテスに向けて山脈へと進んだ。ミトリダテスはフォイニクスという名の王族の一員をこの先遣監視部隊の指揮官に任命していた。ルクルスが接近するとフォイニクスはミトリダテスに向けて狼煙を上げ、次いで軍と共にルクルスに投降した。ルクルスは苦労することなく山脈を抜けてカビラまでやってきたが、騎兵戦でミトリダテスに破れて山地へと退却した。騎兵長官〔マルクス・〕ポンポニウスは負傷して捕虜になり、ミトリダテスの面前に連れて行かれた。王は彼にお前は助命のためにどんなことを頼むつもりなのかと問いかけた。ポンポニウスは「偉大な方よ、もしあなたがルクルスと講和しても彼の敵であり続けるというのならば私はあなたの問いを考えようとも思わないでしょう」と答えた。夷狄たちは彼を殺したがったが、王は自分は不運にあっても屈することのない勇者に暴力を振るうつもりはないと言った。彼は数日間続けざまに軍を戦闘隊形にしたが、ルクルスは出撃して戦おうとはしなかった。そのためにルクルスは山に登ることでミトリダテスの方へと向かおうとしていくつかの方法を考えてみた。この時、以前ルクルスに投降して最近の騎兵戦で多くの人命を救っており、そのためにルクルスと食卓を共にするに値する人物だと見なされていたオルカバという名のスキュタイ人と彼の腹心たちが正午に休憩していた彼の天幕にやってきて押し入ろうとした。彼は彼の習わし通り帯に短剣を身につけていた。中に入るのを拒まれると彼は怒り、差し迫った必要性によって将軍は目を覚まさずにはいられなくなるだろうと言った。召使いはルクルスにとってはルクルスの安全よりも有益なものはないと答えた。その結果、ルクルスに対する陰謀を企んでいて自分が疑われていると考えたためか、あるいはこのようにして侮辱されて腹を立てたためにそのスキュタイ人は馬に乗ってすぐにミトリダテスの方へと奔った。彼はミトリダテスに名をソブダコスといい、ルクルスを見限ろうとしていたもう一人のスキュタイ人のことを打ち明けた。それ故にソブダコスは〔計画が露見して〕拘束された。
80 敵が騎兵戦力であまりにも優勢であり、その周りに道が見つからなかったたためにルクルスは平野へと直に下るのを躊躇ったが、ある洞穴の中で山道に精通していた狩人を見つけた。彼を道案内として彼はミトリダテスより高い位置にある凸凹した迂回路をとった。彼は騎兵のために平野を避けて降り、正面に渓流があった場所を野営の場所に選んだ。物資が乏しくなると彼はカッパドキアに穀物を求める手紙を送り、その間にも敵と頻繁に小競り合いをした。王の軍勢が一旦逃げ出すとミトリダテスは野営地から彼らの方へと駆け出し、叱責して彼らをうまく再集結させた。そのために今度はローマ軍が恐れをなして急いで山の方へと逃げる番になり、彼らは敵軍が追撃を控えたことを長い間知らずに各々は自分の後ろを逃げる仲間を敵だと思って大混乱に陥った。ミトリダテスは方々にこの勝利を知らせる御触れを出した。次いで彼は自身がキュジコスで被ったのと同じ物資不足に陥らせようと企んでカッパドキアからルクルスに物資を届ける輸送物資を横取りするために最も勇敢な騎兵から成る分遣隊を送り出した。
81 カッパドキアのみから運ばれていたルクルスの物資の遮断が彼の主目的であったが、彼の騎兵部隊は隘路にいた輸送部隊の前衛護衛部隊へとやってくると敵が開けた地域に着くのを待たなかった。したがって彼らの馬は狭い場所では役立たずになり、ローマ軍は大急ぎで道を横切る形で戦闘隊形についた。当然のことながら歩兵は地形の険しさで助けられ、王の部隊のある者を殺してまたある者を断崖へと追いやり、敗走の過程で残りを散り散りにさせた。少数の兵が夜に野営地に到達して自分たちが唯一の生き残りであると言ったため、実際のところ十分に甚大だった災難は噂でさらに大げさに吹聴された。ミトリダテスはルクルスよりも前にこの事態を聞き知っており、彼の騎兵部隊の殺戮者を先んじて攻撃できるという甚だしい優位を得た。だが彼は恐慌状態に陥って逃走を考え、すぐに天幕の中で友人たちに自分の目的を伝えた。彼らは信号が出るのを待たずにまだ夜のうちに自分の荷物を野営地の外へと出し、門のあたりは荷駄獣で大混雑した。兵士たちはその騒ぎを知ると輸送部隊が何をしているのかを知り、道理の通らない想像をした。恐怖で満たされ、信号が自分たちに出されていないことでの怒りと混ざると、彼らは防塞を壊して出ていき、指示を出す将軍や他の将官からの命令もなしに慌てふためいて平地へと四散した。ミトリダテスは無秩序な壊走を聞くと天幕から彼らの中へと飛び込んで何かしらのことを言おうとしたが、誰も聞く耳を持たなかった。彼は雑踏に巻き込まれて落馬したが、再び乗って少数の供廻りと一緒に山へと運ばれた。
82 輜重隊の成功を聞いて敵の敗走を知ると、ルクルスは騎兵の大部隊を敗走中の兵の追撃へと出撃させた。彼は当面は略奪を慎んで見る者は無差別に殺すよう命じた歩兵で、まだ荷を野営地で集めていた者を包囲した。しかし兵士たちは金銀の入った放棄された器と高価な衣服を見ると命令を無視した。ミトリダテスに追いついた者は転がり落ちた黄金を載せた騾馬の鞍を切り裂いてそれに夢中になり、彼がコモナへ逃げるのを許してしまった。そこから彼は二〇〇〇騎の騎兵と共にティグラネスのところまで逃げた。ティグラネスは彼に面会を許さなかったが、王らしい娯楽が彼の地所で彼に与えられるよう命じた。ミトリダテスは王国のことを完全に絶望して宦官のバッコスへと自身の姉妹、妻、側室たちを可能な殺し方で殺すよう手紙を王宮に送った。彼女らは素晴らしい愛情でもって短剣、毒、縄を使って自害した。ミトリダテスの守備隊の指揮官たちはほとんどの物がルクルスの手に渡ったのを知った。ルクルスは艦隊をポントス沿岸の諸都市へも送り、アマストリス、ヘラクレイア、その他を占領した。
83 シノペはルクルスに対して猛抵抗を続けており、住民はうまくいっていないながらも海上で戦っていたが、包囲されて重量のある船を焼き払われるとより快速の船に乗り込んで〔市を〕去った。ルクルスは以下のような夢に導かれてすぐにその都市を解放した。アマゾン人に対する遠征でのヘラクレスの従者アウトリュコスは嵐によってシノペへと流されてその地の支配者となり、奉納された彼の像はシノペ人に神託を与えたと言われている。急いで逃げたために彼らはそれを船上に乗せることができなかったが、亜麻の服と縄でくるんだ。誰もこのことを予めルクルスに言わず、彼もそのことについて何も知らなかったが、彼はアウトリュコスが自分を呼ぶ夢を見て、翌日にある人たちがくるまれた像を持ちながら自分彼の前を通ると彼らに覆いを解くよう命じ、そして自分の考えが夜に見た通りだと見て取った。これは彼の夢そのものだった。シノペの後、ルクルスは似たように海路で逃げていたアミソスの市民を、彼らはアテナイが海上帝国を有していた時にアテナイからそこへと移住してきて、その最初の政体は民主政体であったが後にペルシア王に長い間服属してアレクサンドロスの布告で民主政体を回復し、そして最終的にポントス王に奉仕することを強いられていたことを知ると、母国へと返してやった。ルクルスは彼らに同情してアレクサンドロスがアッティカ系の人々に示した好意を真似てその市に自由を与え、大急ぎで市民を呼び戻した。したがってルクルスはシノペとアミソスを無人にして再び人を住まわせたことになる。彼はミトリダテスの息子でボスポロスの支配者であり、彼に黄金の冠を送ってきたマカレスと友好関係を結んだ。彼はティグラネスの許からのミトリダテスの引き渡しを要求した。次いで彼はアジア諸州に戻った。スラが押しつけた貢納の分割払いの一回分を資金にして彼は穀物の四分の一を徴収し、住居税と奴隷税を課した。彼は神々に戦勝を感謝する犠牲を捧げた。
84 犠牲を捧げた後、彼は二個軍団と騎兵五〇〇騎を率いてミトリダテスを引き渡すことを拒んだティグラネスへと進軍した。ルクルスはエウフラテス川を渡ったが、その夷狄は戦いたがっていないか、あるいはルクルスとティグラネスの戦いで一方に味方して犠牲を被るのを望んでいなかったため、彼は通過する領地で必要な物資だけを提供するよう彼らに要求した。諸都市の良好な秩序を乱すものと考えてこの知らせを持ってきた最初の者をティグラネスは縛り首にしてしまったため、誰もルクルスが進撃していることをティグラネスに言わなかった。それが真実だと知ると、彼はルクルスの進軍を阻止するためにミトロバルザネスを騎兵二〇〇〇騎と共に送った。彼はマンカイオスにティグラノケルタ市の防衛を委ね、上述のように、王はこの地方に自らの港を建設していたのであるが、そこへ移さなかった物品の没収という処罰の下でその地方の主な住民を呼び寄せた。彼は五〇ペキュスの高さで馬を格納できるだけの幅の城壁をこしらえていた。郊外に彼は宮殿を建てて大きな公園、野生動物のための囲い地と魚池を設えた。また彼は強力な塔を近くに建てた。彼はマンカイオスにその全てを任せ、次いで軍を集めるために国を通過した。ルクルスはミトロバルザネスと最初に遭遇すると、戦いでそれを破った。セクスティリウスはマンカイオスをティグラノケルタに封じ込めて城壁の外側の宮殿を略奪し、市と塔の周りに水路を作り、それらに対する装置〔攻城兵器〕を持ってきて城壁の下に穴を掘った。
85 セクスティリウスがこれを行っていた間、ティグラネスは約二五万人の歩兵と五万騎の騎兵を動員した。彼は後者のうち約六〇〇〇人をティグラノケルタに送り、彼らはローマ軍の戦列を突破して塔にやってきて、王の側室たちを脱出させた。残りの軍と共にティグラネスはルクルスに向けて進軍した。今や臨席を許されていたミトリダテスは彼に接近せずに騎兵だけを迂回させてその地方を荒らし、もし可能ならば飢えで彼らを弱らせ、キュジコスでルクルスにしてやられたのと同じように、戦わずしてその軍を倒すよう忠告した。ティグラネスはその将軍を侮り、進軍して戦いの準備を行った。ローマ軍がいかにも小兵力であるのを見て取ると、彼は冗談を言った。「彼らがここに使節としているのならあまりにも多すぎるではないか。敵としてならあまりにも少なすぎる」。ルクルスはティグラネスの近くに有利な形で位置している丘を見て取った。彼は敵を引きつけて自身の方へとおびき寄せるために騎兵を正面から進ませ、敵が食いつくと撤退し、そのために夷狄は追撃の際隊列を崩した。次いで彼は騎兵を丘へと送って気付かれることなくそこを占領した。敵が戦いで勝利したために追撃を行って方々に散らばり、輜重隊が丘の麓に残されていたのを見て取ると、彼は叫んだ。「兵士たちよ、我々は勝ったぞ」。そして〔ローマ軍は〕輜重隊に突進した。彼ら〔アルメニア軍〕は恐慌状態に陥ってすぐに敗走して味方の歩兵の許へと、そして歩兵は騎兵の許へと走った。そして間もなく総崩れになった。長い距離ローマ騎兵は敵を追撃し、撃滅した。輜重隊は動揺して他の者とぶつかった。その場では狼狽が生じたことから誰も状況を正確に理解することができないほど多くの者が詰め寄ることになり、その多くが殺された。誰も略奪を止めなかったためルクルスは刑罰で脅してそれを禁じ、かくして彼らは腕輪と首飾りの散らばった道を素通りして一二〇スタディオンにわたって夜が来るまで殺し続けた。次いで彼らはルクルスの許しを得て略奪に向った。
86 ティグラノケルタからこの敗北を見守っていたマンカイオスはギリシア人傭兵を猜疑したため、彼ら全員を武装解除させた。彼らは逮捕を恐れて外へと歩いていったりこん棒を手に握って身を休めたりした。マンカイオスは武装した夷狄と共に彼らを出撃させた。彼らは盾として役立たせるために左腕に衣服を巻き、 勇敢に敵と戦って幾らかを殺して互いに武器を分け合った。彼らは十分に武器を提供されていくつかの塔を掌握していたのであるが、外側のローマ軍を呼んで彼らが来ると迎え入れた。このようにしてティグラノケルタは落ち、新たな建物と人が住んでいる都市にあった計り知れない富は略奪を受けた。

13巻
87 さてティグラネスとミトリダテスは新たな軍を集めるべく国を横断し、ティグラネスはミトリダテスの災難が彼に幾分か教訓を教えてくれたに違いない考えてミトリダテスにその指揮を委ねた。また彼らはパルティアに救援を要請する使者を送った。ルクルスは対抗してパルティア人に自分を助けるかあるいは中立を維持するよう求めるよう特使を送った。彼らの王は双方に密かに合意したが、急いで彼らを助けようとはしなかった。ミトリダテスはあらゆる都市で武器を製造した。彼が徴募した兵士はそのほとんどがアルメニア人であった。彼らはその中から歩兵と騎兵がそれぞれ半分を成すおよそ七〇〇〇〇人の最も勇敢な者を選抜して残りを解散した。彼は彼らをイタリアの軍の組織にできる限り近づけようと中隊と大隊に分割し、ポントス人の将官に彼らを預けて訓練させた。ルクルスが彼らに向けて動き出すと、ミトリダテスは歩兵の全部隊と騎兵の一部を連れてある丘に軍を陣取らせた。残りの騎兵部隊と共にティグラネスはローマ軍はローマ軍の食糧徴発部隊を攻撃して敗れ、このためにローマ軍はその後はより自由に、ミトリダテスその人の近くですら食糧徴発をしてさらに彼の近くに陣を張った。再びティグラネスの接近を示す大量の砂埃が舞った。二人の王はルクルスを包囲しようと決めていたのだ。後者は彼らの動向を知り、最良の騎兵部隊を可能な限り遠いところでティグラネスと戦わせるべく送り出し、彼が進軍隊形から戦列に展開するのを妨げた。また彼はミトリダテスに戦いを挑みもした。彼は壕で彼を包囲し始めたが、おびき寄せることができなかった。最終的に冬が来て双方の作業を妨げた。
88 ティグラネスはアルメニアの内陸地へと撤退してミトリダテスはポントス王国の自らの手に残っていた地域へと急ぎ、四〇〇〇人の手勢とティグラネスから受け取ったのよりも多くの兵士と共に向かった。ルクルスはゆっくりと彼の後を追ったが、物資の必要のために頻繁に戻らざるを得なかった。急遽ミトリダテスはルクルスによって指揮を委ねられていたファビウスを攻撃して彼を敗走させ、五〇〇人の兵士を殺した。今一度ファビウスは野営地にいた奴隷を解放して一日中戦ったが、戦いはミトリダテスが腿に投石を受けて目の下を矢で負傷し、戦場から急いで離脱するまでは劣勢であった。その後かなりの間彼の軍は彼の身を案じ、ローマ軍は彼らが受けた多くの傷のために大人しくしていた。ミトリダテスはスキュタイ人の一部族で、薬として蛇の毒を使っていたアガロイ族の手当を受けた。この部族のある者たちは常に医者として彼に同行していた。その時ルクルスのもう一人の将軍トリアリウスがファビウスを助けるために軍と共にやって来て後者の軍と権限を受け取った。彼とミトリダテスはそう遠からぬうちに矛を交え、それは嵐が吹き荒れる中でのことであった。誰もついぞ記録で知りもしなかったようなこの嵐が双方の天幕を倒壊させて荷駄獣を奪い去り、絶壁へと一部の兵士を真っ逆様に落とした。そして双方は撤退していった。
89 ルクルスが迫っているという知らせが届くと、トリアリウスは彼の行動の先手を打とうと急ぎ、ミトリダテスの前哨部隊に夜襲をかけた。戦いは王が彼と戦っていた敵の部隊に強力な攻撃を掛けるまで長時間帰趨のはっきりしないまま続いたが、ミトリダテスの攻撃によって決着が付いた。彼は隊列を突破して歩兵部隊を泥だらけの壕まで撃退し、ローマ軍はそこでは立つことがままならずに殺戮された。彼は平野で騎兵部隊を追撃し、従者の先導によって彼の方まで騎馬で駆けてきた一人のローマ人一〇〇人隊長が、彼は銅鎧を貫通して傷を受けるのを予期できなかったために、剣で彼の腿に重傷を与えるまでは予期せぬ幸運を最大限に活用した。近くにいた者がすぐにその一〇〇人隊長を切り伏せた。ミトリダテスは後方へと運ばれてその友人たちは急いで信号を出してその素晴らしい勝利から軍を呼び戻した。信号が予想外のものであり、彼らは何らかの災難がどこかで起こったのではないかと恐れたために混乱が起こった。彼らは事の次第を知ると、侍医ティモテオスが止血をして持ち上げて移動させて見えるようにするまでは驚きながらも平野にいた王の周りまで集まってきた。その様はまるでインドでアレクサンドロスが手当てを受けた時に担架の上から彼のことを心配していたマケドニア兵たちにその姿を見せた時のようであった。姿を現すやすぐにミトリダテスは戦場から軍を呼び戻した者たちを叱責し、再び同日にローマ軍の野営地に向けて兵士を率いていった。しかしローマ軍はすでに恐怖のあまり逃げ去っていた。死者から衣服をはぎ取っていると、二四人の一〇〇〇人隊長と一五〇人の一〇〇人隊長が見つかった。かくも多くの将官がローマ軍の一度の敗北で倒れたことはほとんどなかった。
90 ミトリダテスは今はローマ人が小アルメニアと呼ぶ地方へと退却し,入手可能な全ての物資を手にして運べない物は何であれ台無しにし、ルクルスの進軍の妨害をした。この時、元老院階級のアッティディウスなる正義からほど遠く、ミトリダテスと長らく友人関係にあったローマ人の王に対する陰謀が発覚した。彼がローマの元老院議員であったために王は拷問にかけることなく死を宣告した。彼の共犯者は身の毛もよだつような拷問にかけられた。アッティディウスの計画に気付いていた解放奴隷に対しては、彼らは主人への義務があったために何もせずに解放した。ルクルスがすでにミトリダテスの近くに野営するに至ると、アジアの属州総督が、ローマは必要もなく戦争を長引かせているとしてルクルスを告発したという宣言する伝令を送ってきて、彼麾下の兵は解散してこの命に従わぬ物の財産は没収されるべしと命じた。この知らせを受けるや否や軍はすぐに解散し、非常に貧しくそして罰を恐れていなかったために少数を残した全員がルクルスの側に留まり続けた。

14巻
91 ミトリダテス戦争はルクルスの下ではついに決着がつかなかった。ローマ人はイタリアでの反乱で引き裂かれて海上の海賊によって飢餓で脅かされていたため、目下の問題がまだ片付いていない時にかような規模のもう一つの戦争をするのは時宜に合わないと考えていた。ミトリダテスはこれを知ると再びカッパドキアに侵攻して自らの王国の防備を強化した。ローマ人はその行いを眺めつつ海を掃討していた。これが完了した時には海賊を壊滅させたポンペイウスがアジアにまだおり、ミトリダテス戦争はすぐに再開されてその指揮権はポンペイウスに与えられた。〔海賊掃討の〕海上遠征は彼の指揮権下の作戦の一部でミトリダテス戦争の前に始まったものであるが、これは私の歴史書の他の箇所で述べるのは適切とは見えないのでここで紹介し、その中で起こった出来事を見直すのが良いように思われる。
92 当初ミトリダテスはローマ人との戦争に突入し、その時スラはギリシアで苦心していたためにアジア諸州を制圧すると、そう長くそれら諸州を保持することはできまいと考え、したがって上述したように道中そこからあらゆるものを略奪して海へと海賊を送り出した。手始めに彼らは小舟で辺りを回って盗賊のように住民を脅かした。戦争が長期化したために彼らはさらに数を増して大型船を操るようになった。大量の穀物を得ても彼らは思いとどまらず、ミトリダテスが敗北して講和するとその稼業を止めた。戦争によって生計の手段と国の両方を失って徹底的な破壊を被っていたため、彼らは陸での代わりに海で生計を立て、まずピンネス船とヘミオリア船で、次いで二段船と三段船で軍の将軍のような海賊の首領たちの下で船団を組んで航行した。彼らは無防備な町を襲撃した。彼らは他の町の城壁を掘り崩したり叩き潰したりし、あるいは通常の包囲戦で八五個の町を占領して略奪した。彼らはより富裕な市民を隠れ家へと連れ去って身代金を取った。彼らは略奪者の名を軽蔑して自分たちの行いを戦争の褒美と呼んだ。彼らは仕事をさせるために職人を鎖に繋いで継続的に木材、真鍮、そして鉄といった資源のある所へと連れて行った。利得で得意になっても生活様式を変えてずに彼らは自らを王、支配者、そして軍勢になぞらえ、もし彼らが同じ場所に集まれば無敵だろうと考えた。彼らは船を建造してありとあらゆる武器を作った。彼らの主な根城はその地では「キリキアの岩山」と呼ばれ、共同の投錨地及び野営地として選ばれていた。彼らは城と塔と放棄された島を有しており、あらゆる場所から退いてきていた。彼らは険しく港がなく、高い山の頂がそびえ立つキリキアの沿岸を主に合流地点として選び、そのためにそれらの全てはキリキア人の通常の名前で呼ばれていた。この悪行はキリキアの岩山の人々の間で始まったが、シュリア人、キュプロス人、パンヒュリア人の男たち、ポントス生まれの男たち、そして東方の諸族のほとんど全ての人たちが集まってきて、ミトリダテス戦争の長期の継続のために悪事を被るよりも悪事を働く方を好み、この目的のために陸の代わりに海を選んだ。
93 かくして短時間で彼らの数は数万人に膨らんだ。彼らは今や東の海のみならずヘラクレスの柱まで地中海全域を支配した。彼らは数人のローマの法務官を何度かの海戦で、その他の法務官のうちシケリア沿岸でシケリア担当の法務官を破った。海を安全に航海することはできず、陸は通商が不足していたために未耕作なままになった。ローマ市はこの悪事にこの上ない憤りを覚え、その属国らは苦しみ、ローマ自体は大都市であったことにより飢餓で大変な被害を受けた。陸海の方々に散らばった船乗りの大戦力を撃破するのは彼らにとっては困難な大仕事に見えた。彼らは逃げ足が早く、特定の地方なり判明している場所から出撃してこず、どこにも定住せず、気ままに停泊するだけだった。したがってこの戦争の大きさと例外的な性質に対処するような法律がなく、それについては何も見通しがつかず、困惑とあらゆる恐怖が引き起こされた。ムレナが彼らを攻撃したが、何ら語るに足る事を成し遂げず、彼の後を襲ったセルウィリウス・イサウリクスもそうであった。そして今や海賊たちは嘲弄と共にブルンドゥシウムとエトルリア付近のイタリア沿岸を襲撃し、旅行をしていた貴族の女性たちと官職の証を着けていた二人の法務官を捕らえて連れ去った。
94 ローマ人はもはや損害と不名誉に耐えることができなくなると、最高の名声を持った人物であったグナエウス・ポンペイウスを法に則ってヘラクレスの柱内の全海域と沿岸から四〇〇スタディオンの距離の陸地での全権を帯びた三年期限の司令官とした。彼らは全ての王、支配者、人々、そして都市にあらゆる手段でもってポンペイウスを支援せよという手紙を出した。彼らは属州から兵を徴募して金を集める権限を与え、属州は徴募による大軍、手持ちの全ての船、そして六〇〇アッティカ・タラントンの資金をを提供した。このため海賊たちはかような大軍に打ち勝つのは大仰で困難な仕事だと考えて海へと散らばって多くの隅に身を隠し、素早く退却して再び予期せぬ襲撃を行うようになった。ポンペイウス以前にローマ人からこれほどの大権を与えられた人はなかった。ほどなく彼は一二万人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵、ヘミオリア船を含む二七〇隻の船を集めた。彼は元老院階級から彼らが幕僚と呼ぶ二五人の補佐を得て、各々に全権での管轄地域を持たせるべくその各々に艦隊、騎兵、そして歩兵を与えて海域ごとに分け、法務官の記章を彼らに帯びさせ、一方ポンペイウスはまるで諸王の王のように、彼らが割り当てられた箇所に留まっていることを見るべくそれらの間を航行し、一カ所で彼が海賊を追っている時にその仕事が終わらないうちに他のところに向かう羽目にならないようにした。かくしてこのようにして至る所で海賊と遭遇するようにし、互いに合流することを阻止した。
95 ポンペイウスは全てを以下のように処理した。彼はティベリウス・ネロとマンリウス・トルクアトゥスにヒスパニアとヘラクレスの柱での指揮権を与えた。マルクス・ポンポニウスにはガリアとリグリア沿いの海を任せた。アフリカ、サルディニア、コルシカ、そして隣接する島々はレントゥルス・マルケリヌスとプブリウス・アティリウスに、イタリア本土はルキウス・ゲリウスとグナエウス・レントゥルスに委ねた。シケリアとアカルナニアまでのアドリア海はプロティウス・ウァルスとテレンティウス・ウァロに、ペロポネソス半島、アッティカ、エウボイア、テッサリア、マケドニア、そしてボイオティアはルキウス・シセンナに、ギリシアの島々、エーゲ海の全域、それとヘレスポントスはルキウス・ロリウスに、ビテュニア、トラキア、プロポンティス、エウクセイノス海の入り口はプブリウス・ピソに、リュキア、パンヒュリア、キュプロス、それとフェニキアはメテルス・ネポスに任せた。したがって法務官権限が攻撃、防御、各々の任務の遵守のために取り決められたため、各々は他の者によって敗走させられた海賊を捕まえて追跡し、自分の持ち場からはあまり離れず、競争での場合のようにぐるぐると巡回し、その任務のための時間は長引いた。ポンペイウスその人は全域を回った。彼はまず西の持ち場を調べて四〇日間でその作業を終え、帰り道でローマに寄った。そこから彼はブルンドゥシウムへと向かい、この地を出発して東の持ち場を訪れるのに同じだけの時間を使った。彼は動きの早さ、準備の大がかりさ、そして偉大な名声で全ての人を驚かせたため、彼を最初に攻撃しようと思っていた、あるいは少なくとも自分たちに対する彼の計画は一筋縄ではいかないことを示そうとしていた海賊たちはすぐに不安に駆られ、包囲していた町々への攻撃を諦めて慣れ親しんだ砦と入り江に逃げた。したがって海はポンペイウスによって戦わずして一掃され、海賊はあらゆる場所で法務官たちにそれぞれの持ち場で鎮圧された。
96 ポンペイウス自身は岩がちな砦に対してはあらゆる戦闘と包囲のための手段が必要になると予想して様々な戦力と多くの兵器を伴ってキリキアへと急いだが、どれも必要ではなかった。彼の名前と準備の大仰さへの恐怖で強盗たちは恐慌状態に陥った。彼らは抵抗しなければ寛大な扱いを受けることができるだろうと期待した。まず最大の砦であったクラゴスとアンティクラゴスに拠っていた者が、彼らの後にキリキアの山男たち、ついに全員が次々と投降した。彼らは同時にその一部が完成し、他のものは作業場にあった大量の武器、また一部は待機し、他のものはすでに海上にあった彼らの船、それらを建造するために集められていた真鍮と鉄、帆布、縄、そして様々な材料、そして最後に身代金のために捕まえていたり、作業をさせるために鎖に繋いでいた大量の捕虜を引き渡した。ポンペイウスはそれらの材料を焼き払って船を運び出し、捕虜を各々の国へと帰した。彼らの多くはもう死んでいたと思われていたためにそれらの故郷には戦没者記念碑が建てられていた。明らかに邪悪さからではなく戦争による貧困から海賊として生きていた人々をポンペイウスはマロス、アダナ、そしてエピファネイア、あるいは岩がちなキリキアにある他の人が住んでいなかったり人口の少なかったりする町々へと移住させた。一部の者を彼はアカイアのデュメへと送った。したがって非常な困難を呈するだろうと思われていた対海賊戦争はポンペイウスによって僅かな日数で終結した。彼は海賊から拿捕したり引き渡され、町々、城、そして他の合流地点から得た七一隻の船を運んだ。およそ一〇〇〇〇人の海賊が戦死した。

15巻
97 この勝利は迅速且つ予想だにせずに得られたため、ローマ人はポンペイウスを度を超して絶賛した。そして彼がまだキリキアにいるうちに対ミトリダテス戦争の司令官に選出し、戦争をして彼が望むような和平を得て、友好国や敵国を彼自身の判断に則った宣言を行う以前通りの全権を与えた。彼らはイタリア国外の全軍の指揮権を彼に与えた。その全戦力がこれまで一人の将軍の下に置かれたことは一度もなかった。ミトリダテス戦争は彼以前にも他の将軍によって首尾よく進んでいたので、これが彼らが彼に大ポンペイウスの称号を与えた理由なのかもしれない。したがって彼は軍を集めてミトリダテスの領土へと進軍した。後者は自分の軍勢から選抜した歩兵三〇〇〇〇人と騎兵三〇〇〇騎の軍を持っており、国境地点に配置していた。しかし少し前にルクルスがほとんど物資を供給しないその地方を荒らし尽くしており、このためにミトリダテスの多くの兵が脱走した。脱走兵は見つかり次第磔にされたり目を潰されたり、あるいは焼き殺されたりした。しかしその罰の恐怖が脱走兵の数を減らすことはなく、物資の不十分さが彼を弱体化させた。
98 ミトリダテスはポンペイウスに彼が呑むことができる条件での和平を求めるための使節を送った。ポンペイウスは「我々の脱走兵を引き渡して思慮分別をもって降伏すれば」と答えた。その条件を知らされるとミトリダテスはこれを脱走兵に伝え、彼らが仰天したのを見た彼はローマ人の貪欲さのために、ローマ人とは講和したり、彼らを誰にも引き渡さないし、皆の共通の利益に資さないことはしないと誓った。ミトリダテスが言ったことは以上のようなことであった。そこでポンペイウスは騎兵の一部隊に待ち伏せをさせ、王の前哨部隊におおっぴらに繰り返し攻撃をかけて悩ませるための別動隊を送り、敵を怒らせたならあたかも負けたかのように撤退するよう命じた。これは待ち伏せ部隊が敵の背後に攻撃をかけて敗走させるまでなされた。ローマ軍は逃亡兵がいた敵の野営地に突入し、この危機を知らない王は歩兵を率いて来なかった。次いでローマ軍は撤退した。軍の最初の試行とポンペイウスとミトリダテスの最初の騎兵戦の結果は以上のような結果になった。
99 蓄えが乏しくなってきたために王はしぶしぶながら撤退し、荒廃した地方での野営でポンペイウスも欠乏から被害を受けることを予期しつつ、彼が自分の領土に入るのを許した。しかしポンペイウスは彼を追って送られていた物資を受け取る手はずを整えた。彼はミトリダテスの東側へと回り込み、要塞化した基地と一五〇スタディオンの距離に広がる野営地の連なりを設え、ミトリダテスの食料徴発を困難にするために彼の周りに塹壕線を作った。災難の接近にあってはしばしば起こることであるが、王は恐怖したか精神的に麻痺していたためにこの作業に対抗しなかった。再び物資が逼迫するようになると彼は馬以外の荷駄獣を殺し〔て食用に供し〕た。手持ちの物資が辛うじて五〇日分になると、彼は夜に深い静寂の中を悪路を使って逃げた。ポンペイウスは苦労しつつも夜明けに彼に追いつき、後衛に猛攻をかけた。王の友人たちは彼に戦いの準備を進めたが、彼は戦おうとはしなかった。彼は自分の馬を回れ右させて夜に深い林に引っ込んだ。翌日に彼は岩で守られ、一つの道からしかそこへは行けない強力な場所に陣取り、四個大隊の前衛を配置した。ローマ軍はミトリダテスの逃亡を防ぐためにそこを守るべく部隊を対陣させた。
100 夜明けに両将は軍を武装させた。前哨部隊が隘路沿いで小競り合いを始め、王の騎兵部隊の一部が馬に乗らず命令を待たずに前衛の支援に向かった。ローマ軍騎兵部隊の本隊が彼らの方へとやってきて、馬を持たないミトリダテス軍は馬に乗り、ひいては前進してくるローマ軍と互角の戦いができるようにしようとして野営地へと引っ込んだ。まだ高地で武装していた〔ミトリダテス軍の〕兵は下を見下ろして味方が大急ぎで悲鳴を上げながら走ってくるのを見たが、その理由を知らない彼らは彼らは敗走しているのだと考えた。彼らは武器を投げ出し、あたかも野営地がすでに敵方によって占領されたかのように逃げた。その場所からの脱出路がなかったために彼らは混乱の中で互いにぶつかり、それは最終的に断崖へと飛び降りるまで続いた。したがってミトリダテス軍は命令を受けずに前衛の支援に行こうとしたことによる恐慌から始まった軽率さのおかげで壊滅した。ポンペイウスの残りの仕事は楽なもので、まだ武器を取っていない者や岸壁へと追いやられていた者を殺したり捕らえたりするというものであった。およそ一〇〇〇〇人が殺されて野営地は全ての用具もろとも鹵獲された。
101 ミトリダテスは少数の供回りだけを連れて断崖を通って逃げた。彼は直々につき従っていた騎兵の傭兵部隊とおよそ三〇〇〇人と共にシモレクスの砦を攻め、多額の金を集めた。そこで彼は褒美と一年分の給与を彼と共に逃げた者たちに与えた。六〇〇〇タラントンを獲得すると、彼はコルキスに向かおうと意図してエウフラテス川の水源へと急いで向かった。進軍を阻むものはなかったために彼はエウフラテス川を四〇日目に渡った。その後三日間彼は命令を下して彼につき従っていたり、合流していた軍を武装させ、アルメニアのコテネに入った。そこでコテネ人とイベリア人は彼がそこへ来るのを防ぐべく矢と石を放ったが、彼は前進してアプサロス川へと突き進んだ。いくらかの人たちはアジアのイベリア人はヨーロッパのイベリア人の祖先であると、他の人たちは前者は後者から移住してきたと考えている。さらに他の人たちは彼らの習俗と言語は似ても似つかないので彼らはただ単に同じ名であるにすぎないと考えている。ミトリダテスはコルキスのディオスクリダスで越冬し、コルキス人の考えるところではその都市はディオスクロイのカストルとポリュデウケスがアルゴ号の冒険の際に滞在したと言われていた。ミトリダテスはそこでは何の計画も、それこそ逃亡のためのしかるべき計画すら立てずにポントス沿岸全域を回り、ポントスからマイオティス湖の周りのスキュタイ人のもとへと向かい、それからボスポロスに到着するという構想を考えていた。彼は恩知らずの息子マカレスの王国へと退いて今一度ローマ人と対峙し、アジアでも戦争が進展中の時に彼らとの戦争をヨーロッパの側から起こし、彼女が雌牛に変身してヘラの嫉妬から逃げていた時に一〇かきして泳いで渡ったためにボスポロスと呼ばれていた〔ゼウスの浮気相手イオがヘラから逃れるために牝牛に姿を変えてこの海峡を渡ったために「牝牛の渡渉」を意味するボスポロスと呼ばれた〕と信じられていた地峡を分かれ目として置くことを意図していたのだ。
102 この時のミトリダテスが企んでいたのは荒唐無稽な計画だった。にもかかわらず彼は自分がそれを実現できるはずだと想像した。彼は風変わりで好戦的なスキュタイ人の諸族のところを、ある場合は許可によって、またある時は力ずくで通ったが、それは逃亡者であり不運の中にあったにもかかわらず、未だに彼は尊敬されて恐れられていたからであった。彼はヘニオコイ人の国も通過し、彼らは彼を進んで受け入れた。抵抗したアカイア人を彼は敗走させた。言われるところでは、トロイアの包囲から帰る時に彼らは嵐でエウクセイノス海まで流され、ギリシア人であったために夷狄の手で被害を受けた。そして船を求めて母国へと手紙を送ってその要望が無視されると、彼らはギリシア民族への憎悪を抱き、ギリシア人を捕らえる度にスキュタイ風に焼き殺した。まず怒った彼らはこのようにして全ての者を犠牲に捧げ、その後見栄えの良い者のみを、最後に籤で少数の者を選んだ。スキュティアのアカイア人についてはここまでにしておこう。ミトリダテスは最後にマイオティス地方に到達し、彼の名声、帝国、そして未だ侮れないものだった勢力のためにそこにいた多くの君主たちの全員が彼を迎え、彼を護送して贈り物を交わし合った。彼は他の人たちと友情と、トラキアを通ってマケドニアへ、マケドニアを通ってパンノニアへと進んでアルプスを越えてイタリアに至るというより新しい偉業において彼らと同盟を結んだ。彼はその君主たちのうち特に権勢のある者たちと自分の娘たちを結婚させることで同盟を強固にした。彼の息子マカレスは彼がかくも短期間のうちに獰猛な諸部族の真っ只中をこれまで誰も通過したことのないスキュティア門と呼ばれる場所を通って旅程を消化したことを知ると、弁明のための使節団を送り、ローマ人を懐柔する必要があったと述べた。しかし父の情け容赦ない気性を知ると、彼はポントスのケルソネソスへと逃げて父の追撃を妨害するために船を焼き払った。後者は他の船を手に入れて彼を追ってそれらを送ると、マカレスは自害して運命に対して先手を打った。ミトリダテスは彼が去った時に権力ある地位としてそこに残した自らの友人たちを皆殺しにしたが、息子の友人たちは私的な友情の義務の下で行動していたために無傷のまま解散させた。ミトリダテスの状況は以上のようなものであった。
103 ポンペイウスはコルキスあたりまで逃げていたミトリダテスを追討したが、敵はポントスないしマイオティス湖へと迂回し、たとえ逃げるとしても大それたことは試みないだろうと考えていた。彼はアルゴナウタイ、カストルとポリュデウケス、そしてヘラクレスが滞在した地方についての知識を得るためにコルキスへと進み、彼らがプロメテウスがカウカソス山に縛り付けられたと言った場所を見ることをとりわけ望んでいた。カウカソスからは多くの水流が発しており、それらは目に入る限りでも素晴らしい砂金を運んでいた。住民は毛羽だった羊毛を川に浸して流れる砂金の欠片を集めている。アイエテスの黄金の羊毛はこの種のものだったのかもしれない。近隣の全ての民族はポンペイウスの冒険的な遠征に際して彼に同行した。アルバニア人の王オロイゼスとイベリア人の王アルトケスだけが七〇〇〇〇の兵でもってキュルトス川にて彼を待ち伏せしたが、その川は最大のものがアラクセス川であるいくつもの大きな川の水を受けて航行可能な一二個の河口でカスピ海に注いでいた。ポンペイウスは待ち伏せを知ると、川に架橋して夷狄を深い森へと撃退した。それらの人々は木々に隠れて出し抜けに矢を放つために恐るべき森の戦士であった。ポンペイウスはこの森を軍勢でもって包囲して火を放ち、駆け出してきた逃亡兵を追撃し、それは彼ら全員が投降して人質と贈り物を差し出すまで続けた。ポンペイウスはその後、これらの偉業をローマでの凱旋式で讃えられた。人質と囚人の中に多くの女が見つかり、彼女らは男たちに劣らず負傷していた。彼女らはアマゾン族であると考えられたが、そのアマゾン族というのはその時には助けを求められた隣の民族なのか、あるいはとある好戦的な女たちがそこの夷狄からアマゾン族と呼ばれたのかどうかは分からない。
104 ポンペイウスはその地方から転進し、ミトリダテスを支援したティグラネスに対する戦争を起こすべくアルメニアへと進撃した。さて、彼は宮殿のあるアルタクサタからほど遠からぬところにやってきた。ティグラネスはもう戦うまいと決めた。彼にはミトリダテスの娘との間に儲けた三人の息子がおり、そのうち二人は彼自身が殺しており、そのうちの一人は父との戦いで、他方は落馬した父を無視して助けずに父が地面に伏せていた時に王冠を自分の頭に乗せたために狩り場で殺していた。父の狩りでの事件でいたく心を痛めていたらしいティグラネスという名の三男が彼から王冠を授けられたものの、短い合間の後に彼もまた父を見限って父に戦争を仕掛けて破れ、最近父シントリコスの跡を継いでいたパルティア人の王フラアテスのいるその国の政府へと逃げていた。ポンペイウスが接近してくると、この若い方のティグラネスは自らの意図をフラアテスに伝えて彼の同意を受けた後――フラアテスもまたポンペイウスとの有効を望んでいたからだ――ミトリダテスの孫であったにもかかわらず、嘆願者としてポンペイウスのもとへと避難してきた。夷狄の間でのポンペイウスの正義と誠実の名声は大なるものであった。父の方のティグラネスもこれを信頼し、自らの全ての事柄と息子との争いをポンペイウスの決定に委ねるために人知れずポンペイウスのもとへとやってきた。ポンペイウスは軍団副官らと騎兵隊長たちに護送のために途上で彼と会いに行くよう命じたが、ティグラネスに同行していた者たちは伝令の許可なく進むことを恐れて後方に逃げた。しかしやってきたティグラネスはポンペイウスを上座として彼の前に夷狄風にひれ伏した。幾人かの人たちの述べるところでは、彼はポンペイウスが送ったリクトルたちに連れてこられて過去の事柄についての説明を行い、六〇〇〇タラントンを自らポンペイウスに、五〇ドラクマを軍の兵士各々に、一〇〇〇ドラクマを百人隊長各々に、一〇〇〇〇ドラクマを軍団副官各々に送ったとのことである。
105 ポンペイウスは彼の過去の行いを許して息子と和解させ、息子は今は小アルメニアと呼ばれているソフェネとゴルデュエネを、父は残りのアルメニアを支配し、息子は父の死後それらも受け継ぐと取り決めた。彼はティグラネスに戦争で獲得した領土をすぐに放棄することを要求した。したがって彼はエウフラテス川から海に至るシュリアの全域を手放した。それというのも彼は敬虔王とあだ名されていたアンティオコス〔一〇世〕から奪ったシュリアとキリキアの一部を掌握していたからだ。途上でティグラネスを見捨てたアルメニア人たちは心配から、彼がポンペイウスのところへと行っていた時にまだポンペイウスと一緒にいなかった彼の息子に父への決起を実行するよう説き伏せていた。ポンペイウスは彼を捕らえて鎖に繋いだ。彼はさらにポンペイウスに敵対するようパルティア人を扇動する腹づもりだったために後者〔ポンペイウス〕の凱旋式に引き立てられ、その後に処刑された。今やポンペイウスは戦争の全てが終わったと考えて自らが戦いでミトリダテスを破ったことにちなんでこの地、小アルメニアにニコポリス、即ち勝利の町と呼ばれる都市を建設した。彼はアリオバルザネスにカッパドキア王国を返還し、ティグラネスの息子に分け与えられていたが今やカッパドキアの一部として管理されていたソフェネとゴルデュエネを付け加えた。彼はカスタバラ市とキリキアのその他の諸都市も彼に与えた。アリオバルザネスは自分がまだ生きている間に彼の王国全土を息子に委ねた。この王国にはカエサル・アウグストゥスの時代までに多くの変転が起こり、他の多くの王国のようにローマの属州になった。

16巻
106 それからポンペイウスはタウロス山脈を踏破してコンマゲネ王アンティオコスとの戦争を行い、それは後者が彼と友好関係に入るまで続いた。また彼はメディア人ダレイオスをとも戦ってこれを敗走させたが、それは彼がアンティオコス、その前にはティグラネスを支援していたためであった。彼はアレタスが王となっていたナバテア系のアラビア人、そして王アリストブロスが革命を起こしていたユダヤ人とも戦争を行い、それは彼が最も神聖な都市ヒエロソリュマを占領するまで続いた。彼はまだ服属していなかったキリキアの一部とエウフラテス川沿いのシュリアの残り、コイレ・シュリアと呼ばれる地方、フェニキア、そしてパレスティナ、またイドゥマイアとイトゥライア、シュリアの何であれ名前で呼ばれる他の地方へと進撃した。彼はアンティオコス〔一〇世〕・エウセベスの息子で、健在で、父祖伝来の王国を要求していたアンティオコス〔一三世〕に対して要求を突きつけたが、それは自分がアンティオコスへの勝利者ティグラネスから没収したものは戦争の法に則ってローマ人に属するものであるとポンペイウスが考えていたからだ。彼がそれらの問題の解決に当たっていると、互いに戦争状態にあったフラアテスとティグラネスから彼に使節団がやってきた。ティグラネスの使節はポンペイウスに同盟者としての援助を求めた一方で、パルティア人の使節はローマ人の彼への友好を確約することを求めた。ポンペイウスは元老院の布告抜きでパルティア人と戦うのは得策ではないと考え、彼らの不和を調停する仲裁者を送った。
107 ポンペイウスがこの仕事をしようとしていた時、ミトリダテスはエウクセイノス海を一周し終え、その海の入り口のヨーロッパの市場町だったパンティカパイオンを占領した。ボスポロスのそこで彼は息子の一人クシファレスを彼の母の以下の罪状のために処刑した。ミトリダテスはそこに隠し財産を置いた城を有しており、そこにはたくさんの鉄で閉じられた青銅の容器に隠された大量の金が隠されていた。王の妾ないし妻の一人ストラトニケはこの城を任されており、彼がエウクセイノス海をまだ回っていた時に彼女は、息子クシファレスを捕らえた時には助命するということを唯一の条件としてポンペイウスにその城を明け渡すつもりであり、彼に隠し財宝のことを明らかにした。ポンペイウスはその金を接収してクシファレスを助命すると彼女に約束し、彼女に財産を持って去ることを許した。ミトリダテスはそれらの事実を知ると海峡でクシファレスを殺し、彼の母が対岸からこの光景を見ている時にミトリダテスは彼の遺体を埋葬もせずに投げ出し、彼を生んだ母を悲しませるために息子への悪意をぶちまけた。その時、ミトリダテスはまだシュリアにいてこの地に王がいたことを知らなかったポンペイウスに使節団を送っていた。彼らはもし王の父祖伝来の王国をミトリダテスが保持するのをローマ人が許すのであれば、ミトリダテスは彼らに年貢を納めるつもりだと約束した。ポンペイウスがミトリダテス自身が来てティグラネスがそうしたように嘆願するよう要求すると、ミトリダテスは自分が王である限りそんなことに同意するつもりはないが、息子たちと友人らをそのために送るつもりだと言った。そのようなことすら言いつつ彼は解放奴隷と奴隷から手当たり次第に軍を動員し、兵器、投擲兵器と装置を製造しており、木材を好き勝手に使って自分の活動のために農耕牛を殺していた。彼は全ての人に租税を課し、これは取るに足らない生計手段しか持たない人たちにすら及んだ。彼は顔に潰瘍を煩って臥せっており、彼の世話をする三人の宦官としか会わなかったため、彼の大臣たちは彼の知らないところで多くの人から情け容赦なく取り立てを行った。
108 彼は病から回復して六〇〇〇人の選り抜きの隊とその他の大軍、並びに船団と彼が病気の間に将軍たちに占領されていた要塞〔の部隊〕から編成された軍を集めると、その一部を海峡〔ケルチ海峡〕を渡り、海の入り口のもう一つの市場町だったファナゴレイアへと向かわせ、ポンペイウスがまだシュリアにいる間に両方の道を手中に収めるべく送り出した。王の宦官テュフォンにかつて一度虐待されたことがあったファナゴレイアのカストルは後者がその町に入ろうとしたところに襲いかかってこれを殺し、市民を反乱へと奮い立たせた。砦はすでにアルタフェルネスとその他のミトリダテスの息子たちに占拠されていたにもかかわらず、住民はその周りに木を積んでそれに火を放ち、その結果アルタフェルネス、ダレイオス、クセルクセス、そしてオクサトレスといったミトリダテスの息子たちと娘のエウパトラは火を恐れて投降し、捕虜になった。彼らのうちアルタフェルネスだけがおよそ四〇歳で、他の者たちはほんの子供であった。もう一人の娘クレオパトラは抵抗した。彼女の父は彼女の勇敢な精神を賞賛して多数の小舟を送って彼女を救出した。ミトリダテスによって最近占領されたばかりだった全ての近隣の都城、すなわちケルソネソス、テオドシア、ニュンファイオン、そして戦争のために都合がよい位置を占めていたエウクセイノス海の周辺の他のものはファナゴレイア人に倣って彼に反旗を翻した。ミトリダテスはそれらの頻繁な離反を見て取り、軍そのものも業務は強制的で租税は非常に重く、兵士たちにはいつも不運な指揮官への信頼が欠けていたために彼を陥れるのではないかと猜疑するようになったため、スキュタイ人の君候に嫁がせるために数人の娘を宦官に委ねて送り出し、同時に彼らには可能な限り早く援軍を送るように求めた。彼自身の軍からは五〇〇人の兵士が彼らに付き添った。彼らはミトリダテスのもとを去ってすぐに、ミトリダテスと共に全権を握っていた宦官たちを常々嫌っていたために彼らを率いていた宦官たちを殺し、この若い娘たちをポンペイウスに引き渡した。
109 かくも多くの子供と城塞と王国全土と戦争の方途を失い、スキュティア人からの援助も期待できなくなったにもかかわらず、そして依然として劣勢で、目下の彼ほどの不運に相当するような者はいなかったが、それでもなお彼は安住の地を探した。彼はこの目的のために長らく友情を培ってきたガリア人の方へと転進し、イタリア人の多くがローマ人への憎悪のために彼らに合流すると期待しつつ、ガリア人と共にイタリアに攻め込もうと考えていた。それというのも彼はローマ人がヒスパニアでハンニバルに対して行った戦争以後の彼の施策がどのようなものであったのか、そして彼がこのようにして彼らに最大の恐怖の的となったことを聞いていたからだ。彼はイタリアのほとんど全てが最近ローマ人への憎悪のために彼らに反乱を起こしたばかりであり、その戦争は非常に長引いており、そして剣闘士スパルタクスが無名の人物であったにもかかわらず持ち堪えていたことを知っていた。それらの考えに満たされた彼はガリア人のもとへと急ごうとしたわけであるが、その非常に大胆な計画は魅力的でありはしたものの、彼の兵たちは主としてその壮大さのため、外国の領地への遠征の距離の大きさ、そして自国においてですら打倒できなかった者〔ローマ人〕に対して後込みした。また彼らはミトリダテスは完全に絶望して犬死にするよりは自分の人生を勇敢且つ王らしい仕方で終わらせようと望んでいると考えた。かくして彼らは彼の不運の真っただ中にあってすら彼を馬鹿にしたり蔑んではいなったために彼を大目に見て沈黙を続けた。
110 情勢がこのような有様だった一方で最も資金があり、しばしば後継者に指名されていた息子ファルナケスはこの遠征と王国を案じたか――それというのも彼は未だにローマ人からの寛恕を期待していたが、父がイタリアに攻め込めば自分は全てを失うだろうと考えていたからだ――もしくは他の動機に駆り立てられて父に対して陰謀を仕組んだ。彼の共謀者たちは捕らえられて拷問にかけられたが、メノファネスは遠征に進もうという時にこれまで彼が最愛の息子を殺すことは良からぬことであると王を説き伏せた。彼が言うには、戦争の時には人々はそのような心変わりをしがちであり、その心変わりが終われば、物事は再び大人しくなる。このようにしてミトリダテスは息子を許すよう説き伏せられたが、息子の方はというと未だに父の怒りを恐れており、軍が遠征に後込みしていることを知ると、王の非常に近くに野営していた指導的なローマの脱走兵たちのもとへと夜に向かい、彼らに事の真相、彼らがよく知っているイタリアへの進軍への怒りを表明し、もし彼らが行くのを拒む場合には多くの約束をすることで父を見捨てるよう誘った。彼らを味方につけた後、ファルナケスは同じ夜に付近の他の野営地に使者を送って味方につけた。早朝に最初の逃亡兵が大声を上げ、彼らの隣にいた者が繰り返し、以下同様になった。 海軍すら騒ぎに加わり、彼らはその全員が前もって勧められていたわけではなかったが、変革への熱意を持ち、失敗を軽視し、そしてすでに新しい希望の側につく準備があった。陰謀を知らなかった他の者たちは皆が買収し尽くされ、もし彼らだけが留まるならば多数派から軽蔑されることになるだろうと考え、好みというよりはむしろ恐怖と必要から騒ぎに加わった。ミトリダテスは騒音で目を覚まし、騒いでいる者たちの望みを探るために使者を送り出した。後者は逃げも隠れもせずにこう言った。「我らは陛下のご子息が王になることを望んでおります。我らは宦官に操られている老人、多くの息子、将軍、そして友人の殺害者の代わりに若者の方を望んでおります」
111 これを聞いたミトリダテスは彼らを説得しに行った。そこで彼の護衛の一部は逃亡兵と合流すべく走ったが、後者は、同時にミトリダテスを指差しつつ彼らが忠誠の証拠として取り返しのつかない行いをしない限り受け入れないと拒絶した。かくして彼自身が逃げていたために彼らは急いで彼の馬を殺し、反乱軍がすでに勝利していたにもかかわらず、それと同時にファルナケスを王として迎え、彼らの一人は幅のあるパピルスの葉を神殿から送って冠の代わりにそれで彼を飾った。王は高い前廊からその様を見ると、ファルナケスへと安全に逃げる許可を求める使者を矢継ぎ早に送った。しかしどの使者も戻ってこないでいると、自分がローマ人に引き渡されるのではないかと恐れた彼は自分に忠実であった近衛兵と友人を讃え、彼らを新しい王のところへと送ったが、軍は彼らが近づいてくるとそうとは知らずにその一部を殺してしまった。次にミトリダテスは剣の傍らにいつも持ち歩いていた毒を持ち出してそれを混ぜた。エジプトとキュプロスの王と婚約していた名をミトリダティスとニュサというともにまだ少女だった二人の娘は最初に自分たちに毒を飲ませてくれるよう彼に頼み、熱心に説き、彼女らがそれを取って飲むまで彼がそれを飲むのを妨害した。毒薬は彼女らにはすぐに効果を発揮したが、ミトリダテスはその行動を急いで行って回りを足早に歩いていたにもかかわらず、毒殺に備えて絶えず試していて他の薬物に慣れていたために彼には効果を発揮しなかった。それらは未だにミトリダテスの薬と呼ばれている。ガリア人のビトイトスなる家来を見ると、彼は言った。「余は敵に対してはお前の右腕に大いに助けられたものだ。長年専制君主でかくも強大な王国の支配者だったが、他の者の毒殺から身を守ったはいいが、まるで馬鹿のように今となっては毒で死に損なった余をお前が殺すことで、ローマの凱旋式に引き立てられるという危険から救い出してくれるならば、余はこれを何よりも感謝するつもりだ。食事に入った全ての毒に気をつけて避けてきたにもかかわらず、余は王にとって常に最も危険な獅子身中の虫であった軍、子供、そして友人の裏切りに備えてこなかったわけだ」かくしてビトイトスは頼まれた通り、王の望んだ奉公をなした。
112 その死んだミトリダテス〔六世〕は、ヒュスタスペスの子であるペルシア王のダレイオス〔一世〕から一六代目の子孫であり、マケドニア人の許を離れてポントス王国を打ち立てたミトリダテス〔一世〕からは八代目である。彼は六八ないし六九年間生き、そのうち五七年間の間、彼が孤児だった時に王国を手にして以来君臨した。彼は近隣の夷狄と多くのスキュタイ人を服従させてローマ人と四年間に及んだ恐るべき戦争を行い、その間彼は頻繁にビテュニアとカッパドキアを破り、ローマのアジアの属州、フリュギア、パフラゴニア、ガラティア、そしてマケドニアに侵入した。彼はギリシアに侵攻し、そこでかなりの功業を挙げ、スラが彼の一六〇〇〇〇人の兵士を倒した後に父の頃の王国へと彼を再び封じ込めるまでキリキアからアドリア海までの海を支配した。莫大な犠牲にもかかわらず彼は難なく戦争を再開した。彼は彼の時代の最も偉大な将軍たちと戦った。彼は何度も優勢に立ったにもかかわらず、スラ、ルクルス、そしてポンペイウスによって打ち負かされた。ルキウス・カシウス、クイントゥス・オッピウス、そしてマニウス・アクィリウスを彼は捕虜にして彼の許に牽きだした。彼は最後の者を、彼が戦いの原因であったために殺した。彼は他の者はスラへと引き渡した。彼はフィンブリア、ムレナ、執政官のコッタ、ファビウス、そしてトリアリウスを破った。彼は不運の内にあろうとも常に血気盛んで屈しなかった。最終的に敗れるまで彼はローマ人に対する攻撃であらゆる手を使った。彼はサムニウム人とガリア人と同盟を結び、ヒスパニアのセルトリウスに使節を送った。しばしば彼は敵と陰謀者の手で負傷したが、彼は老人になろうとも何も止めなかった。彼に露見せずにおかなかった陰謀はなかったが、彼は自分から見逃してその結果死んだ。一たび許された邪悪は非常な忘恩である。彼は皆に対して血に飢え、残忍であり、母、兄弟、三人の息子、そして三人の娘の殺害者であった。彼は大柄であり、そのことを彼がネメアとデルフォイに送った彼の鎧は示しており、そして最後まで彼は馬に乗れる程に強靭で、槍を投げ、一日で一〇〇〇スタディオンを走破し、その間隔で馬を変えた。彼は移動するのに一度に一六頭立ての戦車を用いた。彼はギリシアの学問に明るく、ギリシアの宗派を熟知し、音楽を好んだ。彼は節度を持ち、大部分の間仕事に耐えたが、女性との快楽のみに耽った。
113 エウパトル及びディオニュソスとあだ名されたミトリダテスの最期は以上のようなものであった。彼の死を聞き知るとローマ人は厄介な敵から解放されたために祭りを開催した。ファルナケスはマニウスを捕らえた人たち、ギリシア人と夷狄の多くの人質と一緒に三段櫂船で父の遺体をシノペのポンペイウスのところへと送り、父の王国、あるいは彼の兄弟のマカレスがミトリダテスから受け取っていたボスポロスだけでも支配させてくれるよう頼んだ。ポンペイウスはミトリダテスの偉業を賞賛していて彼の時代の王のうちで第一の人物であると考えていたために、ミトリダテスの葬式費用を提供してミトリダテスの家来に彼の亡骸を王らしく埋葬し、シノペの歴代の王の墓に葬るよう命令した。ファルナケスはイタリアを厄介事から解放したためにローマ人の友であり同盟者として記され、そこの住民はミトリダテスが権力を回復して艦隊を集めて多くの新しい軍と軍の駐屯地を築き上げていた時に彼に最初に対抗した人たち、他の人々を反乱へと踏み切らせて彼の計画に引導を渡しために解放されて独立していたパフラゴニアを除いたボスポロスを王国として与えられた。

17巻
114 ポンペイウスは盗賊のアジトを掃討して最も偉大な王を打ちひしぎ、次いで戦争を続け、ポントス戦争に加えてコルキス人、アルバニア人、イベリア人、アルメニア人、メディア人、アラビア人、ユダヤ人、そしてその他の東方諸族と戦って勝利し、エジプトあたりにまでローマの支配域を拡大した。しかしその国の王が暴動鎮圧のためにそこへと彼を招いて彼その人へと贈り物を、全軍に金子と衣服を送ったにもかかわらず、彼はエジプトへは進まなかった。それは彼がこの未だ繁栄していた王国の強大さを恐れてていたか、敵の嫉妬から身を守ろうと望んでいたか、もしくは神託の声明を気にしていたか、あるいは私がエジプトの歴史書で発表するつもりの他の理由のためであった。彼は服属した民族の一部を解放して同盟者とした。その他を彼はローマの支配下に今一度置き、その他については、ティグラネスにアルメニアを、ファルナケスにボスポロスを、アリオバルザネスにカッパドキアと前述の他の諸地方を、というように王たちに分配した。コンマゲネのアンティオコスに彼はセレウケイアと彼が征服したメソポタミアの一部をを返した。彼はデイオタロスと他の〔ガラティアの〕王たちをカッパドキアと境を接するガラティア人ガリア系ギリシア人の四君主とした。彼はアッタロスをパフラゴニアの君主、アリスタルコスをコルキスの君主とした。また彼はアルケラオスを女神の祭司に任命して王の特権であったコマナへの参拝をした。ファナゴレイアのカストルはローマ人の友として記銘された。かくも多くの領地と金が他の人たちに贈与された。
115 また彼はいくつかの都市の建設も行い、小アルメニアに彼の勝利にちなんでその名をつけられたニコポリスを、ポントスにはミトリダテス・エウパトルが建設して自らにちなんで名付けていたが、ローマ人が手にしたことによって破壊されていたエウパトリアを建設した。ポンペイウスはそれを再建してマグノポリスと名付けた。彼はカッパドキアにその戦争のために完全に滅んでいたマザカを再建した。彼は多くの土地で他にも町を再建し、それらはポントス、パレスティナ、コイレ・シュリア、そしてキリキアにあって破壊されたり損傷していたものであり、キリキアで彼は以前はソロイと呼ばれていたが今ではポンペイオポリスとして知られる都市に海賊の大部分を住まわせた。タラウラ人の都市をミトリダテスは調度品の貯蔵庫として用いていた。そこには金を溶接された縞瑪瑙でできた二〇〇〇個の酒杯、多くの杯、葡萄酒の冷凍容器、角の酒入れ、また装飾が施された長椅子と椅子、馬勒、胸と肩の飾り、似たようにして宝石と黄金で飾られた全てのものが見られた。この貯蔵量はその在庫調べに三〇日かかるほどに莫大であった。それらの一部はヒュスタスペスの息子ダレイオスからの相続品であり、クレオパトラによってコス島で預けられ、そこの住民がミトリダテスに贈っていたために他のものはプトレマイオス家の王国からのものであった。さらに他のものはミトリダテス自身によって作られたり収集されたものであり、それは彼が美しい調度品や他の文物の愛好者であったが故であった。
116 冬が終わるとポンペイウスは軍に褒美を配った。一五〇〇アッティカ・ドラクマを兵士の各々に、将官にも相当額を配り、総額は一六〇〇〇タラントンにものぼったと言われている。次いで彼はエフェソスへと進軍し、それからイタリアに上陸してローマへの道を急ぎ、兵士をブルンドゥシウムで解散させて家へと帰し、この行いによってローマ人の間での彼の人気は大いに増した。市へと近づくと彼は勝利の行列で迎えられ、若者が先頭になって市から一番遠くまで出迎え、次に様々な年代の人たちの一団が歩けるところまで各々向かった。全員の最後は、これほど強力な敵を破り、時を同じくして多くの強国を服属させてローマの支配域をエウフラテス川まで広げた者はいなかったために彼の偉業に驚いて夢中になっていた元老院であった。彼はこれまでなされたどの凱旋式よりも壮麗さで上回る凱旋式で称えられ、その時の彼は弱冠三五歳であった〔ポンペイウスの生年は紀元前106年なので、正しくは45歳(N)。〕。翌二日がそれに費やされ、ポントス、アルメニア、カッパドキア、キリキア、シュリアの全ての人々、さらにはアラビア人、ヘニコイ人、アカイア人、スキュタイ人、そして東部イベリア人など多くの民族が行列で見世物になった。七〇〇隻の完全な船が港へと入ってきた。凱旋行列には二頭立ての馬車と黄金や他の様々な種類の装飾品が乗った担架車、またヒュスタスペスの息子ダレイオスの長椅子、ミトリダテス・エウパトルその人の王冠と王笏、王の絵、八ペキュスの長さの金の延べ棒、そして七五一〇万ドラクマの銀貨があった。武器を乗せた馬車と船の舳先の数は無数といえるほどに多かった。その後、多くの捕虜と海賊を連れてきて、彼らのうち誰も縛られていなかったが、全員がその故郷の服装で整列していた。
117 ポンペイウスその人の前に彼と戦った諸王の太守、息子、将軍らが――ある者は捕らえられ、他の者は人質として差し出されて――出てきて、その数は三二四人になった。その中にはティグラネスの息子ティグラネス、アルタフェルネス、キュロス、オクサトレス、ダレイオス、そしてクセルクセスといったミトリダテスの五人の息子、またオルサバリスとエウパトラという娘もいた。コルキス人の酋長オルタケスもまた行列の中にいて、ユダヤ人の王アリストブロス、キリキア人の僭主たち、そしてスキュタイ人の女主、イベリア人の三人の酋長、アルバニア人の二人の酋長、ミトリダテスの騎兵隊長であったラオディケイア人メナンドロスもいた。彼らは列をなし、そしてそこにいない者はその絵が運ばれ、ティグラネスとミトリダテスについては、戦い、破れ、そして逃げている様を描かれていた。ミトリダテスによる包囲と夜陰に乗じての彼の密かな逃亡さえ描かれた。最後に彼が死ぬ様、彼と共に死んだ娘たちも描かれ、彼以前に死んだ息子と娘たちの図絵、そして野蛮な神々の絵が彼らの国を真似た風に飾られた。以下のような碑文の掘られた石版も運ばれた。「八〇〇隻の青銅の甲板の船を鹵獲し、カッパドキア、キリキアそしてコイレ・シュリアに諸都市を、パレスティナに今はセレウキスとなる都市を建てた。征服された王はアルメニア人ティグラネス、イベリア人アルトケス、アルバニア人オロイゼス、メディア人ダレイオス、ナバテア人アレタス、コンマゲネのアンティオコス」その銘にはこれらの事実が記録され、信ずるに足るとすれば、言われるところではポンペイウスその人はアレクサンドロス大王のマントを羽織って宝石で飾られた戦車に乗っていたという。これはコスの住人がクレオパトラから受け取ったミトリダテスの財産の中から発見されたものだと考えられている。遠征を彼と共にした将官らがある者は馬に乗って、他の者は徒歩で彼の戦車に随行した。カピトリウムに到着すると、彼は他の凱旋式で習慣的に行われるのとは違って囚人を殺さず、諸王を除いて公費で全員を帰国させた。王のうちアリストブロスのみが即座に、ティグラネスが幾分か後に殺された。ポンペイウスの凱旋式の様子は以上のようなものであった。
118 したがってローマ人は四二歳の終わりにあったミトリダテス王を打倒し、ビテュニア、カッパドキア、エウクセイノス海周辺に住むその他の近隣の人々を服属させた。この同じ戦争でミトリダテスのものではなかったにもかかわらず、未だ服されていなかったキリキアの一部がフェニキア、コイレ・シュリア、パレスティナといったシュリア諸地域、そしてそれらとエウフラテス川の横たわる領土が勝者の力によって彼のものとなり、あるものは即座に、他のものは後に貢納を納めるよう要求されることになった。ミトリダテスが去ったパフラゴニア、ガラティア、フリュギア、そしてフリュギアに隣接するミュシア、加えてリュディア、カリア、イオニア、そして以前ペルガモンに属していた小アジアの残りの全域が古のギリシアとマケドニアと共に完全に回復された。以前貢納を彼らに払っていなかったそれら多くの人々は今や服属した。回復された国と彼らの支配権に追加された国の多さ、四〇年という戦争が続いた長さ、ミトリダテスが全ての危機に際して示した勇気と忍耐のために彼らはとりわけこの戦争を大戦争と考えて「大勝」で終わった勝利と呼び、彼らに勝利をもたらしたポンペイウスに――このために今日までとりわけこの称号で呼ばれている――「偉大な」という称号を与えたのだと私は考えている。
119 ミトリダテスは何度も自らの四〇〇隻の艦隊、五〇〇〇〇騎の騎兵、二五万人の歩兵をしかるべき兵器と武器と一緒に揃えた。彼はアルメニア王とエウクセイノス海の周りとマイオティス湖の向こう側、トラキアのボスポロスまでのスキュタイ人諸部族の君候たちを同盟者としていた。激化したヒスパニアでの反乱を起こしていたローマの内戦における指導者たちと彼は連絡を取った。彼はイタリア侵攻のためにガリア人と友好関係を樹立した。キリキアからヘラクレスの柱までの海を彼は海賊で満たし、諸都市間の全ての交易と航行を停止させては長い間の酷い飢餓をもたらした。
120 ファルナケスはファナゴレイア人とボスポロスに隣接する町々を飢餓のために出撃して戦うことを強いられるまで包囲し、それから会戦で彼らを破った。彼はこれ以上の害を彼らに加えなかったが、彼らを友人とし、人質を取って撤退した。そう遠からぬうちに彼はシノペを落としてアミソスも落とそうとしたために彼はローマの司令官カルウィヌスと戦端を開き、その時にはポンペイウスとカエサルが相争っていてローマ人はまだ手がふさがっていた。その後、彼は――最近ポンペイウスを破ってエジプトから帰ってきたところだった――カエサルその人とスコティオス山の近くで戦ったわけであるが、そこは彼の父がトリアリウス指揮下のローマ軍に破れた地であった。彼は敗れて一〇〇〇騎の騎兵と共にシノペへと逃げた。カエサルには彼を追う暇がなかったためにドミティウスを彼に差し向けた。ファルナケスはドミティウスにシノペを明け渡し、ドミティウスは彼が騎兵と一緒に退去するのを許した。部下は馬を殺すのに不満たらたらだったものの彼は馬を殺し、船を得てボスポロスへと逃げた。ここでスキュタイ人とサルマティア人の軍勢を集め、テオドシアとパンティカパイオンを占領した。彼の敵手であったアサンドロスは彼を再び攻撃し、馬がなかったために徒歩で戦う習慣がなかったファルナケスの兵は敗れた。ファルナケスは傷を負って死ぬまで一人で奮戦し、この時彼の齢は五〇歳でボスポロス王としては一五年目だった。
121 かくしてファルナケスは王国から切り離され、カエサルはこれをエジプトで重要な支援を行ったペルガモスのミトリダテスに与えた。しかし今やボスポロスの人々は自分たちの支配者たちを持ち、元老院によって法務官がポントス及びビテュニアへと送られた。カエサルはポンペイウスからの贈り物として保有していた他の支配者たちが彼に対抗してポンペイウスを援助したため、癪に障りはしたものの、コマナの神官職をアルケラオスから剥奪してリュコメデスに与えたのを例外として彼らに称号を確保させた。そう遠からぬうちにそれら全ての諸国と、ガイウス・カエサルとマルクス・アントニウスが他の支配者たちに与えた諸国は、ローマ人はそれぞれの場合で些末な口実しか必要としなかったために、エジプトを取得した後にアウグストゥス・カエサルの手によってローマの属州となった。かくしてローマ人の支配領域はミトリダテス戦争の結果、ヒスパニアとヘラクレスの柱からエウクセイノス海とエジプトと境を接する砂漠、並びにエウフラテス川まで前進し、この勝利は偉大な勝利と呼ばれ、軍を指揮したポンペイウスが「偉大な」と装飾されたことは尤もなことであった。キュレネの王でラゴス家の庶子であったアピオンが同地をローマ人に自発的に遺譲したためにキュレネに至るまでのアフリカも彼らは保持したためにエジプトだけが彼らによる地中海全域の掌握から逃れることになった。

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