アッピアノス『ローマ史』「ミトリダテス戦争」

6巻
38 アテナイの防衛軍が飢餓によって酷く追いつめられて全ての牛を食べ尽くして獣皮を煮て食べ、食べられそうなものは何であれ舐め、そして一部の者は人肉すら食べていたことを知ると、スラは兵士たちに市を塹壕で囲んでこれによって住民が一人たりとも密かに逃げられないようにするよう命じた。これをすると彼は梯子をかけると同時に城壁の突破作戦を開始した。衰弱していた防衛軍はすぐに敗走し、ローマ軍は市内に突入した。凄まじく情け容赦ない殺戮がアテナイで起こり、食糧不足のために住民には逃げる力は残っていなかった。スラは女子供とて容赦せずに手当たり次第に殺すよう命じた。彼は彼らが理由もなく突然夷狄に与し、自らに対する荒々しい憎悪を示したことに怒っていたのだ。ほとんどのアテナイ人は下されていた命令を聞くと自分から殺戮者の剣へと飛び込んでいった。少数の者はアクロポリスへの弱々しい道を行き、その中にいたアリスティオンは音楽堂を焼き払っていたためにスラはアクロポリスを強襲するための木材が間近では手に入らなくなった。スラは兵士たちに市に火を放つことを禁じたが、略奪は許した。多くの家々で彼らは食べる準備がなされていた人肉を見つけた。翌日にスラは奴隷を競売で売り払った。昨晩の殺戮を逃れた非常に少数の解放奴隷に彼は解放を約束したが、彼らは彼と戦争状態にあったために投票者と立候補者としての権利は剥奪した。同じ条件は彼らの子供たちにも及んだ。
39 このようにしてアテナイは恐怖に満たされた。スラはアクロポリスの周りに見張りを置き、アリスティオンと彼の仲間たちはすぐに飢餓と渇きのために投降を余儀なくされた。スラはアリスティオンと彼の護衛たち、そして何らかの権力を行使したり、ローマ人による最初のギリシア占領以降敷かれていた支配に反対する行動を起こした者の全員に死罪を科した。スラは残りの人を許してその全員にローマ人によって以前に制定されていたのと実質的に同じ法律を与えた。およそ金四〇リトラと銀六〇〇リトラがアクロポリスから得られたが、アクロポリスでのそれらの出来事は幾分か後に起こったことであった。
40 アテナイがスラによって落とされるとすぐに〔籠城軍は〕ペイライエウスでの長い包囲、破城槌での攻撃、ありとあらゆるものの発射、亀〔ローマ軍が城攻めの時に使った、兵士たちが盾を上に突き出してこれを連ねた隊形〕の下に隠れて城壁を続けざまに攻める大軍、そして城壁の防衛軍を撃退するために投槍を投げたり夥しい矢を放ったりする多数の大隊に耐えきれなくなった。彼は新たに建てられた三日月堡塁の一部をそれがまだ湿っていて脆弱だったうちに破壊した。アルケラオスは最初からこれを予期してその内側に同様に他のものを建て、そのためにスラは一つ壊せばまた次の城壁にぶち当たることになり、仕事に終わりが見いだせなくなった。しかし彼は不屈の活力でもって突き進み、しばしば兵を交代させて彼らの間に分け入って激励し、彼らの骨折りへの報償の全ての希望はこの小さな残りの遂行にかかっていることを示した。兵士たちもまたこれは実際に彼らの苦難の終わりになるだろうと信じ、栄光への愛とこの壁を征することは壮挙になるという考えによって任務へといきり立ち、猛攻を加えた。最終的にアルケラオスは彼らの無鉄砲と執拗さに呆然として城壁を明け渡し、ペイライエウスの最も強固に要塞化されて全面を海によって囲まれていた地区へと向かった。スラは船を持っていなかったためにそこを攻めることができなかった。
41 そこでアルケラオスはボイオティアを通ってテッサリアへと退却し、テルモピュライに彼の残されていた全部隊と、自身の軍とドロミカイテスによって送られた軍の両方と共に退いた。また、彼は、ミトリダテス王の子アルカティアスの下でマケドニアに侵攻していた無傷のほぼ全戦力、そして最近〔アルケラオスが〕ミトリダテスから受け取った新兵の軍もまた自らの指揮下に置いた。新兵の受け取りはミトリダテスが増援を送るのを止めなかったおかげである。アルケラオスが急いでそれらの軍を集めていた間、スラはアテナイ市以上に彼の手を焼かせたペイライエウスを、その武器庫ないしは海軍工廠、あるいはその有名な付属物を除いて焼き払った。そこで彼はボイオティアを通ってアルケラオスへと進軍した。互いに近づいた時、アルケラオス軍はまさにテルモピュライからフォキスへと進んでいたところであり、トラキア人、ポントス人、スキュタイ人、カッパドキア人、ビテュニア人、ガラティア人、そしてフリュギア人およびミトリダテスが新たに得た領土からの他の部隊からなる総計一二〇〇〇〇人であった。各民族の将軍が〔各々の部隊を〕率いたが、アルケラオスが全ての最高指令権を有した。スラの軍はイタリア人と先日アルケラオスを見捨てて彼の許に走ったくつかのギリシア人とマケドニア人、そして降伏した地域からの他の少数からなっていたが、数において敵の三分の一もいなかった。
42 彼らが対陣すると、アルケラオスは繰り返し軍を出撃させては戦いを挑んだ。スラは地勢と敵の数のために躊躇した。アルケラオスがカルキスへと進出するとスラは都合の良い時と場所を見計らうべく彼のすぐ後を追った。敵が敗者が逃げることが叶わないカイロネイア近くの岩がちな地域に野営したことを知ると、スラはそこに近い開けた平地に陣取り、アルケラオスが望もうと望むまいと戦わざるを得なくなるようにするべく軍を率いて打って出たわけあるが、そこの平地の勾配はローマ軍にとって前進する場合も後退する場合も都合が良かった。アルケラオスは岩地で囲まれており、彼は地形が平らでなかったために彼らをまとめて統率することができず、戦いでは全軍が一斉に行動できなかった。敗走すれば彼らは岩によって妨げられることになる。それらの理由で位置の有利を頼んだスラは敵の数の優勢が彼に対して発揮されないように動いたのであった。アルケラオスは戦いがその時に起こるとは夢にも思っておらず、このために野営地の場所の選択において不用心になっていた。今やローマ軍が前進してくると、位置の悪さに遅蒔きながら気付いて悲しんだ彼は移動を妨げるために騎兵の分隊を送り出した。分隊は敗走して岩地で散り散りになった。その衝撃力によってレギオンの隊列を寸断して粉砕することを期待して彼は次に六〇台の戦車を向かわせた。ローマ軍は戦列を開いて戦車は勢いのあまり後ろへと通り過ぎ、それらは反転する前に包囲されて後衛部隊の投げ槍で撃破された。
43 アルケラオスは岩壁が彼を守る防備の施された陣営から安全に戦っていたものの、スラがすでに近づいてきていたため、そこで戦えるとは予想していなかった大軍勢を急いで出撃させ、あまりにも狭いと分かりきっていた場所へと向かった。まず彼は騎兵部隊に強力な攻撃を加えさせローマの戦列を真っ二つに切り裂き、その数の少なさのために完全にその二つを包囲した。ローマ軍は方々で敵に立ち向かって勇敢に戦った。ガルバとホルテンシウスの部隊はアルケラオスが自ら彼らとの戦いを指揮したために大損害を受け、司令官の目の前で戦った夷狄は最高度の勇気に倣おうと奮起した。しかしスラが騎兵の大部隊を率いて来援にやってきて、アルケラオスは総司令官の軍旗を見て接近しつつあるのがスラだというのを確信すると、大量の砂埃が立ちこめ、事の次第が把握できなくなって最初の位置へと向かい始めた。スラは最良の騎兵部隊と取っておいた選り抜きの新手の二個大隊を率い、機動を遂行するのも正面の堅固な隊列を組む前の敵に襲いかかった。彼は彼らを大混乱に陥れて敗走させ、これを追撃した。そちらの側で勝利が得られつつあった一方で、左翼を指揮していたムレナは何もしていないわけではなかった。兵を怠慢のために窘めると彼もまた完全と敵に襲いかかってこれを敗走させた。
44 アルケラオスの両翼が崩れると中央はもはや地歩を維持できなくなって見境なく敗走をした。それからスラの予想したあらゆることが敵を襲った。向きを変える余地や逃げるための開けた場所がなくなると、彼らは追撃者によって岩地へと追い立てられた。ある者はローマ軍の手の内へと突っ込んだ。他の者はより賢明にも自軍の野営地へと逃げた。アルケラオスは野営地の正面に自ら陣取って入り口に立ち塞がり、彼らに反転して敵に立ち向かうよう命じることで彼らの戦争での逼迫への大変な未経験さを裏切った。彼らは彼に機敏に従ったが、もはや彼らには彼らを指揮すべき将軍も彼らを整列させる隊長もおらず、彼らがそこに属していることを示す軍旗もなかったために無秩序な敗走にあって散り散りになり、身を翻したり戦う余地もなく、追撃は最も近い場所へと彼らを追い立て、ある者は仕返しもできないまま敵により、他の者は混雑と混乱の最中に友軍により無抵抗のまま殺された。再び逃げ込んだ野営地の門で彼らは混雑する羽目になった。彼らは門番を叱りつけた。彼らは彼らの国の神の名と共通の結びつきで彼らに訴え、敵の剣よりも友軍の無分別によって殺されたことで彼らを咎めた。最終的にアルケラオスは必要以上に遅れた後に門を開いて粉砕された逃亡兵たちを受け入れた。ローマ軍はこれを見ると大歓声を上げ、逃亡兵がいた野営地へと殺到して勝利を完全なものとした。
45 単独で逃亡したアルケラオスと生き残りの兵たちは共にカルキスへとやってきた。一二万人のうち一〇〇〇〇人も残っていなかった。ローマ軍の損害は一五人のみで、うち二人が後に姿を現した。カイロネイアでのスラとミトリダテスの将軍アルケラオスの戦いの結果は以上のようなものであり、この結果にはスラの賢明さとアルケラオスのへまが同等程度寄与した。スラは多くの捕虜を捕らえて大量の武器と戦利品を鹵獲し、山となったこれらの大部分は役に立たなかった。それからローマの流儀に則って自身を飾ってそれを戦争の神々への供物として焼いた。軍に小休止を取らせた後に彼はアルケラオス目指して自身の最良の兵と共に急行したが、ローマ軍は船を持っていなかったために後者は密かに島々の間を航行して沿岸を荒らした。彼はザキュントスに上陸してそこを包囲したが、そこに滞在していたローマ軍の一隊の夜襲を受けると急いで乗船して戦士というよりは野盗といった感じでカルキスへと戻った。

7巻
46 この大災難を聞き知ると、尤もなことであるがミトリダテスは仰天して恐慌状態に陥った。にもかかわらず彼は大急ぎで全ての臣従民族から新手の軍をかき集めた。敗北を受けて今にせよ後にせよ彼から離反しそうな人々がいるだろうと考えると彼は機を見ては戦争がより厳しくなる前に疑わしい者全てを逮捕した。まず彼はガラテイアの四君主を、友人として彼についた者のみならず、逃げた三人以外の全員を、彼の臣下ではなかった者もろとも、その妻子ともども殺した。彼はそのある者は策略で捕らえ、他の者は宴の席で一晩に殺した。彼はスラが近づいてくれば、彼らのいずれも自分には忠実ではなくなるだろうと信じていたのだ。彼は彼らの財産を没収し、彼らの町々に守備隊を置き、エウマコスを太守に任命した。しかし四君主のうちの逃げた者はただちにその土地の人々から兵を募り、エウマコスと彼の守備隊を追い出してガラテイアから撃退したため、ミトリダテスにはその国のもののうち彼が奪い取った金を除いて何も残らなかった。キオスの船の一隻がロドス近海の海戦で王の船に偶然突っ込んできたことからキオスの住民に怒った彼はまずスラ側についた全キオス人の財産を没収し、次いでキオスの財産はローマ人に属することを知らせるために人を遣った。第三の活動としてギリシアへと軍を率いていた彼の将軍ゼノビオスは夜にキオスの城壁と全ての要塞化された場所を奪取して門に守備隊を置き、全ての外国人は大人しくしてキオスは民会を再建するべしと宣言し、彼は王からの言伝を彼らに寄越した。彼らが揃ってやって来ると、彼は王はこの都市のローマ派のためにこの都市に対して疑いを抱いているが、彼らが武器を引き渡して名家の子供たちを人質に出せば王は満足するはずだと言った。彼らの都市がすでに彼の手中にあることを知ると、彼らはそのいずれも彼に渡した。ゼノビオスは彼らをエリュトライへと送ってキオス人に王は彼らに直接手紙を書いてくれるだろうと述べた。
47 ミトリダテスからは以下のような要旨の手紙が来た。「貴殿らは今でさえローマ人の好意を寄せており、市民の多くは未だに彼らと共に逗留している。貴殿らは、貴殿らが我々に返還していないローマ人の富の果実を収穫するつもりなのだ。貴殿らの三段櫂船はロドスとの先の戦いで余の船に向かってきてこれを揺るがした。余は貴殿らが無事に過ごせる支配を悟って余に服属する臣であり続けることを望んでおり、舵手たちだけにこの失敗の責を負わせる用意がある。今や貴殿らは密かに己が兵をスラへと送っており、ローマ人と協力しない者の義務としてこれは公的な権限なしでなされたことを証明も宣言しなかった。余の友人たちは余の政府に対する陰謀を企てる者と余の身柄に陰謀を企てようとする者は死すべしと考えてはいるものの、余は二〇〇〇タラントンの罰金で貴殿らを放免するつもりである」以上が手紙の要旨であった。キオス人は使節を送ろうと望んだが、ゼノビオスはそれを許さなかった。彼らは狼狽して主たる家の子供たちを渡して夷狄の大軍が市を掌握したために彼らは大声で罵ったが、神殿に二〇〇〇タラントンにのぼる装飾品と女性の宝石類を集めた。この全部が用意されると、ゼノビオスは渡された量には不足分があるとして彼らを難じて彼らを劇場に集めた。次いで彼は軍に抜き身の剣を持たせて劇場の周りとそこから海へ続く街路沿いに配置した。次いで彼はキオス人たちを一人ずつ劇場の外へと導いて船に乗せ、男を女子供から隔離して全員を夷狄の捕獲者にぞんざいに扱わせた。このようにしてキオス人たちはミトリダテスの許へと曳きたてられ、黒海のポントスへと追いやられた。キオスの市民を襲った苦難は以上のようなものであった。
48 ゼノビオスが軍と共にエフェソスに到着すると、市民たちは門で武装解除して少数の供回りだけを連れて来るよう彼に命じた。彼は命令に従い、ミトリダテスの愛妻モニマの父であったフィロポイメンの許に滞在し、後者をエフェソスの監督者に任じてエフェソス人を民会に召集した。彼らは彼からは何の良いものが得られないだろうと予期して次の日まで話し合いを延期した。しかし夜の間に彼らは互いに相談して激励するために会合し、その後にゼノビオスを投獄して殺した。それから彼らは城壁に兵を配備して市民を鍛え、郊外から物資を運び込んで市に完全な防衛体制を敷いた。トラレス、ヒュパイパ、メトロポリスと他のいくつかの町の人々はこれを知ると自分たちがキオスの運命を辿り、エフェソスの例に倣うことになるのではないかと恐れた。ミトリダテスは叛徒に軍を差し向け、それらを占領すると恐るべき懲罰を加えたが、他の者の背信を恐れてギリシア諸都市に自由を与えて負債の帳消しを宣言し、そこにいた全ての滞在外国人に市民権を与えて奴隷を解放した。債務者、滞在外国人、奴隷は彼らの新たな特権はミトリダテスの支配下でのみ確保されると考えるはずであり、そのために彼を支持するだろうと期待して彼はこれを行い、現にそのようになった。その一方でスミュルナのミュンニオンとフィロティモス、レスボスのクレイステネスとアスクレピオドトス――アスクレピオドトスは一度彼を客としてもてなしていた――といった王の腹心の全員がミトリダテスに対する陰謀に加わった。この陰謀でアスクレピオドトスその人は密告者になり、自分の話を立証するために彼はミトリダテスが長椅子の下に隠れてミュンニオンが言ったことを聞く手はずを整えた。かくして陰謀が明らかになると陰謀者たちは拷問を加えられて殺され、多くの人が類似した計画の嫌疑を受けた。こうして八〇人のペルガモス市民が似たような目的を企てて捕らえられ、他の諸都市の他の人たちもその後を追った。王は間諜を方々に送って自身の敵を告発したために一五〇〇人の人命が失われた。その告発者の一部はスラに捕らえられて少しして殺され、他の者は自殺し、さらに他の者はミトリダテスその人と共にポントスへと逃げ込んだ。
49 アジアでそれらの出来事が起こっていた間、ミトリダテスは八〇〇〇〇人の軍勢を集め、以前の軍勢のうちでまだ生き残っていたのは一〇〇〇〇人であったギリシアのアルケラオスのところへとこれをドリュラオスに率いて向かわせた。スラはオルコメノス近くでアルケラオスと対陣していた。敵の騎兵の大部隊が到来しつつあるのを知ると、スラは平地に一〇プースの広さの壕を掘り、アルケラオスが前進してくると彼に向けて軍を出撃させた。ローマ軍は敵騎兵への恐怖のために苦戦した。スラは長らくあちこちを駆け回って兵を激励したり脅しつけたりした。この仕方で彼らの義務を鼓舞するのに失敗すると、彼は馬から飛び降りて軍旗を掴み、盾持ちを連れて「ローマ人どもよ、お前たちがどこでスラを見捨てたのと今後聞かれれば、お前たちの将軍はそれはオルコメノスでの戦いでだと言うぞ」と叫びながら両軍の間を走り回った。将官たちは彼の危機を見て取ると、恥の感覚に突き動かされて彼を助けるべく隊列から飛び出し、続いてあべこべに敵を撃退した。これが勝利の端緒となった。スラは再び馬から飛び降り、戦いが終わるまで彼らを賞賛して激励しながら兵の間を駆け回った。敵は一五〇〇〇人を失ってそのうち一〇〇〇〇人は騎兵で、その中にはアルケラオスの息子のディオゲネスも含まれていた。歩兵は野営地へと逃げた。
50 スラは船を持っていなかったため、アルケラオスが再び逃げて以前のようにカルキスに逃げ込むのではないかと危惧した。したがって彼は夜に平野全域に飛び飛びに見張りを置き、翌日には彼の野営地から壕でアルケラオスを逃がすまいとして彼を囲んだ。それから最早敵が抵抗を示さなくなると彼は軍に戦争はあと少しで終わるだろうと呼びかけた。そして彼はアルケラオスの野営地へと彼らを率いて向った。似たような情景が敵のうちでも起こり、必然的な雰囲気の変化を受けて将官たちはあちこちへと急ぎ、切迫した危険を見て取ると数で劣る敵の攻撃から野営地を守れないようなことはあってはならないと兵士たちを叱責した。双方で突撃と射撃の応酬があり、双方で多くの勇敢な振る舞いがあった。夷狄が胸墻の中から飛び出て剣を抜いてこの角から侵入者を撃退しようとすると、ローマ軍は楯で身を守って野営地の一角を粉砕した。補佐幕僚〔トリブヌス・ミリトゥム〕バシルスが最初に飛び込んで彼の前面にいた兵士を殺すまでは誰も敢えて入ろうとはしなかった。次いで全軍が彼に続いた。夷狄の敗走と殺戮が続いて起こった。 一部は捕らえられて他は隣接する湖へと押し出され、泳ぎ方を知らなかったために夷狄の言葉で慈悲を請うも彼らの言葉を知らない殺戮者に殺された。アルケラオスは沼地へと向かい、そこで一隻の小舟を見つけてカルキスへと到着した。散り散りになったミトリダテス軍の生き残りを彼は急いで呼び寄せた。

8巻
51 翌日スラは補佐幕僚バシルスを讃えて他の者には勇気への褒美を与えた。彼は一方から他方へとコロコロ寝返っていたボイオティアを荒らし、次いでテッサリアへと移動して越冬し、ルクルスと彼の艦隊を待った。ルクルスが音信不通だったために彼は自ら船を建造し始めた。この時期に母国での彼の政敵、〔ルキウス・〕コルネリウス・キンナとガイウス・マリウスが彼をローマ人の敵と宣言して市内と郊外の彼の家々を破壊し、彼の友人たちを殺した。しかしスラは熱心で忠実な軍を持っていたために彼の立場はこれで少しも弱まらなかった。キンナは自分のおかげで同僚執政官に選ばれた〔ルキウス・ウァレリウス・〕フラックスをアジアへと今や国賊として宣言されていたスラの地位に就いてその地方とミトリダテス戦争の一切合切を任せるべく二個軍団を付けて送った。フラックスは戦争の技術に関しては未経験であったため、軍事に熟練した〔ガイウス・フラウィウス・〕フィンブリアという名の元老院議員の地位の人物が義勇兵として彼に同行した。彼らがブルンドゥシウムから出航すると多くの船が嵐で破壊され、先行して向かっていた船はミトリダテスが送ってきた新手の軍に焼き払われた。さらにフラックスは悪党であり、罰のむごさと貪欲のために全軍から憎まれていた。したがってテッサリアへと送られた彼らの一部はスラに寝返ったが、フィンブリアは残りを逃亡しないよう押しとどめたわけだが、それは彼らが彼をフラックスよりも人道的で将軍に相応しいと思っていたからだ。
52 一旦宿に着くと、フラックスは財務官〔フィンブリア〕と何をすべきかを議論した。彼らのうちで決定者として振る舞っていたフラックスはフィンブリアの言うことにあまり関心を示さず、後者は腹を立てて自分はローマへ帰ると脅した。したがってフラックスは彼が責任を持っていた任務を遂行する後任を指名した。フィンブリアは機を見て、フラックスがカルケドンへと航行すると、軍があたかも彼自身に指揮権を与えたかのようにフラックスが法務官として残していたテルムスから真っ先にに軍を取り上げ、フラックスがすぐに戻ってきて彼に怒ると、フィンブリアは彼を追い出した。フラックスはある民家に逃げ込んで夜に城壁に上ってまずカルケドンへ、その後にニコメディアへと逃げて市の門を閉ざした。フィンブリアはその地を制圧してうまく隠れていた彼を見つけると、彼がローマの執政官であり、この戦争の総司令官であり、そしてフィンブリア自身は客として同行していた一私人でしかなかったにもかかわらずこれを殺した。フィンブリアは彼の首を刎ねて海に投げ込み、残りの遺体を埋葬しないまま野晒しにした。次いで彼は自らを軍の司令官に任命してミトリダテスの息子との戦いで幾つかの勝利を得た。彼は王その人をペルガモスへと追い払った。後者はペルガモスからピタネへと逃げた。フィンブリアは彼を追って壕のある場所へと封じ込めようとした。そこで王は船でミテュレネへと逃げた。
53 フィンブリアはアジア属州を回ってカッパドキア派に懲罰を加えて彼に門を開かなかった町々の領地を荒らした。フィンブリアによる包囲を受けたイリオンの住民はスラに救援を求めた。後者は自分は向かうつもりであると言い、彼らはスラにすでに身を委ねたとフィンブリアに述べるように言った。フィンブリアはこれを聞くと、彼らがすでにローマ人の友人となっていることを喜び、自分もまたローマ人であるからには城壁の内に自分を招き入れるよう命じた。彼は皮肉な調子でイリオンとローマの縁戚関係について言いもした。迎え入れられると彼は見境のない殺戮を行って町の全域を焼き払った。スラと連絡を取っていた人たちを彼は様々なやり方でいたぶった。彼は神聖な文物もアテナ神殿に逃げ込んだ人たちも容赦せず、神殿もろとも彼らを焼き殺した。彼は城壁を破壊し、翌日にはまだ手つかずになっている場所がないか探した。その都市はアガメムノンによってなされた以上の狼藉を縁戚の一人によって受けたわけであり、家も神殿も像も残されなかった。パラディオンと呼ばれ、天から降ってきたとみなされていたアテナの画像は倒れた城壁がそれの上に弓状に覆いかぶさっていたために損なわれないままで見つかり、ディオメデスとオデュッセウスがトロイア戦争の時にイリオンから運び出したのではない限りこのことは真実であろうと幾人かの人たちは述べている。フィンブリアによるイリオンの破壊はオリュンピア会期の終わり頃であった。ある人たちはこの災難とアガメムノンの手による災難との間は一〇五〇年であったとと考えている。
54 オルコメノスでの敗北を聞くと、ミトリダテスは最初にギリシアに送っていた数多くの兵士のこと、そして彼らに降り懸かった継続的で素早い災難のことを考えた。したがって彼はできる限り良い条件で講和するようアルケラオスに手紙を送った。後者はスラと会談してこう言った。「おおスラよ、ミトリダテス王は貴下のお父上の友人ですぞ。彼は他のローマの将軍たちの貪欲さを通じてこの戦争に関わりました。もし貴下が公平な条件を認めるおつもりでしたら、陛下は貴下の有徳な性格を和平のために当てにすることでしょう」スラは船を持っておらず、ローマにいた彼の敵は彼に資金も何も送ってこず、彼を法の保護の外にあらざる者と宣言しており、彼はすでにピュティア、オリュンピア、エピダウロスの神殿から獲得した金を費やしており、その見返りとして彼はテバイの頻繁な離反のためにテバイ領の半分をそれらの神殿に割り当てていた。そして彼は軍を祖国の政敵に対抗するために元気で無傷にしておこうと焦っていたため、彼はその提案に同意して言った。「もしミトリダテス殿に不正が働かれたというのであれば、アルケラオス殿、他人のものである大きな領土を侵略することで悪事を働き、多くの人を殺し、諸都市の公費と神聖な金品を奪取し、そして破壊した諸都市の私有財産を奪い取る代わりにいかなる被害を受けたのかを示すための使節を送るべきだ。彼は我々に対するのと同じくらいに友人に対して不正実であり、彼は自分が宴の場で和解させた〔ガラティアの〕四人の君主、その妻子を含む多くの人を何も害を及ぼしていなかったにもかかわらず殺したではないか。我々に対して彼は戦争の必要性というよりもむしろ生来の敵意によって動き、イタリア人とアジア中にありとあらゆる災厄をもたらし、我々と同じ人種の全ての人を妻子と召使いもろとも虐げて殺したのだ。かような憎悪をイタリアへと向けているこの男がこの期に及んで私の父との友好を口にするとは! 私は貴殿の兵一六万人を壊滅させるまではそのような友情は思い出せない。
55 和平を論じるのではなく、その代わりに我々は徹頭徹尾彼を容赦してはならない。貴殿のために私は、もし彼が後悔するならば、ローマからの彼への許しを得ようとするつもりである。しかしもし彼が再び偽善者のふりをするならば、私はアルケラオス、貴殿には貴殿自身のことを顧慮するよう忠告しよう。貴殿と彼との間に目下ある事情がどうなっているのか考えてもみてくれ。彼が彼の他の友人たちをどのように遇したのか、我々がエウメネスとマシニッサをどのように扱ったのかを思い浮かべてもみてくれ」スラがまだ話しているうちにアルケラオスは怒りながらその申し出を拒絶し、自分は一軍の指揮権を自分に与えてくれた人を裏切るつもりはないと行った。「私は望むのだが」アルケラオスは行った。「もし貴下が適当な条件を申し出てくれるのならば、それを受け入れよう」短い間隔の後、スラは言った。「もしミトリダテス殿が我々に手持ちの全艦隊を明け渡し、彼が我々の将軍と使節と全ての捕虜、逃亡兵、そして脱走奴隷を引き渡し、キオスと彼がポントスへと連行した他の全ての人々を母国に返し、敵対行動を始める前に持っていた土地を除く全ての土地から守備隊を引き上げさせ、彼のために被った戦費を支払い、父祖の支配地に満足するならば、私は彼がローマ人に与えた被害を覚えないでいるよう彼らを説得したいと思うだろう」スラが提示した条件は以上のようなものであった。アルケラオスはすぐに保持していた全ての土地から守備隊を撤兵させて王にその他の条件を知らせた。その間の時間を利用するためにスラはエネトイ族、ダルダノイ族、シントイ族といったマケドニアと境を接し、その地方へと絶えず進入しては領地を荒らしていた諸部族に向けて進軍した。このようにして彼は兵士を訓練し、同時に豊かにした。
56 ミトリダテスからの使節団がパフラゴニアに関する条件を除く全ての条件の批准を携えて戻ってきて、彼らは「もし他の将軍、フィンブリアと交渉すれば」ミトリダテスはもっと良い条件が適用されても良いはずだと付け加えた。スラは彼がそのような対比を持ち込まれたことに怒り、自分はフィンブリアを罰して自らアジアに乗り込んでミトリダテスが和平なり戦争を求める様を拝んでやると言った。したがってこう言うと彼は、ルクルスが何度も海賊によって捕らえられる危険を冒しつつもついに到着したために彼をアビュドスへと送った後にトラキアを通ってキュプセラへと進軍した。彼はキュプロス、フォイニキア、ロドス、そしてパンヒュリアの船から構成される艦隊を集めて敵の沿岸地帯を荒らし、道中ミトリダテスの艦隊と小競り合いをした。次いでスラはキュプセラから、そしてペルガモンからミトリダテスの方へと前進して会談の席を設けた。各々は小部隊を連れて両軍に近い平野へと向かった。ミトリダテスは自らと父の友人とローマ人との同盟についての話で口火を切った。次に彼はアリオバルザネスをカッパドキアの王位に据え、フリュギアを取り上げ、ニコメデスが彼に悪事を働くのを許したことを取り上げて彼に被害を与えたローマの使節たち、評議員、将軍たちを非難した。「この全てを」彼は言った。「彼らは私から金を取って彼らから見返りを受けるために、金のためにしたのだ。ああローマ人よ、金の亡者め、貴殿らの大部分がこの非難を免れることはない。貴殿らの将軍の行動によって戦争が起こった時、私がした全てのことは自衛であり、それは意図というよりも必要性の結果なのだ」
57 ミトリダテスが話し終えるとスラは答えた。「貴殿が我々のことをそのように呼ぼうとも」彼は言った。「別の目的、つまり我々の講和条件を受け入れるために、私はそういった問題について述べるのを手短に済ますことを拒むべきではあるまい。私がキリキアの統治者となり、貴殿が元老院の布告に従った時、私はその布告によってアリオバルザネスをカッパドキアの王位に復帰させた。貴殿はそれに反対してその理由を示すか、ずっと平和を保つかべきであった。マニウスはフリュギアを賄賂のために貴殿に与え、貴殿はその罪の片棒を担いでいるわけだ。貴殿が認めた買収によって得たというまさにその事実によって貴殿はフリュギアへの権利を持っていないことになる。マニウスが金のためにした他の罪状でローマで裁判にかけられて元老院はそれら〔マニウスの決定〕全てを無効にした。このような理由で彼らは貴殿に不正に与えられたフリュギアはローマの属国ではなく、自由であるべきだと結論したのだ。もし戦争によってそれを得た我々がそこを統治するのが最善ではないと考えるのならば、一体何の権利があって貴殿はそこを保持するのか? ニコメデスは自分にアレクサンドロスという名の暗殺者、次いで王国の競合する請求者ソクラテス・クレストスが差し向けられ、そして自身が貴殿の領地に攻め込むことでそれらの悪事に対して報復を行ったのだとして貴殿を非難している。しかし、仮に彼が貴殿に悪事を働いたのだとしても、貴殿はローマに使節を送って返答を待つべきだったのだ。しかし貴殿がニコメデスに対して速やかな報復をしたとしても、何故に貴殿に何ら害を及ぼしていないアリオバルザネスを攻撃したのだ? 彼をその王国から追い出した時に貴殿はそこにいたローマ人たちに彼を復帰させる必要性を課したのだ。彼らがそれをするのを妨げたことによって貴殿は戦争を起こしたわけだ。ローマ人を征服した暁には全世界を支配せんとして貴殿は長らく戦争を続けていたのであり、貴殿が述べる理由は真意を覆い隠すための単なる口実以上のものではない。貴殿がどの国とも戦争状態にないにもかかわらず、トラキア人、サルマティア人、スキュタイ人を同盟者とし、隣接する諸王からの援助を求め、海軍を建造し、操縦士や舵手を徴募したことがその証拠だ。
58 貴殿が選んだ時が貴殿にその裏切り行為のほとんど全ての有罪判決を下した。イタリアが我々から解放されたことを聞いた時、貴殿は我々がアリオバルザネス、ニコメデス、ガラティアそしてパフラゴニア、仕舞には我々のアジア属州を襲う好機を掴んだ。それらを奪取した時に貴殿は諸都市にありとあらゆる狼藉を働き、奴隷を解放して他の者の借金を帳消しにし奴隷と債務者にそれらの支配を任せた。ギリシア人の都市で貴殿は無罪の罪で一六〇〇人を亡き者にした。貴殿はガラティアの四君主を宴の席に呼んでこれを殺した。貴殿はイタリアの血が流れている住人を神殿に逃げ込んだ者であろうと容赦せず一日で皆殺しにして溺死させた。何たる残忍さ、何たる不敬虔、何という途方もない憎悪を貴殿は我々に示したことか! 犠牲者全員の財産を没収した後、貴殿はアジアの全ての王にヨーロッパの侵略を禁じていたはずなのに大軍と共にヨーロッパへと渡った。貴殿はマケドニア属州を侵略してギリシア人から自由を奪った。貴殿はこれを悔いることなく、私がマケドニアを取り返してギリシアを貴殿の手から取り戻して貴殿の兵士一六万人を撃滅し、彼らの野営地を全て我々のものにするまで、アルケラオスに貴殿との仲裁をするようにと言わなかった。私は今貴殿がアルケラオスを通して許しを求めるために自分の行いを正当化していることに驚いる。もし貴殿が遠くにいる私を恐れているのならば、貴殿は私が貴殿と話し合いの席を設けるために隣まで来たと考えるのか? 貴殿が我々に武器を向けた間に過ぎ去った時間、我々は貴殿の攻撃を懸命に撃退してそれらに引導を渡したのだ」スラがまだ激烈な調子で話していた間に王は涙を流してアルケラオスを通して提示された条件に同意した。彼は船と〔戦争に〕必要な他のあらゆるものを引き渡し、彼の唯一の所有物としての父祖伝来のポントス王国に戻った。かくしてミトリダテスとローマ人との最初の戦争はこのようにして終結したのであった。

9巻
59 スラはフィンブリアの二スタディオン以内まで進軍し、違法に指揮権を持っているフィンブリアは軍を引き渡すよう命じた。フィンブリアはスラ自身が目下のところ合法的に指揮権を持っていないではないかと冗談じみた調子で答えた。スラはフィンブリアの周りに壁の列を組み、後者の兵の多くがおおっぴらに脱走した。フィンブリアは残りの兵士を呼び集めて自分の許に留まるよう求めた。彼らが同胞市民と戦うのを拒むと彼は自分の衣服を引き裂いて彼らの一人一人に懇願した。彼らがすでに自分から離れていて、それどころか見捨ててもいたため、彼は幕僚たちの天幕を回って金でその一部を買収し、再び集会を召集して彼らに彼の側に立つように宣誓させた。買収された人たちは皆が自分の名にかけて誓約うために呼ばれるべきだと大声で叫んだ。彼は過去の好意のために彼に義務を負っていた人たちを召還した。最初に名前が挙がったのは彼の側近だったノニウスだった。彼が誓約すら拒否すると、フィンブリアは剣を抜いて彼を殺すと脅し、他の人たちの囂々たる非難で脅かされて止めざるを得なくなっていなければ彼は実際にそうしていたことだろう。それから彼はスラの許へと逃亡兵のふりをして行き、これを暗殺させるために一人の奴隷を金と解放の約束で雇った。その奴隷はその仕事をする段になると彼は臆病風に吹かれてそのために疑いわれてしまい、逮捕されて白状した。フィンブリアの野営地の周りに配置されていたスラの兵たちは彼への怒りと軽蔑で一杯になった。彼らは彼を解放し、数日の間シケリアで一時逃亡奴隷の王になっていた人物が持っていたアテニオというあだ名を彼に与えた。
60 そこで絶望して防壁線へと向かったフィンブリアはスラとの会談を求めた。後者は代わりにルティリウスを遣ってきた。フィンブリアは自分が敵に対してすらなされる会見に値しないという結果に落胆した。彼が自身の若さ故の攻撃への許しを乞うと、ルティリウスは、スラは自分が総督になったアジア属州からフィンブリアが船に乗って出ていけば、海路で去る許しを与えるだろうと約束した。彼はペルガモスへと向かってアスクレピオスの神殿に入り、剣で自らを突き刺した。致命傷にはならなかったために彼は奴隷に武器を差し込むよう命じた。後者は主を殺し、それから自らも自害した。このようにしてミトリダテスに次いで最もアジアに深刻な被害をもたらしたフィンブリアは世を去った。スラは、自分はローマで多くの人の命を奪ってその人たちを死後に埋葬しなかったキンナとマリウスの例に倣うつもりはないと言い添えてフィンブリアの遺体を埋葬のために彼の解放奴隷に渡した。フィンブリアの軍はスラの許へとやってきて、スラはこの軍と誓約を交わして自軍と合体させた。次いでスラはクリオにビテュニアにニコメデスを、カッパドキアにアリオバルザネスを復位させるよう命じ、自らが国賊として票決されたという事実を知らぬふりをしつつ元老院に万事を報告した。
61 アジアの問題にけりをつけると、スラは協力への報償ないし彼のために勇敢に骨折りをしたことへの返礼としてイリオン、キオス、リュキア、ロドス、マグネシア及びその他の住民に自由を与え、彼らをローマの人々の友人として記した。次いで彼は残りの町々に軍を分け、ミトリダテスによって解放された奴隷はすぐに主人の許へと帰るべしとの布告を発した。多くの都市が従わず、都市の一部は反乱を起こしたため、様々な口実のもとで自由民と奴隷双方のうちで苛烈な殺戮が起こった。多くの町の城壁が破壊された。他の多くの町は略奪を受けて住民は奴隷として売り払われた。カッパドキア派は人にせよ都市にせよ厳しく罰せられ、とりわけ王への卑屈な世辞と共に神殿で侮辱しながらローマ人の命乞いを無下に扱ったエフェソス人が顕著であった。この後、指定された日にスラと会談するために主要な市民にエフェソスへと来るよう命じる一つの布告が周辺に送られた。彼らが集まると、スラは壇上から彼らに以下のような話を述べた。
62 「我々はシュリア王アンティオコスが貴殿らを略奪していた時に軍と共に最初にアジアへとやってきた。我々は彼を追い払ってハリュス川とタウロス山の向こう側へと彼の支配圏の境界を定めた。我々は彼から貴殿らを取り返した時に貴殿らの財産を保持させて自由を与え、戦争にあっての我々の同盟者エウメネスとロドス人に属国としてではなく、庇護者として僅かな土地を与えたのがその例外である。リュキア人がロドス人に異議を申し立てた時に我々が彼らから権力を奪ったことがこの証拠である。我々が貴殿らにしたことはかくの如きものであった。他方で貴殿らはアッタロス・フィロメトルが自らの意志で我々に王国を遺贈した時、我々と四年間対立していたアリストニコスに助けを差し伸べた。必要と恐怖に迫られて貴殿らの大部分を占領した時に我々は貴殿らの義務への返礼をしたのだ。これら全てにもかかわらず、二四年の年月の後、貴殿らが大変な繁栄と栄華を享受して公も私も再び安楽と奢侈によってのぼせ上がっていた間、我々はイタリアで手一杯になっていて、貴殿らの一部はミトリダテスを呼び込んで他の者は彼が来た時には手を組んだのだ。全てのことのうちで最も悪名高いことは貴殿らの共同体の中にいた全イタリア人を女も子供も一日のうちに殺すようにという彼の命令に従ったことだ。貴殿らは貴殿ら自身の神々に捧げられた神殿に逃げ込んだ人すら容赦しなかった。貴殿らはこの罪科への罰を、貴殿らとの信義を破って強奪と殺戮をほしいままにして貴殿らの土地を再分配し、貴殿らの奴隷を解放して貴殿らの一部の者に対する僭主に任じ、陸でも海でもあらゆる場所で強奪を働いたミトリダテスその人から受けたのだ。そのような次第で貴殿らが以前の守護者の代わりに選び取った守護者がどんな者であるのかを実験と比較とによってすぐに学んだのだ。それらの罪の先導者は貴殿らに罰をももたらしたのだ。貴殿ら皆には貴殿らに共通の罪と寝返りに相応の何かしらの罰がさらに科される必要があるだろう。だが、ローマ人は無慈悲な殺戮、見境のない財産没収、苛烈な暴動あるいは他の野蛮な行為をしようなどとは毫も考えぬだろう。私はローマ人へのかねてよりの親愛の呼び声の高さのために今のところはギリシアの民族とアジアでかくも名高いその名を寛恕するつもりでさえいるわけで、私は自分のために膨らんだ戦費の即時支払い並びに属州での問題の解決にあたってかかるであろう資金のために五年間の税を課すだけにしておこう。私は貴殿らの各々の都市に応じた責務を割り当て、支払期間を定めるつもりでいる。従わなければ私は敵に対するように罰を与えるべく参上する次第である」
63 かくして話を終えるとスラは五人の代表者を任命して金の徴収に向かわせた。諸都市は貧困にあえいでいたため、兵士たちによって傲慢な物言いでの要求を受けて高利で金を借りて劇場、運動場、港そして他のあらゆる公的資産の破片を抵当に入れた。こうして金が集められてスラへと運ばれた。アジア諸州は悲惨に満ち溢れた。そこは略奪集団というよりはむしろ正規の艦隊のような大勢の海賊によって大っぴらに攻め立てられていた。ミトリダテスは沿岸全域を荒していてそれらの地方はもはや保持できまいと考えた時、まずその船団を艤装させていた。その数は大いに増していってが船だけにとどまらず港、城館、そして都市も大っぴらに襲うようになった。彼らはイアソス、サモスそしてクラゾメナイ、またスラがその時滞在していたサモトラケも占領し、彼らは一〇〇〇タラントンの値の装飾品をその地の神殿から奪ったと言われた。ひょっとしたらスラは自身を攻撃した者は懲らしめられるべきであると望んだためか、あるいはローマの対立党派を急いで押さえつけるつもりであったかで彼らを放っておいてギリシアへと航行し、そこから軍の大部分を率いてイタリアへと向かった。そこで彼がしたことについては私は内乱についての史書で述べておいた。
64 第二次ミトリダテス戦争は以下のようにして始まった。アジアの残りの問題を解決するべくスラによってフィンブリアの二個軍団と共に残されていたムレナは凱旋式への野心のために戦争のための些末な口実を探した。ミトリダテスはポントスに戻った後、コルキス人と彼に反旗を翻したキンメリアのボスポロス周辺の諸部族と戦争をした。コルキス人は彼の息子ミトリダテスを彼らの支配者とするよう頼み、彼がそうするとすぐに忠誠へと立ち戻った。王はこれは息子が王になろうという野心のために仕組んだことなのではないかと疑った。したがって彼は息子を呼び寄せてまず黄金の足かせで捕縛し、彼はフィンブリアとの戦いにおいてアジアでよく尽くしてくれていたにもかかわらずすぐさま殺した。ボスポロスの諸部族に対して彼は艦隊を建造して大勢の陸軍を準備した。彼の準備の大仰さは、彼は未だカッパドキアの全域をアリオバルザネスに返還せずその一部を保持していたためにそれらの部族ではなくローマ人に対してその準備を行ったのではないかという信念の元になった。また彼はアルケラオスに疑念を持っていた。ミトリダテスは後者がギリシアでの交渉でスラに対して必要以上に譲歩したと考えていたのだ。アルケラオスはこれを聞くと警戒してムレナの許へと逃げ、彼の所で働くことでミトリダテスに対して先手を打って対立の口火を切るよう説き伏せた。ムレナはカッパドキアを経由して突如としてミトリダテスに属していた非常に大きな地方都市であり、再建された豊かな神殿があったコマナを攻撃し、王の騎兵部隊の一部を殺した。王の使節団が協定を訴えると彼は自分は協定など知らないと答えた。というのもスラはそれを文書として書かず、条項を行動でもって順守した後に立ち去っていたからだ。ムレナはその答えを送ると、神殿の金すら容赦しない強奪を始め、カッパドキアへと越冬に向かった。
65 ミトリダテスはムレナの行動の苦情を言うべく元老院とスラに使節を送った。その時、後者は雨で増水して渡河が非常に困難になっていたハリュス川を渡っていたところだった。彼はミトリダテスに属していた四〇〇の村を占領した。王は抵抗せずに使節の帰りを待ち続けた。ムレナは略奪品を曳いてフリュギアとガラティアへと戻った。そこで彼はミトリダテスの苦情のためにローマから送られていたカリディウスと会った。カリディウスは元老院の命令を持ってきたわけではなく、元老院は彼は協定を破棄しないので王を苦しめてはならないと命じたと皆に宣言して言い聞かせた。こう述べた後に彼はムレナ一人に会って話をした。ムレナは暴虐ぶりを和らげずに再びミトリダテスの領地を侵した。後者は開戦はローマ人の命令だと考えて将軍ゴルディオスに彼らの村々への報復を指示した。ゴルディオスはすぐさま多くの獣〔家畜〕と他の財産、私人であろうと兵士だろうととにかく人を奪取して運び出し、ムレナその人に対して川を挟んで対陣した。いずれもミトリダテスが大軍と共にやってくるまで戦端を開かず、ミトリダテスが来るとすぐに川の両端で激戦が起こった。ミトリダテスが勝利して川を渡り、ムレナに対して決定的に優勢に立った。後者はある強固な丘まで退却し、そこで王は彼を攻めた。多くの兵を失った後にムレナは道なき道を通ってフリュギアの山脈へと逃げ、敵の飛び道具によって大いに悩まされた。
66 この素晴らしくも決定的な勝利の知らせは速やかに広まり、多くの人をミトリダテスの側へと奔らせた。後者はムレナの守備隊の全てをカッパドキアから追い出し、彼の国の以下のような習慣に従って高い丘にそびえ立つ木の山にあるゼウス・ストラティオスに犠牲を捧げた。まず、王たち自身がその山へと木を持っていく。それから彼はより小さい杭で他の大きな一本の杭を囲ませ、それに牛乳、蜂蜜、葡萄酒、油、そして様々な種類の香料を注ぐ。パサルガダイのペルシア王の犠牲式でのように、参加者に振る舞うためにご馳走が地面の上に広げられ、彼らはその木に火を放つ。火柱の高さは海から一〇〇〇スタディオン離れていても見えるほどで、熱のために数日の間は誰もその近くには来れないと言われている。ミトリダテスは彼の国の習慣に則ってこの王が行う犠牲式を執り行った。スラは、ミトリダテスが協定を冒さなければ、ミトリダテスに対する戦争は正当にはならないと考えた。ミトリダテスと戦うべからずという以前の命令は真摯に実施され、ミトリダテスとアリオバルザネスとを和解させるべしとムレナに話すためにアウルス・ガビニウスが送られた。彼らの間での会談でミトリダテスは四歳だった彼の幼い娘をアリオバルザネスに嫁がせ、その時彼が占拠していたカッパドキアの一部のみならず、これに加えて他の部分も保持することを要求する論拠を手直しした。それから彼は皆のために宴を開き、習わし通りに飲酒、大食い、冗談、歌等々で秀でていた者に賞金を出し、その中で参加しなかったのはガビニウスだけだった。かくしておよそ三年間続いたミトリダテスとローマ人との戦争〔第二次ミトリダテス戦争〕は終結を見た。

10巻
67 今や手が空いたミトリダテスはボスポロスの諸族を平定し、息子の一人マカレスを彼らの王に任命した。次いで彼はトロイア戦争からの帰国時に退路を失った者の子孫であると考えられていたコルキスの向こうのアカイア人を攻撃したが、軍のうち二つの部隊を、一部を戦いで、一部を気候の厳しさのために、そしてさらに計略のために失った。帰国すると彼はローマ人に条約への調印のために使節を送った。同時にアリオバルザネスは自らの考えないし他の者からの唆しのためにカッパドキアが自分に譲渡されておらず、その大部分は未だミトリダテスに保持されていると主張する手紙をそちらへと送った。スラはミトリダテスにカッパドキアを放棄するよう命じた。彼はその通りにし、次いで今一度条約への調印のために使節を送った。しかしまさに丁度その時にスラは死んでしまい、元老院は別のことで手いっぱいだったために法務官たちはそれら〔条約への調印〕を認めなかった。かくしてミトリダテスは義理の息子ティグラネスに彼自らの責任においてカッパドキアへと攻め込むよう説き伏せた。この巧みな工夫はローマ人には通用しなかった。そのアルメニア王はカッパドキアに包囲網を敷いておよそ三〇万人の人を引きずり出し、彼らを自らの国に連行して住まわせ、彼がアルメニアの王冠を最初に帯びた場所を彼自らにちなんでティグラノケルタ、つまりティグラネスの町と呼び慣わした。
68 それらのことがアジアで起こっていた一方で、ヒスパニアの支配者セルトリウスはその属州と全ての近隣地方をローマ人に対する反乱へと立ち上がらせ、ローマの元老院を真似て仲間のうちから元老院議員を選び出した。彼の党派の二人の成員、ルキウス・マギウスとルキウス・ファンニウスはアジアの属州の大部分と近隣諸国を獲得するという希望を持たせつつ、ミトリダテスにセルトリウスとの同盟を提案した。ミトリダテスはこの提案に賛同してセルトリウスに使節団を送った。後者は彼らを自分の元老院へと案内して自らの名声がポントスにまで及んでいること、今やローマ人勢力を東西からを包囲することができるようになったことを祝った。かくして彼はミトリダテスにアジア、ビテュニア、パフラゴニア、カッパドキア、そしてガラティアを譲渡する条約を彼と結び、ミトリダテスのところに将軍としてマルクス・ウァリウスを、相談役としてマギウスとファンニウスという二人のルキウスを送った。彼らに補佐されてミトリダテスはローマ人との三度目の、そして最後の戦争を開始してその過程で自らの全王国を失い、セルトリウスはヒスパニアで命を落とした。二人の将軍がローマからミトリダテスに向けて送られ、その一人目はスラの下で艦隊指揮官として勤務していたルクルスであり、二人目のポンペイウスはその権能の全てを使い、エウフラテス川までの隣接する領地をミトリダテス戦争を口実として余勢を駆ってローマの支配下に置いた。
69 ミトリダテスはローマ人と対立することになったため、かくも弁解の余地がなく急いで始まったからにはこの戦争は容赦ないものになるであろうと知った。彼は全てがかかっていると考えて準備をした。残りの資金と冬の全期間を彼は材木を切り倒して船を建造し、武器を作るのに費やした。彼は二〇〇万メディムノスの穀物を沿岸沿いに配分した。かねてより持っていた軍に加えて彼はカリュベス人、アルメニア人、スキュタイ人、タウロス人、アカイア人、ヘニオコイ人、レウコシュロイ人、そしてアマゾン人の国と呼ばれるテルモドン川あたりの土地を占める人々を同盟者としていた。彼の以前からの戦力にはアジアからの戦力が加えられていた。ヨーロッパから彼はバシリダイ族とイアジュゲス族、コラロイ族といったサルマティア諸部族とダヌビオス川沿いとロドペとハイモスの山脈に住むトラキア人、彼らに加えて全ての者のうちで最も勇敢なバスタルナイ族を得た。ミトリダテスはしめて一四万人の歩兵と一六〇〇〇騎の騎兵という戦力を徴募した。大人数の道路建設者、荷物運び、そして従軍商人が続いた。
70 春の初め、ミトリダテスは海軍の試行を行い、慣習通りゼウス・ストラティオス、ポセイドンに海中に馬ごと戦車を沈めて犠牲を捧げた。次いでパフラゴニアに対してタクシレスとヘルモクラテスという軍の指揮権を持った二人の将軍と共に急いで向った。そこに到着すると彼らは兵士に向って演説をし、父祖をそしてなおさら彼自身を讃えていかにして彼の王国が始めのちっぽけな状態から大きくなったのかといかにして彼の軍隊が目下ローマ人に敗れてきたのかを示した。彼は貪欲で「かようなまでに」権力に飢えたローマ人を非難し、「彼らはイタリアとローマそのものを隷属化してきたのだ」と言った。彼は最新の、そしてまだ現行の条約への背信の廉で彼らを非難し、彼らはそれを再び侵害する機会を見て取っていたので署名しようとしなかったと述べた。こうして戦争の理由を示した後、彼は軍の編成と装備、そしてヒスパニアでセルトリウスと難戦を繰り広げ、イタリア中が内紛で引き裂かれていたローマ人〔の状況〕について述べた。「このために」彼は言った。「彼らは長年海を海賊のなすがままにしてきたのであり、一国の同盟国も自発的に彼らにまだ従っている属国も持っていないのだ。「お前たちはは知らないのか?」彼は続けた。「彼らの中の最も高貴な市民たち(ウァリウスと二人のルキウスを指す)は彼ら自身の国との戦争状態にあり、そして彼らは我々と同盟していることを?」
71 演説を終えて軍を奮い立たせると彼はビテュニアに侵攻した。最近子供を残さずに死んだニコメデスは王国をローマ人に遺贈していた。そこの支配者〔マルクス・アウレリウス・〕コッタは全く戦いに向かない人物であった。彼はカルケドンへと手持ちの軍と共に逃げた。したがってビテュニアは再びミトリダテスの支配下に置かれた。〔近隣に住んでいた〕ローマ人は方々からカルケドンのコッタのところまで群がってきた。ミトリダテスがその地に着いてもコッタは軍事には無経験であったために彼に立ち向かおうとはしなかったが、海軍指揮官ヌドゥスは陸軍の一部を率いて平地の非常に強力な地点を占めた。しかし彼は撃退され、カルケドンの城壁の門まで逃げてそこで動きを封じられた。同時に〔門から市内に〕突入しようとした軍〔ポントス軍〕と門で白兵戦が起こり、そのために追撃者は〔敵味方の〕見分けがつかず投擲兵器を放たなかった。門の守備兵は市〔に敵兵が突入してくるの〕を恐れ、仕掛けで門を閉ざした。ヌドゥスと他数人の将官たちは縄で引き上げられた。残った者は各々手を挙げて懇願しながら友軍と敵軍の間で殺されていった。ミトリダテスはこの勝利を巧みに利用した。彼は同日に艦隊を港へと向かわせ、〔港の〕入り口を封鎖していた青銅の鎖を断ち切って敵船四隻を焼き払って残りの六隻を曳いていった。ヌドゥスもコッタも城壁の内側に閉じこもっていたために抵抗しなかった。ローマ軍は元老院議員の地位にあったルキウス・マンリウスを含むおよそ三〇〇〇人を失った。ミトリダテスは港へ最初に突入したバスタルナイ族二〇人を失った。

11巻
72 執政官とこの戦争の将軍に選ばれたルキウス・〔リキニウス・〕ルクルスはローマから一個軍団の兵士を率い、〔ガイウス・フラウィウス・〕フィンブリアの二個軍団と合流した。他の二個軍団も加えると総勢歩兵三〇〇〇〇人と騎兵一六〇〇騎になり、これと共にキュジコスのミトリダテスの陣営の近くに設営した。脱走兵から王の軍はおよそ三〇万人であらゆる物資が徴発隊によって供給されるか海路で来ていることを知ると、〔ルクルスは〕周りにいた者に戦わずして直ちに敵を弱らせてみせると言い、この約束を覚えているように言った。野営に適した山を見て取ると、そこは彼が直ちに補給を得ることができ、敵の補給線を切断することができる場所であったため、彼は危険を冒すことなく勝利を得るためにそこを占領しようと動いた。一つの狭い道しかそこに通じる道はなく、ミトリダテスは強力な守備隊でそこを保持していた。彼はタクシレスと他の家臣からそうするよう忠告されていたのだ。セルトリウスとミトリダテスの同盟を成し遂げたルキウス・マギウスはセルトリウスが死んだため、ルクルスとの秘密連絡を明らかにし、誓約で保障してローマ軍が道を通って彼らが望む場所に野営するのを見過ごすようミトリダテスを説得した。「フィンブリアの二個軍団は」彼は言った。「逃げたいと思っていますし、すぐにでも陛下の許に来ることでしょう。陛下が戦わずして敵を征服できれば、戦いと流血をどこで使うことがありましょうや」。ミトリダテスは不注意にも疑わずにこの忠告に賛成した。彼はローマ軍が邪魔されることなくその道を通り、彼の正面の大きな丘に防備を施すのを許してしまった。そこを奪取すると、ローマ軍は難なく近隣から物資を運ぶことができるようになった。他方、ミトリダテスは苦労しながら確保された時々来る物資を除いて内陸の全ての糧秣から湖、山々、そして川によって切り離されてしまった。彼は簡単に脱出できず、優位に立っていた時には軽んじていた地形の困難さのためにルクルスを破ることもできなかった。その上、今や冬が到来してすぐに海からの物資補給は中断された。その状況を眺めると、ルクルスは友人たちに約束を思い出させ、現に予測の通りになっただろうと示した。
73 多分ミトリダテスはその数倍の兵力で敵の戦列を突破することさえできたにもかかわらずそれをせず、位置の悪さと物資の欠如の両方を打破できると考えて用意していた兵器でキュジコスの包囲を行った。彼は豊富な数の兵士を持っていたためにあらゆる可能な方法を使って包囲を行った。彼は海に面する二重の壁で港を封鎖して市の残りの部分を塹壕で囲んだ。彼は土累を作り、攻城装置、塔、そして亀〔破城槌を上から落とされるものから守る屋根〕で守られた破城槌を作った。彼は一〇〇ペキュスの高さの一台の攻城兵器を作り、それに石とありとあらゆる矢玉を放つカタパルトが備え付けられたもう一つの塔を乗せた。連結された二隻の五段櫂船が港へともう一台の塔を運んできて、それらが壁に近づくとその塔から機械仕掛けで橋が突き出た。全ての準備が完了すると彼は手始めに市へと捕らえていた三〇〇〇人のキュジコス住民を送った。彼らは両手を上げて城壁へ向けて嘆願し、同胞市民にこの危険な状況から助けてくれるよう懇願したが、キュジコスの将軍ペイシストラトスは敵の手中にある以上彼らは勇気を持って自らの運命に立ち向かうべきであると城壁から明言した。
74 この試みが失敗するとミトリダテスは船に乗せた機械を運んで突如城壁に橋を架けて四人の兵士を渡らせた。当初キュジコス人はその装置の新奇さに唖然として逃げ出しそうになったが、それに続くはずの残りの敵がぐずぐずしていたために勇気を奮い起こして城壁の上の四人に向けて突撃した。このようにしてキュジコス人は海からの侵略者を撃退した。これと同じ日に三度、全ての機械がせっせと働く市民に向けて陸側で集まってきて、彼らは絶えず繰り返される攻撃に対処するためにあちこちへとかけずり回ることになった。彼らは破城槌を石で破壊したり輪縄で方向を逸らしたり、羊毛製の籠で威力を弱めたりした。彼らは敵の火のついた矢玉〔による火〕を水や酢で消し、ぶら下げた衣服やピンと張った亜麻の服で他の兵器による威力を減殺した。つまるところ、彼らは人間の熱意の範囲内にあったことを余すところなく試みたのであった。彼らは根気強く精を出して抗戦したたにもかかわらず、火で損じられた城壁の一部を夜まで放ったままにしておいた。とうのも熱のために誰もそこへはそう急いで赴かなかったからだ。キュジコス人はその城壁を囲むもう一つの城壁を夜に建設し、大体この頃に強風が吹いて王の兵器を粉砕した。
75 キュジコス市はゼウスによってペルセフォネに持参金として与えられたものであり、その住民は全ての神々のうちで彼女を最も敬っていたと言われている。彼女の祭は今も定期的に開催されており、そこで彼らは彼らのうちには練り粉職人がいなかったために黒い子牛を彼女への犠牲に捧げるのを習わしとしている。その時には黒い子牛が港の入り口にかかっている鎖の下へと飛び込んで海から彼らのところに泳いでいってそれから市へと歩いてゆき、神殿への道を見つけて祭壇の近くの場所へとやって来ることになっていた。それからキュジコス人は喜ばしい希望を胸にその子羊を犠牲に捧げた。したがってミトリダテスの友人たちはその場所は神聖なところだからと彼に離れるよう進めたが、彼は耳を貸さなかった。彼は市へと突き出たディンデュモス山へと登り、市壁まで延びる堡塁を建設してその上に塔を建て、同時に坑道によって市を掘り崩した。彼の馬たちが役に立たなくなって食糧不足のために衰弱して蹄を痛がると、彼は馬をビテュニアへと遠回りをさせて送った。ルクルスはリュンダコス川を渡りつつある彼らに襲いかかって大勢を殺し、一五〇〇〇人の兵士、六〇〇〇頭の馬を捕らえ、大量の輜重物資を鹵獲した。キュジコスでこのようなことが起こっていた一方で、ミトリダテスの将軍の一人エウマコスはフリュギアに攻め込んで大勢のローマ人を妻子もろとも殺し、ピシディア人とイサウリア人、そしてまたキリキアをも制圧した。最終的にガラティアの四王の一人デイオタロスは侵略者を撃退して多くの兵を殺した。フリュギアあたりでの出来事の次第は以上のようなものであった。
76 冬が来るとミトリダテスは海路で運ばれていた物資を奪われ、率いていた全軍が餓えてその多くが死んだ。ある者は野蛮な風習によって内臓を食らった。他の者は草を食べて病気になった。さらに近隣に埋葬されないまま放り出されていた遺体が飢餓による病に加えて疫病をもたらした。にもかかわらずミトリダテスはディンデュモス山から広がる保塁によってキュジコスを占領しようと未だ望んでいたためにその事業を続行した。しかしキュジコス人は堡塁を掘り崩してその上にあった兵器を焼き払い、頻繁に出撃しては彼の部隊に襲いかかった。彼らが食糧不足によって弱まっているのを知るとミトリダテスは撤退を考え始めた。彼は夜に逃げて自らはパリオスへと艦隊と共に向かい、陸軍は陸路でランプサコスへと向かわせた。その時に非常に増水していたアイセポス川の渡河の際にルクルスからの攻撃を受けて多くの者が命を落とした。したがってキュジコス人は彼ら自身の勇気とルクルスが敵にもたらした飢餓によって王の膨大な包囲の物量から逃れた。彼らは彼を讃えて競技祭を始めてこの日に彼のために祝い事をすることにし、それはレウコレイア祭と呼ばれている。ミトリダテスはルクルスによって包囲を受けていたランプサコスに逃げ込んだ兵のために船を送ってランプサコス人もろとも彼らを運び出した。セルトリウスから送られていた将軍であったウァリウスとパフラゴニア人のアレクサンドロス、そして宦官ディオニュシオス指揮下の一〇〇〇〇人の選り抜きの兵士と五〇隻の艦隊を残して彼はニコメディアへと軍の大半と共に航行した。その際に嵐が起こり、両分遣隊の多くが壊滅した。
77 敵を飢えさせることでこのような結果を生むとルクルスはアジア諸州から艦隊を集めて配下の将軍たちに配分した。〔ガイウス・ウァレリウス・〕トリアリウスはアパメイアに航行してそこを占領し、神殿に逃げ込んだ非常に多くの住民を殺した。バルバはある山を基地として陣取っていたプルシアスを捕らえ、ミトリダテスの守備隊が放棄したニカイアを占領した。アカイア人の港でルクルスは敵船一三隻を拿捕した。英雄〔ヘラクレス〕の受難を我々に想起させるために青銅の蛇、弓、そして縛り紐のついた胸当てがフィロクテテスの祭壇に飾られていたレムノス島近くの土地の痩せた島で彼はウァリウスとアレクサンドロスとディオニュシオスに追いついて、彼らを馬鹿にした調子で彼らに向かっていった。彼らは大声を上げつつ勇敢に踏み止まった。彼は漕ぎ手を確認して彼らを海へとおびき寄せるために艦隊を二手に分けて向けて送り出した。彼らの心は挑戦を受ける方へと傾いていたものの陸で身を守り続けたため、彼は島の別の方角へと艦隊の一部を送って歩兵戦力を上陸させ、敵を船へと追い払った。ルクルス軍を恐れていたため、未だ彼らは海に出てこようとはせずに浜に沿って進んだ。したがって彼らは陸海両方からの矢玉に曝されることになり、敗走の過程で大殺戮を受けた後に非常に多くの負傷者を出した。ウァリウス、アレクサンドロス、そして宦官ディオニュシオスは身を隠した洞窟で捕らえられた。ディオニュシオスは持っていた毒を飲んですぐに死んだ。ルクルスはそのローマの元老院議員〔を見世物にすること〕で凱旋式を飾ろうとは望まなかったためにウァリウスは殺すよう命令を下したが、その目的〔凱旋式〕のためにアレクサンドロスはとっておいた。ルクルスは月桂樹の冠を被った自分が描かれた手紙を勝者の習わし通りローマに送り、次いでビテュニアへと向かった。
78 ミトリダテスがポントスへ航行していると彼は二度目の嵐に襲われ、彼はおよそ一〇〇〇〇人の兵と六〇隻の船を失い、生き残った者は方々に四散して風が彼らを流した。彼の船に穴が開くと、彼の友人たちは思いとどまらせようとしたものの彼は小型の海賊船に乗り移った。その海賊たちは彼をシノペに無事上陸させた。その地から彼はアミソスへと連れていかれ、義理の息子であったアルメニア人ティグラネスとキンメリアのボスポロスの支配者であった息子マカレスに急いで助けにきてほしいという求める手紙を送った。彼はディオクレスに大量の黄金と他の贈り物を近隣のスキュタイ人らに持って行くよう命じたが、ディオクレスは黄金と贈り物を持ってルクルスに寝返った。ルクルスは勝利の名声を背に前進し、道中にあるものと地方にあるもの全てを制圧した。まもなく彼は戦争での略奪を免れており、そこでは奴隷が四ドラクマで、牛が一ドラクマで、山羊、羊、於福、その他のものもそれに比例した値段で売られていた富裕な地域に来た。ルクルスはアミソス、そしてミトリダテスがアミソスの傍らに建設して自らの名にちなんで名付け、王の住居が集中していたエウパトリアを包囲した。もう一つの軍に彼はあるアマゾネス人にちなんで名付けられ、テルモドン川沿いにあったテミスキュラを包囲させた。この場所を包囲した軍は攻城塔を運んできて堡塁を作り、地中での戦いが戦えるほど大きな坑道を掘った。住民は上から坑道の穴を寸断して熊と他の野獣と蜂の群を工夫に向けてその中へと放った。アミソスの包囲軍は他の方法でも苦しめられた。住民は彼らを勇敢に撃退しては頻繁に出撃し、しばしば一騎打ちを挑んだ。ミトリダテスはそこで越冬して新たな軍を集めていたカビラから彼らに大量の物資と武器と兵士を送った。そこで彼はおよそ四〇〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵を集めた。

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