アッピアノス『ローマ史』「ミトリダテス戦争」

1巻
1 ギリシア人は、ホメロスの詩文で述べられているように、真夜中にディオメデスによって殺害されたレソスと共にトロイア戦争に参戦したトラキア人たちは〔彼らの王であるレソスが殺された後に〕トラキアに渡る最短距離だった黒海の入り口の土地まで逃げたと考えている。幾人かの人は彼らは船を見つけることができなかったためにそこに留まってベブリュキアと呼ばれる地方を手に入れたと言っている。他の人たちは彼らはトラキアのビテュニアと呼ばれるビュザンティオンの向こう側〔ボスポロス海峡を挟んだ小アジア側〕にある地方へと渡ってビテュア川沿いに住み着いたが、飢餓のためにベブリュキアへと戻らざるを得なくなり、以前彼らが住んでいた場所にあった川にになんで彼らはビテュニアと名付けたと言っている。あるいはビテュニアとベブリュキアはそんなに違っていないので、その名は時の流れの中で無自覚のうちに彼らによって変えられたのかもしれない。幾人かの人はこのように考えているわけである。他の人たちは彼らの最初の支配者はゼウスとトラケの息子ビテュスであり、それら二つの地方は彼らにちなんで名付けられたと述べている。
2 ビテュニアについての端書きは以上のようなものである。ローマの歴史についての著述においてローマ人以前にその地方を次々と支配した四九人の王について特別に語ることは我々の関心の外にある。狩人とあだ名されたプルシアス〔二世〕はマケドニア王ペルセウスが彼の姉妹を嫁がせた一人であった。そう遠からぬうちにペルセウスとローマ人とが戦争状態に入ると、プルシアスはどちらの側にもつかなかった。ペルセウスが捕虜になるとプルシアスはローマの将軍たちと会談し、彼らがテベヌスと呼ぶトーガを纏ってイタリア風の履き物を履き、頭を剃って主人の意のままにされる奴隷の縁なし帽子を被り、他の点でも卑しく取るに足らない姿で現れた。彼らと会談すると、ラテン語で言った。「私は『解放された』とも言うべきローマ人の解放奴隷です」。彼らは彼を笑ってローマへと送った。そこに馬鹿げた有様で出頭してくると、彼は許しを得た。
3 しばし後にアジアの地方のペルガモン周辺の王アッタロス〔二世〕に対して怒ったプルシアスは彼の領地を略奪した〔紀元前154年〕。ローマの元老院はこれを知るとプルシアスに彼らの友人であり同盟者であるアッタロスへの攻撃をやめるよう求める手紙を送った。彼がそれに従うのを遅延させたために使節団は元老院の指示に従い、彼らの言うところでは同数の兵と共に待ってるアッタロスとの協定の交渉のために国境へと一〇〇〇騎の騎兵と共に来るよう彼に厳命した。アッタロスの小勢を軽蔑して彼を罠にはめようと望んだためにプルシアスは使節団に前もって一〇〇〇人の兵を引き連れて来るという旨の手紙を送ったが、本当はまるで戦いに行くかのように手持ちの全軍を率いていった。これを知るとアッタロスと使節団は一目散に逃げ出した。プルシアスはローマ人が残した荷駄獣を接収してニケフォリオン砦を占領して破壊し、そこにあった神殿を焼き払ってペルガモンに逃げ込んだアッタロスを包囲した。それらの出来事がローマで知られると、アッタロスに彼が被った損害への補償を命じる新たな大使がプルシアスへと送られた。それからプルシアスは心配に駆られ、命令に従って撤退した。使節団は罰として彼はアッタロスにすぐさま二〇隻の甲板付きの船を引き渡し、一定期間内に五〇〇タラントンの銀を支払うべしと決定した。したがって彼は船を明け渡して規定の期間の支払いを始めた。
4 プルシアスは度を超した残忍さのために臣民から憎まれていたため、彼らは彼の息子ニコメデスの方に非常に靡いた。したがって後者はプルシアスの猜疑を招き、彼はニコメデスをローマで暮らさせるために送った。彼がそこで大層な評判を得たことを知るとプルシアスは彼に元老院にアッタロスへの未払い金の支払いから彼を解放するよう誓願するようにと指示した。彼は同僚の使節としてメナスを送り、もし支払い額の余分な減額を担保できれば、ニコメデスをローマで殺すようにと言った。この目的のために彼は彼と二〇〇〇人の兵士と共に多数の小舟を送り出した。他方の言い分を主張するためにアッタロスによって送られていたアンドロニコスがそれが略奪品よりも少額であると示したためにプルシアスに科せられた罰金は免除されず、メナスはニコメデスが評判高く魅力的な若者であることを理解すると、途方に暮れて彼に事の次第を知らせた。彼はニコメデスを敢えて殺さず、ビテュニアにも戻らなかった。その若者は彼の遅延を知り、丁度彼も望んでいたことであった彼との会談をしようとした。彼らはプルシアスに対する陰謀を企んでアッタロスの代理人アンドロニコスの協力を確保し、アンドロニコスがニコメデスをビテュニアに帰すようにアッタロスを説得することになった。彼らはエペイロスの小さな町ベルニケにて会談することに同意し、そこへと彼らは事の次第を相談するために夜に船で入って夜明け前に分かれた。
5 朝にニコメデスは王の紫衣を纏って頭に王冠を被って船から出てきた。アンドロニコスは彼と会って彼に対して王にする様式の挨拶し、彼と共にいた三〇〇人の兵と共に彼を護送した。メナスはニコメデスの到来を初めて知ったふりをして、彼の二〇〇〇人の兵の所へと大急ぎで向かい、不安を抱いているように見せかけて叫んだ。「我々には一人は母国に、もう一人はそこへと向かいつつある二人の王がいる以上、我々の身の安全は彼らのいずれが外人になるのかの予想に完全にかかっているわけだから、我々は我々自身の利害を考えて用心深く未来についての判断を下すべきだ。ビテュニア人はプルシアス様を嫌っているが、ニコメデス様に惹かれている。指導的なローマ人らはこの若者を好いており、アンドロニコス殿はすでに護衛を提供しており、ニコメデス様がビテュニア人に沿って広大な支配領域を持ち、プルシアス様の長年の敵であるアッタロス様と同盟にあることを示している」これに加えて彼はプルシアスの残虐さとあらゆる人に対する彼の常軌を逸した行動、彼がこのようなわけでビテュニア人から受けている一般的な憎悪について詳しく述べた。彼らは兵士たちもまたプルシアスの邪悪さを嫌悪しているのを見て取ると、彼らをニコメデスのところへと率いていって前にアンドロニコスが丁度したように彼に対して王に対する様式の挨拶をし、二〇〇〇人の兵でもって彼の親衛隊を結成した。
6 アッタロスはその若者を温かく迎え、プルシアスに彼の占領下にあったいくつかの都市と彼に物資を提供する領地を譲渡するようにと命じた。プルシアスは自分が前にアジアに攻め込んだ時にニコメデスのために計画していたところのアッタロスの王国全土を自分の息子に最近与えたばかりだと返答した。この応答を出した後、彼はローマでニコメデスとアッタロスへの正式な告発を行い、彼らを裁判へと召還した。アッタロスの軍勢はすぐにビテュニアへと攻め込み、そこの住民は喜んで侵略者の側についた。プルシアスは誰も頼らず、ローマ人が自分を陰謀から助けてくれると期待し、義理の息子のトラキア人ディエギュリス〔トラキア人の一派のカイノイ族の王〕に五〇〇人の兵を求めてこれを得て、彼らのみを親衛隊としてニクタイアの砦に逃げ込んだ。ローマの法務官はアッタロスに好意的だったためにローマの元老院へとプルシアスの大使を案内するのを遅延させた。彼が彼らを案内すると、元老院は法務官自身が代表団を選び出してその問題解決のために送るべしと票決した。法務官は三人の人物を選び出し、そのうち一人は一度石で頭を打たれて以来臆病になっていた者であり、もう一人は病んだ障害者であり、三人目は全くの馬鹿者と思われていた者だった。かくしてカトーはこの使節について、知性がなく、足もなければ頭もないという同時代人としての意見を示した。
7 その代表団はビテュニアにやってきて戦争の停止を命じた。ニコメデスとアッタロスは黙従するふりをした。ビテュニア人は〔ニコメデスとアッタロスによって〕もうプルシアスの残忍には絶えられないと述べるよう、とりわけその後に彼らに対する不平を表明するように命じられた。それらの苦情がまだローマで知られていないことを口実として代表団は延期してまだ終わっていない仕事をそのままにした。プルシアスは頼みとしていたために自身での自衛手段の用意を怠っていたローマ人の援助を絶望視すると、ニコメディアを自らの手中に置いて侵略者に抵抗するためにその都市へと退却した。しかし住民は彼を裏切って門を開き、ニコメデスが軍と共に入城した。プルシアスはゼウスの神殿に逃げ込み、そこでニコメデスの使節団の数人によって刺殺された〔紀元前149年〕。このようにしてニコメデス〔二世〕がビテュニア人の王としてプルシアスの後を襲った。彼の死〔紀元前127年〕にあって彼の息子でフィロパトルとあだ名されていたニコメデス〔三世〕が後を襲い、元老院は彼の先祖伝来の権利を承認した。ビテュニアの次第はこのようなものであった。今後の結果を予想してこのニコメデスの孫であったもう一人のニコメデス〔四世〕は自らの意志で王国をローマ人に遺贈した。

2巻
8 マケドニア人以前のカッパドキアの支配者が自治権を持っていたのかダレイオスに服従していたのか私は明確に述べることはできない。私はアレクサンドロス〔三世〕は貢納金を集めるために未征服の国の支配者を後方に残して一方自らはダレイオス〔三世〕追討を急いだと判断するものである。しかし彼はポントスの都市で、アッティカ起源で、元々が民主政体であったアミソスを奪回した。さらにヒエロニュモスはアレクサンドロスは全くそこの諸民族には手をつけなかったが、ダレイオスが別の道をとるとパンヒュリアとキリキア沿岸沿いに進んだと言っている。しかしアレクサンドロスの後マケドニア人を支配したペルディッカスはカッパドキアの支配者アリアラテス〔一世〕を捕らえて縛り首にしたのであるが〔紀元前322年〕、それは彼が反乱を起こしたのかあるいはその地方をマケドニア人の支配下に置き、カルディアのエウメネスにそこの人々を与えるためであった。後になってエウメネスはマケドニア人の敵であるとの判決を受けて殺され〔紀元前316年〕、アレクサンドロスの領地の管理者としてペルディッカスの地位を引き継いだアンティパトロスはニカノルをカッパドキアの太守に任命した〔紀元前321年〕。
9 遠からぬ後にマケドニア人の間で対立が起こった。アンティゴノスはラオメドンをシュリアから追い出して自身が支配者となった。彼はペルシア王家の後裔たるミトリダテスなる者を同行させていた。アンティゴノスはミトリダテスが土地に黄金を蒔いて、それを刈り取ってポントスに持っていく夢を見た。したがってアンティゴノスはミトリダテスを殺そうとして拘束したが、ミトリダテスは騎兵六騎と共に逃げ、カッパドキアの砦に拠り、〔イプソスの戦いの後〕そこにマケドニア人の勢力の衰退を受けて多くの者が彼の許に集まり、カッパドキアの全域と隣接する黒海沿岸の地方を手にした。〔紀元前266年に〕彼は築き上げたこの強大な勢力を子供たちに残した。彼らは六人目のミトリダテス〔六世〕まで家の創始者から次々と継承し、彼はローマ人と戦争を行った。カッパドキアとポントス両方にこの家の王たちが存在したために彼らは統治権を分割し、幾人かは一方を、幾人かはもう他方を支配したものと私は判断している。
10 とにかく、ローマ人の一番の友好者でありカルタゴ人と対峙して幾らかの船と小艦隊を援軍として送ってさえいたエウエルゲテスとあだ名されていたポントス王ミトリダテス〔五世〕は隣国であったカッパドキアに侵攻した。彼の後は息子のディオニュソスまたはエウパトルとあだ名されたミトリダテスが継いだ。ローマ人は彼らのところに逃げ込んでおり、ミトリダテスよりもその国の支配者に相応しいとされていたアリオバルザネス〔一世〕をカッパドキアに復位させるようミトリダテスに命じた。あるはひょっとしたら彼らはかの偉大な君主〔ミトリダテス〕の増大する勢力を分散させ、いくつかの部分に分割した方が良いのではないかと考えたのかもしれない。ミトリダテスは命令に従ったが、ビテュニア王ニコメデス〔三世〕の兄弟で、彼を権力の座から引き摺り下ろして権力を簒奪した良き人〔クレストス〕とあだ名されたソクラテスに軍を委ねた。このニコメデスは、ローマ人によって世襲財産としてビテュニア王国を受け取ったプルシアス〔二世〕の子であったニコメデス〔二世〕の子であった。それと同時に〔紀元前90年〕ミトラアスとバゴアスはローマ人がカッパドキアの王に据えていたアリオバルザネスを追放し、彼の地位にアリアルテス〔八世〕をつけた。
11 ローマ人はニコメデス〔四世〕とアリオバルザネスを同時に各々の王国に復位させようと決めてこの目的のためにマニウス・アクィリウスを団長とする使節を送り、ペルガモンの周りのアジア地域を管轄下に置いていたルキウス・カシウスに彼らの任務に協力するよう命じた。似たようにしてミトリダテス〔六世〕・エウパトルその人にも命令が送られた。しかし後者はローマ人のカッパドキアへの干渉に憤慨し、彼らによって(私のギリシア史書で述べたように)最近フリュギアを略奪されていたために協力に応じなかった。にもかかわらずカシウスとマニウスは前者の軍とガラティア人とフリュギア人から集められた大軍と共にニコメデスをビテュニアに、アリオバルザネスをカッパドキアに復位させた。彼らはローマ人が彼らを助けると約束し、ミトリダテスの隣人として彼の領地へと侵攻して戦争を起こすよう彼らに同時に勧めた。両者はミトリダテスの軍事力を恐れていたために国境でかくも重要性を持つ戦争を起こすことに躊躇した。使節がそう主張すると〔紀元前88年〕、将軍たちと使節団に権力の座への復位への礼として多額の金を払うことに同意し、彼の国でローマ人から利子付きで借りていて、催促を受けていた他の多額の金もまだ借りたままだったニコメデスはしぶしぶながらミトリダテスの領地へと攻撃をかけ、抵抗を受けることなくアマストリス市あたりまでを略奪した。戦争の良好で十分な大義名分を欲していたミトリダテスは準備のできた軍を持っていたにもかかわらず撤退した。
12 ニコメデスは大量の戦利品を携えて戻り、ミトリダテスはローマの将軍たちと使節らのところへとペロピダスを送った。彼は彼らが戦争を起こしたがって彼への攻撃を誘発させたことを知らないわけではなかったが、開戦のより明白な大義名分を得て彼らとと彼その人と彼の父との友好と同盟を思い起こさせるためにそれを隠し、代わりにペロピダスはフリュギアとカッパドキアは彼から力づくで奪われ、そのうちカッパドキアは常に彼の父祖のものであり、彼の父によって彼に残されたものであったと言った。「フリュギアは」彼は続けた。「あなた方の将軍によってアリストニコスへの勝利の報償として陛下へと与えられたものでありました。それも陛下がそれのために同じ将軍に多額の金を払ったにもかかわらず、です。しかし今やあなた方はニコメデスに黒海の口を閉鎖し、アマストリスまでの国土を侵略することさえ許しましたし、あなた方は彼が無事に莫大な略奪品を持ち帰ったことを知っているではありませんか。我が王は弱体ではなく、自己防衛のために備えていないわけでもありませんでしたが、彼はあなた方がその所行の目撃者となるのを待っておられたのです。あなたがこの全てを見届けるまではあなた方の友であり同盟者であらせられるミトリダテス様は我々をニコメデスの悪行から守るかその悪党を抑えてくれるよう、協定を読めば分かるように、友人であり同盟者としてあなた方を呼んだのです」
13 ペロピダスが話を終えると、ニコメデスの使節たちはそれに答えて言った。「ミトリダテス殿はニコメデス様に対して長年陰謀を企んでおり、ソクラテス様は物静かな人柄で兄が統治をして然るべきであると考えていたにもかかわらず、彼を武力によって王位につけました。ミトリダテス殿がニコメデス様にしたことはこのようなことであり、ローマの方々はビテュニアに王権を確立し、その打撃は明らかにあなた方に対するのと同じ位に我々に対するものでした。似たようにしてあなた方はヨーロッパに手を出さないようアジアの王たちに命令した後にケルソネソスの大部分を奪取しました。それらの行動こそ彼の横暴、敵意、あなた方ローマ人自らへの違反行為の例証ではありませんか。彼の大がかりな準備を見てください。彼は自分の軍のみならず、トラキア人、スキュタイ人、その他多くの近隣の人々により、予定している大戦争の準備ができているのです。彼はアルメニアと婚姻による同盟を結んでおり、エジプトとシュリアにはそれらの国の王との友好を樹立する手紙を送っています。彼は三〇〇隻の軍船を持っており、さらに追加されることでしょう。彼はフォイニキアとエジプトに海軍の将官と舵手を求める手紙を送りました。ミトリダテスが膨大な物量を集めつつあるそれらの軍備はニコメデス様ではなく、おおローマの皆様、他ならぬあなた方を標的としているのです。彼は彼がフリュギアを堕落した約束によってあなた方の将軍の一人から手に入れた時、あなた方がその不正な取得物を放棄するよう命じたためにあなた方に対して憤っています。彼はあなた方によってアリオバルザネスに与えられたカッパドキアのためにも憤っています。彼はあなたの増長しつつある勢力を恐れています。彼はローマ人が我々を狙っているという口実の下で準備をしていますが、可能ならあなた方を攻撃しようという腹づもりなのです。彼があなた方に宣戦してくるまで待たず彼の言葉よりもむしろ行動を見て、協定を破棄せず、友情の虚名をあなた方に呈する偽善者を友とせず、我々の王国についてのあなた方の決定を我々双方に等しく敵であるような者によって無効にされるのを許さないことこそが賢明なことなのであります」
14 ニコメデスの使節がこのように述べた後にペロピダスは再びローマの平民会で演説をし、もしニコメデスが過去のことについての訴えをするならば、ローマ人の決定を受け入れたことになるが、明るみに出た目下の問題、つまりミトリダテスの領地の略奪、海の封鎖、そして莫大な略奪品の持ち出しについては議論や裁定の余地がないと言った。「我々は再びあなた方、ローマの皆様に呼びかけましょう」彼は言った。「その蛮行を阻止するか、その被害者であるミトリダテス様を助けるか、全ての出来事を傍観して彼に自衛を許してどちらも助けないか、を」ペロピダスがこの訴えを繰り返していると、ずっと前からニコメデスを助けることがローマの将軍たちは決定していたにもかかわらず他方の側の言い分を聞くふりをした。ペロピダスの言葉とまだ有効だったミトリダテスとの同盟は彼らを恥じいらせ、彼らはどう答えれば良いのかしばしの間途方に暮れた。長考の後、最終的に彼はこの巧妙な回答をした。「我々はミトリダテス殿がニコメデス殿の手によって被害を受けるのを望まないし、彼が弱体化することがローマの利益になるとも考えていないので、ニコメデスとの戦争を許すこともできない」この応答を出すことで、ペロピダスは彼らの回答が不十分だと訴えたがっていたにもかかわらず、彼らは彼を平民会から退かせた。

3巻
15 ミトリダテスはかくの如く公にローマ人によって正義を否定されたために息子のアリアルテスを大軍と共にカッパドキア王国奪取のために送り出した。アリアルテスはそこを速やかに制圧してアリオバルザネスを追い出した。そしてペロピダスはローマの将軍のところへと戻ってこう言った。「おおローマ人よ、あなた方にすでに言ったそう遠からぬ時にフリュギアとカッパドキアを奪われた時、なんとミトリダテス王はあなた方からの不当な扱いに辛抱強く耐えておられたことか。ニコメデスは何という被害を陛下に与え、あなた方はそれを知りながら無視していたことか。我々があなた方の友情と同盟に訴えた時、あなた方はあたかもニコメデスが被害者であるかのように、彼への危害はあなた方の関心にはないと言って我々を原告ではなく被告であるかのような答えを与えたのです。故にあなた方はローマ政府にカッパドキアで起こったことについて説明する義務があるのです。ミトリダテス様はあなた方が我々を軽蔑してその返答で我々を愚弄したがためにこのようなことをなさったのです。陛下は元老院にあなた方への不満を述べる使節を送ろうとのお考えをお持ちです。陛下はあなた方が急いで何かをしでかさず、ローマの宣戦抜きでかくも大規模な戦争を始めさせないようにするため、弁明のためにそこへと一介の私人としてあなた方を召喚したのです。あなたはミトリダテス様が二〇〇〇スタディオンの長さの父祖の支配地を統治しており、非常に好戦的な民族であるコルキス人、黒海に面するギリシア人、それら民族の向こう側の夷狄といった多くの近隣の民族を獲得したことを心に留めておくべきです。陛下はスキュタイ人、タウロス人、バスタルナイ族、トラキア人、サルマティア人、及びタナイス川とダヌビオス川とマイオティス湖沿いの地方に住む全ての人々を同盟者としました。アルメニアのティグラネスは陛下の義理の息子であり、パルティアのアルサケス家は陛下の同盟者です。陛下は多くの船を持ち、その一部はすでに準備ができていて他は建造中で、ありとあらゆる豊富な装備があります。
16 ビテュニア人はエジプトとシュリアの王について最近あなた方に申し上げられましたような悪事は何も働かれてはいません。もし戦争が起これば彼らは我々を助けてくれるばかりか、あなた方が新たに得たアジア、ギリシア、アフリカの諸属州、あなた方の貪欲に耐えきれなくなったために今手強い戦争が起こっているイタリア本土の大部分も我々を助ることになります。この争いを収めることができるようになるより前にあなた方はミトリダテス様を攻撃してニコメデスとアリオバルザネスを代わる代わる彼にけしかけつつ、自分たちは本当は我々の友人であり同盟者であると言っているのです。あなた方はこのような偽装をしつつもすでにまるで敵のように振る舞っているのです。さあ、目を覚まし心を入れ替えるつもりならば、ニコメデスがあなた方の友人であり同盟者へ危害を加えないようにするか――そうすれば私はミトリダテス王がイタリアでの反乱であなた方を支援すると約束しましょう――、我々との友情の仮面を脱ぎ捨てるか、我々をローマに来させてそこで議論によって解決していただきたい」ペロピダスはこのように述べた。ローマ人は彼の演説は横柄だと思ってミトリダテスにニコメデスとカッパドキアに、ローマ人が後者にアリオバルザネスを復位させていたために手を出さないよう命じた。また彼はペロピダスに即刻彼らの野営地から立ち去り、王が彼らの命令に従うまでは戻ってこないよう命令した。この応答を与えると彼らは彼が道中誰かを騙さないようにするために彼を護送した。
17 このように話し終えた後、彼らはローマの元老院と平民会がそのような大戦争についての考えを聞くのを待たず、ビテュニア、カッパドキア、パフラゴニア、そしてアジアのガラティア人からの軍を集め始めた。アジアの属州総督のルキウス・カシウスが軍の準備を整えるやすぐに全ての同盟軍が集められた。そこでカシウスがビテュニアとガラティアの境、マニウス〔・アクィリウス〕がミトリダテスのビテュニアへの進軍上、そして三人目の将軍〔クイントゥス・〕オッピウスがカッパドキアの山々の間へと別々に別れて野営した。そのそれぞれは歩兵と騎兵を合わせて約四〇〇〇〇人であった。彼らにはビュザンティオンで黒海の入り口を守っていたミヌキウス・ルフスおよびガイウス・ポピリウス指揮下の艦隊もあった。ニコメデスは歩兵五〇〇〇〇と騎兵六〇〇〇を自ら指揮して向った。以上が送られた軍の総兵力である。ミトリダテスは手持ちの軍で歩兵二五万と騎兵四万、甲板のついた船三〇〇隻、それぞれの列に櫂のついた船一〇〇隻、そしてその他それ相応の装置を有していた。彼には将軍としてネオプトレモスとアルケラオスという二人の兄弟がいた。王は自分で多くのことを行った。同盟軍では、ミトリダテスの子アルカティアスが小アルメニアから騎兵一万を率い、ドリュアロスがファランクスを指揮した。クラテロスが一三〇台の戦車を率いた。ローマ人とミトリダテスが最初に互いに対決した時はオリュンピア祭の頃であり、双方でかくも強大〔な軍〕が準備された。
18 ニコメデスとミトリダテスの将軍たちがアムニアス川と接する広い平野で互いを視界に収めると、彼らの軍は戦いに移った。ニコメデスは全軍を有していた。ネオプトレモスとアルケラオスには軽騎兵とアルカティアスの騎兵、少数の戦車しかなかった。ファランクスはまだ到着していなかった。彼らは数に勝るビテュニア人によって包囲されないようにと小部隊を平地の中の岩山の丘を占領するために送った。ネオプトレモスは彼の部下が丘から追い立てられたのを知るとなお一層包囲されるのを恐れた。彼は急いで彼らを助けるために進み出て、同時にアルカティアスに助けを求めた。この動きを知ると、ニコメデスは似たようにして応戦しようとした。かくして激しく、血みどろの戦いが起こった。ニコメデスは優勢になり、ミトリダテス軍をアルケラオスの許まで敗走させた。アルケラオスは右の端に進み出でると、彼へと注意を向けさせられていた追跡者たちに襲い掛かった。彼はネオプトレモスの軍が集まる時間を稼ぐために少しずつ後退した。十分に集まったと判断すると、彼は再び前進した。同時に鎌付戦車をビテュニア軍へと突進させ、その一部を真っ二つに切り裂き、他を恐れさせて散り散りにさせた。ニコメデスの軍は半分に切られたもののまだ息のある兵士、または欠片欠片にズタズタにされて鎌に一部がぶら下がっているのを見て怯えた。彼らは戦いでの損失よりむしろそのぞっとするような惨状に参り、持ち場にい続けるのを恐れた。こうして彼らが混乱に陥った一方で、アルケラオスは正面から攻撃を仕掛け、反転したネオプトレモスとアルカティアスは背後から攻撃を仕掛けた。彼らは双方向かい合いつつ長時間戦った。彼の部下の大部分が倒れた後、ミトリダテスのファランクスの全部が戦場に到着していないにもかかわらず、ニコメデスは残余の者たちと共にパフラゴニアへと逃げた。多額の金と多くの捕虜と共に彼の陣営は鹵獲された。ミトリダテスはその全員を親切的に扱って旅に必要な物資を付けて母国に送り、このために敵の間で寛大だという評判を得た。
19 良き分別も何かしらの公の布告もなしに、あまりにも突然に大きな戦いの火蓋を切って落されたため、ミトリダテス戦争におけるこの最初の交戦はローマの将軍たちの警戒心を掻き立てた。良い位置を占めたわけでも敵がへまをしたためでもなく、将軍たちの勇敢さと兵士の戦闘力によって寡兵が大軍を破ったのである。さて、ニコメデスはマニウスの横に並んで設営していた。ミトリダテスはビテュニアとポントスの境に横たわるスコロバ山を上った。彼の前衛の一〇〇騎のサルマティア人騎兵が八〇〇騎のニコメデスの騎兵と遭遇してその一部を捕虜にした。ミトリダテスは彼らを母国へと解放して必要物資を与えた。ネオプトレモスとアルメニア人のネアネスは、ニコメデスがカシウスに合流するために離れ、彼を戦いに加わらせようとしていた間、それから七時間目にプトロファキオンの砦にて退却中のマニウスを襲った。マニウスには騎兵四〇〇〇とその一〇倍の歩兵がいた。彼らは彼の部下一〇〇〇〇人を殺して三〇〇人を捕虜にした。彼らがミトリダテスの許へと送られると、彼は彼らを同様に釈放し、かくして敵から高く評価された。マニウスの陣営もまた鹵獲された。彼はサンガリオス川へと逃げて夜のうちにそこを渡り、ペルガモンへと逃げ延びた。軍と共に野営地をたたんで、フリュギアの非常に堅固な砦であった「ライオンの手」と呼ばれた場所へと逃げたカシウスとニコメデスおよびローマの全大使たちは、そこで新たに集めた職人、農夫および他の粗野な入隊者たちの集まりを鍛え上げ、フリュギア人から新しい兵士を召集した。彼らが役に立たないと見て取ると、彼らはそのような戦争に向かない者たちで戦うという考えを放棄して彼らを解散させ、カシウスは彼の軍と共にアパメイアへ、ニコメデスはペルガモンへ、マニウスはロドスへと撤退した。黒海の口を守っていた者たちは彼らが散り散りになったという事実を知り、海峡へとミトリダテスを捕捉するために全船を分散させて送った。
20 ニコメデスの全支配域を一撃で打倒するとミトリダテスはそれを手にして諸都市を支配下に置いた。次いで彼はフリュギアに侵攻し、アレクサンドロスが一度滞在した場所で運気が得られると考えてアレクサンドロス大王が泊まった宿に宿泊した。彼は残りのフリュギア、そしてミュシアといったローマ人が後に獲得することになるアジアの諸地域を制覇した。次いで彼は隣接する地方に将官たちを送ってリュキア、パンヒュリア、そしてイオニアまでの残りの地方を制圧した。ローマの将軍クィントゥス・オッピウスが騎兵と傭兵を連れてその町に到着してそこを守っていたためにまだ抵抗を続けていたリュコス川沿いのラオディケイア人へと彼は城壁の前に伝令を遣わして以下のような布告を出した。「ミトリダテス王はラオディケイア人がオッピウスを引き渡せば、彼らに害を及ぼさないと約束しているぞ」この通知で彼らは傭兵には何もせずに退去させたが、ミトリダテスへとオッピウスその人を警士たちと一緒に彼らを嘲弄しながら連行していった。ミトリダテスは彼には何も害を及ぼさなかったが、彼を縛らずに自分の近くを曳き回してローマの将軍を捕虜としたことを示した。
21 彼はそう遠からぬうちに使節団の一員でこの戦争に最大の責任があったマニウス・アクィリウスを捕らえた。ミトリダテスは彼をロバに縛りつけて引き回し、自分をマニウスとして公に自己紹介させた。最終的にペルガモスでミトリダテスは熱で溶かした金を彼の喉に流し込んで収賄の廉でローマ人を叱責した。様々な地方に太守を任命した後に彼はマグネシア、エフェソス、そしてミテュレネへと進み、その全てが彼を自発的に迎え入れた。エフェソス人は諸都市に建てられていたローマ人の像を打ち倒し、このために彼らは遠からぬうちにその罪を購うことになった。イオニアからの帰路でミトリダテスはストラトニケイア市を落としてそこに罰金を押しつけて守備隊を置いた。そこで美しい乙女を見つけると彼は彼女を妻の一員に加えた。彼女の名を知りたいと望むならば、それはモニナであり、フィロポイメンの娘であった。未だに対抗していたマグネシア人、パフラゴニア人、そしてリュキア人に対して彼は将軍たちに戦争を命じた。

4巻
22 ミトリダテスの情勢は以上のようなものであった。彼の挙兵とアジア侵攻がローマで知れ渡るや、市内での酷い抗争と手強い同盟市戦争で忙殺され、次から次へとイタリアのほぼ全域で反乱が起こっていたていたにもかかわらず、ローマ人はすぐに彼に対して宣戦した。執政官たちは籤引きをして〔ルキウス・〕コルネリウス・スラがアジアの統治とミトリダテス戦争を引き当てた。費用を負担する金がなかったために彼らは神々への犠牲のために取っておかれていたヌマ・ポンピリウス王の宝物を売却することを票決した。これほどまでにその時の財産の欠乏は甚だしく、名誉への愛は大きかったのである。その宝物の一部は急いで売却され、リトラ銀貨九〇〇〇枚になり、この全てを彼らはかくも大きな戦争のために費やした。その上スラは私が同じ歴史書の中で述べておいたように内戦のために長らく拘留されてもいた。その一方でミトリダテスはロドス攻撃のためにたくさんの船を建造し、全ての太守と行政官たちに一三日後に彼らの町にいる全てのローマ人とイタリア人を襲撃し、その妻子はイタリアの内地で生まれた者ならば殺してその遺体は埋葬せずに放り出し、その財産は彼自身と分け合うようにという密書を書いた。彼は死者を埋葬したり生存者を隠し立てする者を刑罰で脅し、それを知らせる者と隠れていた者を殺す者には賞金を出し、主を裏切った奴隷は解放することとした。彼は金貸しを殺した債務者は債務の半分を帳消しにするとした。それらの密命をミトリダテスは全ての都市に同時に送った。指定された日が来るとあらゆる惨事がアジアの諸地方で起こり、その様は以下のようなものであった。
23 エフェソス人はアルテミスの神殿に逃げ込んでいた追放者を八つ裂きにしてその女神の図像の真ん前で殺した。ペルガモン人はアスクレピオスの神殿に逃げてまだその像にすがりついていた者を弓で射殺した。アドラミュティオン人は泳いで海に逃げ出そうとした者を追って殺し、彼らの子供たちを溺死させた。対アンティオコス戦争以降ロドスに従属していて後にローマ人によって解放されたカウノス人は元老院議員の家のヘスティア像の近くに逃げ込んでいたイタリア人を追い、神殿から引きずり出して母親の目の前で子供を殺し、その後に母親と父親を殺した。トラレスの市民は人殺しが起こるのを避けようとし、その仕事をさせるためにパフラゴニアのテオフィロスという名の凶暴な極悪非道の悪人を雇った。彼は犠牲者たちをホモノイアの神殿に行かせてそこで殺し、神聖な図像を抱いていた者はその手を切り落とした。以上がアジア州中のローマ人とイタリア人に、男も女も子供も解放奴隷も奴隷もイタリアの血が流れる全ての人に降り懸かった身の毛もよだつような運命であった。これによってかような残虐行為をアジア人に強いて行わしめたミトリダテスに対するローマ人の憎悪と同じ位に彼に対する恐怖は非常にはっきりしたものになった。しかし彼らアジア人は一つはそう遠からぬうちに彼らを不正実にそして手ひどく扱ったミトリダテスその人の手によって、もう一つはコルネリウス・スラの手によって彼らの罪に対して二重の罰を受けることになった。一方でミトリダテスはコス島へと渡ってそこで住民の歓迎を受けてそれを受け入れ、祖母クレオパトラ〔三世〕によってそこに大金と共に残されていた、当時のエジプトの君主〔プトレマイオス一〇世・〕アレクサンドロスの息子〔後のプトレマイオス一一世〕を接見し、その後王に相応しい仕方で養育した。彼はクレオパトラの宝物のうち大量の財産、美術品、宝石、女性用の装飾品、そして大量の金子をポントスへと送った。
24 それらのことが起こっていた一方でロドス人は城壁と港を強化し、テルメッソスとリュキアからの支援を受けつつあちこちで兵器を作った。アジアから逃げおおせた全てのイタリア人はロドスに集まっており、そのうちルキウス・カシウスが属州総督であった。ミトリダテスが艦隊を連れて接近すると、住民は敵の役に立つ物を残さないようにするために郊外を荒らした。次いで彼らは海戦のために一部の船を前衛に攻撃隊形で、残りの船を後衛にして海へと出撃させた。五段櫂船で辺りを航行していたミトリダテスは艦隊に数で劣勢だった敵を包囲するために海へと翼を広げて早く櫂を漕いで動くよう命令を下した。ロドス艦隊はこの機動を知ってゆっくりと後退した。最終的に彼らは後退し、港へと逃げ込んで門を閉じ、城壁からミトリダテスと戦った。彼は市の近くに野営して繰り返し再び港への突破口を作ろうとしたが、失敗したために歩兵部隊のアジアからの到着を待つことにした。一方で城壁の周りで待ち伏せをしていた兵士の間で小競り合いが絶えず起こった。ロドス人は状況が最善になると徐々に勇気を奮い起こし、好機を掴んでは敵に矢を放つために船を申し分のない状態に保ち続けた。
25 王の商船の一隻が帆を張って近くにやってくると一隻のロドスの二段櫂船がそれに向けて前進した。双方多くの船が急いで救援に向かって激しい海戦が起こった。ミトリダテスは敵に対して艦隊の強さと数の両方で勝っていたが、ロドス艦隊はその周りをぐるぐる回って彼の船に巧みに衝角攻撃をかけたため、彼らは三段櫂船の一隻を乗組員と器具と多くの戦利品もろとも網で拿捕し、港へと曳いていった。別の時に一隻の五段櫂船が敵に捕らえられると、ロドス人はこの事実を知らずにデマゴラスを提督とした六隻の快速船を送り出した。ミトリダテスは二五隻の船をそれらに対して差し向けた。デマゴラスは日暮れ前に撤退した。闇が深まり初めて王の艦隊が帰ろうとして引き返すと、デマゴラスはそれらに襲いかかって二隻を沈めて他の二隻をリュキアまで追い払い、闇夜の海を帰った。海戦の結果は以上のようなものであり、それはロドス人にとっては彼らの戦力の小ささのために、ミトリダテスにとっては彼の戦力の強大さのために予期せぬものであった。この戦いの間に王が船に乗って兵を激励していると、キオスからの同盟軍船が混乱の最中勢い良く彼の船に突っ込んで衝突した。王はその時は気にする素振りを見せなかったが、後になって舵手と見張りを罰し、全キオス人の憎悪を知った。
26 およそ同時期に商船と三段櫂船に乗って出航したミトリダテスの陸軍は嵐に遭ってカウノスからロドスまで流された。ロドス人は彼らと戦うべく速やかに出航し、彼らがまだ散り散りになっていて嵐の影響で被害を受けていたうちに襲いかかり、一部を拿捕して他に衝角攻撃をかけ、さらに他の船を焼き払い、およそ四〇〇人を捕虜とした。そこでミトリダテスは今一度の海戦とそれと同時に行う包囲戦の準備をした。彼は城壁に上るためのサンビュケという巨大な装置を建造し、それを二隻の船に乗せた。数人の逃亡兵が上り易い丘を彼に示し、そこには低い壁で囲まれたゼウス・アタビュリオスの神殿があった。彼は夜に軍の一部を船に置き、他の者には梯子を配って両隊にアタビュリオス山から信号の火の手が上がるまでは静かに向かってそれから可能な限り大騒ぎをして、一部の者は港を、他の者は壁を攻撃するよう命じた。したがって彼らは静かにひっそりと近づいていった。ロドス人の歩哨は何が起ころうとしているのかを知って火を灯した。ミトリダテス軍はこれがアタビュリオス山の信号だと思って沈黙を破って雄叫びを上げ、城壁に上る部隊と海上部隊は一緒になって騒いだ。ロドス軍は全く狼狽することなく騒ぎに呼応して総出で突進した。王の軍勢はその夜には何も成し遂げず、翌日に打ち負かされた。
27 ロドス人はイシスの神殿がその辺りに建っている城壁へと動かされたサンビュケのためにほとんど意気阻喪した。ありとあらゆる武器、破城槌と投擲兵器が投入された。数多くの小船に乗った兵士が梯子で城壁を取り囲み、それによって城壁に上ろうとした。最終的にサンビュケはその重さで崩壊し、それに大量の火を放つイシスの亡霊が目撃された。ミトリダテスは計画を絶望視してロドスから撤退した。次いで彼はパタラを包囲し、聖なる木々を容赦せよという夢を見て警告を受けるまで兵器の材料を獲得するためにレトに捧げられていた果樹園を伐採した。ペロピダスをリュキア人との戦争を続行させるために残して彼は説得なり力づくで同盟者をできる限り獲得するためにアルケラオスをギリシアへと送った。この後ミトリダテスは将軍たちに仕事の大部分を任せ、兵士を募って武装させることとストラトニケイア人妻との悦楽に夢中になった。また彼は自身に対する陰謀や革命、あるいは何かにつけてのローマ人への支持の廉で告発されていた人たちを裁くために裁判を開いた。

5巻
28 かくしてミトリダテスはギリシアにおいて以下のような事柄に取り組むことになった。十分な物資と大艦隊と共にそこへと航行するとアルケラオスは武力行使と暴力によってデロス島とアテナイ人に反旗を翻していた他のいくつかの砦を奪取した。彼はその土地でそのほとんどがイタリア人であった二〇〇〇〇人を殺してアテナイ人に砦を返還した。このようにしてミトリダテスのことを自慢して過度に誉め讃えることで彼はアテナイ人を彼と同盟させた。アルケラオスは金を守らせるために二〇〇〇人の兵士を付けてアテナイ市民アリスティオンの手で彼らにデロス島の神聖な財物を送った。その兵をアリスティオンは自ら国の主になるために使い、ローマ人を支持していた人たちのうち一部の者をすぐに殺して他の者をミトリダテスに送った。それらのことを行ったにもかかわらず彼はエピクロス学派の哲学者をもって自ら任じていた。アテナイにおいて彼以前に僭主の役割を演じたのはクリティアスとその仲間の哲学者たちだけであった。しかしイタリアのピュタゴラス主義者とギリシア世界の他の土地において七賢人として知られる人たち〔ビオン、ピッタコス、クレオブロス、ペリアンドロスといった僭主〕も公の事柄を担おうとしたし、彼ら〔とりわけペリアンドロス〕はより残虐に統治して普通の独裁者以上の暴君となった。そのような次第で他の哲学者たちに対しても、彼らの知恵に関する論議は徳への愛から発しているのか、あるいは彼らの貧乏と怠惰を慰めるものなのかという疑いが喚起された。今我々は富と権力を本当に軽蔑しているからではなく、同上の者を持っている人たちへの嫉妬から、生活上の必要に迫られて哲学者の服を着ては金持ちと権勢家に対して悪口雑言を浴びせる無名で貧困に喘いでいる多くの人を知っている。彼らが悪し様に言っている人たちには彼らを軽蔑する尤もな理由がある。それらの事柄を読者はこの余談の原因となった哲学者アリスティオンに対して言われたこととして考えるべきである。
29 アルケラオスはアカイア人、ラケダイモン人、テスピアイを除いた全ボイオティアをミトリダテスの側につけてテスピアイを包囲した。同時にミトリダテスによってもう一つの軍と共に送られていたメトロファネスは彼の大義の支持を拒んだエウボイア島とデメトリアスとマグネシアの領地を略奪した。ブルッティウス〔正しくはクィントゥス・ブラエティウス・スラ〕がマケドニアから小勢と共に彼に向けて進軍し、彼との海戦が起こって一隻の大船とヘミオリア船を沈め、メトロファネスの面前でそれに乗っていた人たちを皆殺しにした。後者は怯えながら逃げ、順風に恵まれたためにブルッティウスは彼に追いつくことができなかったが、夷狄の略奪品の倉庫だったスキアトスを強襲して落とし、一部の人たちを奴隷にして磔にし、解放奴隷の手で惨殺させた。次いで彼はボイオティアへと転進し、マケドニアから歩騎一〇〇〇人の援軍を受け取った。カイロネイア近くで彼はアルケラオスとアリスティオンと三日間に及んだ戦いを演じ、その戦いの結果ははっきりしないものとなった。ラケダイモン人とアカイア人がアルケラオスとアリスティオンの来援にやってくると、ブルッティウスはその全軍に対しては歯が立つまいと考え、アルケラオスが艦隊と共に向かってきてその土地も奪取するまでペイライエウスへと撤退した。
30 ローマ人によってミトリダテス戦争の将軍に任命されていたスラ〔クィントゥス・ブラエティウス・スラではなく、ルキウス・コルネリウス・スラ〕は五個軍団と僅かな大隊と騎兵部隊と共に今や初めてギリシアに渡ることになり、すぐに資金、援軍と物資をアイトリアとテッサリアから集めた。十分な兵力になったと考えるとすぐに彼はアルケラオスの攻撃へと向かった。ボイオティアを踏破した際、全ボイオティアが小数を除いて彼の軍に加わり、他の都市のうちで強大な都市であったテバイ市はローマ人に敵対してミトリダテスの側に軽々についていたが、今や一層素早く、武力の試練に曝される前にアルケラオスからスラへと寝返った。アッティカに到着したスラは軍の一部をアテナイのアリスティオンを包囲するために分遣し、自らはアルケラオスが城壁の後ろに陣取って軍でもって守っていたペイライエウスの攻撃へと向かった。城壁の高さは四〇ペキュスほどで、大きな四角い石で建造されていた。それはペロポネソス戦争の時にペリクレスが作ったもので、彼はペイライエウスでの勝利に希望を託していたためにそこは可能な限り強力にしていた。城壁の高さにもかかわらずスラはすぐに梯子をかけた。カッパドキア軍が彼の攻撃に勇敢に立ち向かったためにかなりの損害を被った後、彼は疲弊してエレウシスとメガラへと撤退し、そこでペイライエウスへの新たな攻撃のための兵器を作って堡塁で包囲するという計画を立てた。あらゆる種類の手口と装置、鉄、カタパルト、そしてありとあらゆるものがテバイから提供された。スラはアカデメイアの木立を伐採して最大の兵器を作った。彼は長城を破壊し、石、木材、そして土を使って堡塁を建てた。
31 いずれもローマ人を支持し、この危機にあって身の安全を求めていたペイライエウスの二人のアテナイの奴隷がそこで起こっていたあらゆることを書き留めて鉛の玉で手紙に封をし、それらを投石機でローマ軍へと投げた。絶えずなされたためにこれはスラの知るところになり、彼は以下のようなことを述べる文書に気を留めた。「明日、歩兵部隊が閣下の工夫に正面から攻撃をかけ、騎兵はローマ軍を両翼から攻撃するでしょう」スラは十分な兵力を伏せ、敵が自分たちの行動は完全な奇襲になるはずだと思って突進してきたところ、彼は伏兵によってさらに大きな驚愕を敵に与え、多数を殺して残りを海へと追い落とした。その試みの結果は以上のようなものであった。堡塁ができてくると、アルケラオスは対向する塔を建ててそれらに大量の最も大きい投擲兵器を置いた。彼はこれ以上ないほどの危機が訪れると考えて漕ぎ手を武装させ、カルキスと他の島々に援軍を求める手紙を送った。彼の軍は面前のスラの軍に数で勝っていたため、今やその差は援軍によってより大きくなった。次いで彼は真夜中に松明を放って亀〔ローマ軍の攻城兵器の一種〕の一つとそれの近くにあった装置を焼き払った。しかしスラは一〇日間で新たなそれを作って以前のものがあった場所に配置した。これらに対抗すべくアルケラオスは城壁の一部の上に塔を建てた。
32 海路でドロミカイテス率いる新手の軍をミトリダテスから受け取ると、アルケラオスは全軍を率いて戦いへと向かった。彼は弓兵を、彼らの間に投石兵を配置し、城壁の城壁の真下に並べたたために城壁の上にいる守備軍は投擲兵器が敵まで届くようになった。他の兵は出撃の機会を見計らうために松明を持って門の周りに並べられた。戦いは長い間決着が分からず、双方は勝ったり負けたりした。最初、夷狄軍はアルケラオスが彼らを再集結させて〔戦いへと〕戻すまでは負けていた。ローマ軍はこれによって異常に意気消沈したため、ムレナが駆けつけて彼らを呼び集めるまで敗走させられっぱなしだった。まさにその時、木材採集から戻ってきたもう一つの軍団が戦いの展開の激しさを見て取り、〔敗走のために〕恥をかかされた兵士たちと共にミトリダテス軍に力強い突撃を敢行しておよそ二〇〇〇人を殺して残りを壁の内側へと撃退した。アルケラオスは再び彼らを再集結させようとして長らく踏み止まったため、射られて縄で引かれる羽目になった。彼らの立派な振る舞いを見てスラは恥を晒した人たちの汚名を雪いで他の者に多くの褒美を与えた。
33 冬が到来するとスラはエレウシスに設営して高台から海まで延びる深い壕でそこを守ったため、敵騎兵はそこに近づくことができなくなった。この作業を進めていた間も戦いは続き、頻繁にやってきてローマ軍を投石、投槍、そして鉛玉で攻撃していた敵の今や壕、城壁で毎日のように戦いが起こった。スラは船を必要としており、ロドスに船を提供するよう手紙を送ったが、ロドス人はミトリダテスが海上を制圧していたために返信を送ることができなかった。そこで彼は有能なローマ人で、後にスラからこの戦争の指揮官の地位を受け継ぐことになるルクルスにアレクサンドレイアとシュリアに密かに向かってそこの王たちと海事に熟練していた諸都市から艦隊を入手し、それらと共にロドスの海軍もまた連れてくるよう命じた。ルクルスは敵艦隊を恐れなかった。彼は航行する船に素早く乗り込み、移動を隠すために船から船へと乗り継いでアレクサンドレイアに到着した。
34 その一方で、ペイライエウス内の裏切り者たちは、アルケラオスがその時空腹に苦しんでいたアテナイ市に夜に糧秣と共に警護の兵士を送るだろうという一つの言伝を城壁の上に投げ入れた。スラはその輸送部隊を罠にはめて兵士と食料の両方を手中に収めた。同じ日に、カルキス近くでミヌキウスはミトリダテスの他の将軍のネオプトレモスを負傷させ、彼の部下一五〇〇人を殺傷してこれより多数の兵士を捕虜とした。この後間もなく、夜にペイライエウスの城壁の衛兵が眠りこけていた時、ローマ軍はすぐ近くの攻城具からいくつか梯子をかけてその場で衛兵を殺した。したがって夷狄の一部は全ての城壁が占領されたと考え、持ち場を放棄して港へと逃げた。勇気を取り戻した他の者たちは攻撃部隊の指揮官を殺して残りを城壁の上から投げ落とした。他の者たちは門を通って外へと突進してローマの二つの攻城塔の一つをほとんど焼き払い、彼らはスラが野営地から駆けつけなければ〔もう一つも〕焼いていただろう。そして、彼は夜通し、そして翌日の間続いた激戦でそれを守りきった。かくして夷狄は撤退した。アルケラオスはもう一つの巨大な塔をローマ軍に対する城壁の上に取り付け、それらの塔は互いに攻撃し合い、カタパルトによってあらゆる投擲兵器を絶え間なくスラへと放ち、それは一度の射撃で二〇個の最も重い鉛玉を放ち、多くの敵を殺したが、それを支えきれずにアルケラオスの塔は揺れ、崩壊を恐れたアルケラオスは全速で撤退せざるをえなくなった。
35 飢餓がますますアテナイ市を苦しめていた一方で、ペイライエウスの投擲兵たちは夜に補給物資が送られたことを知った。アルケラオスは裏切り者が敵に護送部隊についての情報を流したのではないかと疑った。したがって、彼はそれを送るのと同時に、もしスラが補給部隊を攻撃するならば、そのように動くローマ軍に攻撃をしかけるために門に松明を持った軍を配置した。結果、スラは補給部隊を捕えてアルケラオスはローマ軍の物資をいくらか焼き払った。同時にミトリダテスの子アルカティアスはもう一つの軍と共にマケドニアに侵入して難なくローマの小部隊を破っていた。彼は全地域を支配下に置いてその地を治める太守を任命し、スラに対して進軍したが、ティサイオス近くで病死した。その一方で、飢餓状態にあったアテナイは非常に厳しい状況となった。スラは、アテナイはその人口のために封鎖されている側の飢餓がより深刻になるようにと、その周りに何人たりとも外に出れないようにと防御柵を立てた。
36 ペイライエウスの適当な高地に土塁を設けると、スラはそこに攻城兵器を据えた。しかしアルケラオスは土塁を掘り崩して土台を取り払い、ローマ軍は長い間何も気付かなかった。突如土塁が沈んだ。速やかに事の次第を理解するとローマ軍は攻城兵器を引かせて土塁を埋め、敵の例に倣って同様の仕方で城壁を掘り崩した。坑夫たちは互いに地面で遭遇し、剣と槍で暗闇での戦いのように戦った。事態がこのようになると、スラは城壁の一部が崩れ落ちるまで土塁の頂上に立てた破城鎚を城壁へと打ち付けた。そして彼は隣接する塔を焼き払うと急いでそれへと火のついた多くの投擲兵器を放ち、最も勇敢な兵士たちに攻城梯子を上るよう命じた。双方は勇敢に戦ったが、その塔は焼き払われた。城壁の他の少ない部分もまた崩れ落ち、そこへとすぐさまスラは守備兵を置いた。今や城壁の一部は掘り崩されてしまったためにそれは木の梁だけで支えられるという状態になっており、彼はその下に大量の硫黄、麻、松脂を置いてすぐさま全体に火を放った。城壁は守備兵を載せたままそこらかしこが崩れ落ちた。この大きくそして予期せぬ倒壊のために各々は次は自分の下の地面が沈むだろうと予想し、どこであれ壁を守っていた部隊は狼狽えた。恐怖と自信の喪失のためにこのような事態に陥ったために彼らは敵への微弱な抵抗しかしなくなった。
37 かくして敵軍から士気を失わせるとスラは絶え間なく戦いを続け、絶えず自軍の稼働部隊を変え続けてを代わる代わる梯子へと新手の兵を送り、叫び声と激励によって彼らに恐怖と勇気を同時に説き、勝利は目前だと述べた。他方でアルケラオスは意気阻喪した部隊の場所へとその代わりに新手の部隊を向かわせた。彼もまた手を変え品を変え絶えず彼らを激励し、彼らの救済はもうすぐ得られるだろうと述べた。比類ない熱誠と勇気が両軍を再び奮起させ、戦いは激戦となって双方等しくかなりの死者を出した。最終的にスラは敵方の攻撃を受けてほとんど憔悴してしまったため、多くの兵の勇敢さを賞賛しつつ撤退を呼びかけて軍を引いた。アルケラオスは夜間に城壁の被害を修繕してその大部分をその内側に半円に曲がった堡塁によって守った。スラはそこはまだ湿っていて脆弱なので易々と粉砕できるだろうと考え、新たに建てられた城壁へと全軍ですぐに攻撃をかけたが、作業の余地がなく、半月型の要塞が効を奏して全面と側面より、上から放たれる投擲兵器に晒されたために彼は再び疲弊した。そして彼はペイライエウスを力攻めで落とす全ての計画を放棄して飢餓によって落とすべく包囲を敷いた。

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