アッピアノス『ローマ史』「マケドニア戦争」(断片)

第一次マケドニア戦争(紀元前214-205年)
 ローマ人はマケドニア人フィリッポスが彼らとの戦争を開始した時には彼のことなど気にも留めなかった〔紀元前214年〕。彼らは他のことに忙殺されていたために彼には考えが及びもしなかったわけだが、それというのも未だイタリアはカルタゴの将軍ハンニバルに苦しめられており、彼らはアフリカ、カルタゴ、そしてヒスパニアで戦争中で、シケリアの秩序は回復途中だったからだ。フィリッポスその人はローマ人から何の被害も受けていなかったにもかかわらず、支配地の拡大という欲望に突き動かされてイタリアのハンニバルに向けてクセノファネスを団長とする使節団を送り、もしハンニバルがギリシアの隷属化の手助けをしてくれると約束するのであれば、イタリアにいる彼に手を差し伸べたいと提案した。ハンニバルはこの協定に同意してそれを支持する誓いをし、お返しにフィリッポスの宣誓を受けるべく使節団を送った。一隻のローマの三段櫂船が戻る途中の双方の使節を捕らえてローマに運んだ。これに怒ったフィリッポスはローマと同盟を結んでいたコルキュラに攻撃をかけた。
 シビュラの書は以下のような文言でローマ人にフィリッポスとの戦争を勧めていた。「マケドニア人はアルゴスの諸王の末裔であることを自慢する。フィリッポスはお前たちの繁栄か災難の調停者となるであろう。その名前を持つより古い方の者は諸都市と人々に支配者を授けるだろうが、より若い方はあらゆる栄誉を失わせ、西方の種族の臣民は死ぬだろう」
マイ枢機卿のヴァチカン草稿より

 エジプト王プトレマイオス〔四世〕からの使節団及び彼らに同行していたキオスとミテュレネの他の使節団、並びにアタマニア人の王アミュナンドロスからの使節団はアイトリア人が相談のために彼らの諸都市〔からの代表者〕を召集するのが習わしだった場所に、ローマ人、アイトリア人、フィリッポスの間の不和を調停するために二回集まった〔紀元前208年〕。しかしスルピキウス〔ギリシア派遣軍の司令官プブリウス・スルピキウス・ガルバ〕は和平を締結する権限は自分にはないと述べつつも、アイトリア人がフィリッポスに対する戦争を続けるのがローマ人の利になると元老院に私信を書いたため、元老院は協定を禁じて一〇〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵をアイトリア人救援のために送った。彼らの助力を得たアイトリア人はアンブラキアを奪取し、そこは彼らの出発から間もなくフィリッポスに取り戻された。再び使節団が集まり、フィリッポスとアイトリア人が各々別々にギリシア人をローマ人のための隷属下に置こうとしているのは明らかであり、それというのも彼らは習慣的に後者〔ローマ人〕にギリシアへの頻繁な口出しをしてもらっているからだと使節団は明言した。スルキピウスが彼らに言い返すと、群衆は彼の言うことを聞かずに使節たちは本当のことを言っていると叫んだ。
 最終的にアイトリア人が主導権を取ってローマ人抜きでフィリッポスと講和し〔紀元前206年〕、協定に至るためにフィリッポスその人とローマ軍の司令官によってローマへと使者が送られた。いずれの側も他方の友人に危害を与えないという条件で彼らの間で講和が成った〔紀元前205年〕。以上が彼らの間での武力の最初の試みの結果であり、善意に基づくものではなかったために彼らのうちいずれもその協定が長続きするだろうとは信じていなかった。
コンスタンティノス7世『使節について』より

第二次マケドニア戦争(紀元前200-197年)
間もなくフィリッポスは海沿いの従属国に艦隊を準備させるよう命じると、サモスとキオスを占領してアッタロス王の領地の一部を荒らした〔紀元前201年〕。彼はペルガモスそのものすら狙い、神殿と墓所すら容赦しなかった。また彼は平和条約の発起人であったロドス人に属するペライアも略奪した。軍の他の部隊を連れて彼はアッティカを略奪し、ローマ人と何の関係もなかったにもかかわらずアテナイを包囲した。フィリッポスがフィロパトルとあだ名されていてまだ少年だったプトレマイオス四世〔正しくはプトレマイオス五世〕が支配者だったエジプトとキュプロスをアンティオコスが征服するのを支援し、アンティオコスはフィリッポスがキュレネ、キュクラデス諸島、そしてイオニアを獲得するのを支援するというフィリッポスとシュリア王アンティオコスとの同盟の締結も報告された。この噂は全ての人たちを不安に陥れたため、ロドス人はローマにこれを通報した。ロドス人の後、アテナイの使節団がフィリッポスによる包囲を訴えるべくやってきた。アイトリア人も条約を悔いて彼らに対するフィリッポスの不実を訴えて再び同盟者に加えてくれるよう求めた。ローマ人はアイトリア人を最近の離反のことで責めたが、王たちに使節団を送り、アンティオコスにはエジプトに攻め込まないよう、フィリッポスにはロドス人やアテナイ人、アッタロスやローマ人のその他の同盟者を苦しめないよう命じた。それらに対してフィリッポスはローマ人が彼と結んだ平和条約を遵守してくれるのであれば結構なことだと返答した。したがって条約は破棄されてローマ軍はギリシアへと急行し、陸軍をプブリウス〔・スルピキウス・ガルバ〕が、ルキウス〔・アプスティウス・フロ〕が艦隊を指揮した〔紀元前200年夏〕。
『使節について』より

マケドニア王フィリッポスはエペイロス人の使節を伴っていたフラミニヌスと会談した〔紀元前198年〕。フラミニヌスがローマ人ではなくギリシア諸都市のためにフィリッポスにギリシアから撤退し、前述の諸都市に彼が与えた損害を償うよう命じると……。
マイ枢機卿のヴァチカン草稿より

断崖に対するきちんとした装備をした軍を三日かけて参道を通って案内するとある羊飼いが約束した。
スーダ辞典より

ルキウス・クインティウス〔・フラミニヌス〕はアカイア同盟、並びにアテナイ人とロドス人にフィリッポスを見捨ててローマ人と手を結び、同盟者として助力を与えるよう説得すべく使節を送った。しかし彼らは内戦と隣国ラケダイモンの僭主ナビスとの戦争で困っていたために迷って躊躇した。彼らの大部分はフィリッポスとの同盟を選んで以前の司令官スルピキウスによってなされたギリシアへの狼藉を理由としてローマ人に立ちはだかった。ローマ派が彼らの見解を熱弁すると、敵対者の大部分は苛立ちつつ民会から退席し、残りの人たちは彼らの数の少なさのために屈服を余儀なくされてルキウスと同盟を結んで兵器を運び出してすぐに彼のコリントス包囲に同行した。
『使節について』より

フラミニヌスはマリス湾でフィリッポスとの二度目の会談に入った。ロドス人、アイトリア人、そしてアタマニア人の王アミュナンドロスがフィリッポスへの不満を示すと、フラミニヌスは彼にフォキスから守備隊を退去させるよう命じ、双方にローマへと使節を送るよう求めた。これが実行されると、ギリシア人はローマの元老院に対し、フィリッポスに彼らの国からギリシアの足枷と呼ばれる三つの守備隊、即ち一つはボイオティア人とエウボイア人とロクリス人を怯えさせたカルキスの守備隊、一つはペロポネソス半島の入り口を閉じるコリントスの守備隊、そしていわばアイトリア人とマグネシア人を待ち伏せする位置を占めるデメトリアスの三つ目の守備隊を退去させるよう訴えた。元老院はフィリッポスの使節団に王はどういう了見で守備隊を置いているのかと尋ねた。自分たちは知らないと彼らが答えると、元老院は、フラミニヌスが問いを決めて彼が考えた通りに行動するだろうと言った。こうして使節団はローマを発った。フラミニヌスとフィリッポスは何らかの合意に至ることができず、反目を再開した。
『使節について』より

1 フィリッポスは再び破れるとフラミニヌスに平和を訴えるべく使者を送り、フラミニヌスは彼に再度の会談を認めた一方、これにいたく不服だったアイトリア人は王から買収されたとして彼を告発し、全ての事柄における彼の突然の心変わりを訴えた。しかし彼はフィリッポスが退位してアイトリア人が覇権を握るのはローマ人やギリシア人のためにはならないと考えていた。またことによると勝利の予期しない大きさで彼は満足したのかもしれない。フィリッポスがどこに来るかで合意すると、彼は諸都市の同盟者たちに自分たちの意見を伝えるよう指示した。その一部はフィリッポスの災難ではっきり示された運命の神秘を不信の目で見て、彼に降り懸かり、非運と同じくらいに脆弱さのせいであるところのこの災難を顧慮したために穏健な処分をした。しかしアイトリア人の議長アレクサンドロスは言った。「フラミニヌス殿はフィリッポスの王国を覆さぬ限りこの勝利はローマ人やギリシア人のためにならならいことをご存じでないようですな」
2 フラミニヌスは答えて言った。「ついぞ敵を滅ぼしたことがなく、多くの敵を助けてきたし、昨今カルタゴ人には財産を返還して自分たちに悪事を働いた者者を同盟者としてきたローマ人の習わしをアレクサンドロス殿はご存じでないようだ。また、マケドニアの国境にはマケドニア王国がなくなれば、易々とギリシアへと攻め込める多くの夷狄がいることを貴殿はお忘れのようだ。その上で私はマケドニアの政府は夷狄から貴殿らを守るために残されるべきだが、フィリッポスは彼がこれまで明け渡すのを拒んできたギリシアの地から撤退し、ローマ人に戦費として二〇〇タラントンを支払い、彼自身の息子デメトリオスを含む最も高貴な家々から人質を差し出すべきだと考えているわけである。元老院がこれらの条件を批准するまで四ヶ月の休戦がなされるべきである」
3 フィリッポスはこれら全ての条件を飲み〔紀元前196年〕、元老院はその事実を聞き知ると和平を批准する際にフラミニヌスが承認した条件は寛大にすぎると考えたため、フィリッポスの支配下にあった全ギリシア都市は解放され、彼は次のイストミア競技祭までにまでにそれらから守備隊を撤退させ、フラミニヌスに六つの櫂の長椅子を持つ船一隻と甲板付きの小型船五隻を除く全ての船舶を引き渡し、ローマに銀五〇〇タラントンを支払い、その際十年間に毎年分割払いで五〇〇タラントン以上をローマに送金し、手元にいる全ての捕虜と逃亡兵を引き渡すべしと宣言した。それらの条件が元老院によって追加されてフィリッポスはこれら全てを飲み、これによってフラミニヌスが名付けた条件はあまりにも寛大であることが明らかになった。彼らは戦争の終結における通例のごとく一〇人の相談役をフラミニヌスのもとに送り、彼らの補佐を受けて彼は新たな取得物を規定した。
4 彼らと共にそれらの事柄を処理すると彼はイストミア競技祭へと向かい、競技場が人で溢れていたためにラッパで静粛にするよう命じると、使者に以下の布告をするよう指示した。「ローマ人並びに元老院、そして彼らの将軍フラミニヌスはマケドニア人とその王フィリッポスを打ち破り、ギリシア人は外国の守備隊から解放されて貢納をせず、自らの慣習と法の下で暮らすべしと命じた」かくしてその場は大歓声と熱狂的な騒ぎの坩堝となり、あちこちの集団は使者をその言葉を繰り返させるために呼び戻した。彼らは将軍に冠と髪飾りを投げて彼らの都市に彼の像を建てることを票決した。彼らは感謝の印として黄金の冠をローマのカピトリヌスに送る使節団を送り、ローマ人の同盟者と自らのことを碑文に記した。ローマ人とフィリッポスの二度目の戦争の集結は以上のようなものであった。

戦間期
5 そう遠からぬうちにフィリッポスはアンティオコス王に対する戦争においてギリシアでローマ人に手を貸した。ローマ軍がトラキアとマケドニアの難路を通ってアジアのアンティオコスに向けて移動した際に彼は自身の兵で彼らを護送して食料と資金を彼らに提供し、道を修繕して深い川に橋を架け、ヘレスポントスに彼らを案内するまで敵対的なトラキア人を追い払った。これらの好意へのお返しに元老院は彼の息子で人質として彼らのもとにいたデメトリオスを解放し、未だに彼から受け取っていた金の支払いを免除した。しかしこれらのトラキア人がアンティオコスへの勝利から戻る最中のローマ軍を襲った時、フィリッポスはもう彼らと一緒にはおらず、トラキア人は戦利品を運び去ってその多くを殺し、これによってローマ軍が進んでいた時のフィリッポスが彼らにした貢献の大きさが如実に示された。
6 その戦争が終わりつつあった時、多くのギリシア人がギリシアの問題を解決した時にフラミニヌスが下した命令を無視し、フィリッポスの行いや様々な事柄を書き落としているとしてフィリッポスを非難した〔紀元前183年〕。これらの非難へ返答すべくデメトリオスが父のためにローマへと使節として向かい、ローマ人は人質だった時の彼を快く思っていたため、フラミニヌスは彼を元老院へと強力に後押しした。そして彼は非常に年若くいくらか動揺していたため、元老院は〔フィリッポスがしたことは〕正義にもとるものであったとの決定を下しはしたもののは彼に一つ一つ書き記された父の覚え書き、すでに行われた事柄とこれから行われる事柄を語るよう指示した。なるほど彼の不正な行いはどう考えても明らかであった。にもかかわらず元老院はアンティオコス問題でのその後の彼の熱誠を考慮し、彼を許すがそれはデメトリオスあってのことであると述べた。フィリッポスはアンティオコスとの戦争で最も如実に役に立っていたため、もし彼がアンティオコスと組んでいれば最大の被害を彼らに与えていたことだろうし、後者はこのためにいたく期待していたわけであり、そして今や自分は信用されておらず非難を受けていると見ていたためにフィリッポスはデメトリオスにそのことを頼んでいた以上、親切というよりもむしろ許しのおかげだと考え、それどころかこれはデメトリオスのおかげでしかないことに腹を立てて憤ったが、当面はこの気持ちを隠していた。その後、ローマ人の面前での或る仲裁で彼らはフィリッポスを弱める時を絶えず探していたために彼の領地をエウメネスに移した。それからすぐに彼は密かに戦争の準備を始めた。
『使節について』より




戻る