アッピアノス『ローマ史』「ガリア史」(断片)

1 最初の時代にガリア人はローマ人に戦争を仕掛け、カピトリヌスを除くローマ自体を落として焼き払った。しかしカミルスが彼らを破って撃退した。後代〔紀元前367年。〕に彼らが二度目の侵略を行うと彼は彼らを再び破り、その結果凱旋式を執り行ったが、これは彼が八〇歳のことだった。イタリアに攻め込んだ第三のガリア軍はティトゥス・クインティウス〔紀元前361年の独裁官ティトゥス・クインクティウス・ポエヌス。〕配下のローマ軍に撃滅された。その後、ガリア人の部族の中でも最も獰猛なボイイ族がローマ人を攻撃した〔紀元前358年。〕。独裁官ガイウス・スルピキウス〔ガイウス・スルピキウス・ペティクス。〕は彼らに向けて進撃し、以下の策略を用いたといわれている。彼は第一列の兵に投槍を放ってすぐに身を低くするよう命じた。それから第二列、第三列、そして第四列の兵に各々の投槍を投げると代わる代わる身を低くさせたため、彼らは後列から投げられた槍に当たることがなかった。次いで最後の列が投槍を投じると、全軍が雄叫びを上げながら突如として突撃して白兵戦を戦わせるようにした。間断なく次々と多くの投擲兵器が放たれると敵は混乱に陥った。ガリア人の槍は投槍とは似ても似つかなかったが、ローマ人がピラ〔ピラは複数形で、単数形でピルム〕と呼ぶ槍は〔刃が〕四角錐で、木と鉄でできていて、切っ先を除いて堅くはない。このようにしてボイイ軍はローマ軍によって完全に壊滅させられた。
2 もう一つのガリア軍はポピリウス〔紀元前359年の執政官マルクス・ポピリウス・ラエナス。〕によって破られ、この後に先のカミルスの息子のカミルス〔紀元前349年の執政官ルキウス・フリウス・カミルス。〕が同じ部族を破った。後にアエミリウス・パプス〔紀元前3世紀前半に活躍したクイントゥス・アエミリウス・パプス。〕はガリア人からいくつかの戦勝記念碑を勝ち取った。マリウスの執政官期の直前にこの上なく数が多く好戦的であり、身体の壮健さで最も恐るべきケルト人諸部族の群れがイタリアとガリア両方に来寇し、何人かのローマの執政官を破ってその軍勢を粉砕した。マリウスが彼らに向けて送られ、彼は彼ら全部を壊滅させた。ガリア人とローマ人の最後にして最大の戦争はカエサルの指導下で戦われたものであるが、それというのも彼は指揮権を振るった一〇年間で四〇〇万人以上の夷狄と戦ってこの全部を相手にしたからだ。そのうち一〇〇万人が捕らえられ、戦死した者はこれを上回った。彼は四〇〇の部族と八〇〇以上の町を平定し、これらは当初から忠実だったり征服されたりしたか、反旗を翻したかのいずれかだった。マリウス以前ですらファビウス・マクシムス・アエミリアヌスが非常に小さい軍勢をもってして一度の会戦で自軍は僅か五〇人しか失わずに一二万人のガリア人を殺したことがあった。そして彼はつい最近負傷していたにもかかわらず、今や残党に成り下がって他人の武器に寄りかかってとぼとぼと歩いていた兵を説いて激励し、夷狄と戦う術を提示した。

カエサルのガリア戦争(紀元前58-57年)
3 カエサルはヘルウェイイ族とティグリニ族およそ二〇万人に対する勝利で戦争の口火を切った。パウルス・クラウディウスの著作で述べられているように後者は以前の時代にはピソとカシウス率いるローマ軍を捕らえて軛に繋いだ〔紀元前107年。〕。ティグリニ族は今やカエサルの副官ラビエヌスに、他方のヘルウェイイ族は彼らを援助したトリコリイ族共々カエサルに打ち負かされた。彼はアリオウィストゥス麾下のゲルマン人を破りもし、最も大柄な民族であろうとも他の全ての民族に体躯、野蛮さで上回っていたこの民族は勇者の中の勇者であり、来世の生を信じていたために死を軽んじ、暑さと寒さの苦痛を同じだけ耐え、食糧難の時には草を食べて生き、彼らの馬は木を食べた。彼らは苦しく忍耐強く戦い続けることはなく、学問的なやり方や通常の陣形では戦わず、単に気分を高ぶらせて野獣のように襲いかかっていたためにローマの学問と忍耐に打ち負かされた。というのもゲルマン人が猛突撃をかけてレギオーを少しの距離だけ押し込んだとしても、ローマ人は隊列を破られることなく守り続けて彼らの裏をかき、ついには彼らのうち八〇万人を殺したからだ。
4 後にカエサルはいわゆるベルガエ族が川を渡っていたところを襲い、死体を橋にして川を渡れるほど多くの者を殺した〔紀元前57年。〕。行軍の後に野営地を設営していた彼の軍をネルウィイ族が奇襲して破った。彼らは大殺戮を行い、軍団副官と百人隊長の全員を殺した〔紀元前57年のサビス川の戦い。〕。カエサル自身は護衛隊と一緒にある丘に逃げ込み、そこで敵に囲まれた。後者〔ネルウィイ族〕は第一〇軍団によって背後から攻撃を受けたために壊滅したが、その数は六〇万人にものぼった。ネルウィイ族はキンブリ族とテウトネス族の子孫だった。カエサルはアロブロゲス族〔アドゥアトゥキ族を指している(N)。〕も征服した。彼はウシペテス族とテンクテリ族を、武装した者も非武装の者もまとめて四〇万人殺した。シカンブリ族は五〇〇騎の騎兵でカエサルの五〇〇〇騎の騎兵を敗走させた。その後に彼らは敗北し、このつけを払わされた。
5 カエサルはレヌス川を渡った最初のローマ人でもある。非常に大きな大陸よりも大きい島で、ローマの人々がそれまで知らなかったブリタニアにも渡った。彼は潮の流れに乗って渡った。波が起こると艦隊は最初はゆっくり、それから段々と早くなり、ついにカエサルがブリタニアに非常に早く来るまで波で押し流された。
『使節』より

紀元前4世紀初頭のローマ・ガリア戦争
 ギリシア暦の第九七オリュンピア会期に、レヌス河畔に住んでいたガリア人の大部分が新天地を求めてそこを去り、その数には十分とはいえない土地を占領した〔紀元前390年。〕。アルペス山脈を上ると彼らはエトルリアの肥沃地帯だったクルシウム領に襲いかかった。クルシウム人はそう遠くない時期にローマ人と同盟を結んでおり、今や彼らに助けを求めるに至った。かくしてファビウス家の三人が自分たちローマ人と同盟を結んだ国から立ち退きをガリア人に命じ、もし従わなければどうなるか脅すために使節団としてクルシウム人のもとに送られた。ガリア人は、自分たちは脅しであれ戦争であれ死すべき者を恐れないし、自分たちには土地が必要で、ローマ人の事柄には介入していないではないかと応答した。ファビウス家の男たちは分散してその地方で略奪を働いている最中のガリア人に攻撃をかけるようクルシウム人に説いた。彼らは遠征軍に参加して物を分捕っていた多くのガリア人を殺した。ローマの使節の一人のクイントゥス・ファビウスは部隊長をこの手で殺して衣服を剥ぎ、クルシウムまで彼の武器を持ち帰った。
『使節』より

 ファビウス家の男たちがこの多くのガリア人を殺した後、彼らの王ブレンヌスはローマの使節を接見するのを拒んだにもかかわらず、ローマ人を威圧するため、他の民族より大柄だったガリア人のなかでも輪をかけて体格の大きさで他の者から抜きんでていたガリア人たちを全員使節として選び、使節としての任務についていたファビウス家の男たちが万民法に反して彼と戦争を行ったことを抗議するためにローマへと送った。 ローマ人は罪人になりたくなければ罰を与えるために彼らを引き渡すようにと彼は要求した。ファビウス家の男たちは間違ったことをしたことをローマ人は認めていたが、その卓越した家門への多大な尊敬からガリア人に賠償金を受領するよう求めた。後者がこれを拒むと、ローマ人はファビウス家の男たちをその年の軍務官に選出し、次いでガリア側の使節団に対しては今やファビウス家の男たちは官職に就いているので彼らに自分たちができることはないが、もし彼らが翌年にもまだ機嫌が悪ければ再び来るようにと述べた。ブレンヌスと彼の麾下のガリア人はこれを侮辱と見なして意固地になった。したがって彼らは戦争で彼らと意見を共にするよう求めるために周辺の他のガリア人に手紙を送った。この呼びかけに従って大勢が集結すると、彼らは陣を畳んでローマに向けて進撃した。
『使節』より

 彼〔カエディキウス〕は敵陣を突破してカピトリヌスへと手紙を運ぶと約束した〔ブレンヌスを迎え撃ったローマ軍はアリアの戦いで大敗を喫してローマ市は陥落したが、ローマ人はカピトリヌスに交代して抗戦を続けた。ここで出てくるクイントゥス・カエディキウスはこの時にウェイイを基地にしてガリア軍と戦った人物で、後に名将カミルスを追放から呼び戻した。ここでの記述はカミルスの復帰の要請をカピトリヌスに届けた時のことを言っている。〕。
スーダより

 カミルスが執政官とされたという元老院の布告をカエディキウスが彼に運んでくると、カエディキウスは自分が被った被害を自分の国に与えないようカミルスに熱心に勧めた。後者〔カミルス〕は彼の言っていることを遮って「もし私がローマ人に対して抱いているような感情を抱いていたなら、彼らがいつか私を恋い焦がれることになっただろうと私は神々に祈ったことはありません。今私は、自分が国家が被った災難に等しい奉仕をしようというより立派な祈祷をしているのです」と言った。
ペイレスクより

 カピトリヌスに上る手段を持てないガリア軍は飢餓で防衛軍を弱らせるために野営地で大人しくすることにした。ドルソという名の神官がウェスタの神殿で毎年の生贄を捧げるためにカピトリヌスから降りてきて聖なる用具を持って敵陣を無事に通り抜けたが、敵は彼の勇気に畏敬の念を抱いたり彼の敬虔さと立派な恰好を尊重しりした。したがって聖務のために危機に陥った彼はこれで助かることになった。伝えられるところでは、このような出来事が起こったことはローマの著述家カシウスが述べている〔これは紀元前2世紀初めに生きたルキウス・カシウス・ヘミナを指し、彼の著作の全ては他の本に引用された断片を除いて散逸した(N)〕。
ペイレスクより

 元来不摂生で、穀物しか産出せず他の生産物も乏しい不毛な地方で暮らしていたためにガリア人は葡萄酒と他の奢侈に溺れた。したがって彼らの巨躯は繊細になって脂肪で膨らみ、暴飲暴食で鈍重になり、走ったり苦労することが全くできなくなった。そして激しい活動が必要になると汗と息切れで早々に疲れ果てた。
スーダとペイレスクより

 彼〔カミルス〕は彼らを裸にしてみせてローマ人に言った。「これが戦いの時に恐ろしい叫び声で諸君を打ちのめし、武器で粉砕して長剣で揺り動かし、髪をはためかした連中だ。彼らの魂の弱弱しさを、体のだらしなさとしまりのなさを見よ、そして君たちは自らを仕事のために引き締めるのだ。
スーダより

カエサルのガリア戦争その一
カエサルはキケロへの攻撃を知るや戻ってきた〔紀元前54年のネルウィ族によるクィントゥス・トゥッリウス・キケロ(哲学者としてもお馴染みのキケロの弟)への攻撃を知ったカエサルが救援に赴いた事件。〕。
スーダより

ブリトレスはローマへの忠誠を捨てるようアエドゥイ族を唆した。カエサルがこのことで彼らを責めると、彼らは昔からの同盟が優先されたのだと言った。
マイ枢機卿のヴァチカン写本より


紀元前四世紀中頃から紀元前二世紀にかけてのガリア人との戦争
 人々は城壁から戦いを見守り、疲労した兵に代わって新手の兵を絶えず繰り出した〔紀元前360年のコリナ門での戦い。〕。しかし疲労したガリア軍は新手の敵と戦うことで無秩序な敗走へと陥った。
マイ枢機卿のヴァチカン写本より

 荒々しく、そして血を出し尽くしたそのガリア人はウァレリウスを追い、彼と取っ組み合おうと逸った〔紀元前349年のマルクス・ウァレリウス・コルウスについての事件。〕。ウァレリウスは彼の正面に出るのをのらりくらりとかわすのに時間を費やし、そのガリア人はバタリと倒れた。ローマ軍はガリア人とのこの二度目の一騎打ちに関して自分たちを祝った。
マイ枢機卿のヴァチカン写本より

 ローマ人と協定を結んでいたにもかかわらずセノネス族は対ローマ人の傭兵軍を準備し、それゆえに元老院はこの協定への違反を抗議すべく彼らに使節団を送った。ブリトマリスなるガリア人はまさにこの戦争でエトルスキ人の側に立ってローマ人に殺された自分の父のことでローマ人に憤慨しており、使節団がメルクリウスの杖を手に持っていたにもかかわらず彼らを殺して彼らの公務用の衣装を着込んだ。彼は彼らの体を細切れにして野原にまき散らした。執政官のコルネリウス〔プブリウス・コルネリウス・ドラベラ。〕は行軍中にこの最悪の行動を知ると、サビニ地方とピケヌムを通って大急ぎでセノネス族の町々へと向かい、全ての町を火と剣で荒らした。彼は女子供は奴隷にして成人男子は一人残らず殺し、ありとあらゆる可能な手段でその地方を荒し尽くし、その土地には誰も住めないようにした。彼はブリトマリスただ一人を拷問するための捕虜として連れて行った。少し後、セノネス族−−傭兵として勤務していたところだった−−は最早帰るべき故郷がなくなっために執政官ドミティウス〔グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス。〕に敢然と襲いかかり、彼に敗れてやけっぱちになりながら殺された。このような罰が使節への罪の廉でセノネス族に与えられた〔紀元前283年。〕。
『使節』より

 ローマ人に敗れたサリュイ族の酋長たちはアロブロゲス族のもとに逃げ込んだ〔紀元前121年。〕。ローマ人は彼らの引き渡しを要求し、これが拒否されるとグナエウス・ドミティウス〔グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス。紀元前122年の執政官。〕指導の下でアロブロゲス族に戦争を仕掛けた。彼がサリュイ族の領地を通っていたところ、見事に正装して同じように正装した随行員、犬たちを伴ったアロブロゲス族の王ビトゥイトゥスの使節が彼に会った。それというのもこの地方の夷狄は犬を護衛としても使っていたからだ。随行員の中には音楽家がいて、彼はビトゥイトゥス王、次いでアロブロゲス族、それから使節自身の賛歌を夷狄風に歌い、使節の生まれと勇気と富を嘉した。主としてこのことのために立派な使節たちはいつもこういった人たちを連れていたのだ。しかし彼がサリュイ族の酋長たちへの寛恕を請うたにもかかわらず、この人たちは何ら成すところがなかった。
『使節』より

 略奪品に目がくらんだテウトネス族の大軍勢がノリクム領に攻め込んできた〔紀元前113年。〕。執政官のパピリウス・カルボは彼らがイタリアに侵入するのではないかと恐れてアルペス山脈の最も狭くなっている峠の一カ所を占拠した。彼らがこの方面に向かわないでいると、彼らがローマ人の外国の友人であるノリクムの人々に攻めかかったことを訴えて彼は彼らを攻撃した。同盟者として防戦に立つ義務がなくとも友情を理由として介入しようとすることで人々を盟友にするというのがローマ人のやり方であった。カルボが近づくと、テウトネス族は、自分たちはローマとノリクムのこの関係を知らなかったし将来にわたって〔ノリクムから〕手を引くつもりだという手紙を彼に送った。彼はその使節団を賞賛し、帰国にあたっての水先案内人を彼らにつけたが、遠回りをさせるようにと案内人たちに自ら指示した。彼自身は近道を通って進み、すでに敵意を捨てていたテウトネス族に出し抜けに襲いかかったが、彼は軍の大部分を失って自らの不実のために大損害を被った。戦いの最中に夜の闇が訪れて凄まじい雷雨が起こって両軍を別れさせ、天からの純然たる恐怖によって戦いが終わっていなければ、おそらく彼は全軍共々死んでいたことだろう。事がこのようになりはしたものの、ローマ軍は小部隊になって林に逃げて四苦八苦しつつも三日後に集結した。テウトネス族はガリアへと向かった。
『使節』より

 彼〔マリウス〕は夜明けまで彼らにキンブリ族の遺体に手をつけるなと命じたが、それは彼らは黄金で身を飾っていたと彼が信じていたからだった。
スーダより

カエサルのガリア戦争その二
 ティグリニ族とヘルウェティイ族の二部族がローマのガリア属州へと攻め込んだ〔紀元前58年。〕。カエサルはこの動きを聞くと、彼らを防ぐためにロダヌス川沿いに一五〇スタディオンほどの長さの壁を建設した。彼らが協定を結ぼうとして彼に使節団を送ってくると、彼は人質と金を差し出すよう命じた。彼らが自分たちにはこんなことを受け入れる習わしはないと答え、それらを差し出さなかった。彼は〔両部族の〕連絡点の形成を防ごうと望んだためにラビエヌスをより弱い方のティグリニ族に送り、その間に彼は約二〇〇〇〇人のガリアの山岳地帯の兵を連れてヘルウェティイ族に向けて進軍した。ラビエヌスの仕事は簡単なもので、彼は事に気がつかなかったティグリニ族を川岸で攻撃して破り、無秩序に逃げる彼らの大部分を散り散りにさせた。
『使節』より

 レヌス川の向こう側のゲルマン人の王アリオウィストゥスはカエサル到着より前にこちら側に渡り、ローマ人の盟友だったアエドゥイ族との戦争を行った〔紀元前59年。〕。しかしローマ人が彼に思いとどまるよう指図すると、彼は従ってアエドゥイ族のもとから立ち去り、ローマ人の友人の一人に数えて欲しいと望んで受け入れられ、執政官のカエサルはこれを選んだ。
『使節』より

 ゲルマン人の王でローマ人の友人であると票決されていたアリオウィストゥスは会談のためにカエサルのもとにやってきた〔紀元前58年。〕。彼らが別れた後、彼は今一度会いたいと望んだ。カエサルはこれを拒否したが、ガリア人の数人の指導者に自分と会談するよう手紙を書いた。アリオウィストゥスが彼らを拘束したため、カエサルは彼を威嚇して戦争を起こしたが、ゲルマン人の名高い武勇のために軍は恐怖に襲われた。
『使節』より

 ゲルマン部族のウシペテス族とテンクテリ族は八〇〇騎の騎兵と一緒にカエサルの騎兵およそ五〇〇〇騎のもとに逃げ込んできたと信じられている。彼らがカエサルに使節団を送ると、彼は彼らを捕捉して攻撃を仕掛け、奇襲によって完膚なきまでに倒したために四〇万人が斬殺されるほどだった。ある著作家が言うところでは、ローマの元老院でカトーは、その時は交渉が未解決だったカエサルはこの流血沙汰の故に夷狄に引き渡されるべしと主張したという〔つまり交渉中の相手に攻撃をかけたことが告発の理由となった。〕。しかしカエサルが自らの日報で言うところではこうであった。ウシペテス族とテンクテリ族が彼らの以前に故郷に戻るよう命じられた時、彼らを追い出したスエウィ族に使節を送って彼らの答えを待っていた。交渉が未決定だった間に彼らは八〇〇騎の騎兵で彼の兵に襲いかかってその予期せぬ攻撃によって彼の兵五〇〇〇を敗走させた。そしてこの良き信義に対する違反を説明するために彼らがもう一人の使節を送ると、彼は同様の欺瞞を疑い、答えを寄越すより前に攻撃をかけたということである。
『使節』より

すぐさま彼らはブリトン族に宣誓への違反を唆し、彼らとの協定が友好な間は野営地はまだ彼らのところにあると訴えた〔紀元前55年のカエサルの第一次ブリタニア遠征で、ローマ軍に敗れたブリタニアの指導者たちがローマ軍の船が壊れ、食料も乏しいことを知って考えを改め、再びローマ軍と戦うことを決意したあたりの話であろう(『ガリア戦記』, IV. 30)。〕。
スーダより




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