アッピアノス『ローマ史』「ミトリダテス戦争」

1巻
1 ホメロスの詩文で述べられているように、ギリシア人が考えるところでは、真夜中にディオメデスによって殺害されたレソスと共にトロイア戦争に参戦していたトラキア人たちは〔彼らの王であるレソスが殺された後に〕トラキアに渡る最短距離だったエウクセイノス海の入り口の土地まで逃げたという。幾人かの人は彼らは船を見つけることができなかったためにそこに留まってベブリュキアと呼ばれる地方を手に入れたと言っている。他の人たちは彼らはトラキアのビテュニアと呼ばれるビュザンティオンの向こう側(1)にある地方へと渡ってビテュア川沿いに住み着いたが、飢餓のためにベブリュキアへと戻らざるを得なくなり、以前彼らが住んでいた場所にあった川にちなんでビテュニアと名付けたと言われている。あるいはビテュニアとベブリュキアはそんなに違っていないので、その名は時の流れの中で無自覚のうちに彼らによって変えられたのかもしれない。幾人かの人はこのように考えているわけである。他の人たちは彼らの最初の支配者はゼウスとトラケの息子ビテュスであり、それら二つの地方は彼らにちなんで名付けられたと述べている。
2 ビテュニアについての端書きはこれくらいにしておこう。ローマ史についての著述においてローマ人以前にその地方を次々と支配した四九人の王について特別に語ることは我々の関心の外にある。狩人とあだ名されたプルシアス(2)はマケドニア王ペルセウスが彼の姉妹を嫁がせた一人であった。そう遠からぬうちにペルセウスとローマ人とが戦争状態に入ると、プルシアスはどちらの側にもつかなかった。ペルセウスが捕虜になるとプルシアスはローマの将軍たちと会談し、彼らがテベヌスと呼ぶトーガを纏ってイタリア風の履き物を履き、頭を剃って主人の意のままにされる奴隷用の縁なし帽子を被り、他の点でも卑しく取るに足らない姿で現れた。彼らと会談すると、ラテン語で言った。「私は『解放された』とでも言うべきローマ人の解放奴隷です」。彼らは彼を笑ってローマへと送った。そこに馬鹿げた有様で出頭してくると、彼は許しを得た。
3 少し後にアジアの地方のペルガモン周辺の王アッタロス(3)に対して怒ったプルシアスは彼の領地を略奪した(4)。ローマの元老院はこれを知るとプルシアスに彼らの友人であり同盟者であるアッタロスへの攻撃をやめるよう求める手紙を送った。彼がそれに従うのを遅延させたため、使節団は元老院の指示に従い、彼らの言うところでは同数の兵を連れて待ってるアッタロスとの協定の交渉のために国境へと一〇〇〇騎の騎兵と共に来るよう彼に厳命した。アッタロスの小勢を軽蔑して彼を罠にはめようと望んだプルシアスは使節団に前もって一〇〇〇人の兵を引き連れて来るという旨の手紙を送ったが、本当はまるで戦いに行くかのように手持ちの全軍を率いていった。これを知るとアッタロスと使節団は一目散に逃げ出した。プルシアスはローマ人が残した荷駄獣を接収してニケフォリオン砦を占領して破壊し、そこにあった神殿を焼き払ってペルガモンに逃げ込んだアッタロスを包囲した。それらの出来事がローマで知られると、アッタロスが被った損害への補償を命じる新たな大使がプルシアスへと送られた。それからプルシアスは心配に駆られ、命令に従って撤退した。使節団は、彼が罰としてアッタロスにすぐさま二〇隻の甲板付きの船を引き渡し、一定期間内に五〇〇タラントンの銀を支払うべしと決定した。したがって彼は船を明け渡して規定の期間の支払いを始めた。
4 プルシアスは度を超した残忍さのために臣民から憎まれていたため、彼らは彼の息子ニコメデスの方に非常に靡いた。したがって後者はプルシアスの猜疑を招くこととなり、彼はニコメデスをローマで暮らさせるために送った。彼がそこで大層な評判を得たことを知ったプルシアスはアッタロスへの〔賠償金の〕未払い金の支払いから彼を解放するよう元老院に誓願するようにと彼に指示を出した。彼は同僚の使節としてメナスを送り、もし支払い額の減額を担保できれば、ニコメデスを助け、できなければローマで殺すようにと言った。この目的のために彼は彼と二〇〇〇人の兵士と共に多数の小舟を送り出した。他方の言い分を主張するためにアッタロスによって送られていたアンドロニコスがそれ(5)が略奪品よりも少額であると示したためにプルシアスに科せられた罰金は免除されず、メナスはニコメデスが評判高く魅力的な若者であることを理解すると、途方に暮れて彼に事の次第を知らせた。彼はニコメデスを敢えて殺さず、ビテュニアにも戻らなかった。彼の延期のことを知るとこの若者は丁度自分も望んでいたことであった彼との会談を行おうとした。彼らはプルシアスに対する陰謀を企んでアッタロスの代理人アンドロニコスの協力を確保し、アンドロニコスがニコメデスをビテュニアに帰すようにアッタロスを説得することになった。彼らはエペイロスの小さな町ベルニケで会談することに同意し、彼らはそこに事の次第を相談するために夜に船で入り、夜明け前に分かれた。
5 朝にニコメデスは王の紫衣を纏って頭に王冠を被って船から出てきた。アンドロニコスは彼と会って彼に向けて王にする様式の挨拶をし、彼同行していた三〇〇人の兵と共に彼を護送した。メナスはニコメデスの到来を初めて知ったふりをして、配下の二〇〇〇人の兵のもとへと大急ぎで向かい、不安なふりをして叫んだ。「我々には二人の王がいて、一人は母国に、もう一人はここへと向かいつつある以上、我々の身の安全は彼らのどちらがより強くなるのかの予想に完全にかかっているわけだから、我々は我々自身の利害を考えて用心深く未来についての判断を下すべきだ。ビテュニア人はプルシアス様を嫌っているが、ニコメデス様に惹かれている。指導的なローマ人らはこの若者を好いており、アンドロニコス殿はすでに護衛を提供しており、ビテュニア人に沿って広大な支配領域を持っていてプルシアス様の長年の敵であるアッタロス様とニコメデス様が同盟にあることが示されている」これに加えて彼はプルシアスの残虐さとあらゆる人に対する彼の常軌を逸した行動、彼がこういうわけでビテュニア人から受けている一般的な憎悪について詳しく述べた。彼らは兵士たちもまたプルシアスの邪悪さを嫌悪しているのを見て取ると、彼らをニコメデスのところへと率いていって前にアンドロニコスがしたように彼に向けて王に対する様式の挨拶をし、二〇〇〇人の兵でもって彼の親衛隊を結成した。
6 アッタロスはその若者を温かく迎え、プルシアスに占領していたいくつかの都市とニコメデスに物資を提供するための領地を譲渡するようにと命じた。プルシアスはアッタロスの王国全土を自分の息子に最近与えたばかりだと返答し、これはプルシアスが前にアジアに攻め込んだ時にニコメデスのため計画したことであった。この応答を出した後、彼はローマでニコメデスとアッタロスへの正式な告発を行い、彼らを裁判へと召還した。アッタロスの軍勢はすぐにビテュニアへと攻め込み、そこの住民は喜んで侵略者の側についた。プルシアスは誰も頼らず、ローマ人が自分を陰謀から助けてくれると期待し、義理の息子のトラキア人ディエギュリス(6)に五〇〇人の兵を求めてこれを得て、彼らのみを親衛隊としてニカイア(7)の砦に逃げ込んだ。ローマの法務官はアッタロスに好意的だったため、ローマの元老院へとプルシアスの大使を案内するのを遅らせた。彼が彼らを案内すると、元老院は法務官自身が代表団を選び出して問題解決のために送るべしと票決した。法務官は三人の人物を選び出し、そのうち一人は一度石で頭を打たれて以来臆病になっていた者であり、もう一人は病んだ障害者であり、三人目は全くの馬鹿者と思われていた者だった。かくしてカトー(8)はこの使節について、知性がなく、足もなければ頭もないという同時代人としての意見を述べた。
7 その代表団はビテュニアにやってきて戦争の停止を命じた。ニコメデスとアッタロスは黙従するふりをした。ビテュニア人は〔ニコメデスとアッタロスによって〕もうプルシアスの残忍には絶えられないと述べよと、とりわけその後に彼らに対する不平を表明せよと命じられていた。それらの苦情がまだローマで知られていないことを口実として代表団は延期し、まだ終わっていない仕事をそのままにした。プルシアスはそれだけを頼みとしていたために自力での自衛手段の用意を怠っていたローマ人の援助を絶望視すると、ニコメディアを自らの手中に置いて侵略者に抵抗するためにその都市へと退却した。しかし住民は彼を裏切って門を開き、ニコメデスが軍と共に入城した。プルシアスはゼウスの神殿に逃げ込み、そこでニコメデスの使節団の数人によって刺殺された(9)。このようにしてニコメデス(10)がビテュニア人の王としてプルシアスの後を襲った。彼の死(11)にあって彼の息子で愛父王とあだ名されていたニコメデス(12)が後を襲い、元老院は彼の先祖伝来の権利を承認した。ビテュニアの次第はこのようなものであった。今後の結果を予想してこのニコメデスの孫であったもう一人のニコメデス(13)は自らの意志で王国をローマ人に遺贈した。

2巻
8 マケドニア人〔の征服〕以前のカッパドキアの支配者が自治権を持っていたのか、ダレイオスに服従していたのかどうか私は明確に述べることができない。私はアレクサンドロスは年貢金を集めるために征服した諸民族の支配者を後方にそのまま残した一方で自らはダレイオス追討を急いだと判断するものである。しかし彼はアッティカ起源のポントスの都市で、元々が民主政体であったアミソスを奪回した。さらにヒエロニュモスは、アレクサンドロスは全くそこの諸民族には手をつけなず、ダレイオスが別の道を取るとパンヒュリアとキリキア沿岸沿いに進んだと言っている。しかしアレクサンドロスの後マケドニア人を支配したペルディッカスはカッパドキアの支配者アリアラテス(14)を捕らえて縛り首にしたのであるが(15)、それは彼が反乱を起こしたのかあるいはその地方をマケドニア人の支配下に置き、カルディアのエウメネスにそこの人々を与えるためであった。後になってエウメネスはマケドニア人の敵であるとの判決を受けて殺され(16)、アレクサンドロス帝国の監督者としてのペルディッカスの地位を引き継いだアンティパトロスはニカノルをカッパドキアの太守に任命した(17)
9 遠からぬ後にマケドニア人の間で対立が起こった。アンティゴノスはラオメドンをシュリアから追い出して自身が支配者となった。彼はペルシア王家の後裔たるミトリダテス(18)なる者を同行させていた。アンティゴノスはミトリダテスが土地に黄金を蒔き、それを刈り取ってポントスに持っていく夢を見た。したがってアンティゴノスはミトリダテスを殺そうとして拘束したが、ミトリダテスは騎兵六騎と共に逃げてカッパドキアの砦に拠り、マケドニア人の勢力の衰退を受けて多くの者が彼のもとに集まり、彼はカッパドキアの全域と隣接するエウクセイノス海沿岸の地方を手にした。彼は築き上げたこの強大な勢力を子供たちに残した(19)。彼らは六人目のミトリダテス(20)まで王家の創始者から次々と継承し、彼はローマ人と戦争を行った。カッパドキアとポントス両方にこの家の王たちが存在したために彼らは統治権を分割し、幾人かは一方を、幾人かはもう他方を支配したものと私は判断している。
10 とにかくローマ人の一番の友好者でありカルタゴ人との対決時(21)に幾らかの船と小艦隊を援軍として送ってさえいて「恩恵者」とあだ名されていたポントス王ミトリダテス(22)は隣国であったカッパドキアに侵攻した。彼の後は息子の「ディオニュソス」または「愛父王」とあだ名されたミトリダテスが継いだ。ローマ人は自分たちのところに逃げ込んでいてミトリダテスよりもその国の支配者に相応しいとみなされていたアリオバルザネス(23)をカッパドキアに復位させるようミトリダテスに命じた。あるはひょっとしたら彼らはかの偉大な君主の増大する勢力を分散させ、いくつかの部分に分割した方が良いのではないかと考えたのかもしれない。ミトリダテスは命令に従ったが、ビテュニア王ニコメデス(24)の兄弟で、彼を権力の座から引き摺り下ろして権力を簒奪した「善人」とあだ名されたソクラテスに軍を委ねた。このニコメデスは、ローマ人によって世襲財産としてビテュニア王国を受け取ったプルシアス(25)の子であったニコメデス(26)の子であった。それと同時(27)にミトラアスとバゴアスがローマ人によってカッパドキアの王に据えられていたアリオバルザネスを追放し、彼の地位にアリアルテス(28)をつけた。
11 ローマ人はニコメデスとアリオバルザネスを同時に各々の王国に復位させようと決めてこの目的のためにマニウス・アクィリウスを団長とする使節団を送り、ペルガモン周辺のアジア地域を管轄下に置いていたルキウス・カシウスに彼らの任務に協力するよう命じた。似たようにして愛父王ミトリダテスその人にも命令が送られた。しかし後者はローマ人のカッパドキアへの干渉に憤慨し、彼らによって――私がギリシア史で述べたように――最近フリュギアを略奪されていたために協力に応じなかった。にもかかわらずカシウスとマニウスは前者の軍とガラティア人とフリュギア人から集められた大軍をもってしてニコメデスをビテュニアに、アリオバルザネスをカッパドキアに復位させた。彼らはローマ人が彼らを助けてくれると約束し、ミトリダテスの隣人として彼の領地へと侵攻して戦争を起こすよう彼らに同時に勧めた。両者はミトリダテスの武力を恐れていたために国境でこれほど重要な戦争を起こすことに躊躇した。使節の主張を受け、ニコメデスは将軍たちと使節団に権力の座への復位への礼として多額の金を払うことに同意しはしたが、彼は自国ではローマ人から利子付きで借りていて、催促を受けていた他の多額の金もまだ借りたままだったこともあり、ニコメデスはしぶしぶながらミトリダテスの領地へと攻撃をかけ、抵抗を受けることなくアマストリス市あたりまでを略奪した。戦争の良好で十分な大義名分を欲していたミトリダテスは準備のできた軍を持っていたにもかかわらず撤退した。
12 ニコメデスは大量の戦利品を携えて戻り、ミトリダテスはローマの将軍たちと使節らのところへとペロピダスを送った。彼は彼らが戦争を起こしたがって自分への攻撃を誘発したことを知らないわけではなかったが、開戦のより明白な大義名分を得ても彼らとミトリダテス自身とその父との友好と同盟を思い起こさせるためにそれを隠し、代わりにペロピダスはフリュギアとカッパドキアが彼から力づくで奪われ、そのうちカッパドキアは常に彼の父祖のものであり、彼の父によって彼に残されたものであったと言った。「フリュギアは」彼は続けた。「あなた方の将軍によってアリストニコスへの勝利の報償として陛下へと与えられたものでありました。それもこれも陛下がそのために同じ将軍に多額の金を払ったにもかかわらず、であります。しかし今やあなた方はニコメデスにエウクセイノス海の出入り口を閉鎖し、アマストリスまでの国土を侵略することさえ許しましたし、あなた方は彼が無事に莫大な略奪品を持ち帰ったことを知っているはずです。我が王は弱くはなく、自己防衛のために備えていないわけでもありませんでしたが、陛下はあなた方がその所行の目撃者となるのを待っておられたのです。あなた方がこの全てを見届けた以上、あなた方の友であり同盟者であらせられるミトリダテス様があなた方を友人であり同盟者と呼んでいるのも――協定を読めば分かることですが――我々をニコメデスの悪行から守るかその悪党を抑えてくれるからなのです」
13 ペロピダスが話を終えると、ニコメデスの使節たちはそれに答えて言った。「ミトリダテス殿はニコメデス様に長らく陰謀を企んでおり、ソクラテス様が物静かな人柄で兄君が統治をして然るべきであると考えていたにもかかわらず、ミトリダテス殿はソクラテス様を武力によって王位につけました。ミトリダテス殿がニコメデス様にしたことはこういったことであり、彼によるビテュニアでの王権の確立の打撃は明らかに我々に対立するのと同じくらいにあなた方ローマ人に対立するものなのです。似たようにしてあなた方はヨーロッパに手を出さないようアジアの王たちに命令した後、彼はケルソネソスの大部分を奪取しました。それらの行動こそ彼の横暴、敵意、そしてまさにあなた方ローマ人への違反行為の例証ではありませんか。彼の大がかりな準備を見ていただきたい。彼は自分の軍のみならず、トラキア人、スキュタイ人、その他多くの近隣の人々を用い、予定している大戦争の準備をしているのです。彼はアルメニアと婚姻による同盟を結んでおり、エジプトとシュリアにはそれらの国の王との友好を樹立する手紙を送っています。彼は三〇〇隻の軍船を持っており、さらに追加されることでしょう。彼はフェニキアとエジプトに海将と舵手を求める手紙を送りました。ミトリダテス殿が膨大な物量を集めつつあるそれらの軍備はニコメデス様ではなく、おおローマの皆様、他ならぬあなた方を標的としているのです。ミトリダテス殿はフリュギアを邪悪な約束によってあなた方の将軍の一人から手に入れた時、あなた方がその不正な取得物を放棄するよう命じたためにあなた方に対して憤っております。彼はあなた方によってアリオバルザネス殿に与えられたカッパドキアのことでも憤っています。彼はあなた方の増大しつつある勢力を恐れています。彼はローマ人が我々を狙っているという口実の下で準備をしていますが、可能ならあなた方を攻撃しようという腹づもりなのです。彼があなた方に宣戦するのを待たずに彼の言葉よりもむしろ行動を見て、協定を破棄せず、友情の虚名をあなた方に呈する偽善者を友とせず、我々の王国についてのあなた方の決定が我々双方に等しく敵であるような者によって無効にされるのを許さないことこそが賢明なことなのであります」
14 ニコメデスの使節がこのように述べた後にペロピダスは再びローマの集会で演説をし、もしニコメデスが過去のことについての訴えをするのならば自分はローマ人の裁定を受け入れるだろうが、明るみに出た目下の問題、つまりミトリダテスの領地の略奪、海の封鎖、そして莫大な略奪品の持ち出しについては議論や裁定の余地がないと言った。彼は言った。「我々は再びあなた方、ローマの皆様に呼びかけましょう。その蛮行を阻止するか、その被害者であるミトリダテス様を助けるか、全ての出来事を傍観して彼に自衛を許してどちらも助けないか、を」ペロピダスがこの訴えを繰り返していると、ずっと前からニコメデスを助けることをローマの将軍たちは決定していたにもかかわらず他方の側の言い分を聞くふりをした。ペロピダスの言葉とまだ有効だったミトリダテスとの同盟は彼らを恥じ入らせ、彼らはどう答えれば良いのかしばしの間途方に暮れた。長考の後、最終的に彼は以下のような巧妙な回答をした。「我々はミトリダテス殿がニコメデス殿の手で被害を受けるのを望まないし、彼が弱体化することがローマの利益になるとも考えていないので、ニコメデス殿との戦争を許すこともできない」この応答を出すことで、ペロピダスが彼らの回答が不十分だと訴えたがっていたにもかかわらず、彼を集会から退かせた。

3巻
15 ミトリダテスは以上のようにしておおっぴらにローマ人によって正義を否定されたために息子のアリアルテスを大軍と共にカッパドキア王国奪取のために送り出した〔紀元前88年〕。アリアルテスはそこを速やかに制圧してアリオバルザネスを追い出した。そしてペロピダスはローマの将軍のところへと戻ってこう言った。「おおローマ人よ、あなた方にすでに言ったそう遠からぬ時にフリュギアとカッパドキアを奪われた時、なんとミトリダテス王はあなた方からの不当な扱いに辛抱強く耐えておられたことか。ニコメデス殿は何という被害を陛下に与え、あなた方はそれを知りながら無視していたことか。我々があなた方の友情と同盟に訴えた時、あなた方はあたかもニコメデス殿が被害者であるかのように、彼への危害はあなた方の関心にはないと言って我々を原告ではなく被告であるかのような答えを寄越したのです。故にあなた方はローマ政府にカッパドキアで起こったことについて説明する義務があるのです。ミトリダテス様はあなた方が我々を軽蔑してその返答で我々を愚弄したがためにこのようなことをなさったのです。陛下は元老院にあなた方への不満を述べる使節を送ろうとの考えをお持ちです。陛下はあなた方が急いで何かをしでかさず、ローマの宣戦抜きでかくも大規模な戦争を始めさせないようにするため、弁明のためにそこへと一介の私人としてあなた方を召喚したのです。あなたはミトリダテス様が二〇〇〇スタディオンの長さの父祖の支配地を統治しており、非常に好戦的な民族であるコルキス人、エウクセイノス海に面するギリシア人、それら民族の向こう側の夷狄といった多くの近隣の民族を獲得したことを心に留めておくべきです。陛下はスキュタイ人、タウロス人、バスタルナイ族、トラキア人、サルマティア人、及びタナイス川とダヌビオス川とマイオティス湖沿いの地方に住む全ての人々を同盟者としました。アルメニアのティグラネス様は陛下の義理の息子であり、パルティアのアルサケス家は陛下の同盟者です。陛下は多くの船を持ち、その一部はすでに準備ができていて他は建造中で、ありとあらゆる豊富な装備をお持ちです。
16 ビテュニア人はエジプトとシュリアの王について最近あなた方に申し上げられましたような悪事は何も受けてはいません。もし戦争が起これば彼らは我々を助けてくれるばかりか、あなた方が新たに得たアジア、ギリシア、アフリカの諸属州、あなた方の貪欲に耐えきれなくなったために今苦しい戦争が起こっているイタリア本土の大部分も我々を助ることになります。この争いを収めることができるようになるより前にあなた方はミトリダテス様を攻撃してニコメデス殿とアリオバルザネス殿を代わる代わる彼にけしかけつつ、自分たちは本当は我々の友人であり同盟者であると言っているのです。あなた方はこのような偽装をしつつもすでにまるで敵のように振る舞っているのです。さあ、目を覚まし心を入れ替えるつもりならば、ニコメデス殿があなた方の友人であり同盟者へ危害を加えないようにするか――そうすれば私はミトリダテス王がイタリアでの反乱であなた方を支援すると約束しましょう――我々との友情の仮面を脱ぎ捨てるか、我々をローマに来させてそこで議論によって解決していただきたい」ペロピダスはこのように述べた。ローマ人は彼の演説は横柄だと思ってミトリダテスにニコメデスとカッパドキアに、ローマ人が後者にアリオバルザネスを復位させる件で手を出さないよう命じた。また彼はペロピダスに即刻彼らの野営地から立ち去り、王が彼らの命令に従うまでは戻ってこないよう命令した。この応答を寄越すと彼らは彼が道中誰かを騙さないようにするために彼を護送した。
17 このように話し終えた後、彼らはローマの元老院と平民会がそのような大戦争についての考えを聞くのを待たず、ビテュニア、カッパドキア、パフラゴニア、そしてアジアのガラティア人から軍を集め始めた。アジアの属州総督ルキウス・カシウスが軍の準備を整えるやすぐに全ての同盟軍が集められた。そこでカシウスがビテュニアとガラティアの境、マニウス(29)がミトリダテスのビテュニアへの進軍路、そして三人目の将軍オッピウス(30)がカッパドキアの山々の間というように別々になって野営した。それぞれの軍は歩兵と騎兵を合わせて約四〇〇〇〇人であった。彼らにはビュザンティオンで黒海の入り口を守っていたミヌキウス・ルフスおよびガイウス・ポピリウス指揮下の艦隊もいた。ニコメデスは歩兵五〇〇〇〇人と騎兵六〇〇〇騎を自ら指揮して出陣した。以上が送られた軍の総兵力である。ミトリダテスは手持ちの軍で歩兵二五万人と騎兵四万騎、甲板のついた船三〇〇隻、それぞれの列に櫂のついた船一〇〇隻、そしてその他それ相応の装置を有していた。彼には将軍としてネオプトレモスとアルケラオスという二人兄弟がいた。王は自分で多くのことを行った。同盟軍では、ミトリダテスの子アルカティアスが小アルメニア出身の騎兵一〇〇〇〇騎を率い、ドリュアロスがファランクスを指揮した。クラテロスが一三〇台の戦車を率いた。ローマ人とミトリダテスが最初に互いに対決したの第一七三オリュンピア会期(31)の頃であり、双方でかくも強大〔な軍〕が準備された。
18 ニコメデスとミトリダテスの将軍たちがアムニアス川と接する広い平野で互いを視界に収めると、彼らの軍は戦いに移った。ニコメデスは全軍を有していた。ネオプトレモスとアルケラオスには軽騎兵とアルカティアスの騎兵、少数の戦車しかなかった。ファランクスはまだ到着していなかった。彼らは数に勝るビテュニア人によって包囲されないようにと小部隊を平地にある岩山の丘を占領するために送った。ネオプトレモスは彼の部下が丘から追い立てられたのを知るとなお一層包囲されるのを恐れた。彼は急いで彼らを助けるために進み出ると同時にアルカティアスに助けを求めた。この動きを知ると、ニコメデスは似たようにして応戦しようとした。かくして血みどろの激戦が起こった。ニコメデスが優勢になり、ミトリダテス軍をアルケラオスのもとまで敗走させた。アルケラオスは右の端に進み出ると、彼へと注意を向けさせられていた追跡者たちに襲い掛かった。彼はネオプトレモスの軍が集まる時間を稼ぐために少しずつ後退した。十分に集まったと判断すると、彼は再び前進した。同時に鎌付戦車をビテュニア軍へと突進させ、その一部を真っ二つに切り裂き、他を恐れさせて散り散りにさせた。ニコメデス軍は半分に切られてもまだ息のある兵士、または欠片欠片にズタズタにされて鎌に一部がぶら下がっているのを見て怯えた。彼らは戦いでの損失よりむしろそのぞっとするような惨状に参り、持ち場にい続けるのを恐れた。こうして彼らが混乱に陥った一方で、アルケラオスは正面攻撃を仕掛け、反転したネオプトレモスとアルカティアスは背後から攻撃を仕掛けた。彼らは双方向かい合いつつ長時間戦った。ミトリダテス軍のファランクスの全部が戦場に到着していないにもかかわらず、自軍の兵の大部分が倒れた後にニコメデスは生き残りを連れてパフラゴニアへと逃げた。多額の金と多くの捕虜もろとも彼の陣営は鹵獲された。ミトリダテスはその全員を親切丁寧に扱って旅に必要な物資を持たせて母国へと送り、このために敵の間で寛大だという評判を得た。
19 良き判決も何かしらの公の布告もなしにあまりにも突然に大きな戦いの火蓋が切って落されたため、ミトリダテス戦争におけるこの最初の交戦はローマの将軍たちの警戒心を掻き立てた。良い位置を占めていたわけでも敵がへまをしたためでもなく、将軍たちの勇敢さと兵士の戦闘力によって寡兵が大軍を破ったのである。さて、ニコメデスはマニウスの横に並んで設営していた。ミトリダテスはビテュニアとポントスの境に横たわるスコロバ山を上った。彼の前衛のサルマティア人騎兵一〇〇騎が八〇〇騎のニコメデスの騎兵と遭遇してその一部を捕虜にした。ミトリダテスは彼らを母国へと解放して必要物資を与えた。ネオプトレモスとアルメニア人ネマネスは、ニコメデスがカシウスとの合流のために離脱してカシウスを戦いに加わらせようとしていた間、それから第七刻目にプトロファキオンの砦で退却中のマニウスを襲った。マニウスには騎兵四〇〇〇とその一〇倍の歩兵がいた。彼らは彼の部下一〇〇〇〇人を殺して三〇〇人を捕虜にした。彼らがミトリダテスのもとへと送られると、彼は彼らを同様に釈放したために敵から高く評価された。マニウスの陣営もまた鹵獲された。彼はサンガリオス川へと逃げて夜のうちにそこを渡り、ペルガモンへと逃げ延びた。軍と共に野営地を畳んで、フリュギアの非常に堅固な砦であった「ライオンの手」と呼ばれた場所へと逃げたカシウスとニコメデスおよびローマの全大使たちは、そこで新たに集めた職人、農夫および他の粗野な入隊者たちの集まりを鍛え上げ、フリュギア人から新しい兵士を召集した。彼らが役に立たないと見て取ると、彼らはそのような戦争に向かない者たちで戦うという考えを放棄して彼らを解散させ、カシウスは彼の軍を連れてアパメイアへ、ニコメデスはペルガモンへ、マニウスはロドスへと撤退した。エウクセイノス海の出入り口を守っていた部隊は彼らが散り散りになったという事実を知ると、散り散りになり、海峡と彼らが保有していた全ての船をミトリダテスに差し出した。
20 ニコメデスの全支配域を一撃で打倒したミトリダテスはそれを手にして諸都市を支配下に置いた。次いで彼はフリュギアに侵攻し、アレクサンドロスが一度滞在した場所で運気が得られると考えてアレクサンドロス大王が泊まった宿に宿泊した。彼はフリュギアの残りの地域、そしてミュシアといったローマ人が後に獲得することになるアジアの諸地域を制覇した。次いで彼は隣接する地方に将軍たちを送ってリュキア、パンヒュリア、そしてイオニアまでの残りの地方を制圧した。ローマの将軍クィントゥス・オッピウスが騎兵と傭兵を連れてその町に到着してそこを守っていたためにまだ抵抗を続けていたリュコス川沿いのラオディケイア人へ向けて彼は城壁の前に伝令を遣わして以下のような布告を出した。「ミトリダテス王はラオディケイア人がオッピウスを引き渡せば、彼らに害を及ぼさないと約束しているぞ」この通知で彼らは傭兵には何もせずに退去させたが、オッピウス本人を警士たちと一緒になって彼らを嘲弄しながらミトリダテスのもとへと連行していった。ミトリダテスは彼には何も害を及ぼさなかったが、彼を縛らずに自分の近くを曳き回してローマの将軍を捕虜としたことを示した。
21 彼はそう遠からぬうちに使節団の一員でこの戦争の最大の責任者であるマニウス・アクィリウスを捕らえた。ミトリダテスは彼をロバに縛りつけて引き回し、自分がマニウス本人だと人前で自己紹介させた。最終的にペルガモンでミトリダテスは熱で溶かした金を彼の喉に流し込むことで収賄の廉でローマ人を叱責した。様々な地方に太守を任命した後に彼はマグネシア、エフェソス、そしてミテュレネへと進み、その全てが彼を自発的に迎え入れた。エフェソス人は諸都市に建てられていたローマ人の像を打ち倒し、このために彼らは遠からぬうちにその罪を購うことになった。イオニアからの帰路でミトリダテスはストラトニケイア市を落として罰金を科し、守備隊を置いた。そこで美しい乙女を見つけると彼は彼女を妻の一員に加えた。誰か彼女の名を知りたいと望むのならば言うが、それはモニマであり、フィロポイメンの娘であった。未だに対抗していたマグネシア人、パフラゴニア人、そしてリュキア人に対して彼は将軍たちに戦争を命じた。

4巻
22 ミトリダテスの情勢は以上のようなものであった。彼の挙兵とアジア侵攻がローマで知れ渡るや、市内での酷い抗争と手強い同盟市戦争で忙殺され、イタリアのほぼ全域で次から次へと反乱が起こっていたていたにもかかわらず、ローマ人はすぐに彼に対して宣戦した。執政官たちは籤引きをしてコルネリウス・スラがアジアの統治とミトリダテス戦争を引き当てた。費用を負担する金がなかったために彼らは神々への犠牲のために取って置かれていたヌマ・ポンピリウス王の宝物を売却することを票決した。これほどまでにその時の財産の欠乏は甚だしく、名誉への愛は大きかったのである。その宝物の一部は急いで売却され、リトラ銀貨九〇〇〇枚になり、この全てを彼らはかくも大きな戦争のために費やした。その上スラは私が同じ歴史書の中で述べておいたように内戦のために長らく拘留されていた男でもあった。その一方でミトリダテスはロドス攻撃のためにたくさんの船を建造し、全ての太守と行政官たちに一三日後に配下の町にいる全てのローマ人とイタリア人を襲撃し、その妻子はイタリアの内地で生まれた者ならば殺してその遺体は埋葬せずに放り出し、その財産は彼自身と分け合うようにという密書を書いた。彼は死者を埋葬したり生存者を隠し立てする者を刑罰で脅し、それを知らせる者と隠れていた者を殺す者には賞金を出し、主人を裏切った奴隷は解放することとした。彼は金貸しを殺した債務者は債務の半分を帳消しにするとした。それらの密命をミトリダテスは全ての都市に同時に送った。指定された日が来るとあらゆる惨事がアジアの諸地方で起こり、その様は以下のようなものであった。
23 エフェソス人はアルテミスの神殿に逃げ込んでいた追放者を八つ裂きにしてその女神の図像の真ん前で殺した。ペルガモン人はアスクレピオスの神殿に逃げてまだその像にすがりついていた者を弓で射殺した。アドラミュティオン人は泳いで海に逃げ出そうとした者を追って殺し、彼らの子供たちを溺死させた。対アンティオコス戦争以降ロドスに従属していて後にローマ人によって解放されたカウノス人は元老院議員の邸宅のヘスティア像の近くに逃げ込んでいたイタリア人を追い、神殿から引きずり出して母親の目の前で子供を殺し、その後に母親と父親を殺した。トラレスの市民は人殺しのうわべを取り繕ろうとしとし、パフラゴニアのテオフィロスという名の凶暴な極悪非道の悪人を雇ってその仕事を請け負わせた。彼は犠牲者たちをホモノイアの神殿に行かせてそこで殺し、神聖な図像を抱いていた者はその手を切り落とした。以上がアジア州中のローマ人とイタリア人に、男も女も子供も解放奴隷も奴隷もイタリアの血が流れる全ての人に降り懸かった身の毛もよだつような運命であった。これによってかような残虐行為をアジア人に強いて行わしめたミトリダテスに対するローマ人の憎悪がはっきりしたのと同じくらいに彼に対する恐怖が非常にはっきりしたものになった。しかし彼らアジア人は一つはそう遠からぬうちに彼らを不正実且つ手ひどく扱ったミトリダテスその人の手によって、もう一つはコルネリウス・スラの手によって罪に対して二重の罰を受けることになった。一方でミトリダテスはコス島へと渡ってそこで住民の歓迎を受けてそれを受け入れ、祖母クレオパトラによってそこに大金と共に残されていた、当時のエジプトの君主アレクサンドロスの息子(32)を接見し、その後で王に相応しい仕方で養育した。彼はクレオパトラの宝物のうち大量の財産、美術品、宝石、女性用の装飾品、そして大量の金子をポントスへと送った。
24 それらのことが起こっていた一方でロドス人は城壁と港を強化し、テルメッソスとリュキアからの支援を受けつつあちこちで兵器を作った。アジアから逃げおおせた全てのイタリア人はロドスに集まっており、その中には属州総督のルキウス・カシウスもいた。ミトリダテスが艦隊を連れて接近すると、住民は敵の役に立つ物を残さないようにするために郊外を荒らした。次いで彼らは海戦のために一部の船を前衛とした攻撃隊形で、残りの船を後衛にして海へと出撃させた。五段櫂船で辺りを航行していたミトリダテスは数で劣勢だった敵を包囲するために海へと翼を広げて早く櫂を漕いで動くよう艦隊に命令を下した。ロドス艦隊はこの機動を知ってゆっくりと後退した。最終的に彼らは後退し、港へと逃げ込んで門を閉じ、城壁からミトリダテスと戦った。彼は市の近くに野営して繰り返し再び港への突破口を作ろうとしたが、失敗したために歩兵部隊のアジアからの到着を待つことにした。一方で城壁の周りで待ち伏せをしていた兵士の間で小競り合いが絶えず起こった。ロドス人は状況が最善なものになると徐々に勇気を奮い起こし、好機を掴んでは敵に矢を放つために船を申し分のない状態に保ち続けた。
25 王の商船の一隻が帆を張って近くにやってくるとロドスの二段櫂船一隻がそれに向けて前進した。双方多くの船が急いで救援に向かって激しい海戦が起こった。ミトリダテスは敵に対して艦隊の強さと数の両方で勝っていたが、ロドス艦隊はその周りをぐるぐる回って彼の船に巧みに衝角攻撃をかけたため、彼らは三段櫂船の一隻を乗組員と器具と多くの戦利品もろとも網で拿捕し、港へと曳いていった。別の折に一隻の五段櫂船が敵に捕らえられると、ロドス人はこの事実を知らずにデマゴラスを提督とした六隻の快速船を送り出した。ミトリダテスは二五隻の船をそれらに対して差し向けた。デマゴラスは日暮れ前に撤退した。闇が深まり初めて王の艦隊が帰ろうとして引き返すと、デマゴラスはそれらに襲いかかって二隻を沈めて他の二隻をリュキアまで追い払い、闇夜の海を帰った。海戦の結果は以上のようなものであり、それはロドス人にとっては彼らの戦力の小ささのために、ミトリダテスにとっては彼の戦力の強大さのために予期せぬものであった。この戦いの際に王が船に乗って兵を激励していると、キオスからの同盟軍船が混乱の最中勢い良く彼の船に突っ込んで衝突した。王はその時は気にする素振りを見せなかったが、後になって舵手と見張りを罰し、全キオス人の憎悪を思い知った。
26 およそ同時期(33)に商船と三段櫂船に乗って出航したミトリダテスの陸軍は嵐に遭ってカウノスからロドスまで流された。ロドス人は彼らと戦うべく速やかに出航し、まだ散り散りになっていて嵐の影響で被害を受けていた彼らに襲いかかり、一部を拿捕して他に衝角攻撃をかけ、さらに他の船を焼き払い、およそ四〇〇人を捕虜とした。そこでミトリダテスは今一度の海戦と包囲戦の同時並行作戦の準備をした。彼は城壁に上るためにサンビュケという巨大な装置を建造し、それを二隻の船に乗せた。数人の逃亡兵が上り易い丘を彼に示したが、そこには低い壁で囲まれたゼウス・アタビュリオスの神殿があった。彼は夜に軍の一部を船に乗せて他の者には梯子を配り、両隊にアタビュリオス山から信号の火が上がるまでは静かに移動し、それから可能な限り大騒ぎをして一部の者〔船に乗せた部隊〕は港を、他の者は壁を攻撃するよう命じた。したがって彼らは静かにひっそりと近づいていった。ロドス人の歩哨は何が起ころうとしているのかを知って火を灯した。ミトリダテス軍はこれがアタビュリオス山の信号だと思って沈黙を破って雄叫びを上げ、城壁に上る部隊と海上部隊は一緒になって騒いだ。ロドス軍は全く狼狽することなく騒ぎに呼応して総出で突進した。王の軍勢はその夜には何も成し遂げず、翌日に打ち負かされた。
27 ロドス人はイシスの神殿がその辺りに建っている城壁へと移動したサンビュケのためにほとんど意気阻喪した。ありとあらゆる武器、破城槌と投擲兵器が投入された。数多くの小船に乗った兵士が梯子で城壁を取り囲み、それによって城壁に上ろうとした。最終的にサンビュケはその重さで崩壊し、それに大量の火を放つイシスの亡霊が目撃された。ミトリダテスは計画を絶望視してロドスから撤退した。次いで彼はパタラを包囲し、聖なる木々を容赦せよという夢で警告を受けるまで兵器の材料を獲得するためにレトに捧げられていた果樹園を伐採した。ペロピダスをリュキア人との戦争を続行させるために残して彼は説得なり力づくで同盟者をできる限り獲得するためにアルケラオスをギリシアへと送った。この後、ミトリダテスは将軍たちに仕事の大部分を任せ、兵士を募って武装させることとストラトニケイア人妻との悦楽に夢中になった。また彼は自身に対する陰謀や革命、あるいは何かにつけてローマ人への支持の廉で告発されていた人たちを裁くために裁判を開いた。

5巻
28 かくしてミトリダテスはギリシアにおいて以下のような事柄に取り組むことになった。十分な物資と大艦隊と共にそこへと航行するとアルケラオスは武力行使と暴力によってデロス島とアテナイ人に反旗を翻していた他のいくつかの砦を奪取した。彼はその土地でそのほとんどがイタリア人だった二〇〇〇〇人を殺してアテナイ人に砦を返還した。このようにしてミトリダテスのことを自慢して過度に誉め讃えることで彼はアテナイ人を彼と同盟させた。アルケラオスは金を守らせるために二〇〇〇人の兵士を付けたアテナイ市民アリスティオンを遣り、アテナイ人にデロス島の神聖な財物を送らせた。その兵をアリスティオンは自らが国の主人になるために使い、ローマ人を支持していた人たちのうち一部の者をすぐに殺して他の者をミトリダテスに送った。それらのことを行ったにもかかわらず彼はエピクロス学派の哲学者をもって自ら任じていた。アテナイにおいて彼以前に僭主の役割を演じた哲学者といえばクリティアスとその仲間の哲学者たちだけであった。しかしイタリアのピュタゴラス主義者とギリシア世界の他の土地において七賢人として知られる人たち(34)も公の事柄を担おうとしたし、彼らはより残虐に統治して並の独裁者以上の暴君となった。そのような次第で他の哲学者たちに対しても、彼らの知恵に関する論議は徳への愛から発しているのか、あるいは彼らの貧乏と怠惰を慰めるものなのかという疑いが喚起された。今、我々は富と権力を本当に軽蔑しているからではなく、同上の者を持っている人たちへの嫉妬から、生活上の必要に迫られて哲学者の服を着ては金持ちと権勢家に対して悪口雑言を浴びせている無名で貧困に喘いでいる多くの人を知っている。彼らが悪し様に言っている人たちには彼らを軽蔑する尤もな理由がある。それらの事柄を読者はこの余談の原因となった哲学者アリスティオンに対して言われたこととして考えるべきである。
29 アルケラオスはアカイア人、ラケダイモン人、テスピアイを除く全ボイオティアをミトリダテスの側につけてテスピアイを包囲した。同時にミトリダテスによってもう一つの軍と共に送られていたメトロファネスは彼の大義への支持を拒んだエウボイア島とデメトリアスとマグネシアの領地を略奪した。ブルッティウス(35)がマケドニアから小勢と共に彼に向けて進軍し、彼との海戦で一隻の大船とヘミオリア船を沈め、メトロファネスの面前でそれに乗っていた人たちを皆殺しにした。後者は怯えて逃げ、順風に恵まれたためにブルッティウスは彼に追いつくことができなかったが、夷狄の略奪品の倉庫だったスキアトスを強襲して落とし、一部の人たちを奴隷にして磔にし、解放奴隷の手で惨殺させた。次いで彼はボイオティアへと転進し、マケドニアから歩騎一〇〇〇の援軍を受け取った。カイロネイア近くで彼はアルケラオスとアリスティオンと三日間に及んだ戦いを演じ、その戦いの結果ははっきりしたものとなはらなかった。ラケダイモン人とアカイア人がアルケラオスとアリスティオンの来援にやってくると、ブルッティウスはその全軍に対しては歯が立つまいと考え、アルケラオスが艦隊を連れて向かってきてその土地も奪取するまでにペイライエウスへと撤退した。
30 ローマ人によってミトリダテス戦争担当の将軍に任命されていたスラ(36)は今や初めて五個軍団と数個大隊と騎兵部隊を連れてギリシアに渡ることになり、すぐに資金、援軍と物資をアイトリアとテッサリアから集めた。十分な兵力になったと考えるとすぐに彼はアルケラオス攻撃へと向かった。ボイオティアを踏破した際には全ボイオティアが小数の都市を除いて彼の軍に加わり、他の都市のうちで強大な都市で、ローマ人に敵対して軽々しくミトリダテスの側についていたテバイ市は今や一層素早く、武力の試練に曝される前にアルケラオスからスラへと寝返った。アッティカに到着したスラは軍の一部をアテナイのアリスティオンを包囲するために分遣し、自らはアルケラオスが城壁の背後に逃げ込んでいたペイライエウスの攻撃へと向かった。城壁の高さは四〇ペキュスほどで、大きな四角い石で建造されていた。それはペロポネソス戦争の時にペリクレスが作ったもので、彼はペイライエウスでの勝利に希望を託していたためにそこは可能な限り強力にしていたのだ。城壁の高さにもかかわらずスラはすぐに梯子をかけた。カッパドキア軍が彼の攻撃に勇敢に立ち向かったためにかなりの損害を被った後、疲弊した彼はエレウシスとメガラへと撤退し、そこで新たな攻撃のための兵器を作って堡塁で包囲するというペイライエウス攻略計画を立てた。あらゆる種類の器具と装置、鉄、カタパルト、そしてありとあらゆるものがテバイから提供された。スラはアカデメイアの木立を伐採して最大の兵器を作った。彼は長城(37)を破壊し、石、木材、そして土を使って堡塁を建てた。
31 いずれもローマ人を支持し、この危機にあって身の安全を求めていたペイライエウスの二人のアテナイの奴隷がそこで起こっていたあらゆることを書き留めて鉛の玉で手紙に封をし、それらを投石機でローマ軍へと投げた。これは絶えずなされたためにスラの知るところになり、彼は以下のようなことを述べる文書に気を留めた。「明日、歩兵部隊が閣下の工夫たちに正面から攻撃をかけ、騎兵隊はローマ軍を両翼から攻撃することになっております」スラは十分な兵力を伏せ、自分たちの行動は完全な奇襲になるはずだと思って突進してきた敵を彼は伏兵によってさらに大規模な奇襲を行い、多数を殺して残りを海へと追い落とした。その試みの結末は以上のようなものであった。堡塁ができてくると、アルケラオスは対向する塔を建ててそれらに最も大きな投擲兵器を数多く置いた。彼はこれ以上ないほどの危機が訪れるだろうと考えて漕ぎ手を武装させ、カルキスと他の島々に援軍を求める手紙を送った。彼の軍は面前のスラの軍に数で勝っていたため、今やその差は援軍によってさらに大きくなった。次いで彼は真夜中に松明を放って亀(38)の一つとそれの近くにあった装置を焼き払った。しかしスラは一〇日間で新たな亀を作り直して以前のものがあった場所に配置した。これらに対抗すべくアルケラオスは城壁の一部の上に塔を建てた。
32 海路によってドロミカイテス率いる新手の軍をミトリダテスから受け取ると、アルケラオスは全軍を率いて戦いへと向かった。彼はに投石兵と弓兵を出撃部隊に配属させて城壁の真下に並べたたため、上にいた見張りは投擲兵器を持って敵のところまで行けるようになった。他の兵は出撃の機会を見計らうために松明を持って門の周りに並べられた。戦いは長い間決着が分からず、双方は勝ったり負けたりした。最初、夷狄軍はアルケラオスが彼らを再集結させて〔戦いへと〕戻すまでは負けていた。ローマ軍はこれによって異常に意気消沈したため、ムレナ(39)が駆けつけて彼らを呼び集めるまで敗走させられっぱなしだった。まさにその時、木材採集から戻ってきたもう一つの軍団が戦いの展開の激しさを見て取り、〔敗走のために〕恥をかかされた兵士たちと共にミトリダテス軍に力強い突撃を敢行しておよそ二〇〇〇人を殺して残りを城壁の内側へと押し戻した。アルケラオスは再び彼らを再集結させようとして長らく踏み止まったため、射られて縄で引かれる羽目になった。彼らの立派な振る舞いを見てスラは恥を晒した兵たちの汚名を帳消しにして他の者には多くの褒美を与えた。
33 冬が到来するとスラはエレウシスに設営して高台から海まで延びる深い壕でそこを守ったため、敵騎兵はそこに近づくことができなくなった(40)。この作業を進めていた間も戦いは続き、頻繁に襲来してはローマ軍を投石、投槍、そして鉛玉で攻撃していた敵との間である時は壕、またある時は壁で毎日のように戦いが起こった。スラは船を必要としており、ロドスに船を提供するよう手紙を送ったが、ロドス人はミトリダテスが海上を制圧していたために返信を送ることができなかった。そこで彼は有能なローマ人で、後にスラからこの戦争の指揮官の地位を受け継ぐことになるルクルスにアレクサンドレイアとシュリアに密かに向かってそこの王たちと海事に熟練していた諸都市から艦隊を入手し、それらと共にロドスの海軍もまた連れてくるよう命じた。ルクルスは敵艦隊を恐れなかった。彼は航行する船に素早く乗り込み、移動を隠すために船から船へと乗り継いでアレクサンドレイアに到着した。
34 その一方でペイライエウス内の裏切り者たちは、アルケラオスが空腹に苦しんでいたアテナイ市のため夜に糧秣と共に警護の兵士を送るつもりだという言伝を城壁の上から投げ落とした。スラはその輸送部隊を罠にはめて兵士と食料の両方を手中に収めた。同じ日に、カルキス近くでミヌキウスがミトリダテスの他の将軍のネオプトレモスを負傷させ、彼の兵一五〇〇人を殺傷してこれより多数の兵士を捕虜とした。この後間もなく、夜にペイライエウスの城壁の衛兵が眠りこけていた時、ローマ軍はすぐ近くの攻城装置からいくつか梯子をかけてその場で衛兵を殺した。したがって夷狄の一部は全ての城壁が占領されたと考えて持ち場を放棄して港へと逃げた。勇気を取り戻した他の者たちは〔ローマ軍の〕攻撃部隊の指揮官を殺して残りを城壁の上から投げ落とした。他の者たちは門を通って外へと突進してローマの二つの攻城塔の一つをほとんど焼き払い、彼らはスラが野営地から駆けつけなければ〔もう一つも〕焼いていただろう。そして、彼は夜通し、そして翌日の間も続いた激戦でそれを守りきった。このようにして夷狄は退けられた。アルケラオスはもう一つの巨大な塔をローマ軍に対面する城壁の上に取り付け、それらの塔は互いに攻撃し合い、カタパルトによってあらゆる投擲兵器を絶え間なくスラへと放ち、それは一度の射撃で二〇個の最も重い鉛玉を放ち、多くの敵を殺したが、それを支え切れずにアルケラオスの塔は揺れ、崩壊を恐れたアルケラオスは大急ぎ退避せざるをえなくなった。
35 飢餓がますますアテナイ市を苦しめていた一方で、ペイライエウスの投擲兵たちは夜に補給物資が送られたという情報を知らせた。アルケラオスは裏切り者が敵に補給部隊についての情報を流したのではないかと疑った。したがって彼は補給部隊を送るのと同時に、もしスラがこれを攻撃した時にはローマ軍に攻撃をかけるために門に松明を持った軍を配置した。結果、スラは補給部隊を捕えてアルケラオスはローマ軍の物資をいくらか焼き払った。同時にミトリダテスの息子アルカティアスはもう一つの軍を連れてマケドニアに侵入して難なくローマの小部隊を破った。彼は全地域を支配下に置いてその地を治める太守たちを任命し、スラに向けて進軍したが、ティサイオス近くで病死した。その一方で、飢餓状態にあったアテナイの状況は非常に厳しいものとなった。スラは、アテナイはその人口のために封鎖されている側の飢餓がより深刻になるようにと、その周りに何人たりとも外に出れないようにと防御柵を立てた。
36 ペイライエウスの適当な高地に土塁を設けると、スラはそこに攻城兵器を据えた。しかしアルケラオスは土塁を掘り崩して土台を取り払ったが、ローマ軍は長い間何も気付かなかった。突如土塁が沈んだ。速やかに事の次第を理解するとローマ軍は攻城兵器を引かせて土塁を埋め直し、敵の例に倣って同様の仕方で城壁を掘り崩した。坑夫たちは互いに地面で遭遇し、剣と槍で暗闇での戦うかのように戦った。事態がこのようになると、スラは城壁の一部が崩れ落ちるまで土塁の上に立てた破城鎚を城壁へと打ち付けた。そして彼は隣接する塔を焼き払うと急いでそれに向けて火のついた多くの投擲兵器を放ち、最も勇敢な兵士たちに攻城梯子を上るよう命じた。双方勇敢に戦ったが、その塔は焼き払われた。城壁の他の小区画で崩落が起こり、そこへとすぐさまスラは守備兵を置いた。今や城壁の一部は掘り崩されてしまったために木の梁だけで支えられるという有様になっており、彼はその下に大量の硫黄、麻、松脂を置いてすぐさま全体に火を放った。城壁は守備兵を載せたままそこらかしこが崩れ落ちた。この大きくそして予期せぬ倒壊のために各々は次は自分の下の地面が沈むだろうと予想し、どこであれ壁を守っていた部隊は狼狽えた。恐怖と自信の喪失のためにこのような事態に陥った彼らは敵への微弱な抵抗しかできなくなった。
37 かくして敵軍から士気を奪うとスラは絶え間なく戦いを続け、絶えず自軍の稼働部隊を変え続けてを代わる代わる梯子へと新手の兵を送り、叫び声と激励によって彼らに恐怖と勇気を同時に説き、勝利は目前だと述べた。他方でアルケラオスは意気阻喪した部隊の部署へと新手の部隊を向かわせた。彼もまた手を変え品を変え絶えず彼らを激励し、彼らの救済はもうすぐ得られるだろうと述べた。比類ない熱誠と勇気が両軍を再び奮起させ、戦いは激戦となって双方等しくかなりの死者を出した。最終的にスラは敵方の攻撃を受けてほとほと憔悴してしまったため、多くの兵の勇敢さを賞賛しつつ撤退を呼びかけて軍を引いた。アルケラオスは夜間に城壁の被害を修繕してその大部分をその内側に半円状に曲がった堡塁によって守った。スラはそこがまだ湿っていて脆弱なので易々と粉砕できるだろうと考え、新たに建てられた城壁へと全軍ですぐに攻撃をかけたが、そこで動く余地のない半月型の防備が効を奏して全面と側面、そして上から放たれる投擲兵器に晒されたために彼は再び疲弊した。そして彼はペイライエウスを力攻めで落とす全ての計画を放棄し、飢餓によって落とすべく包囲を敷いた。

6巻
38 アテナイ防衛軍は飢餓によって甚だ窮乏して全ての牛を食べ尽くして獣皮を煮て食べ、食べられそうなものは何であれ舐め、人肉を食べる者すらいたことを知ると、スラは兵士たちに市を塹壕で囲んでこれによって住民が一人たりとも密かに逃げられないようにするよう命じた。これを行うと、彼は梯子をかけると同時に城壁の突破作戦を開始した。衰弱していた防衛軍はすぐに敗走し、ローマ軍は市内に突入した(41)。凄まじく情け容赦ない殺戮がアテナイで起こり、食糧不足のために住民には逃げる力は残っていなかった。スラは女子供とて容赦せずに手当たり次第に殺すよう命じた。彼は彼らが理由もなく突然夷狄に与し、自らに対する荒々しい憎悪を示したことに怒っていたのだ。ほとんどのアテナイ人は下されていた命令を聞くと自分から殺戮者の剣へと飛び込んでいった。少数の者はアクロポリスへと弱々しく向かい、その中にいたアリスティオンが音楽堂を焼き払っていたためにスラはアクロポリスを強襲するための木材が間近では手に入らなくなった。スラは兵士たちに市に火を放つことを禁じたが、略奪は許した。多くの家々で彼らは食べる準備がなされていた人肉を見つけた。翌日にスラは奴隷を競売で売り払った。昨晩の殺戮を逃れた非常に少数の解放奴隷に彼は解放を約束したが、彼らは彼と戦争状態にあったために投票者と立候補者としての権利は剥奪した。同じ条件は彼らの子供たちにも及んだ。
39 このようにしてアテナイは恐怖に満たされた。スラはアクロポリスの周りに見張りを置き、アリスティオンと彼の仲間たちはすぐに飢餓と渇きのために投降を余儀なくされた。スラはアリスティオンと彼の護衛たち、そして何らかの権力を行使したり、ローマ人による最初のギリシア占領以降敷かれていた支配に反対する行動を起こした者の全員に死罪を科した。スラは残りの人を許し、その全員に以前にローマ人によって制定されていたのと実質的に同じ法律を与えた。およそ金四〇リトラと銀六〇〇リトラがアクロポリスから得られたが、アクロポリスでのそれらの出来事は幾分か後に起こったことであった。
40 アテナイがスラによって落とされるとすぐに〔ペイライエウスの籠城軍は〕ペイライエウスでの長い包囲、破城槌での攻撃、ありとあらゆるものの発射、亀の下に隠れて城壁を続けざまに攻める大軍、そして城壁の防衛軍を撃退するために投槍を投げたり夥しい矢を放ったりする多数の大隊に耐えきれなくなった。彼は新たに建てられた三日月型堡塁の一部をまだ湿っていて脆弱だったうちに破壊した。アルケラオスは最初からこれを予期してその内側に同様に他のものを建てたためにスラは一つ壊せばまた次の城壁にぶち当たることになり、仕事に終わりが見いだせなくなった。しかし彼は不屈の活力でもって突き進み、しばしば兵を交代させて彼らの間に分け入って激励し、彼らの骨折りへの報償への全ての希望はこの小さな残りの遂行にかかっていることを示した。兵士たちもまたこれは実際に彼らの苦難の終わりになるだろうと信じ、栄光への愛とこの壁を征することは壮挙になるという考えによって任務へと奮起し、猛攻を加えた。最終的にアルケラオスは彼らの無鉄砲と執拗さに度肝を抜かれて城壁を明け渡し、ペイライエウスの最も強固に要塞化されて全面を海によって囲まれていた地区(42)へと向かった。スラは船を持っていなかったためにそこを攻めることができなかった。
41 そこでアルケラオスはボイオティアを通ってテッサリアへと退却し、残余の全部隊、彼の手勢とドロミカイテスによって送られた軍の両方を連れてテルモピュライへと退いた。また、彼はミトリダテス王の息子アルカティアスの下でマケドニアに侵攻していた無傷のほぼ全戦力、そして最近〔アルケラオスが〕ミトリダテスから受け取った新兵の軍もまた自らの指揮下に置いた。新兵の受け取りはミトリダテスが増援を送るのを止めなかったおかげである。アルケラオスが急いでそれらの軍を集めていた間、スラはアテナイ市以上に彼の手を焼かせたペイライエウスを、その武器庫ないしは海軍工廠、あるいはその有名な付属物を除いて焼き払った。そこで彼はボイオティアを通ってアルケラオスめがけて進軍した。彼らが互いに近づいた時にアルケラオス軍はまさにテルモピュライからフォキスへと進んでいたところであり、トラキア人、ポントス人、スキュタイ人、カッパドキア人、ビテュニア人、ガラティア人、そしてフリュギア人およびミトリダテスが新たに得た領土からの他の部隊からなる総計一二〇〇〇〇人を率いていた。各民族の将軍が〔各々の部隊を〕率いたが、アルケラオスが全ての最高指揮権を有した。スラの軍はイタリア人と先日アルケラオスを見捨てて彼の側に走ったいくつらのギリシア人とマケドニア人、そして降伏した地域からの他の少数からなっていたが、数において敵の三分の一もいなかった。
42 彼らが対陣すると、アルケラオスは繰り返し軍を出撃させては戦いを挑んだ。スラは地勢と敵の数のために躊躇した。アルケラオスがカルキスへと進出するとスラは都合の良い時と場所を見計らうべく彼のすぐ後を追った。敵が敗者が逃げ場のないカイロネイア近くの岩がちな地域に野営したことを知ると、スラはそこに近い開けた平地に陣取り、アルケラオスが望もうと望むまいと戦わざるを得なくなるようにするべく軍を率いて打って出たわけあるが、そこの平地の勾配はローマ軍にとって前進する場合も後退する場合も都合が良かった。アルケラオス〔の軍〕は岩地で囲まれており、彼は地形が平らでなかったために彼らをまとめて統率することができず、戦いでは全軍が一斉に行動できなかった。敗走すれば彼らは岩によって逃げるのを妨げられることになる。そういった理由でスラは位置の有利を頼み、敵の数の優勢が彼に対して発揮されないように動いたのであった。アルケラオスは戦いがその時に起こるとは夢にも思っておらず、このために野営地の場所の選択において不用心になっていた。今やローマ軍が前進してくると、位置の悪さに遅蒔きながら気付いてこれを悲しんだ彼は移動を妨げるために騎兵の分隊を送り出した。分隊は敗走して岩地で散り散りになった。その衝撃力によってレギオーの隊列を寸断して粉砕することを期待して彼は次に六〇台の戦車を向かわせた。ローマ軍は戦列を開いて戦車は勢いのあまり後ろへと通り過ぎ、それらは反転する前に包囲されて後衛部隊の投げ槍で撃破された。
43 アルケラオスは岩壁が彼を守る防備の施された陣営から安全に戦っていたものの、スラがすでに近づいてきていたため、そこで戦えるとは予想していなかった大軍勢を急いで出撃させ、あまりにも狭いと分かりきっていた場所へと向かった。まず彼は騎兵部隊に強力な攻撃を加えさせてローマの戦列を真っ二つに切り裂き、その数の少なさのために完全にその二つを包囲した。ローマ軍は方々で敵に立ち向かって勇敢に戦った。ガルバとホルテンシウスの部隊はアルケラオスが戦いの陣頭指揮を取ったために大損害を受け、司令官の目の前で戦った夷狄は最高度の勇気に倣おうと奮起した。しかしスラが騎兵の大部隊を率いて来援にやってきて、アルケラオスは総司令官の軍旗を見て接近しつつあるのがスラだというのを確信すると、大量の砂埃が立ちこめ、事の次第が把握できなくなって最初に陣取っていた場所へと向かい始めた。スラは最良の騎兵部隊と取っておいた選り抜きの新手の二個大隊を率い、動くのも正面の堅固な隊列を組むのもまだだった敵に襲いかかった。彼は彼らを大混乱に陥れて敗走させ、これを追撃した。そちらの側で勝利が得られつつあった一方で、左翼を指揮していたムレナとて何もしていないというわけではなかった。兵の怠慢を叱りつけると彼もまた完全と敵に襲いかかってこれを敗走させた。
44 アルケラオスの両翼が崩れると中央はもはや踏みとどまれなくなって見境なしに敗走した。それからスラの予想したあらゆることが敵を襲った。向きを変える余地や逃げるための開けた場所がなくなると、彼らは追撃者によって岩地へと追い立てられた。ある者はローマ軍の手の内へと突っ込んだ。他の者はより賢明にも自軍の野営地へと逃げた。アルケラオスは野営地の正面に自ら陣取って入り口に立ち塞がり、彼らに反転して敵に立ち向かうよう命じたため、彼らの戦争での逼迫への大変な未経験さを露見させた。彼らは彼に機敏に従ったが、もはや彼らには彼らを指揮すべき将軍も彼らを整列させる隊長もおらず、彼らの配属を示す軍旗もなかったために無秩序な敗走で散り散りになり、身を翻したり戦う余地もなく、追撃は最も近い場所へと彼らを追い立て、ある者は仕返しもできないまま敵により、他の者は混雑と混乱の最中に友軍により無抵抗のまま殺された。再び逃げ込んだ野営地の門で彼らは混雑する羽目になった。彼らは門番を叱りつけた。彼らは彼らの国の神の名と共通の結びつきで彼らに訴え、敵の剣よりも友軍の無分別によって殺されたことで彼らを咎めた。最終的にアルケラオスは必要以上に遅れた後に門を開いて粉砕された逃亡兵たちを受け入れた。ローマ軍はこれを見ると大歓声を上げ、逃亡兵がいた野営地へと殺到して勝利を完全なものとした。
45 別々に逃げたアルケラオスと生き残りの兵たちは共にカルキスへとやってきた。一二万人のうち一〇〇〇〇人も残っていなかった。ローマ軍の損害は僅か一五人で、うち二人が後に姿を現した。カイロネイアでのスラとミトリダテスの将軍アルケラオスの戦いの結果は以上のようなものであり、この結果にはスラの賢明さとアルケラオスのへまが同じ程度に寄与した。スラは多くの捕虜を捕らえて大量の武器と戦利品を鹵獲し、山ほどあったこれらの大部分は役に立たなかった。それから彼はローマの流儀に則って自身を飾り、それを戦争の神々への供物として焼いた。軍に小休止を取らせた後に彼はアルケラオス目指して自身の最良の兵を連れて急行したが、ローマ軍は船を持っていなかったために後者は密かに島々の間を航行して沿岸を荒らした。彼はザキュントスに上陸してそこを包囲したが、そこに滞在していたローマ軍の一隊の夜襲を受けると急いで乗船して戦士というよりは野盗といった風でカルキスへと戻った。

7巻
46 この大災難を聞き知ると、当然ながらミトリダテスは仰天して恐慌状態に陥った。にもかかわらず彼は大急ぎで全ての臣従民族から新手の軍をかき集めた。敗北を受けて今にせよ後にせよ彼から離反しそうな人々がいるだろうと考えると彼は機を見ては戦争がより厳しくなる前に疑わしい者全てを逮捕した。まず彼はガラテイアの四君主を、友人として彼についた者のみならず、逃げた三人以外の全員を、彼の臣下ではなかった者もろとも、その妻子ともども殺した。彼はそのある者は策略で捕らえ、他の者は宴の席で一晩にして殺した。彼はスラが近づいてくれば、彼らのいずれも自分には忠実ではなくなるだろうと信じていたのだ。彼は彼らの財産を没収し、彼らの町々に守備隊を置き、エウマコスを太守に任命した。しかし四君主のうちの逃げた者あちはただちにその土地の人々から兵を募り、エウマコスと彼の守備隊を追い出してガラテイアから撃退したため、ミトリダテスにはその国のもののうち彼が奪い取った金を除いて何も残らなかった。キオス船の一隻がロドス近海の海戦で王の船に偶然突っ込んできたことからキオスの住民に怒っていた彼はまずスラ側についた全キオス人の財産を没収し、次いでキオスにあるローマ人に属する財産はいかほどかを調査するために人を遣った。第三の活動としてギリシアで軍を率いていた彼の将軍ゼノビオスは夜にキオスの城壁と全ての要塞化された場所を奪取して門に守備隊を置き、全ての外国人は大人しくしてキオスは民会を再建するべしと宣言し、彼は王からの言伝を彼らに寄越した。彼らが揃ってやって来ると、彼は王はこの都市のローマ派のためにこの都市に対して疑いを抱いているが、彼らが武器を引き渡して名家の子供たちを人質に出せば王は満足するはずだと言った。彼らの都市がすでに彼の手中にあることを知ると、彼らはそのいずれも彼に渡した。ゼノビオスは彼らをエリュトライへと送り、王は彼らに直接手紙を書いてくれるだろうとキオス人に述べた。
47 ミトリダテスからは以下のような要旨の手紙が来た。「貴殿らは今でさえローマ人に好意を寄せており、市民の多くは未だに彼らと共に逗留している。貴殿らは、貴殿らが我々に返還していないローマ人の富の果実を収穫する腹づもりなのだろう。貴殿らの三段櫂船はロドスとの先の戦いで余の船に向かってきてこれを揺さぶった。余は貴殿らが無事に過ごせる支配を悟って余に服属する臣下であり続けることを望んでおり、舵手たちだけにこの失敗の責を負わせる用意がある。さて、貴殿らは密かに主要な者たちをスラのもとへと送っており、ローマ人と協力しない者の義務としてこのことは公的な権限なしでなされたことであるという証明を宣言することもしなかった。余の友人たちは余の政権に対する陰謀を企てる者と余の身柄に陰謀を企てようとする者は死すべしと考えてはいるものの、余は二〇〇〇タラントンの罰金で貴殿らを放免するつもりである」以上が手紙の要旨であった。キオス人は使節を送ろうと望んだが、ゼノビオスはそれを許さなかった。彼らは狼狽して主要な家門の子供たちを差し出して夷狄の大軍が市を掌握し、キオス人は大声で不満の声を上げはしたが、神殿に二〇〇〇タラントンにのぼる装飾品と女性の宝石類を集めた。この全部が用意されると、ゼノビオスは渡された量には不足分があると彼らを難じて劇場に集めた。次いで彼は軍に抜き身の剣を持たせて劇場の周りとそこから海へ続く街路沿いに配置した。そして彼はキオス人たちを一人ずつ劇場の外へと導いて船に乗せ、男を女子供から隔離して全員を夷狄の捕獲者にぞんざいに扱わせた。このようにしてキオス人たちはミトリダテスのもとへと曳きたてられ、エウクセイノス海のポントスへと追いやられた。キオスの市民を襲った苦難は以上のようなものであった。
48 ゼノビオスが軍を連れてエフェソスに到着すると、市民たちは門で武装解除して少数の供回りだけを連れて来るよう彼に命じた。彼は命令に従い、ミトリダテスの愛妻モニマの父であったフィロポイメンのもとに滞在し、後者をエフェソスの監督者に任じてエフェソス人を民会に召集した。彼らは彼からは何ら良いものが得られないだろうと予期して次の日まで話し合いを延期した。しかし夜の間に彼らは互いに相談して励まし合うべく集まり、その後ゼノビオスを投獄して殺した。それから彼らは城壁に兵を配備して市民を鍛え、郊外から物資を運び込んで市に完全な防衛体制を敷いた。トラレス、ヒュパイパ、メトロポリスと他のいくつかの町の人々はこれを知ると自分たちがキオスの運命を辿るのではなかと恐れ、エフェソスの例に倣った。ミトリダテスは叛徒に軍を差し向け、それらを占領すると恐るべき懲罰を加えたが、他の者の離反を恐れてギリシア諸都市に自由を与えて負債の帳消しを宣言し、そこにいた全ての滞在外国人に市民権を与えて奴隷を解放した。債務者、滞在外国人、奴隷は自分たちの新たな特権はミトリダテスの支配下でのみ確保されると考えるはずであり、そのために自分を支持するだろうと期待して彼はこれを行ったわけであり、現にそのようになった。その一方でスミュルナのミュンニオンとフィロティモス、レスボスのクレイステネスとアスクレピオドトス――アスクレピオドトスは一度彼を客としてもてなしていた――といった王の腹心の全員がミトリダテスに対する陰謀に加わった。この陰謀でアスクレピオドトスその人が密告者になり、自分の言い分を立証するために彼はミトリダテスが長椅子の下に隠れてミュンニオンが言ったことを聞く手はずを整えた。かくして陰謀が明らかになると陰謀者たちは拷問を加えられて殺され、多くの人が似たような計画の嫌疑を受けた。こうして八〇人のペルガモス市民が似たような計画を企てたとして捕らえられ、他の諸都市の他の人たちもその後を追った。王は間諜を方々に送って自身の敵を告発したために一五〇〇人の人命が失われた。その告発者の一部はスラに捕らえられて間もなく殺され、他の者は自殺し、さらに他の者はミトリダテスその人と共にポントスへと逃げ込んだ。
49 アジアでそれらの出来事が起こっていた間、ミトリダテスは八〇〇〇〇人の軍勢を集め、以前の軍勢の生き残りが一〇〇〇〇人だったギリシアのアルケラオスのためにドリュラオスに率いて向かわせた。スラはオルコメノス近くでアルケラオスと対陣していた。敵騎兵の大部隊が到来しつつあるのを知ると、スラは平地に一〇プースの広さの壕を掘り、アルケラオスが前進してくると彼に向けて軍を出撃させた。ローマ軍は敵騎兵への恐怖のために苦戦した。スラは長らくあちこちを駆け回って兵を激励したり脅しつけたりした。こうやっても彼らの義務感を鼓舞するのに失敗すると彼は馬から飛び降りて軍旗を掴み、盾持ちらを連れて「ローマ人どもよ、今後お前たちがどこでスラを見捨てたのと聞かれることになれば、お前たちの将軍はそれはオルコメノスの戦いでだと言うぞ」と叫びながら両軍の間を走り回った。将官たちは彼の危機を見て取ると、恥の感覚に突き動かされて彼を助けるべく隊列から飛び出し、続いて打って変わって敵を撃退した。これが勝利の端緒となった。スラは再び馬に飛び乗り、戦いが終わるまで彼らを賞賛し激励しながら兵の間を駆け回った。敵は一五〇〇〇人を失ってそのうち一〇〇〇〇人は騎兵で、その中にはアルケラオスの息子のディオゲネスも含まれていた。歩兵は野営地へと逃げた。
50 スラは船を持っていなかったため、アルケラオスが再び逃げて以前のようにカルキスに逃げ込むのではないかと危惧した。したがって彼は夜に平野全域に飛び飛びに見張りを置き、翌日にアルケラオスを逃がすまいとして彼の野営地から六〇〇プースを下らない距離を壕で彼を囲んだ。それから最早敵が抵抗を示さなくなると、彼は軍に戦争はあと少しで終わるだろうと呼びかけた。彼はアルケラオスの野営地へと彼らを率いて向った。似たような情景が敵のうちでも起こり、必然的な雰囲気の変化を受けて将官たちはあちこちへと急ぎ、切迫した危険を見て取ると数で劣る敵の攻撃から野営地を守れないようなことはあってはならないと兵士たちを叱責した。双方で突撃と射撃の応酬があり、双方で多くの勇敢な振る舞いがあった。夷狄が胸墻の中から飛び出て剣を抜き放ってこの角から侵入者を撃退しようとすると、ローマ軍は楯で身を守って野営地の一角を粉砕した。軍団副官バシルスが最初に飛び込んで彼の前面にいた兵士を殺すまでは誰も敢えて入ろうとはしなかった。次いで全軍が彼に続いた。夷狄の敗走と殺戮が続いて起こった。 一部は捕らえられて他は隣にあった湖へと押し出され、泳ぎ方を知らなかったために夷狄の言葉で慈悲を請うたものの、彼らの言葉を知らない殺戮者に殺された。アルケラオスは沼地へと向かい、そこで一隻の小舟を見つけてこれによってカルキスへと到着した。散り散りになったミトリダテス軍の生き残りを彼は急いで呼び寄せた。

8巻
51 翌日スラは軍団副官バシルスを讃えて他の者には勇気への褒美を与えた。彼は一方から他方へとコロコロ寝返っていたボイオティアを荒らし、次いでテッサリアへと移動して越冬し、ルクルスと彼の艦隊を待った。ルクルスからの音沙汰がなかったために彼は自ら船を建造し始めた。この時期に母国での彼の政敵コルネリウス・キンナとガイウス・マリウスが彼をローマ人の敵と宣言して市内と郊外の彼の家々を破壊し、彼の友人たちを殺していた。しかしスラは熱心で忠実な軍を持っていたために彼の立場はこれで少しも弱まらなかった。キンナは自分のおかげで同僚執政官に選ばれたフラックス(43)を、今や国賊として宣言されていたスラの地位に就いてその地方とミトリダテス戦争の一切合切を任せるべく二個軍団を付けてアジアへと送った。フラックスは戦争の技術に関しては未経験であったため、軍事に熟練したフィンブリア(44)という名の元老院議員の地位の人物が義勇兵として彼に同行した。彼らがブルンドゥシウムから出航すると多くの船が嵐で壊れ、先行して向かっていた船はミトリダテスが送ってきた新手の軍に焼き払われた。さらにフラックスは悪党であり、罰のむごさと貪欲のために全軍から憎まれていた。したがってテッサリアへと送られた彼らの一部はスラに寝返ってフィンブリアが残りを逃亡しないよう押しとどめたわけだが、それは彼らが彼をフラックスよりも人道的で将軍に相応しいと思っていたからだ。
52 一旦宿に着くとフラックスは財務官と何をすべきかを議論した。彼らのうちで決定者として振る舞っていたフラックスはフィンブリアの言うことにあまり関心を示さず、フィンブリアは腹を立てて自分はローマへ帰ると脅した。したがってフラックスは彼が責任を持っていた任務を遂行する後任を指名した。フィンブリアは機を窺い、フラックスがカルケドンへと航行すると、フラックスが法務官として残していたテルムスから、軍があたかもフィンブリア自身に指揮権を与えたかのように真っ先に軍を取り上げ、フラックスがすぐに戻ってきて彼に怒るとフィンブリアは彼に逃亡を余儀なくさせた。フラックスはある民家に逃げ込んで夜に城壁に上ってまずカルケドンへ、その後にニコメディアへと逃げて市の門を閉ざした。フィンブリアはその地を制圧してうまく隠れていた彼を見つけると、フラックスがローマの執政官で、この戦争の総司令官であり、そしてフィンブリア自身は客として同行していた一私人でしかなかったにもかかわらず、これを殺した。フィンブリアは彼の首を刎ねて海に投げ込み、残りの遺体を埋葬せず野晒しにした。次いで彼は自らを軍の司令官に任命してミトリダテスの息子との戦いで幾つかの勝利を得た。彼は王その人をペルガモスへと追い払った。後者はペルガモスからピタネへと逃げた。フィンブリアは彼を追って壕のある場所へと封じ込めようとした。そこで王は船でミテュレネへと逃げた。
53 フィンブリアはアジア属州を回ってカッパドキア派に懲罰を加えて彼に門を開かなかった町々の領地を荒らした。フィンブリアによる包囲攻撃を受けたイリオンの住民はスラに救援を求めた。後者は自分は向かうつもりであると言い、彼らに対して自分たちはすでにスラに身を委ねたとフィンブリアに述べるように言った。これを聞いたフィンブリアは彼らがすでにローマ人の友人となっていることを喜び、自分もまたローマ人であるからには城壁の内に自分を招き入れるよう命じた。彼は皮肉な調子でイリオンとローマの縁戚関係について言いもした(45)。迎え入れられると彼は見境なしに殺戮を行って町の全域を焼き払った。スラと連絡を取っていた人たちを彼は様々なやり方でいたぶった。彼は神聖な文物もアテナ神殿に逃げ込んだ人たちも容赦せず、神殿もろとも彼らを焼き殺した。彼は城壁を破壊し、翌日にはまだ手つかずになっている場所がないか探した。その都市はアガメムノンによってなされた以上の狼藉を縁戚の一人によって受けたわけであり、家も神殿も像も容赦されなかった。パラディオンと呼ばれ、天から降ってきたとみなされていたアテナの画像が倒れた城壁がその上に弓状に覆いかぶさっていたために損なわれないままで見つかったと、ディオメデスとオデュッセウスがトロイア戦争の時にイリオンから運び出したのではない限りこのことは真実であろうと幾人かの人たちは述べている。フィンブリアによるイリオンの破壊は第一七三オリュンピア会期の終わり頃であった(46)。ある人たちはこの災難からアガメムノンの手による災難までの期間は一〇五〇年だったと考えている。
54 オルコメノスでの敗北を聞くとミトリダテスは最初にギリシアに送っていた数多くの兵士のこと、そして彼らに降り懸かった継続的で早々とした災難のことを考えた。したがって彼はできる限り良い条件で講和するようにとアルケラオスに手紙を送った。後者はスラと会談してこう言った。「おおスラ殿、ミトリダテス王は貴下のお父上の友人ですぞ。陛下は他のローマの将軍たちの貪欲さのせいでこの戦争に手を染めることになったのです。もし貴下が公平な条件を認めるおつもりでしたら、陛下は貴下の有徳な性格を和平のためにあてにすることでしょう」スラは船を持っておらず、ローマにいた彼の政敵は資金も何も送ってこず、彼を法の保護の外にある者と宣言しており、彼はすでにピュティア、オリュンピア、エピダウロスの神殿から獲得した金を消費しきっており、その補償として彼はテバイの頻繁な離反のために〔没収した〕テバイ領の半分をそれらの神殿に割り当てていた。そして彼は軍を祖国の政敵に対抗するために元気で無傷にしておこうと焦っていたため、その提案に同意して言った。「もしミトリダテス殿に不正が働かれたというのであれば、アルケラオス殿、他人のものである大きな領土を侵略することで悪事を働き、多くの人を殺し、諸都市の公費と神聖な金品を奪取し、そして破壊した諸都市の私有財産を奪い取る代わりにいかなる被害を受けたのかを示すための使節を送るべきだ。彼は我々に対するのと同じくらいに友人に対して不正実であり、彼は自分が宴の場で和解させた〔ガラティアの〕四人の君主、その妻子を含む多くの人を、彼らが何も悪さをしていなかったにもかかわらず殺したではないか。我々に対して彼は戦争の必要性というよりもむしろ生来の敵意によって動き、イタリア人とアジア中にありとあらゆる災厄をもたらし、我々と同じ人種の全ての人を妻子と召使いもろとも虐げて殺したのだ。かような憎悪をイタリアへと向けているこの男がこの期に及んで私の父との友好を口にするとは! 私は貴下の兵一六万人を壊滅させるまではそのような友情を思い出すことはできない。
55 我々がすべきこと和平を論じることではなく、その代わりに決して彼を容赦しないことだ。貴下のために私は、もし彼が後悔するならばだが、ローマからの彼への寛恕を得ようとするつもりである。しかしもし彼が再び偽善者のふりをするならば、私はアルケラオス殿、貴下には貴下自身のことを顧慮するよう忠告したい。貴下と彼との間に目下ある事情がどうなっているのか考えてもみてくれ。彼が彼の他の友人たちをどのように遇したのか、我々がエウメネスとマシニッサをどのように扱ったのかを思い浮かべてもみてくれ」スラがまだ話しているうちにアルケラオスは怒りながらその申し出を拒絶し、自分は一軍の指揮権を与えてくれた人を裏切るつもりはないと行った。「私は望むのですが」アルケラオスは行った。「もし貴下が適当な条件を申し出てくれるのならば、それを受け入れたく存じます」短い間隔の後にスラは言った。「もしミトリダテス殿が我々に手持ちの全艦隊を明け渡し、彼が我々の将軍と使節と全ての捕虜、逃亡兵、そして脱走奴隷を引き渡し、キオス人と彼がポントスへと連行した他の全ての人々を母国に返し、敵対行動を始める前に持っていた土地を除く全ての土地から守備隊を引き上げさせ、彼のために被った戦費を支払い、父祖の支配地に満足するならば、私は彼がローマ人に与えた被害を忘れるよう彼らを説得したいと思うだろう」スラが提示した条件は以上のようなものであった。アルケラオスはすぐに保持していた全ての土地から守備隊を引き上げさせて王にその他の条件を知らせた。その間の時間を利用するためにスラはエネトイ族、ダルダノイ族、シントイ族といったマケドニアと境を接し、その地方へと絶えず進入しては領地を荒らしていた諸部族に向けて進軍した。このようにして彼は兵士を訓練し、同時に豊かにした。
56 ミトリダテスからの使節団がパフラゴニアに関する条件を除く全ての条件の批准を携えて戻ってきて、彼らは「もしミトリダテス様が他の将軍、フィンブリア(47)と交渉すれば」彼にはもっと良い条件が適用されるはずだと付け加えた。スラはそのような対比を持ち込まれたことに怒り、フィンブリアを罰して自らアジアに乗り込んでミトリダテスが和平なり戦争を求める様を拝んでやると言った。したがってこう言うと彼は、何度も海賊によって捕らえられる危険を冒しつつもついに到着したルクルスをアビュドスへと送った後、トラキアを通ってキュプセラへと進軍した。彼はキュプロス、フェニキア、ロドス、そしてパンヒュリアの船から構成される艦隊を集めて敵の沿岸地帯を荒らし、道中ミトリダテスの艦隊と小競り合いをした。次いでスラはキュプセラから、そしてペルガモンからミトリダテスの方へと進み、会談の席を設けた。双方は小部隊を連れて両軍に近い平野へと向かった。ミトリダテスは自分並びに父とローマ人との友好関係と同盟についての話で口火を切った。次に彼はアリオバルザネスをカッパドキアの王位に据え、フリュギアを取り上げ、ニコメデスが彼に悪事を働くのを許したことを取り上げて彼に被害を与えたローマの使節たち、評議員、将軍たちを非難した。曰く「この全てを彼らは私から金を取って彼らから見返りを受けるため、つまり金のためにしたのだ。ああローマ人、この金の亡者め、貴下らの大部分がこの非難を免れることはない。貴下らの将軍の行動によって戦争が起こった時、私がした全ては自衛行為であり、それは意図というよりも必要性の結果なのだ」
57 ミトリダテスが話し終えるとスラは答えた。曰く「貴殿が我々のことをどう呼ぼうとも、別の目的、つまり我々の講和条件の受け入れのために、私はそういった問題について述べるのを手短にでも話すことを拒むべきではあるまい。私が当時はキリキアの統治者で、貴殿が元老院の布告に従ったその時、私はその布告によってアリオバルザネスをカッパドキアの王位に復帰させた。貴殿はそれに反対してその理由を示すか、ずっと平和を保つかするべきであった。マニウスはフリュギアを賄賂のために貴殿に与え、貴殿はその罪の片棒を担いでいるわけだ。貴殿が認めた買収によって得たというまさにその事実によって貴殿はフリュギアへの権利を持っていないことになる。マニウスが金のためにした他の罪状でローマで裁判にかけられ、元老院はそれら(48)全てを無効にした。このような理由で彼らは貴殿に不正に与えられたフリュギアはローマの属国ではなく、自由であるべきだと結論したのだ。もし戦争によってそれを得た我々がそこを統治するのが最善ではないと考えるのならば、一体何の権利があって貴殿はそこを保持するのか? ニコメデスは自分にアレクサンドロスという名の暗殺者、次いで王国の競合する請求者ソクラテス・クレストスが差し向けられ、そして自身が貴殿の領地に攻め込むことでそれらの悪事に対して報復を行ったのだと言って貴殿を非難している。しかし、仮に彼が貴殿に悪事を働いたのだとしても、貴殿はローマに使節を送って返答を待つべきだったのだ。しかし貴殿がニコメデスに対して速やかな報復をしたとしても、何故に貴殿に何ら害を及ぼしていないアリオバルザネスを攻撃したのだ? 彼をその王国から追い出した時に貴殿はそこにいたローマ人たちに彼を復帰させる必要を課したのだ。彼らがそれをするのを妨げたことでもって貴殿は戦争を起こしたわけだ。ローマ人を征服した暁には全世界を支配せんとして貴殿は長らく戦争を続けていたのであり、貴殿が述べる理由は真意を覆い隠すための単なる口実以上のものではない。貴殿がどの国とも戦争状態にないにもかかわらず、トラキア人、サルマティア人、スキュタイ人を同盟者とし、隣接する諸王からの援助を求め、海軍を建造し、操縦士や舵手を徴募したことがその証拠だ。
58 貴殿が選んだその時が貴殿にその裏切り行為のほとんど全てへの有罪判決を下した時だ。イタリアが我々から解放されたことを聞いた時、貴殿は我々がアリオバルザネス、ニコメデス、ガラティアそしてパフラゴニア、仕舞には我々のアジア属州を襲う好機を掴んだ。それらを奪取した時に貴殿は諸都市にありとあらゆる狼藉を働き、奴隷を解放して他の者の借金を帳消しにし、奴隷と債務者に都市の支配を任せた。ギリシア人の都市で貴殿は無罪の罪で一六〇〇人を亡き者にした。貴殿はガラティアの四君主を宴の席に呼んで殺した。貴殿はイタリアの血が流れている住人を神殿に逃げ込んだ者であろうと容赦せず一日で皆殺しにして溺死させた。何たる残忍、何たる不敬虔、何という途方もない憎悪を貴殿は我々に示したことか! 犠牲者全員の財産を没収した後、我々はアジアの全ての王にヨーロッパの侵略を禁じていたはずなのに貴殿は大軍と共にヨーロッパへと渡った。貴殿はマケドニア属州を侵略してギリシア人から自由を奪った。貴殿がこれを悔いることはなく、私がマケドニアを取り返してギリシアを貴殿の手から取り戻して貴殿の兵士一六万人を撃滅し、彼らの野営地の全てを我々のものにするまで、アルケラオス殿に貴殿との仲裁をするようにと言わなかった。私は今貴殿がアルケラオス殿を通して許しを求めるために自分の行いを正当化していることに驚いている。もし貴殿が遠くにいる私を恐れているのならば、貴殿は私が貴殿と話し合いの席を設けるために隣まで来たと考えられようか? 貴殿が我々に武器を向けた間に過ぎ去った時間、我々は貴殿の攻撃を懸命に撃退してそれらに引導を渡したのだ」スラがまだ激烈な調子で話していた間、涙を流しながら王はアルケラオスを通して提示された条件に同意した。彼は船と〔戦争に〕必要な他のあらゆるものを引き渡し、唯一の所有物としての父祖伝来のポントス王国に戻った。かくしてミトリダテスとローマ人との最初の戦争はこのようにして終結したのであった。

9巻
59 スラはフィンブリアから二スタディオン以内の所まで進軍し、違法に指揮権を持っているフィンブリアは軍を引き渡すよう命じた。フィンブリアはスラ自身が目下のところ合法的に指揮権を持っていないではないかと冗談じみた調子で答えた。スラはフィンブリアの周りに壁を巡らして彼を囲み、後者の兵の多くがおおっぴらに脱走した。フィンブリアは残りの兵士を呼び集めて自分のもとに留まるよう求めた。彼らが同胞市民と戦うのを拒むと彼は自分の衣服を引き裂いて彼らの一人一人に懇願した。彼らがすでに自分から離れていて、それどころか見捨ててもいたため、彼は幕僚たちの天幕を回って金でその一部を買収し、再び集会を召集して彼らに彼の側に立つように宣誓させた。買収された人たちは皆が自分の名にかけて誓約するために召集されるべきだと大声で叫んだ。彼は過去の好意のために彼に義務を負っていた人たちを召還した。最初に名前が挙がったのは彼の側近のノニウスだった。彼が誓約すら拒否すると、フィンブリアは剣を抜いて彼を殺すと脅し、他の人たちの囂々たる非難で脅かされて止めざるを得なくなっていなければ彼は実際にそうしていたことだろう。それから彼はスラのもとへと逃亡兵のふりをして行って暗殺するために一人の奴隷を金と解放の約束で雇った。その奴隷はその仕事をする段になると臆病風に吹かれてこのために疑いわれてしまい、逮捕されて白状した。フィンブリアの野営地の周りに配置されていたスラの兵たちは彼への怒りと軽蔑で一杯になった。彼らはこの奴隷を解放し、数日の間シケリアで一時逃亡奴隷の王になっていた人物が持っていたアテニオというあだ名を彼に与えた。
60 そこで絶望して封鎖壁へと向かったフィンブリアはスラとの会談を求めた。後者は代わりにルティリウスを遣ってきた。フィンブリアは自分が敵に対してすらなされる会見に値しないという結果に落胆した。彼が自身の若さ故の攻撃への許しを乞うと、スラは彼が総督になったアジア属州からフィンブリアが船に乗って出ていくのであれば海路で去る許しを与えるだろうとルティリウスは約束した。彼はペルガモスへと向かってアスクレピオスの神殿に入り、剣で自らを突き刺した。致命傷にはならなかったために彼は奴隷に武器を差し込むよう命じた。後者は主を殺し、それから自らも自害した。このようにしてミトリダテスに次いで最もアジアに深刻な被害をもたらしたフィンブリアは世を去った。スラは、ローマで多くの人の命を奪ってその人たちを死後に埋葬しなかったキンナとマリウスの例に倣うつもりはないと言い添えてフィンブリアの遺体を埋葬のために彼の解放奴隷に渡した。フィンブリアの軍はスラのもとへとやってきて、スラはこの軍と誓約を交わして自軍と合体させた。次いでスラはビテュニアにニコメデスを、カッパドキアにアリオバルザネスを復位させるようクリオに命じ、自らが国賊として票決されたという事実を知らぬふりをしつつ元老院に万事を報告した。
61 アジアでの問題にけりをつけたスラは協力への報償ないし彼のために勇敢にも骨を折ったことへの返礼としてイリオン、キオス、リュキア、ロドス、マグネシア及びその他の住民に自由を与え、彼らをローマの人々の友人として記した。次いで彼は残りの町々に軍を分け、ミトリダテスによって解放された奴隷はすぐに主人のもとへと帰るべしとの布告を発した。多くの都市が従わず、都市の一部は反乱を起こしたため、様々な口実のもとで自由民と奴隷双方のうちで苛烈な殺戮が起こった。多くの町の城壁が破壊された。他の多くの町は略奪を受けて住民は奴隷として売り払われた。カッパドキア派は人にせよ都市にせよ厳しく罰せられ、とりわけ王への卑屈な世辞を口にしつつ神殿でのローマ人の命乞いを侮辱しながら無下に扱ったエフェソス人が顕著であった。この後、指定された日にスラと会談するために〔諸都市の〕主要な市民にエフェソスへと来るよう命じる一つの布告が周辺に送られた。彼らが集まると、スラは壇上から彼らに以下のような話をした。
62 「我々はシュリア王アンティオコスが貴下らを略奪していた時に軍と共に最初にアジアへとやってきた。我々は彼を追い払ってハリュス川とタウロス山の向こう側へと彼の支配圏の境界を定めた。我々は貴下らを彼から取り返した時に貴下らの財産に手を受けず貴下らに自由を与えたものだが、戦争にあっての我々の同盟者エウメネスとロドス人に属国としてではなく、庇護者として僅かな土地を与えたのがその例外である。リュキア人がロドス人に異議を申し立てた時に我々が彼らから権力を奪ったことがこの証拠である。我々が貴下らにしたことはかくの如きものであった。他方で貴下らはアッタロス・フィロメトルが自らの意志で我々に王国を遺贈した時、我々と四年間対立していたアリストニコスに助けを差し伸べた。必要と恐怖に迫られて貴下らの大部分を占領した時に我々は貴下らの義務への返礼をしたのだ。これら全てにもかかわらず、二四年の年月の後、貴下らが大変な繁栄と栄華を享受して公も私も再び安楽と奢侈によってのぼせ上がっていた間、我々はイタリアで手一杯になっていて、貴下らの一部はミトリダテスを呼び込んで他の者は彼が来た時には手を組んだ。全てのことのうちで最も悪名高いことは貴下らの共同体の中にいた全イタリア人を女も子供も一日のうちに殺すようにという彼の命令に従ったことだ。貴下らは貴下ら自身の神々に捧げられた神殿に逃げ込んだ人すら容赦しなかった。貴下らはこの罪科への罰を、貴下らとの信義を破って強奪と殺戮をほしいままにして貴下らの土地を再分配し、貴下らの奴隷を解放して貴下らの一部の者に対する僭主に任じ、陸でも海でもあらゆる場所で強奪を働いたミトリダテスその人から受けたのだ。そのような次第で貴下らは以前の守護者の代わりに選び取った守護者がどんな者であったのかを実験と比較とによってすぐに学んだのだ。それらの罪の先導者が貴下らに罰をももたらしたのだ。貴下ら皆には貴下らに共通の罪と寝返りに相応の何かしらの罰がさらに科される必要があるだろう。だが、ローマ人は無慈悲な殺戮、見境のない財産没収、苛烈な暴動あるいはその他の野蛮な行為をしようなどとは毫も考えぬだろう。私はローマ人へのかねてよりの親愛の呼び声の高さのために今のところはアジアでかくも名高いギリシアの民族とその名を寛恕するつもりでさえいるわけで、私は自分のために膨らんだ戦費の即時支払い並びに属州での問題解決にあたってかかるであろう経費のために五年間の税を課すだけにしておこう。私は貴下らの各々の都市に応じた責務を割り当て、支払期間を定めるつもりでいる。従わなければ私は敵に対するように罰を与えるべく参上する次第である」
63 こう話を終えるとスラは五人の代表者を任命して金の徴収に向かわせた。諸都市は貧困に喘いでいたため、兵士たちの傲慢な物言いでの要求を受けて高利で金を借りて劇場、運動場、港そして他のあらゆる公的資産を抵当に入れた。こうして金が集められてスラのもとへと運ばれた。アジア諸州には悲惨が満ち溢れた。そこは略奪集団というよりはむしろ正規の艦隊のような大勢の海賊によって大っぴらに攻め立てられていた。ミトリダテスは沿岸全域を荒し、それらの地方をもはや保持できまいと考えた時に彼はまず船団を艤装させた。その数は大いに増していき、船だけにとどまらず港、城館、そして都市も大っぴらに襲うようになった。彼らはイアソス、サモスそしてクラゾメナイ、またスラがその時に滞在していたサモトラケも占領し、一〇〇〇タラントンの値の装飾品をその地の神殿から奪ったと言われた。ことによるとスラは自分を攻撃した者(49)は懲らしめられるべきであると望んだためか、あるいはローマの対立党派を急いで押さえつけるつもりであったかしたために彼らを放っておいてギリシアへと航行し、そこから軍の大部分を率いてイタリアへと向かった。そこで彼がしたことについては私は内乱についての史書で述べておいた。
64 第二次ミトリダテス戦争は以下のようにして始まった。アジアの残りの問題を解決するべくスラによってフィンブリアの二個軍団と共に残されていたムレナは凱旋式への野心のために戦争のための些末な口実を探した。ミトリダテスはポントスに戻った後、コルキス人と彼に反旗を翻したキンメリアのボスポロス周辺の諸部族と戦争した。コルキス人はミトリダテスの息子ミトリダテスを彼らの支配者とするよう頼み、彼がそうするとすぐに忠誠へと立ち戻った。王はこれは息子が王になろうという野心のために仕組んだことなのではないかと疑った。したがって彼は息子を呼び寄せてまず黄金の足かせで捕縛し、フィンブリアとの戦いにおいてアジアでよく尽くしてくれていたにもかかわらず息子をすぐさま殺した。ボスポロス諸部族に対して彼は艦隊を建造して大勢の陸軍を準備した。彼が未だにカッパドキアの全域をアリオバルザネスに返還せずその一部を保持していたため、彼の準備の大仰さはそれらの部族ではなくローマ人に対する準備なのではないかという信念の元になった。また彼はアルケラオスに疑念を持っていた。ミトリダテスは後者がギリシアでの交渉でスラに対して必要以上に譲歩したと考えていたのだ。これを聞いて用心するようになったアルケラオスはムレナのもとへと逃げて彼のもとで働き、ミトリダテスに対して先手を打つよう説き伏せた。ムレナはカッパドキアを経由して突如としてミトリダテスに属していた非常に大きな地方都市であり、再建された豊かな神殿があったコマナを攻撃し、王の騎兵部隊の一部を殺した。王の使節団が協定を訴えると彼は自分は協定など知らないと答えた。というのもスラはそれを文書として書かず、条項を行動でもって順守した後に立ち去っていたからだ。その答えを送ったムレナは神殿の金すら容赦しない強奪を始め、カッパドキアへと越冬に向かった。
65 ミトリダテスはムレナの行動への苦情を言うべく元老院とスラに使節を送った。その時、後者のスラは雨で増水して渡河が非常に困難になっていたハリュス川を渡っていたところだった。彼はミトリダテスに属していた四〇〇の村を占領した。王は抵抗せずに使節の帰りを待ち続けた。ムレナは略奪品を曳いてフリュギアとガラティアへと戻った。そこで彼はミトリダテスの苦情のためにローマから送られていたカリディウス(50)と会った。カリディウスは元老院の布告を持ってきたわけではなく、王は協定を破棄していないのでムレナは王を苦しめてはならないと元老院が命じたと皆に宣言して言い聞かせた。こう述べた後に彼はムレナ一人に会って話をした。ムレナは暴虐ぶりを和らげずに再びミトリダテスの領地を侵した。後者は開戦はローマ人によって命令されたものだと考えて将軍ゴルディオスにローマ人の村々への報復を指示した。ゴルディオスはすぐさま多くの家畜と他の財産、私人であろうと兵士だろうととにかく人を分捕って連れ去り、ムレナその人に対して川を挟んで対陣した。いずれもミトリダテスが大軍と共にやってくるまで戦端を開かず、ミトリダテスが来るとすぐに川の両端で激戦が起こった。ミトリダテスが勝利して川を渡り、ムレナに対して決定的に優勢に立った。後者はある強固な丘まで退却し、王はそこの彼を攻めた。多くの兵を失った後にムレナは敵の飛び道具によって大いに悩まされつつも道なき道を通ってフリュギアの山脈へと逃げた。
66 この素晴らしくも決定的な勝利の知らせは速やかに広まり、多くの人をミトリダテスの側へと奔らせた。後者はムレナの守備隊の全てをカッパドキアから追い出し、彼の国の以下のような習慣に従って高い丘にそびえ立つ木の山にあるゼウス・ストラティオスに犠牲を捧げた。まず、王たち自身がその山へと材木を持っていく。それから彼はより小さい杭で他の大きな杭を囲ませ、それに牛乳、蜂蜜、葡萄酒、油、そして様々な種類の香料を注ぐ。パサルガダイのペルシア王の犠牲式でのように、参加者に振る舞うためにご馳走が地面の上に広げられ、彼らはその木に火を放つ。火柱の高さは海から一〇〇〇スタディオン離れていても見えるほどで、熱のために数日の間は誰もその近くには来れないと言われている。ミトリダテスは彼の国の習慣に則ってこの王が行う犠牲式を執り行った。スラは、ミトリダテスが協定を冒さなければミトリダテスに対する戦争は正当にはならないと考えた。ミトリダテスと戦うべからずという以前の命令は真摯に実施され、ミトリダテスとアリオバルザネスとを和解させるべしとムレナに言うためにアウルス・ガビニウスが送られた。彼らの間での会談でミトリダテスは四歳だった幼い娘をアリオバルザネスに嫁がせ、その時に占拠していたカッパドキアの一部のみならず、これに加えて他の部分も保持することを要求するにあたっての論拠を改良した。それから彼は皆のために宴を開き、習わし通りに飲酒、大食い、冗談、歌等々で秀でていた者に賞金を出し、その中で参加しなかったのはガビニウスだけだった。かくしておよそ三年間続いたミトリダテスとローマ人との戦争は終結を見た。

10巻
67 今や手が空いたミトリダテスはボスポロス諸族を平定し、息子の一人マカレスを彼らの王に任命した。次いで彼はトロイア戦争からの帰国時に退路を失った者の子孫であると考えられていたコルキスの向こうのアカイア人を攻撃したが、軍のうち二つの部隊を、一部を戦いで、一部を気候の厳しさのために、そしてさらに他の一部を計略のために失った。帰国すると彼は条約への調印のためにローマ人に使節を送った。同時にアリオバルザネスは自らの考えないし他の者からの唆しのためにカッパドキアが自分に譲渡されておらず、その大部分は未だミトリダテスに保持されていると主張する手紙をそちらへと送った。スラはミトリダテスにカッパドキアを放棄するよう命じた。彼はその通りにし、次いで今一度条約への調印のために使節を送った(51)。しかしまさに丁度その時にスラは死んでしまい、元老院は別のことで手いっぱいだったために法務官たちはこれを認めなかった。かくしてミトリダテスは義理の息子ティグラネスに彼自らの責任においてカッパドキアへと攻め込むよう説き伏せた。この巧みな工夫はローマ人には通用しなかった。そのアルメニア王はカッパドキアに包囲網を敷いておよそ三〇万人の人を引きずり出し、彼らを自らの国に連行して住まわせ、彼がアルメニアの王冠を最初に帯びた場所を彼自らにちなんでティグラノケルタ、つまりティグラネスの町と呼び慣わした。
68 それらのことがアジアで起こっていた一方で、ヒスパニアの支配者セルトリウスはその属州と全ての近隣地方をローマ人に対する反乱へと立ち上がらせ、ローマの元老院を真似て仲間のうちから元老院議員を選び出した。彼の党派の二人の成員、ルキウス・マギウスとルキウス・ファンニウスはアジアの属州の大部分と近隣諸国を獲得するという希望を持たせつつ、ミトリダテスにセルトリウスとの同盟を提案した。ミトリダテスはこの提案に賛同してセルトリウスに使節団を送った(52)。後者は彼らを自分の元老院へと案内して自らの名声がポントスにまで及んでいること、今やローマ人勢力を東西からを包囲することができるようになったことを祝った。かくして彼はミトリダテスにアジア、ビテュニア、パフラゴニア、カッパドキア、そしてガラティアを譲渡する条約を結び、ミトリダテスのところに将軍としてマルクス・ウァリウスを、相談役としてマギウスとファンニウスという二人のルキウスを送った。彼らに補佐されてミトリダテスはローマ人との三度目の、そして最後の戦争を開始してその過程で自らの全王国を失い、セルトリウスはヒスパニアで命を落とした。二人の将軍がローマからミトリダテスに向けて送られ、その一人目はスラの下で艦隊指揮官として勤務していたルクルスであり、二人目のポンペイウスはその権能の全てを使い、余勢を駆り、ミトリダテス戦争を口実としてエウフラテス川までの隣接する領地をローマの支配下に置いた。
69 ローマ人と対立することになったためにミトリダテスは、かくも弁解の余地がなく急いで始まったからにはこの戦争は容赦ないものになるであろうと知った。彼は全てがかかっていると考えて準備をした。残りの資金と冬の全期間を彼は材木を切り倒して船を建造し、武器を作るのに費やした。彼は二〇〇万メディムノスの穀物を沿岸沿いに配分した。かねてより持っていた軍に加えて彼はカリュベス人、アルメニア人、スキュタイ人、タウロス人、アカイア人、ヘニオコイ人、レウコシュロイ人、そしてアマゾン人の国と呼ばれるテルモドン川あたりの土地を占める人々を同盟者とした。彼の以前からの戦力にはアジアからの戦力が加えられた。ヨーロッパから彼はバシリダイ族とイアジュゲス族、コラロイ族といったサルマティア諸部族とダヌビオス川沿いとロドペとハイモスの両山脈に住むトラキア人、彼らに加えて全ての者のうちで最も勇敢なバスタルナイ族を得た。ミトリダテスはしめて一四万人の歩兵と一六〇〇〇騎の騎兵という戦力を徴募した。大人数の道路建設者、荷物運び、そして従軍商人がこれに続いた。
70 春の初め(53)、ミトリダテスは海軍の試行を行い、慣習通りゼウス・ストラティオス、ポセイドンに海中に馬ごと戦車を沈めて犠牲を捧げた。次いでタクシレスとヘルモクラテスという軍の指揮権を持った二人の将軍を連れてパフラゴニアに急行した。そこに到着すると彼らは兵士に向って演説をし、父祖をそしてなおさら彼自身を讃えていかにして彼の王国が始めのちっぽけな状態から大きくなったのかといかにして彼の軍隊が目下ローマ人に敗れてきたのかを示した。彼は貪欲で「かようなまでに」権力に飢えたローマ人を非難し、「彼らはイタリアとローマそのものを隷属化してきたのだ」と言った。彼は最新の、そしてまだ現行の条約への背信の廉で彼らを非難し、彼らはそれを再び侵害する機会を見て取っていたので署名しようとしなかったのだと述べた。こうして戦争の理由を示した後、彼は軍の編成と装備、そしてヒスパニアでセルトリウスと難戦を繰り広げ、イタリア中が内紛で引き裂かれていたローマ人〔の状況〕について述べた。「このために」彼は言った。「彼らは長年海を海賊のなすがままにしてきたのであり、彼らには一国の同盟国も自発的に彼らにまだ従っている属国もいないのだ。お前たちは知らないのか?」彼は続けた。「彼らの中の最も高貴な市民たち――ウァリウスと二人のルキウスを指す――は彼ら自身の国との戦争状態にあり、そして彼らは我々と同盟していることを」
71 演説を終えて軍を奮い立たせると彼はビテュニアに侵攻した。最近子供を残さずに死んだニコメデスは王国をローマ人に遺贈していた。そこの支配者コッタ(54)は全く戦いに向かない人物であった。彼はカルケドンへと手持ちの軍と共に逃げた。したがってビテュニアは再びミトリダテスの支配下に置かれた。〔近隣に住んでいた〕ローマ人は方々からカルケドンのコッタのところまで群がってきた。ミトリダテスがその地に着いてもなお軍事には無経験であったコッタは彼に立ち向かおうとはしなかったが、海軍指揮官ヌドゥスは陸軍の一部を率いて平地の非常に強力な地点を占めた。しかし彼は撃退され、カルケドンの城壁の門まで逃げてそこで動きを封じられた。同時に突入しようとした軍〔ポントス軍〕と門で白兵戦が起こり、そのために追撃者〔と逃げてきた軍〕の見分けがつかず投擲兵器が放たれることはなかった。門の守備兵は市案じて仕掛けで門を閉ざした。ヌドゥスと他数人の将官たちは縄で引き上げられた。残った者は各々手を挙げて懇願しながら友軍と敵軍の間で殺されていった。ミトリダテスはこの勝利を巧みに利用した。彼は同日に艦隊を港へと向かわせ、〔港の〕入り口を封鎖していた青銅の鎖を断ち切って敵船四隻を焼き払って残りの六隻を曳いていった。ヌドゥスもコッタも城壁の内側に閉じ籠もって抵抗しなかった。ローマ軍は元老院議員の地位にあったルキウス・マンリウスを含むおよそ三〇〇〇人を失った。ミトリダテスは港へ最初に突入したバスタルナイ族二〇人を失った。

11巻
72 執政官兼この戦争の担当将軍に選ばれたルキウス・ルクルスはローマから一個軍団の兵士を率い、フィンブリアの二個軍団と合流した。他の二個軍団も加えると総勢歩兵三〇〇〇〇人と騎兵一六〇〇騎になり、彼らを連れて彼はキュジコスのミトリダテスの陣営の近くに設営した。脱走兵から王の軍はおよそ三〇万人いてあらゆる物資が徴発隊によって供給されるか海路で来ていることを知ると、〔ルクルスは〕周りにいた者に戦わずして直ちに敵を弱らせてみせると言い、この約束を覚えているように言った。野営に適した山を見つけ、そこは直ちに補給を得ることができて敵の補給線を切断することができる場所であったため、彼は危険を冒すことなく勝利を得るためにそこを占領しようと動いた。一つの狭い道しかそこに通じる道はなく、ミトリダテスは強力な守備隊でそこを守っていた。彼はタクシレスと他の家臣からそうするよう忠告されていたのだ。セルトリウスとミトリダテスの同盟を成し遂げたルキウス・マギウスはセルトリウスが死んだためにルクルスとの内通を開始し、誓約で保証してローマ軍が道を通って彼らが望む場所に野営するのを見過ごすようにミトリダテスを説得した。彼が言うには、「フィンブリアの二個軍団は逃げたいと思っていますし、すぐにでも陛下のもとに来ることでしょう。陛下が戦わずして敵を征服できれば、戦いと流血をどこで用いることがありましょうや?」。ミトリダテスは不注意にも疑うことなくこの忠告に賛成した。彼はローマ軍が邪魔されることなくその道を通り、彼の正面の大きな丘に防備を施すのを許してしまった。そこを奪取すると、ローマ軍は難なく近隣から物資を運ぶことができるようになった。他方、ミトリダテスは苦労しながら確保された時々来る物資を除いて内陸の全ての糧秣から湖、山々、そして川によって切り離されてしまった。彼は簡単に脱出できず、優位に立っていた時には軽んじていた地形の困難さのためにルクルスを破ることもできなかった。その上、今や冬が到来してすぐに海からの物資補給が途切れた。その状況を眺めると、ルクルスは友人たちに約束を思い出させ、現に予測の通りになっただろうと示した。
73 多分ミトリダテスはその数倍の兵力で敵の戦列を突破することさえできたにもかかわらずそれをせず、位置の悪さと物資の欠如の両方を打破できると考えて用意していた兵器でキュジコスの包囲を行った。彼は豊富な数の兵士を持っていたためにあらゆる可能な方法を使って包囲を行った。彼は海に面する二重の壁で港を封鎖して市の残りの部分を塹壕で囲んだ。彼は土累を作り、攻城兵器、塔、そして亀
(55)で守られた破城槌を作った。彼は一〇〇ペキュスの高さの一台の攻城兵器を作り、それに石とありとあらゆる矢玉を放つカタパルトが備え付けられたもう一つの塔を乗せた。連結された二隻の五段櫂船で港へともう一台の塔を運び、それらが壁に近づくとその塔から機械仕掛けで橋が突き出るという具合だった。全ての準備が完了すると彼は手始めに捕虜の三〇〇〇人のキュジコス住民をその都市へと送った。彼らは両手を上げて城壁へ向けて嘆願し、同胞市民にこの危険な状況から助けてくれるよう懇願したが、キュジコスの将軍ペイシストラトスは敵の手中にある以上彼らは勇気を持って自らの運命に立ち向かうべきであると城壁から言い放った。
74 この試みが失敗すると、ミトリダテスは船に乗せた機械を運んで突如城壁に橋を架けて四人の兵士を渡らせた。当初キュジコス人はその装置の新奇さに唖然として逃げ出しそうになったが、それに続くはずの残りの敵がぐずぐずしていたために勇気を奮い起こして城壁の上の四人に向けて突撃した。このようにしてキュジコス人は海からの侵略者を撃退した。これと同じ日に三度、全ての機械がせっせと働いていた市民に向けて陸側で集まってきて、彼らは絶えず繰り返される攻撃に対処するためにあちこちへとかけずり回ることになった。彼らは破城槌を石で破壊したり輪縄で方向を逸らしたり、羊毛製の籠で威力を弱めたりした。彼らは敵の火のついた矢玉を水や酢で消し、ぶら下げた衣服やピンと張った亜麻の服で他の兵器による威力を減殺した。つまるところ、彼らは人間の熱意の範囲内にあったことを余すところなく試みたのであった。彼らは根気強く精を出して抗戦したたにもかかわらず、火で損じられた城壁の一部を夜まで放ったままにしておいた。というのも熱さのために誰もそこへはそう急いで赴かなかったからだ。キュジコス人はその城壁を囲むもう一つの城壁を夜に建設し、大体その頃合いに強風が吹いて王の兵器を粉砕した。
75 キュジコス市はゼウスによってペルセフォネに持参金として与えられたものであり、その住民は全ての神々のうちで彼女を最も敬っていたと言われている。彼女の祭は今も定期的に開催されており、そこで彼らは彼らのうちには練り粉職人がいなかったために黒い子牛を彼女への犠牲に捧げるのを習わしとしている。その時には黒い子牛が港の入り口にかかっている鎖の下に飛び込んで海から彼らのところに泳いでいってそれから市へと歩いてゆき、神殿への道を見つけて祭壇の近くの場所へとやって来ることになっていた。それからキュジコス人は喜ばしい希望を胸にその子羊を犠牲に捧げた。したがってミトリダテスの友人たちはその場所は神聖な場所だからと彼に離れるよう進めたが、彼は耳を貸さなかった。彼は市へと突き出たディンデュモス山へと登り、市壁まで延びる堡塁を建設してその上に塔を建て、同時に坑道によって市を掘り崩した。食糧不足のために衰弱して役に立たなくなった馬たちが蹄を痛がると、彼はビテュニアへと遠回りをさせて馬を送った。ルクルスはリュンダコス川を渡りつつある彼らに襲いかかって大勢を殺し、一五〇〇〇人の兵士、六〇〇〇頭の馬を捕らえ、大量の輜重物資を鹵獲した。キュジコスでこのようなことが起こっていた一方で、ミトリダテスの将軍の一人エウマコスはフリュギアに攻め込んで大勢のローマ人を妻子もろとも殺し、ピシディア人とイサウリア人、そしてまたキリキアをも制圧した。最終的にガラティアの四王の一人デイオタロスは侵略者を撃退して多くの兵を殺した。フリュギアあたりでの出来事の次第は以上のようなものであった。
76 冬が来るとミトリダテスは海路で運ばれていた物資を奪われることになり、率いていた全軍が餓えて多くの者が死んだ。ある者は野蛮な風習によって内臓を食らった。他の者は草を食べて病気になった。さらに近隣に埋葬されないまま放り出されていた遺体が飢餓による病に加えて疫病をもたらした。にもかかわらずミトリダテスはディンデュモス山から広がる保塁によってキュジコスを占領しようと未だ望んでいたためにその事業を続行した。しかしキュジコス人は堡塁を掘り崩してその上にあった兵器を焼き払い、頻繁に出撃しては彼の部隊に襲いかかった。彼らが食糧不足によって弱まっているのを知るとミトリダテスは撤退を考え始めた。彼は夜に逃げて自らはパリオスへと艦隊と共に向かい、陸軍は陸路でランプサコスへと向かわせた。その時に非常に増水していたアイセポス川の渡河の際にルクルスからの攻撃を受けて多くの者が命を落とした。したがってキュジコス人は彼ら自身の勇気とルクルスが敵にもたらした飢餓によって王の膨大な包囲の物量から逃れた。彼らは彼を讃えて競技祭を始め、この日に彼のために祝い事をすることにし、その祭はレウコレイア祭と呼ばれている。ミトリダテスはルクルスによって包囲を受けていたランプサコスに逃げ込んだ兵のために船を送ってランプサコス人もろとも彼らを運び出した。セルトリウスから送られていた将軍であったウァリウスとパフラゴニア人アレクサンドロス、そして宦官ディオニュシオス指揮下の一〇〇〇〇人の選り抜きの兵士と五〇隻の艦隊を残して彼はニコメディアへと軍の大半と共に航行した。その際に嵐が起こり、両分遣隊の多くが壊滅した。
77 敵を飢えさせることでこのような結果を生むと、ルクルスはアジア諸州から艦隊を集めて配下の将軍たちに配分した(56)。トリアリウス(57)はアパメイアに航行してそこを占領し、神殿に逃げ込んだ非常に多くの住民を殺した。バルバはある山を基地として陣取っていたプルシアスを捕らえ、ミトリダテスの守備隊が放棄したニカイアを占領した。アカイア人の港(58)でルクルスは敵船一三隻を拿捕した。彼の英雄(59)の受難を我々に想起させるために青銅の蛇、弓、そして縛り紐のついた胸当てがフィロクテテスの祭壇に飾られていたレムノス島に近いある土地の痩せた島で彼はウァリウスとアレクサンドロスとディオニュシオスに追いついたルクルスは彼らを馬鹿にした調子で彼らに向かっていった。彼らは大声を上げつつ勇敢に踏み止まった。彼は漕ぎ手を確認し、彼らを海へとおびき寄せるために艦隊を二手に分けて送り出した。彼らの心は挑戦を受ける方へと傾いていたものの陸で身を守り続けたため、彼は島の別の方角へと艦隊の一部を送って歩兵戦力を上陸させ、敵を〔停泊していた〕船へと追い払った。ルクルス軍を恐れていたために未だ彼らは海に出てこようとはせずに沿岸を進んだ。したがって彼らは陸海両方からの矢玉に曝されることになり、敗走の過程で大殺戮を受けた後に非常に多くの負傷者を出した。ウァリウス、アレクサンドロス、そして宦官ディオニュシオスは身を隠した洞窟で捕らえられた。ディオニュシオスは持っていた毒を飲んですぐに死んだ。ルクルスはローマの元老院議員〔を見世物にすること〕で凱旋式を飾ろうとは望まなかったためにウァリウスは殺すよう命令を下したが、その目的〔凱旋式〕のためにアレクサンドロスは取っておいた。ルクルスは月桂樹の冠を被った自分が描かれた手紙を勝者の習わし通りローマに送り、次いでビテュニアへと向かった。
78 ポントスへ航行していたミトリダテスは二度目の嵐に見舞われ、およそ一〇〇〇〇人の兵と六〇隻の船を失い、生き残った者は方々に四散して風が彼らを流した。彼の船に穴が開くと、彼の友人たちは思いとどまらせようとしたにもかかわらず彼は小型の海賊船に乗り移った。その海賊たちは彼をシノペに無事上陸させた。その地から彼はアミソスへと連れていかれ、義理の息子であったアルメニア人ティグラネスとキンメリアのボスポロスの支配者であった息子マカレスに急いで救援に赴くよう求める手紙を送った。彼はディオクレスに大量の黄金と他の贈り物を近隣のスキュタイ人らに持って行くよう命じたが、ディオクレスは黄金と贈り物を持ち逃げしてルクルスに寝返った。ルクルスは勝利の名声を背に前進し、道中にあるものと地方にあるもの全てを制圧した。まもなく彼は戦争での略奪を免れていて奴隷が四ドラクマで、牛が一ドラクマで、山羊、羊、衣服、その他のものもそれに比例した値段で売られていた富裕な地域に来た。ルクルスはアミソス、そしてミトリダテスがアミソスの傍らに建設して自らの名にちなんで名付け、王の住居が集中していたエウパトリアを包囲した。もう一つの軍に彼はあるアマゾネス人にちなんで名付けられ、テルモドン川沿いにあったテミスキュラを包囲させた。この場所を包囲した軍は攻城塔を運んできて堡塁を作り、その中で戦闘ができるほど大きな坑道を掘った。住民は上から坑道の穴を寸断して熊と他の野獣と蜂の群を工夫に向けてその中へと放った。アミソスの包囲軍は他の方法でも苦しめられた。住民は彼らを勇敢に撃退しては頻繁に出撃し、しばしば一騎打ちを挑んだ。ミトリダテスはカビラで越冬して新たな軍を集めており、そこから彼らに大量の物資と武器と兵士を送った。そこで彼はおよそ四〇〇〇〇人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵を集めた。

12巻
79 春(60)が来るとルクルスはミトリダテスに向けて山脈へと進み、ミトリダテスはルクルスの接近を防ぎ、何か重要なことが起これば狼煙を出せる地点にあらかじめ部隊を置いていた。ミトリダテスはフォイニクスという名の王族の一員をこの先遣監視部隊の指揮官に任命していた。ルクルスが接近するとフォイニクスはミトリダテスに向けて狼煙を上げ、次いで軍と共にルクルスに投降した。ルクルスは苦労することなく山脈を抜けてカビラまでやってきたが、騎兵戦でミトリダテスに破れて山地へと退却した。騎兵指揮官ポンポニウス(61)は負傷して捕虜になり、ミトリダテスの面前に連れて行かれた。王は彼にお前は助命のためにどんなことを頼むつもりなのかと問いかけた。ポンポニウスは「偉大な方よ、もしあなた様がルクルスと講和しても彼の敵であり続けるというのならば私はあなた様の問いを考えようとも思わないでしょう」と答えた。夷狄たちは彼を殺したがったが、自分は不運にあっても屈することのない勇者に暴力を振るうつもりはないと王は言った。彼は数日間続けざまに軍を戦闘隊形にしたが、ルクルスは出撃して戦おうとはしなかった。そのためにルクルスは山に登ることでミトリダテスの方へと向かおうとし、いくつかの方法を考えてみた。この時、以前ルクルスに投降して最近の騎兵戦で多くの人命を救っており、そのためにルクルスと食卓を共にするに値する人物だと見なされていたオルカバという名のスキュタイ人と彼の腹心たちが正午に休憩していた彼の天幕にやってきて押し入ろうとした。彼は彼の習わし通り帯に短剣を身につけていた。中に入るのを拒まれると彼は怒り、差し迫った必要性によって将軍は目を覚まさずにはいられなくなるだろうと言った。召使いはルクルスにとってはルクルスの安全よりも有益なものはないと答えた。その結果、ルクルスに対する陰謀を企んでいて自分が疑われていると考えたためか、あるいはこのようにして侮辱されて腹を立てたためにそのスキュタイ人は馬に乗ってすぐにミトリダテスの方へと奔った。彼は名をソブダコスといい、ルクルスを見限ろうとしていたもう一人のスキュタイ人のことをミトリダテスに打ち明けた。それ故にソブダコスは拘束された。
80 敵が騎兵戦力であまりにも優勢であり、その周りに道が見つからなかったたためにルクルスは平野へと直に下るのを躊躇ったが、ある洞穴の中で山道に精通していた狩人を見つけた。彼を道案内としてルクルスはミトリダテスより高い位置にある凸凹した迂回路をとった。彼は騎兵のために平野を避けて降り、正面に渓流があった場所を野営の場所に選んだ。物資が乏しくなると彼はカッパドキアに穀物を求める手紙を送り、その間にも敵と頻繁に小競り合いをした。王の軍勢が一旦逃げ出すとミトリダテスは野営地から彼らの方へと駆け出し、叱責してうまく再集結させた。そのために今度はローマ軍が恐れをなして急いで山の方へと逃げる番になり、彼らは敵軍が追撃を控えたことを長い間知らずに各々は自分の後ろを逃げる仲間を敵だと思って大混乱に陥った。ミトリダテスは方々にこの勝利を知らせる御触れを出した。次いで彼は自身がキュジコスで被ったのと同じ物資不足に陥らせようと企んでカッパドキアからルクルスに物資を届ける輸送物資を横取りするために最も勇敢な騎兵から成る分遣隊を送り出した。
81 カッパドキアのみから運ばれていたルクルスの物資の遮断が彼の主目的であったが、彼の騎兵部隊は隘路にいた輸送部隊の前衛部隊のもとへとやってくると敵が開けた地域に着くのを待たなかった。したがって彼らの馬は狭い場所では役立たずになり、ローマ軍は大急ぎで道を横切る形で戦闘隊形についた。当然のことながら歩兵は地形の険しさで助けられ、王の部隊のある者を殺してまたある者を断崖へと追いやり、敗走の過程で残りを散り散りにさせた。少数の兵が夜に野営地に到達して自分たちが唯一の生き残りであると言ったため、実際のところ十分に甚大だった災難は噂でさらに大げさに吹聴された。ミトリダテスはルクルスよりも前にこの事態を聞き知っており、彼の騎兵部隊の殺戮者を先んじて攻撃できるという甚だしい優位を得ていた。だが彼は恐慌状態に陥って逃走を考え、すぐに天幕の中で友人たちに自分の目的を伝えた。彼らは信号が出るのを待たずにまだ夜のうちに自分の荷物を野営地の外へと出し、門のあたりは荷駄獣で大混雑した。兵士たちはその騒ぎを知ると輸送部隊が何をしているのかを知り、道理の通らない想像をした。恐怖で満たされ、信号が自分たちに出されていないことでの怒りと混ざると、彼らは防塞を壊して出ていき、指示を出す将軍や他の将官からの命令もなしに慌てふためいて平地へと四散した。ミトリダテスは無秩序な壊走を聞くと天幕から彼らの中へと飛び込んで何かしらのことを言おうとしたが、誰も聞く耳を持たなかった。彼は雑踏に巻き込まれて落馬したが、再び乗って少数の供廻りと一緒に山へと運ばれた。
82 輜重隊の成功を聞いて敵の敗走を知ると、ルクルスは騎兵の大部隊を敗走中の兵の追撃へと出撃させた。彼は当面は略奪を慎んで目に入る者は無差別に殺すよう命じていた歩兵を使ってまだ荷を野営地で集めていた者を包囲した。しかし兵士たちは金銀の入った放棄された器と高価な衣服を見ると命令を無視した。ミトリダテスに追いついた者は転がり落ちた黄金を載せた騾馬の鞍を切り裂いてそれに夢中になり、彼がコモナへ逃げるのを許してしまった。そこから彼は二〇〇〇騎の騎兵と一緒にティグラネスのところまで逃げた。ティグラネスは彼に面会を許さなかったが、王らしい娯楽が彼の地所で彼に与えられるよう命じた。ミトリダテスは王国のことを完全に絶望して宦官のバッコスへと自身の姉妹、妻、側室たちを可能な殺し方で殺すよう手紙を王宮に送った。彼女らは素晴らしい愛情でもって短剣、毒、縄を使って自害した。ミトリダテスの守備隊の指揮官たちはほとんどの物がルクルスの手に渡ったのを知った。ルクルスは艦隊をポントス沿岸の諸都市へも送り、アマストリス、ヘラクレイア、その他を占領した。
83 シノペはルクルスに対して猛抵抗を続けており(62)、住民はうまくいっていないながらも海上で戦っていたが、包囲されて重量のある船を焼き払われるとより快速の船に乗り込んで〔市を〕去った。ルクルスは以下のような夢に導かれてすぐにその都市を解放した。対アマゾン人遠征でのヘラクレスの従者アウトリュコスは嵐によってシノペへと流されてその地の支配者となり、奉納された彼の像はシノペ人に神託を与えたと言われている。急いで逃げたために彼らはそれを船上に乗せることができなかったが、亜麻の服と縄でくるんだ。誰もこのことを予めルクルスに言わず、彼もそのことについて何も知らなかったが、彼はアウトリュコスが自分を呼ぶ夢を見て、翌日にある人たちがくるまれた像を持ちながら彼の前を通ると彼らに覆いを解くよう命じ、そして自分の考えが夜に見た通りだと見て取った。これは彼の夢そのものだった。シノペの後にルクルスは似たように海路で逃げていたアミソスの市民を母国へと返してやった。それというのもアテナイが海上帝国を有していた時にアテナイからそこへと移住してきた彼のの最初の政体は民主政体であったが、後にペルシア王に長らく服属してアレクサンドロスの布告で民主政体を回復し、そして最終的にポントス王に奉仕することを強いられていたことをルクルスが知ったからだ。ルクルスは彼らに同情してアレクサンドロスがアッティカ系の人々に示した好意を真似てその市に自由を与え、大急ぎで市民を呼び戻した。したがってルクルスはシノペとアミソスを一旦無人にして再び人を住まわせたことになる。彼はミトリダテスの息子でボスポロスの支配者であり、彼に黄金の冠を送ってきたマカレスと友好関係を結んだ。彼はティグラネスのミトリダテスの引き渡しを要求した。次いで彼はアジア諸州に戻った。スラが押しつけた年貢の分割払い金の一回分を軍資金にし、彼は穀物の四分の一を徴収し、住居税と奴隷税を課した。彼は神々に戦勝を感謝する犠牲を捧げた。
84 犠牲を捧げた後に彼は、ミトリダテスを引き渡すことを拒んだティグラネスへ向けて二個軍団と騎兵五〇〇騎を率いて進軍した。ルクルスはエウフラテス川を渡ったが、そこの夷狄は戦いたがっていないかあるいはルクルスとティグラネスの戦いで一方に味方して犠牲を被るのを望んでいなかったため、彼は通過する領地で必要な物資だけを提供するよう彼らに要求した。この知らせを持ってきた最初の者を諸都市の良好な秩序を乱すものと考えたティグラネスは縛り首にしてしまったため、誰もルクルスが進撃していることをティグラネスに言わなかった。それが真実だと知ると、彼はルクルスの進軍を阻止するためにミトロバルザネスを騎兵二〇〇〇騎と共に送った。彼はマンカイオスにティグラノケルタ市の防衛を委ねた。上述したように王はこの地方に自らの都(63)を建設していたのであるが、そこへ移さなかった全ての物品を没収という処罰を下すためにその地方の主要な住民(64)を呼び寄せた。彼は五〇ペキュスの高さで、馬を格納できるだけの幅の城壁をこしらえていた。彼は郊外に宮殿を建てて大きな公園、野生動物のための囲い地と魚池を設えた。また彼は強力な塔を近くに建てた。彼はマンカイオスにその全てを任せ、次いで軍を集めるためにその地方を通って出ていった。ルクルスは最初の遭戦でミトロバルザネスを破った。セクスティリウスはマンカイオスをティグラノケルタに封じ込めて城壁の外側の宮殿を略奪し、市と塔の周りに水路を作り、それらに対する装置〔すなわち攻城兵器〕を持ってきて城壁の下に穴を掘った。
85 セクスティリウスがこれを行っていた間、ティグラネスは約二五万人の歩兵と五万騎の騎兵を動員した。彼は後者のうち約六〇〇〇人をティグラノケルタに送り、ローマ軍の戦列を突破して塔にやってきた彼らは王の側室たちを脱出させた。残りの軍と共にティグラネスはルクルスに向けて進軍した。今や臨席を許されていたミトリダテスはルクルスには接近せずに騎兵だけを迂回させてその地方を荒らし、もし可能ならば飢えで彼らを弱らせ、キュジコスでルクルスにしてやられたのと同じように戦わずしてその軍を倒すよう忠告した。ティグラネスはその将軍を侮り、進軍して戦いの準備を行った。ローマ軍がいかにも小兵力であるのを見て取ると、彼は冗談を言った。「彼らがここに使節としているのならあまりにも多すぎるではないか。敵としてならあまりに少なすぎるがな」。ルクルスはティグラネスの近くに有利な地形と位置の丘があるのを見て取った。彼は敵を引きつけて自身の方へとおびき寄せるために騎兵を正面から進ませ、敵が食いつくと撤退し、そのために夷狄は追撃の際に隊列を崩した。次いで彼は騎兵を丘へと送って気付かれることなくそこを占領した。戦いで勝利したために追撃をしている敵が方々に散らばり、輜重隊が丘の麓に残されていたのを見て取ると、ルクルスは叫んだ。「兵士たちよ、我々は勝ったぞ」。そして〔ローマ軍は〕輜重隊に突進した。彼ら〔アルメニア軍〕は恐慌状態に陥ってすぐに敗走して味方の歩兵の方へと、そして歩兵は騎兵の方へと走った。そして間もなく総崩れになった。長い距離ローマ騎兵は敵を追撃し、撃滅した。輜重隊は動揺して他の者とぶつかった。その場で狼狽が生じたことから誰も状況を正確に理解することができないほど多くの者でごった返すことになり、その多くが殺された。誰も略奪を止めなかったためルクルスは刑罰で脅してそれを禁じ、かくして彼らは腕輪と首飾りの散らばった道を素通りして一二〇スタディオンにわたって夜が来るまで殺し続けた。次いで彼らはルクルスの許しを得て略奪に向った。
86 ティグラノケルタからこの敗北を見守っていたマンカイオスはギリシア人傭兵を疑って彼ら全員を武装解除させた。彼らは逮捕を恐れて外へと歩いていったりこん棒を手に握って身を休めたりした。マンカイオスは武装した夷狄の軍勢を彼らに差し向けた。彼らは盾として役立たせるために左腕に衣服を巻き、 勇敢に敵と戦って幾らかを殺して互いに武器を分け合った。彼らは十分に武器を補給していくつかの塔を掌握していたのであるが、外側のローマ軍を呼び込み、彼らが来ると迎え入れた。このようにしてティグラノケルタは落ち、新たな建物と人が住んでいる都市にあった計り知れない富は略奪を受けた。

13巻
87 さてティグラネスとミトリダテスは新たな軍を集めるべく国を横断し、ティグラネスはミトリダテスがすでに味わった災難が彼に幾分か教訓を教えてくれたに違いない考えてミトリダテスにその指揮を委ねた(65)。また彼らはパルティアに救援を要請する使者を送った。ルクルスは対抗してパルティア人に自分を援助するか中立を維持するよう求めるよう特使を送った。彼らの王(66)は双方に密かに合意したが、急いで彼らを助けようとはしなかった。ミトリダテスはあらゆる都市で武器を製造した。彼が徴募した兵士はそのほとんどがアルメニア人であった。彼らはその中から歩兵と騎兵がそれぞれ半分を成すおよそ七〇〇〇〇人の最も勇敢な者を選抜して残りを解散した。彼は彼らをイタリア軍の組織にできる限り近づけようとして中隊と大隊に分割し、ポントス人の将官に彼らを預けて訓練させた。ルクルスが彼らに向けて動き出すと、ミトリダテスは歩兵の全部隊と騎兵の一部を連れてある丘に軍を陣取らせた。残りの騎兵部隊を率いたティグラネスはローマ軍の食糧徴発部隊を攻撃して敗れ、このためにローマ軍はその後より自由になり、ミトリダテスその人の近くですら食糧徴発をしてさらに近くに陣を張った。再びティグラネスの接近を示す大量の砂埃が舞った。二人の王はルクルスを包囲しようと決めていたのだ。彼らの動向を知った後者は最良の騎兵部隊を可能な限り遠いところでティグラネスと戦わせるべく送り出し、彼が進軍隊形から戦列に展開するのを妨げた。また彼はミトリダテスに戦いを挑みもした。ルクルスは壕でミトリダテスを包囲し始めたが、おびき寄せることができなかった。最終的に冬が来て双方の作業は妨げられた。
88 ティグラネスはアルメニア内陸部へと撤退し、ミトリダテスは四〇〇〇人の手勢とティグラネスから受け取ったの同じくらいの兵士を連れてポントス王国うち手元に残っていた地域へと急行した。ルクルスはゆっくりと彼の後を追ったが、物資の必要のために頻繁に戻らざるを得なかった。急遽ミトリダテスはルクルスによって指揮を委ねられていたファビウスを攻撃して彼を敗走させ、五〇〇人の兵士を殺した。今一度ファビウスは野営地にいた奴隷を解放して一日中戦ったが、戦いはミトリダテスが腿に投石を受けて目の下を矢で負傷し、戦場から急遽離脱するまでは劣勢だった。その後かなりの間ミトリダテス軍は彼の身を案じていたため、そしてローマ軍は彼らが受けた多くの傷のために大人しくしていた。ミトリダテスはスキュタイ人の一部族で、薬として蛇の毒を使っていたアガロイ族の手当を受けた。この部族のある者たちは常に医者として彼に同行していた。その時ルクルスのもう一人の将軍トリアリウスがファビウスを助けるために軍を連れて到来し、後者の軍と権限を受け取った。彼とミトリダテスはそう遠からぬうちに嵐が吹き荒れる中で対決した。誰もついぞ記録で知りもしなかったような嵐が双方の天幕を倒壊させて荷駄運搬獣を奪い去り、絶壁へと一部の兵士を真っ逆様に落とした。そして双方は撤退していった。
89 ルクルスが迫っているという知らせが届くと、トリアリウスはこれに先んじようと急ぎ、ミトリダテスの前哨部隊に夜襲をかけた。戦いは王が自分に対峙して戦っていた敵の部隊に強力な突撃をかけるまで長時間帰趨のはっきりしないまま続いたが、ミトリダテスの攻撃によって決着が付いた。彼は隊列を突破して歩兵部隊を泥だらけの壕まで撃退し、ローマ軍はそこでは立つこともままならぬまま殺戮された。彼は平野で騎兵部隊を追撃し、従者の先導で彼の方まで騎馬で駆けてきた一人のローマ人百人隊長が、銅鎧を貫通して傷を受けるのを予期できていなかった王の腿に剣で重傷を与えるまで王は予期せぬ幸運を最大限に活用した。近くにいた者がすぐにその百人隊長を切り伏せた。ミトリダテスは後方へと運ばれ、彼の友人たちは急いで信号を出してその素晴らしい勝利から軍を呼び戻した。信号が予想外のもので、何らかの災難がどこかで起こったのではないかと彼らは恐れたために混乱が起こった。彼らは事の次第を知ると、侍医のティモテオスが止血をされた王を持ち上げて移動させて見えるようにするまで驚きながらも平野にいた王の周りまで集まってきた。その様はまるでインドでアレクサンドロスが手当てを受けた時に担架の上から彼のことを心配していたマケドニア兵たちにその姿を見せた時のようであった。姿を現すやすぐにミトリダテスは戦場から軍を呼び戻した者たちを叱責し、再び同日にローマ軍の野営地に向けて兵士を率いていった。しかしローマ軍はすでに恐怖のあまり逃げ去っていた。死者から衣服をはぎ取っていると、二四人の軍団副官と一五〇人の百人隊長が見つかった。これほど多くの将校がローマ軍の一度の敗北で倒れたことはほとんどなかった。
90 ミトリダテスは今はローマ人が小アルメニアと呼ぶ地方へと退却し、入手可能な全ての物資を手にして運べない物は何であれ台無しにすることでルクルスの進軍を妨害した。この時、元老院階級のアッティディウスなる正義からほど遠く、ミトリダテスと長らく友人関係にあったローマ人による王への陰謀が発覚した。彼がローマの元老院議員であったために王は拷問にかけることなく死を宣告した。彼の共犯者は身の毛もよだつような拷問にかけられた。アッティディウスの計画に気付いていた解放奴隷たちに関しては、彼らには主人への義務があったために何もせずに解放した。ルクルスがすでにミトリダテスの近くに野営するに至ると、ローマは必要もなく戦争を長引かせているとしてルクルスを告発したという宣言する伝令をアジアの属州総督が送ってきて、彼麾下の兵は解散してこの命に従わぬ者の財産は没収されるべしと命じた。この知らせを受けるや否や軍はすぐに解散し、ルクルスの側に留まり続けたのは全員のうち非常に貧しくて罰を恐れていなかった僅かな者だけだった。

14巻
91 ついにルクルスの下でミトリダテス戦争の決着がつくことはなかった。ローマ人はイタリアでの反乱で引き裂かれ、海上の海賊によって飢餓で脅かされていたため、目下の問題がまだ片付いていない時にかような規模のもう一つの戦争をするのは時宜に合わないと考えていた。ミトリダテスはこれを知ると再びカッパドキアに侵攻して自らの王国の防備を強化した。ローマ人はその行いを眺めつつ海を掃討していた。これが完了した時には海賊を壊滅させたポンペイウスがアジアにまだおり、ミトリダテス戦争はすぐに再開されてその指揮権はポンペイウスに与えられた(67)。〔海賊掃討の〕海上遠征は彼の指揮権下の作戦の一部であってミトリダテス戦争の前に始まったものではあるが、これは私の歴史書の他の箇所で述べるのが適切とは見えないのでここで紹介し、その中で起こった出来事を見直すのが良いように思われる。
92 ミトリダテスはローマ人との戦争に突入すると――当時のスラはギリシアについて苦心していた――アジア諸州を制圧したが、彼はそう長くそれらの諸州を保持することはできまいと考え、したがって上述したように道中そこからあらゆるものを略奪して海へと海賊を送り出した。手始めに彼らは小舟で周航して盗賊のように住民を脅かした。戦争が長期化したために彼らはさらに数を増して大型船を操るようになった。大量の穀物を得ても彼らは思いとどまらず、ミトリダテスが敗北して講和するに至ってようやくその稼業を止めた。戦争によって生計の手段と国の両方を失って徹底的な破壊を被っていた彼らは陸での代わりに海で生計を立て、まずピンネス船とヘミオリア船で、次いで二段船と三段船で軍の将軍さながらの海賊の首領たちの下で船団を組んで航行した。彼らは無防備な町を襲撃した。彼らは他の町の城壁を掘り崩したり叩き潰したりし、あるいは通常の包囲戦で八五個の町を占領して略奪した。彼らはより富裕な市民を隠れ家へと連れ去って身代金を取った。彼らは略奪者の名を軽蔑して自分たちの行いを戦争の褒美と呼んだ。彼らは仕事をさせるために職人を鎖に繋いで継続的に木材、真鍮、そして鉄といった資源のある所へと連れて行った。利得で得意になっても生活様式を変えずに彼らは自らを王、支配者、そして軍勢になぞらえ、もし彼らが同じ場所に集まれば無敵だろうと考えた。彼らは船を建造してありとあらゆる武器を作った。彼らの主な根城はその地では「キリキアの岩山」と呼ばれ、共同の投錨地及び野営地として選ばれていた場所だった。彼らは城と塔と放棄された島を有しており、あらゆる場所から退いてきていた。彼らは険しく港がなく、高い山の頂がそびえ立つキリキアの沿岸を主に合流地点として選び、そのためにそれらの全てはキリキア人の通常の名前で呼ばれていた。この悪行はキリキアの岩山の人々の間で始まったが、シュリア人、キュプロス人、パンヒュリア人の男たち、ポントス生まれの男たち、そして東方の諸族のほとんど全ての人たちが集まってきて、ミトリダテス戦争の長期の継続のために悪事を被るよりも悪事を働く方を好み、この目的のために陸の代わりに海を選んだ。
93 こうして短期間で彼らの数は数万人に膨らんだ。彼らは今や東の海のみならずヘラクレスの柱まで地中海全域を支配した。彼らは数人のローマの法務官を何度かの海戦で、その他の法務官のうちシケリア沿岸でシケリア担当法務官を破った。海を安全に航海することはできず、通商が不足していたために陸は未耕作なままになった。ローマ市はこの悪事にこの上ない憤りを覚え、その属国らは苦しみ、ローマ自体は大都市であったことにより飢餓で大変な被害を受けた。陸海の方々に散らばった船乗りの大戦力を撃破するのは彼らにとっては困難な大仕事に見えた。彼らは逃げ足が早く、特定の地方なり判明している場所から出撃してこず、どこにも定住せず、気ままに停泊するだけだった。したがってこの戦争の大きさと例外的な性質に対処するような法律がなく、それについては何も見通しがつかず、困惑とあらゆる恐怖が引き起こされた。ムレナが彼らを攻撃したが、何ら語るに足る事を成し遂げず、彼の後を襲ったセルウィリウス・イサウリクスもそうであった(68)。そして今や海賊たちは嘲弄しつつブルンドゥシウムとエトルリア付近のイタリア沿岸を襲撃し、旅行をしていた貴族の女性たちと官職の証を着けていた二人の法務官を捕らえて連れ去った。
94 ローマ人はもはや損害と不名誉に耐えることができなくなると、最高の名声を持った人物であったグナエウス・ポンペイウスを法に則ってヘラクレスの柱内の全海域と沿岸から四〇〇スタディオンの距離の陸地での全権を帯びた三年期限の司令官とした(69)。彼らは全ての王、支配者、人々、そして都市にあらゆる手段でもってポンペイウスを支援せよという手紙を出した。彼らは属州から兵を徴募して金を集める権限を与え、属州は徴募による大軍、手持ちの全ての船、そして六〇〇アッティカ・タラントンの資金をを提供した。このため海賊たちはかような大軍に打ち勝つのは大仰で困難な仕事だと考えて海へと散らばり、多くの片隅に身を隠しては素早く退却して再び予期せぬ襲撃を行うようになった。ポンペイウス以前にローマ人からこれほどの大権を与えられた人はなかった。ほどなく彼は一二万人の歩兵と四〇〇〇騎の騎兵、ヘミオリア船を含む二七〇隻の船を集めた。彼は元老院階級から補佐将軍と呼ばれる二五人の補佐を得て、各々に全権での管轄地域を持たせて艦隊、騎兵、そして歩兵を与えて海域ごとに分けて法務官の記章を帯びさせ、一方のポンペイウスはまるで諸王の王のように、彼らが割り当てられた箇所に留まっていることを見るべくそれらの間を航行し、一カ所で彼が海賊を追っている時にその仕事が終わらないうちに他のところに向かう羽目にならないようにした。かくしてポンペイウスこのようにして至る所で海賊と遭遇するようにし、互いに合流することを阻止した。
95 ポンペイウスは全てを以下のように処理した。彼はティベリウス・ネロとマンリウス・トルクアトゥスにヒスパニアとヘラクレスの柱での指揮権を与えた。マルクス・ポンポニウスにはガリアとリグリア沿いの海域を任せた。アフリカ、サルディニア、コルシカ、そして隣接する島々はレントゥルス・マルケリヌスとプブリウス・アティリウスに、イタリア本土はルキウス・ゲリウスとグナエウス・レントゥルスに委ねた。シケリアとアカルナニアまでのアドリア海はプロティウス・ウァルスとテレンティウス・ウァロに、ペロポネソス半島、アッティカ、エウボイア、テッサリア、マケドニア、そしてボイオティアはルキウス・シセンナに、ギリシアの島々、エーゲ海の全域、それとヘレスポントスはルキウス・ロリウスに、ビテュニア、トラキア、プロポンティス、エウクセイノス海の入り口はプブリウス・ピソに、リュキア、パンヒュリア、キュプロス、それとフェニキアはメテルス・ネポスに任せた。したがって法務官権限が攻撃、防御、各々の任務の遵守のために取り決められたため、各々は他の者によって敗走させられた海賊を捕まえては追跡し、自分の持ち場からはあまり離れず、〔徒競走の〕競争のようにぐるぐると巡回し、その任務のための時間は長引いた。ポンペイウスその人は全域を回った。彼はまず西の持ち場を調べて四〇日間でその作業を終え、帰り道でローマに寄った。そこから彼はブルンドゥシウムへと向かい、この地を出発して東の持ち場を訪れるのに同じだけの時間を使った。彼は動きの早さ、準備の大がかりさ、そして偉大な名声で全ての人を驚かせたため、彼を最初に攻撃しようと思っていた、あるいは少なくとも自分たちに対する彼の計画は一筋縄ではいかないことを示そうとしていた海賊たちはすぐに不安に駆られ、包囲していた町々への攻撃を諦めて慣れ親しんだ砦と入り江に逃げた。したがって海はポンペイウスによって戦わずして一掃され、海賊はあらゆる場所で法務官たちにそれぞれの持ち場で鎮圧された。
96 ポンペイウス自身は岩がちな砦に対してはあらゆる戦闘と包囲のための手段が必要になると予想して様々な戦力と多くの兵器を伴ってキリキアへと急いだが、どれも必要ではなかった。彼の名前と準備の大仰さへの恐怖で強盗たちは恐慌状態に陥った。彼らは抵抗しなければ寛大な扱いを受けることができるだろうと期待した。まず最大の砦であったクラゴスとアンティクラゴスに拠っていた者が、彼らの後にキリキアの山男たち、ついには全員が次々と投降した。彼らは同時にその一部が完成し、他のものは作業場にあった大量の武器、また一部は待機し、他のものはすでに海上にあった彼らの船、それらを建造するために集められていた真鍮と鉄、帆布、縄、そして様々な材料、そして最後に身代金のために捕まえていたり作業をさせるために鎖に繋いでいた大量の捕虜を引き渡した。ポンペイウスはそれらの材料を焼き払って船を運び出し、捕虜を各々の国へと帰した。彼らの多くはもう死んでいたと思われていたためにそれらの故郷には戦没者記念碑が建てられていた。明らかに邪悪さからではなく戦争による貧困から海賊として生きていた人々をポンペイウスはマロス、アダナ、そしてエピファネイア、あるいは岩がちなキリキアにある他の人が住んでいなかったり人口の少なかったりする町々へと移住させた。一部の者を彼はアカイアのデュメへと送った。したがって非常な困難を呈するだろうと思われていた対海賊戦争はポンペイウスによって僅かな日数で終結した。彼は海賊から拿捕したり引き渡され、町々、城、そして他の合流地点から得た七一隻の船を運んだ。およそ一〇〇〇〇人の海賊が戦死した。

15巻
97 この勝利は迅速且つ予想だにせずに得られたため、ローマ人のポンペイウスへの絶賛は度を超したものになった。そして彼がまだキリキアにいるうちに対ミトリダテス戦争の司令官に選出し、戦争を遂行して彼が望むような和平を得て、友好国や敵国を彼自身の判断に則った宣言を行う以前通りの全権を与えた。彼らはイタリア国外の全軍の指揮権を彼に与えた。全戦力がこれまで一人の将軍の下に置かれたことは一度もなかった。これが彼らが彼に大ポンペイウスの称号を与えた理由なのかもしれない。ミトリダテス戦争は彼以前にも他の将軍によって首尾よく進んではいたのだが。したがって彼は軍を集めてミトリダテスの領土へと進軍した。後者は自分の軍勢から選抜した歩兵三〇〇〇〇人と騎兵三〇〇〇騎の軍を持っており、国境地点に配置していた。しかし少し前にルクルスが荒らし尽くしていたためにその地方はほとんど物資を供給せず、このためにミトリダテスの多くの兵が脱走した。脱走兵は見つかり次第磔にされたり目を潰されたり、あるいは焼き殺されたりした。しかしその罰の恐怖が脱走兵の数を減らすことはなく、物資の不十分さが彼を弱体化させた。
98 ミトリダテスはポンペイウスに彼が呑むことができる条件での和平を求めるための使節を送った。ポンペイウスは「我々の脱走兵を引き渡して思慮分別をもって降伏すれば」と答えた。その条件を知らされるとミトリダテスは脱走兵に伝え、彼らが仰天したのを見た彼はローマ人の貪欲さを理由としてローマ人と講和するつもりはなく、脱走兵を誰にも引き渡さないし、皆の共通の利益に資さないことはしないと誓った。ミトリダテスが言ったことは以上のようなことであった。そこでポンペイウスは騎兵の一部隊に待ち伏せをさせ、王の前哨部隊におおっぴらに繰り返し攻撃をかけて悩ませるための別動隊を送り、敵を怒らせたならあたかも負けたかのように撤退するよう命じた。これは待ち伏せ部隊が敵の背後に攻撃をかけて敗走させるまでなされた。ローマ軍は逃亡兵がいた敵の野営地に突入し、この危機をつゆ知らぬ王は歩兵を率いて来なかった。次いでローマ軍は撤退した。軍の最初の前哨戦とポンペイウスとミトリダテスの最初の騎兵戦の結果は以上のような結果になった。
99 蓄えが乏しくなってきたために王はしぶしぶながら撤退し、ポンペイウスが荒廃した地方での野営で欠乏から被害を受けることを予期しつつ、彼が自分の領土に入るのを許した。しかし彼を追うポンペイウスは送られていた物資を受け取る手はずを整えた。彼はミトリダテスの東側へと回り込み、要塞化した基地と一五〇スタディオンの距離に広がる野営地の連なりを設え、ミトリダテスの食料徴発を困難にするために彼の周りに塹壕線を作った。災難の接近にあってはしばしば起こることであるが、王は恐怖したか精神的に麻痺していたためにこの作業に対抗しなかった。再び物資が逼迫するようになると彼は馬以外の荷駄運搬獣を殺し〔て食用に供し〕た。手持ちの物資が辛うじて五〇日分になると、彼は夜に深い静寂の中を悪路を使って逃げた。ポンペイウスは苦労しつつも夜明けには彼に追いつき、後衛に猛攻をかけた。王の友人たちは彼に戦いの準備を進めたが、彼は戦おうとはしなかった。彼は自分の馬を回れ右させて夜に深い林に引っ込んだ。翌日に彼は岩で守られ、一つの道からしかそこへは行けない強力な場所に陣取り、四個大隊の前衛を配置した。ローマ軍はミトリダテスの逃亡を防ごうとし、そこを守るべく部隊を対陣させた。
100 夜明けに両将は軍を武装させた。前哨部隊が隘路沿いで小競り合いを始め、王の騎兵部隊の一部が馬に乗らず命令も待たずに前衛の支援に向かった。ローマ軍騎兵部隊の本隊が彼らの方へとやってきて、馬を持たないミトリダテス軍は、馬に乗って前進してくるローマ軍と互角の戦いができるようにしようとして野営地へと引っ込んだ。まだ高地で武装していた〔ミトリダテス軍の〕兵は下を見下ろして味方が大急ぎで悲鳴を上げながら走ってくるのを見たが、その理由を知らない彼らはこれが敗走だと考えた。彼らは武器を投げ出し、あたかも野営地がすでに敵方によって占領されたかのように逃げた。その場所には脱出路がなかったために彼らは混乱の中で互いにぶつかり、それは最終的に断崖へと飛び降りるまで続いた。したがってミトリダテス軍は命令を受けずに前衛の支援に行こうとしたことによる恐慌から始まった軽率さのおかげで壊滅した。ポンペイウスの残りの仕事は楽なもので、まだ武器を取っていない者や岸壁へと追いやられていた者を殺したり捕らえたりするというものであった。およそ一〇〇〇〇人が殺されて野営地は全ての用具もろとも鹵獲された。
101 ミトリダテスは少数のお供だけを連れて断崖を通って逃げた(70)。彼は直々につき従っていた騎兵の傭兵部隊とおよそ三〇〇〇人の歩兵と共にシモレクスの砦を攻め、そこで多額の金を集めた。ここで彼は褒美と一年分の給与を自分と共に逃げた者たちに与えた。六〇〇〇タラントンを獲得すると、彼はコルキスに向かおうと意図してエウフラテス川の水源へと急いで向かった。進軍を阻むものはなかったために彼はエウフラテス川を四〇日目に渡った。その後三日間彼は彼につき従っていたり、合流していたりした軍に命令を下して武装させ、アルメニアのコテネに入った。そこでコテネ人とイベリア人は彼がそこへ来るのを防ごうと矢と石を放ったが、彼は前進してアプサロス川へと突き進んだ。アジアのイベリア人はヨーロッパのイベリア人の祖先であるといくらかの人たちは述べており、他の人たちは前者は後者から移住してきたと考えている。さらに彼らの習俗と言語は似ても似つかないので彼らはただ単に同じ名であるにすぎないと考えている者もいる。ミトリダテスはコルキスのディオスクリアスで越冬し、コルキス人の考えるところではその都市はディオスクロイのカストルとポリュデウケスがアルゴ号の冒険の際に滞在したという。ミトリダテスはそこでは何の計画も、それこそ逃亡のためのしかるべき計画など立てず、ポントス沿岸全域をぐるりと回り、ポントスからマイオティス湖の周りのスキュタイ人のもとへと向かい、それからボスポロスに到着するという構想を考えていた。彼は恩知らずの息子マカレスの王国へと退いて今一度ローマ人と対決し、アジアでも戦争が進展中の時に彼らとの戦争をヨーロッパの側から起こし、彼女が雌牛に変身してヘラの嫉妬から逃げていた時に一〇かきして泳いで渡ったためにボスポロスと呼ばれていた(71)と信じられていた地峡を分割線とすることを意図していたのだ(72)
102 この時のミトリダテスが企んでいた計画は荒唐無稽な計画だった。にもかかわらず彼は自分がそれを実現できるはずだと想像した。彼は風変わりで好戦的なスキュタイ人の諸族のところを、ある場合は許可によって、またある時は力ずくで通ったが、それができたもの逃亡者であり不運の真っ直中にあったにもかかわらず、未だに彼は尊敬されて恐れられていたからであった。彼はヘニオコイ人の国も通過し、彼らは彼を進んで受け入れた。抵抗したアカイア人を彼は敗走させた。言われるところでは、トロイアの包囲から帰る時に彼らは嵐でエウクセイノス海まで流され、ギリシア人であったために夷狄の手で被害を受けた。そして船を求めて母国へと手紙を送ってその要望が無視されると、彼らはギリシア民族への憎悪を抱き、ギリシア人を捕らえる度にスキュタイ風に焼き殺した。まず怒れる彼らはこのようにして全ての者を、その後に見栄えの良い者のみを、最後に籤で少数の者を選ばれた者を殺したた。スキュティアのアカイア人についてはここまでにしておこう。ミトリダテスは最後にマイオティス地方に到達し、彼の名声、帝国、そして未だ侮れないものだった勢力のためにそこにいた多くの君主たちの全員が彼を迎え、彼を護送して贈り物を交わし合った。彼は他の人たちと友好を交わし、トラキアを通ってマケドニアへ、マケドニアを通ってパンノニアへと進んでアルプスを越えてイタリアに至るというより新しい偉業における同盟を結んだ。彼はその君主たちのうち特に権勢のある者たちと自分の娘たちを結婚させることで同盟を強固にした。彼の息子マカレスは彼がかくも短期間のうちに獰猛な諸部族の真っ只中を通過し、これまで誰も通過したことのないスキュティア門と呼ばれる場所を通って旅程を消化したことを知ると、弁明のための使節団を送ってローマ人を懐柔する必要があったと述べた。しかし父の情け容赦ない気性を知ると、彼はポントスのケルソネソスへと逃げて父の追撃を妨害するために船を焼き払った。後者は他の船を手に入れてその船団を送って彼を追うと、マカレスは自害して運命に先手を打った。ミトリダテスは彼が去った時に権力ある地位としてそこに残した自らの友人たちを皆殺しにしたが、息子の友人たちは私的な友情の義務の下で行動していたために害を与えずに解散させた。ミトリダテスの状況は以上のようなものであった。
103 ポンペイウスはコルキスあたりまで逃げていたミトリダテスを追討したが、よもや敵がポントスないしマイオティス湖へと回り込むことはないだろうし、逃げるとしても大それたことは試みないだろうと考えていた。彼はアルゴナウタイ、カストルとポリュデウケス、そしてヘラクレスが滞在した地方についての知識を得るためにコルキスへと進み、プロメテウスがカウカソス山に縛り付けられたとコルキス人が言った場所を見ることをとりわけ望んでいた。カウカソス山からは多くの水流が発しており、それらの川はそうお目にかかれないほど見事な砂金を運んでいた。住民は毛羽だった羊毛を川に浸して流れる砂金の欠片を集めている。アイエテスの黄金の羊毛はこういうものだったのかもしれない。近隣の全ての民族はポンペイウスの冒険的な遠征に同行した。アルバニア人の王オロイゼスとイベリア人の王アルトケスだけが七〇〇〇〇の兵でもってキュルトス川にて彼を待ち伏せしたが、その川は最大のものがアラクセス川であるいくつもの大きな川の水を受けて航行可能な一二個の河口でカスピ海に注いでいた。ポンペイウスは待ち伏せを知ると、川に架橋して夷狄を深い森へと撃退した。それらの人々は木々に隠れて出し抜けに矢を放つ恐るべき森の戦士であった。ポンペイウスはこの森を軍勢でもって包囲して火を放ち、駆け出してきた逃亡兵を追撃し、それは彼ら全員が投降して人質と贈り物を差し出すまでこれを続けた。ポンペイウスはその後、これらの偉業をローマでの凱旋式で讃えられた。人質と囚人の中に多くの女が見つかり、彼女らは男たちに劣らず負傷していた。彼女らはアマゾン族であると考えられたが、そのアマゾン族というものはその時には助けを求められた隣の民族なのか、あるいはとある好戦的な女たちがそこの夷狄からアマゾン族と呼ばれたのかどうかは分からない。
104 ポンペイウスはその地方から転進し、ミトリダテスを支援したティグラネスに対する戦争を起こすべくアルメニアへと進撃した(73)。こうして彼は宮殿のあるアルタクサタからほど遠からぬところにやってきた。ティグラネスはもう戦うまいと決め込んでいた。彼にはミトリダテスの娘との間に儲けた三人の息子がおり、そのうち二人は彼自身が殺しており、そのうちの一人は父との戦いで、他方は落馬した父を無視して助けずに父が地面に伏せていた時に王冠を自分の頭に乗せたために狩り場で殺していた。父の狩りでの事件でいたく心を痛めていたらしいティグラネスという名の三男が彼から王冠を授けられたものの、短い合間の後に彼もまた父を見限って父に戦争を仕掛けて破れ、最近父王シントリコスの跡を継いでいたパルティア人の王フラアテスのいるその国の政府へと逃げていた。ポンペイウスが接近してくると、この若い方のティグラネスは自らの意図をフラアテスに伝えて彼の同意を受けた後――フラアテスもまたポンペイウスとの友好を望んでいたからだ――ミトリダテスの孫であったにもかかわらず、嘆願者としてポンペイウスのもとへと避難してきた。かくも夷狄の間でのポンペイウスの正義と誠実の名声は大なるものであった。父の方のティグラネスもこれを信頼し、自らの全ての事柄と息子との争いをポンペイウスの決定に委ねるために人知れずポンペイウスのもとへとやってきた。ポンペイウスは軍団副官らと騎兵隊長たちに護送のために途上で彼と会いに行くよう命じたが、ティグラネスに同行していた者たちは伝令の許可なく進むことを恐れて後方に逃げた。しかしやってきたティグラネスはポンペイウスを上座として彼の前に夷狄風にひれ伏した。幾人かの人たちの述べるところでは、彼はポンペイウスが送ったリクトルたちに連れてこられて過去の事柄についての説明を行い、自ら六〇〇〇タラントンをポンペイウスに、五〇ドラクマを軍の兵士各々に、一〇〇〇ドラクマを百人隊長各々に、一〇〇〇〇ドラクマを軍団副官各々に送ったとのことである。
105 ポンペイウスは彼の過去の行いを許して息子と和解させ、息子は今は小アルメニアと呼ばれているソフェネとゴルデュエネを、父は残りのアルメニアを支配し、息子は父の死後それらも受け継ぐと取り決めた。彼はティグラネスに戦争で獲得した領土をすぐに放棄することを要求した。したがって彼はエウフラテス川から海に至るシュリアの全域を手放した。それというのも彼は敬虔王とあだ名されていたアンティオコス(74)から奪ったシュリアとキリキアの一部を掌握していたからだ。途上でティグラネスを見捨てたアルメニア人たちは不安から、彼がポンペイウスのところへと行っていた時にまだポンペイウスと一緒にいなかった彼の息子に父への決起を実行するよう説き伏せていた(75)。ポンペイウスは彼を捕らえて鎖に繋いだ。彼はさらにポンペイウスに敵対するようパルティア人を扇動する腹づもりだったために後者〔ポンペイウス〕の凱旋式に引き立てられ、その後に処刑された。今やポンペイウスは戦争の全てが終わったと考えて自らが戦いでミトリダテスを破ったことにちなんでこの地、小アルメニアにニコポリス、即ち勝利の町と呼ばれる都市を建設した。彼はアリオバルザネスにカッパドキア王国を返還し、ティグラネスの息子に分け与えられていたが今はカッパドキアの一部として管理されていたソフェネとゴルデュエネを付け加えた。彼はカスタバラ市とキリキアのその他の諸都市も彼に与えた。アリオバルザネスは自分がまだ生きている間に彼の王国全土を息子に委ねた。この王国にはカエサル・アウグストゥスの時代までに多くの変転が起こり、他の多くの王国のようにローマの属州になった(76)

16巻
106 それからポンペイウスはタウロス山脈を踏破してコンマゲネ王アンティオコスとの戦争を行い、それは後者が彼と友好関係に入るまで続いた。また彼はメディア人ダレイオスをとも戦ってこれを敗走させたが、それは彼がアンティオコス、その前にはティグラネスを支援していたためであった。彼はアレタスが王となっていたナバテア系アラビア人、そして王アリストブロスが革命を起こしていたユダヤ人とも戦争を行い、それは彼が最も神聖な都市ヒエロソリュマを占領するまで続いた。彼はまだ服属していなかったキリキアの一部とエウフラテス川沿いのシュリアの残り、コイレ・シュリアと呼ばれる地方、フェニキア、そしてパレスティナ、またイドゥマイアとイトゥライア、シュリアの何であれ名前で呼ばれる他の地方へと進撃した。彼はアンティオコス〔一〇世〕・エウセベスの息子で、健在で、父祖伝来の王国を要求していたアンティオコス〔一三世〕に対して要求を突きつけたが、それはアンティオコスに対する勝利者ティグラネスから自分が没収したものは戦争の法に則ってローマ人に属するものであるとポンペイウスが考えていたからだ。彼がそれらの問題の解決に当たっていると、互いに戦争状態にあったフラアテスとティグラネスから彼に使節団がやってきた。ティグラネスの使節はポンペイウスに同盟者としての援助を求めた一方で、パルティア人の使節はローマ人の彼への友好を確約することを求めた。ポンペイウスは元老院の布告抜きでパルティア人と戦うのは得策ではないと考え、彼らの不和を調停する仲裁者を送った。
107 ポンペイウスがこの仕事に手をつけようとしていた時、ミトリダテスはエウクセイノス海を周り終えてその海の入り口のヨーロッパの市場町だったパンティカパイオンを占領した。ボスポロスのそこで彼は息子の一人クシファレスを彼の母の以下のような罪状のために処刑した。ミトリダテスはそこに隠し財産を置いた城を有しており、そこにはたくさんの鉄で封印がなされた青銅の容器に隠された大量の金が隠されていた。王の妾ないし妻の一人ストラトニケがこの城を任されており、彼がエウクセイノス海をまだ回っていた時に彼女は、息子クシファレスを捕らえた時には助命するということを唯一の条件としてポンペイウスにその城を明け渡すつもりであり、彼に隠し財宝のことを明らかにした。ポンペイウスはその金を接収してクシファレスを助命すると彼女に約束し、彼女に財産を持って去ることを許した。ミトリダテスはそれらの事実を知ると海峡でクシファレスを殺し、対岸からこの光景を見ていた彼の母の眼前で遺体を埋葬もせずに投げ出し、彼を生んだ母を悲しませるために息子への悪意をぶちまけた。その時、ミトリダテスはまだシュリアにいてこの地にミトリダテス王がいたことを知らなかったポンペイウスに使節団を送っていた。彼らはもし王の父祖伝来の王国をミトリダテスが保持するのをローマ人が許すのであれば、ミトリダテスは彼らに年貢を納めるつもりだと約束した。ポンペイウスがミトリダテス自身が来てティグラネスがそうしたように嘆願するようにと要求すると、ミトリダテスは自分が王である限りそんなことに同意するつもりはないが、息子たちと友人らをそのために送る用意はあると言った。そのようなことすら言いつつ彼は解放奴隷と奴隷から手当たり次第に軍を動員し、兵器、投擲兵器と装置を製造しており、木材を好き勝手に使って自分の活動のために農耕牛を殺していた。彼は全ての人に租税を課し、これは取るに足らない生計手段しか持たない人たちにすら及んだ。彼は顔に潰瘍を煩って臥せっており、彼の世話をする三人の宦官としか会わなかったため、彼の大臣たちは彼の知らないところで多くの人から情け容赦なく取り立てを行った。
108 彼は病から回復して六〇〇〇人の選り抜きの大隊とその他の大軍、並びに船団、彼が病気の間に将軍たちによって占領された要塞〔の部隊〕から編成された軍を集めると、その一部を海峡(77)を渡って海の入り口のもう一つの市場町だったファナゴレイアへと向かわせ、ポンペイウスがまだシュリアにいる間に両側から道を手中に収めるべく送り出した(78)。王の宦官テュフォンによってかつて虐待されたことがあったファナゴレイアのカストルは後者がその町に入ろうとしたところに襲いかかってこれを殺し、市民を反乱へと奮い立たせた。砦はすでにアルタフェルネスとその他のミトリダテスの息子たちに占拠されていたにもかかわらず、住民はその周りに木を積んでそれに火を放ち、その結果アルタフェルネス、ダレイオス、クセルクセス、そしてオクサトレスといったミトリダテスの息子たちと娘のエウパトラは火を恐れて投降し、捕虜になった。彼らのうちアルタフェルネスだけがおよそ四〇歳で、他の者たちはほんの子供であった。もう一人の娘クレオパトラは抵抗した。彼女の父は彼女の勇敢な精神を賞賛して多数の小舟を送って彼女を救出した。ミトリダテスによって最近占領されたばかりだった全ての近隣の都城、すなわちケルソネソス、テオドシア、ニュンファイオン、そして戦争のために都合がよい位置を占めていたエウクセイノス海の周辺の他のものはファナゴレイア人に倣って反旗を翻した。ミトリダテスはそれらの頻繁な離反を見て取り、軍の仕事が強制されたもので租税は非常に重く、兵士たちにはいつも不運な指揮官への信頼が欠けていたために軍そのものが彼を陥れるのではないかと猜疑するようになったため、スキュタイ人の君候に嫁がせるために数人の娘を宦官に委ねて送り出し、同時に彼らには可能な限り早く援軍を送るように求めた。彼自身の軍からは五〇〇人の兵士が彼らに付き添った。彼らはミトリダテスのもとを去ってすぐ、ミトリダテスと共に全権を握っていた宦官たちを常々嫌っていたために彼らを率いていた宦官たちを殺し、この若い娘たちをポンペイウスに引き渡した。
109 かくも多くの子供と城塞と王国全土と戦争の方途を失い、スキュティア人からの援助も期待できなくなったにもかかわらず、そして依然として劣勢で、目下の彼ほどの不運に相当するような者はいなかったにもかかわらず、それでもなお彼は安住の地を探した。彼はこの目的のために長らく友情を培ってきたガリア人の方へと転進し、イタリア人の多くがローマ人への憎悪のために彼らに合流すると期待しつつ、ガリア人と共にイタリアに攻め込もうと考えていた。それというのも彼はローマ人がヒスパニアでハンニバルに対して行った戦争以後の彼の施策がどのようなものであったのか、そして彼がどのようにしてローマ人の最大の恐怖の的となったことを聞いていたからだ。彼はイタリアのほとんど全てが最近ローマ人への憎悪のために彼らに反乱を起こしたばかりであり、その戦争は非常に長引いており、そして剣闘士スパルタクスが無名の人物であったにもかかわらず持ち堪えていたことを知っていた。それらの考えで頭がいっぱいになった彼はガリア人のもとへと急ごうとしたわけであるが、その非常に大胆な計画は魅力的でありはしたものの、彼の兵たちは主としてその壮大さ、外国の領地への遠征の距離の大きさ、そして自国においてですら打倒できなかった者〔ローマ人〕に対して後込みした。また彼らはミトリダテスは完全に絶望して犬死にするよりは自分の人生を勇敢且つ王らしい仕方で終わらせようと望んでいるのだと考えていた。かくして彼らは彼の不運の真っただ中にあってすら彼を馬鹿にしたり蔑んではいなったため、彼を大目に見て沈黙を続けた。
110 情勢がこのような有様だった一方、最も資金があってしばしば後継者に指名されていた息子のファルナケスはこの遠征と王国を案じたか――それというのも彼は未だにローマ人からの寛恕を期待していたが、父がイタリアに攻め込めば自分は全てを失うだろうと考えていたからだ――もしくは他の動機に駆り立てられて父への陰謀を仕組んだ。彼の共謀者たちは捕らえられて拷問にかけられたが、メノファネスはまさに遠征に出立しようという時に最愛の息子を殺すことは良からぬことであると王を説き伏せた。彼が言うには、戦争の時に人々はそのような心変わりをしがちで、その心変わりが終わりさえすれば事態は再び鎮静化する。このようにしてミトリダテスは息子を許すよう説き伏せられたが、息子の方はというと未だに父の怒りを恐れており、軍が遠征に後込みしていることを知ると、王の非常に近くに野営していた指導的なローマの脱走兵たちのもとへと夜間に向かい、彼らに事の真相、彼らがよく知っているイタリアへの進軍への怒りを表明し、もし彼らが行くのを拒む場合には多くの見返りを約束して父を見捨てるよう誘った。彼らを味方につけた後、ファルナケスは同じ夜に付近の他の野営地に使者を送って味方につけた。早朝に最初の逃亡兵が大声を上げ、彼らの隣にいた者が繰り返し、以下同様になった。海軍すら騒ぎに加わり、彼ら全員が前もって勧められていたというわけではなかったが、変革への熱意を持ち、失敗を軽視し、そしてすでに新しい希望の側につく腹づもりになっていた。陰謀を知らなかった他の者たちは皆が買収し尽くされ、もし自分たちだけが孤塁を守るならば多数派から軽蔑されることになるだろうと考え、好みというよりはむしろ恐怖と必要から騒ぎに加わった。ミトリダテスは騒音で目を覚まし、騒いでいる者たちの望みを探るために使者を送り出した。後者は逃げも隠れもせずにこう言った。「我らは陛下のご子息が王になることを望んでおります。我らは宦官に操られている老人にして、多くの息子と将軍と友人を手にかけた者の代わりに若者の方を望んでおります」
111 これを聞いたミトリダテスは彼らを説得しに行った。そこで彼の護衛の一部は離反した兵の側に加わるべく走ったが、後者は、ミトリダテスを指差すと同時に彼らが忠誠の証拠として取り返しのつかない行いをしない限りは仲間として受け入れるつもりはないと拒絶した。かくして彼自身が逃げていたために彼らは急いで彼の馬を殺し、それと同時にあたかも反乱軍がすでに勝利したかのようにファルナケスに王に対する挨拶をし、彼らの一人は幅のあるパピルスの葉を神殿から持ってきて冠の代わりにそれで彼を飾った。王は高い前廊からその様を見ると、安全に退去する許可をファルナケスに求める使者を矢継ぎ早に送った。しかしどの使者も戻ってこないでいると、自分がローマ人に引き渡されるのではないかと恐れた彼は自分への忠誠を守った近衛兵と友人を讃え、彼らを新しい王のところへと送ったが、軍は彼らが近づいてくるとそうとは知らずにその一部を殺してしまった。次にミトリダテスは剣の傍らにいつも持ち歩いていた毒を持ち出してそれを混ぜた。エジプトとキュプロスの王と婚約していた名をミトリダティスとニュサというともにまだ少女だった二人の娘は最初に自分たちに毒を飲ませてくれるよう彼に熱心にせがみ、彼女らがそれを取って飲むまで彼がそれを飲むのを邪魔し続けた。毒薬は彼女らにはすぐに効果を発揮したが、ミトリダテスはその行動〔服毒〕を急いで行って回りを足早に歩いていたにもかかわらず、毒殺に備えて絶えず自分の体で毒を試していたおかげで他の薬物に慣れていたために彼には効果を発揮しなかった。それらは未だにミトリダテスの薬と呼ばれている。ビトイトスなるガリア人の家来を見ると、彼は言った。「余は敵に対してはお前の右腕に大いに助けられたものよ。余は長年専制君主でかくも強大な王国の支配者だったものだが、他の者の毒殺から身を守れたはいいが、今となっては毒で死に損なった。お前がこんな馬鹿のような余を殺してローマの凱旋式に引き立てられる危険から救い出してくれるならば、余はこれに何よりも感謝するつもりだ。食事に入った全ての毒に気をつけて避けてきたものだが、余は王にとって常に最も危険な獅子身中の虫であった軍、倅、そして友人の裏切りに備えてこなかった」かくしてビトイトスは頼まれた通り、王の望んだ奉公をなした。
112 その死んだミトリダテス〔六世〕は、ヒュスタスペスの子であるペルシア王のダレイオス〔一世〕から一六代目の子孫であり、マケドニア人のもとを離れてポントス王国を打ち立てたミトリダテス〔一世〕からは八代目に当たる。彼は六八ないし六九年間生き、そのうち五七年間の間、彼が孤児だった時に王国を手にして以来君臨し続けた。彼は近隣の夷狄と多くのスキュタイ人を服従させてローマ人と四年間に及んだ恐るべき戦争を行い、その間にも頻繁にビテュニアとカッパドキアを破り、ローマのアジアの属州、フリュギア、パフラゴニア、ガラティア、そしてマケドニアに侵入した。彼はギリシアに侵攻し、そこでかなりの功業を挙げ、スラが彼の一六〇〇〇〇人の兵士を倒した後に父の時代の王国へと彼を再び封じ込めるまでキリキアからアドリア海までの海を支配した。莫大な犠牲にもかかわらず彼は難なく戦争を再開した。彼は彼の時代の最も偉大な将軍たちと戦った。彼は何度も優勢に立ったにもかかわらず、スラ、ルクルス、そしてポンペイウスによって打ち負かされた。ルキウス・カシウス、クイントゥス・オッピウス、そしてマニウス・アクィリウスを彼は捕虜にして自分の前に牽きだした。彼は戦争の原因だった最後の者を殺した。彼は他の者はスラへと引き渡した。彼はフィンブリア、ムレナ、執政官コッタ、ファビウス、そしてトリアリウスを破った。彼は不運の真っ直中にあろうとも常に血気盛んで屈しなかった。最終的に敗れるまで彼はローマ人に対してありとあらゆる手を使って攻撃を続けた。彼はサムニウム人とガリア人と同盟を結び、ヒスパニアのセルトリウスに使節を送った。しばしば彼は敵と陰謀者の手で負傷したが、老人になろうとも何も止めなかった。彼に露見せずにおかなかった陰謀はなかったが、彼は自分から見逃し、その結果死んだ。一たび許された邪悪は非常な忘恩である。彼は皆に対して血に飢えた残忍な男であり、母、兄弟、三人の息子、そして三人の娘の殺害者であった。彼が大柄だったことは彼がネメアとデルフォイに送った彼の鎧が物語っており、そして最後まで彼は馬に乗れる程に強靭で、槍を投げ、一日で一〇〇〇スタディオンを走破し、その間隔で馬を変えた。彼は移動するのに一度に一六頭立ての戦車を用いた。彼はギリシアの学問に明るく、ギリシアの宗派を熟知し、音楽を好んだ。彼は節度を持ち、大部分の間仕事に耐えたが、女性との快楽のみに耽った。
113 エウパトル及びディオニュソスとあだ名されたミトリダテスの最期は以上のようなものであった。彼の死を聞き知ると、厄介な敵から解放されたとしてローマ人は祭りを開催した。ファルナケスはマニウスを捕らえた人たち、ギリシア人と夷狄の多くの人質と一緒に三段櫂船で父の遺体をシノペのポンペイウスのところへと送り、父の王国、あるいは彼の兄弟のマカレスがミトリダテスから受け取っていたボスポロスだけでも支配させてくれるよう頼んだ。ポンペイウスはミトリダテスの偉業を賞賛し、彼の時代の王のうちで第一の人物であると考えていたために、ミトリダテスの葬式費用を提供してミトリダテスの家来に彼の亡骸を王らしく埋葬し、シノペの歴代の王の墓に葬るよう命令した。ファルナケスはイタリアを厄介事から解放したためにローマ人の友であり同盟者として記されてパフラゴニアを除いたボスポロスを王国として与えられたわけであるが、パフラゴニアの住民はミトリダテスが権力を回復して艦隊を集めて多くの新しい軍と軍の駐屯地を築き上げていた時に彼に最初に対抗した人たちであり、他の人々を反乱へと踏み切らせて彼の計画に引導を渡しために解放されて独立した。

17巻
114 ポンペイウスは盗賊のアジトを掃討して最も偉大な王を打ちひしぎ、次いで戦争を続け、ポントス戦争に加えてコルキス人、アルバニア人、イベリア人、アルメニア人、メディア人、アラビア人、ユダヤ人、そしてその他の東方諸族と戦って勝利し、エジプトあたりにまでローマの支配域を拡大した。しかしその国の王が暴動鎮圧のためにエジプトへと彼を招き、彼その人へと贈り物を、全軍に金子と衣服を送ったにもかかわらず、彼はエジプトへは進まなかった。それは彼がこの未だ繁栄していた王国の強大さを恐れてていたか、あるいは敵の嫉妬から身を守ろうと望んでいたか、もしくは神託の声明を気にしていたか、はたまた私が『エジプト史』のなかで発表するつもりの他の理由のためであった。彼は服属した民族の一部を解放して同盟者とした。その他を彼はローマの支配下に今一度置き、その他については、ティグラネスにアルメニアを、ファルナケスにボスポロスを、アリオバルザネスにカッパドキアと前述の他の諸地方を、というように王たちに分配した。コンマゲネのアンティオコスに彼はセレウケイアと彼が征服したメソポタミアの一部を返した。彼はデイオタロスと他の〔ガラティアの〕王たちをカッパドキアと境を接するガリア系ギリシア人の四君主とした。彼はアッタロスをパフラゴニアの君主、アリスタルコスをコルキスの君主とした。また彼はアルケラオスをコマナで崇拝されていた女神の祭司に任命したが、その地位は王の特権であった。ファナゴレイアのカストルはローマ人の友として記銘された。かくも多くの領地と金が他の人たちに贈与された。
115 また彼はいくつかの都市の建設も行い、小アルメニアに彼の勝利にちなんでその名をつけられたニコポリスを、ポントスにはミトリダテス・エウパトルが建設して自らにちなんで名付けていたが、ローマ人が手にしたために破壊されていたエウパトリアを建設した。ポンペイウスはそれを再建してマグノポリスと名付けた。彼はカッパドキアにはその戦争のために完全に滅んでいたマザカを再建した。彼は多くの土地で他にも町を再建し、それらはポントス、パレスティナ、コイレ・シュリア、そしてキリキアにあって破壊されたり損傷していたものであり、キリキアで彼は、以前はソロイと呼ばれていたが今ではポンペイオポリスとして知られる都市に海賊の大部分を住まわせた。タラウラ人の都市をミトリダテスは調度品の貯蔵庫として用いていた。そこには金を溶接された縞瑪瑙でできた二〇〇〇個の酒杯、多くの杯、葡萄酒の冷凍容器、角の酒入れ、また装飾が施された長椅子と椅子、馬勒、胸と肩の飾り、似たようにして宝石と黄金で飾られた全てのものが見られた。この貯蔵量はその棚卸しに三〇日かかるほどに莫大であった。それらの一部はヒュスタスペスの息子ダレイオスからの相続品であり、クレオパトラによってコス島に預けられ、そこの住民がミトリダテスに贈っていたため、その中の他のものはプトレマイオス家の王国からのものであった。さらに他のものはミトリダテス自身によって作られたり収集されたものであり、それは彼が美しい調度品や他の文物の愛好者であったが故であった。
116 冬が終わるとポンペイウスは軍に褒美を配った〔(79)。一五〇〇アッティカ・ドラクマを兵士の各々に、将官にも相当額を配り、総額は一六〇〇〇タラントンにものぼったと言われている。次いで彼はエフェソスへと進軍してそこからイタリアに上陸し、ローマへの道を急ぎ、兵士をブルンドゥシウムで解散させて家へと帰し、この行いによってローマ人の間での彼の人気は大いに増した。市へと近づくと彼は勝利の行列で迎えられ、若者が先頭になって市から一番遠くまで出迎え、次に様々な年代の人たちの一団が歩けるところまで各々向かった。全員の最後は、これほど強力な敵を破り、時を同じくして多くの強国を服属させてローマの支配域をエウフラテス川まで広げた者はいなかったために彼の偉業に驚いて夢中になっていた元老院であった。彼はこれまでなされたどの凱旋式をも上回る壮麗な凱旋式で称えられ、その時の彼は弱冠三五歳であった(80)。翌二日が凱旋式に費やされ、ポントス、アルメニア、カッパドキア、キリキア、シュリアの全ての人々、さらにはアラビア人、ヘニコイ人、アカイア人、スキュタイ人、そして東部イベリア人など多くの民族が行列で見世物になった。七〇〇隻の完全な船が港へと入ってきた。凱旋行列には二頭立ての馬車と黄金や他の様々な種類の装飾品が乗った担架車、またヒュスタスペスの息子ダレイオスの長椅子、ミトリダテス・エウパトルその人の王冠と王笏、王の絵、八ペキュスの長さの金の延べ棒、そして七五一〇万ドラクマの銀貨があった。武器を乗せた馬車と船の舳先の数は無数といえるほどに多かった。その後には多くの捕虜と海賊が連れてこられ、彼らのうち誰も縛られていなかったが、全員がその故郷の服装で整列していた。
117 ポンペイウスその人の前には彼と戦った諸王の太守、息子、将軍たちが――ある者は捕らえられ、他の者は人質として差し出されて――出てきて、その数は三二四人になった。その中にはティグラネスの息子ティグラネス、アルタフェルネス、キュロス、オクサトレス、ダレイオス、そしてクセルクセスといったミトリダテスの五人の息子、またオルサバリスとエウパトラという娘もいた。コルキス人の酋長オルタケスもまた行列の中にいて、ユダヤ人の王アリストブロス、キリキア人の僭主たち、そしてスキュタイ人の女王、イベリア人の三人の酋長、アルバニア人の二人の酋長、ミトリダテスの騎兵隊長であったラオディケイア人メナンドロスもいた。彼らは列をなし、そしてそこにいない者はその絵が運ばれ、ティグラネスとミトリダテスについては、戦い、破れ、そして逃げている様を描かれていた。ミトリダテスによる包囲と夜陰に乗じての彼の密かな逃亡さえ描かれた。最後に彼が死ぬ様、彼と共に死んだ娘たちも描かれ、彼以前に死んだ息子と娘たちの図絵、そして野蛮な神々の絵が彼らの国を真似た風に飾られた。以下のような碑文の掘られた石版も運ばれた。
八〇〇隻の青銅の甲板の船を鹵獲し、
カッパドキアに八つ、
キリキアとコイレ・シュリアに二〇の都市を建て、
パレスティナに今はセレウキスとなる都市を建てり。
征服された王はアルメニア人ティグラネス、イベリア人アルトケス、アルバニア人オロイゼス、メディア人ダレイオス、ナバテア人アレタス、コンマゲネのアンティオコスなり
その銘にはこれらの事実が記録され、信ずるに足るとすれば、言われるところではポンペイウスその人はアレクサンドロス大王の外套を羽織って宝石で飾られた戦車に乗っていたという。これはコスの住人がクレオパトラから受け取ったミトリダテスの財産の中から発見されたものだと考えられている。遠征を彼と共にした将官らがある者は馬に乗って、他の者は徒歩で彼の戦車に随行した。カピトリウムに到着すると、彼は他の凱旋式で習慣的に行われるのとは違って囚人を殺さず、諸王を除いて公費で全員を帰国させた。王のうちアリストブロスのみが即座に、ティグラネスが幾分か後に殺された。ポンペイウスの凱旋式の様子は以上のようなものであった。
118 したがってローマ人は四二年かけてミトリダテス王を打倒し、ビテュニア、カッパドキア、エウクセイノス海周辺に住むその他の近隣の人々を服属させた。この同じ戦争でミトリダテスのものではなかったにもかかわらず、未だ服されていなかったキリキアの一部、フェニキア、コイレ・シュリア、パレスティナといったシュリア諸地域、そしてそれらとエウフラテス川との間に横たわる領土が勝者の力によって彼のものとなり、あるものは即座に、他のものは後に年貢を納めるよう要求されることになった。ミトリダテスが去ったパフラゴニア、ガラティア、フリュギア、そしてフリュギアに隣接するミュシア、加えてリュディア、カリア、イオニア、そして以前ペルガモンに属していた小アジアの残りの全域が古のギリシアとマケドニアと共に完全に回復された。以前は年貢をローマ人に払っていなかったそれら多くの人々が今や服属した。回復された国と彼らの支配権に追加された国の多さ、四〇年という戦争が続いた長さ、ミトリダテスが全ての危機に際して示した勇気と忍耐のために彼らはとりわけこの戦争を大戦争と考えて「大勝」で終わった勝利と呼び、彼らに勝利をもたらしたポンペイウスに――このために今日までとりわけこの称号で呼ばれているわけだが――「偉大な」という称号を与えたのだと私は考えている。
119 ミトリダテスは何度も自らの四〇〇隻の艦隊、五〇〇〇〇騎の騎兵、二五万人の歩兵を然るべき兵器と武器と一緒に揃えた。彼はアルメニア王とエウクセイノス海の周りとマイオティス湖の向こう側、トラキアのボスポロスまでのスキュタイ人諸部族の君候たちを同盟者としていた。ローマの内戦においてヒスパニアでの激烈な反乱を起こしていた指導者たちと彼は連絡を取った。彼はイタリア侵攻のためにガリア人と友好関係を樹立した。キリキアからヘラクレスの柱までの海を彼は海賊で満たし、諸都市間の全ての交易と航行を停止させて長らく続いた酷い飢餓をもたらした。
120 ファルナケスはファナゴレイア人とボスポロスに隣接する町々を飢餓のために出撃して戦うことを強いられるまで包囲し、それから会戦で彼らを破った。彼はこれ以上の害を彼らに加えなかったが、彼らを友人とし、人質を取って撤退した。そう遠からぬうち(81)に彼はシノペを落としてアミソスも落とそうとしたために彼はローマの司令官カルウィヌス(82)と戦端を開くことになったが、その時にはポンペイウスとカエサルが相争っていたおかげでローマ人はまだ手がふさがっていた。その後、彼は――最近ポンペイウスを破ってエジプトから帰ってきたところだった――カエサルその人とスコティオス山の近くで戦ったわけであるが、そこは彼の父がトリアリウス指揮下のローマ軍に破れた地であった(83)。彼は敗れて一〇〇〇騎の騎兵と共にシノペへと逃げた。カエサルには彼を追う暇がなかったためにドミティウスを彼に差し向けた。ファルナケスはドミティウスにシノペを明け渡し、ドミティウスは彼が騎兵と一緒に退去するのを許した。部下は馬を殺すのに不満たらたらだったものの彼は馬を殺させ、船を得てボスポロスへと逃げた。ここでスキュタイ人とサルマティア人の軍勢を集め、テオドシアとパンティカパイオンを占領した。彼の敵手であったアサンドロスは彼を再び攻撃し、馬がなかったために徒歩で戦う習慣がなかったファルナケスの兵は敗れた。ファルナケスは傷を負って死ぬまで一人で奮戦し、この時彼の齢は五〇歳でボスポロス王としては一五年目だった。
121 かくしてファルナケスは王国から切り離され、カエサルはこれをエジプトで重要な支援を行ったペルガモンのミトリダテス(84)に与えた。しかし今やボスポロスの人々は自前の支配者たちを持ち、元老院によって法務官がポントス及びビテュニアへと送られた。カエサルはポンペイウスからの贈り物として〔領地を〕保有していた他の支配者たちが彼に対抗してポンペイウスを援助したため、癪に障りはしたものの、コマナの神官職をアルケラオスから剥奪してリュコメデスに与えたのを例外として彼らに称号を確保させた。そう遠からぬうちにそれら全ての諸国と、ガイウス・カエサルとマルクス・アントニウスが他の支配者たちに与えた諸国がエジプトを取得した後にアウグストゥス・カエサルの手によってローマの属州となったのに必要な口実は些末なものだった。かくしてローマ人の支配領域はミトリダテス戦争の結果、ヒスパニアとヘラクレスの柱からエウクセイノス海とエジプトと境を接する砂漠、並びにエウフラテス川まで前進し、この勝利は偉大な勝利と呼ばれ、軍を指揮したポンペイウスが「偉大な」と装飾されたことは当然のことであった。キュレネの王でラゴス家の庶子であったアピオンが同地をローマ人に自発的に遺譲したためにキュレネに至るまでのアフリカも彼らは保持するようになったため、エジプトだけが彼らによる地中海全域の掌握から逃れることになった。




(1)ボスポロス海峡を挟んだヨーロッパ側。
(2)二世。
(3)二世。
(4)紀元前154年。
(5)未払いの賠償金。
(6)トラキア人の一派のカイノイ族の王。
(7)いずれも同じホレイショ・ホワイト訳であるもののPerseus Projectのテクストでは「Nictaea」、Liviusのテクストでは「Nicaea」とあるが、誤植の類であろうと判断し、後者を採った。
(8)いわゆる小カトー。
(9)紀元前149年。
(10)二世。
(11)紀元前127年。
(12)三世。
(13)四世。
(14)一世。
(15)紀元前322年。
(16)紀元前316年。
(17)紀元前321年。
(18)ポントス王国の開祖ミトリダテス一世。
(19)紀元前266/265年。
(20)六世。
(21)第三次ポエニ戦争。
(22)五世。
(23)一世。
(24)四世。
(25)二世。
(26)二世。
(27)紀元前90年。
(28)八世。
(29)マニウス・アクィリウス
(30)クイントゥス・オッピウス。キリキアの前法務官(propraetor)。
(31)紀元前88年。
(32)前者はプトレマイオス一〇世、後者は後のプトレマイオス一一世。
(33)紀元前88年。
(34)ビオン、ピッタコス、クレオブロス、ペリアンドロスといった僭主。
(35)正しくはクィントゥス・ブラエティウス・スラで、彼はマケドニアの支配者ガイウス・センティウス・サトゥルニヌスの代官。
(36)前出のクィントゥス・ブラエティウス・スラではなく、ルキウス・コルネリウス・スラ。
(37)アテナイとペイライエウスを繋ぐ道を守るための長城。
(38)ローマ軍の攻城兵器の一種。
(39)ルキウス・リキニウス・ムレナ。
(40)紀元前87年から翌年にかけての冬。
(41)紀元前86年5月。
(42)ムニュキア地区。
(43)ルキウス・ウァレリウス・フラックス。
(44)ガイウス・フラウィウス・フィンブリア。
(45)ローマの建設者アエネアスがイリオンの王族だったこと。
(46)紀元前85年。
(47)Perseusの版では「フィンブリア」、Liviusの版では「フラックス」とあるが、ミトリダテスがすでにフィンブリアと戦っていたこと及び以下の記述を考慮すれば、フィンブリアとするほうが自然だと思われたので、フィンブリアとした。
(48)マニウスの決定を指す。
(49)マリウス派を指す。
(50)クイントゥス・カリディウス。
(51)紀元前78年。
(52)紀元前75年。
(53)紀元前74年。
(54)マルクス・アウレリウス・コッタ。
(55)破城槌を上から落とされるものから守る屋根。
(56)紀元前73年。
(57)ガイウス・ウァレリウス・トリアリウス。
(58)トロイア近く。
(59)ヘラクレスを指す。
(60)紀元前72年。
(61)マルクス・ポンポニウス。
(62)紀元前70年。
(63)ティグラノケルタを指す。
(64)有力者たちを指す。
(65)紀元前68年。
(66)フラアテス三世
(67)紀元前66年。
(68)ルキウス・リキニウス・ムレナとプブリウス・セルウィリウス・ウァティア・イサウリクス。
(69)紀元前67年。
(70)紀元前66年。
(71)ゼウスの愛人イオがヘラから逃れるために牝牛に姿を変えてこの海峡を渡ったために「牝牛の渡渉」を意味するボスポロスと呼ばれたこと。
(72)要するにボスポロス海峡を境目としてアジアとヨーロッパでの二正面作戦をローマ軍に強いようとしたということ。
(73)紀元前64年。
(74)一〇世。
(75)このティグラネス(息子)の話は時系列的にはもっと後のことである。
(76)実際にカッパドキアがローマ帝国に編入されたのはティベリウス治下の紀元17年であり、アッピアノスは紀元前25年にアウグストゥスによってローマ帝国に編入されたガラティアと間違ったのかもしれない(N)。
(77)ケルチ海峡。
(78)ミトリダテスはすでに手に入れていたケルチ海峡西側のパンティカパイオンと合わせ、ケルチ海峡東側のファナゴレイアを手に入れることでケルチ海峡を打通しようとしていたのであろう。
(79)紀元前62年。
(80)ポンペイウスの生年は紀元前106年なので、正しくは45歳(N)。
(81)紀元前47年。
(82)グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス。
(83)「来た、見た、勝った」で有名なゼラの戦い。
(84)ミトリダテス六世とデイオタロスの娘アドボギオナとの間の息子で、ペルガモンで勢力を持っていた。




戻る