イリュリア戦争

1巻
1 ギリシア人はマケドニアとトラキア以遠、カオニアとテスプロティア(1)からイストロス川――ダヌビオス川――までの土地に住む人々をイリュリア人と呼んでいる。その地方の長大さは以下のようなものである。その幅はマケドニアとトラキアの山脈からパイオニア、そしてアドリア海とアルプス山脈の麓まである。ギリシア人の著述家たちの言うところではその〔東西の〕幅は五日間、〔南北の〕長さは三〇日間の旅程である。ローマ人はその地方を測定して長さが六〇〇〇スタディオン以上あり、幅がおよそ一二〇〇スタディオンであることを突き止めた。
2 キュクロプスのポリュフェモスとその妻ガラテイアにはケルトス、イリュリオス、そしてガラスという三人の息子がおり、それら全員がシケリアから移住してきて、彼らを起源としてその地の人たちはケルト人、イリュリア人、そしてガラテイア人といった風に呼ばれるようになった。このため、その地方はポリュフェモスの息子イリュリオスの名に由来していると言われている。多くの人々の間に広がっている多くの神話のうちでこれが最も尤もらしいように見える。イリュリオスにはエンケライオス、アウタリアイオス、ダルダノス、マイドス、タウラス、そしてペライボスという六人の息子、またパルト、ダオルト、ダッサロその他の娘たちもおり、彼らからタウランティオイ族、ペライボイ族、エンケレイス族、アウタリアタイ族、ダルダノイ族、パルテノイ族、ダッサレタイ族、そしてダルシオイ族が興った。アウタリアイオスにはパンノニコスあるいはパイオン、後者にはスコディスコスとトリバロスという息子がおり、彼らから似たようにして〔部族の〕名前が派生した。しかし昔の事からは離れることにしよう。
3 その地方の広さのために当然ながらイリュリアの部族は数が多い。今でさえ有名なのはスコルディスコイ族とトリバロイ族の名であり、彼らは広い地域に住んでいて互いを戦争で破壊し合い、そのためにトリバロイ族の生き残りはダヌビオス川の他岸のゲタイ人のところへと逃げ込み、フィリッポスとアレクサンドロスの時代まで繁栄していたが今は絶滅しており、彼らが住んでいた地方ではほとんどその名は知られていない。スコルディスコイ族は同じようにして極度に弱体化させられてローマ人との戦争があった後代には同じ川の川中島へと避難した。時が経つと彼らの一部は戻ってきてパンノニアの境界に住み着いたのであるが、スコルディスコイ族の一つの部族が未だにパンノニアに居続けているのはこういったわけである。似たようにして海軍力で秀でていたアルディアイオイ族は、しばしば負かしていたが陸上戦力ではより強かったアウタリアタイ族に最終的に滅ぼされた。もう一つのイリュリアの部族であったリビュルノイ族は海運民としてアルディアイオイ族に隣接していた。彼らは軽く速度の速い小船でアドリア海とそこの島々で海賊行為を働いており、そのような事情からローマ人は今日まで彼らの軽く速い二段櫂船をリビュニカと呼んでいる。
4 アウタリアタイ族はアポロンの復讐によって破滅に見舞われた。デルフォイの神殿への遠征に加わったモロスティモスとキンブリ族と呼ばれるケルト人の大部分は冒涜行為の直後、嵐と暴風雨、そして雷によって破滅した(2)。彼らの故地へと帰還した数え切れないほどのカエルは川を満たして水を汚染した。有害な蒸気がその土地から発してイリュリア人の疫病の原因となり、これはとりわけアウタリアタイ族にとって致命的だった。最終的に彼らは故郷から逃げ出し、彼らには疫病がまだ染み着いていたのを恐れて誰も彼らを受け入れず、二三日間の旅路の後にゲタイの人の住まない湿地へとやってきて定住したが、そこはバスタルナイ族の近くであった。神は地震でもってそのケルト人を懲らしめて彼らの諸都市を打ち倒し、その居住地からも逃げ出すまで災害を和らげず、そして彼らの共犯者のイリュリア侵入を引き起こし、彼らは疫病によって弱体化した。イリュリア人から強奪をしていた時に彼らは疫病にかかって再び逃げ出し、ピレネー山脈への道中で略奪を行った。彼らが東まで戻ってきた時、彼らとケルト人の以前の来寇を覚えていたローマ人は彼らがアルプスを越えてイタリアに攻め込んでくるのではないかと恐れて両執政官を彼らに差し向け、ローマ軍は全滅させられた(3)。ローマ人のこの惨事は、私がケルト人の歴史で述べたように近頃ヌミディア人とマウリタニア人に対する勝利で凱旋式を挙げたガイウス・マリウスが将軍に選ばれてキンブリ族を繰り返し破って大量に殺戮するまでイタリア中にケルト人への大変な恐怖をもたらした。極度に弱体化してあらゆる土地から閉め出されたため、その途上多くの負傷者を出しつつも彼らは故郷へと帰った。
5 これは神々がイリュリア人とケルト人に彼らの不敬虔さのために下した罰であった。しかし彼らは神殿の略奪をやめず、再びケルト人、イリュリアの諸部族、とりわけスコルディスコイ族、マイドイ族、そしてダルダノイ族と連合してマケドニアとギリシアに攻め込んでデルポイを含む多くの神殿を略奪したが、この時も多くの兵を失った(4)。ローマ人はケルト人との最初の遭遇から三二年間、断続的に彼らと戦い続け、ルキウス・スキピオの指揮下でこの神殿略奪を理由としてイリュリア人と戦争をし、ローマ人がギリシア人とマケドニア人を支配するに至った(5)。近隣所部族はアウタリアタイ族の罪のために全イリュリア人に降りかかった災難を覚え続けて神殿略奪者を助けず、スコルディスコイ族の大部分を滅ぼしたスキピオに自らを委ね、〔スコルディスコイ族の〕残りの者はダヌビオス川へと逃げて川中島に住み着いたと言われている。彼は神殿の物であった黄金の一部を受け取ってマイドイ族とダルダノイ族と和平を結んだ。あるローマの著述家はこれがルキウス・スキピオの時代以後帝国の成立までのローマ人の数多い内戦の主因だったと述べている。以上はギリシア人がイリュリア人と呼ぶ人たちについてのはしがきのつもりである。
6 それらの人々、そしてまたパンノニア人、ライトイ族、ノリコイ族、ヨーロッパのミュソイ族、及びその他ダヌビオス川の右岸に住む近隣諸部族をローマ人は様々なギリシア人がしたようにそれぞれを互いに区別して固有の名前で各々を呼んでいるが、イリュリアの全域を共通の名称の下に包括されるものと考えている。この見解がいつ始まったのかを私は突き止めることができなかったが、ローマ人はダヌビオス川の土地からエウクセイノス海までの全域から一手にイリュリア税と呼ばれる税を徴収しているためにその見方は今日も続いているといえる。なぜローマ人が彼らを服属させたのか、戦争の本当の大儀ないし口実とはどのようなものなのかを私はクレタ島のことを書いていた時に見つけられていなかったことを認めており、私はさらに述べることができる人にそうするように勧めておいた。私は自分が知っていることだけを書くことにしよう。

2巻
7 アグロンはイリュリアのアドリア海に接する地方の王であり、その海はエペイロス王ピュロスと彼の後継者たちが支配していた。アグロンはエペイロスの一部とコルキュラ、エピダムノス、そしてファロスも立て続けに占領し、守備隊を置いた。彼がアドリア海の残りを艦隊によって脅かすと、イッサ島はローマ人に救援を求めた。後者〔ローマ人〕はアグロンがイッサ人に行っていた攻撃がどのようなものかを確認すべくイッサ人を伴った使節団を送った(6)。イリュリア艦隊はその途上にあった使節団を攻撃してイッサの使節クレエンポロス、ローマ人コルンカニウスを殺し、残りの者は逃げた(7)。そこでローマ人はイリュリアへと陸海から攻め込んだ。その一方でアグロンがピンネスという名の幼い息子を残して死んでしまい、後見人の地位と摂政権はその子の母でないアグロンの妻に与えられた。アグロン配下のファロスの支配者でコルキュラも掌握していたデメトリオスは寝返り、攻め込んできたローマ軍に両方の土地を引き渡した。次いで後者〔ローマ軍〕はエピダムノスと同盟を結んでイリュリア軍の包囲を受けていたイッサ人とエピダムノス人の救援へと向かった。後者は包囲を解いて逃げ、アティンタノイ族と呼ばれていた一部族がローマ軍の側についた。それらの出来事の後にアグロンの寡婦はローマに使節団を送って捕虜と逃亡兵の引き渡すとした(8)。また彼女は彼女その人ではなくアグロンがしでかしたことへの許しを乞うた。コルキュラ、ファロス、イッサ、エピダムノス、そしてイリュリアのアティンタノイ族はすでにローマの属国であり、もしピンネスが以上の領地に干渉せず、リッソス以遠のことに口を出さず、二隻以上のイリュリアの快速船を保持しないということに同意するならば、アグロンの王国の残りを保持してローマ人の友人となるという応答をイリュリア人は受け取った。その女は全ての条件を呑んだ。
8 これがローマ人とイリュリア人との最初の対立と条約であった。その上でローマ人はコルキュラとアポロニアを解放した。彼らはデメトリオスに同国人への裏切りの報償としていくつかの城を与え、ローマ人はこの男の不実さを疑っていたために条件付きでのみそれらを与えたという留保を特別に付け加えた。そしてそう遠からぬうちに彼はその不実さを発揮した。ローマ人がガリア人とのポー川での三年間の戦争(9)を戦っていると、デメトリオスは彼らが忙殺されていると考えて海賊遠征を行ってイストリア人、他のイリュリア諸部族に襲いかかり、ローマからアティンタノイ族を切り離した。ローマ人はガリア人との戦争を片付けるとすぐに海軍を送って海賊を打ちひしいだ。翌年(10)に彼らはデメトリオスとそのイリュリア人共犯者へ向けて進軍した。デメトリオスはマケドニア王フィリッポス〔五世〕のもとに逃げ込んだが、戻ってきてはアドリア海で海賊行為を再開し、ローマ軍はデメトリオスを殺し、彼の生まれた町で、その罪科に荷担していたファロスを完全に破壊した。彼らはピンネスが再び彼らに嘆願してきたためにイリュリア人は容赦した。そして二度目の戦いと彼らとイリュリア人との協定は以上のようなものであった。
9 上述した以上の出来事が私が調査して見つけた限りのことであり、それは出来事の時間的な順序に則ったものではなく、むしろ各々のイリュリアの民族のことを別々に取り上げたものである。ローマ人がペルセウス治下のマケドニア人との戦争をしていた時、イリュリアの酋長ゲンティオスは金のためにペルセウスと同盟を結んでローマ領のイリュリアを攻撃した(11)。ローマ人がこの問題について彼に使節団を送ると、彼は彼らを使節としてではなく間諜として来たとして鎖に繋いだ。ローマの将軍アニキウス(12)は海軍での遠征の際にゲンティオスの数隻の快速船を拿捕し、次いで陸で彼と戦ってこれを破り、ある城へと追い詰めた。彼が和平交渉を求めると、アニキウスは自らの身柄をローマ軍に引き渡すよう命じた。彼は考えるために三日間を求めて認められたが、その期限の終わりに臣下たちがアニキウスに寝返ったためにゲンティオスは後者との会談を求め、跪いてこの上なく卑屈な仕方で許しを乞うた。アニキウスはその震える哀れな男と会い、彼を立ち上がらせて夕食に招待したが、宴会には入れずに先導警吏らに彼を牢に投げ込むよう命じた。その後アニキウスはゲンティオスとその息子を連れてローマに凱旋した。ゲンティオスとの戦争は二〇日で終わった。ペルセウスに対する勝者アエミリウス・パウルスがローマに帰国すると、パウルスは元老院からゲンティオスに属した七〇個の町に関する特別任務のために戻るよう密命を受けた。これらの町は非常に心配していたが、彼は所有する全ての金銀を引き渡すならば行ったことを許すと約束した。これらの町が同意すると、彼は軍の分遣隊を各々の町に指定した同じ日に入れるために送り、住民は三時間以内にアゴラに金を持ってこなければならないと夜明けに宣言するよう全ての指揮官たちに命じ、彼らはそれを行うと残りを略奪した。このようにしてパウルスは七〇と町を一時間で略奪した。
10 他のイリュリア人の二部族、アルディアイオイ族とパラリオイ族はローマ領イリュリアを襲撃し、ローマ人は他のことで忙殺されていたため(13)、脅しをかけるために彼らに使節団を送った。彼らが服従ことを拒絶すると、ローマ人は彼らに差し向けるべく歩兵一〇〇〇〇人と騎兵六〇〇騎の軍を集めた。これを知ると、そのイリュリア人たちはまだ戦いの準備をしていなかったために許しを乞う使節を送ってきた。元老院は彼らに彼らの悪事への賠償を命じた。彼らがその遂行にのろのろしていると、フラウィウス・フラックス(14)が彼らに向けて進軍してきた。私は何らかの特定の結果を見つけることができなかったので、この戦争はただ一度の遠征で終わったのだと思う。センプロニウス・トゥディタヌスとティベリウス・パンドゥサがアルプスあたりに住んでいたイアピュデス族と戦争をしてこれを隷属させ(15)、ルキウス・コッタとメテルスがセゲスタノイ族を隷属させたようであるが(16)、その両部族はそう遠からぬうちに反旗を翻した。
11 もう一つのイリュリア人の部族であるダルマティア族はローマに服属していたイリュリア人を攻撃し、使節団が抗議のために送られてもこれを受け入れなかった。したがってローマ人は彼らに向けて執政官兼指揮官としてマルキウス・フィグルスを軍と共に送った(17)。フィグルスが野営するとダルマティア族は守備兵を打ち負かし、彼を破って野営地から叩き出し、彼は命辛々ナロン川あたりの場所まで逃げた。ダルマティア族は今や冬が近づいていたために母国へと戻ったため、フィグルスは彼らの油断を期待したが、彼の到来の知らせを受けて町々から彼らが再び集まったのを悟った。にもかかわらず彼はデルミニウム市まで彼らを追い立てた。彼らはその地から最初はデルマトイ族の名を得ていたが、後になってダルマティア族に名を変えられた。彼は土地の高さのためにこの強力に防備が施された町を道の方から攻撃できず、手持ちの攻城兵器を使うこともできなかったため、〔ダルマティア族が〕デルミニウムへ軍を集中したおかげで不十分に放棄されていた他のいくつかの町を攻撃して占領した。次いでデルミニウムへと戻ると彼は亜麻で覆って松脂と硫黄を塗りつけた二ペキュスの長さの木の棒を町の中へとカタパルトで投じた。それらは摩擦で火が点き、これらが松明のように空を舞い落ちた場所では大火事が起こり、町の大部分が焼き尽くされた。これがダルマティア族に対してフィグルスによってなされた戦争の結末であった。後年、カエキリウス・メテルスは執政官の時にダルマティア族が罪を犯していないにもかかわらず、凱旋式を求めて彼らに宣戦した(18)。彼らは彼を友人として受け入れて彼は彼らの真っ直中のサロナの町で越冬し、その後ローマへと戻って凱旋式で讃えられた。

3巻
12 カエサルがガリア人の支配権を握った時、非常な順境にあった同上のダルマティア族と他のイリュリア人がプロモナ市を他のイリュリア人部族のリビュルノイ族から奪った(19)。後者はローマ人の傘下に入り、近くにいたカエサルにその件を訴え出た。カエサルはプロモナを手中に収めている者たちにリビュルノイ族にそこを引き渡すようにという旨の手紙を送り、彼らが拒むと軍のうちで強力な分遣隊を送り、彼らはイリュリア人によって壊滅させられた。ポンペイウスとの内戦で暇がなかったためにカエサルはその試みを再び行おうとはしなかった。内戦が勃発するとこの戦争でカエサルは手持ちの軍を率いてブルンドゥシウムからアドリア海を冬に渡り、マケドニアでポンペイウスとの戦端を開いた。アントニウスはマケドニアでカエサルを助けるべくもう一つの軍を向かわせ、彼もまた〔イタリアからギリシアへと〕アドリア海を真冬に渡った。ガビニウスがイリュリアを通って〔歩兵の〕一五個大隊と騎兵三〇〇〇騎を率いてアドリア海をぐるりと回って向かった。イリュリア人は少し後にカエサルにしたことを罰せられるのではないかと恐れ、彼の勝利は彼らの破滅であると考えてガビニウス指揮下の全軍を攻撃して殺し、そこから逃げおおせたのはガビニウスと僅かな兵士だけだった(20)。多額の金と戦争のための物資が戦利品として鹵獲された。
13 カエサルはポンペイウスと決着をつける必要があったのでこのことで頭がいっぱいであり、ポンペイウスが死んだ後も彼の党派の多くがまだ残っていた。万事を解決すると彼はローマへと戻ってゲタイ人とパルティア人に対する戦争の準備をした。イリュリア人は〔カエサルの遠征にあたって〕計画された進路の途上にいたために彼が攻撃を掛けてくるのではないかと恐れ始めた。かくして彼らは自分たちがしたことへの許しを獲得して友好と同盟を申し出るべくローマに使節団を送り、非常に勇敢な種族として自らを喧伝した(21)。カエサルはパルティア人に対する準備を急いだものの、このようなことをする者を友とすることはできないが、彼らが朝貢して人質を差し出せば許すつもりであるというもったいつけた返事を返した。彼らはその両方を約束し、したがって彼は彼らに軽い貢納を押しつけて人質を受け取るべくそちらへと三個軍団と騎兵の大部隊をつけてウァティニウス(22)を送った。カエサルが殺されると、ダルマティア族はローマの勢力は彼にかかっていて、これは彼と共に滅んだと考えて朝貢についても他のことについてもウァティニウスの言うことを聞かなかった。彼が軍を使おうとすると彼らは彼の大隊のうち五つを攻撃し、指揮官で、元老院議員の地位にあったバエビウス(23)もろとも壊滅させた。ウァティニウスは残った軍と共にエピダムノスへと逃げ込んだ。ローマの元老院はこの軍をマケドニア属州とローマ領イリュリア共々カエサルの殺害者の一人ブルートゥス・カエピオ〔の権限下〕に移し、同時にシュリアをもう一人の暗殺者カシウスに割り当てた。しかし彼らもまたアントニウスとアウグストゥスという添え名が付けられた二人目のカエサルとの戦争に巻き込まれ、イリュリア人に注意が向けられる暇はなかった。
14 パイオニア人はダヌビオス河畔の有力部族であり、〔彼らの勢力は〕イアピュデス族からダルダノイ族まで広がっていた。彼らはギリシア人からはパイオニア人と呼ばれているが、ローマ人からはパンノニア人と呼ばれている。彼らはローマ人からはイリュリアの一部と考えられているわけであるが、その理由については以前私が述べたようにイリュリアの歴史に収めるのが適切であろう。彼らはマケドニア時代からアグリアネス人としてよく知られていてピリッポスとアレクサンドロスを大いに助けたもので、彼らはイリュリアの隣の低地パンノニアのパイオニア人であった。コルネリウス(24)の対パンノニア人遠征が悲惨な結果に終わると、全イタリア人はその人々を非常に恐れるようになってそれ以降長らくどの執政官も彼らに向けて軍を進めようとはしなかった。イリュリア人とパンノニア人の初期の歴史について私はこれ以上のことを見つけることができなかったし、アウグストゥスの『事績録』のパンノニア人を扱う章ではこれ以前のことは見つからなかった。
15 私はこれまでに述べた他のイリュリア諸部族はローマの支配下に入っていると考えているが、今はそれがいかにしてなされたのかは分からない。アウグストゥスは彼自身の〔イリュリア人に対する〕対処も他の人の対処も述べていないが、いかにして彼が反乱を起こした人たちに再び貢納を支払わせるようにさせ、いかにして彼が始めから独立していた者たちを服属させ、いかにしてアルプスの頂上に住む全ての部族、しばしばイタリアの隣接地域を略奪していた夷狄と交戦的な人たちを支配したのかについては述べている。ガリア人とヒスパニア人を征服するためにアルプスを越えたかくも多くのローマ軍がそれらの部族に圧倒され、戦争で最も成功した人物であるガイウス・カエサルさえガリア人と戦ってその地方で冬を越していた一〇年の間彼らに勝利しなかったことは私には不思議に思える。しかしローマ人はアルプス地方を商売の際に通ることしか意図していなかったようであり、彼らが奮起してもカエサルはガリア戦争およびそれと間髪入れずに起こったポンペイウスとの内戦のためにイリュリアの問題に決着をつけることを延期したようである。彼はガリアと同じようにイリュリアの将軍にも選ばれており――その全部だけでなく次のローマ人支配下の土地でもそうだった。

4巻
16 全ての支配者になったアウグストゥスは自らが夷狄の襲撃からイタリアを解放したと、アントニウスの怠惰さと対照的な仕方で元老院に通達した。彼は一度の遠征でオクシュアイオイ族、ペルテネアタイ族、バティアタイ族、タウランティオイ族、カンバイオイ族、キナンブロイ族、メロメンノイ族、そしてピュリッサイオイ族を討伐した。さらなる延長戦で彼はドクレアタイ族、カルノイ族、インテルフルリノイ族、ナレシオイ族、グリンティディオネス族、そしてタウリスコイ族を討伐した。それらの諸族から彼は彼らが支払っていなかった貢納を取り立てた。彼らが征服されると、近隣の部族であるヒッパシノイ族とベッソイ族は恐怖に駆られて彼に投降した。反抗していた他の部族であり、〔コルキュラ〕島に住んで海賊行為を働いていたメリテノイ人とコルキュラ人を彼はその中の若い男は殺して残りを奴隷として売り払い、完全に滅ぼした。彼は海賊行為を働いていた海上のリビュルノイ族もまた追い払った。イアピュデス族の中の二部族でアルプスの内側に住んでいたモエンティノイ族とアウエンデアタイ族は彼の接近を受けて投降した。イアピュデス族の中でも最も数が多く好戦的だったアルピノイ族は村々から一つの都市へと向ったが、彼がそこへ着くと森へと逃げた。アウグストゥスはその都市を落としたが、彼らが自分たちの身柄を引き渡そうと望んだためにそこを焼き払わず、彼らがそうすると彼は彼らにそこに住むことを許した(25)
17 彼を最も悩ませていたのはサラッソイ族、アルプスの向こう側のイアピュデス族、セゲスタノイ族、ダルマティア族、ダイシティアタイ族、そしてパンノニア人であり、より高地のアルプス山脈を占めていたサラッソイ族への道は狭く登り難かったために近寄り難かった。このために彼らは独立を維持していたのみならず、その地方を通る人たちから通行料を取っていた。ウェトゥス(26)が彼らに出し抜けに攻撃を加え、計略によって道を占領して二年間彼らを包囲した。たくさん使っていた塩が不足したために彼らは降伏に追い込まれ、ローマの守備隊を受け入れた(27)。しかしウェトゥスが去ってすぐに彼らは守備隊を追い払って山道を制圧し、アウグストゥスが彼らに向けて送った軍が大したことを達成できなかったために彼らを嘲弄した。そこでアウグストゥスはアントニウスとの戦争を予期していたために彼らの独立を認めてウェトゥスへの攻撃を寛恕した。しかし何が起こるのかを訝しんだために彼らは大量の塩を蓄え、メッサーラ・コルウィヌス(28)が彼らの方へと送られるまでローマ領を襲撃したため、彼は彼らを兵糧攻めによって平定した。このようにしてサラッソイ族は服属した(29)
18 精強で獰猛な部族であったアルプスの向こう側のイアピュデス族はおよそ二〇年の間にその地からローマ人を二度を撃退し、アクィレイアを荒らしてテルゲストゥス(30)のローマ植民地を略奪していた。アウグストゥスが急勾配で起伏の多い道を通って彼らに向けて進撃してくると、彼らは木を切り倒して彼の妨害をした(31)。彼がさらに進むと彼らはもう一つの森へと逃げ込み、そこで近づいてくる敵を待ち伏せした。すでにこのようなことが起こるのではないかと怪しんでいたアウグストゥスは進路の両側面の尾根を占領すべく平地と倒れた木のある場所を通って軍を進めた。イアピュデス族は待ち伏せ場所から攻撃をかけて多くの兵士を負傷させたが、彼らの軍の大部分は高地から襲いかかったローマ軍に殺された。生き残りは再び藪へと逃げ込み、テルポヌス(32)という名の町を放棄した。アウグストゥスはこの町を占領したが、彼らもまた投降したために火を放たず、同様にした〔つまりそこに住み続けることを許した〕。
19 それから彼はイアピュデス族の主邑であったメトゥルス(33)と呼ばれるもう一つの地へと進んだ。そこは木が鬱蒼と茂った山の上、間に狭い谷がある二つの勾配の上に位置していた。そこには三〇〇〇人の武装した好戦的な若者がおり、彼らは城壁を包囲したローマ軍を易々と撃退した。後者は山に登った。メトゥルスの人たちは昼夜の攻撃作業を妨ぎ、そこでかつてデキムス・ブルートゥスがアントニウスとアウグストゥスと戦った戦争で獲得した投擲兵器を城壁から放って兵たちを悩ませた。城壁がボロボロになり始めると、彼らは内側にもう一つの壁を築き、損傷した城壁を放棄して別の城壁へと避難した。ローマ軍は放棄された城壁を占領してそれを焼き払った。新しい防塞に対面して彼らは二つの土塁を築いてそれらから城壁の頂上へと四つの橋を架けた。そこで彼らの注意を逸らすためにアウグストゥスは手勢の一部を町の背後へと送って他の者には城壁に橋を架けるよう命じた。彼はその帰趨を見るべく高い塔の頂点へと登った。
20 夷狄の一部は胸壁から出撃して〔橋を〕渡っていたローマ軍と戦い、一方で他の者は悟られないように長槍で橋を崩そうとした。橋の一つが落ちて二つ目がそれに続いたのを見て彼らは鼓舞された。三つ目が落ちるとローマ軍は恐慌状態に陥り、そのためにアウグストゥスが塔から飛び降りて彼らを叱責するまで誰も四つ目の橋に敢えて進もうとはしなかった。彼の言葉をもってしても彼らは義務感に目覚めなかったため、彼は楯を掴んで自ら橋へと飛び出した。彼に続いたのは少数の鎧持ちを伴った二人の将軍アグリッパとヒエロ、そしてアウグストゥスの護衛のルキウスとウォラスの四人だけであった。彼がほとんど橋を渡り終えた時、兵士たちは恥の意識から味方の中から飛び出して彼の後に続いた。次いで重量過多のためにこの橋も崩れ、その上の兵士たちは丘に投げ出された。一部の者は殺されて他の者は骨折して運ばれた。アウグストゥスは右足と両腕を負傷した。それにもかかわらず、自分の死の知らせから落胆が起こらないようにと彼はすぐに旗を持って塔に登って自身の無事と健在を示した。敵に彼が屈したと思わせないようにするために彼は新たな橋の建設を開始し、これによってメトゥルス人は自分たちは不屈の意志を持つ相手と戦っていると思って恐慌状態に陥った。
21 翌日に彼らはアウグストゥスに使者を送って彼が選ぶ五〇人の人質を差し出すことを申し出て、守備隊を受け入れて彼らに最も高い丘を割り当てて彼ら自身は他の丘を占めることを約束した。守備隊が入って彼が武器を置くよう命じると、彼らは非常に憤慨した。彼らは妻子を会議場に投げ込み、見張りを置いて事態が悪化すれば建物に火を放つよう命じ、次いで死に物狂いでローマ軍を攻撃した。しかし彼らは低い場所から高地に陣取る敵に攻撃をかけたために完全に圧倒されることになった。そこで見張りたちは会議場と多くの女たちに火を放ち、子供を殺して自害した。他の者はまだ生きている子供たちを腕に抱いて火の中に飛び込んだ。したがって全てのメトゥルス人の若者は戦死して非戦闘員の大部分は焼死した。彼らの都市は完全に焼き尽くされたが、その大きさは今残っている跡以上のものであった。メトゥルスの破壊の後、残りのイアピュデス族は恐慌状態に陥ってアウグストゥスに降伏した。かくしてアルプスの向こう側のイアピュデス族が初めてローマ人に服属することになった。アウグストゥスが発った後、ポセノイ族が反乱を起こし、マルクス・ヘルウィウス(34)が彼らに差し向けられた。彼は彼らを征服して反乱の指導者たちを死刑で罰した後、残りの者を奴隷として売り払った(35)
22 以前ローマ人はセゲスタノイ族の土地を二度攻撃していたが人質も他のものも何も得ず、そのためにセゲスタノイ族は非常に尊大になった。アウグストゥスはパンノニア人の領地を抜けて彼らに向けて進軍したが、彼らはまだローマ人に服属していなかった(36)。パンノニアはイアピュデス族〔の住む土地〕からダルダノイ族まで広がる木が生い茂った土地である。その住民たちは都市で暮らさず、部族ごとに田舎や町に分散していた。彼らは共通の会議も全土に亘る支配者も持たなかった。彼らは一〇万人の戦士を有していたが、共通の政府がなかったために彼らが一ヶ所に集まることはなかった。アウグストゥスが彼らに向けて進軍すると、彼らは森に入ってそこから矢を放って軍の落伍者を殺した。アウグストゥスは彼らが自発的に投降することを望んで土地と村々に手をつけなかった。彼らのうち誰も来ないでいると、セゲスタノイ族が来るまで彼は火を放ち剣を使って土地を八日の間荒らした。川深い壕に囲まれた強力に要塞化されたある都市(37)が位置するサウス川(38)河畔のパンノニア人の領地もまた彼らの領地であった。このような理由でアウグストゥスはイストロス川の他の側(39)のダキア人とバスタルナイ族に対する戦争に都合が良い貯蔵庫としてそこを得たいと大いに望んだ。その川はダヌビオス川と呼ばれているが、その少し下流はイストロス川と呼ばれている。サウス川はその川へと注いでおり、アウグストゥスはダヌビオス川へと物資を輸送するために後者の川で船を建造した。
23 そのような理由で彼はセゲスタを手中に収めたいと思った。彼が近づくとセゲスタノイ族は彼の望みは何であるかを問う手紙を送った。彼は、自分が対ダキア人戦争での作戦基地としてその町を安全に使うために駐留軍を置き、彼らが自分に一〇〇人の人質を差し出すことを望んでいるのだと応答した。また彼は彼らが提供できるだけの食糧も求めた。町の名士たちはこれらを承認したが一般の人々は憤慨したが、おそらく彼らの子供ではなく名士たちの子供を人質にしたため、人質の引き渡しに合意した。しかし守備隊がやって来ると、彼らはその光景に耐えることができずに気の狂ったような憤慨でもって門を閉ざして城壁の上に陣取った。そこでアウグストゥスは川を渡ってその場所を壕と柵で囲んで彼らを封鎖し、二つの堡塁を作った。セゲスタノイ族はそこに頻繁に攻撃をかけたが、占領することができなかったためにその上に松明と火を投げて倒そうとした。他のパンノニア人から彼らへと援軍が送られるとアウグストゥスはこの援軍を待ち伏せして襲い、その一部を倒して残りを敗走させた。これ以降彼らへのパンノニア人からの援軍はなかった。
24 したがってセゲスタノイ族は包囲戦による全ての害に耐え抜いた後に一三日目に力攻めで落とされ、そしていの一番に嘆願を始めた。アウグストゥスは彼らをその豪勇のために賞賛して願いを容れ、彼らを殺さず、追放もせずに罰金を科すことで済ませた。彼は壁で市の一部を分離させ、ここに二五個大隊の駐留軍を置いた。これを行うと彼は春にはイリュリアへと戻るつもりで一旦ローマへと戻った。しかしセゲスタノイ族が守備隊を殺戮したという噂が届くと、冬に彼は急行した。しかし彼は噂は間違っていたものの、故なきものというわけでもないと彼は悟った。彼らはセゲスタノイ族の予想だにせぬ反乱で危機状態に陥ってそれが予想外のことであっために多くの兵士を失ったが、翌日に反徒を集めて処刑した。アウグストゥスは軍をもう一つのイリュリア人の土地であり、タウランティアに隣接するダルマティアへと転進させた。

5巻
25 ダルマティア族はガビニウス指揮下の五個大隊の殺戮と彼らの軍旗の奪取の後、その成功で得意になって一〇年間武器を置かなかった。アウグストゥスが彼らに向けて進軍すると彼らは戦争で助け合うべく互いに同盟を結んだ(40)。彼らはウェルススという名の将軍の指揮下で一二〇〇〇人以上の戦士を有していた。ウェルススはリビュルノイ族の都市プロモナを占領し、そこは天然の要害だったが、これをさらに強化した。そこは全ての方向を鋸の歯のように切り立った丘で囲まれた山城である。彼の軍の大部分はその町に置かれたが、彼はいくつかの丘の上に守備兵を置き、守備隊全部が高い場所からローマ軍を見下ろせるようになった。それをはっきりと眺めたアウグストゥスは全域を囲む壁を建設し始めたが、密かに最も勇敢な兵士たちを最も高い丘への道を探すために送り出した。彼らは木々の中に姿を隠して夜に眠りこけていた守備兵を襲って殺し、日の出前にアウグストゥスに向けて信号を送った。彼は軍の大部分をこの都市の攻撃へと向かわせ、もう一つの部隊を占領した高地を確保べく送ると、そこを奪取した者たちはより低い丘を奪取した。夷狄たちは全ての方向から攻撃を受けていると信じたために至る所で恐怖と混乱に陥った。とりわけ丘の上の者は水の供給を絶たれるのではないかと心配したためにプロモナへと全員逃げた。
26 アウグストゥスは町とまだ敵の手にあった二つの丘を長さ四〇スタディオンの壁で囲んだ。もう一人のダルマティア族の将軍テスティムスがその地の救援のために軍を送ると、アウグストゥスは彼と会戦して山地へと撃退し、テスティムスがまだ見えないうちに囲壁の線が完成するのを待たずに彼はプロモナを落とした。というのも市民たちが出撃して派手に撃退されると、ローマ軍は彼らを追撃して町の中へと入って彼らの三分の一を殺したからだ。残りの者は砦へと逃げ込み、その門のそれぞれにはローマの一個大隊が見張りのために置かれた。四度目の夜に夷狄は彼らを攻撃し、彼らは恐慌状態で門から逃げた。アウグストゥスは敵の攻撃を撃退して翌日に彼らの投降を受け入れた。持ち場を放棄した大隊は籤を引かされ、一〇人に一人が殺された。その籤では他の者の中から二人の百人隊長が当たった。更なる罰として生き残った大隊の隊員は夏の間小麦の代わりに大麦を食べて暮らすよう命じられた。
27 かくしてプロモナが落ちると、そこに到着しなかったテスティムスは方々に散るように言って軍を解散した。このため道に不案内だったローマ軍は小部隊に分かれることを恐れ、さらに逃亡兵の足跡は滅茶苦茶だったために彼らを長距離追撃することができなくなった。ローマ軍はガビニウス軍がダルマティア族によって罠にかけられた森の脇、二つの山に挟まれた長く深い渓谷にあるスノディウムの町(41)を占領した。また彼らはそこでアウグストゥスを待ち伏せしたが、スノデゥムを焼き払った後にアウグストゥスは山々の頂上に部隊を送って左右両側を同じ速さで進ませ、自らは峡谷を進んだ。彼は木々を切り倒して途上に見つけた町の全てを占領して焼き払った。彼がセトウィア市を包囲すると夷狄の軍勢が救援に到来し、彼は彼らと戦ってその地に入るのを防いだ。この戦いで彼は膝を石で打たれて数日間床についた。回復すると彼はスタティリウス・タウルス(42)を戦争遂行のために残して同僚のウォルカティウス・トゥルス(43)と共に執政官職の義務を果たすためにローマへと戻った。
28 六月の最初の日に新たな執政官職に就任して同日にアウトロニウス・パトゥス(44)に政府を任せると、彼はすぐさまダルマティアへと戻ったが(45)、未だ三頭体制は続いていた。というのも三頭が定めて人々が承認した二度目の五年間の期限【何の期限?】にはまだ二年残っていたからだ。そして今やダルマティア族は飢餓で苛まれて近隣からの物資を絶たれ、進行中の彼と会見して投降したいと嘆願し、アウグストゥスの要求した通りに人質として七〇〇人の子供、そしてガビニウスから奪ったローマの軍旗もまた引き渡した。また彼らはガイウス・カエサルの時から滞納していた貢納を払うと約束し、以後従順になった。アウグストゥスは軍旗をオクタウィアと呼ばれるポルティコに置いた。ダルマティア族の屈服後にアウグストゥスはデルバノイ族に向けて進撃し、彼らも同様に許しを請うて人質を出し、延滞していた貢納の支払いを約束した。彼の接近に際し、他の諸民族は彼が締結した協定を知ると同様に人質を差し出した。しかし、しばしの間彼は病のために出発を妨げられた。人質が出されず協定は履行されなかったものの、彼らは後に服属した。したがってアウグストゥスはローマ人に反旗を翻した地方だけでなく、未だかつて彼らの支配下にいなかったものも全て、イリュリア全域を服属させた。そこで元老院はイリュリアでの勝利を凱旋式によって讃え、後に彼はそれに加えてアントニウスへの勝利のために凱旋式を執り行った。
29 ローマ人からはイリュリアの一部として見なされているところの残りの人々は、パンノニアのこちらの側にいるのがライトイ族とノリコイ族、そして他の方、エウクセイノス海あたりまでにいるのがミュソイ族(46)である。ライトイ族とノリコイ族は二つ(47)の間にいたためにガイウス・カエサルによってガリア戦争中に、あるいはアウグストゥスによってパンノニア戦争中に征服されたものと私は考えている。私は彼らとの別個の戦争についてはいかなる記述も見つけられず、その理由は彼らが他の隣接する部族もろとも征服されたからだと推測している。
30 ミトリダテスとの戦争を戦ったリキニウス・ルクルスの弟マルクス・ルクルス(48)はミュソイ族へ向けて進軍し、そこでミュソイ族の領地と隣接する六つのギリシア都市、つまりイストロス、ディオニュソポリス、オデッソス、メセンブリア、カタリス、そしてアポロニアがそのほとりにある川に到着した。そこから彼はパラティヌスの丘に後に置かれることになるアポロンの大きな像をローマへと送った。私はミュソイ族に関して共和政ローマによってなされたことをこれ以上は知らない。彼らはアウグストゥスにではなく、ローマ皇帝として彼の後を継いだティベリウスに朝貢した。〔アウグストゥスの〕エジプト占領以前の人々の支配下でなされた全ての事柄について私はそれぞれそれぞれの地方毎に書いておいた。皇帝たちがエジプト占領以降に平定したり付け加えた地方は国内の出来事(49)より後に述べるつもりである。私はミュソイ族についてより〔詳しく〕述べるつもりである。というのも現在ローマ人はミュソイ族をイリュリアの一部族と考えており、この巻はイリュリアの歴史であり、それを完全なものにするためにはルクルスがミュシアへと共和国の将軍として侵攻し、ティベリウスが帝国の時代にそこを占領したことを踏まえておくのが適切であるためである。




(1)カオニアはエペイロスの北西部、テスプロティアはエペイロスの南西部。
(2)紀元前279年に族長ブレンノス率いるケルト諸部族連合軍が行ったギリシア遠征。ケルト諸部族連合軍は迎え撃ったギリシア連合軍をテルモピュライで退けたが、その後、嵐と豪雨、食糧不足に襲われ、ギリシア連合軍の反撃を受けて壊滅した。
(3)「キンブリ族は〔紀元前〕114年にバルカンに侵攻して執政官一人を破り、もう一人を(ノレイアで)113年に破り、それからバイエルンを通ってピレネー山脈へと進んだ。南部ガリアで彼らは他の執政官の軍を三つ(109年にローヌ川近くで、107年にガロンヌの近くで、105年にオランジュの近くで)破った」(N)。
(4)紀元前114年。
(5)ルキウス・コルネリウス・スキピオ・アシアティクス(紀元前83年の執政官)による。紀元前82年。
(6)紀元前230年秋。
(7)紀元前229年。
(8)紀元前228年春。
(9)紀元前225-222年。
(10)紀元前219年。
(11)紀元前169年。
(12)ルキウス・アニキウス・ガルス。紀元前168年の法務官。
(13)紀元前135年。ヒスパニアでのヌマンティア戦争とシケリアでのエウヌスの反乱が同時に起こっていた。
(14)セルウィウス・フラウィウス・フラックス。紀元前135年の執政官。
(15)紀元前129年の執政官ガイウス・センプロニウス・トゥディタヌスと彼の同僚執政官ティベリウス・パンドゥサ。
(16)紀元前119年。共に紀元前119年の執政官であるルキウス・アウレリウス・コッタとルキウス・カエキリウス・メテルス・ダルマティクスによる。
(17)ガイウス・マルキウス・フィグルス(紀元前162、156年の執政官)。これは紀元前156年のこと。
(18)紀元前119年。ここで出てくるカエキリウス・メテルスは前節で出てきたのと同じ人物。
(19)紀元前58年。
(20)紀元前48年。
(21)紀元前45年。
(22)プブリウス・ウァティニウス。紀元前47年の執政官。
(23)このバエビウスのフルネームとこの箇所以外での活動については不明。
(24)このコルネリウスは紀元前138年の執政官で、ティベリウス・グラックスの殺害者として知られるプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオを指しているとも。
(25)紀元前35年。
(26)ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥス。紀元前30年の補充執政官。
(27)紀元前35年。
(28)マルクス・ウァレリウス・メッサーラ・コルウィヌス(紀元前64年-紀元前8年。)。紀元前31年の執政官。詩人プロペルティウスの庇護者として知られる。
(29)紀元前34年。
(30)今日のトリエステ。
(31)位置不明。
(32)紀元前35年。
(33)メトゥムとも。今日のクロアチアのチャコベツ。
(34)邦訳者が調査した限りでは詳細不明。情報求む。
(35)紀元前34年。
(36)紀元前35年。
(37)セゲスタ。今日のクロアチア中央部のシサク。
(38)今日のサヴァ川。イリュリアを北西から南東へと走る。
(39)ドナウ川北岸。
(40)紀元前34年。
(41)邦訳者が調査した限りでは詳細不明。情報求む。
(42)ティトゥス・スタティルス・タウルス。紀元前37年の補充執政官、紀元前26年の執政官。
(43)ルキウス・ウォルカティウス・トゥルス。紀元前33年の執政官。
(44)ルキウス・アウトロニウス・パエトゥス。紀元前33年の執政官。
(45)紀元前33年。
(46)ラテン語ではモエシアの語源となったモエシ族。
(47)ガリアとパンノニア。
(48)マルクス・テレンティウス・ウァロ・ルクルス。紀元前73年の執政官。
(49)『内乱史』の内容を指すのであろう。

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