アッピアノス『ローマ史』「マケドニア戦史」(断片)

第一次マケドニア戦争(紀元前214-205年)
 ローマ人はマケドニア人ピリッポスが彼らとの戦争を開始した時には彼のことなど気にも留めていなかった(1)。彼らは他のことに忙殺されていたために彼には考えが及びもしなかったわけだが、それというのも未だイタリアはカルタゴの将軍ハンニバルに苦しめられており、彼らはアフリカ、カルタゴ、そしてヒスパニアで戦争中で、シケリアの秩序は回復途中だったからだ。ピリッポスその人はローマ人から何の被害も受けていなかったにもかかわらず、支配地拡大への欲望に突き動かされてイタリアのハンニバルに向けてクセノパネスを団長とする使節団を送り、もしハンニバルがギリシアの隷属化の手助けをしてくれると約束するのであれば、イタリアにいる彼に手を差し伸べたいと提案した。ハンニバルはこの協定に同意して支持を誓い、お返しにピリッポスの宣誓を受けるべく使節団を送った。一隻のローマの三段櫂船が戻る途中の双方の使節を捕らえてローマに運んだ。これに怒ったピリッポスはローマと同盟を結んでいたコルキュラに攻撃をかけた。
コンスタンティノス7世『使節について』より

 シビュラの書は以下のような文言でローマ人にピリッポスとの戦争を勧めていた。「マケドニア人はアルゴスの諸王の末裔であることを自慢する。ピリッポスはお前たちの繁栄か災難の裁定者となるであろう。その名前を持つより古い方の者は諸都市と人々に支配者を授けるだろうが、より若い方はあらゆる栄誉を失わせ、西方の種族の従属民は死ぬだろう」
マイ枢機卿のヴァチカン草稿より

 エジプト王プトレマイオス〔四世〕からの使節団及び彼らに同行していたキオスとミテュレネの他の使節団、並びにアタマニア人の王アミュナンドロスからの使節団はアイトリア人が会議のために彼らの諸都市〔からの代表者〕を召集するのが習わしだった場所に、ローマ人、アイトリア人、ピリッポスの間の不和を調停するために二回集まった(2)。しかしスルピキウス(3)は和平を締結する権限は自分にはないと述べつつも、アイトリア人がピリッポスに対する戦争を続けるのがローマ人の利になると元老院に私信を書いたため、元老院は協定を禁じて一〇〇〇〇人の歩兵と一〇〇〇騎の騎兵をアイトリア人救援のために送った。彼らの助力を得たアイトリア人はアンブラキアを奪取したが、そこは彼らが去ると間もなくピリッポスに取り戻された。再び使節団が集まり、ピリッポスとアイトリア人が各々別々にギリシア人をローマ人のための隷属下に置こうとしているのは明らかであり、それというのも彼らは習慣的に後者〔ローマ人〕にギリシアへの頻繁な口出しをしてもらっているからだと使節団は明言した。スルキピウスが彼らに言い返すと、群衆は彼の言うことを聞かずに使節たちは本当のことを言っていると叫んだ。
 最終的にアイトリア人が主導権を取ってローマ人抜きでピリッポスと講和し(4)、協定に至るためにピリッポスその人とローマ軍の司令官によってローマへと使者が送られた。いずれの側も他方の友人に危害を与えないという条件で彼らの間で講和が成った(5)。以上が彼らの間での武力の最初の試みの結果であり、その協定は善意に基づくものではなかったために彼らのうちいずれもこれが長続きするだろうとは信じていなかった。
コンスタンティノス7世『使節について』より

第二次マケドニア戦争(紀元前200-197年)
間もなくピリッポスは海沿いの従属国に艦隊を準備するよう命じると、サモス島とキオス島を占領してアッタロス王の領地の一部を荒らした(6)。彼はペルガモスそのものすら狙い、神殿と墓所すら容赦しなかった。また彼は平和条約の発起人であったロドス人に属するペライアも略奪した。軍の他の部隊を連れて彼はアッティカを略奪し、ローマ人と何の関係もなかったにもかかわらずアテナイを包囲した。ピロパトルとあだ名されていてまだ少年だったプトレマイオス四世(7)が支配者だったエジプトとキュプロス島をアンティオコスが征服するのをピリッポスが支援し、アンティオコスはピリッポスがキュレネ、キュクラデス諸島、そしてイオニアを獲得するのを支援するというピリッポス・シリア王アンティオコス間の同盟締結も報告された。この噂は全ての人たちを不安に陥れたため、ロドス人はローマにこれを通報した。ロドス人の後にアテナイの使節団がピリッポスによる包囲を訴えるべくやってきた。アイトリア人も条約を悔いて彼らに対するピリッポスの不実を訴えて再び同盟者に加えてくれるよう求めた。ローマ人はアイトリア人を最近の離反のことで責めたが、王たちに使節団を送り、アンティオコスにはエジプトに攻め込まないよう、ピリッポスにはロドス人やアテナイ人、アッタロスやローマ人のその他の同盟者を苦しめないよう命じた。それらに対してピリッポスはローマ人が彼と結んだ平和条約を遵守してくれるのであれば結構なことだと返答した。したがって条約は破棄されてローマ軍はギリシアへと急行し、陸軍をプブリウス(8)が、ルキウス(9)が艦隊を指揮した(10)
『使節について』より

マケドニア王ピリッポスはエペイロス人の使節を伴っていたフラミニヌスと会談した(11)。フラミニヌスがピリッポスに対してローマ人ではなくギリシア諸都市のためにギリシアから撤退して前述の諸都市に彼が与えた損害を償うよう命じると……。
マイ枢機卿のヴァチカン草稿より

断崖に対するきちんとした装備をした軍を三日かけて山道を通って案内するとある羊飼いが約束した。
スーダ辞典より

ルキウス・クィンティウス(12)はアカイア同盟、並びにアテナイ人とロドス人にピリッポスを見捨ててローマ人と手を結び、同盟者として助力を与えるよう説得すべく使節を送った。しかし彼らは内戦と隣国ラケダイモンの僭主ナビスとの戦争で困っていたために迷い躊躇した。彼らの大部分はピリッポスとの同盟を選んで以前の司令官スルピキウスによってなされたギリシアへの狼藉を理由としてローマ人に立ちはだかった。ローマ派が彼らの見解を熱弁すると、敵対者の大部分は苛立ちつつ民会から退席し、残りの人たちは彼らの数の少なさのために屈服を余儀なくされてルキウスと同盟を結んで兵器を運び出し、すぐに彼のコリントス包囲に同行した。
『使節について』より

フラミニヌスはマリス湾でピリッポスとの二度目の会談に入った。ロドス人、アイトリア人、そしてアタマニア人の王アミュナンドロスがピリッポスへの不満を示すと、フラミニヌスは彼にポキスから守備隊を退去させるよう命じ、双方にローマへと使節を送るよう求めた。これが実行されると、ギリシア人はローマの元老院に対し、ピリッポスに彼らの国から「ギリシアの足枷」と呼ばれる三つの守備隊、即ち一つはボイオティア人とエウボイア人とロクリス人を怯えさせたカルキスの守備隊、一つはペロポネソス半島の入り口を閉じるコリントスの守備隊、そしていわばアイトリア人とマグネシア人を待ち伏せする位置を占めるデメトリアスの三つ目の守備隊を退去させるよう訴えた。元老院はピリッポスの使節団に王はどういう了見で守備隊を置いているのかと尋ねた。自分たちは知らないと彼らが答えると、フラミニヌスが問題を裁定して彼が考えた通りに行動するだろうと元老院は言った。こうして使節団はローマを発った。フラミニヌスとピリッポスは何の合意にも至ることができず、敵対行為を再開した。
『使節について』より

1 ピリッポスは再び破れるとフラミニヌスに和平を訴えるべく使者を送り、フラミニヌスは彼に再度の会談を認めた一方、これにいたく不服だったアイトリア人は王から買収されたとして彼を告発し、全ての事柄における彼の突然の心変わりを訴えた。しかし彼はピリッポスが退位してアイトリア人が覇権を握るのはローマ人やギリシア人のためにはならないと考えていた。またことによると勝利の予期しない大きさで彼は満足したのかもしれない。ピリッポスがどこに来るかで合意すると、フラミニヌスは諸都市の同盟者たちに自分たちの意見を伝えるよう指示した。その一部はピリッポスの災難ではっきり示された運命の神秘を疑り深く眺め、非運と脆弱さのせいで彼に降り懸かったこの災難を顧慮して穏健になった。しかしアイトリア人の議長アレクサンドロスはこう言った。「フラミニヌス殿はピリッポスの王国を覆さぬ限りこの勝利はローマ人やギリシア人のためにならないことをご存じでないようですな」
2 フラミニヌスは答えて言った。「ついぞ敵を滅ぼしたことがなく、多くの敵を助け、昨今カルタゴ人には財産を返還して自分たちに悪事を働いた者を同盟者としてきたローマ人の習わしをアレクサンドロス殿はご存じでないようだ。また、マケドニアの国境には、マケドニア王国がなくなれば易々とギリシアへと攻め込んでくる多くの夷狄がいることを貴殿はお忘れのようだ。その上で私はマケドニア人の国家は夷狄から貴殿らを守るために残されるべきだが、ピリッポスは彼がこれまで明け渡すのを拒んできたギリシアの地から撤退し、ローマ人に戦費として二〇〇タラントンを支払い、彼自身の息子デメトリオスを含む最も高貴な家々からの人質を差し出すべきだと考えている。元老院がこれらの条件を批准するまで四ヶ月の休戦がなされるべきである」
3 ピリッポスはこれら全ての条件を飲み(13)、その事実を聞き知ると元老院は和平を批准する際にフラミニヌスが承認した条件は寛大にすぎると考えたため、ピリッポスの支配下にあった全ギリシア都市は解放され、彼は次のイストミア競技祭までにそれらから守備隊を撤退させ、フラミニヌスに六つの櫂の長椅子を持つ船一隻と甲板付きの小型船五隻を除く全ての船舶を引き渡し、ローマに銀五〇〇タラントンを支払い、一〇年間毎年五〇〇タラントン以上をローマに送金し、手元にいる全ての捕虜と逃亡兵を引き渡すべしと宣言した。それらの条件が元老院によって追加されてピリッポスはこれら全てを飲み、これによってフラミニヌスが名付けた条件はあまりにも寛大であることが明らかになった。彼らは戦争終結時における通例通りに一〇人の相談役をフラミニヌスのもとに送り、彼らの補佐を受けて彼は新たな取得物を規定した。
4 彼らと共にそれらの事柄を処理すると彼はイストミア競技祭へと向かい、競技場が人で溢れていたためにラッパで静粛にするよう命じると、使者に以下の布告をするよう指示した。「ローマ人並びに元老院、そして彼らの将軍フラミニヌスはマケドニア人とその王ピリッポスを打ち破り、ギリシア人は外国の守備隊から解放されて貢納をせず、自らの慣習と法の下で暮らすべしと命じた」かくしてその場は大歓声と熱狂的な騒ぎの坩堝となり、あちこちの集団は使者をその言葉を繰り返させるために呼び戻した。彼らは将軍に冠と髪飾りを投げて彼らの都市に彼の像を建てることを票決した。彼らは感謝の印として黄金の冠をローマのカピトリヌスに送る使節団を送り、ローマ人の同盟者と自らのことを碑文に記した。ローマ人とピリッポスの二度目の戦争の帰結は以上のようなものであった。

戦間期
5 そう遠からぬうちにピリッポスはアンティオコス王に対する戦争においてギリシアでローマ人に手を貸した。ローマ軍がトラキアとマケドニアの難路を通ってアシアのアンティオコスに向けて移動した際に彼は自身の兵で彼らを護送して食料と資金を提供し、道を修繕して深い川に橋を架け、ヘレスポントスに彼らを案内するまで敵対的なトラキア人を追い払った。これらの厚意へのお返しに元老院は彼の息子で人質として彼らのもとにいたデメトリオスを解放し、支払い予定の金の支払いを免除した。しかしこれらのトラキア人がアンティオコスへの勝利から戻る最中のローマ軍を襲い、この時にピリッポスはもう彼らに同行していなかったのでトラキア人は戦利品を運び去ってその多くを殺し、これによってローマ軍の進軍時のピリッポスの貢献の大きさが如実に示された。
6 その戦争が終わりつつあった時、ギリシアの問題を解決した時にフラミニヌスが下した命令をピリッポスが無視して色々なことをしているとして多くのギリシア人がピリッポスを非難した(14)。これらの非難へ返答すべくデメトリオスが父のためにローマへと使節として向かい、ローマ人は人質だった時の彼を快く思っていたため、フラミニヌスは彼を元老院で強力に後押しした。そして彼は非常に年若くいくらか動揺していたため、元老院は〔ピリッポスがしたことは〕正義に悖るものであったとの決定を下しはしたものの彼に一つ一つ書き記された父の覚え書き、すでに行われた事柄とこれから行われる事柄を語るよう指示した。なるほど彼の不正な行いはどう考えても明らかであった。にもかかわらず元老院はアンティオコス問題でのその後の彼の熱誠を考慮し、彼を許すがそれはデメトリオスあってのことであると述べた。ピリッポスはアンティオコスとの戦争で最も如実に役に立っていたため、もし彼がアンティオコスの頼みに応じて彼と組んでいれば最大の被害を彼らに与えていたことだろうし、このことから自分は信用されず非難を受けていると大いに予期されていたし現に目下そのように見て取っていたためにピリッポスは親切というよりもむしろデメトリオスのおかげで得られた許しだと考え、これに腹を立てて憤ったが、当面はこの気持ちを隠していた。その後、ローマ人の面前での或る仲裁で、ピリッポスを弱める機会を絶えず探していた彼らは彼の領地をエウメネスに割譲させた。それからすぐに彼は密かに戦争の準備を始めた。
『使節について』より

マケドニアの力が弱まっているとローマ人に言われないようにするため、ピリッポスは彼に向けて航行してきた全軍を完全に壊滅させた。
スーダ辞典より

第三次マケドニア戦争の勃発
1 ローマ人はピリッポスの息子ペルセウスをその迅速な勢力増長の故に疑い、とりわけ彼がギリシア人と一番近いこと、ローマの将軍たちがその原因となっていたローマ人への憎悪による〔ギリシア人と〕彼との友好を目障りに思っていた(15)。その後、バスタルナイ族へと送られた使節団はマケドニアが強固に要塞化されていて十分な軍需物資を持っているのを見て、若者たちはよく訓練されていると報告した。これらの事柄はローマ人を不安にさせた。ペルセウスはこれを知ると疑いを解くために他の使節団を送った。この時にアシアのペルガモン周辺地方の王エウメネスはピリッポスとの以前の反目の故にペルセウスを恐れたためにローマに来て、ペルセウスはいつもローマ人と敵対していて彼らへの友好の故に弟を殺し、彼らに対する軍需物資を集めることでピリッポスを助け、ペルセウスが王になっても物資を集めるのをやめずにさらにそれを追加し、ありとあらゆる手を使ってギリシア人を和解させてビュザンティオン人、アイトリア人、そしてボイオティア人に軍事的援助を与えようとしており、トラキアで最強の砦を手中に収めてテッサリア人とペライビア人がローマに使節を送りたがっていた時に彼らの紛争を解消させたと言って元老院の前で彼の施策を非難した。
2 彼が言うに「貴殿らの二人の友人にして同盟者たる者に関し、ペルセウス様はアブルポリスを彼の王国から追い出し、イリュリア人の酋長アルテタウロスの殺害を企ててその殺害者を匿ったのです」エウメネスもまた王家の成員相手の二度の結婚のために彼を中傷し、婚儀の行列のために彼らを全ロドス艦隊によって護送していた。ペルセウスはその犯罪行為を犯し、まだ若かったのに節酒生活を送り、あまりにも短期間に多くの人たちから愛され、賞賛されていた。彼らの妬み嫉み、そして直接の非難以上に強い恐怖を掻き立てることができた事柄のうちでエウメネスが見逃したものはなく、元老院に対して彼は非常に名高く、彼らのすぐそばにいるこの若々しい敵手に用心するよう訴えた。
3 事実、元老院は素面で働き者で人気のある王であり、余りにも突然に高名になった自分たちの代々の敵を自分たちの横っ腹に置きたいとは思ってはいなかったのだ。かくして彼らはエウメネスに唆されてそれらの事柄への非難を行ったかのように見せかけてペルセウスとの戦争を宣言したが、このことは自分たちの身内で秘密にしておいた。エウメネスの非難に応答すべくペルセウスによって送られていたハルパロスとロドス人のある使節はまだそこにいたエウメネス臨席の下で問題を議論することを望んだが、元老院はそれを認めなかった。しかし彼の出発の後に彼らはこれを受け入れた。このような扱いに怒り、言論の自由を大いに用いるのを常としていたため、彼らはペルセウスとロドス人の戦争をすでに企んでいたローマ人に対してより一層苛立った。しかし多くの元老院議員はエウメネスの私怨と恐怖のせいでかくも大きな戦争が起ころうとしているとして彼を責め、ロドス人は太陽神の祝祭に王たちの全ての代表団のうちエウメネス〔の代表団〕だけを受け入れることを拒んだ。
4 エウメネスはアシアへと戻る際にキラからデルポイへと犠牲を捧げるために向かい、そこで壁の後ろに隠れていた四人の男が彼の命を狙った。対ペルセウス戦争のためにこれ以外の他の要因がローマ人によって進められ、エウメネス、アンティオコス、アリアラテス、マシニッサ、そしてエジプトのプトレマイオスといった同盟国の王たち、そしてまたギリシアへも、テッサリア、エペイロス、アカルナニア、さらに彼らの味方になりうるそれぞれの島々にも使節団が送られた。これにギリシア人は特に悩んだのであるが、それはある者たちはペルセウスを親ギリシア派と目していたし、またある者たちはローマ人との協定を強いられていたためである。
5 ペルセウスはそれらの事実を知ると、ローマに今一度使節団を送り、使節団の言うところでは、王は驚いていて彼らが協定を破棄して彼自身に敵対的な代表団を方々の同盟諸国に送った理由を知りたがっているとのことであった。もし彼らが何らかの攻撃を受けたのならば彼らはまずその問題を話し合うべきである。それから元老院は、エウメネスが述べた事柄とエウメネスが被害を受けた事柄、とりわけペルセウスがトラキアを手中に収めて軍と軍需品を集めており、それは平和を望む者がしないような行動であるとして彼を非難した。再び彼は使節団を送り、深く失望した様子で元老院で以下のように述べさせた。「おおローマ人、この戦争を目論む者たちよ、口実になるようなことはあるでしょうが、もし貴殿らが協定を尊重したのであれば――貴殿らはこれを顧慮していると言い張るでしょうが――、貴殿らは貴殿らが戦争を仕掛けようとしているペルセウス様の手からどんな被害を受けたというのでしょうか? 陛下が軍と軍需品を持っているからというのは理由にはなりません。陛下はそれらを貴殿らに向けているのではないし、貴殿らは他の王たちにそれらを持つのを禁じてもおりませんし、支配下の者たち、隣人、自分に対して謀略を企んでいる外敵に警戒するのは不当なことではありません。しかしローマ人よ、貴殿らに陛下は平和を保つための使節団を送り、協定をつい最近更新したばかりなのですよ。
6 しかし貴殿らは、陛下がアブルポリスを彼の王国から追い出したと言っております。その通り、我らは弁明しますが、それは彼が我らの領地に攻め込んだからなのです。この事実はペルセウス様が自ら貴殿らに説明したものですし、その後、エウメネスが陛下を中傷しないうちに貴殿らは陛下との協定を更新しました。アブルポリスの事件は協定よりも前に起こったことですし、協定を締結した時の貴殿らにとってもこのことは正しいはずです。貴殿らはペルセウス様がドロペス人と戦争をしたと言っておられるが、彼らは彼の臣下です。もし彼が貴殿らに彼の臣下と何をしたのかを説明をするよう強いられるとなれば、これは難事でございましょう。にもかかわらず陛下は貴殿らと自らの声望を大いに顧慮したためにこのように動くことになったのです。ドロペス人は彼らの支配者を拷問して殺したのであり、ペルセウス様は貴殿らこそこのような罪を犯した自分たちの従属者にどのようなことをするのかと尋ねておられます。しかしアルテタウロスの殺害者はマケドニアで暮らしているではありませんか! その通り。これは人類共通の法によって貴殿らが他の国々からの逃亡者をかくまっているのと同じことです。しかしペルセウス様は貴殿らがこれを罪だと考えているのを知ると、彼らに王国全土〔に留まること〕を禁じました。
7 陛下は貴殿らに対してではなく、他の人に対抗してビュザンティオン人、アイトリア人、ボイオティア人に援助を与えました。これらの事柄については我らの使節団は貴殿らに前もって忠告したものですし、貴殿らはエウメネスが我らへの中傷を口にするまでは異を唱えもしませんでしたし、貴殿らは我らの使節団に彼の前でこの中傷への反論を許しませんでした。しかし貴殿らはデルポイでの彼に対する陰謀の廉でペルセウス様を非難したのです。どれほど多くのギリシア人、どれほど多くの夷狄がエウメネスへの苦情を申し立てるために貴殿らに使節団を送り、その全員と彼はまさにその男をその原因として敵となったことでしょうか! ローマ市民、貴殿らの友人にして保護者で、ペルセウス様が元老院に毒を盛らせるのに選んだと信じているブルンドゥシウムのエレンニウス(16)については、彼は元老院を彼の手で破滅させるか、もしくは彼らの一部を破滅させることで他の人たちを彼自身により好意的にすることができはしたものの、エレンニウスは貴殿らを戦争へとけしかけるつもりの人たちに格好の口実を与えて彼らを騙したのです。憎悪、嫉妬、そして恐怖に突き動かされたエウメネスは、多くの人々から愛され、ギリシア贔屓であり、穏健な支配者として飲酒と奢侈から解放された生を送っていたペルセウス様に対して犯罪行為を平気で行いました。貴殿らはこの告発者からこんな話をよくもまあ聞けたものだ!
8 もし貴殿らが節度、正直さ、そして勤勉な隣人たちを守るのに耐え切れないのであれば、貴殿らのもとに彼の中傷が増えないように注意していただきたい。ペルセウス様は貴殿らの前での調査と裁判のためにエレンニウスとエウメネス及び別の者に挑むのです。陛下はそのお父上の熱意とアンティオコス大王に対抗した貴殿らへの変わらぬ尽力を行うつもりです。貴殿らはその時のことをよくご存じのはずですし、今これを忘れるような理由などありはしません。陛下は貴殿らが陛下のお父上並びに陛下ご自身と結んだ協定に訴え、貴殿らに躊躇うことなく貴殿らがそれにかけて誓ったところの神々を恐れ、同盟者に不正な戦争を仕掛けず、近づかず、素面のままでいて、不和の原因を用意しないよう促しました。エウメネスのように嫉妬と恐怖に駆り立てられるのは貴殿らには相応しからぬことです。むしろ逆に、エウメネスが述べるように勤勉な隣人を共有するのが貴殿らにとっては知恵の一環でしょうし、この点をよくよく考慮していただきたい」
9 このように使節たちが話すと、元老院は返答を寄越さずに宣戦を告げ、執政官は使節たちに同日中にローマを去って三日以内にイタリアからも去るよう命じた。同じ命令がマケドニア人住民全員に発せられた。元老院のこの行動のために驚愕が怒りと混じり合ったため、数時間の通告で多くの人々が出発を余儀なくされ、彼らはあまりに時間がなかったために〔荷駄を運ぶ〕動物を見つけることができなかったり、全財産を運び出せなかった。この混乱に際してある者は泊まる場所に到着することができずに路上で夜を明かした。他の者は市門で妻子と共に地面へと身を投げた。交渉が未解決だったために彼らにしてみればその布告は予期せぬものだったため、予期せぬ布告にあって起こりそうなありとあらゆることが起こった。
『使節について』より

 〔カリニコスの戦いでの〕勝利の後、冗談めかした仕方でクラッススを嬲るためか、あるいは目下の彼の心中を探るためか、はたまたローマ人の勢力と資源を恐れたためか、ことによっては何か他の理由のために、ペルセウスは彼に和平を論じる使者を送って彼の父ピリッポスが拒んだ多くの譲歩を約束した。この約束でペルセウスはむしろクラッススをからかって試しているかのようだった。しかしクラッススは、マケドニアとペルセウスその人をローマの人々に引き渡さずに彼と協定を結ぶというのはローマの人々の尊厳には値しないと応えた。ローマ軍が最初に退却したことを恥じたクラッススは集会を召集し、その中で危機にあっての勇敢な振る舞いのためにテッサリア兵を賞賛し、アイトリア兵と他のギリシア兵を最初に逃げ去ったとしてでっち上げの罪で告発し、それから彼らをローマへと送った。
『使節について』より

 両軍は夏期の残りを穀物を集めるのに使い、ペルセウスは戦場で、ローマ人は陣営内で脱穀した。
スーダ辞典より

 彼(クィントゥス・マルキウス)(17)は六〇歳で非常に太っていたにもかかわらず一番働いた。
スーダ辞典より

 それから誰かが風呂でくつろいでいたペルセウスの方へと走ってきて、彼に話した。彼は水から飛び出て自分は戦う前に捕らえられるところだったと大声で言った。
スーダ辞典より

 ペルセウスは敗走の後になって勇気が徐々にみなぎってきたため、金を海へと投じて船を焼くという命令を与えて送ったニキアスとアンドロニコスを悪辣にも殺した。それというのも船と金が助かった暁に彼らが彼の不名誉な狼狽の証人となって他の人にそれを話すだろうと気付いたからだ。その時から突然豹変した彼は誰に対しても残忍で向こう見ずになった。以後の彼は判断ではいかなる堅実さも知恵も示すことはなく、会議では最も説得力があり、経験のなさを除けば計算では抜け目なく、戦いでは勇敢だったが、運命が変わるや突然且つ説明のしようがないほどに臆病で無思慮に、そしてあらゆる点で融通が利かず不器用になった。このように我々は逆転が到来した時にいつもの思慮分別を失う多くの人を見るのである。
ペーレスクの手稿より

 ロドス人はマルキウスに対ペルセウス戦争での情勢を祝賀する使節団を送った。マルキウスは使節団に対し、ローマに代表団を送ってローマ人とペルセウスの間に平和をもたらすようロドス人を説得するように忠告した。ロドス人はこれらの事柄を聞くと、彼らはマルキウスがローマ人の同意抜きにこの忠告を与えたと想像できなかったためにペルセウスの情勢はそれほど悪くないと考えて心変わりした。しかし彼は臆病さのためにこれと他の多くのことを自分の考えで行っていた。にもかかわらずロドス人は使節団をローマへと、他の者たちはマルキウスへと送った。
『使節について』より

1 マケドニアに隣接するイリュリア人の部族の王ゲンティオスはすでにそのうちの一部を受領していた三〇〇タラントンを見返りとしてペルセウスと同盟を結ぶとローマ領イリュリアに攻撃をかけ、ローマ人がペルペンナとペティリウスをそのことを問いただすために使節として送ると、彼らを投獄した。ペルセウスはこれを知ると、今やローマ人がこの結果としてゲンティオスにも戦争を起こしたと考えて残りの金を払うまいと決めた。また彼はイストロス川の対岸にいるゲタイ人に代表団を送り、そしてエウメネスに自分の味方になるかローマとの和平を仲介してくれるか、あるいは戦いでどちらの側にも立たない場合には資金を提供すると申し出た。彼はエウメネスがローマ人から秘密を守れそうにないそれらのうち一つをするか、まさにその試みによってエウメネスに疑いをかけられるだろうと期待していた。エウメネスは彼の側につくのを拒み、和平交渉のために一五〇〇タラントン、あるいは中立を維持するために一〇〇〇タラントンを要求した。しかし今やペルセウスは一〇〇〇〇人の歩兵と多くの騎兵がゲタイ人から傭兵として来ていることを知ると、エウメネスを軽蔑し始め、どちらの側にあっても不面目なものであろう中立のために自分は何も払わないと言い、和平交渉のため、払わずにおいた金を条約が結ばれるまでサモトラケに置いておくことにし、全ての事柄において気紛れと窮乏のあまりのぼせ上がった。にもかかわらず、彼が期待したことのうち一つが起こり、エウメネスはローマで嫌疑を受けた。
2 ゲタイ族がイストロス川を渡ると、彼らの指導者クロイリオスのためにスタテル金貨一〇〇〇枚、また騎兵の各々に一〇枚、歩兵の各々に五枚で、全部で一五万枚強もの金貨が〔ペルセウスに〕要求された。ペルセウスは彼らに使者を送って軍の外套、黄金の首飾り、将官のための馬、そして一〇〇〇〇枚を送った。野営地からそう離れていない時にペルセウスはクロイリオスに手紙を書いた。後者は使者に対して金を持ってきたかどうかを尋ね、そうでないと知るとペルセウスのもとに帰るよう命じた。ペルセウスはこれを知ると持ち前の性悪さのために再び誤解し、ゲタイ族の移り気さと信用ならなさについて友人たちに文句を言い、彼の野営地にゲタイ族二〇〇〇〇人を受け入れることを案じているようなふりをした。彼はもし彼らが反乱を起こせばそのほぼ一〇〇〇〇人を屈服させられるのはなかなかできそうにないだろうと言った。
3 それらの事柄を友人たちに話していた時に彼はゲタイ族に他の作り話をして彼らに自分が持っている金を渡すと約束して軍の半分を求めた。彼は無節操で、少し前に海へと投げ込むよう命じた金について案じていた。クロイリオスは帰ってくる使者を見ると金を持ってきたのかと大声で尋ねたが、彼らが他のことを話そうとすると最初に金の話をしろと命令した。彼らが黄金を持って来なかったのを知ると、クロイリオスはこれ以上の返事を聞かずに軍を帰国させた。したがってペルセウスは偶然やってきたこの強力な援軍を自ら失うことになった。また彼はピラで大軍と共に越冬していた時、愚かさのためにローマ人に物資を提供していたテッサリアへと攻め込まず、イオニアからの彼らへの物資の輸送を妨げるために兵力をそこへと送った。
ペーレスクの手稿より

 ある神が運命の絶頂へと至ったパウルスの強勢を嫉視した。彼は四人の息子のうち年長の二人、マクシムスとスキピオを他家に養子にやっていた。若年の二人のうち一方は彼の凱旋式の三日前に、他方は五日前に死んだ。パウルスは人民に宛てた演説で他の事柄と一緒にこれらをそれとなく言及した。将軍の慣例に則ってフォルムに自分の行動を説明するために来ると、彼は「私はブルンドゥシウムからコルキュラまで一日で航行してきた。コルキュラから、神に犠牲を捧げたデルポイまでの道は五日かかった。五日間以上かけて私はテッサリアに到着して軍の指揮権を手にした。一五日後にペルセウスを破ってマケドニアを征服した。かくも速やかに来たこれら全ての幸運の一かきのおかげで私は軍か諸君に何かの災難が近づいているのではないかとと恐れていた。軍が無事だった時に私は運命の不公平さのために諸君のことを案じたものである。今や災難が私の身に降り懸かって二人の息子を急に失ったため、私は自分にとっては最も不幸な人間になってはいるが、諸君に関する不安からは解放された」と言った。こう言うと、パウルスは普く賞賛と子供たちについての同情の的となり、そう遠からぬうちに死んだ。
ペーレスクの手稿より




(1)紀元前214年。
(2)紀元前208年。
(3)ギリシア派遣軍の司令官プブリウス・スルピキウス・ガルバ。紀元前211年の執政官。前執政官として第一次マケドニア戦争を指揮した。
(4)紀元前206年。
(5)紀元前205年。
(6)紀元前201年。
(7)「これはエピファネスとあだ名されたプトレマイオス五世のことであろう。後者は551年(紀元前203年)に死んでいた。この間違いは『シリア戦史』1章2節・4節でも繰り返されている(シュヴァイグハウザー, vol. iii. pp. 507 and 539)」(N)。
(8)前述のプブリウス・スルピキウス・ガルバ。
(9)ルキウス・アプスティウス・フロ。紀元前226年の執政官。
(10)紀元前200年夏。
(11)紀元前198年。
(12)「ルキウス・クインティウス・フラミニヌスは、ピリッポスとの戦争を指揮して557年(紀元前197年)にキュノスケパライで彼を破ったティトゥス・クィンティウス・フラミニヌスの兄弟である」(N)。
(13)紀元前196年。
(14)紀元前183年。
(15)紀元前172年。
(16)ルキウス・ラムミウスとも。ブルンドゥシウムの指導的な市民で、ローマの将軍と外国からの使節の接遇を担っていた。ペルセウスからローマの将軍たちを暗殺してほしいという申し出を受けたが、これを元老院に通報した。
(17)クィントゥス・マルキウス・ピリップス。紀元前186年と169年の執政官。




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