ヒスパニアでの戦争

1巻
1 ピュレネ山脈はテュレニア海から北の大洋まで伸びている。〔山脈の〕東側にはガラティア人とも呼ばれるケルト人が住んでおり、後に彼らはガリア人と呼ばれた。これより西、テュレニア海から始まってヘラクレスの柱を回って北の大洋へと至る地方にはイベリア人とケルティベリア人が住んでいる。したがってヨーロッパ最大で、おそらく最も険しい山脈であるピュレネ山脈に取り巻かれていた地方を除いてイベリア全土は海に囲まれている。沿岸航行するとそれらの次にはヘラクレスの柱に至るまでテュレニア海が来る。彼らは潮に乗ってたった半日で行けるブリタニアの向こうに乗り込むのは別として東の大洋と北の大洋を横断することはなかった〔「これは地理学上のひどい誤りだが、ヒスパニアをブリタニアの西に置いたカエサルの失敗に優るとも劣らない(ガリア戦記, v. 13)。タキトゥスはこの誤りを繰り返している(アグリコラ, 10)」(N)〕。それというのも残りの人たち、ローマ人も属国民の誰もその大洋を航海していないからだ。今日幾人かの人たちによればヒスパニアと呼ばれているイベリアの大きさは一つの地方としてはほとんど信じられないほどである。その幅は一〇〇〇〇スタディオンで、長さもそれと同じである。様々な名前の多くの種族がそこに住んでおり、多くの航行可能な川がそこを流れている。
2 どんな民族が最初にそこを占め、彼らの次に来たのかを研究するのはローマ史を書くだけの私にはさほど重要なことではない。しかし私はいくらか前の時代にケルト人がピュレネ山脈を越えてそこの種族と混合し、ケルティベリアという名前はこのような由来を持つと考えている。また私は、早い時期にフェニキア人が交易のために頻繁にヒスパニアに来ており、そこのある土地を占領したと考えてもいる。似たようにしてギリシア人はタルテッソスに居留してそこの王アルガントニオスと彼らの一部の者たちがヒスパニアに住み着いた。それというのもアルガントニオスの王国はヒスパニアにあったからだ。私の意見ではタルテッソスはそれから今日にはカルペッソスと呼ばれている沿岸の都市である。フェニキア人は海峡に立つヘラクレス〔メルカルトを指す(N)〕の神殿を建てたとも私は考えている。フェニキア式の宗教的な儀式がそこには未だにあり、その神は崇拝者たちからテバイのではなく、テュロスのヘラクレスだと考えられている。しかし私は古いものの好事家たちにそれらの問題を委ねることにしたい。
3 この豊かな土地はありとあらゆる良きものに恵まれていたため、カルタゴ人がローマ人より前にそこを開発した。ローマ人が彼らが占めていた地方から追い出してすぐに自分がそこを占拠するまで、カルタゴ人はその一部を占領して他の部分を略奪した。その残りをローマ人は大変な労苦の末に長い年月をかけて獲得し、反乱の頻発にもかかわらず最終的に平定して三つに分け、法務官を任命した。彼らがいかにしてその各々を平定し、カルタゴ人と、その後にイベリア人とケルティベリア人とそれらの所有を争ったのかをこの巻はつまびらかにするつもりであり、私には私のヒスパニア史をカルタゴ人のヒスパニアとの関係を話す必要があるので、最初の部分には彼らに関する事柄を収めることにする。というのも同じ理由でローマのシケリアへの侵略と支配の始まりからのその島をめぐるローマ人とカルタゴ人の行いはシケリア史に収めておいたから。
4 ローマ人の最初の対外戦争はシケリアをめぐってカルタゴ人となされたものであり、これはまさにシケリアで行われた。その過程で両勢力はイタリアとアフリカの双方へと大軍を送って荒廃させたものの、同様にヒスパニアをめぐる最初の戦争〔第二次ポエニ戦争〕もヒスパニアで行われた。
 この戦争はシケリア戦争の終結時になされた協定の通知によって一四〇回目のオリュンピア会期に始まった。違反は以下のようにして起こった。バルカとあだ名されたハミルカルはシケリアでカルタゴ軍を率いていた時にケルト人傭兵とアフリカ人同盟者に大きな褒美を約束し、彼らは彼がアフリカに帰った後にこれを要求した。それからアフリカ戦争が勃発した。この戦争でカルタゴ人はアフリカ人の手によって多大な被害を被り、この戦争の間にローマの商船に与えた被害への補償としてサルディニア島をローマ人に譲渡した。ハミルカルこそが国への深刻な被害の責任者であると主張した政敵によってこれらの事柄で法廷に引き立てられると、彼は国家の主要人物たち――その中で最も人気のある人物はバルカの娘と結婚していたハスドルバルだった――の支持を確保し、これによって罰を免れた。そしてヌミディア人との紛争がこの時期に起こると、以前に将軍職にあった時の説明をまだ提出していなかったにもかかわらず彼は大ハンノと共同でカルタゴ軍の指揮権を確保した。
5 この戦争終結時、ハンノはカルタゴで彼になされた告発に応答するために呼び戻され、残されたハミルカルは軍の単独指揮権を握った。彼は義理の息子ハスドルバルと連携して海峡をガデスへと渡り、何ら彼に悪事を働いていなかったヒスパニア人の土地の略奪を始めた。したがって彼は母国から離れ、そしてまた事業を実施して人気を得る機会を作った。それというのも彼は獲得した財産は何であれ分割した。将来の略奪への熱意をかき立てるために一部を兵士に与え、他の一部をカルタゴの金庫に送り、第三の部分は現地での自派の酋長たちに分配した。これはヒスパニアの諸王とその他の酋長たちが連合して以下のようにして彼を殺すまで続けられた〔紀元前229年〕。彼らは大量の荷馬車に木材を乗せて雄牛を先行させてそれらを運び、戦いの準備をした上でそれらに続いた。アフリカ兵はこれを見ると策略に気付かず襲いかかった。彼らが間近に迫るとヒスパニア人は荷馬車に火を放って敵に向けて雄牛を突っ込ませた。逃げる雄牛のおかげで方々に火が広がると、アフリカ兵は混乱に陥った。かくして彼らの隊列が崩れるとヒスパニア人は彼らの真っただ中に突入してハミルカルその人と彼の助けに向かった他の多くの兵を殺した。

2巻
6 カルタゴ人はヒスパニアから得られた収益に喜んでいたためにそこへともう一つの軍を送り、ハミルカルの義理の息子で未だヒスパニアにいたハスドルバルを同地の全軍の司令官とした。彼はヒスパニアにハミルカルの息子にして彼の妻の兄弟、戦争熱心な若者で軍から愛され、もうすぐ軍事的な偉業で名声を得ることになるハンニバルを連れていた。彼は彼を副将に任命した。私的な交際では魅力的であったためにハスドルバルは多くのヒスパニア人を説得によって自らの支持者とし、軍を必要とする場面ではこの若者を使った。このようにして彼は西の大洋から、ヒスパニアを中央あたりで分かっていて五日の旅程の距離にあってピュレネ山脈から北の大洋まで流れ出るイベロス川あたりまでの内陸部まで突き進んだ〔「地理上のもう一つの誤り。エブロ川は地中海まで注ぐ」(N)〕。
7 ザキュントス島の植民地で、ピュレネ山脈とイベロス川の中間あたりに暮らしていた〔「もう一つの誤り。サグントゥムはエブロ川の遙か南東にある」(N)〕サグントゥム人と、エンポリアの近隣とヒスパニアの他の町に住んでいた他のギリシア人は彼らの安全を案じてローマに使節団を送った。カルタゴ勢力の増長を不快の目で見ていた元老院はカルタゴに使節を送った。ヒスパニアでのカルタゴ勢力の境界はイベロス川となり、この川を越えてローマ人はカルタゴの従属者に戦争を仕掛けてはならず、カルタゴ人は似たような目的でその川を越えてはならず、サグントゥム人とヒスパニアのその他のギリシア人は自由と自治権を保持する、と彼らの間で同意された。かくしてこのような協定がローマとカルタゴの文書に加えられた。
8 しばしの後、ハスドルバルがカルタゴに属するヒスパニアの地域を支配していた時、主人を彼に残忍な仕方で殺されたある奴隷が狩りに出かけていた彼を密かに殺した〔紀元前220年〕。ハンニバルはこの下手人に有罪判決を下して恐ろしい拷問にかけて殺した。今や軍は未だ非常に若かったが兵から大いに愛されていたハンニバルを彼らの将軍として宣言し、カルタゴの元老院もその任命を承認した。ハミルカルとハスドルバルの勢力を恐れていた対立派閥の者たちは彼らの死を知ると、ハンニバルを若さの故に軽んじて彼らの友人と仲間たちを昔の罪状で告訴した。人々はハミルカルとハスドルバルの往時の峻厳さを覚えていたために目下の被告への悪意から告発者に味方し、ハミルカルとハスドルバルが敵からの戦利品として得た物から多くの贈与を国庫に提出するよう命じた。被告派はハンニバルに助けを求める伝令を送り、母国で彼を支援することができる人を無視するならば、彼は父の敵から徹底的な軽蔑を被ることになるだろうとたしなめた。
9 彼はこの全てを予測しており、友人たちへの虐待が彼自身への陰謀の始まりになることを知っていた。自分は永続する脅威としてのこの反目には耐えられないだろうし、父と義理の兄弟のように、常々恩には忘恩で報いているカルタゴ人の移り気にこれ以上は付き合うまいと結論づけた。少年だった時に彼は父に倣い、自分が一人前になればローマを不倶戴天の敵とすることを祭壇で誓ったと言われている。それらの理由から、もし国を厄介で長引く事業にかかずらわせて国を疑いと恐怖に投げ込むならば、自分と友人たちの状況を安全な立場に置くことになるだろうと彼は考えた。そこで彼はアフリカ、ヒスパニアの服属した地域を眺めた。しかしもし彼自身は強く望んでいてカルタゴ人たちは考えるだけで恐怖するローマとの戦争を起こすことができれば、そしてこれに成功してローマ人が征服されれば、他の競合者はもういなくなってしまうために彼の国のために人の住む世界を獲得させることで不滅の栄光を得ることになるだろうし、もし失敗してもその試みそれ自体で彼は非常な名声を得ることになるだろう。
10 もし彼が素晴らしい始まりをなすイベロス川を渡れば、彼はサグントゥム人の隣人であるトルボレタイ族を唆すと思ったため、彼ら〔サグントゥム人〕は後者〔トルボレタイ族〕が彼らの国を荒らして他の多くの悪事を彼らにすることになると彼に訴えた〔紀元前219年〕。彼らはこの抗議を彼にした。それからハンニバルは彼らの使節団をカルタゴへと送り、ローマ人はカルタゴ領ヒスパニアで反乱を煽り、サグントゥム人はこの目的のためにローマ人と協調しようとしていると述べる私信を書いた。彼はこの偽りを止めなかったばかりか、カルタゴの元老院が彼が適当と見なすようにサグントゥム人を扱う権限を彼に与えるまでこの種の言伝を〔カルタゴまで〕送り続けた。彼は口実を手に入れると、トルボレタイ族がサグントゥム人に対する苦情を言うために再び来るべきであり、後者も代表団を送るべしと定めた。ハンニバルが不和を説明するよう彼らに命じると、自分たちはローマにその問題を訴えるべきだと彼らは答えた。そこでハンニバルは彼らに彼の野営地を出るよう命じて次の夜にイベルス川を全軍を連れて渡り、サグントゥム領を荒らして彼らの都市に向けて攻城兵器を据えた。そこを落とせなかったために彼は城壁と壕でそこを囲み、十分な見張りを置いて時間間隔を挟みつつ包囲に邁進した。
11 サグントゥム人はこの突然にして通達なしの攻撃で追いつめられたためにローマへと使節を送った。元老院は彼らと一緒に向かわせせるべく自分たちの使節団を任命した〔紀元前219年〕。もしハンニバルがカルタゴに行って彼に対する非難に申し開きをせよというのに従わなければ、彼らはまずハンニバルに合意内容を思い出させるよう指示された。彼らがヒスパニアに到着して海から彼の野営地に近づくと、ハンニバルは彼らが来るのを禁じた。したがって彼らはサグントゥムの使節団を連れてカルタゴへと航行し、カルタゴ人に協定を思い起こさせた。後者は自分たちの臣民に多くの悪事を働いたとしてサグントゥム人を非難した。サグントゥム人がローマ人に仲裁者として問題の一切合切を委ねることを申し出ると、そうなればローマ人は自分たちに復讐できるようになるので仲裁の役には立たないとカルタゴ人は応じた。この応答がローマへともたらされると、一部の人たちはサグントゥム人に助けを送ることを勧めた。他の人たちは、サグントゥム人は自分たちとの協定で同盟者として記されておらず自由で自治権を持っているにすぎないし、彼らは包囲下にありながらもなお自由であると言って延期を支持した。通ったのは後者の意見だった。
12 サグントゥム人がローマからの助けを絶望し、飢餓が彼らに重くのしかかってくると、そしてその都市は非常に繁栄して豊かであることを聞き知っていたことから包囲の手を緩めなかったハンニバルが中断することなく包囲を続けると、サグントゥム人は公的なものも私的なものも全ての金銀を広場に運んで鉛と真鍮と一緒に溶かしてハンニバルの役に立たないようにすべしとの布告を発した。それから飢え死にするよりは戦死するほうがましだと考えると、彼らは眠りこけていて攻撃を予期していなかった包囲軍に向けて夜間に出撃し、ある者を寝台から出ようとしていたところを殺し、他の者は不格好に武装してたところを、また他の者は実際に戦って殺した。戦いは多くのアフリカ兵とサグントゥム人の全員が死ぬまで続いた。女性たちは城壁から夫の殺害を目撃すると、ある者は家の上から身を投げ、他の者は首を吊り、他の者は子供たちを殺して自分も跡を追った。当時は大きく有力な都市だったサグントゥムの最期は以上のようなものであった。黄金に対してなされたことを知るとハンニバルは怒って成人の捕虜全員を拷問にかけて皆殺しにした。市がカルタゴからほど遠からず、海に面した良地にあることを見て取ると、彼はそこを再建してカルタゴの植民地にしたが〔どういうわけかここでアッピアノスは新カルタゴのことを話しているらしい(N)〕、思うにそれは今日にスパルタゲネのカルタゴと呼ばれている都市である。

3巻
13 今やローマ人は責任を取りたくなければ協定への違反者としてハンニバルを彼らのもとへ届けられるように要求する使節団を送った〔紀元前218年〕。もし彼らが彼を引き渡さなければ、直ちに戦争が宣言されていただろう。カルタゴ人がハンニバルの引き渡しを拒むと、使節団は指示に従って宣戦した。以下のような仕方でそれはなされたと言われている。使節団長はトーガの折り目を指して笑い、言った。「ここでカルタゴ人よ、私は平和か戦争か、あなたたちが選ぶ方をあなたたちにもたらすものである」。後者〔カルタゴ人〕は答えた。「あなたたちはあなたたちが好むものを我々に我々に与えるつもりだろう」ローマ人が戦争を申し出ると彼ら皆が叫んだ。「我々はそれを受けて立とう」彼らは協定は切れたのでヒスパニア全土を自由に荒らすようすぐにハンニバルに手紙を書いた。したがって彼は近隣の全ての部族に向けて軍を進め、ある者は説得して、他の者は脅かして、残りは平定すことで彼らを服属させた。それから彼はついぞ語れたことがないほどの未曾有の大軍勢を集め、イタリアに向けてこれを投入しようとしていた。また彼はガリア人の間に使節団を送り出し、その後にヒスパニアの指揮に弟ハスドルバルを残して彼が横断することになるアルペス山脈の通過を試した。
14 ローマ人は、イタリアへとアフリカ軍が攻め込むなどとは夢にも思ってもおらず、ヒスパニアとアフリカでカルタゴ人との戦争が起こるに違いないと見て取っていたためにティベリウス・センプロニウス・ロングス〔この年の執政官で、下記のスキピオは同僚執政官〕を一六〇隻の艦隊と二個軍団と共にアフリカへ向けて送った。ロングスと他のローマの将軍たちがアフリカでしたことは私のポエニ戦争史で述べておいた〔センプロニウス・ロングスのアフリカでの行いは現存する限りのアッピアノスのポエニ戦争史には述べられていないし、彼の他の戦争史にもない(N)。〕。彼らはプブリウス・コルネリウス・スキピオに六〇隻の艦隊と一〇〇〇〇人の歩兵と共にヒスパニアへと向かうよう命じ、彼の兄弟のグナエウス・コルネリウス・スキピオを一個軍団と共に送った。前者のプブリウスはハンニバルがアルペスを渡ってイタリアに入ったことをマッシリア商人から知ると、イタリア人がこの件を知らないままにするのを恐れたために兄弟にヒスパニアでの指揮権を委ねて五段櫂船船団と共にエトルリアへと航行した。彼と彼につき従った他のローマの将軍たちが一六年をかけてかなりの苦労を経て彼らがハンニバルを祖国から追い出すまでにイタリアでしたことは、この『ローマ史』のハンニバルの巻と称されるイタリアでのハンニバルの事績の全てを収めた続く巻で示されるはずである。
15 グナエウスはプブリウスがヒスパニアに戻るまで何ら語るに値することをしなかった。後者の官職の任期が満了すると、ローマ人は新たな執政官をイタリアのハンニバルに差し向け、彼を前執政官に任命してヒスパニアへと再び送った〔紀元前217年〕。この時から両スキピオはヒスパニアを統括するようになり、カルタゴ人がハスドルバルと彼の軍の一部をヌミディア人の支配者シュファクスの攻撃を退けるために呼び戻す〔紀元前214年〕まで将軍となってハスドルバルらと戦った。両スキピオは残りの将軍たちを早々に破った。また、彼らは説得したり軍を率いたりして多くの町を服属させたためにそれらは自発的に彼の側についた。
16 カルタゴ人はシュファクスと講和するとハスドルバルを以前以上の大軍と三〇頭の象と共にヒスパニアへと再び送った〔紀元前213年〕。彼と一緒にマゴと、ギスコの息子でもう一人のハスドルバルという他の二人の将軍も乗り込まれた。これ以降、戦争は両スキピオにとってより厳しいものになった。にもかかわらず彼らは成功を得て、多くのアフリカ人と象が彼らによって滅された。ついに冬が来るとアフリカ軍はトゥルディタニア〔現アンダルシア〕で、グナエウス・スキピオはオルソ〔現オスナ〕で、プブリウスはカストロで越冬に入った。ハスドルバルが接近中であるという知らせがプブリウスに入ると、彼は小勢を連れて敵の野営地を偵察してハスドルバルに奇襲をかけるためにその都市から出撃した。彼とその全軍は敵の騎兵隊に包囲されて殺された。これをつゆ知らぬグナエウスは一部の兵を穀物調達のために兄弟のもとへと送り、彼らはもう一つのアフリカ軍に襲いかかって彼らと交戦した。グナエウスは彼〔プブリウス〕が出発したのを知ると、武装させた兵を連れて彼らの救援に向かった。プブリウスの部隊を斬殺したカルタゴ軍はグナエウスめがけて突撃し、彼を或る塔に追い詰め、彼らはそれに火を放って彼とその仲間を焼き殺した。
17 このようにしてあらゆる面で優れていた男たちだった両スキピオが死ぬと、この事件は彼らの働きでローマの側についていたヒスパニア人から大いに悔やまれた。その知らせがローマに届くと人々は非常に心配した。彼らはシケリアから着たばかりのマルケルス〔「奇妙な間違いである。シケリアを占領したマルケルスはイタリアで活動していた。アッピアノスはおそらくルキウス・マルキウス・セプティミウスのことを意味しているのだろう」」(N)。〕をクラウディウス〔ガイウス・クラウディウス・ネロ〕、艦隊と騎兵一〇〇〇騎と歩兵一〇〇〇〇人、そして十分な資金をつけてヒスパニアに送った。彼らは何ら重要なことをなさなかったためにカルタゴの勢力はヒスパニアのほぼ全土を覆うまでに増長し、ローマ人はピュレネ山脈の片隅に押し込められた。これがローマで知られると人々は大いに意気消沈し、ハンニバルが他の先端〔南イタリアのことであろう〕を荒らしている間に同上のアフリカ人が北イタリアへと攻め込むのではないかと案じた。彼らはヒスパニアでの戦争を放棄しようと望んでいたものの、その戦争がイタリアへと持ち込まれるという恐怖のためにそれはできない相談だった。

4巻
18 したがってヒスパニア担当の将軍を選出する日取りが決められた〔紀元前211年〕。誰も出馬しないでいると、驚きが大いに増し、憂鬱な沈黙が集会を覆った。最終的には、ヒスパニアで命を落としたプブリウス・コルネリウスの息子でまた非常に年若かった――というのも彼はほんの二四歳だった――が、慎重さと高邁な精神で評判高かったコルネリウス・スキピオが進み出て彼の父と叔父に関する印象深い演説をし、彼らの運命を嘆いた後に自分こそは彼らと自分の国のために復讐するべき残された唯一の家族だと言った。彼はまるで憑りつかれたかのようにベラベラと情熱的に話し、ヒスパニアのみならずこれに加えてアフリカとカルタゴも屈服させてみせると約束した。これは若々しい思い上がりのようだと多くの人に思われたが、気落ちしていたがそれらの約束で元気付けられた人々の精神に活気を取り戻させ、彼が何かその高邁な精神に相応のことをすることになるという期待の下でヒスパニア遠征軍の将軍に選出された。年長者たちはこれを高邁な精神ではなく向こう見ずだと言った。これを聞くとスキピオは再び集会を召集し、以前に言ったことを繰り返し、彼の若さは障害ではないと宣言し、年長者たちがその仕事をしたいと望むのならば自分は喜んでこれを譲ると付け加えた。誰もその仕事を申し出ないでいると、彼は一層の称賛を受け、一〇〇〇〇人の歩兵と五〇〇騎の騎兵を連れて出発した。彼はハンニバルがイタリアを荒らしている間はこれ以上大きな軍を持つのを許されなかった。彼は資金とありとあらゆる種類の道具と二八隻の軍船を受け取り、これらと共にヒスパニアへと向かった。
19 すでに現地にいた軍を引き継いで彼が連れてきた軍と合体させると、彼はお祓いをし、彼がローマでしたのと同じ類の仰々しい演説を彼らに向けてした〔紀元前210年〕。その報告はすぐにヒスパニア全土に広がり、カルタゴ人の支配はうんざりされていて両スキピオの美徳は思慕されていたため、スキピオの息子のスキピオは神の摂理によって将軍になったのだと思われた。彼はこの報告を聞くと、自分が行ったあらゆることは天の導きによるものであると発表することにした。敵が歩兵二五〇〇〇人と二五〇〇騎以上の騎兵を完全に収容できる互いにかなりの距離がある四つの野営地で越冬しており、彼らが資金、食料、武器、飛び道具、そして船の蓄え、並びにヒスパニア全土からの捕虜と人質を以前はサグントゥムと呼ばれていたが後にカルタゴと呼ばれた都市〔サグントゥムがカルタゴと呼ばれたのは誤りで、ここで言われてるのは新カルタゴ(N)〕に置いており、そしてそこは一〇〇〇〇人のカルタゴ兵を連れたマゴに任されていたことを彼は知らされた。戦力の小ささと大量の物資のために、そして銀山とありとあらゆるものを有した富裕で栄えた領地を持っていてアフリカへの最短路であったこの都市はヒスパニア全土に対して陸海での作戦にあたっての安全な基地となると彼は信じたため、まずこれを攻めることを決めた。
20 これらの考えで奮起した彼は誰にも意図を伝えることなく軍を出発させて夜を徹して新カルタゴへと進軍した。翌朝にそこに到着すると彼は敵を驚かせ、町を壕で囲み始めて翌日に包囲を開始しようと計画し、城壁が最も低くなっており、潟と海で囲まれていて見張りが不用心になっていた一カ所を除く全周に梯子と攻城兵器を配置した。夜のうちに石と矢を装置に装填し、敵船が逃げ込まないように艦隊を港に配置すると――それというのも彼は市が有するあらゆるものを鹵獲しようと大いに期待していたからだ――夜明けに彼は部隊の一部に敵を上から攻撃するよう命じて装置に人員を乗り込ませ、その一方で他の部隊は城壁の下へと装置を進ませるよう命じた。マゴは門に一〇〇〇〇人の兵を配置し、槍はこのような狭い場所では役に立たなかったために剣だけを持って一部の兵には都合の良い機会を見て出撃させ、他の兵は胸壁に乗り込ませた。彼は装置、石、矢、そしてカタパルトを有効に使って効果を上げた。双方で叫び声と激励が起こり、気力と勇気に不足はなかった。手で投げられたり、装置で投げられたり、投石機で投ぜられた石、矢、投げ槍が宙を覆い、手元にあった他の器機や力は何であれほとんどの人に使われた。
21 スキピオは酷い被害を受けた。門にいた一〇〇〇〇人のカルタゴ軍は抜き身の剣を持って出撃し、兵器の作業をしていた者に襲いかかった。彼らは勇敢に戦いはしたが、ローマ軍が忍耐と我慢によって優勢になるまでは次々と被害を受けた。運命の変転により、城壁の上にいた者たちは苦戦し始めた。梯子がその場所にかけられると、出撃していたカルタゴの剣士たちは門を通って退却して立てこもり、城壁に上った。これはローマ人に新たな、そして骨の折れる仕事をもたらした。指揮を執る将軍として命令を出し、激励しては方々を回っていたスキピオは、低く潟で洗われていて正午頃に引き潮になる場所が城壁にあることに気付いた。そこは一日のある時間に波が胸までになり、いつもは引き潮で膝ほどの高さにもならない。スキピオはこれに気付いて潮の動きの有り様と一日の残りの時間の水位が低くなることを確かめた後、あちこちに投げ槍を放って「今だ、兵士たちよ、今こそ好機だ。今神が私を助けに来ているぞ。海が我らに道を開くことになる所の城壁を攻めろ。梯子をかけろ。私についてこい」と声を上げた。
22 彼が真っ先に梯子を掴んで潟へとこれを持っていき、まだ他に誰も登ろうとしていないうちに早くも登り始めた。しかし彼の鎧持ちと他の兵たちは彼を囲んでその後に続きつつたくさんの梯子を一緒に持ってきて城壁にかけ、登り始めた。方々での叫び声と喧噪の中、打撃を与えたり受けたりしていたローマ軍はついに優勢に立っていくつかの塔の占領に成功し、スキピオはラッパ手たちをそこに置いて市はすでに落とされたかのように強い一吹きで彼らに命令を発した。これが他の者たちにとっては助けとなり、敵を仰天させた。ローマ兵の一部は飛び降りて門をスキピオのために開き、彼は軍を突入させた。住民の一部は家に逃げ込んだが、マゴはアゴラに一〇〇〇〇人の兵を展開させた。その大部分が切り死にした後に彼は生き残りを連れて砦に逃げ、スキピオはこれを速やかに攻めた。マゴは打ちのめされて縮み上がった軍では為す術がないと見て取ると、降伏した。
23 この富裕で強力な都市を大胆さと幸運によって一日(彼の到着から四日目)で落とすと、彼は大いに得意になり、彼は神的な霊感を受けた時以上に得意になっていたかのようだった。彼は自分でもそう考えて他の人にもそうだと言い始め、それはその時だけではなく今後の彼の生涯を通してそうだった。全ての出来事にあたって彼は頻繁に一人でカピトリヌスに行き、あたかも神からのお告げを受けているかのように扉を閉じた。今もなお彼らは公の祭典ではカピトリヌスからスキピオ一人の画像を持ち出し、他の全ての人たちの画像は広場から運ばれている。占領した都市で彼は多くの武器、矢、大掛かりな兵器、三三隻の軍船を収容していた造船所、穀物、様々な種類の物資、象牙、あるものは板の形をし、またあるものは貨幣に鋳造され、そしてまたあるものは鋳造されていなかった黄金、銀といった平時と戦時に有用な大量の財物、そしてまたヒスパニア人の人質と囚人とローマ人自身から以前に獲得されたありとあらゆる物を獲得した。翌日に彼は神々に犠牲を捧げて勝利を祝い、兵士たちの勇気を讃え、軍に言葉をかけた後に町の人たちにスキピオの名を忘れぬようにと演説をした。彼は町々を宥めるためにヒスパニア人の捕虜全員を家に帰した。彼は兵士たちの勇気を讃え、城壁に最初に上った者を一番長く、次点の者をその半分の長さで、他の者を功に応じて讃えた。残りの金、銀、象牙を彼は鹵獲した船でローマへと送った。多くの試練の後に父祖伝来の幸運が今一度示されたため、その都市で神への三日の謝恩祭が開催された。ヒスパニア全土とそこにいたカルタゴ人はこの功業の大きさと唐突さに肝を潰した。

5巻
24 スキピオは新カルタゴに守備隊を置き、潮で洗われていた城壁を適切な高さに高くするよう命じた。それから彼は残りのヒスパニアに向けて動き、できる所では融和のために友人たちを送り、他の所は従わせた。いずれもハスドルバルという名の二人のカルタゴ人の将軍が未だ残っていた。そのうち一人はハミルカルの息子で、彼は遙か遠くケルティベリア人のうちから傭兵軍を募った。他方のハスドルバルはギスコの息子で、まだ忠実だった町々に使者を送り、無数の軍勢が間もなく救援に来るからと言ってカルタゴへの忠誠を守るよう説いた。彼はできるならばどこであれ傭兵を募るために近隣の地方へとマゴ〔新カルタゴでスキピオと戦ったマゴとは別人(N)〕を送り、一方自らはそこのいくつかの町を包囲しようと目論んで反旗を翻したレルサ領に攻め込んだ。スキピオが接近すると、彼はバエティカに退いてその都市の前に野営した〔バエティカは地方の名前であって都市の名前ではない(N)。〕。翌日に彼はスキピオに敗れ、野営地のみならずバエティカも占領された。
25 今やこのハスドルバルはスキピオと戦うべくヒスパニアに残っていたカルタゴ人部隊全軍にカルモネ市に集結して戦力を合体させるよう命じた。ここにマゴ指揮下のヒスパニア人の大部隊とマシニッサ指揮下のヌミディア人部隊がいた。ハスドルバルは歩兵を防備の施された野営地に置き、騎兵を指揮していたマシニッサとマゴはその正面に露営していた。スキピオは自らの騎兵隊を分割するとラエリウスにマゴを攻撃させ、自らはマシニッサと対決した。ヌミディア兵が矢を彼の兵に放ったためにしばしの間は戦いの先行きは不透明でスキピオにとっては厳しいものだったが、彼らは突如退却し、迂回して突撃のために反転した。しかしスキピオが兵に投げ槍を放って間断なく追撃するよう命じると、ヌミディア兵は旋回する機会を得られず野営地へと退いた。ここでスキピオは追撃を差し控え、敵から一〇スタディオンほど離れた強力な場所を選び、陣を敷いた。敵の全兵力は歩兵七〇〇〇〇人と騎兵五〇〇〇騎、戦象三六頭だった。スキピオ軍はその三分の一もいなかった。したがってしばしの間、何度かの小競り合いは例外として彼は思い切って戦うのを躊躇っていた。
26 食料が不足して飢餓が彼の軍を攻めたてると、スキピオは撤退はさもしいと考えた。したがって彼は生贄を捧げた直後に兵士たちを集まらせ、再び霊感を受けたようなそぶりをしつつ、神がいつも通りの仕方で彼に現れて敵を攻撃せよと言っており、以前の勝利は数の力ではなく神の支援によって得られたものであるために軍の規模を寄り頼むより天を寄り頼む方がよいと請け負ったとスキピオは言った。自分の言葉への信頼を掻き立てるために彼は集会に〔生贄の〕腸を持ってくるよう神官たちに命じた。話している間、彼は頭上を騒ぎながらものすごい速さで飛ぶ数羽の鳥を見た。見上げて彼はそれらを指さし、これは神々が自分に送った勝利の徴だと声高に言った。彼はそれらの行動に続き、それらを眺めて憑りつかれたかのように叫びだした。全軍はあちこちを回る彼を見ると彼の行動の真似をし、全員が勝利を思って燃え上がった。あらゆることが彼の望むようになると彼は躊躇うことなく、彼らの情熱を冷まさぬよう依然として霊感を受けているかのように叫んだ。「これらの徴は我らにすぐ戦えと言っているぞ」彼らが食事を採ると彼は武装するよう命じ、シラヌスに騎兵隊の指揮権を与え、ラエリウスとマルキウスに歩兵隊の指揮権を与えて彼ら〔の攻撃〕を予期していなかった敵へと率いていった。
27 スキピオが気付かれることなくやってくると、僅か一〇スタディオンの距離にいて兵にまだ食事を採らせていなかったハスドルバル、マゴ、そしてマシニッサは混乱と慌ただしさの真っ直中で急いで軍を出撃させた。騎兵と歩兵の両方が戦いに入ると、ローマ騎兵は以前と同じ戦術を使いつつ、旋回することで後退と前進を行うのが常だったヌミディア兵に息つく暇も与えずに敵を圧倒したため、接近のおかげで矢は役に立たなくなった。歩兵はアフリカ軍の数の多さのために酷く押されて一日中彼らに押されており、スキピオも方々で彼らを激励してはいたものの戦いの潮を食い止めることができなかった。最終的に一人の少年に馬を任せて一人の兵士から盾をひったくると、彼は「ローマ人よ、お前たちのスキピオを危機から救え」と叫びながら両軍の間の場所に一人で突っ込んだ。彼がどんな危険の中にいるのかを近くで見ていた者と遠くでこれを聞いた者は、彼らの将軍の無事に対する恥と恐怖の念で同様に突き動かされ、大声を上げながら敵に向けて猛然と突撃した。アフリカ軍はこの突撃に歯が立たなかった。その日は何も食べていなかった彼らは空腹のために力が萎え、退却した。それから短時間で恐るべき殺戮が起こった。カルモネの戦いは長らく先行き不透明だったものの、スキピオは以下のような結果をもたらした。ローマ軍は八〇〇人を、敵は一五〇〇〇人を失った。
28 この戦いの後に敵は大急ぎで退却し、スキピオは追い打ちをかけて追いつき次第被害を与えた。豊富な食料と水があってこれを囲む以上のことができなかったある砦をアフリカ軍が占拠した後、スキピオを他の仕事が呼んだ。シラヌスを包囲を行わせるために残した一方で彼自らはヒスパニアの他の地域へと向かってこれらを服属させた。シラヌスに包囲されていたアフリカ軍は持ち場を放棄し、海峡に向かってガデスに行き当たるまで再び退却した。シラヌスは与えられる限りの被害を彼らに与えると、新カルタゴのスキピオに合流した。他方でハミルカルの息子で未だ北方の大洋沿いで兵を集めていたハスドルバルは兄ハンニバルにイタリアに急行するようにと呼ばれた。スキピオを欺くために彼は北方の大洋沿いに動き、徴募したケルティベリア人傭兵と一緒にピュレネー山脈をガリアへと渡った。このようにして彼はイタリア人に気付かれることなくイタリアへと急行した。

6巻
29 今やローマから戻ってきたルキウス〔プブリウスの兄アシアティクス。〕は、ローマ人はスキピオをアフリカへと将軍として差し向けるつもりだと彼に伝えた。スキピオはしばしの間これを強く望み、状況がこのように進展することを期待していた。したがって彼はシュファクス王に贈り物をして両スキピオとの友情を思い出させ、もしローマ人がアフリカに遠征すれば彼らの側につくよう求めるべくシュファクスへの使節として五隻の船をつけてラエリウスをアフリカへと送った。彼はこれを約束し、贈り物を受領して返礼として他の贈り物をした。これに気付くと、カルタゴ人もシュファクスに同盟を求める使者を送った。これを聞いたスキピオは、シュファクスとの対カルタゴ同盟を獲得してこれを確保するのは重要案件だと判断したため、ラエリウスを連れてシュファクスと直々に面会するために二隻の船と共にアフリカへと渡った。
30 彼が沿岸に近づいていた時、すでにシュファクスと一緒にいたカルタゴの使節団がシュファクスに知らせず軍船を連れて彼に向けて出撃してきた。しかし彼は帆を広げて彼らから逃れ、港に到着した。シュファクスは双方にいい顔をしたが、スキピオと私的に同盟を結び、誓いを交わして彼を追い出した。彼はスキピオが海へとちゃんと離れていくまでの間、今一度スキピオのおかげで待たされていたカルタゴ人を引き留めていた。かくしてスキピオは退っ引きならない危機に陥った。シュファクスによって催された宴でスキピオはハスドルバル〔ギスコの息子〕と同じ長椅子に横になり、後者〔ハスドルバル〕は多くの事柄について彼に質問をして彼の真剣さに大いに感銘を受け、スキピオは戦争だけでなく宴席でも手強い相手だと自分の友人たちに後に語ったと報告されている。
31 この時、いくらかのケルティベリア人とヒスパニア人は彼らの町はすでにローマ軍の手に落ちていたにもかかわらずマゴの下でまだ傭兵として働いていた。マルキウスは彼らを攻撃して一五〇〇人を殺し、残りの者は町々に四散させた。彼はハンノが指揮する同じ軍の七〇〇騎の騎兵と六〇〇〇人の歩兵をある丘に追いつめた。彼らは空腹の極みに達するとマルキウスに協定を結ぶための使者を送った。彼はまずハンノと逃亡兵の引き渡しを述べ、それからやりとりをした。したがって彼らはハンノが彼らの将軍であり、話の内容を聞いていたにもかかわらずハンノを拘束し、逃亡兵を引き渡した。それからマルキウスは捕虜もそうするよう要求した。彼らを引き受けると彼は平地のある地点まで指定した額の金を持ってくるよう命じたが、それは高地が嘆願に適当な場所ではなかったからだ。彼らが平地に降りてくると彼は「敵と通じ、貴様らの国が我らの側を支持するようになった後にも我らと戦争を行っている貴様らは死に値する。それでも貴様らが武器を置けば、私は貴様らが害を及ぼされることなく去るのを許すつもりだ」この後に彼らは大いに怒り、武器を置かぬと声を一つにして言い放った。何度かの戦闘が起こってその中でケルティベリア兵のおよそ半分が死に、復讐をせずにはいられなかった他の半分はマゴのもとへと逃げたが、彼は少し前に六〇隻の軍船を連れてハンノの野営地に到着していた。ハンノの破滅を知ると彼はガデスへと航行して物資の欠乏に悩まされつつも事の推移を待った。
32 マゴがそこでじっとしていた間、カスタクス市の服属を受けるためにシラヌスがスキピオによって送られた。住民が彼を非友好的に扱うと、彼はその前に陣を敷いてスキピオにその事実を伝えた。後者はいくつか攻城兵器を彼に送ってそれに続く準備をしたが、イルルギア市へと攻撃の矛先を変えた。この地は老スキピオ〔アフリカヌスの父〕の時代にはローマ人の同盟者だったが彼の死後密かに寝返り、そこが友好的だと思ってそこに逃げ込んだローマ兵に宿を提供してから彼らをカルタゴ人に引き渡したことがあった。この犯罪的行為への報復のためにスキピオは四時間の間その地に怒りをぶちまけ、首を負傷していたにもかかわらず征服するまで戦いをやめなかった。彼のおかげで兵士たちは町の略奪すら忘れるほど憤慨し、誰もそのような命令を出していなかったにもかかわらず女子供を含む人を皆殺しにし、この地の全体を徹底的に破壊するまで止むところがなかった。カスタクスに到着するとスキピオは軍を三分してその市を包囲した。しかし彼は包囲を厳しくせず、住民にどのような扱いが待ち構えているのかについて報告を受ける時間を与えた〔イルルギアの惨状を聞かせることで自発的な降伏を誘発させるため〕。後者〔カスタクス人〕は真っ向から反対した守備隊を殺すとスキピオにその地を明け渡し、彼はそこに新たな守備隊を置いて町に名望高かった一人の市民の政権を敷いた。それから彼は新カルタゴへと戻り、できる限り海峡地帯を荒らさせるべくシラヌスとマルキウスを送った。
33 常に全体がカルタゴ党だったアスタパという名の町があった。マルキウスはそこを包囲し、住民はもしローマ軍に占領されれば奴隷にされてしまうと予想した。したがって彼らはアゴラに価値を有する全ての物を運んでその周りに木を積み、妻子をその山の上に行かせた。彼らは五〇人の名士に市の陥落が必定と見れば妻子を殺して山に火を放ち、自らも後を追うと宣誓させた。それから神々を彼らの行いの証人とすると、彼らは何も予想していなかったマルキウスに対して出撃した。このために彼らは遭遇した軽装兵と騎兵を軽々と蹴散らした。軍団兵と戦うと、自棄になって戦った彼らはなおもこれを打ち負かした。確実にアスタパ人は勇気では彼らに決して劣っていなかったため、ついにローマ軍は数を頼みにして彼らを圧倒した。彼らが全滅すると、後方に残った五〇人は妻子を殺して火を放ち、自らも火に飛び込んだため、敵に不毛な勝利を残すことになった。アスタパ人の勇気を称えたマルキウスは家々を分配した。

7巻
34 この後、スキピオは病に倒れて軍の指揮権はマルキウスに委ねられた。一部の兵は金を慌ただしい生活に浪費し、またある者は自分たちは何もしていないために労苦への然るべき報酬を受け取っていないがスキピオなら彼らの行為が全ての栄誉に値すると認めてくれると考え、マルキウスから離反して立ち去り、自分たちで野営地を設営した。守備隊から多くの者が彼らに与した。マゴから彼らのもとへと金を持った使者がやってきて、彼らを反乱へと唆した。彼らは金を受け取って自分たちの中から将軍たちと百人隊長を選出し、自分たちの好きなように他の手はずを整え、軍紀をしつらえて互いに誓いを交わした。これを聞くとスキピオは、自分は病気のために彼らの働きに報いることができないという旨の手紙を離反者たちに別個に送った。
彼は他の者たちに過ちを犯している同僚を試して彼らを元に戻すよう説いた。また彼は全ての兵卒に宛てた手紙を一通送り、あたかも彼らがすでに和解しているかのような調子で自分には彼らに対する彼の義務を解消する用意があるから新カルタゴに来て物資を受け取るようにと言った。
35 これらの手紙が読み上げられるとある者たちはこれを信じてはいけないと考えた。他の者はこれらの手紙に信頼を寄せた。遂に皆で新カルタゴへと向かうべきだという合意に行き着いた。彼らがやってくると、スキピオは彼に同行していた元老院議員たちに謀反の指導者が来るとあたかも友好的に諭すためであるかのように彼らのうち誰か一人を各々の客にし、速やかに彼を確保するよう申しつけた。また彼は軍団副官各々は彼の最も信頼する兵士に剣を持たせて待機させ、夜明け前に集会の周りの都合の良い空いた所に彼らを配置し、何か騒動が起これば命令を待たずにすぐさま武器を抜いて殺すよう命じた。夜明けが間近になるとスキピオは法廷へと赴き、彼は会議の席に兵士たちを召還すべく使者たちを方々に放った。彼らにとってその呼び出しは予期せぬもので、彼らは病気の将軍を待たせておくのを恥じた。自分たちが呼ばれたのは褒美を貰うためだと彼らは考えてもいた。かくしてある者は剣を持たず、他の者は急いでいたために着物を全部着る時間がなかったために下着だけを身につけてといった具合で彼らは方々からこぞって走って来た。
36 周りには一人の護衛も見あたらないスキピオはまず彼らの悪事を咎めた。彼が言うには、「とはいえ、責任は陰謀の首謀者らにのみ存するわけであり、私は彼らを君たちの助けのもとで罰したく思う」ほとんどこのことを言わないうちに彼は先導警吏らに群衆を二つに分けるよう命じ、彼らがそうすると元老院議員たちは集会の真ん中に罪科の首謀者らを引っ張っていった。彼らが泣き叫んで仲間たちに助けを求めると、その口を開いた者は軍団副官らに殺されることとなった。残りの群衆は集会が武装した兵に取り囲まれているのを見て取ると、陰鬱な沈黙を守ることと相成った。そこでスキピオは真ん中の場所に引っ張られた悪人たちを杖で叩かせて助けを求めた者は一番酷く叩かれ、その後に彼は彼らの首を地面から突き出た柱に縛り付けて両手を切るよう命じた。伝令たちは残りの者たちに容赦の旨をふれ回った。スキピオの野営地での謀反の顛末はこのようなものだった。
37 ローマ軍内で反乱が起こっていた間、かつてスキピオと協定を結びに来ていた酋長の一人、インディビリスなる者はスキピオの同盟者の領地へと侵攻した。スキピオが彼に向けて進撃すると非常に激しい戦いが起こってローマ軍は一二〇〇人ほどが殺されたが、彼は二〇〇〇〇人の兵を失ったために和平を求めた。スキピオは彼に罰金を科して彼と協定を結んだ。またこの時にハスドルバルに知られることなくマシニッサが海峡を越えてきてスキピオと友好関係を樹立し、もし戦争がアフリカに飛び火してくれば彼の味方になると誓った。この男はどんな状況にあっても忠実であり続けたのは以下のような理由からだった。彼がハスドルバル〔ハンニバルの弟ではない方のハスドルバル〕の指揮下で戦っていた頃にハスドルバルの娘は彼と婚約していた。しかしシュファクス王が同じ少女を夢中になって愛しており、カルタゴ人はシュファクスを対ローマ戦で味方として確保するのが重要案件だと考えてハスドルバルに諮ることなく彼女を彼に与えた。後者〔ハスドルバル〕はこれを聞くと、マシニッサを思んぱかって彼にそのことを伏せておいた。その事実を知るとマシニッサはスキピオと同盟を結んだ。マゴ提督はヒスパニアでのカルタゴの勝利を絶望視したため、傭兵を募るためにリグリア人とガリア人の土地へと航行した。彼がこの仕事で留守にしていた間、彼が放棄したガデスをローマ軍が奪取した。
38 第一四四回オリュンピア紀〔第一四四回オリュンピア紀は204年から207年まで。〕の少し前のこの頃から被征服民族の支配者兼監督者として法務官たちが平和を維持するために毎年ヒスパニアに送られ始めた。スキピオは平和を樹立するのに適当なだけの小部隊を彼らに残し、自らの病気と兵の負傷を彼がイタリアにちなんで名付けたイタリカという町で治したが、ここは後のローマ皇帝トラヤヌスとハドリアヌスの生地である。スキピオ自身は見事にあつらえられ、捕虜とお金と武器とあらゆる戦利品を載せた大艦隊でローマへと航行した。市は彼に栄誉ある歓迎をし、彼の若さと偉業の迅速さと偉大さのために彼に前代未聞の貴い栄誉を与えた。彼を嫉視していた人たちですら彼がかなり前に切った大見得が事実となったことを認めた。そして全ての人からの称賛を受けたために彼は凱旋式の栄誉で称えられた。スキピオがヒスパニアを去ってすぐにインディビリスが再び背いた。ヒスパニアの将軍たちは守備隊と従属部族から集められるだけの軍勢を集めると、彼を破って殺した。反乱を煽った罪があった者たちは裁判にかけられ、財産没収と死罪で罰せられた。インディビリスに味方した諸部族は罰金を貸せられて武器を没収され、人質の供出を求められ、より強力な守備隊が置かれた。以上がスキピオの出発直後に起こったことである。かくしてヒスパニアでローマ人によって行われた最初の戦争は終結したわけである。

8巻
39 それからローマ人がパドゥス川でガリア人との戦争、マケドニアのフィリッポスとの戦争〔第二次マケドニア戦争〕に突入すると、ローマ人は今や自分から注意をまったく逸らしてしまっていると考えたヒスパニア人はもう一つの革命〔第一次ケルティベリア戦争〕を試みた。センプロニウス・トゥディタヌス〔ガイウス・センプロニウス・トゥディタヌス。ヘルウィウスと共に197年の法務官だった。〕とマルクス・ヘルウィウスが、彼らの後にミヌキウス〔クイントゥス・ミヌキウス・テルムス。紀元前196年の法務官。〕がヒスパニア人に対してローマから将軍として送られた。争乱がより大事になるとより多くの軍と一緒にカトーが追加で送られた。彼はまだ非常に年若く、厳格で勤勉でしっかりした理解力を持ち、デモステネスこそギリシア最大の弁論家であると知られていたため、ローマ人がその演説のためにデモステネスと呼ぶほど見事な雄弁家だった。
40 カトーがヒスパニアのエンポリアと呼ばれる地に到着すると、敵は全域から数にして四〇〇〇〇の兵を彼に対して集結させた。彼は軍の訓練を手短にした。戦いのために送られると、彼は手持ちの船団をマッシリアへと送り出した。それから彼は兵士たちに勇気は常に数を凌駕するので敵の数的優位も自分たちに船がないこともあまり恐れるなと、そして敵を打倒しなければ安全を得られないぞと述べた。これらの言葉でもって彼は他の将軍なら希望によってするところを恐怖によって軍を鼓舞し、戦いを命じた。しかし戦いが起こると彼は部隊を激励したり鼓舞したりしてあちこち駆け回った。戦いの行く末が分からないまますでに夜になって双方で多くの者が倒れていた時、彼は予備隊の三個大隊を連れて戦場全体を眺めることができる小高い丘に登った。自軍の戦列の中央が酷く押されているのを見ると彼は救援に急行し、自らを危険に晒して突撃と投擲〔おそらく投げ槍の〕で敵の隊列を突破し、これが勝利の端緒となった。彼は夜を徹して敵を追撃し、野営地を鹵獲して夥しい数の敵を殺した。彼が帰ってくると兵たちは彼を勝利の立役者だと讃えて抱擁した。この後、彼は軍に休息を与えて略奪品を売却した。
41 さて彼は方々からやってきた使節団に人質を要求した。それぞれの町に彼は封を施した手紙を送り、一番遠い町に届くだけの日数を計算して割り出して運び人たちに全員が同じ日に一挙に手紙を届くようにした。その手紙で全ての町の行政官は城壁を命令を受けた当日に破壊するよう指示されていた。彼はもし遅延があれば奴隷として売り払ってると脅した。ついい最近大会戦で破れていて、この命令が自分たちだけか全ての町に送られたのか分からず、もし自分たちだけに向けられたものならば自分たちだけが弱虫だとして侮蔑の対象になるだろうと感じつつ、他の町もそうだとすれば自分たちだけが遅れるわけにはいかないと恐れ、彼らは非常に困惑した。そのようなわけで彼らには互いにやりとりをする暇がなかったこともあり、手紙を運んできた役人たちは彼らに従うことを迫ったのでそれぞれの町は己の安全を図って彼らはそのようにすることを決定した。かくしてひとたび従うことを決定するや彼らは一番早く作業をした者が最大の好意を得られると考えたため、城壁を大急ぎで破壊した。したがってイベルス川沿いの町々は一日で、将軍の一働きによって実行して城壁をならした。その後ローマ人に抵抗できなくなった分だけ彼らはより長い平和を維持した。
42 四期のオリュンピア紀の後、つまり第一五〇期オリュンピア紀頃〔紀元前181年。〕、不十分な土地しか持っていなかったイベルス川沿いに住むルソネス族と他の部族を含む多くのヒスパニア諸族がローマの支配に反旗を翻した〔第一次ケルティベリア戦争。〕。彼らは執政官のフルウィウス・フラックス〔クイントゥス・フルウィウス・フラックス。182年に法務官に選出されてヒスパニアに赴いた。〕に戦いで破れたため、その大部分が町々に散り散りになった。土地を持たず流浪生活を送っていた残りの者たちはコンプレガに集い、この都市は新たに建設されて要塞化されたもので、瞬く間に成長を遂げた。この地から出撃した彼らはフラックスに対して最近の戦争での死者への賠償として袖なし外套と馬と一振りの剣を一人一人に寄越し、彼自身はヒスパニアを立ち去ってこの結果を受け入れるよう要求した。フラックスは、自分はたっぷりと外套を送ると応答し、彼らの使者のすぐ後についていってその都市の前に野営した。脅迫をするどころではなくなったために彼らは途上で近隣の夷狄に略奪を働きながら急いで逃げた。この人たちは軍隊用外套でやるような仕方で留め金を使って留めた厚手の二重の上着を着ており、彼らはこれをサグムと呼んでいた。
43 フラックスの指揮権はティベリウス・センプロニウス・グラックス〔紀元前180年に法務官に選出されてヒスパニアに赴いた。有名なグラックス兄弟の父。〕が引き継ぎ、ローマと同盟を結んでいたカラウィス市がその時に二〇〇〇〇人のケルティベリア軍に包囲された。その地が陥落しようとしているとの報告を受けるとグラックスは囲いを解くべく急行した。彼は包囲軍を取り囲みはしたが、自分が近くにいることを町に連絡する手立てがなかった。騎兵長官のコミニウスは用心深くその問題を検討してグラックスに自分の計画を伝えると、ヒスパニア風のサグムを着て密かに敵の食料調達隊に紛れ込んだ。こうして彼はヒスパニア兵として敵の野営地に侵入し、カラウィスまで抜けてそこの人々にグラックスの到来を話した。このために彼らは包囲を苦心しつつも耐え抜き、グラックスが三日後に到着して包囲軍が逃げ去ったために救出された。およそ同じ頃、二〇〇〇〇人を数えるまでになっていたコンプレガの住民はオリーブの枝を持って申立人を装いグラックスの野営地に赴き、到着するとローマ軍に出し抜けに攻撃をかけて大混乱に陥れた。グラックスは巧妙に彼らに野営地を明け渡し、逃げるふりをした。それから急に向きを変えて略奪を働いていた彼らに襲いかかり、その大部分を殺してコンプレガと近隣地域を占領した。それから彼は土地を貧乏人に分配してそこに住まわせ、注意深く規定された協定を全ての部族と結んで彼らをローマ人の友人とし、その発効のための誓いを交わし合った。これらの協定はしばしばその後の戦争で望まれることになった。このようにしてグラックスはヒスパニアとローマの両方で褒め称えられ、見事な凱旋式で讃えられた。

9巻
44 数年後、以下のような理由で今一度重大な戦争がヒスパニアで起こった〔紀元前154年。第二次ケルティベリア戦争。〕。ベリ族というケルティベリアの一部族の大きくて有力な都市だったセゲダはグラックスによって定められた協定に含まれていた。セゲタはより小さい町のいくつか〔の人々〕に自領の境界内に移り住むよう説得し、それから周囲四〇スタディオンの城壁で囲ませた。セゲタは隣接する部族のティティ族にその計画に加わるよう強いた。これを知ると元老院は、城壁の建設を禁止し、グラックスによって課された貢納を要求し、ローマ軍への派遣部隊がグラックスによって定められた協定の条項の一つであることから住民に兵を寄越すよう命じた。城壁についてケルティベリア人はグラックスによって新たな都市に建設するのを禁じられているが既存の都市を要塞化するのは禁じられていないとベリ族は答えた。貢納と軍事上の派遣部隊については、自分たちは後になってローマ人自身によってその要求を免除されたと彼らは言った。これは真実だったが、こういった例外措置を認める時の元老院は、それはローマの人々が望む限りにおいてのみ続けるものとすると付加するのが常だった。
45 したがって法務官ノビリオル〔クィントゥス・フルウィウス・ノビリオル。この時の肩書は法務官ではなく執政官(153年度)。〕が三〇〇〇〇人近くの軍と一緒に彼らへと差し向けられた。これを知ったセゲダ人は、城壁が未完成だったので、妻子を連れてアレウァキ族のところに逃げ、受け入れを請願した。アレウァキ族はそのようにし、また彼らが戦争に巧妙だと考えていたカルスというセゲダ人を将軍に選出した。選出から三日後に彼は歩兵二〇〇〇〇人と騎兵五〇〇騎を深い森に伏せ、そこを通ったローマ軍に襲いかかった。戦いの帰趨は長い間はっきりしなかったが、ついに彼はローマ市民六〇〇〇人を殺すという見事な勝利を得た。しかし彼が勝利の後に隊伍を崩して戦っていたところ、荷を守っていたローマ騎兵がカルスその人に襲いかかり、彼は驚くべき勇気を発揮したが殺され、彼らは彼共々他に六〇〇〇人を下らない敵を殺した。ついに夜が戦いを終わらせるに至った。この厄災はローマ人がウルカヌスの祭を祝う習わしにしていた日〔153年8月23日。〕に起こったものだった。このために今後はどの将軍も已むに已まれぬ限りはこの日に戦うことはなくなった。
46 夜ではあったがすぐにアレウァキ族は非常に強勢な都市だったヌマンティアに集まり、アンボとレウコを将軍に選んだ。三日後にノビリオルは進軍してその地から二四スタディオンのところに陣を張った。ここで彼はマシニッサによって彼に送られていた三〇〇騎の騎兵と一〇頭の象と合流した。敵に向けて動いた際に彼はこれらの動物を〔敵から〕見えない後衛に配置した。それから戦いが始まると、軍は分かれて象が見えるようにした。象を見たことがなかったケルティベリア兵と彼らの騎兵は肝を潰してその都市へと逃げた。ノビリオルはすぐさま市の城壁に向けて前進してそこで激しい戦いが起こったが、それは一頭の象が落ちてきた大きな石で頭を打たれるまでのことで、この時にこの象は暴れ出して大声を上げ、仲間の方に逆走し、敵味方お構いなしに進路上の全てのものを壊し始めた。他の象たちはこの象の鳴き声で興奮し、全部が同じ行動を取ってローマ兵を足下に踏みつけ、散り散りになって彼らをそこいらに投げつけた。怒った象はいつもこのようにするものである。それから象たちは誰も彼も敵と勘違いするものであり、このために幾らかの人たちは象を持ち前の気まぐれさのために共通の敵と呼んでいる。ローマ軍は潰走に転じた。ヌマンティア軍はこれを知ると出撃して追撃を行い、およそ四〇〇〇人の兵と三頭の象を殺した。彼らは多くの武器と軍旗も鹵獲した。ケルティベリア軍の損害はおよそ二〇〇〇人だった。
47 ノビリオルはこの災難から立ち直ると、アクシニウムの町にある敵が集めた貯蔵品保管所に攻撃をかけたが、何ら成すところがなくそこで多くの兵を失って野営地へと夜に戻った。そこで彼は近隣部族との同盟を確保して騎兵の増援を要請すべく騎兵隊長のビエシウスを送った。彼らは彼に幾ばくかの騎兵を寄越し、彼らを連れて戻ってくるところの彼にケルティベリア人は待ち伏せ攻撃を仕掛けた。待ち伏せ部隊が露わになると、同盟軍は逃げたが、ビエシウスは敵と戦って多くの兵共々殺された。ローマ人に続けざまに起こった災難の影響で、ローマ軍の物資と資金が保管されていたオキリスの町がケルティベリア人に寝返った。そこでノビリオルは落胆しつつ野営地での越冬に入り、できる限り我が身の守りを固めた。〔物資は〕野営地内にあった分しかなく、豪雪と激しい霜のおかげで彼は物資の欠乏に陥ったため、彼の兵の多くが外に木を集める最中に死に、他の者は押し込められたことと寒さの犠牲になって中で死んだ。
48 翌年〔紀元前152年。〕にクラウディウス・マルケルス〔マルクス・クラウディウス・マルケルス。紀元前152年の執政官。なお第二次ポエニ戦争で活躍し、その敢闘精神から「ローマの剣」と称された同名人物の孫でもある。〕がノビリオルから指揮権を継承し、八〇〇〇人の歩兵と五〇〇騎の騎兵を連れてきた。敵は彼にも伏撃を仕掛けたが、彼は用心深く動いてオキリスの前に全軍で陣を張った。彼は戦争での幸運で評判だったため、直ちに〔停戦協定の〕条項〔交渉〕の場を開き、人質の差し出しと銀三〇タラントンの罰金支払いによる放免を認めた。ネルゴブリガ人は彼の穏健さを聞き知ると手紙を送って和平に応じるには何をしたら良いかと尋ねた。返信の中で彼は補助部隊として一〇〇騎の騎兵を提供するよう命じたが、その間に彼らはローマ軍の殿に攻撃をかけて大量の輜重物資を運び去った。協定に従って到着した一〇〇騎の騎兵部隊の隊長たちは殿への攻撃について取り調べを受けると、これは合意について知らない一部の人たちの仕業だと応答した。そこでマルケルスは一〇〇人の騎兵を拘束して馬を売り払い、その地方を荒らし回って略奪品を兵士に分配し、都市を包囲した。ネルゴブリガ人は攻城兵器が前進してきて城壁の前に堡塁が作られたのを見ると、メルクリウスの杖を持つ代わりに狼の皮を被った伝令を送り、許しを請うた。マルケルスはアレウァキ族、ベリ族、そしてティティ族も一緒にそうしない限りは許しを与えるつもりはないと答えた。これらの部族はこれを聞くとしきりに使節を送り、軽い罰で済ましてグラックスと結んだ協定の条件を更新してくれるようマルケルスに請い願った。この請願は彼らによって戦争へと駆り立てられたいくつかの地方の人たちによる反対を受けた。
49 マルケルスは彼らの論議をローマへと持ち帰るためにそれぞれの党派から成る使節団をそちらへと送った。同時に彼は元老院に宛てて和平を求める私信を送った。彼は戦争が自分の手で終結することを望んでおり、これによって自分に栄光が得られると考えていた。その都市に来ると友好派の使節団の一部は客人として歓待を受けたが、逆に敵対派の使節団は城壁の外に泊まることになった。元老院はマルケルスの前任者のノビリオルによって提案された時にこれらの人々が協定をローマ人に対して拒絶したことに腹を立てており、彼らは和平の提案を拒絶した。彼らはこうしておけばマルケルスが元老院の決定を彼らに通達するはずだと答えた。この時、初めて彼らはヒスパニア担当軍を通常の徴兵の代わりに籤引きで選んだわけであるが、それは多くの人が入隊に関して執政官によって不公平に扱われていた一方で他の人たちが簡単な仕事に選ばれたのだと不平を持っていたからで、この時に籤での選出が決められたのはこういう事情があった。執政官リキニウス・ルクルス〔ルキウス・リキニウス・ルクルス。紀元前151年の執政官。ちなみに第三次ミトリダテス戦争で活躍した同名人物の祖父。〕が指揮権を委ねられ、そう遠からぬうちにカルタゴとヌマンティアの征服者として有名になったコルネリウス・スキピオ〔プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌス。第三次ポエニ戦争で紀元前148年にカルタゴを滅ぼしたいわゆる小スキピオ。〕を副官とした。
50 ルクルスが向かっていた間にマルケルスはケルティベリア人に来たるべき戦争を通知し、彼らの要望に則って人質を返した。それから彼はローマにいたケルティベリア使節団の団長に手紙を送り、私的に長々と会談した。こうした状況から彼は自分の手で事態を収拾しようとして彼らを説得しているのではないかと疑われて後の諸々の出来事によって強く裏付けられたのであるが、それは彼が手を尽くしてルクルス到着より前に戦争を終わらせようと試みていたからだ。この会談の直後に五〇〇〇人のアレウァキ勢がネルゴブリガ市を奪取した。マルケルスがヌマンティアへ向けて進軍してそこから五スタディオンの距離の所に陣を張り、ヌマンティア軍を城壁の中へ向けて追いやっていたところ、彼らの指導者リテンノは停止し、自分はマルケルスとの会談を望むと呼びかけた。これが認められると、ベリ族、ティティ族、そしてアレウァキ族は彼に全面的に投降するつもりだと彼は言った。彼はこれを聞くと喜び、人質と金を要求して受け取ると、彼らを解放した。したがってベリ族、ティティ族、そしてアレウァキ族との戦争はルクルスが到着する前に終わった。
51 ルクルスは名声に貪欲で、金銭の窮乏のために金を必要としていたため、もう一つのケルティベリア人の部族でアレウァキ人の隣人だったウァッカエイ族の領地に侵攻したが、彼らに対する戦争は元老院によって宣戦されたものではなかった。彼らはローマ人への攻撃すらしていなかったし、ルクルスの機嫌を害したというわけでもなかった。タグス川を渡ると彼はカウカ市まで来て、その近くで野営した。市民たちが彼に何のために来たのか、戦争のきっかけとは何なのかを尋ねると、彼はウァッカエイ族が危害を加えていたカルペタニ族を援助するために来たのだと答え、彼らは城壁内へと退却してそこから出撃しては木々を伐採していた者と食料を探していた者を襲い、多くの者を殺して残余は野営地まで追撃した。戦いが起こると、軽装兵を集めたカウカ人が当初は優位に立ったが、彼らは全部の矢を使い果たすと、踏み止まって戦うのに慣れていなかったために逃亡を余儀なくされ、その間に門までの経路でおよそ三〇〇〇人が殺された。
52 次の日に市の長老たちが頭に冠をつけオリーブの枝を持ちながら出てきてルクルスにい友好関係の樹立を願い出た。彼は彼らに対して人質と一〇〇タラントンの銀を差し出してローマ軍に騎兵隊を提供せよと答えた。これら全ての要求が受け入れられると彼はローマ軍の市への駐留を認めよと迫った。カウカエイ人がこれに同意すると彼は二〇〇〇人の兵を注意深く選び、迎え入れられると城壁を占拠せよとの命令を彼らに与えた。これがなされると、ルクルスは残りの軍を突入させ、ラッパの音でカウカエイ人の成人男子を皆殺しにせよと命じた。後者は約束と誓約を司る神々に呼びかけてローマ人の背信を咎めながら惨殺され、二〇〇〇〇人のうち逃げおおせたのは門の切り立った城壁から飛び降りた僅かな者だけだった。ルクルスはその都市を略奪してローマ人の名に泥を塗った。残余の夷狄は原野から集結して近づきがたい岩地や最も強固に守られた町々に逃げ込み、持ち出せる物は持ち出して放棄せざるを得ない物を燃やしていたため、ルクルスは略奪品を見つけられなかった。
53 後者〔ルクルス〕は広大な荒れ地を踏破してインテルカティア市に来たが、そこには二〇〇〇〇人以上の歩兵と二〇〇〇騎以上の騎兵が避難していた。実に愚かなことにルクルスは彼らに協定を結ぶよう求めた。彼らはカウカ人虐殺の件で彼を難詰し、彼がその人たちに与えたのと同じ誓約をするつもりなのかと問い質した。全ての罪深い魂と同じように彼もまた自らを難じる代わりに自分への批判者に腹を立てたため、彼らの田畑を荒らした。それから彼は市をぐるりと包囲し、いくつか堡塁を作り、軍を戦闘隊形にして繰り返し戦った。敵は応戦せずに飛び道具だけで戦った。見事な鎧で有名だった一人の夷狄がおり、彼は両軍の間を頻繁に馬で駆けてローマ軍に一騎打ちを挑み、誰もその挑戦に応じないと彼らを冷やかし、身振りで嘲りながら戻っていった。彼がこれを何度かした後にまだ若者だったスキピオが大いに怒って飛び出し、その挑戦を受けた。彼は小柄だったにもかかわらず好運にもこの巨人に勝利した。
54 この勝利はローマ人の士気を上げたが、次の夜に彼らは恐慌状態に陥った。ルクルスが来る前に食料を探しに出ていた敵の騎兵部隊が戻ってきたが、包囲軍に囲まれていたためにその都市への入り口が見つからなかった。彼らが大声を出して騒ぎながら周りを回ると城壁内の者が返事を返した。これらの騒音はローマ軍の野営地を恐怖に陥れた。ローマ兵たちは睡眠不足とその土地が産する慣れない食事で病気になっていた。彼らには葡萄酒も塩も酢も油もなく、小麦と大麦、塩を使わずに茹でた鹿とウサギの肉で生活し、そのおかげで赤痢になって多くの死者を出した。ついに一つの堡塁が完成したために彼らは敵の城壁を打ち壊すことができるようになり、彼らはその部分を破壊して市内に突入したが、すぐに圧倒された。彼らは退却を強いられ、地形に明るくなかったために貯水池に落ちて多数の死者が出た。続く夜に夷狄は壊された城壁を修繕した。今や双方が(飢餓が双方につきまとっていたからだ)酷く打ちのめされていたので、協定を結ぶのであれば侵害を行わないとスキピオは夷狄に約束した。彼らは彼の言葉を大いに信じたために以下の条件で終戦した。インテルカティア人はルクルスに外套一〇〇〇〇着、所定の数の牛、五〇人の人質を渡す。ルクルスが狙っていた金銀に関していえば(全ヒスパニアが金銀で充ちていると思ってこのためにこの戦争を起こした)彼は何一つとして手に入れられなかった。ケルティベリア人たちはそんなものを持っていなかったばかりか、これらの金属に価値を見出してすらいなかった。
55 次に彼らは勇気の点でより名高かったパランティアへと向かい、そこには多くの難民が集まっていたために彼は何も手を講じることなく通り過ぎるようにと何人かの者から忠告を受けていた。しかしそこが豊かな都市だと聞くと、彼はパランティアの騎兵による食料調達部隊への絶えざる襲撃で食料調達が妨げられるようになるまで去ろうとしなかった。食糧が尽きるとルクルスは四角い行軍隊形で軍を引かせ、ドゥリウス川〔イベリア半島北部を東西に流れる今日のドゥエロ川。〕あたりまでパランティア人の追撃を受けた。ルクルスはトゥルディタニ族の領地を通過して越冬地に向かった。ローマ人の許可なく行われルクルスによって行われたウァッカエイ族との戦争はこのようにして終わったが、彼がその件を説明するために召喚されることはなかった。

10巻
56 この時〔紀元前155年。〕にヒスパニアのルシタニアと呼ばれるもう一つの自治権を持っていた地方がプニクスを指導者としてローマの従属民の土地で略奪を働いて法務官たち(最初はマニリウス、次いでカルプルニウス・ピソ〔マニウス・マニリウスは紀元前155年の法務官として、ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニウスは紀元前154年の法務官としてヒスパニア・ウルテリオルの総督を務めた。〕)を敗走させ、財務官テレンティウス・ウァロを含む六〇〇〇人のローマ兵を殺した。この成功で意気が上がったプニクスは大洋までの地方を席巻し、ウェトネス族を自軍に加えてローマに従属していたブラストフォエニカエ人に包囲攻撃を仕掛けた。カルタゴ人ハンニバルがそこの民のもとにアフリカからの移住者〔フェニキア人〕を連れてきたことにその名が由来すると言われている。プニクスはここで石で頭を打たれて殺された〔紀元前153年。〕。彼の後を継いだのはカエサルスという名の男だった。後者はもう一つの軍をローマから連れてきたムンミウス〔紀元前153年の法務官ルキウス・ムンミウス。〕と戦って敗れて敗走したが、ムンミウスが隊伍を乱して彼を追撃するとこれに反撃を加えておよそ九〇〇〇人のローマ兵を殺し、ローマ軍が彼から分捕った略奪品と自軍の陣営を取り戻し、さらにローマ軍の野営地も多くの武器と諸々の軍旗もろとも奪取し、その軍旗を愚弄しつつケルティベリア全土を引き回した。
57 ムンミウスは残余の兵五〇〇〇人を連れ、彼らが勇気を取り戻すまでは平地に進出させないようにしつつ野営地で彼らに訓練を施した。彼が好機を見計らっていた時、夷狄が分捕った戦利品の一部を運びつつ近くを通過した。彼は彼らに出し抜けに襲いかかって多数を殺して略奪品と諸々の軍旗を奪い返した。ローマ人への憤懣から、タグス川のもう一方の岸にいたカウケヌス率いるルシタニア人の一派は、ローマ人に従属していたクネイ族〔キュネテス族ないしコニイ族と呼ばれることも。〕に攻めかかり、ヘラクレスの柱の近くにあったコニストルギスという彼らの大きな都市を占領して海峡を渡った。彼らの一部がアフリカのその地方に雪崩れ込んだ一方で他の者たちはオキレ市の包囲に取りかかった。ムンミウスは九〇〇〇人の歩兵と五〇〇騎の騎兵を連れて彼らを追い、略奪を働いていたおよそ一五〇〇〇人とその他の僅かな敵を殺し、オキレの包囲を解いた。戦利品を運んでいた部隊と遭遇すると彼はこれを皆殺しにしたため、この災難の知らせを持ち帰る者は残らなかった。彼は運搬できる戦利品の全てを兵に分配した。残りは戦争の神々に奉納して焼き払った。それらの成果を成し遂げると、ムンミウスはローマに戻って凱旋式で報いられた。
58 彼の指揮権を継承したマルクス・アティリウス〔マルクス・アティリウス・セラヌス。紀元前152年の法務官。〕はルシタニア人のもとに攻め込んでおよそ七〇〇人を殺してオクストラカエという最大の都市を攻め取った。これに恐怖した近隣諸部族全てが降伏した。その中にはルシタニア人に隣接する部族のウェトネス族である一部もいた。しかし彼が越冬地へと去ると、彼ら全部が蜂起してローマの従属民の一部を包囲した。アティリウスの後任のセルウィウス・ガルバ〔セルウィウス・スルピキウス・ガルバ。紀元前151年の法務官。〕は彼らの解放を急いだ。五〇〇スタディオンを一昼夜かけて踏破すると、彼はルシタニア人と相まみえ、疲労した配下の軍を直ちに戦いへと振り向けた。好運にも彼は敵の戦列を突破したが、無思慮にも彼は逃亡兵に追いすがり、追撃は兵の疲労のおかげで弱々しく乱雑になった。夷狄は彼らが散り散りになっているのに気付いて反転して一時停止すると、再集結して彼らに襲いかかり、およそ七〇〇〇人を殺した。ガルバは同行していた騎兵隊と共にカルモネ市へと逃げた。その地で彼は逃亡兵を受け入れ、二〇〇〇〇人に上る同盟軍集めると、クネイ族の領地へと向かい、コニストルギスで越冬した。
59 ウァッカエイ族と許可なしに戦争をしたルクルスがトゥルディタニアで越冬していた。ルシタニア人が彼の近隣に攻め込んだのを知ると彼は最良の軍団副官らの一部を送り、およそ四〇〇〇人のルシタニア兵を殺した。彼は他にガデス近くで海峡を渡ろうとしていた一五〇〇人を殺した。生き残りはある丘に逃げ込んで塁壁の線をめぐらしたが、彼らの多くは捕らえられた。それから彼はルシタニアに攻め込んで徐々にそこの人口を減らしていった。ガルバも他の地方で同じことをした。彼らの使節団が彼のもとにやって来て彼の前任で指揮を執ったアティリウスの結んだ協定の更新を求めると、彼らがこの協定を破っていたにもかかわらず彼は彼らを好意的に受け入れ、休戦して彼らに同情的なふりをしたわけであるが、それは彼らが貧乏から強奪を働き、戦争を起こし、約束を破るようへと追いやられたからだった。彼が言うに「もちろんだとも。諸君は痩せた土地と貧困のおかげでそんなことをするよう追いやられたというわけだ。もし諸君が友好的であろうと望めば、私は諸君の中の貧しい人たちに良い土地を与え、その沃土に三分して住まわせるつもりだ」
60 これらの約束に欺かれた彼らは居住地を去ってガルバが指定した土地に来た。彼は彼らを三分し、それぞれの集団にある平地を示すと、彼が土地を割り当てるまではこの開けた地方に留まるよう指示した。それから彼は最初の集団のもとに来て友人として武器を置くよう話した。彼らがそうすると、彼は彼らを壕で囲んで剣を持った兵士を差し向け、大声で叫んで神々の名と信義に嘆願していた彼らを皆殺しにした。似たようにして彼は第二と第三の集団のもとへと急ぎ向かい、最初の集団の運命をまだ知らない彼らを滅ぼした。こうして彼はローマ人に相応しからぬ仕方で夷狄の真似をして裏切りに対して裏切りで以て報復を行った。逃れたのは僅かで、その中にはウィリアトゥスがおり、彼は遠からぬうちにルシタニア人の指導者となって多くのローマ兵を殺し、私が後に述べるようにこの上なく偉大な業績を挙げた。ガルバはルクルスに輪をかけた強突く張りだったため、すでにローマでは最も金持ちだった者の一人だったにもかかわらず軍と友人たちには僅かな略奪品しか分配せず、残りは自分のものにした。平時ですら彼は利得を得るためならば嘘と偽証を躊躇わなかったと言われている。広範に嫌われていてその非道さのために訴えられていたにもかかわらず、彼は自分の富を使って罰を逃れていた。

11巻
61 そう遠からぬうちにルクルスとガルバの悪逆を逃れた者一〇〇〇〇人が集結し、トゥルディタニアを占拠した。ガイウス・ウェティリウス〔紀元前147年の法務官。〕が彼らに向けて進軍してきたが、彼はローマから新手の軍を連れてきてヒスパニアにすでにいた軍もいたため、およそ一〇〇〇〇人を率いていた。彼は食料調達部隊を襲ってその多くを殺し、留まれば飢餓の危険があり、出てもローマ軍の手に落ちるような場所へと生き残りを追いやった。このような苦境に陥ると彼らはウェティリウスにオリーブの枝〔和平を求める使者の証〕を持った使者を送って居住のための土地を求め、その時からは全ての事柄でローマ人に従うことに合意した。彼は彼らに土地をやると約束して合意はほとんど実行されかけたが、その時にガルバの裏切り行為から逃れてきて彼らのもとに身を寄せていたウィリアトゥスがローマ人の不実を彼らに思い出させ、後者〔ローマ人〕がいかにしばしば彼らへの誓約を反故にしたのか、この全軍がガルバとルクルスの偽証から逃れてきた者たちから構成されていることを述べ立てた。もし彼らが自分のいうことに従えば、この地から彼らを無事退却させてみせようと彼は言った。
62 彼に新たな希望を吹き込まれ、これを掻き立てられた彼らは彼を自分たちの指導者に選んだ。彼はあたかも戦うつもりであるかのように彼らに戦闘隊形を取らせたが、自分が馬に乗ると方々に散開してトリボラ市へと難路を通って向かい、そこで自分を待っているよう彼らに命じていた。彼は一〇〇〇人のみを選んで自分に同行するよう指示した。これらの取り決めは実行に移され、ウィリアトゥスが馬に乗ると彼ら皆はすぐに逃げ、ウェティリウスはあまりにも多くの方向に散った彼らを追跡するのを案じたが、そこに踏み止まって一見して攻撃の機会をうかがっていたウィリアトゥスに向きを転じ、彼と戦った。非常に素早い騎兵隊を率いていた後者は攻撃をかけては退き、再び立ち止まってはまた攻撃をかけるという形でローマ軍を翻弄し、これに一日を費やし、翌日にも同じ平原を駆け回った。他の者がうまく逃げ仰せた頃合いだと推測するやすぐに彼は夜に遠回りの道を使って去り、自らの駿馬に跨がってトリボラに到着したが、ローマ軍は鎧が重くその道に不案内で、騎兵戦力の劣勢のおまげで同じ速さで彼に追いすがることができなかった。かくしてウィリアトゥスは予期せぬ仕方で自らの軍勢を絶望的な状況から救い出した。この偉業は周辺の様々な部族の知るところとなり様々な地方から彼に名声と多くの増援をもたらし、このおかげで彼はローマ人と八年もの間戦い続けることができた。
63 ここでの私の狙いはローマ人を甚だしく苦しめて彼らからあまりにも惨い扱いを受けたウィリアトゥスと一緒にこの戦争について語り、この時代にヒスパニアで起こった他の出来事を取り上げることである。ウェティリウスはトリボラまで彼を追った。ウィリアトゥスは木の深い藪でまず待ち伏せをしてウェティリウスがその場所を通過するまで隠れ、彼が曲がると待ち伏せ地点から飛び出た。彼らは方々でローマ人を殺して断崖へと追い詰め、捕虜に取り始めた。ウェティリウスその人も捕らえられ、彼を捕らえた兵は彼がそうだと知らず、年老いて太っていた彼を見て、価値がないと思って殺した。沿岸にあり、一五〇年生きていたと言われているアルガントニウス王が支配していたカルペッスス市まで一〇〇〇〇人のローマ兵のうち六〇〇〇人が苦労しつつたどり着いたわけであるが、そこは以前にはギリシア人からタルテッソス呼ばれていた都市だと私には思われる。カルペッススまで逃げた兵はウェティリウスに同行していた財務官によって町の城壁に配置され、気を挫かれた。ベリ族とティティ族に要請して彼らから五〇〇〇人の同盟軍を得ると、彼は彼らをウィリアトゥスに差し向けたが、ウィリアトゥスはこれを皆殺しにしたため、この話を持ち帰る者はいなかった。その後に財務官はローマからの救援を待ちつつその町で大人しくした。
64 ウィリアトゥスは豊かなカルペタニア地方へと妨害を受けることなく進出し、ガイウス・プラウティウス〔ガイウス・プラウティウス・ヒュプサエウス。紀元前146年の法務官。〕がローマから一〇〇〇〇人の歩兵と一三〇〇騎の騎兵を連れてくるまでそこを略奪した。そこでウィリアトゥスは再び偽装撤退を行い、プラウティウスは四〇〇〇人の兵を彼の追撃に遣ったが、僅かな者を除いてほとんど皆殺しにされた。それから彼はタグス川を渡ってオリーブの林に囲まれたウェヌス山と呼ばれる山で野営した。そこでプラウティウスが彼に追いつき、自らの不運を挽回しようと躍起になって彼と戦ったが、敗れて大勢を殺されて算を乱して町々に逃げる羽目になったため、どこにも姿を現すまいとして真夏に越冬地へと向かった。したがってウィリアトゥスは邪魔を受けることなく全ての地方を席巻し、育っていた作物を持ち主に対して作物をの値段分の額を要求し、断れば破壊した。
65 それらの事実がローマで知られると、彼らは軍を徴募する権限を与えて(マケドニア王ペルセウスを破った)アエミリウス・パウルスの息子ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス〔クイントゥス・ファビウス・マクシムス・アエミリアヌス。アエミリウス・パウルスの実子で小スキピオの兄だが、ファビウス家に養子に出された。紀元前145年に執政官としてヒスパニアに赴いた。〕をヒスパニアへと送った。カルタゴとギリシアが最近征服されたばかりで、第三次マケドニア戦争は成功裏に集結していたので、それらの地から帰ってきたばかりの兵を使わないようにするために彼はついぞ戦争に出たことのない若者たちを選び出し、彼らは二個軍団ほどの数になった。彼は同盟者たちから追加の兵力を得て、総勢一五〇〇〇人の歩兵とおよそ二〇〇〇騎の騎兵を率いてヒスパニアの都市オルソへ到着した。彼は軍が良く訓練されるまでは敵と戦うつもりはなかったため、ヘラクレス〔メルカルト神を指す(N)。〕に生け贄を捧げるために海峡を通ってガデスへと航行した。その一方ウィリアトゥスはマクシムス勢の材木を切っていた者に襲いかかって多くの者を殺し、残りの者を恐慌状態に陥れた。マクシムスの副将が戦いに来ると、ウィリアトゥスは彼も破って多くの戦利品を分捕った。マクシムスが戻ってくるとウィリアトゥスは部隊を繰り返し出撃させては戦いを挑んだ。しかしマクシムスは全軍で戦うのを拒否して兵の訓練を続け、頻繁に小勢を繰り出しては小競り合いを演じ、敵の強さを試しつつ自軍の兵に勇気を吹き込んだ。彼は食料調達部隊を送り出す時にはいつも非武装の兵の周りには支援軍の歩哨を置き、自らは軍団の周りでは騎兵を連れながら動いた。彼は父パウルスがマケドニア戦争でこうしていたのを見ていたのだ。冬が終わって彼の軍が良く訓練されると、彼はウィリアトゥスを攻めて(ウィリアトゥスは勇敢に戦いはしたものの)彼を敗走させた二人目の将軍になり、彼の都市を二つ落としてうち一つを略奪してもう一つは焼き討ちにした。彼はウィリアトゥスをバエコルと呼ばれる土地まで追撃して彼の兵を多く殺し、その後にコルドゥバで越冬した〔「65章は以下のような文言で終わっているが、同様の文言が68章の終わりの近くで繰り返されている。『すでに二年間指揮を執っていた。これらの仕事を成し遂げると、アエミリウスはローマへと戻り、クイントゥス・ポンペイウス・アウルスが指揮権を継承した。』シュヴァイガウザーはテクストが両方の箇所で破損して65章から移されたのだと考えている」(N)。〕。
66 今や以前ほどの自信を持てなくなったウィリアトゥスはアレウァキ族、ティティ族、ベリ族といった非常に好戦的な人々をローマ人への忠誠から離反させ、彼らは自分たちのためにローマ人に対して長年に及んだ飽き飽きするようなもう一つの戦争を起こし、この戦争は彼らの都市の一つからヌマンティア戦争と呼ばれた〔紀元前143年。〕。私はウィリアトゥスとの戦争が終わった後にこの戦争について説明するつもりである。後者〔ウィリアトゥス〕はもう一人のローマの将軍クイントゥスと戦うべくヒスパニアの他の地方へと向かい、劣勢に立たされてウェヌス山へと退いた。ここから彼は出撃してクイントゥスの兵一〇〇〇人を殺し、何枚かの軍旗を鹵獲して敵を野営地へと追い返した。彼はイトゥッカの守備隊を追い出してバスティタニ族の地方を荒らした。クイントゥスは小心さと経験のなさのために彼らに救援を出すことができなかったが、秋の中頃にコルドゥバで越冬に入り、イタリカ市出身のヒスパニア人のガイウス・マルキウスに頻繁に彼〔ウィリアトゥス〕を非難する手紙を送った。

12巻
67 その年の終わりにアエミリウスの兄弟のファビウス・マクシムス・セルウィリアヌス〔クイントゥス・ファビウス・マクシムス・セルウィリアヌス。紀元前142年の執政官。〕がクイントゥスから指揮権を継承し、ローマと同盟者たちから新手の二個軍団を投入したため、彼の兵力は総勢でおよそ一八〇〇〇人の歩兵と一六〇〇騎の騎兵を数えるほどになった。彼は可及的速やかに象を送ってくれるようにとヌミディア人の王のミキプサに書き送った。彼が軍を分割した状態でイトゥッカへと急行すると、ウィリアトゥスは大きな騒音を出し蛮族らしい雄叫びを上げながら六〇〇〇の兵で攻撃をかけ、戦いで敵を怯えさせるために振り乱すのになじんでいた長髪を振り上げていたが、セルウィリアヌスは狼狽えなかった。彼は勇敢に踏み止まり、敵は何ら成すことなく撃退された。残りの軍がアフリカからの一〇頭の象と三〇〇騎の騎兵共々到着すると、彼は大きな野営地を作ってウィリアトゥスに向けて進み、彼を破って追撃した。追撃が乱雑になると、逃げていたウィリアトゥスはこれに目をつけて兵を呼び集め、およそ三〇〇〇人のローマ兵を殺して残りを野営地まで追い返した。彼は門の周りに僅かな兵がいただけの野営地にも攻撃をかけ、天幕にいた大部分のローマ兵を恐怖のどん底に陥れ、彼らは将軍と軍団副官によってやっとのことで義務へと立ち返らされた。ここでラエリウスの義理の兄弟のファビウスが見事な勇気を示した。ローマ軍は闇の訪れで救われた。しかしウィリアトゥスはセルウィリアヌスをイトゥッカへと追い返すまで朝な夕な襲撃を続け、予期せぬ時に軽装備の部隊と足の速い騎兵を連れて現れては敵を悩ませた。
68 それからついに食糧不足に陥って軍の数が減ったウィリアトゥスは夜のうちに野営地を焼き払ってルシタニアへと戻った。セルウィリアヌスは彼に追いつけなかったが、バエトゥリア地方に襲いかかってウィリアトゥスに与した五つの町を略奪した。この後に彼はクナエイ族に向けて、さらにそこから再びルシタニアへとウィリアトゥスめがけて進撃した。彼が進軍していると、クリウスとアプレイウスという二人の盗賊の頭目が一〇〇〇〇人の兵でもってローマ軍に攻撃をかけて大混乱へと陥れ、戦利品の一部を分捕った。クリウスは戦死し、セルウィリアヌスは間もなく戦利品を取り返してエスカディア、ゲメッラ、そしてオボルコラといったウィリアトゥスが守備隊を置いていた町を落とした。彼は他の町々を略奪し、さらに他の町々は許した。およそ一〇〇〇〇人の捕虜を得ると、彼はそのうち五〇〇人の首を刎ねての凝りは奴隷として売り払った。それから彼は越冬地に向かったが、この頃には指揮を執ってすでに二年が経っていた。これらの業績を上げると、セルウィリアヌスはローマへと帰り、クイントゥス・ポンペイウス・アウルス〔紀元前141年の執政官。〕が指揮権を引き継いだ。前者の兄弟マクシムス・アエミリアヌスはコノバという名の盗賊の頭目の投降を受け入れると、彼を解放しはしたものの、彼の部下全員の両手を切り落とした。
69 ウィリアトゥスを追ってセルウィリアヌスは彼の町の一つであるエリサナを包囲した。ウィリアトゥスは夜にその町に入り、壕を掘る作業をしていた者たちに夜明けに襲いかかり、彼らはやむを得ず鋤を投げ出して逃げた。似たようにして彼はセルウィリアヌスが戦闘隊形につかせた軍の残りを破ってこれを追撃し、ローマ軍を逃げ場のない断崖へと追い込んだ。ウィリアトゥスは勝利の時でも驕ることはなく、この好運によって戦争を終わらせてローマ人の大きな感謝の念を勝ち得ようと考えたため、彼はローマ人と協定を結び、以下の協定がローマで締結された。ウィリアトゥスはローマ人の友人になると宣言され、彼の仲間の全員がその時に占領していた土地を保持するものとされた。したがってローマ人を甚だしく悩ませたウィリアトゥス戦争は満足のいく解決を見て集結したかのように見えた。
70 任期を終えたセルウィリアヌスの兄弟で彼の指揮を引き継いだカエピオ〔クイントゥス・セルウィリウス・カエピオ。紀元前140年の執政官。〕が協定に文句をつけ、ローマ人の権威にこの上なく相応しくない手紙を母国へと書き送ったために平和はそう長くは続かなかった。元老院はまず彼に密かにであれば自らの自由裁量でウィリアトゥスに嫌がらせをする権限を与えた。しつこく継続的に手紙を送り続けることで彼は協定の破棄とウィリアトゥスとの公然たる対立の再開という成果を手に入れた。公然たる宣戦が行われると〔紀元前140年。〕、ウィリアトゥスが放棄したアルサの町をカエピオは奪取し、ローマ軍は彼よりも遙かに強大だったために(通路上の全てを破壊しながら逃げていた)ウィリアトゥスその人をカルペタニアまで追いかけた。ウィリアトゥスは自軍が少ない以上は戦いに打って出るのは賢明ではないと考え、軍の大部分に見えにくい峡谷を通って退却するよう命じた一方で、自らは残りの軍をある丘に布陣させて一戦交えようと目論んだ。先に送った兵たちが安全な土地に到着したと判断すると、彼は敵を無視して彼らの後を追わせ、その迅速さときたらどこに彼が向かったのか追撃者には見当がつかないほどだった。カエピオはウェトネス族とカライキ族へと転進して彼らの土地を荒らした。
71 ウィリアトゥスの例に倣って他の多くの遊撃隊がルシタニアに攻めかかって略奪を働いた。彼らへと差し向けられたセクストゥス・ユニウス・ブルートゥス〔正しくはデキウス・ユニウス・ブルートゥス。紀元前138年の執政官。〕はタグス川、レテ川、ドゥリウス川、そしてバエティス川といった航行可能な河川で繋がった広大な土地を通って彼らを追跡することを絶望視したが、それは盗賊団のようにあちこちへと飛び回る彼らに追いつくのは至難の業であり、失敗すれば面目を潰すことになるし、よしんば彼らを破ったとしても大きな名誉を得られない仕事だと彼には思われたためだった。したがって彼はこうすれば彼らに報復を加えられると同時に軍のために豊富な略奪品を確保できる上、故郷を脅かされた盗賊たちは各地に散り散りになるだろうと考えて彼らの町々へと方向を転じた。この計画に則って彼は行く先々の全てを破壊し始めた。この地で彼は殺戮の真っ只中でも泣くことなく男たちと一緒に勇敢に戦って死んだ女たちを見つけた。住民の一部は運び出せる限りのものを持って山へと逃げ、彼らが赦しを求めるとブルートゥスはこれを認め、罰金として彼らの財産を取った。
72 彼はドゥリウス川を渡って戦争を広く遠くまで拡大させ、レテ川を渡るまでは降伏した者たちから人質を取り、その川を渡ろうと考えた最初のローマ人となった〔紀元前137年。〕。これを渡ると彼はニミス川と呼ばれるもう一つの川まで進み、そこで彼の輜重隊を略奪したブラカリ族を攻撃した。彼らは非常に好戦的な民であって女も男と一緒に武器を持ち、戦う彼女たちは降伏をせず背を見せることもなければ悲鳴を上げることもなかった。捕らえられた女たちのうち一部は自害し、他の者は捕虜になるよりは死ぬ方が良いと考えて我が子をこの手で殺した。いくつかの町はブルートゥスに降伏したがすぐに離反した。彼らはこれらを再び隷属させた。
73 タラブリガはしばしば服属したり背いたりした都市の一つだった。ブルートゥスがそこへと向かうと、住民は許しを請うて自発的に降伏を申し出た。まず彼は彼らに全ての逃亡兵、捕虜、保有していた武器、さらに人質の引き渡しを要求し、それから彼らに妻子と共に町から立ち退くよう命令した。彼らがこれらの命令に従うと、彼は軍で彼らを取り囲み、彼らがどれほど頻繁に離反しては彼との戦争を再開したかを話した。彼らに恐怖と、何らかの恐ろしい罰を加えるつもりだという信念を吹き込むと、彼はこの非難を止めた。彼らから馬、食料、公金、その他の富を取り上げると、彼らの予想に反して彼は彼らを町に帰して住まわせた。これらの結果を出すと、ブルートゥスはローマへと帰った。私はこれらの出来事をウィリアトゥスに関する歴史と一緒にまとめたが、それはこれらが同時に他の遊撃隊によって開始され、彼に倣ったものだったからだ。
74 ウィリアトゥスは最も信頼する友人であるアウダクス、ディタルコ、ミヌルスを和平交渉のためにカエピオのもとへと送った。後者は彼らを夥しい贈り物で買収してウィリアトゥスの暗殺を約束させたが、これは以下のような仕方でなされた。ウィリアトゥスは過度の気苦労と過労のおかげであまり眠らず、ほとんどいつも鎧を着けて休んでいたので目を覚ませばあらゆる突発事件に即応できる状態だった。このために彼の友人たちは夜に彼のもとを訪れるのを許されていた。彼を警護していたアウダクスに与していた者たちはこの慣行に乗じ、丁度彼が寝ていた時にあたかも緊急の用があるかのように彼の天幕に入り、鎧で守られていない唯一の身体の部位だった喉を突き刺して彼を殺した。傷は何かが起こったとは疑う者がいなかったようなものだった。殺害者たちはカエピオのもとへと逃げて残りの報酬を求めた。当面のところ彼はすでに受領した身の安全を享受するのを彼らに許し、彼らの残りの要求についてはローマに問い合わせた。夜明けが来るとウィリアトゥスに同行していた者たちと軍の残りの者たちは彼がまだ休んでいるのだと思い、彼らのうちの何人かが鎧を着けたまま彼が死んでいるのを発見するまで彼の異様に長い休憩をいぶかしがった。すぐに野営地中で悲しみと嘆きが広がり、誰もが彼を悼み、我が身の安全を不安に思い、自分たちがその真っ只中にいる危機と将軍の喪失について考えた。皆の大部分は彼らがこの犯罪行為の犯人を見つけられなかったことで悲嘆に暮れた。
75 彼らはウィリアトゥスの遺体を見事な衣服で盛装し、葬儀のための薪を高く積んで荼毘に付した。多くの生け贄が彼のために捧げられた。歩騎の各隊は夷狄風に彼への賞賛を唱えながら彼の周りを行進した。火が点じられるまで葬儀のための薪から離れるものは誰一人としていなかった。葬式が終わると、彼らは彼の墓前で剣闘試合を行った。死せるウィリアトゥスへの思慕の念はこれほどに大きいものであった。夷狄の中では指揮官としての最高の資質を持ち、常に真っ先に危険に飛び込み、戦利品の分配では最も細心な男だった。友人が彼に請うても彼は最大の分け前を取るのに賛成せず、最も勇敢な者たちに分配した。したがってこの戦争の八年間、様々な部族の混成軍では争乱が全く起こらず、兵たちは常に従順で危機に直面すれば恐れ知らずになった(これは最も困難な仕事であり、これまで他の指揮官でこれほど易々と成し遂げた者はいなかった)。彼の死後、彼らはタンタルスを将軍に選出し、ハンニバルが打倒して再建して自らの祖国にちなんで新カルタゴと名付けた都市であるサグントゥムへの遠征を行った。彼らがその地から追い出されてバエティス川を渡ると、カエピオは彼らを激しく追撃したたため、タンタルスは疲弊し、従属者として扱われるという条件で軍をカエピオに投降させた。後者は彼ら全員から武器を取り上げて十分な土地を与えたため、彼らは必要に迫られて追い剥ぎを働くよう追い詰められることがなくなった。このようにしてウィリアトゥス戦争は集結した。

13巻
76 ここで我々の歴史はウィリアトゥスが蜂起へと掻き立てたアレウァキ族とヌマンティア人に対する戦争に戻る。カエキリウス・メテルス〔クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス。紀元前143年の執政官。〕が大軍と共にローマから彼らへと差し向けられ、彼は部隊を集めている最中の彼らに出し抜けに襲いかかった。そこでテルマンティアとヌマンティアという二つの町が彼の標的として残った。ヌマンティアは二つの川と渓谷、そしてそこを囲む鬱蒼と茂る樹木のおかげで近づき難かった。その開けた地方への道は一つしかなく、そこは堀と柵で封鎖された。ヌマンティア人は歩兵も騎兵も第一級の戦士で、その数は総勢八〇〇〇人だった。小勢だったにもかかわらず、彼らは持ち前の勇気でローマ軍を激しく苦しめた。冬の終わりにメテルスは自らの後継者クイントゥス・ポンペイウス・アウルス〔紀元前141年の執政官。〕に歩兵三〇〇〇〇人と騎兵二〇〇〇騎というよく訓練されていた軍の指揮権を引き渡した。ヌマンティアに対して野営していたところ、ポンペイウスにたまたまどこかに向かう機械があった。ヌマンティア人が彼の前に陣取っていた騎兵部隊に向けて出撃してきて、これを撃破した。取って返すと、彼は軍を平地に展開させた。ヌマンティア軍は彼と一戦交えるべく向かってきたが、堀と柵までポンペイウスを引きつけるまであたかも敗走しようとしているかのようにゆっくりと後退した。(テクストのこの箇所に欠損がある)
77 彼は数で遙かに劣る敵との小競り合いによって自軍が日に日に消耗していくのを見ると、そちらの方がもっと楽な仕事だと思ってテルマンティアへと向かった。ここで彼は敵と戦って七〇〇人を失った。軍に物資を輸送していた軍団副官の一人がテルマンティア勢に敗走させられた。同日の第三回戦で彼らはローマ軍を岩がちな場所へと退かせ、ここでローマ軍の多くの歩兵と騎兵が馬もろとも断崖から落とされた。生き残りは恐慌状態に陥りつつ武装状態で夜を越した。夜明けに敵がやってきてこれまで通りの戦いが戦われたが、結果は全く同じだった。夜が訪れると戦いは終わった。そこでポンペイウスはヌマンティア人によって守備隊が置かれていたマリアという名の小さい町に向けて進軍した。住民は寝返って守備隊を殺戮して町をポンペイウスに引き渡した。彼は彼らに武器を引き渡して人質を渡すよう求め、その後に彼はタンギヌスという名の盗賊の首領が略奪を働いていたセダタニアに向かった。ポンペイウスは彼を打ちひしいで彼の部下の多くを捕虜にした。この盗賊たちは高邁な精神を持っていたために捕虜は誰一人として奴隷の境遇に耐えられなかった。彼らの一部は自決し、他の者は自分の買い手を殺し、他の者は彼らを連れて行った船に穴を空けて沈めた。
78 ポンペイウスはヌマンティアを包囲すべく戻ってくると、飢餓によってその都市を落とすべくある川の流れを点じようと試みた。住民は工事を進める彼を邪魔した。彼らは信号もなくどっと押し寄せてきては川の工事をしていた者に襲いかかり、野営地から救援に赴いた兵に矢を射かけ、ついにローマ軍を彼らの砦に封じ込めるに至った。また彼らは食糧調達部隊に攻撃をかけてその多くを殺し、その中には軍団副官の一人オッピウスもいた。彼らは壕と堀をめぐらしたローマ軍のもう一つの地区にも攻撃をかけ、その指揮官を含むおよそ四〇〇人を殺した。この頃に六年間働いてきた兵と代えるため、新たに徴募された未熟で規律のない軍を引き連れた諮問団たちがローマからポンペイウスのもとへとやってきた。ポンペイウスはあまりにも多くの災難で恥じ入っており、恥を雪ごうと渇望していたため、冬に未熟な新兵と共に野営地に残った。兵たちは覆いもなく寒さに晒され、その地方の冬と気候に慣れずに赤痢にかかって多くの者が死んだ。食料調達のために分遣隊が出発すると、ヌマンティア人はローマの野営地の近くで待ち伏せを仕掛けて小競り合いを強いた。後者は侮辱に耐えかねて彼らに向けて出撃した。次いで待ち伏せ地点にいた者が飛び出し、多くの兵卒と貴族が命を落とした。最後にヌマンティア人は帰り道の食料調達部隊と遭遇して彼らの多くもまた殺した。 79 ポンペイウスはかくも多くの不運で落胆したため、後任が初春には来るだろうと期待しつつ、元老院議員の諮問団を連れて残りの冬を越すために町々へと去った。申し開きのために召喚されるのではないかと恐れた彼は戦争を終結させるべくヌマンティア人に密かに打診を行った。ヌマンティア人自身は最も勇敢な兵たちの多くが殺されて多くの部隊を失い、食料が少なくなり、戦争が予想を超えて長期化したおかげで疲弊していたため、ポンペイウスに代表団を送った。彼は彼らに自分から降伏するように公然と勧めたが、それはローマの人々の権威に相応しい協定などこれを措いてないと思われたためで、彼は彼らに彼が負わす条項を私的に話した。彼らが合意に達してヌマンティア人が投降すると、彼は彼らに人質、捕虜並びに脱走兵を要求し、受領した。また彼は銀三〇タラントンを要求して彼らはこの一部を即納し、彼は残りの分については待つことに同意した。彼の後任のマルクス・ポピリウス・ラエナス〔紀元前139年の執政官。〕が到着した時に彼らは最後の分割払い分を持ってきた。後任が現れた以上は最早ポンペイウスにとって戦争に関することなどどうでもよく、自分がローマからの権限抜きに不名誉な和平を結んだことを知りつつも彼はヌマンティア人との協定に至ったことを否定し始めた。後者はその処理に加わった目撃者の元老院議員と彼自身の騎兵隊長並びに軍団副官による反証を受けた。ポピリウスはポンペイウスと討論させるべく彼らをローマへと送った。元老院は戦争の継続を決定した。そこでポピリウスはヌマンティア人の隣人のルソネス族を攻めたが何ら成果を出せず、後任のホスティリウス・マンキヌス〔ガイウス・ホスティリウス・マンキヌス。紀元前137年の執政官。〕が到着するとローマへ帰った〔紀元前137年。〕。
80 マンキヌスは頻繁な遭遇戦でヌマンティア人に破れ、ついに大損害を被った後に野営地に逃げ込んだ。カンタブリ族とウァッカエイ族がヌマンティア人の加勢にやってくるという嘘の噂が起こると彼は怯えて火を消し、かつてノビリオルが陣を置いた不毛の土地へと夜陰に乗じて逃げた。彼が和平を求めるまでは皆が死を厭わない覚悟のヌマンティア軍により、彼は夜明けに準備も防備もなしにこの地に封じ込められて包囲されたためにローマ人とヌマンティア人の間でかつて結ばれたような条項に合意した。この合意に彼は誓約によって自らを縛り付けた。これらのことがローマで知られてこの最も不名誉な協定は大きな憤りを呼び、もう一人の執政官アエミリウス・レピドゥス〔マルクス・アエミリウス・レピドゥス。紀元前137年のマンキヌスの同僚執政官。〕がヒスパニアへと送られると、マンキヌスは裁判のために本国へと召還された。ヌマンティア人の代表団が彼に同行した。アエミリウスは無為を厭きつつもローマからの沙汰を待ち(都市のためにではなく名誉や利得、あるいは凱旋指揮の栄誉のために幾人かの人たちが指揮権を求めていたからだ)、ヌマンティア人に兵糧を提供したというでっち上げの非難をウァッカエイ族に対して行った。したがって彼は彼らの地方を荒らし、何ら協定への違反をしていない主要な都市のパランティアを包囲し、彼は義理の兄弟で(前に私が述べたように)ヒスパニア・ウルテリオルに送られていたブルートゥスをこの企画に加わるよう説き伏せた。
81 ローマからの使者のキンナとカエキリウスがここで彼ら〔レピドゥスとブルートゥス。〕に追いついてきて、ヒスパニアでこれほど多くの災難に見舞われたのにアエミリウスが新たな戦争を企んでいるのはどういうわけなのか元老院としては皆目見当がつかないということを彼らは伝えてきて、ウァカエイ族への攻撃を警告する法令を持ってきた。しかし実際に戦争を始めてしまった以上、元老院はすでに戦争が始まっていること、ブルートゥスが彼と共同作戦を取っている事実、ウァカエイ族がヌマンティア人を食料、資金、兵員で支援していることを知らないのだと彼は考えた。したがって彼は、もしローマ人が臆しているのだと思い描けばヒスパニアのほぼ全域が反乱に立ち上がるだろうからして戦争から手を引くのは危険だと返答した。彼はキンナ派を任務を達成することなく帰国させてこの旨を元老院に書き送った。彼がこの件に関わっている間、食料調達遠征に送られていたフラックスは自分に対して待ち伏せが仕掛けられているのを知り、ある策略によって自らを救い出した。狡猾にも彼はアエミリウスがパランティアを占領したという噂を兵の間に流した。兵たちは勝利の雄叫びを上げた。夷狄はこれを聞いてその報告が真実だと考えて退却した。このようにしてフラックスは物資輸送隊を危機から救い出した。
82 パランティア包囲が長期化して物資の蓄えが尽き、ローマ軍は飢餓に悩まされ始めた。全ての動物が死んで多くの兵が餓死した。アエミリウスとブルートゥスの両将は長らく落ち着いていた。ついに耐えきれなくなると彼らはある夜の最終夜警時刻に突如として撤退を命じた。軍団副官らと百人隊長らは夜明け前に全員を出発させようとしてあちこちを駆けずり回って移動を急がせた。一切合切を、それこそ彼らにしがみついて見捨てないでくれと懇願する病人と負傷者すら後に残すほどの混乱が起こった。彼らの撤退は無秩序で、まるで敗走のように乱雑で、パランティア人は彼らの側面と背後にぴったりついて早朝から夜になるまで大きな被害を与えた。夜になると、疲労と空腹で憔悴していたローマ軍はみんなでそのまま地面に倒れこんだが、パランティア人は神の何らかの介入で突き動かされたために自分たちの国に帰った。アエミリウスの身に降りかかったのは以上のようなことであった。
83 これらのことがローマで知られるようになると、アエミリウスは指揮権と執政官の地位を剥奪され、ローマに一市民として戻ってくるとさらに罰金刑を科された。元老院を前にしたマンキヌスとヌマンティア使節団の間の論争はまだ続いていた。後者は自分たちがマンキヌスと結んだ協定を示した一方で、協定締結を彼は取るに足らない条件の悪い軍を彼に引き渡した前任の指揮官ポンペイウスのせいにし、この軍を使ってポンペイウス自身はしばしば破れてヌマンティア人と似たような協定を結んでいたとした。さらに彼は、その戦争は協定に違反する形でローマ人によって宣言されたものであるために縁起が悪かったと言い添えた。元老院議員たちは彼らに同等の怒りを覚えたが、ポンペイウスはこの訴状についてかなり前に裁判にかけられていたために罰を免れた。彼らは不名誉な協定を権限を持たずして結んだとしてマンキヌスをヌマンティア人のもとへと送ることを決めた。権限もなしに似たような協定を結んだ十二人の将軍を即座にサムニウム人のもとに送った父祖の例に倣って彼らはこのようにした。マンキヌスはフリウス〔ルキウス・フリウス・フィルス。紀元前136年の執政官。〕によってヒスパニアへと連れて行かれ、ヌマンティア人のもとへと裸で送られたが、彼らは彼の受け入れを拒んだ。カルプルニウス・ピソ〔クイントゥス・カルプルニウス・ピソ。紀元前135年の執政官。〕が彼らの担当将軍に選出されたが、彼はヌマンティアに進軍しなかった。彼はパランティア領に攻め込んで僅かばかりの戦利品を集め、カルペタニアの越冬地で残りの任期を過ごした。

14巻84-89章
15巻90-98章
16巻99-102章
楠田直樹「ヌマンティア戦争とアッピアノス史料〔1〕」(1990年)及び「ヌマンティア戦争とアッピアノス史料〔2〕」(1990年)に邦訳があるため、省略します。




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