ヒスパニアでの戦争

1巻
1 ピュレネ山脈はテュレニア海から北の大洋まで伸びている。〔山脈の〕東側にはガラティア人とも呼ばれるケルト人が住んでおり、後に彼らはガリア人と呼ばれた。これより西、テュレニア海から始まってヘラクレスの柱を回って北の大洋へと至る地方にはイベリア人とケルティベリア人が住んでいる。したがってヨーロッパ最大で、おそらく最も険しい山脈であるピュレネ山脈に取り巻かれていた地方を除いてイベリア全土は海に囲まれている。沿岸航行するとそれらの次にはヘラクレスの柱に至るまでテュレニア海が来る。彼らは潮に乗ってたった半日で行けるブリタニアの向こうに乗り込むのは別として東の大洋と北の大洋を横断することはなかった〔「これは地理学上のひどい誤りだが、ヒスパニアをブリタニアの西に置いたカエサルの失敗に優るとも劣らない(ガリア戦記, v. 13)。タキトゥスはこの誤りを繰り返している(アグリコラ, 10)」(N)〕。それというのも残りの人たち、ローマ人も属国民の誰もその大洋を航海していないからだ。今日幾人かの人たちによればヒスパニアと呼ばれているイベリアの大きさは一つの地方としてはほとんど信じられないほどである。その幅は一〇〇〇〇スタディオンで、長さもそれと同じである。様々な名前の多くの種族がそこに住んでおり、多くの航行可能な川がそこを流れている。
2 どんな民族が最初にそこを占め、彼らの次に来たのかを研究するのはローマ史を書くだけの私にはさほど重要なことではない。しかし私はいくらか前の時代にケルト人がピュレネ山脈を越えてそこの種族と混合し、ケルティベリアという名前はこのような由来を持つと考えている。また私は、早い時期にフェニキア人が交易のために頻繁にヒスパニアに来ており、そこのある土地を占領したと考えてもいる。似たようにしてギリシア人はタルテッソスに居留してそこの王アルガントニオスと彼らの一部の者たちがヒスパニアに住み着いた。それというのもアルガントニオスの王国はヒスパニアにあったからだ。私の意見ではタルテッソスはそれから今日にはカルペッソスと呼ばれている沿岸の都市である。フェニキア人は海峡に立つヘラクレス〔メルカルトを指す(N)〕の神殿を建てたとも私は考えている。フェニキア式の宗教的な儀式がそこには未だにあり、その神は崇拝者たちからテバイのではなく、テュロスのヘラクレスだと考えられている。しかし私は古いものの好事家たちにそれらの問題を委ねることにしたい。
3 この豊かな土地はありとあらゆる良きものに恵まれていたため、カルタゴ人がローマ人より前にそこを開発した。ローマ人が彼らが占めていた地方から追い出してすぐに自分がそこを占拠するまで、カルタゴ人はその一部を占領して他の部分を略奪した。その残りをローマ人は大変な労苦の末に長い年月をかけて獲得し、反乱の頻発にもかかわらず最終的に平定して三つに分け、法務官を任命した。彼らがいかにしてその各々を平定し、カルタゴ人と、その後にイベリア人とケルティベリア人とそれらの所有を争ったのかをこの巻はつまびらかにするつもりであり、私には私のヒスパニア史をカルタゴ人のヒスパニアとの関係を話す必要があるので、最初の部分には彼らに関する事柄を収めることにする。というのも同じ理由でローマのシケリアへの侵略と支配の始まりからのその島をめぐるローマ人とカルタゴ人の行いはシケリア史に収めておいたから。
4 ローマ人の最初の対外戦争はシケリアをめぐってカルタゴ人となされたものであり、これはまさにシケリアで行われた。その過程で両勢力はイタリアとアフリカの双方へと大軍を送って荒廃させたものの、同様にヒスパニアをめぐる最初の戦争〔第二次ポエニ戦争〕もヒスパニアで行われた。
 この戦争はシケリア戦争の終結時になされた協定の通知によって一四〇回目のオリュンピア会期に始まった。違反は以下のようにして起こった。バルカとあだ名されたハミルカルはシケリアでカルタゴ軍を率いていた時にケルト人傭兵とアフリカ人同盟者に大きな褒美を約束し、彼らは彼がアフリカに帰った後にこれを要求した。それからアフリカ戦争が勃発した。この戦争でカルタゴ人はアフリカ人の手によって多大な被害を被り、この戦争の間にローマの商船に与えた被害への補償としてサルディニア島をローマ人に譲渡した。ハミルカルこそが国への深刻な被害の責任者であると主張した政敵によってこれらの事柄で法廷に引き立てられると、彼は国家の主要人物たち――その中で最も人気のある人物はバルカの娘と結婚していたハスドルバルだった――の支持を確保し、これによって罰を免れた。そしてヌミディア人との紛争がこの時期に起こると、以前に将軍職にあった時の説明をまだ提出していなかったにもかかわらず彼は大ハンノと共同でカルタゴ軍の指揮権を確保した。
5 この戦争終結時、ハンノはカルタゴで彼になされた告発に応答するために呼び戻され、残されたハミルカルは軍の単独指揮権を握った。彼は義理の息子ハスドルバルと連携して海峡をガデスへと渡り、何ら彼に悪事を働いていなかったヒスパニア人の土地の略奪を始めた。したがって彼は母国から離れ、そしてまた事業を実施して人気を得る機会を作った。それというのも彼は獲得した財産は何であれ分割した。将来の略奪への熱意をかき立てるために一部を兵士に与え、他の一部をカルタゴの金庫に送り、第三の部分は現地での自派の酋長たちに分配した。これはヒスパニアの諸王とその他の酋長たちが連合して以下のようにして彼を殺すまで続けられた〔紀元前229年〕。彼らは大量の荷馬車に木材を乗せて雄牛を先行させてそれらを運び、戦いの準備をした上でそれらに続いた。アフリカ兵はこれを見ると策略に気付かず襲いかかった。彼らが間近に迫るとヒスパニア人は荷馬車に火を放って敵に向けて雄牛を突っ込ませた。逃げる雄牛のおかげで方々に火が広がると、アフリカ兵は混乱に陥った。かくして彼らの隊列が崩れるとヒスパニア人は彼らの真っただ中に突入してハミルカルその人と彼の助けに向かった他の多くの兵を殺した。

2巻
6 カルタゴ人はヒスパニアから得られた収益に喜んでいたためにそこへともう一つの軍を送り、ハミルカルの義理の息子で未だヒスパニアにいたハスドルバルを同地の全軍の司令官とした。彼はヒスパニアにハミルカルの息子にして彼の妻の兄弟、戦争熱心な若者で軍から愛され、もうすぐ軍事的な偉業で名声を得ることになるハンニバルを連れていた。彼は彼を副将に任命した。私的な交際では魅力的であったためにハスドルバルは多くのヒスパニア人を説得によって自らの支持者とし、軍を必要とする場面ではこの若者を使った。このようにして彼は西の大洋から、ヒスパニアを中央あたりで分かっていて五日の旅程の距離にあってピュレネ山脈から北の大洋まで流れ出るイベロス川あたりまでの内陸部まで突き進んだ〔「地理上のもう一つの誤り。エブロ川は地中海まで注ぐ」(N)〕。
7 ザキュントス島の植民地で、ピュレネ山脈とイベロス川の中間あたりに暮らしていた〔「もう一つの誤り。サグントゥムはエブロ川の遙か南東にある」(N)〕サグントゥム人と、エンポリアの近隣とヒスパニアの他の町に住んでいた他のギリシア人は彼らの安全を案じてローマに使節団を送った。カルタゴ勢力の増長を不快の目で見ていた元老院はカルタゴに使節を送った。ヒスパニアでのカルタゴ勢力の境界はイベロス川となり、この川を越えてローマ人はカルタゴの従属者に戦争を仕掛けてはならず、カルタゴ人は似たような目的でその川を越えてはならず、サグントゥム人とヒスパニアのその他のギリシア人は自由と自治権を保持する、と彼らの間で同意された。かくしてこのような協定がローマとカルタゴの文書に加えられた。
8 しばしの後、ハスドルバルがカルタゴに属するヒスパニアの地域を支配していた時、主人を彼に残忍な仕方で殺されたある奴隷が狩りに出かけていた彼を密かに殺した〔紀元前220年〕。ハンニバルはこの下手人に有罪判決を下して恐ろしい拷問にかけて殺した。今や軍は未だ非常に若かったが兵から大いに愛されていたハンニバルを彼らの将軍として宣言し、カルタゴの元老院もその任命を承認した。ハミルカルとハスドルバルの勢力を恐れていた対立派閥の者たちは彼らの死を知ると、ハンニバルを若さの故に軽んじて彼らの友人と仲間たちを昔の罪状で告訴した。人々はハミルカルとハスドルバルの往時の峻厳さを覚えていたために目下の被告への悪意から告発者に味方し、ハミルカルとハスドルバルが敵からの戦利品として得た物から多くの贈与を国庫に提出するよう命じた。被告派はハンニバルに助けを求める伝令を送り、母国で彼を支援することができる人を無視するならば、彼は父の敵から徹底的な軽蔑を被ることになるだろうとたしなめた。
9 彼はこの全てを予測しており、友人たちへの虐待が彼自身への陰謀の始まりになることを知っていた。自分は永続する脅威としてのこの反目には耐えられないだろうし、父と義理の兄弟のように、常々恩には忘恩で報いているカルタゴ人の移り気にこれ以上は付き合うまいと結論づけた。少年だった時に彼は父に倣い、自分が一人前になればローマを不倶戴天の敵とすることを祭壇で誓ったと言われている。それらの理由から、もし国を厄介で長引く事業にかかずらわせて国を疑いと恐怖に投げ込むならば、自分と友人たちの状況を安全な立場に置くことになるだろうと彼は考えた。そこで彼はアフリカ、ヒスパニアの服属した地域を眺めた。しかしもし彼自身は強く望んでいてカルタゴ人たちは考えるだけで恐怖するローマとの戦争を起こすことができれば、そしてこれに成功してローマ人が征服されれば、他の競合者はもういなくなってしまうために彼の国のために人の住む世界を獲得させることで不滅の栄光を得ることになるだろうし、もし失敗してもその試みそれ自体で彼は非常な名声を得ることになるだろう。
10 もし彼が素晴らしい始まりをなすイベロス川を渡れば、彼はサグントゥム人の隣人であるトルボレタイ族を唆すと思ったため、彼ら〔サグントゥム人〕は後者〔トルボレタイ族〕が彼らの国を荒らして他の多くの悪事を彼らにすることになると彼に訴えた〔紀元前219年〕。彼らはこの抗議を彼にした。それからハンニバルは彼らの使節団をカルタゴへと送り、ローマ人はカルタゴ領ヒスパニアで反乱を煽り、サグントゥム人はこの目的のためにローマ人と協調しようとしていると述べる私信を書いた。彼はこの偽りを止めなかったばかりか、カルタゴの元老院が彼が適当と見なすようにサグントゥム人を扱う権限を彼に与えるまでこの種の言伝を〔カルタゴまで〕送り続けた。彼は口実を手に入れると、トルボレタイ族がサグントゥム人に対する苦情を言うために再び来るべきであり、後者も代表団を送るべしと定めた。ハンニバルが不和を説明するよう彼らに命じると、自分たちはローマにその問題を訴えるべきだと彼らは答えた。そこでハンニバルは彼らに彼の野営地を出るよう命じて次の夜にイベルス川を全軍を連れて渡り、サグントゥム領を荒らして彼らの都市に向けて攻城兵器を据えた。そこを落とせなかったために彼は城壁と壕でそこを囲み、十分な見張りを置いて時間間隔を挟みつつ包囲に邁進した。
11 サグントゥム人はこの突然にして通達なしの攻撃で追いつめられたためにローマへと使節を送った。元老院は彼らと一緒に向かわせせるべく自分たちの使節団を任命した〔紀元前219年〕。もしハンニバルがカルタゴに行って彼に対する非難に申し開きをせよというのに従わなければ、彼らはまずハンニバルに合意内容を思い出させるよう指示された。彼らがヒスパニアに到着して海から彼の野営地に近づくと、ハンニバルは彼らが来るのを禁じた。したがって彼らはサグントゥムの使節団を連れてカルタゴへと航行し、カルタゴ人に協定を思い起こさせた。後者は自分たちの臣民に多くの悪事を働いたとしてサグントゥム人を非難した。サグントゥム人がローマ人に仲裁者として問題の一切合切を委ねることを申し出ると、そうなればローマ人は自分たちに復讐できるようになるので仲裁の役には立たないとカルタゴ人は応じた。この応答がローマへともたらされると、一部の人たちはサグントゥム人に助けを送ることを勧めた。他の人たちは、サグントゥム人は自分たちとの協定で同盟者として記されておらず自由で自治権を持っているにすぎないし、彼らは包囲下にありながらもなお自由であると言って延期を支持した。通ったのは後者の意見だった。
12 サグントゥム人がローマからの助けを絶望し、飢餓が彼らに重くのしかかってくると、そしてその都市は非常に繁栄して豊かであることを聞き知っていたことから包囲の手を緩めなかったハンニバルが中断することなく包囲を続けると、サグントゥム人は公的なものも私的なものも全ての金銀を広場に運んで鉛と真鍮と一緒に溶かしてハンニバルの役に立たないようにすべしとの布告を発した。それから飢え死にするよりは戦死するほうがましだと考えると、彼らは眠りこけていて攻撃を予期していなかった包囲軍に向けて夜間に出撃し、ある者を寝台から出ようとしていたところを殺し、他の者は不格好に武装してたところを、また他の者は実際に戦って殺した。戦いは多くのアフリカ兵とサグントゥム人の全員が死ぬまで続いた。女性たちは城壁から夫の殺害を目撃すると、ある者は家の上から身を投げ、他の者は首を吊り、他の者は子供たちを殺して自分も跡を追った。当時は大きく有力な都市だったサグントゥムの最期は以上のようなものであった。黄金に対してなされたことを知るとハンニバルは怒って成人の捕虜全員を拷問にかけて皆殺しにした。市がカルタゴからほど遠からず、海に面した良地にあることを見て取ると、彼はそこを再建してカルタゴの植民地にしたが〔どういうわけかここでアッピアノスは新カルタゴのことを話しているらしい(N)〕、思うにそれは今日にスパルタゲネのカルタゴと呼ばれている都市である。

3巻
13 今やローマ人は責任を取りたくなければ協定への違反者としてハンニバルを彼らのもとへ届けられるように要求する使節団を送った〔紀元前218年〕。もし彼らが彼を引き渡さなければ、直ちに戦争が宣言されていただろう。カルタゴ人がハンニバルの引き渡しを拒むと、使節団は指示に従って宣戦した。以下のような仕方でそれはなされたと言われている。使節団長はトーガの折り目を指して笑い、言った。「ここでカルタゴ人よ、私は平和か戦争か、あなたたちが選ぶ方をあなたたちにもたらすものである」。後者〔カルタゴ人〕は答えた。「あなたたちはあなたたちが好むものを我々に我々に与えるつもりだろう」ローマ人が戦争を申し出ると彼ら皆が叫んだ。「我々はそれを受けて立とう」彼らは協定は切れたのでヒスパニア全土を自由に荒らすようすぐにハンニバルに手紙を書いた。したがって彼は近隣の全ての部族に向けて軍を進め、ある者は説得して、他の者は脅かして、残りは平定すことで彼らを服属させた。それから彼はついぞ語れたことがないほどの未曾有の大軍勢を集め、イタリアに向けてこれを投入しようとしていた。また彼はガリア人の間に使節団を送り出し、その後にヒスパニアの指揮に弟ハスドルバルを残して彼が横断することになるアルペス山脈の通過を試した。
14 ローマ人は、イタリアへとアフリカ軍が攻め込むなどとは夢にも思ってもおらず、ヒスパニアとアフリカでカルタゴ人との戦争が起こるに違いないと見て取っていたためにティベリウス・センプロニウス・ロングス〔この年の執政官で、下記のスキピオは同僚執政官〕を一六〇隻の艦隊と二個軍団と共にアフリカへ向けて送った。ロングスと他のローマの将軍たちがアフリカでしたことは私のポエニ戦争史で述べておいた〔センプロニウス・ロングスのアフリカでの行いは現存する限りのアッピアノスのポエニ戦争史には述べられていないし、彼の他の戦争史にもない(N)。〕。彼らはプブリウス・コルネリウス・スキピオに六〇隻の艦隊と一〇〇〇〇人の歩兵と共にヒスパニアへと向かうよう命じ、彼の兄弟のグナエウス・コルネリウス・スキピオを一個軍団と共に送った。前者のプブリウスはハンニバルがアルペスを渡ってイタリアに入ったことをマッシリア商人から知ると、イタリア人がこの件を知らないままにするのを恐れたために兄弟にヒスパニアでの指揮権を委ねて五段櫂船船団と共にエトルリアへと航行した。彼と彼につき従った他のローマの将軍たちが一六年をかけてかなりの苦労を経て彼らがハンニバルを祖国から追い出すまでにイタリアでしたことは、この『ローマ史』のハンニバルの巻と称されるイタリアでのハンニバルの事績の全てを収めた続く巻で示されるはずである。
15 グナエウスはプブリウスがヒスパニアに戻るまで何ら語るに値することをしなかった。後者の官職の任期が満了すると、ローマ人は新たな執政官をイタリアのハンニバルに差し向け、彼を前執政官に任命してヒスパニアへと再び送った〔紀元前217年〕。この時から両スキピオはヒスパニアを統括するようになり、カルタゴ人がハスドルバルと彼の軍の一部をヌミディア人の支配者シュファクスの攻撃を退けるために呼び戻す〔紀元前214年〕まで将軍となってハスドルバルらと戦った。両スキピオは残りの将軍たちを早々に破った。また、彼らは説得したり軍を率いたりして多くの町を服属させたためにそれらは自発的に彼の側についた。
16 カルタゴ人はシュファクスと講和するとハスドルバルを以前以上の大軍と三〇頭の象と共にヒスパニアへと再び送った〔紀元前213年〕。彼と一緒にマゴと、ギスコの息子でもう一人のハスドルバルという他の二人の将軍も乗り込まれた。これ以降、戦争は両スキピオにとってより厳しいものになった。にもかかわらず彼らは成功を得て、多くのアフリカ人と象が彼らによって滅された。ついに冬が来るとアフリカ軍はトゥルディタニア〔現アンダルシア〕で、グナエウス・スキピオはオルソ〔現オスナ〕で、プブリウスはカストロで越冬に入った。ハスドルバルが接近中であるという知らせがプブリウスに入ると、彼は小勢を連れて敵の野営地を偵察してハスドルバルに奇襲をかけるためにその都市から出撃した。彼とその全軍は敵の騎兵隊に包囲されて殺された。これをつゆ知らぬグナエウスは一部の兵を穀物調達のために兄弟のもとへと送り、彼らはもう一つのアフリカ軍に襲いかかって彼らと交戦した。グナエウスは彼〔プブリウス〕が出発したのを知ると、武装させた兵を連れて彼らの救援に向かった。プブリウスの部隊を斬殺したカルタゴ軍はグナエウスめがけて突撃し、彼を或る塔に追い詰め、彼らはそれに火を放って彼とその仲間を焼き殺した。
17 このようにしてあらゆる面で優れていた男たちだった両スキピオが死ぬと、この事件は彼らの働きでローマの側についていたヒスパニア人から大いに悔やまれた。その知らせがローマに届くと人々は非常に心配した。彼らはシケリアから着たばかりのマルケルス〔「奇妙な間違いである。シケリアを占領したマルケルスはイタリアで活動していた。アッピアノスはおそらくルキウス・マルキウス・セプティミウスのことを意味しているのだろう」」(N)。〕をクラウディウス〔ガイウス・クラウディウス・ネロ〕、艦隊と騎兵一〇〇〇騎と歩兵一〇〇〇〇人、そして十分な資金をつけてヒスパニアに送った。彼らは何ら重要なことをなさなかったためにカルタゴの勢力はヒスパニアのほぼ全土を覆うまでに増長し、ローマ人はピュレネ山脈の片隅に押し込められた。これがローマで知られると人々は大いに意気消沈し、ハンニバルが他の先端〔南イタリアのことであろう〕を荒らしている間に同上のアフリカ人が北イタリアへと攻め込むのではないかと案じた。彼らはヒスパニアでの戦争を放棄しようと望んでいたものの、その戦争がイタリアへと持ち込まれるという恐怖のためにそれはできない相談だった。

4巻
18 したがってヒスパニア担当の将軍を選出する日取りが決められた〔紀元前211年〕。誰も出馬しないでいると、驚きが大いに増し、憂鬱な沈黙が集会を覆った。最終的には、ヒスパニアで命を落としたプブリウス・コルネリウスの息子でまた非常に年若かった――というのも彼はほんの二四歳だった――が、慎重さと高邁な精神で評判高かったコルネリウス・スキピオが進み出て彼の父と叔父に関する印象深い演説をし、彼らの運命を嘆いた後に自分こそは彼らと自分の国のために復讐するべき残された唯一の家族だと言った。彼はまるで憑りつかれたかのようにベラベラと情熱的に話し、ヒスパニアのみならずこれに加えてアフリカとカルタゴも屈服させてみせると約束した。これは若々しい思い上がりのようだと多くの人に思われたが、気落ちしていたがそれらの約束で元気付けられた人々の精神に活気を取り戻させ、彼が何かその高邁な精神に相応のことをすることになるという期待の下でヒスパニア遠征軍の将軍に選出された。年長者たちはこれを高邁な精神ではなく向こう見ずだと言った。これを聞くとスキピオは再び集会を召集し、以前に言ったことを繰り返し、彼の若さは障害ではないと宣言し、年長者たちがその仕事をしたいと望むのならば自分は喜んでこれを譲ると付け加えた。誰もその仕事を申し出ないでいると、彼は一層の称賛を受け、一〇〇〇〇人の歩兵と五〇〇騎の騎兵を連れて出発した。彼はハンニバルがイタリアを荒らしている間はこれ以上大きな軍を持つのを許されなかった。彼は資金とありとあらゆる種類の道具と二八隻の軍船を受け取り、これらと共にヒスパニアへと向かった。
19 すでに現地にいた軍を引き継いで彼が連れてきた軍と合体させると、彼はお祓いをし、彼がローマでしたのと同じ類の仰々しい演説を彼らに向けてした〔紀元前210年〕。その報告はすぐにヒスパニア全土に広がり、カルタゴ人の支配はうんざりされていて両スキピオの美徳は思慕されていたため、スキピオの息子のスキピオは神の摂理によって将軍になったのだと思われた。彼はこの報告を聞くと、自分が行ったあらゆることは天の導きによるものであると発表することにした。敵が歩兵二五〇〇〇人と二五〇〇騎以上の騎兵を完全に収容できる互いにかなりの距離がある四つの野営地で越冬しており、彼らが資金、食料、武器、飛び道具、そして船の蓄え、並びにヒスパニア全土からの捕虜と人質を以前はサグントゥムと呼ばれていたが後にカルタゴと呼ばれた都市〔サグントゥムがカルタゴと呼ばれたのは誤りで、ここで言われてるのは新カルタゴ(N)〕に置いており、そしてそこは一〇〇〇〇人のカルタゴ兵を連れたマゴに任されていたことを彼は知らされた。戦力の小ささと大量の物資のために、そして銀山とありとあらゆるものを有した富裕で栄えた領地を持っていてアフリカへの最短路であったこの都市はヒスパニア全土に対して陸海での作戦にあたっての安全な基地となると彼は信じたため、まずこれを攻めることを決めた。
20 これらの考えで奮起した彼は誰にも意図を伝えることなく軍を出発させて夜を徹して新カルタゴへと進軍した。翌朝にそこに到着すると彼は敵を驚かせ、町を壕で囲み始めて翌日に包囲を開始しようと計画し、城壁が最も低くなっており、潟と海で囲まれていて見張りが不用心になっていた一カ所を除く全周に梯子と攻城兵器を配置した。夜のうちに石と矢を装置に装填し、敵船が逃げ込まないように艦隊を港に配置すると――それというのも彼は市が有するあらゆるものを鹵獲しようと大いに期待していたからだ――夜明けに彼は部隊の一部に敵を上から攻撃するよう命じて装置に人員を乗り込ませ、その一方で他の部隊は城壁の下へと装置を進ませるよう命じた。マゴは門に一〇〇〇〇人の兵を配置し、槍はこのような狭い場所では役に立たなかったために剣だけを持って一部の兵には都合の良い機会を見て出撃させ、他の兵は胸壁に乗り込ませた。彼は装置、石、矢、そしてカタパルトを有効に使って効果を上げた。双方で叫び声と激励が起こり、気力と勇気に不足はなかった。手で投げられたり、装置で投げられたり、投石機で投ぜられた石、矢、投げ槍が宙を覆い、手元にあった他の器機や力は何であれほとんどの人に使われた。




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